ひぐらしの記

ひぐらしの記

前田静良 作

リニューアルしました。


2014.10.27カウンター設置

内田川(熊本県・筆者の故郷)富田文昭さん撮影

 

夏の醍醐味

 七月十日(日曜日)、雨はないけれど舗面の濡れた夜明けが訪れている。このところ昼間、暑さが遠のいて、早や秋の気配さえ感じる夏の朝である。あんなに人が、声高に「暑い、暑い!」と、唱和していたのに、暑さはまぼろし状態の感さえある。七月盆を迎える来週あたりには、夏本来の暑さが戻るであろうか。夏に暑さが遠のくことは、うれしさ半分、寂しさ半分である。いくらかやせ我慢のきらいがあるけれど、半分は本音である。
 寝起きの私は、夏の醍醐味を浮かべていた。それらをランダム(順不同)に書けば、私の場合にはざっとこんなものがある。私の場合と限定したのは、もちろん人それぞれに、かつさまざまに異なるからである。このところ、わが買い物用の大型リュックには、必然的にトウモロコシが入っている。嵩張らないものでは、ミョウガ入っている。好きな冷ややっこに添えるためである。キュウリ、トマト、ナスは、夏の買い物の定番品である。夫婦共に、旬(しゅん)の夏野菜三品を好むからである。果物では出盛りを過ぎたサクランボから、出回り始めた桃に切り替えている。大好物の西瓜は、指は咥えないけれど、垂れそうな涎(よだれ)をグッと吞み込んで、我慢を続けている。理由は、それだけで手に負えないほど重たいからである。ただ、この我慢も、来週のわが誕生日あたりには解禁を目論んでいる。好物の我慢の息切れのせいである。
 かき氷はこれまた我慢というより、こちらは諦め(見切り)の境地にある。新店にゆらめく馴染みの「氷旗」に誘われて、まるでお上りさんの如くに恐る恐る陳列棚を眺めたら、800円と表示されていた。(このやろう!)とは叫ばなかったけれど、叫びたい気分だった。確かに、いくらかのケチ心はあるけれど、私はかき氷には見栄の良い余分な飾り物は望まず、山もりの三角帽子に赤、緑、黄色、どれかの蜜かけくらいでいいのである。それなりに値段も、安価なものである。なぜなら、かき氷を食べるのは嗜好のほかに、いっとき童心を蘇らせるためである。ならばやはり、たったの一度くらいは食べて、行く夏を惜しむ、ような至境にありつきたいものではある。だから大袈裟に言えば、800円のかき氷を虎視眈々と狙っている。もとより成否は、わが決断しだいである。
 食い意地張って、夏ならではの好物の食べ物をつらつらと書いた。確かに、キュウリ、トマト、ナスは、夏限定ではない。しかしながらこれらには、あえて旬という言葉を添えている。この言葉こそ、みそである。繰り返しになるけれど食べ物以外で夏の醍醐味として浮かぶものでは、冬布団はもとより薄手の夏布団さえほぼ用無しと、着衣の軽装がある。とりわけ、風呂場における脱衣の容易さは、飛びっきりの夏の恩恵である。これらに、夏の朝、夏の夕暮れ、昼間の木立の風、夜間における網戸から忍び込む風の涼しさなど、夏の風の恩恵はキリがない。
 雨の場合は、一雨ほしいときに降る雨、日照り雨、夕立の恩恵が際立っている。きょうもまた、だらだらと長い文章を書いた。しかし、夏の醍醐味、すなわちわが夏三昧のことゆえに、いつもとは違って疲れはない。いや、精神高揚してまだ書き足りないくらいである。こんな文章を書いても、人様から「おまえは、空(うつ)け者」(バカ者)とまでは言われまいが、天邪鬼(あまのじゃく)とは言われそうである。それでも書かずにはおれなかった、わが感ずる主だった「夏の醍醐味」の面々である。

