ひぐらしの記

ひぐらしの記

前田静良 作

リニューアルしました。


2014.10.27カウンター設置

内田川(熊本県・筆者の故郷)富田文昭さん撮影

 

もう、送稿テストではないけれど…

 六月二十日(月曜日)、「夏至」を明日にひかえた、雨のない夜明けが訪れている。窓ガラスを通して見えるアジサイは、彩り七変化(しちへんげ)に見頃を誇っている。現下、日本列島の梅雨の季節にあってこれまでのところ雨は、大過なく梅雨明けへ向かっている。このまま、すんなりと梅雨明けを願うところである。しかしながらそれは、私の欲張りである。なぜなら、実際には梅雨の雨は、日本列島のどこかしこに大きな災害をもたらしたのち、ようやく梅雨明けとなる。だから、どこかが見舞われる雨による災害は、私には日本列島の梅雨明けゴング(合図)と、思えるところがある。もちろん、いまだ梅雨明けまでの中途にあっては、ゆめゆめ気を許すところはまったくない。幸いにも梅雨にあって、雨による災害を免れても日本列島は、天災多い災害列島に変わりはない。この証しでもあるかのように日本列島のどこかには、日を替えて地震が起きている。総じて言えば、頻発である。地震の恐怖が去らないかぎり日本列島は、災害列島の汚名を帯びたままである。このことではもとより、わが終の棲家を構える日本列島には安住は望むべくもない。無論、住み良いと言うのはお預けである。地震さえなければ、大威張りで誇れるのに至極、残念無念である。
 おとといときのうの二日にわたり、私は大沢さまのご教授を得て、送稿テストを試みた。結果はいずれも成功であり、そのためきょうは、三度目の送稿テストを免れている。送稿テストにあっては、失敗によるくたびれもうけを恐れて、いくらかいい加減に書いた。このことからすればきょうあたりからは、本格始動でいいはずである。もちろん、そのつもりで書いている。確かに、心構えだけはこのところの二日とは違って、明らかに前向きに変わっている。ところが、文章の出来は変わりようなく、あらためてわが能力の限界を知らされている。おのずから、この先を書く気力は乏しく、尻切れトンボに書き止めである。こんな文章、恥をさらしてまで、書かなきゃ良かったのかもしれない。なんだか、くたびれだけをもうけたような気がしている。わが気に反し、雨のない夜明けは、すこぶるのどかである。

再びの送稿テスト

 六月十九日(日曜日)、きょうもまた私は、再びの送稿テストを試みている。そのため、くたびれもうけを避けるため、おのずから長い文章は、自制を決め込んでいる。ただし、夢遊病者の如くにヨレヨレの書き殴りのため、この決意の決着は私自身、まったく不明である。もとより、不特定多数の読者が存在するブログにあって、文章を書くのは、ほとほと困難事である。それでも幸いなるかな! 読者は、わが味方と思える人たちに限られている。それに素人ゆえと甘えて、多大の情けを賜り、私は書き続けてきた。
 確かに、独り善がりの身勝手である。しかしながら身勝手に、そうでも思わないと、文章は書けない。世の中には二つの事柄を並べて、相乗効果という言葉が存在する。ところが私の場合は、脳髄の凡愚と手先不器用を並べると、ずばり相乗減殺(そうじょうげんさい)である。電子辞書を開いても、こんな言葉は存在しない。自分自身だけに通用する、咄嗟のわが造語である。
 さて、きのうのわが送稿テストの文章にあっては思い及ばず、大沢さまから感涙したたるご丁寧なコメントを戴いた。丁寧には丁寧なお返しこそ、人間たる証しである。私は心して読んだ。ご投稿文の中で大沢さまは、このたびの現代文藝社のホームページのリニューアルにたいしは、ご自身の楽しみのためと、縷々(るる)書かれていた。ところが私は、この表現には真っ向からあらがった。なぜなら私は、読者のためと掲示板の存在意義の継続にたいする、大沢さまの苦悩ぶりをみたからである。私の場合は『ひぐらしの記』を掲示板上で、無料掲載にあずかっている。だから余計、これまた身勝手に私は、大沢さまの苦悩ぶりをありがたく、そして崇めずにはおれなかったのである。それゆえに私は、大沢さまの志にたいし、ありきたりだけれどこの上ない感謝と感激をおぼえていた。
 再びの心許ない送稿テストゆえに、ここで書き止めにしたいところではある。しかし、起き立てのわが心中に浮かんでいたことを付け足したい気もある。すなわちそれは、「人間、いやおまえは、食べるために生きるのか!」。それとも「生きるために、食べるのか!」と、自問を試みる。生涯にわたり、結論にはありつけない、どっちつかずの永遠のテーマである。ところが私にかぎり答えはかなり後者、「生きるために食べるのだ!」に傾いている。いや命あるもののすべてが、生きるために食べていると言えそうである。
 「食べるために生きるのか」。そんな、遠回しの一見、きれいごとと思える表現はやめにしたいところである。つまり、庭先にばら撒く白米をせっせと拾い続けて、食べ急ぐコジュケイから学んでいる教訓である。命あるもの、一概には食糧、あるいは食料、身近なことでは食べ物に執着するのは、文字どおり食べることこそ命の糧(かて)になるからであろう。
 付け足し文にしては、漫(そぞ)ろ長くなってしまった。書き殴りの弊(へい)、とことんかたじけないところである。確かに、再びの送稿テストに躓(つまず)けば、恥はかかずに済む。「雉も鳴かずば撃たれまい」。だからと言って無論、願ったり叶ったりではなく、私は再びの送稿テストの成功を祈っている。実のない書き殴りとはいえくたくたの、くたびれもうけだけでは嫌になるからである。梅雨の合間とは言えない、夜明けの朝日が輝いている。

