ひぐらしの記
前田静良 作
リニューアルしました。
2014.10.27カウンター設置
「太陽」の威光と、自然崇拝
十一月五日(金曜日)、目覚めてみると、すでに夜が明けていた。長い夜にあって、久方ぶりに二度寝にありつけていた。このことでは快眠をむさぼり、目覚めの気分はすこぶる付きの良好状態である。せっかくのこの気分にケチをつけているのは、執筆時間の切迫に基づく焦燥感である。挙句、防ぎようなく、書き殴りを強いられている。小ネタさえ浮かばず、数分間の書き殴りを強いられて、結文となりそうである。それでも快眠を得て、まったく悔いはない。もちろん、寝坊助だったと、嘆きたくはない。
さて、私には時々、意図的に小学生気分にさかのぼる癖がある。それは人生行路において、小学生時代が最も無碍(むげ)の純粋な心をたずさえていたと、自認しているからである。太平洋戦争後からまもないころにあって、さらには片田舎育ちの私には幼稚園自体が無く、小学一年生(昭和二十二年・1947年)が就学の始まりだった。おのずから純粋無垢の心情をたずさえて、真実一路の人生行路を歩み出していた。
こんな気分に立ち返り、きのうの私は、小学生さながらの幼稚なことを自問した。(人間界にたいし、自然界がもたらす最高かつ最良の恩恵は、何んであろうか?)。たちまちそれは、「太陽」、と心中の答案用紙に書いた。このときの私は、茶の間のソファーにもたれて、窓ガラスから差し込む太陽の恵みをいっぱい心身に享(う)けて、和んで日向ぼっこをしていたのである。そしてそれは、快眠をはるかに超える快感を恵んだ。すると、太陽にたいし素直に畏敬をおぼえ、かつ自然崇拝の心を宿した。ときおり、陽射しが翳(かげ)ると、たちまち寒気をおぼえた。それはそれで恨みっこなしの、まさしく太陽の威光でもあった。
このところの私は、まさしく太陽の威光に酔いしれている。晩秋の夜明けは、きょうもまたのどかな朝ぼらけである。日が昇れば、全天候型の秋晴れとなろう。私は淡く染まる大空模様を心おきなく眺めている。いやもう、晩秋の陽射しが暑さを帯びない、心地良いカンカン照りを始めている。約三十分間の殴り書きを終えて、「太陽様様」の気分は、横溢(おういつ)するばかりである。
「惜別、晩秋」
十一月四日(木曜日)、現在はきのうの「文化の日」(十一月三日・水曜日)が明けての夜明け前にある。いや、長い夜にはあっては、いまだに真夜中のたたずまいさながらである(4:13)。
きのうは気象庁の過去データにたがわず自然界は、人間界に長閑(のどか)な秋晴れの好天気を恵んだ。気候は、晩秋の真打(しんうち)の穏やかさにある。まさしく、晩秋がもたらす掉尾(ちょうび)の一振とも思える恩恵である。もとより、私にかぎらず人々にとっては、身体的には一年じゅうで最も凌ぎ易い頃と言えるであろう。ところが、二兎(にと)は叶えられない。すなわち、好季節にあっても精神的には、もの悲しさやもの寂しさがつきまとう。あえて繰り返せば晩秋は、身体的には過ごし易さの半面、精神的には寂寥感(せきりょうかん)にとりつかれる。結局、季節のめぐりは、心身共に好都合などあり得ない。そうであってもやはり晩秋は、ピン(最上等)の好季節である。
ところが、それを妬(ねた)んでに打ち止めでもするかのようにカレンダーにあっては、今週末日(十一月七日・日曜日)には「立冬」と付されている。いよいよ、わが心身共に嫌う、冬の季節のお出ましである。ただし、冬の季節にあって一つだけ報(むく)われるのは、寒気に慄(おのの)いたり、身震いしたりしていると、寂寥感にとりつかれる気分は遠のいている。どちらがいいかと自問すればもとより、寂寥感はあってもやはり、比べようもなく晩秋を好むところである。そのためきょうの文章は、あからさまに「惜別、晩秋」の思いである。確かに、身体はちっとも寒くない。しかし、わが心中には茫々(ぼうぼう)と寂寥感が渦巻いている。
「文化の日」
