ひぐらしの記

ひぐらしの記

前田静良 作

リニューアルしました。


2014.10.27カウンター設置

内田川(熊本県・筆者の故郷)富田文昭さん撮影

 

中冬の陽射し

 十一月二十日(土曜日)、季節は初冬から中冬へめぐる。この秋は悪天候に見舞われて、胸のすく秋晴れは少なく、私はせっかくの好季節にあって消化不良をおぼえていた。ところが、カレンダーに立冬(十一月七日・日曜日)と記されると、後れて秋晴れみたいな好天気が訪れている。寒がり屋の私にとってこの一番の恩恵すなわち幸運は、まったく冬入りらしくないことである。実際にも、ちっとも寒気を感じない日が続いている。この間、ときたま地球の揺れに身を竦(すく)めた。しかし大過なく過ぎて、胸のすく天恵にありついている。
 確かに、天災は忘れたころにやってくる。だから、この成句には常にびくびくしている。自然界の営みは恩恵ばかりではあり得ず、いや人間界は日々、自然界のもたらす恐怖に晒されている。そのためか立冬以来の穏便な自然界の恵みにたいし、ことさらありがたみが身に沁みている。この先の命運は天まかせではあるけれど、立冬からきのうまでの天恵は、まさしく胸のすく天上の粋(いき)なはからいである。
 きのうの私は、いつもの循環バスに乗って、大船(鎌倉市)の街へ買い物に出かけた。車内はやけに明るかった。(なぜかな?)と、思った。すぐに、答えにありついた。過ぎ行く窓外には、次々に真っ黄色に染まった銀杏(イチョウ)が映えていた。イチョウにふりそそぐ陽光の照り返しが、車窓を通して車内を明るくしていたのである。(そうか)、老い耄(ぼ)れのわが気分は和んだ。
 このところの好天気は、重たいわが図体(ずうたい)を軽々と道路の掃除へ誘い込んでいる。私は黙然と整然とした手捌きで、道路に敷きしめる落ち葉を鏡面のごとくに清めてゆく。ところが、清めたあとには間髪を容(い)れず、山から枯葉が音もなくひらひらと舞い落ちてくる。憎たらしいと思えば、確かにかぎりなく憎たらしいしわざである。しかしながら私は泰然としてそれにも、すばやく箒を揮(ふる)っている。ばかじゃなかろか! このときの私は、自然界のおりなす営みに腹を立てることなく、逆に胸のすく和みにありついている。
 ときには枯れ落ちた葉っぱを指先で拾い上げてみる。落ち葉は文字どおりからからに枯れて、風船みたいな手触りである。まさしく、潔(いさぎよ)い臨終の姿である。できればわが最期も、この姿に肖(あやか)りたいと思う。
 長い夜にあっては未明、すなわち夜明け前である(5:16)。冬防寒重装備に覆われたわが身体は汗ばむほどである。夜が明けて日が昇れば、きょうもまた中冬の陽射しが満々と地上にふりそそぐであろう。このところの私は、かぎりなく天恵に酔いしれている。だけど、この先へ長く続くことのないことぐらいは、年の功とは言えないけれど、知り過ぎている。確かに、制限時間付きの天恵だから、素直に酔いしれたいものである。身体を脅かす地震だけは、真っ平御免こうむりたいものである。なぜなら地震は、好季節にあって最も様にならない難物である。