送稿テスト

 命の終焉近くになってまで、わが身を思い、悩み患うのは、愚の骨頂とは知りすぎている。六月十八日(土曜日)、浅い夜明けの起き立ちにあって私は、わが生涯におけるいろいろ、さまざまな悔いごとを浮かべている。それらの中には生来ゆえに、悔やんでもどうにもならないものが限りなく含まれている。それらを列挙する暇(いとま)はないけれど、いま浮かんでいるものでは脳髄の凡愚、小器、小心、醜面、近眼をはじめとする目の病などがある。
 確かに、先天的・生まれつきのことで悔い悩むのは、馬鹿げている。これらに比べて後天的なものでは、意志薄弱、優柔不断、とりわけ怠惰精神、ずばり三日坊主(怠け者)である。先天的そして後天的の中間に位置するのは、これまたずばり手先不器用である。なかんずく、数々の文明の利器の利用や使用には手古摺るばかりである。だったら、生きていてもしようがないかと言えば、いやいやまだまだ、生きたい欲望はある。
 きのうの私は、現代文藝社のホームページのリニューアルにともなう、掲示板投稿のやりかたについて、大沢さまよりきわめて長い時間、電話でご教授を賜った。この間の私は、指先は手古摺り、精神状態はしどろもどろだった。ご面倒をおかけした大沢さまにたいしては、平に詫びて、感謝するところしきりである。それゆえ、とりあえずこの文章は、送稿テストのつもりである。それに失敗すればくたびれもうけだけで馬鹿らしく、だからこの先を書く気にはなれない。
 わが生涯、わが人生における悔いごとは、あまた山ほどもある。案外、それは生きている証しなのかもしれない。しかし、生きたい欲望とは裏腹に、悔いごと逃れにもう見切りをつけたい思いもある。うっすらと夜が明けても、梅雨空には朝日の光はない。