重たさの重なる一日

 古来いや地球開闢(かいびゃく)以来人間は、「万物の霊長」と、崇(あが)められてきた。しかしながらその実態は、野生動物や虫けらの生き様と同然(同類項)、いやむしろそれらをはるかにしのいで、浅ましく悍(おぞ)ましい生き様を続けている。現代の世にあっては、かつての井戸端会議などとは異なり、人様の個人事情(噂)を根掘り葉掘り口外することは、慎むべきと言われている。個人事情すなわち人権が尊ばれる時代である。それゆえ、きのう(七月八日・金曜日)起きた惨(むご)たらしい事件のことを書くことは、控えるべきとは知りすぎている。
 しかし一方、歴代の中で最長の総理としてご活躍された安倍元総理の遭難、すなわち非業の死ゆえに、私には弔意を表し、ひたすらご冥福を祈らずにはおれないところがある。自分や世の中の出来事を私日記風に書き続けている「ひぐらしの記」に免じて、このことだけは書いておくべきと思って、書いたものである。確かに、きょうは、このことだけで結文にすべきなのかもしれない。しかし、私日記の証しに、同日におけるわが行動の一部の付加を試みる。
 きのうの私は、わが普段の買い物の街・大船(鎌倉市)にある、「えぞえ皮膚科医院」の外来へ赴いた。自覚症状の病は大したことなく、市販の薬剤では飽き足らず、処方箋を書いてもらいに行った程度である。ところが、待合室に足を踏み入れると、まずは順番待ちの患者の多さにびっくり仰天した。受付の若い女性と、互いにマスク着用で対話した。
「予約されていますか?」
「いや、初診です。予約でないと、初診はだめですか?」
「いいえ、できます。ただ、今の時間であれば、診察は二時間ほど先になると思います。どうされますか? 番号札を渡しておきますね。この間は、院外にいても構いません。時間を見計らって、来ていただければいいです」
「わかりました。後でまた来ます。診察、お願いします」
 私は空き時間潰しに、買い物の予定の一部を最寄りの西友ストア大船店で済まして、空き時間を埋めきれず早めに一時間くらいのちに待合室へ戻った。そして、少しずつ空き始めていた椅子に腰を下ろした。
 渡されていた番号札には、142と記されていた。受付上部のデジタル表示板には129と表示され、残り30人とあった。表示板は、この数字が次々に変わっていく仕組みである。結局、ここで、一時間ほど待って、順番が来ると診察室へ入った。ほぼ三分間診療ののち、願ったりかなったり処方箋をもらって、最寄りの調剤薬局へ出向いた。こののちは、買い物用の大型リュックや買い物袋の膨らみを嫌って、後回しにしていた残りの買い物メモを完遂した。
 昼時とあって、行きつけの「すき家」へ出向き、いつものミニ牛丼(330円)を食べた。すでにわが財布の中には、いずれも大船の街にある、大船中央病院(主に内視鏡外来)、大船田園眼科医院(緑内障の経過観察)、宮本歯科医院(一度かかればエンドレス)、そしてこれらに、わが家最寄りの開業医・左近允医院(わが終末医院)の診察券がある。そしてこれらに、きのうから新たに診察券が一枚加わったのである。
 人間、生きることは、死ぬ物狂いである。スマホを開けば、相次ぐ事件のニュースに、腹立ちをおぼえた。台風四号にも事なきを得た上空には、さわやかな夏空がよみがえっていた。だから余計、私は突然の事件にいっそう腹立たしさをつのらせていた。買い物を背中の大型リュックと、両手提げの奥深くだだっ広い布の買い物袋にぎゅうぎゅう詰めにして、私はヨロヨロのノロ足で帰路に就いた。きのうは、買い物の重さだけでなく、気分の重たい一日だった。