「文化の日」(十一月三日・水曜日)、5:55.まだ夜が明けきれないから、きょう昼間の天気は知り得ない。きのうは、きょうの天気予報を聞かずじまいだった。聞かずじまいは、わが心中に宿るたぶん「晴れ」であろうという、わが例年の思いからであったろう。
気象庁は過去の気象データを基に、文化の日前後は一年じゅうで最も雨の日が少ないという。雨の日が少なければおのずから、晴れの日が多いこととなる。加えて、晩秋のころであるから、気候的には最も穏やかで過ごしやすいことにもなる。まさしく日本社会は、文化の日にふさわしい好季節にあずかっている。
私にとって文化の日、いや「文化」はまったくの無縁である。それでも、勤務時代にあっては祝祭日の恩恵にさずかり一日、長距離通勤者の悲哀を免れていた。ところが、この恩恵も今や、まったくの無縁である。こんなことを浮かべて、文化の日を迎えている。まるで、アホ丸出しである。しかしながら、81年生きてきて現在、私はおおむね無病息災にある。加えて、駄文であっても文章が書けている。まるで、餓鬼のこじつけだけれど、これこそわが文化と言えるものかもしれない。もちろん、文化とは言えないけれど、こんなこじつけしか浮かばないのは、わが身の無能の証しである。しかしこの恩恵は、わが身に余る果報である。
きのうの新聞紙上のある見出しには、女性の「自殺者が増えている」という、記事があった。記事を読むことなくこれは、日本社会における異変である。これまでは相対的に男性に比べて、女性の自殺率は低く推移していたという。ところが、女性の自殺率は上がっているという記事だった。この一事だけでも現下の日本社会は、混迷いや生き続けるつらさ蔓延の最中にある。すると、のほほんと文化の日にひたっておれないわが心境である。究極のところ私は、日本国民こぞってのめでたい文化の日を望んでいる。
夜明けの空は朝日の見えない曇り空である。でも幸いなるかな! 気象はのどかな夜明けをもたらしている。しかし、文化の日にあって日本社会は、穏やかならず混迷を深めている。文化の日にあって、女性の自殺者増からみてとれる、わがひとつの考察である。
晩秋の朝夕の実体験
十一月二日(火曜日)、幸いなるかな! 長い夜は、夜明けの時のわが感覚を狂わしている。デジタル時刻は5:55なのに窓の外はまだ暗く、急かされる焦燥感はない。しかしながら残念なのは文章を書く気分が殺がれ、きのうに続いてズル休みを決め込んでいた。
ところが、パソコンを起ち上げてしまった。だから、何かを書こうと思うと、季節に応じた一つの成句が浮かんだ。確かに、このところ日々、夕暮れ時に体験するピッタシカンカンの成句である。もとよりだれもが知り過ぎているありふれた成句だけれど、ズル休みを免れるために電子辞書にすがった。秋の夕暮れ、なかんずく晩秋にあっては、毎日体験している成句である。確かに、夕暮れ時にあって私は、先人の知恵に感きわまりない思いをつのらせている。さらには子どものころにあって、このことを何度も実体験したことには、感謝尽きないものがある。そして、今となってはこの実体験に、感謝するばかりである。おそらく、現代の未体験の子どもたちには、案外難しい成句であろう。おのずから、「百聞は一見に如かず」という、成句が追い打ちをかけている。
【秋の日は釣瓶落とし】使い方:井戸を滑り落ちる釣瓶のように、秋の日は急速に暮れるということ。
暮れかかる夕空を見上げ、まさに「秋の日は釣瓶落とし」とつぶやく。「釣瓶」は水を汲むために、竿や縄の先につけて井戸の中に下ろす桶のこと。井戸から上げるときはゆっくりだが、空(から)の釣瓶は一気に落ちる。まさしく子どものころに、暗い井戸の底を眺めて、怖々(こわごわ)と実体験したけれど、いまでは懐かしい光景であり、それを捩(もじ)る成句である。いや、ほのぼの感あふれる詩的光景でもある。それゆえに現代の子どもたちにも、一度くらいは体験してほしいと願う、秋の夕暮れ時を映す成句である。
これに対(つい)を成すとも思える、わが咄嗟の造語を浮かべた。そして、「明け泥(なず)む秋の夜明け」と、つぶやいている。夜明けてみると大空は、朝日の見えない今にも雨が降りそうなたたずまいにある。やがては短い秋の陽射しがふりそそぎ、またたく間に夕日が沈むこと請け合いである。「女心と秋の空」。確かに、晩秋の空は、移ろいやすい。つれて、わが気分もそうである。