小さな幸福

 六月十七日(金曜日)、梅雨時、すっかりとは明けきれない夜明けが訪れている。おとといの夜、二度寝にありつけず起き出して書いた短い文章は、わが心象に飛んでもない僥倖をもたらした。きょうもまた、二度寝にありつけず、起き出して来たまま書いている。しかし、再び柳の下にドジョウはいなくて、ただただ苦しんでいる。いまさら言わずもがなのことだけれど、自分自身が年をとって、それに輪をかけてつらいのは、妻をはじめ周囲の人たちがみな、老いの姿を見せていることである。自分自身は鏡や写真を避ければ、面貌の老いは見ないで済むことがある。精神状態はもちろん青春ではないけれど、そんなに老いを感じない。だから私は、意識して鏡や写真を見ることは避けている。馬鹿げて幼稚な、わが老いの身癒しの便法である。鬱陶しいマスク姿にも唯一、ご利益にありつけるのは、いっときの老い面隠しである。最も身近なところでは妻も、すっかり面貌を変えてしまった。ところが私は、それを見ることを避けることはできない。一方、妻もまた、わが老いた面貌を見ずに済むことはできない。挙句、共に見苦しく、息苦しい日々に見舞われている。鏡や写真は見なくとも、こんな精神状態こそまさしく、老いの証しである。無理して起き立の文章を大慌てで書かなければ、こんななさけない文章は書かずに済んだ。
 きのうは、妻の髪カットの引率同行で、妻が普段行きつけのカット店へ出向いた。美容院とは書けない、場末の安価を売り物にする出店(でみせ)みたいなところである。ところが妻は、指名料金を払ってまで担当者を選んで、この店に馴染んでお気に入りである。お店は路線バスに乗って、私が買い物へ行く大船(鎌倉市)の街にある。妻は久しぶりに髪カットを果たし、そのうえ仕上がりの良さに十分満足した。互いのマスク外しの面貌はほころび、いつになく会話が弾んだ。その証しには初入りの「海鮮食堂」(二階)に入り、カウンターで適当な間隔をとり、昼限定の「刺身定食」(一人前1000円)を摂った。ありきたりの定食とは思えない豪勢な見栄えと、堪能できる美味だった。普段、レジ係との会話が好きな私は、初入りかつ初見にもかかわらず臆せず、マスク越しに言葉をかけた。
「下の看板にいつわりなく、いやそれ以上に豪勢でした。二人とも、大満足でした。また来ますね。ありがとうございました」
 中年の女性レジ係は、思いがけない様子を露わにされて、丁寧に謝意の言葉を返された。
 店を出ると妻はヨロヨロ、私はノロノロ、と街中のお店回りを果たし、帰りのバスに乗り家路についた。二人の背中を、雨模様の梅雨空が追っかけてきた。互いの気持ちは急いだ。けれど、足は願うようには急いでくれない。しかし、共に無事でわが家へたどり着いた。
「パパ。きょうはありがとう」
「髪、綺麗に仕上がっているよ」
 小さな幸福とは、これで良し、いやこれくらいで十分! 殴り書きはいつもと変わらなかったけれど、きょうは短からず、長からずの文章の閉めることとなる。小さな幸福は、案外、小さな僥倖をもたらしている。老いの身、欲張ってはいけない。

三つ巴の友愛がもたらした僥倖

 神様は、初詣、賽銭、あるいは御百度を踏んで、いくらお参りしたり、願ったりしても、爪の垢ほどのご利益(りやく)さえ恵んでくれない。これに比べて現人神(あらひとがみ)の友人は、祈ったり、強請(ねだ)ったりなどしなくても、わが知らぬところでさりげなく、無償でとんでもないご利益(僥倖)をもたらしていた。メールを開けて玉手箱、私はびっくり仰天した。「前田様 今日、丸山宏子さんからお電話をいただき、ふうたろうさんが前田さんの今日の掲示板の投稿を宏子さんに電話で読んであげたそうです。とても感激されていました。親友は良いものですね。私まで嬉しくなりました。大沢」。お仕着せの友情など、なしのつぶてのままのふうちゃんにたいして、私は真似ることなく大慌てで、「切ない恋のキュービッド、ありがとう」と、送信メールをかけた。
 きょう(六月十六日・木曜日)の夜明けにあっては、きのうのほろ甘く、かつほろ苦い涙雨は上がり、うっすらと朝日が射し始めている。起き立のわが気分はすこぶる爽快である。しかし、きのうの短い文に味を占めて、だらだらとこの先を書く気にはなれない。幼い子ころから育んできた三つ巴の友愛がもたらした僥倖に、私はしばし浸りきりたいのである。爽やかな余韻は、さらにこの先、わが命尽きるまでエンドレスになりそうである。そうであればと私は、とりあえず両掌(りょうて)を合わせて、パチパチと大音を立てている。

ようやく叶えた、短い文

 六月十五日(水曜日)、二度寝にありつけず、仕方なく起き出してきた。「丸山宏子さん」は掲示板へのご投稿はないけれど、『流星群』では親しい投稿仲間である。宏子さんの旧姓は「松本」である。渕上先生の名簿帳の点呼にあっては、わが名・前田の次に、「松本さん」、と読まれた。ドキドキした。たったこれだけで、わが人生における初めての淡い恋心が芽生えた。実りはなかった。だけど、しがないわが人生を、風船みたいにふくらましてくれた。気狂いなく、ようやく短い文章を叶えた。寝床へとんぼ返りをする。スヤスヤと、安眠に就けるのか。それとも、いっそう悶々とするのか。それはわからない。雨が降っている。