生き恥

 星の輝きを見上げれば、きのうの「七夕の夜」(七月七日・木曜日)の天上は晴れ渡り、天の川はゆるやかに流れて、彦星様と織姫様は一年ぶりの逢瀬(デート)を楽しまれたであろう。これは例年と異なり、今年の地上の梅雨明けが早かった幸運によるものであろうか。いや、梅雨はもちろんのこと、天上には地上のような季節があるのであろうか。案外、彦星様と織姫様の人生は、何らの障(さわ)りのない思うままなのかもしれない。
 ひるがえって地上の人間の人生行路は、障りだらけでそうはいかない。人生のゴールは死である。生まれれば、死ななければならない。確かに死は、つらいことである。だけど、なおつらいのは、死へ至るまでの人生行路である。なぜなら、人生行路は茨道である。艱難辛苦、四苦八苦、ほか、人生行路のつらさを表す言葉には限りがない。ならば、われ「生まれなければよかった」と、思う。もとより、みずから望んで生まれたわけではない。だからと言って、もちろん親を憎んではいない。なぜなら、自分も親になっている。すると子は、わが同様に「生まれなければよかった」と、思っているはずだ、いや、思っている。
 街角の占い、競輪競馬をはじめとする賭け事に付き纏う予想、だれもが大きく外れても責任はとらず、口八丁にお金を巻き上げている。程度の差はあるけれど、プロ野球の解説者の事前の順位予想は、外れても言いっぱなしでこれまただれも責任をとらない。これらと同列に置くには忍びないけれど、気象庁や気象予報士の予報もまた外れても、責任はとらないばかりか、そんなに非難をこうむることもない。もちろん、外れたほうがいいこともある。しかしながら、へそ曲がりの私には、専門家の仕事ぶりとしてはどうかな? と、常々思うところ大ありである。このたびの台風予報は、おおかた外れた。だからと言って、のほほんとして夏のボーナスを戴くのはどうかな? 門外漢のわが戯言(ざれごと)である。駄文の長い文章に懲りて、きょうは意図して短い文章を書こうと思えば、こんな文章しか書けない脳足りんである。それゆえ、ご常連の人様にたいして、かたじけなく、思うところである。弁解が許されれば私は、予想屋のように端(はな)から無責任ではない。けれど、駄文の責任はとれない。
 「同じ穴の狢(むじな)」という、成句が浮かんでいる。電子辞書を開いた。「同じ穴の狢:一見関係がないようでも、同類の者のたとえ。ふつう、良くないことをする人にいう」。今週は週末・日曜日(七月十日)だけだったはずの晴れマークは、きのう天気図にきょう、あすと、全天候型に並んでいた。きょうの夜明けの空には朝日が輝いて、予報のはずれは無罪放免である。人為と気象の違いとは言え、「なんだかな…?」と思う、わがひねくれの朝の訪れである。無駄に付け足したがゆえに、またもや長い文章になっている。懲りずどころか、私は十分に懲りている。「生まれなければよかった」と思うのは、生きるものの贅沢なのであろうか。夏の朝はおおむね清々しいのに、ときには迷い言に脅かされることもある。わが生き恥は、死ぬまで消えない。

七夕

 七月七日(木曜日)、幸いなるかな! いまだ夜更けの夜明け前にあっては、カーテンを覆った窓ガラスを打つ、雨音は聞こえてこない。それでも、起き立ての私は空のはてをおもんぱかっている。このところの地上には、台風四号のせいで洪水被害をもたらした雨の日が続いている。
 きょうは五節句の一つ、「七夕」(しちせき、タナバタ)である。天上の「天の川」は増水や洪水なく、ゆるやかに流れているだろうか。輝く星の下、彦星様と織姫様は、待ちに待った一年めぐりの逢瀬を楽しめるであろうか。恋心は、楽しくもあり、切なくもある、人間に与えられた飛びっきりの情感である。それゆえに、果てしなく遠い天上の天気であっても、私は七夕の夜だけは他人事(ひとごと)には思えない。
 さて、寝起きの私は、きょうこそはごちゃまぜであっても、短い文章を書こうと決意した。それは、私自身は書き疲れて、ご常連の人様には輪をかけて読み疲れをきたしているのでは? と、思うからである。日本列島にあって地震は、三日、二日いや一日さえ空けずに起きている。台風四号は幸運にも予報にいくらか反して、大過なくどこかに去った。呆気(あっけ)にとられたと、言うには語弊がある。しかし、わが胸を撫でおろしている。ところが、実際にはこんな暢気(のんき)なことは言っておれない。なぜなら、いっとき勢いを弱めていた新型コロナウイルスは、またもや猛烈な勢いで感染者数を増やし始めているからである。さしずめ地震とコロナは、「前門の虎、後門の狼」さながらに、災厄、災禍の同居状態にある。
 ごちゃまぜ文章の最後は、これである。私は電子辞書を開き、なおネット上の記述を読み漁り、自惚(うぬぼ)れにたいする、人様を尊崇(そんすう)する言葉を探した。しかし、探し当てることができず、仕方なくわが造語にすがった。出来立てほやほやの造語は、他人惚(ひとぼ)れである。もちろん、コメのブランド「ひとめぼれ」とはまったく異なり、人様を崇(あが)めそやす言葉である。私は「ひぐらしの記」だけでも十五年書き続けて、ちょっぴり自惚れたくなっている。六十(歳)の手習いからすれば、二十年余も書き続けてきた。これらのことにたいするちょっぴりの自惚れである。ところが、私自身は自惚れてはいけない。実際には、ご常連の人様が自惚れていいはずのものである。だからそれは、他人惚れと言い換えるべきものである。なぜなら、面白味のないわが文章を読み続けることは、並大抵のことではないからである。
 またまた、だらだらと長くなくなりそうである。それを恐れて、尻切れトンボのままに書き止めである。こんな文章を書いていると、結局、ちょっぴりでも自惚れることは恥じであり、尊崇の気持ちを露わにする「他人惚れ」だけが旺盛である。夜明けの空は、どんよりとした雨空である。地上が雨無しであれば、はるかかなたの天上は晴れて、無数の星が煌めくであろう。手元に短冊があれば、私は生存を欲張らず、「ピンピンコロリを願う」と、書くであろう。