衆議院議員選挙、投開票日
きのうにはようやく、晩秋の好天気が訪れた。大空は天高い、胸のすく大海原模様だった。わが胸には、ワクワク感が躍った。私はバカでかいリュックを背負って、普段の大船(鎌倉市)の街へ、買い物へ出かけた。往復共に、定期路線の「江ノ電バス」(本社神奈川県藤沢市)の利用である。大船の街には午前中にもかかわらず、大勢の人出が繰り出していた。
人出の多さの理由の一つには、好天気が人々を街中へ呼び出したのであろう。加えて、もう一つの理由が浮かんだ。それは新型コロナウイルスにともなう、行動(外出)自粛を強いられていた箍(たが)が外された、最初の週末土曜日ゆえであろう。もちろん、いまだに全開とはいかないけれど、街中と人出の光景は、ようやく普段に戻りつつあると感じられた。おのずから、わが買い物行動は弾んでいた。日が替わって、きょうは十月末日(三十一日・日曜日)。
いまだに夜明け前にあって、きょうの天気がきのうに続いて、秋晴れとは予知できない。それでも、雨のない穏やかな選挙日和であってほしいと願うところはある。きょうは国政選挙の一つ、衆議院議員選挙の投開票日である。すなわち、「465」の議席を争う総選挙日である。国政選挙はやはり、自治体の首長や議員選挙とは異なり、国民こぞって一大関心事である。その投票日光景は、ことばは当を得ないけれど、日本社会の風物詩でもある。漫(そぞ)ろ歩いて、おとなが最寄りの投票所へ行き交う光景は、選挙権無くとも子どものころから、和んで見慣れてきたものである。
おとなになって選挙日になれば、よくこんな場面に遭遇する。すなわち、ひとり歩きもあれば、家族うちそろって行き交う人たちに出会う。お顔見知りであってもこの日ばかりはいつもと違って、立ち止まることなく互いに会釈を交わし合うていどである。あえて互いの胸の内をひけらかすのは野暮であり、選挙日特有のおごそかな出会いの光景である。つまり、人間にまつわるつつましい心情と言えそうである。
きのうまでの轟々(ごうごう)しい選挙戦は日を替えた投票日には静まる。さらに、のどかな選挙日和の訪れにあっては、おのずから人心は和んでゆく。私は豹変とも思える、変わりようを好んでいる。そしてなお欲深く、これにはのどかな秋日和と選挙日和のコラボレーション(協奏)を願っている。ところが午後八時になると、勝者の雄叫(おたけ)びと鬨(とき)の声(万歳三唱)が耳を劈(つんざ)くこととなる。だからであろうか時間限定の、投票日の昼間ののどかさと静寂は、いっそう快く身に沁みるものがある。
寝起きの私は、秋晴れののどかな選挙日和を願っている。しかし、いまだ知りようのない、薄闇の夜明け前にある。
寝起きの嘆き文
十月三十日(土曜日)、仕方なく、書くまでもないことを書き始めている。正直、苦しい胸の内にある。すっかり、心中に怠け心が巣作りしている。怠け心ゆえ、悶絶まではいかないまでも、苦悶が張り付いている。そしてそれは払いのけようにも払えない、わが生来の錆(さび)である。もちろん、こんなことを書くために起き出し、なおパソコンを起ち上げたのではない。もとより、きのうに続いてズル休みをすべきだった。
このところの私は、文章の継続にたいし、風前の灯火(ともしび)の点滅に見舞われている。いや、点いたり消えたりではなく、消えたままになりそうである。たったこれだけのことでも決断が下せず、挙句、悶々とした気分に苛(さいな)まれている。私には虫けらの執念や根性さえなく、人間の体(てい)をなさない弱虫である。換言すれば私は、気力喪失状態にある。文章が書けないのは、その一つの確かな証しである。これに書けない口実と弁解を加えればそれは、能無き者の長年の書き疲れゆえである。命にあって意欲が尽(す)がれば、もじどおり尽きておしまいである。これに抗(あらが)うことばには、鼓舞とか発奮とかの自己奮励などがある。もちろん絶えず、私とてそれらを試みている。ところが、車のエンジンの空吹かしのごとくに、そのつど無駄な抵抗にある。