思い出の「わっこ(アマガエル)物語」

 六月十四日(火曜日)、梅雨の合間らしい、今にも降り出しそうな雨空の夜明けを迎えている。起き立の私は、きょうこそ短い文章で閉じたい思いに駆られている。しかしながらいつもの殴り書きゆえに、この決意の結末は、みずから知らぬが仏である。竹馬の友・ふうちゃん(ふうたろうさん)は、ふるさと言葉で言えば「にがしろ」(元気者)であり、一方の私は、きわめて気の小さい、すなわち臆病者である。どうしようもない生来の性質の違いとはいえ、子ども時代にかぎらず後々にいたるまでこれには、私は大損である。なぜならこの違いで、互いの子どもの頃にかぎってもふうちゃんは、子どもらしい数々の愉快なエピソード(思い出)をたくさん持っている。その一つをわがたっての願いを叶えて、ふうちゃんはきのうの掲示板に綴ってくれた。言い出しっぺの私は、もちろん感謝感激だった。その証しには、私は短く「恩に着る」と記した。
 臆病者の私は、他家(よそ)の西瓜泥棒、柿盗み、梨盗りさえの記憶もない。柿と梨の場合は、台風が落とすのを庭先でじっとかがみ待って、落ちるやいなや脱兎の如く走り、拾って持ち帰った記憶だけである。わが子ども時代にあって、子どもらしい愉快な思い出がないのは、いまとなってはつくづく大損である。さらには、にがしろ(元気者)のふうちゃんと比べて、臆病者のわが性質は、子ども時代のみならず、わが人生行路における「後祟り」さえ成している。そのため私は、わが子どものときからこんにちにいたるまで、ふうちゃんにたいしては羨望頻(せんぼうしき)りである。
 繰り返せば、わが人生行路における子ども時代にあって、私は愉快な思い出を成さずじまいであった。子ども時代の思い出が少ないのは、今となってはかえすがえす残念無念である。先週のNHKテレビ番組『ダーウインが来た』には、アマガエルの生き様を伝える特集が組まれていた。普段の私は、犬の牙、猫の目、さらには虫けらの虫刺されによる痒みなどが怖くて、猛獣はもとより生き物の番組は観る気がしない。おのずからこの番組も敬遠しがちで、これまでほとんど観ずに、つけっぱなしの素通りを余儀なくしていた。ときたまちらっと観たのは、魚介類、あるいは猛禽類ではなく小鳥の飛び交う場面ぐらいだった。
 ところが、アマガエルのこの日にかぎり、始めから終わりまで観てしまい、挙句、いたずらをしでかした思い出にふけっていた。私だけではなく隣近所の遊び仲間たちは、アマガエルを掴まえて手の平に持つと、それぞれが家から麦わら(ストロー)を持ち出してきた。そしてこののち、アマガエルの尻の穴にストローを差し込み、風呂沸かしの竹棒さながらにフーフーと吹き合った。小柄なアマガエルのからだは、たちまち風船の如く膨れ上がった。確かに、アマガエルにはつらい仕打ちだった。けれど、子どもたちには他愛無(たわいな)い手近の遊びだったのである。その証拠にこれは、わがわずかな愉快な思い出の一つを成している。いまさら、詫びや懺悔のしようはないけれど、このときに私は、番組で観ていたアマガエルにたいし、償いまじりの憐憫の情をたずさえていた。
 アマガエルだけではなくカエルにたいしは、子どもたちは「わっこ」と、呼んでいた。瘡(かさ)のようなカサカサの恐ろしい風貌のガマ(ヒキガエル)には、風貌そのままに「かさわっこ」と、呼んでいた。ところが怖くて、これにはストローは吹けなかった。案外、にがしろのふうちゃんは、恐れず吹いていたのかもしれない。聞いてみたい気もするけれど、竹馬の友とて二日続きのおねだりはできない。きょうもまた、意図した短い文章は叶えられなかった。夜明けの雨空は、風まじりの小雨を落とし始めている。