後ろめたい「安楽」

 遊び心のつもりのズル休みが休み癖となり、現在の私は、再始動不能状態に陥っている。ほとほと、いやいや根っから、私は怠け者である。この体(てい)たらくぶりはだれかれへというより、自分自身に詫びなければならない。それに先立ち、わが怠け心を諫(いさ)めなければならない。ところがこれは建前であり、実際のところは休みの安楽をむさぼり、心地良さにひたっていた。
 一方では、罪作り気分に苛(さいな)まれていた。そして現在、この先へのあてどなく、こんな文章を書いている。もちろん、とうてい再始動にはなり得ず、寝起きの戯(ざ)れ文にすぎない。人間、いや私の場合は、単に書き殴りの文章を書くだけであっても、一度休み癖がつけばそれを克服して、再始動を叶えることには困難を極める。わが小器ゆえである。
 休みにともなう安楽は、生来三日坊主の私にとっては、もとより心中に棲みつく魔物である。正直言って休み中の私は、身体はまったく傷(いた)まず、精神が病んでいたのであろう。その証しには休みの安楽に加えてこの間、私は玉名蜜柑(熊本県)や有田蜜柑(和歌山県)、はたまた奈良県産や愛知県産の柿を買い込んでは、時の過ぎ行くままにたらふく食べ続けていた。確かに、文章を休んでいる後ろめたさはあったけれど、至福の時に浸り、それをむさぼり続けていたのである。
 このところは初冬の好天気が続いている。幸いなるかな!、コロナも収まりかけている。再始動のきっかけは盛りだくさんにある。それでもままならないのは、わが心身にべたついている休み癖である。そしてそれは手軽に安楽にありつけるから、始末に負えないものでもある。

早鐘、乱れ打ち

 きのうは「七・五・三」(十一月十五日・月曜日)だった。文章はズル休みした。「七・五・三」にあって文章を休んだのは、間違いなく初体験である。しかも、弁解の余地ないズル休みだった。このところの私は、日課とする道路の掃除さえ、ズル休みがちになっている。これらのことでは、「くわばら。くわばら」と、みずからに早鐘を打たなければならない。こんな危険な状態は、自分自身承知の助である。だから起き立てにあって、なさけなくもこんな文章を書いている。換言すれば私は、モチベーションの低下、すなわち気勢が上がらない状態にある。たぶん現在の私は、不登校に陥る児童や生徒の精神状態さながらであろう。不登校になる人はなんとなく学校へ行きたくない気分に陥り、二・三度休んでいるうちに休み癖がついて、思わぬ長休みになるのであろう。ほかから「やいのやいの」言われても、いっそう反発心が湧き出るであろう。結局、不登校を克服するには、みずからをみずから鼓舞するしかすべはない。まさしく現在のわが状態は、「これ」である。「敵は本能寺にあり」、いや私自身にある。
 私は、きょう(十一月十六日・火曜日)もズル休みを決め込んで、床に就いていた。ところが目覚めた。すると、きのうのズル休みが不登校みたいに長休みになることを恐れた。それを断ち切るためだけの目的で、パソコンを起ち上げた。すなわち、恥も外聞もさらけ出して、自分自身への鼓舞を強いている。他人行儀に優しく叱咤激励などとは言えない、なりふり構わぬ自己への大いなる警鐘である。確かに現在は、気狂い状態と言われることさえ厭(いと)わない心境にある。挙句、ズル休みを断つだけの文章へ成り下がっている。それでもズル休みが習慣にならず、ヨタヨタしながらでも継続にありつければ勿怪(もっけ)の幸いである。この期(ご)に及んで文章の質を望んでは、不登校さながらの爺(じじい)になる。
 現在のデジタル時刻は、長い夜にあって4:23である。私は小学生および中学生を通して、九年間の無欠席(皆勤賞)だった。もちろんこのときの私は、登校するのが目的ではなく、デコボコの砂利道を四十分近くかけて、歩いたり、走ったりしながら、勉強をしに行っていた。はるかに遠い当時が、懐かしく偲ばれる。それに比べると現在のわが心境は、大いに寂しいところにある。
 私の場合「七・五・三」は、わが気分が最も和む日本社会の年中行事である。だからであろうこれまでの私は、この日には切らさず文章を書いてきた。それなのにズル休みで断つとは、みずからにたいし早鐘乱れ打ち状態にある。継続の断絶なのか、それとも寸断なのか、今の私は知るよしない。きょうの文章は気狂い状態ではなく、目覚めどきの単なる「戯(ざ)れ文」であることを願っている。