きょうはこんな文章を書いて、突然のエンジンの駆動を待っている。このことでは、一縷(いちる)の望みをかけた文章である。同時に、かたじけなく思う文章でもある。街中では当選の目当ての無い候補者が一人立ちで、大声を張り上げている。街行く人はだれひとり歩み寄らず、そっけなく素通りしている。人生だれしも、生きることは常に厄介である。夜明けの明かりは見えず、いまだ薄闇である(5:28)。
こんな身も蓋もない文章であっても、いくらか鼓舞や発奮の足しになれば、勿怪(もっけ)の幸いである。ダボハゼのごとく、私はそれを願っている。
生きているだけ
長い夜、3:56。十月二十八日(木曜日)。目覚めたので起き出してきて、パソコンを起ち上げもう長い時間、頬杖をついている。無念無想という洒落た時間ではなく、悶々として何も浮かばず、いたずらに時が過ぎている。ひと言で言えば、つらい心境に陥っている。無理にネタを浮かべて、書く気力もない。そうかと言って、寝床へとんぼ返りをしても二度寝にはありつけず、悶々気分がいや増すばかりである。
こう書いて指先を休めて、沈思黙考に耽る。文章を書く私にとっては、長い夜はありがたいはずなのに、とことん恨めしい気分に見舞われている。だから、こんなことを書いて、打ち止めにしようと思う。しかしこの先、夜明けまでをどう時間を埋めようか、とも思う。
私は「生きる屍(しかばね)」なのであろう。机上に両腕を立て、エンドレスのごとくに、再び頬杖をつくしか能がない。きのうのように、不意打ちの停電にでもなれば諦めがつく。しかしそれは、望まぬ願いである。まだ、4:08である。
記録
十月二十七日(水曜日)、書いている途中になぜか、停電に見舞われた。お手上げとなり、万事休す。慌てて眺めると見えようなく、どこかしこの家も真っ暗闇である。パソコンは機能不能となり、この先のキー叩きを諦めた。するとこんどはなぜか、数分後に明かりが点いた。もはや、平常心は失われている。そのため、記録としてこのことだけを書き始めている。
令和3年、すなわち今シーズンのセ・リーグにおいて、わがファンとする阪神タイガースは、きのう(十月二十六日・火曜日)の143試合にわたる最終戦において、中日ドラゴンズに敗れた。この結果、最終戦まで優勝争いをしていた東京ヤクルトスワローズが同日、横浜DeNAベイスターズに勝利したため、優勝を逸し2位に甘んじた。それでも私は、有終の美と称えている。スワローズは6年ぶりに優勝し、タイガースは16年間優勝から遠ざかることとなる。スワローズの優勝を祝福こそすれ、悔しさは微塵もない。『ひぐらしの記』は、15年目にさしかかっている。タイガースはこの先、いずれかの年に優勝するであろう。それを見届けるわが命はない。
無題
十月二十六日(火曜日)、寝起きにあって用意周到に、両耳に集音機を嵌(は)めた。開けっぴろげの雨戸を通して窓ガラスに映る外界のたたずまいは、いまだ真っ暗で真夜中のたたずまいにある。デジタル時刻に目玉を向けると、4:36と刻まれている。すでにわが身体は、冬防寒重装備ゆえに寒気はあまり感じない。いや、寒気自体が緩んでいる。いつもであればこんな時間にあっては、集音機は用無しで嵌めていない。ところがどうしたことか、もはや習性のごとく嵌めた。もう寝床へとんぼ返りはしないぞ! という、固い意思の表れなのかもしれない。そうであればこの時間から、わがきょう一日の始動となる。
夜の静寂(しじま)にあっては、パソコンのキー以外に、音はしないはずである。しかし、なんだか海岸で聞く、遠くのさざ波みたいな音が聞こえる。しばし息をのんで、聞く耳を立てた。すると、窓を打つ強さまではない、小川のせせらぎほどの雨の音である。私は、(きょうもまた雨か……)と、嘆息した。好季節すなわち、晩秋にあって地球の気象状態は、いったいどうしたのであろうか。せっかくの好季節は、雨にたたられっぱなしである。