現代文藝社の掲示板への投稿より転載

火焚小屋   投稿者:ふうたろう
投稿日:2022年 6月14日(火)15時37分3秒
 蒸し返しになるが、原邑には、年寄たちが孫の子守を兼ね、雑談するために集まる「火焚小屋」と、呼ばれた場所があった。原邑の子供たちは、ここから、世に、デビューし、内田小学校に通うようになった。
 火焚小屋の冬場は、蒔きを焚き、年寄たちは、火を囲み雑談に耽り、孫たちは、年上者が、いろいろの遊びを教えながら、面倒をみていた。子供たは、上級生から、原邑の仕来りを教えられた。
 若い女性が原邑を通るのを見つけた時は、「良かおなご」と声を掛けて、石を投げろ、とか、上級生が片手をあげ「ドゴビン」声をかけたら、一目散に上級生の前に並べ、一番最後に並んだ者は「ビンタ」、とか、ヘビを見つけたら、尻尾の先を捕まえて振り回せ、とか、数限りなく、教えてもらったが、勉強に関するものは何も教わらなかった。だからなのだろうか。学年一の喧嘩は、いつも、原邑から出たが、学年一勉強は全く。

わがなさけない、懺悔

 きのうは苦心惨憺しながら、だらだらと長い文章を書いた。もちろん、疲労困憊に見舞われた。きわめて独り善がりの文章だったゆえに、読んでくださる人は限られる。もとより、痛しかゆしのところである。それゆえ、本来の掲示板から背くところもまた、大ありだった。恥じて、きょう(六月十三日・月曜日)は、短く何を書こうか? と、思う。ところが、何らのネタなく、起き立のわが心は悩んでいる。
 文章とは言えないこんなものでも、唯一、心が満たされていることがある。それは、大沢さまから賜った「前田さん、なんでもいいから書いてください」という、お言葉である。ところが、私は応えきれていない。いや、かなり曲解し、大沢さまの真意とは、大外れである。顧みれば、大沢さまの「なんでもいいから書いてください」というお言葉は、今やはるかに遠いわが児童時代の渕上先生のお言葉へ遡(さかのぼ)る。大沢さまのお言葉同様に、当時の渕上先生のサゼスチョン(指図、指示、示唆)もまた、易しそうできわめて困難だった。
 うら若く見目好い(美しい)、ご担任の渕上先生(現在、恩師、平様)は、わが小学校一年生、そして持ち上がりの二年生にあって、よく「綴り方教室」という、授業をされた。まさしく、わが人生行路における、文章書きの手始めであった。そのときは、ちょっぴり恨みこそすれ、こうは思わなかった。しかし、顧みれば「綴り方教室」は、わが文章書きの確かなありがたい原点だったのである。渕上先生の指図にあっては、あらかじめ題が決められているものと、気ままになんでもいいから自由に書いていいものとに、分かれていた。ところが、私には後者すなわち自由題こそ厄介で、ほとほと困り果てていた。思えばこのときの私は、創作文が書けないという現在のなさけない態様を、さらけ出していたのである。私は途方に暮れて、鉛筆の文字どおりの鉛の芯を舐め舐めしながら、白紙の原稿用紙にじっと目を落としたり、廊下や窓の外の運動場をちょろちょろと、眺めていた。「何でも書いていいという自由題」、また「なんでもいいから書いてください」という、両様の優しい言葉とは裏腹に、私は常に文章書きに手を焼いている。
 きょうは、尻切れトンボのままに、意識してここで書き止めである。確かに、きのうよりわずかには短いけれど、またしても書き殴りの文章は、だらだらと長くなってしまった。窓の外のアジサイは、日に日に彩(いろどり)を変えては、色濃くなり始めている。以下は、アジサイにちなんでの付け足し文である。渕上先生から「みなさん、きょうのお題は『アジサイ』です」と言われても、このときの私には、すらすらと書けるはずもなかった。なぜなら私が、アジサイが「この世の花」と知ったのは、ふるさとを離れて関東地方に住むようになってからである。当時の私は、校舎周りや、内田村内(うちだむらうち)にあって、アジサイを見たことなど、まったくなかったのである。いや私は、アジサイはもちろんのこと、花などにはまったくの無関心を決め込み、もっぱら手当たりしだいに野イチゴや野辺の生り物の食いしん坊に明け暮れていたのである。