小ぶりの雨の夜明け

 七月六日(水曜日)、予報どおりに台風接近のせいなのか、それともすでに余波のせいなのか? 小ぶりの雨が降っている。わが現住する鎌倉地方は、大雨にはならず勿怪(もっけ)の幸いである。こんな言い方は独り善がりであり、厳に慎まなければならない。なぜなら、きのうのテレビニュースは、台風の影響による大雨被害を数々、伝えていた。被害の主だったところは、九州と四国の各県だった。もちろん、わがふるさと県・熊本も、いくつかの地名が被害映像に現れた。
 確かに、こんな言い方も慎まなければならない。けれどあえて言えば、台風に付き纏う恒例の映像である。災害列島という、ありがたくない異称をさずかる日本の国は、文字どおり常に自然界のもたらす災害に脅かされている。そうであれば大災害は免れて、小災害くらいの年中行事でありたいものである。ところが、それは空念仏にすぎないこととは、私とて過去の大災害で知りすぎている。
 もとより雨は、農作業(農家)にとどまらず人間界に、様々な実益をもたらしてくれる。いや人間界にとどまらず、草木をはじめ万物一統、限りない恵みをもたらしてくれる。要は、降り方の程度、すなわち雨量の多寡が、恩恵かそれとも禍根かの境目となる。さらに雨は、実体のともなう雨水にとどまらず、人間の情感を豊かにしてくれる優れものでもある。たとえば雨に四季の冠(かんむり)を加えただけの、春の雨、夏の雨、秋の雨、そして冬の雨と記すだけでも、尾鰭(おひれ)をつけて様々な詩的情感が沸いてくる。
 雨にともなう詩的情感は、人それぞれに無限大にある。詩的情感を誘う言葉も様々に、もとより限りなくある。浮かぶままに三つほどを上げれば、時雨(しぐれ)、日照り雨(狐の嫁入り)、そして切ない恋心を呼び起こす「やらずの雨」などである。きょうもまた、わが悪癖のままに寝起きの書き殴り文を書いてしまった。本当のところはこのことを書くつもりだった。すなわち、このところのわが身体は、不良に見舞われている。こちらは、わが個人事情である。一方、ようやく収束へ向かうかな? と、思えていたコロナの感染勢いは、またまた日本の国のみならず世界の国々でぶり返している。こちらは世界事情である。個人事情は自己完結(終結)型に、自分自身で解決しなければならない。もちろん、世界事情もこれまた全完結型を望むけれど、こちらは他人(ひと)まかせである。すると、わが個人事情だけは自力で克服(終結)したいと思う。つまるところ、だらだらと長い文章の祟(たた)りが、わが身体不良の誘因なのかもしれない。そであれば明日にでも解決する個人事情であり、じたばたと嘆くこともない。いやむしろ嘆けば、身体不良にとどまらず、新たに精神不良を誘引しそうである。
 大げさな表現好きの私は、懲りずに書いたけれど、実際には気に懸けることほどもない個人事情である。それより、世界事情の帰趨(きすう)を気に懸けるべきであろう。わが短い余生にあって、いのち終焉までのマスク着用の日常生活は、もうこりごりである。マスク着用の生活にあっては、ひとかけらの情感さえ浮かばず、ふつふつとも沸かない。夜明けの空は、そよ風まじりのそぼ降る雨空である。夏の朝の小ぶりの雨は、にわかにわが情感を轟轟(ごうごう)と滾(たぎ)らせている。