戸惑いをおぼえた「東京行」

 きのう(十一月十三日・土曜日)は、次兄宅(東京都国分寺市内)へ向けて、久しぶりに電車に乗った。夜明けのころには強い寒気が訪れていた。そのぶん、出かけるころの大空には、満艦飾に日光が輝いて、またとないほどの初冬の好天気だった。その下でわが気分は、田舎者、お上りさん、はたまた浦島太郎のようだった。
 私は座席に腰を下ろして、車窓を通して移りゆく風景を眺めていた。皆々、初めて見ているような心地だった。それは、風景の変化にともなう驚嘆だった。換言すれば、都会の風景の変化の速さにたいする脅威でもあった。私は、車内の風景にも怯(おび)えていた。すなわち、若い人たちの目立つ中にあっては、もはや私は、過去の異物だ! と、思い知らされていたのである。いや内心、もうこの世には住んではいけないとも、思っていた。このことでは、電車に乗る前から怖気(おじけ)ついていた。その証しには往復共に、遠回りや時間はかかるけれど、座れそうな電車を待ったり、選んだりして乗車した。なぜなら、座っている人たちの前に近づけば、即座に席を譲られることを懸念して、それを回避することにわが意をそそいだのである。
 車窓の風景を眺めながらわが気分は、車内の案山子(かかし)のように無表情に委縮していた。日本社会にあってはコロナ禍の行動の自粛は緩和されたけれど、私の場合この先、外出行動の自粛いや自制は、いっそう強まりそうである。座席の私は、(もう一度だけでも、東京見物したいなあ……)と、思っていた。しかし、電車に乗ることを思えば、この切ない願いさえも果たせそうにない。私はスマホを見ることもなく、車外風景と車内風景を眺めながら、黙然と気迷っていた。車内の人たちは、盛んにスマホに興じていた。私は、通勤で通い慣れた「東京行」に戸惑いをおぼえていた。

心身震える、夜明け前

 人生晩年の日常生活は、こんなものだろうと、諦めきってはいる。しかし、悟りきってはいない。こんなものとは、息苦しい日常生活である。きょう(十一月十三日・土曜日)は、早立ちで東京へ向かう。コロナ禍のせいで自粛を強いられていたため、久しぶりの次兄宅への表敬訪問である(東京都国分寺市内)。ところが、心晴れのする訪問でもない。なぜなら、互いの老いを確認するだけになりそうである。
 このところは暖かい日が続いていた。けれど、起き立てのわが身体は、ブルブル震えている。一方、心象は寒暖にかかわらず冷えている。またしても、書くまでもないことを書いた。いっときのズル休みではなく、もう書かないほうが、わが身、人様のために良さそうである。結論は電車の中で、ぐるぐるとまわりそうである。

とてもつらい、私事

 きのう(十一月十一日・木曜日)は、義父と義母の合わせ法事(回忌)に出向いた。共に、永別の日から長い歳月が過ぎていた。それぞれを偲ぶ和みはあった。一方では、悲しさがぶり返した。菩提寺は鎌倉市に連なる逗子市に隣接する、神奈川県三浦郡葉山町に存在する「新善光寺」である。寺は由緒ある大伽藍を構えている。義父母の墓は境内の一角にある。催事の主は、義父母の後継をなす義姉と義兄(逗子市)である。これに、わが夫婦と娘夫婦が加わった。読経を唱えるご住職の後方には、六人が間隔をとり、椅子に座り並んだ。静寂きわまる大伽藍の大広間にあって、法要はきわめて厳粛に行われた。このあとには出来立てほやほやの卒塔婆(そとば)を手に取り、墓地の石塔の前に出向いた。ご住職はここでも、短く読経を唱えられた。読経の下、六人は入れ替わり、厳かに合掌した。みはるかすほどに広い境内と、それを抱え込む後背の小高い山には、黄葉や紅葉が照り輝いていた。法事は、しめやかに閉じた。
 ところが、出かける前の私には、飛んでもない異変が起きていた。首周りは、絞首刑さながらにきつく締めつけられていた。身体は、ワイシャツと喪服にぎゅうぎゅう詰めにされていた。さらには、思い及ばぬ難儀に見舞われた。ネクタイは、喪服に合わせて黒色を選んだ。最大の異変は、このときである。私は、ネクタイの結び方を忘れてしまっていた。このことには、かぎりないショックを受けた。結局、正規にはなり得ず、ちょろまかして結んだ。とても悲しかった。