季節外れの雨の多さが、一つでも人の世に恩恵をもたらしているものがあるだろうか? と、自問を試みた。思いつかない問いにたいし、一つだけこじつけの答えをみつけた。それは季節外れの雨の多さが、新型コロナウイルスの感染力を殺いだのか。もちろん、やけのやんぱち気分のわが下種の勘繰りにすぎない。確かな科学(データ)に基づいた、専門家集団の見解が待たれるところである。幸いにも、日に日に新型コロナウイルスの感染者数は激減状態を示している。それにつれて専門家集団のお出ましと声もまた、すっかり鳴りを潜めている。なんだかの声(見解)がほしいところである。確かに、いまだ終結宣言は言えないのであろう。だとしたら当ての外れに戸惑い、しばし口を噤(つぐ)まれているのであろうかと、勘繰りたくなる。
感染力の衰えは、もちろん好都合である。しかし、いくらかの当て外れは、専門家集団にとってはかなりの「面(つら)汚(よご)し」なのかもしれない。やはり、風交じりの雨の夜明けである。こんな身も蓋もない書き殴り文には、確かな表題のつけようはない。
つらい、加齢現象
つらい。ああ、つらい!。この先の外出にはいっそうみじめな姿をさらけ出して、なおつらくなりそうである。これに輪をかけてほとほとつらいのは、わが外出行為が善良な人の心中をとことん悩ますことである。本当のところわが身に沁みて、つらく思えるものである。
実際の現象では公共の乗り物(電車やバスなど)の車内において、善徳の人たちから席を譲られるおりに、居たたまれない気持ちになる。言うなれば人様に気を遣(つか)わせる、わが迷惑行為である。迷惑行為とは、ずばりわが外出行動である。そしてそれは、善良な人様の心中を脅(おびや)かすものだけに、いっそう身に沁みてつらいことでもある。
私は買い物のたびにバスの車内において、人様へご迷惑をおかけしないかと、ひたすら怯(おび)えている。このときのわが心中は、人様には見えないけれど、ほとほとつらい状態にある。もちろん私には、人様のご好意を当てにしたり、あからさまに席の譲りうけをおねだりする、ずるがしこさは毛頭ない。いや私は、意識してできるだけ着席の人から離れて、立つことを心掛けている。それでもすばやく立たれて、席を譲り着席を促される場合がある。すると、咄嗟につらい心境に苛(さいな)まれる。先ずは、目配せ、首を傾(かし)げ、それに手振りを交えて、無言による感謝の意を表し、丁寧な拒否である。あるときは人様のご好意に背くのを恐れて、何度も頭を下げて挙句、「すみません」あるいは「ありがとうございます」のことばを添えて、素直に着席にあずかる場合がある。だけど傍目(はため)には、当てにしたずうずうしい行為とみてとれているであろう。しかし、このときのわが心中には、申し訳ない気分が渦巻いて、安堵とは言えないただならない状態にある。この先、わが身体の老化現象は加速度を増して、いっそう深まるばかりである。おのずから外出行動には、なおいっそう慄(おのの)くこととなる。感謝の気持ちこのうえないことだけれど、偶然ではなく必然的に、席を譲られることが多くなりそうである。このことを嫌って私は、これまた必然的に外出行動をひかえることになりそうである。
きょう(十月二十五日・月曜日)の文章は、大沢さまご投稿の『奇妙な出来事』に呼応し、それにちなむわが心境の吐露である。世の中はさまざまなところで、格差が露わになっている。いや、人間自体、善い人、悪い人と二分されて、著しい格差を露呈している。実際のところ日本社会は、弱者の保護を逆さまにとり、「悪徳の栄え」の傾向にある。わが懸念するところがある。善徳が罵(ののし)られ悪徳がのさばるのは、文字どおり本末転倒の人の世の嘆かわしさである。日本社会は、きわめて住み難(にく)くなり始めている。「正直者が馬鹿を見る」、そんな世の中になってはいけない。つらい、老婆心である。「隗(かい)より始めよ」。わがもの(席)ほしさの行為が人様に見受けられるとしたら、まずはそれを戒(いまし)めなければならない。加齢とは、人間のつらい現象である。