懸案の剪定作業を終えて

 確かに、私自身が種を蒔いた、いやしでかしたことから、疲労困憊を招いている。だからと言って、自業自得という四字熟語は、この際は使いたくない。あえて、現在のわが心境を吐露すれば、「こんなはずじゃなかった」、あるいは「当てが外れた」くらいの表現で留めたいところである。
 今週の天気予報には晴れマークは週末・日曜日(七月十日)だけであり、きのう(四日)の月曜日から土曜日(九日)までは、雨マークと曇りマークの抱き合わせである。確かにきのうにあっては、寸時の晴れ間もなく曇り空ばかりであり、それどころかちょっと間には、小雨にさえ脅かされたのである。案の定、先週までの喧々諤々の暑さ談義は、すっかり影を潜めていた。
 「思い立ったが吉日」、得たりやおうとばかりに私は、懸案の一仕事に着手した。すなわち私は、夜がうっすらと明ける五時前あたりから、意識して短く朝御飯を済まし、十二時過ぎまで独り、黙々とアジサイの剪定作業に終始していたのである。周回道路の側壁(石壁)上の山の法面のアジサイは、現住地に宅地を求めたおり、心勇んで私が手植えしたものである。ところが現在は、あにはからんや剪定作業というとばっちりを被っている。このことが、冒頭の文章の引き金をなしたのである。言うなれば、わが浅ましい心が招いた悪の報い(しっぺ返し)である。本来、ずっと楽しめるはずのアジサイは剪定作業のせいで、加齢のたびにずっしりとわが重荷になり替わっている。「もう自分はできない、この先どなたがやってくださるだろうか……」と、悩みは尽きずいやますばかりである。
 こんなことでようやく剪定作業を終えた私は、ひとりでに笑みがこぼれるほどに安堵した。半面そのぶん、極度の疲労困憊(ひろうこんぱい)に陥った。剪定作業の最後の仕上げは、束ねたアジサイを分別ごみ回収場へ持ち込むことである。草木・落ち葉の回収日は週一・水曜日であり、今週はあす(六日)である。ところが明日は雨の予報であり、だから前日のきょうは、気が揉むところにある。しかしながら現在は、懸案の作業を終えて気分きわめて良好である。書くまでもないことを書いて、結文とするものである。私日記風の「ひぐらしの記」に免じて、お許しを願うところである。この先は、寝床へのとんぼ返りを試みる。身勝手ながら締めの言葉には、「かたじけない」という、短いけれど、平に詫びたい言葉が浮かんでいる。