一コマの「ふるさと物語」

 わが人生行路(わが道)は、書き殴りの自分史や自叙伝の一遍さえ残さず、もはや後がない。まだ死んでいるわけではないから、言葉の表記は「残さず」でよく、死んだら「遺さず」に置き換わる。こんなことはどうでもよく、起き立のわが心象には、ふるさと時代の光景がよみがえっている。とことん、甘酸っぱい思い出なのに、なんだか懐かしさをおぼえている。
 子どもの頃のわが家は、バスが一日に何度か町中から上って来る一筋の県道を、「往還」と言っていた。のちに私は、「往還」を見出し語にして、辞書を開いた。そして、この言葉をこう理解した。「往き還り」、まさしく道路である。これまた、こんなことはどうでもいい。当時の鹿本郡内田村(現在、熊本県山鹿市菊鹿町)にあって、村中の道路は一筋の往還以外はすべて、村道と私道の田舎道だった。あえて、往還は田舎道に加えなかったけれど、もちろんそれは誤りである。なぜなら往還とて、何らそれらと変わらない田舎道だった。バスが行き交うというにはかなり大げさで、だから一方通行の如くに、「上って来る」と書いたほうがわが意にかなっている。
 バスは九州産業交通社で、言葉を詰めて「産交バス」と、通称されていた。当時の私は知るよしなどなかったけれど、社名の如く九州一円にバス網をめぐらしていたようである。バスはボンネットの前部・真正面で、エンジンを手回しで起動させていた。この光景にありついていたのは、一時期わが集落の中にあってごく近い(向かえ)のお店が、村中における終点になっていたせいである。中年の男性運転手と、うら若い女性の車掌は共に、紺の制服で身を包んでいた。運転手はともかく、車掌の姿にはほのかというより、私は丸出しの憧れを抱いていた。当初見ていた木炭バスは、いつの間にか姿を失くしていた。再三、こんなことはどうでもいい。
 当時、一筋の往還には舗装など、夢のまた夢であった。道幅狭い両道端は、手つかずの草茫々だった。肝心要の道路は、小砂利、小石丸出しの凸凹道(でこぼこ道)だった。道路の中央にあって、小池の如く窪んだところは、ざら(あちこち)にあった。そこには雨が降れば雨水が溜まり、夏空の下でもなかなか乾ききれなかった。たまのバスと違って、往還を頻繁に行き交っていたのは、お顔馴染みの馬車引きさんが手綱を取る、荷馬車だった。こんな往還を私は、小・中学生時代は徒歩で通学、そして高校生時代は、自転車通学を余儀なくしていた。日照り続きの往還では、バスは通るたびに、通り過ぎるまで道端で避(よ)けている自分に、容赦なく砂嵐をぶっかけては去った。雨降りや雨の後にバスに出遭うと、これまた道路端に避けている私に、ずぶ濡れになるほどに窪の中の水を吹っかけて去った。なんだかその光景は、このときの私にはやけにいじわるでもして、バスがことさらエンジンを吹かして去っていくようであり、憎さ百倍だった。
 梅雨の合間にあって、せつなくも、懐かしくさえにも思えてよみがえる思い出の一コマである。これらにちなむ思い出のこの先は、ふうちゃん(ふうたろうさん)にバトンタッチして、この文章は結文とする。行政名(昇格)を変えただけで、過疎化著しい菊鹿町にあって、きらびやかに舗装されている現在の往還には、産交バスはとうに運行を止めている。いや復帰の余地ない、廃線状態にある。
 心象の傷ではないけれど、今や郷愁の一コマとなっている「ふるさと物語」を書いてみた。六月十二日(日曜日)、梅雨の合間の朝日は、風まじりに煌煌と輝いている。