罪つくり、「雉(きじ)も鳴かずば撃たれまい」

 十一月十日(水曜日)、きょうもまた書くまでもないことを書いている。もはや、病と言えそうである。わが文章はマイナス思考の塊であり、もとより自分自身の気分は殺がれ、さらにはご常連の人たちの意気をも阻喪している。このことでは人様に悪さをしていることだから、常々かたじけない思いつのるばかりである。悪さを断つには、書かないことに尽きる。こんな思いをたずさえて、パソコンを起ち上げる。実際にはパソコンが無ければにっちもさっちもいかないわが日常なのに、パソコンを恨めしく思うところ多々である。もちろん、パソコンを前にして心中では、明るいネタ探しをめぐらしている。ところが、制限時間の中にあっては、いっこうに浮かんでこない。すると、執筆時間に急かされて書き殴りを始めている。おのずから、似たり寄ったりの文章を書く羽目となる。このときの私は、つくづくつらい心境にある。挙句、「もう書けない、もう書きたくない」という潮時にさいなまれている。
 これまでの私はこんな心境をたずさえ、こんな文章を書いて、恥を晒して何度となく吐露してきたのである。まさしく、わが生来の錆(さび)である。きょうもまた、暗いネタを書き添える。このころの私は、就寝中に大腿部の激痛に見舞われている。明るいネタはなにもない。無理矢理探して添えれば、ふるさと・熊本産みかんは旨いなあー……という、餓鬼の感慨だけである。間断なく頬張るふるさと産みかんは、確かなわが命綱である。
 長い夜、まだ夜が明けない。執筆時間はたっぷりあるけれど、書く気を殺がれて、尻切れトンボのままにおしまいである。いやいや書くことは、もはや人様への罪つくりである。「雉(きじ)も鳴かずば撃たれまい」。

悪夢だけが旺盛

 長い夜にあって、就寝から目覚めにいたるまで、夢見に晒され続けていた。もちろん、年老いて見る夢は、子どものころに見ていた夢とは、まったく異質のものである。夢見には目覚めて気分の良いものと、悪いものとに大別される。あるいは、みずからの人生行路において、できたら望みを叶えたいと託す夢と、精神状態を冒され錯乱状態に陥るため、できたら見たくない夢とに大別される。前者を良夢とすれば、後者は悪夢である。私の夢見は、もはや悪夢ばかりである。
 子ども心を真似て、できたらと望む夢見は、「ピンピンコロリ」のみである。ところがこれとて、とうてい正夢(まさゆめ)にはありつけそうにない。挙句、就寝中の夢見は、まったく御免こうむりたいものである。
 阪神タイガースは、宿敵・読売ジャイアンツに負けた。しかしこの先、リベンジを果たす夢を見るには、それまでのわが命がもたない。だから夢見はもうすべて、打ち止めを願っている。夢見のない人生、いや夢見をことごとく捨てたい人生、もはや生きる屍(しかばね)の証しである。
 こんなことを書くために、パソコンを起ち上げたのではない。継続は力とはなり得ず、ただただ恨(うら)めしいかぎりである。今や、ズル休みこそ、「百薬の長」になりかけている。もちろん、望まない薬剤である。袋小路に嵌(は)まった状態で、約十分間の殴り書きである。初冬の夜明けは、いまだに暗闇の中にある。