現代文藝社の掲示板への投稿より転載
(無題)
 投稿者:ふうたろう
 投稿日:2022年 6月13日(月)08時04分4秒
 「国語はだめ」と、我を評価した先生は正しかったのだ。流星群、掲示板に書かれた人様の作品を読むたびに、落ち込んでいき、もう、「卒業しよう」と決めていたのに……
 ところが、12日「ふるさと物語」に、「ふうちゃんにバトンタッチして、この文章は結文とする」と、我の決心に逆らう「しいちゃん」の投稿、でも、我の生まれ育った熊本県鹿本郡内田村大字上内田小字原集落は、バス通りから山道を登った高台にあった。
 我々の小学校時代は、集団登校で、竹林・雑木林の中の細い道を2キロ程下り、バス通りに出て学校に向っていると、後方から「木炭バス」が、のろのろと追い越した。我々はバスを追いかけ「排気ガス」のマフラを手で塞いだ。バスは止まった。すると運転手が「こら!」とバスから降りて来た。我々は一目散に逃げた。それは、我が原邑のガキどもの楽しみの1つでもあった。

ウグイスとニワトリ、そしてわたし

 六月十一日(土曜日)、人様との会話のしようはないのに、両耳に集音機を嵌めてパソコンを起ち上げた。これには唯一、望むところがある。ウグイスの朝鳴き声を聞きたいためである。しかし、聞こえてこない。だからと言って、がっかりも恨みもしない。なぜならウグイスとて、ときには朝寝坊もするし、いやしたくもあろう。あるいは「暖簾に腕押し」の如く、なんらの反応や誉め言葉にも遭わずに、ひたすら鳴き続けるばかりでは遣る瀬無い気分に陥り、一休みしたくなるときもあろう。ウグイスとて「生きとし生きるもの」の仲間ゆえに、私とてときにはこんな殊勝な気持ちを持ってもいいはずである。みずからの気分休めのためにウグイスに、鳴き続けることをせがんだり、ねだったりすることは、私自身のお里が知れるところである。私だってかなりの長い間、文章を書き続けている。身の程知らず、いや知っているゆえに、書き疲れは限界なまでに溜まっている。ウグイスとて、すでに三月(みつき)を超えて鳴き続けていれば、鳴き疲れが溜まっているはずである。このことからすれば現在は、互いに「同病相憐れむ」状態をなして、疲れを分かり合えるお友達と言えそうである。だから私は、ウグイスにたいして朝鳴きを強制したくはない。
 私は山のウグイスにたいし、庭中へ飛んで来る「コジュケイ」に白米をばら撒くようなことは、これまで一度さえしていない。もちろん私は、鳴き声めがけて小石を投げつけたり、むやみに追っ払ったり、など野暮で非人情なこともしていない。けれど、何一つ餌となるものは与えていない。すなわち、私にとってウグイスの鳴き声は、無償の授かりものである。だから私は、ウグイスの鳴き声にたいしは、いくら感謝しても、感謝しすぎるということはない。
 これとは違って、子どもの頃のわが家の縁の下に飼われていた鶏(にわとり)の鳴き声にはかなりの感情の違いがある。すなわち「早起き鶏(どり)」の「時の声」には、不断の餌付けにたいする返礼だったと、思うところもある。家族は買い餌を与えていたわけではなく、自給自足の手近な餌を与え続けていたにすぎなかった。これに報いるには、日に一度卵を生むくらいでいいはずである。ところが、稀なる客人や、ささやかな宴席があるたびに、バタバタとばたつく一羽の鶏が掴まれ、縁の下から引っ張り出されていた。その鶏は、父に首を絞められなお出刃包丁で刻まれ、毛を毟られなお焼かれ、しまいには丸裸にされて、まな板に乗せられていた。挙句、母の手さばきでその図体(ずうたい)は、鶏めしや、鶏じゅるになりかわり食卓にのぼり、賑わう大盤振る舞いの宴(うたげ)に供されていた。今、当時を振り返れば鶏は、度が過ぎた惨たらしい返礼を強いられていたと、言えそうである。「早起き鶏」が鳴くと父は、そそくさと起き出して、止まっていた柱時計のネジを「ギイー、ギイー」と、回していた。鶏のお礼返しは、古ぼけた時計代わりか、さらには生みたての卵くらいで十分であった。人間の欲ボケの浅ましさは、父母をはじめ家族みんな同罪である。
 雨降りはないものの梅雨季の朝、ウグイスはいまだに、山の塒(ねぐら)にこんこんと眠っている。たぶん、鳴き疲れているせいもあろう。あるいは、朝日の輝きを待っているのかもしれない。きょうまた懲りずに書き殴り、投稿ボタンを「押すか、止めるか」。このところ気迷い気分の夜明けが続いている。私も、ウグイスも、共に疲れている。鶏には、懺悔あるのみである。