「立冬」

 一年の季節のめぐりは、春・夏・秋・冬と分けられる。四区分は、総じて四季と称される。それぞれには経過に応じて、おおむね「初・中・晩」という、言葉(文字)が添えられる。おおむねと記したのは「初」にかえて、「早」という言葉が用いられるゆえである。たとえば「初春」にかえて、「早春」と言う場合がある。しかし、三区分の呼称では決まって、初春が常態化している。人は季節のめぐりに応じて、それぞれの感慨を懐(いだ)いている。感慨にはずばり、好き嫌いという感情がまとわりつく。
 私の場合、四季にあっては冬が最も嫌いである。その理由は、冬は寒い季節だからである。なんだか、赤ちゃんじみた理由である。炬燵(こたつ)の上で丸くなる、「猫」の気分丸出しでもある。ところがきょうは、冬の入り口すなわち「立冬」(十一月七日・日曜日)である。
 このところの私は文章において、やたらと「晩秋」と書いてきた。もちろん、わが好きな季節ゆえである。その証しには晩秋にたいし、惜別とか賛歌という、わが感情のほとばしりの言葉を添えた。ところがきょうは、どんでんがえしに立冬である。言葉をかえれば、わが嫌う冬の季節の初日である。もちろん、立冬のせいではないはずだが、早や風邪をひいたようだ。現在、やたらとくしゃみの連発に見舞われている。さっき、風邪薬をのんだ。
 晩秋とは心地良い言葉である。惜しんで、「晩冬」と書くことはとうていあり得ない。きのうとはうってかわって、どんよりとした冬空の夜明けが訪れている。

「晩秋、賛歌」

 私は目覚めると起き出してきて、執筆時間に急かされて、成り行き的かつ走り書きで文章を書いている。このことは自認する悪癖、すなわち恥晒しの悪習である。この禍(わざわい)は、覿面(てきめん)に文章に現れる。おのずから、代り映えのしない似たり寄ったりの文章となる。このことでは、常に忸怩(じくじ)たる思いに苛(さいな)まれている。こんな悪の自意識があるにもかかわらずこれまで、この習慣を改めることはできずにきた。挙句、わが意志薄弱の証しの一つとなっている。もとより、こんな様にならない文章は、御免こうむりたいものである。
 このところの文章には、多く晩秋ということばを書き連ねている。直近の文章には表題に『惜別、晩秋』と、記した。文字どおり過ぎ行く晩秋を惜しんで、書かずにはおれなかったからである。なぜならこのところの晩秋の空は、わが思いに逆らうことなく日々、胸のすく好天気を恵んでいる。おっちょこちょい、いや馬鹿げていると言おうか、常々私には憂鬱気分がつきまとっている。ところが、このところの晩秋の空は、かぎりなくわが憂鬱気分を払ってくれている。この恩恵に応えて私は、文章のなかにあからさまに「晩秋を礼賛」を連ねてきたのである。確かに、胸のすく好天気は、晩秋の恵みと言えるものだった。言うなればそれに応える、わずかな恩返しの発露である。
 ところがきょう(十一月六日・土曜日)は、カレンダーの上では、初秋、中秋、晩秋と季節を替えてきた「秋の最終日」である。過ぎ行く秋が名残惜しくて私は、成り行き的にこんな文章を書いている。カレンダーの明日(十一月七日・日曜日)には、「立冬」の添え書きがある。現在は、ようやく白み始めた夜明け前にある。たぶん、しんがりの晩秋の空は、きょうもまた天高い秋晴れ、いや胸のすく日本晴れを恵むであろう。やはり、「惜別、晩秋」、つのるばかりである。
 似たり寄ったりではなく、明らかに同一文章に成り下がってしまった。それでも、わが胸はさわやかである。もとより、晩秋の好天気がもたらしている好い気分のおかげである。立冬! かなり恨めしい季節替わりである。この先は、たまの「小春日和」にあって、晩秋の気分に浸るしかすべはない。成り行き文の表題は、わが意を尽くせず、ありきたりに「晩秋、賛歌」でいいだろう。