命を惜しむ、この夏

 七月四日(月曜日)、寝起きののっけから、開くまでもない電子辞書を開いた。
 「命あっての物種:何事も命があって初めてできるものだ。死んでは何もできないから、命を大切にしなければいけないということ。物種は、物事のもととなるものの意。」
 なぜ、わかり切っていることをあらためて電子辞書にすがったのであろうかと、自問する。答えはたったこれだけに尽きる。それは、物種という言葉をしっかりと復習するためだった。人は、「暑い、暑い!」と言って、気象庁は、東京の猛暑日(最高気温三十五度以上)が八日連続になるのは史上初めてと伝え、メディアは連日、わがもの顔で暑さを囃し立てていた。これは、おとといまでである。ところが、きのうは一転、一日じゅう日光が射さない曇り空だった。ときには小雨模様となり、私は妻に急かされて不承不承立っては、いたるところの網戸を窓ガラスに切り替えた。しかし、雨はたいして降らずじまいで、妻への鬱憤だけが弥増した。
 パソコンを起ち上げるや否や私は、まったく初めての試みで、パソコン上に掲示の週間(今週)天気予報を見た。すると、近づく台風四号のせいであろうか、ほぼ今週いっぱい、雨マークと曇りマークが同居、すなわち重なり合っていた。ほぼと記したのは、週末の日曜日(七月十日)だけに、晴れマークと曇りマークが重なっていたからである。おのずから今週は、あれほど憎たらしく、なんだか悪者呼ばわりにされていた暑熱(気温)は、真夏日(最高気温三十度)さえとどかないままのようである。へそ曲がりの私は、暑さをしのげてうれしいどころか、かなり拍子抜けである。
 台風が去って、同時に夏が去ってでもしたらつらいなあーと、私はバカなことを心中に浮かべていた。人間、いやいのちあるもののすべて、自然界のいとなみに恩恵を得たり、翻弄されるのは、あの世のことまではわからないけれど、この世の常である。「慌てる乞食は貰いが少ない」と言うけれど、夏本来の暑さにじたばたするのはもとより滑稽でもあるし、ばかばかしいところもある。結局、じたばたしなければならないのは、四つ目の親父を台風に替えて、「地震雷火事台風」の恐ろしさくらいである。
 確かに暑さ凌ぎは、自然界の風、人間の知恵が生み出した数々の人工物を用いれば極めて容易である。ただしこれには、自省するところはある。こんなのんきなことが言えるのは、私には外働きの仕事、また昼日中あって、あえて外出しなければならない用件などは一切なく、茶の間のソファにもたれるだけの生活に甘んじているからである。私とて、たまの買い物のおりに、たらたらどころか、だらだらと、流れ落ちる汗には辟易している。だからと言ってとうてい、夏の暑熱を悪者にする気にはなれない。もとより、あらがえない自然界の営みにたいし、目くじらを立てるのは大損だからである。
 結局この夏も、私は「命あっての物種」という成句をたずさえて、短い夏を「惜しむ」くらいの心構えで、乗り切りたいと願っている。体(てい)のいい心構えとは、すなわち「我慢」である。今週の走りのきょうは、予報どおりに朝日の輝きが絶えた、曇り空の夜明けである。体感に暑さはなく、網戸は窓ガラスで覆っている。自然界の織り成す夏にあって、わずか一週間とはいえ、暑さが遠のくのは、やはり残念無念である。

へそまがりのわが「夏、雑感」

 心に響きのいい郊外ではなく、都会の僻地しか買えなかった貧乏人の、かなりの負け惜しみだとは、とうに自認している。たぶん、山際の立地(宅地)のせいであろう。わが家は、冬は極度に寒く、そのぶん夏はとても涼しい。どちらがいいかと、天秤にはかけたくない。なぜなら、わが抗(あらが)えない気象がもたらす、どちらも天恵である。冬も暖かい日ばかりでは異常気象と言われて、人間は戸惑うばかりである。まして現代の人の世は、地球温暖化現象に絶えず怯えて、びくびくしているところである。天邪鬼(あまのじゃく)のわが結論を急げば、地震さえなければ人間界にたいする自然界のもたらす天恵は、果てなく限りがない。
 連日「暑い、暑い!」と言って、メディアの街頭インタービューに答えている人が多いけれど、彼らは冷夏の恐ろしさを知らないのかと、勘繰りたくなる。私が街頭で聞かれれば、「夏ですから、暑いのはあたりまえですね」と、答えるであろう。もちろん、こんな答えは真っ先に映像から消される羽目となる。なぜなら、インタービュアーの意図は、「暑い、暑い!」、できれば「これまで初めて、こらえきれないほど暑いです!」と言って、欲しいのである。だから私は、こんな街頭インタービュー光景は、メディアの手前みその夏の風物詩として、共感することなく眺めている。
 自然界のことは、人間があれこれと詮索(せんさく)するまでもなく、時の流れに身をまかすことこそ便法である。どんなに暑い夏でも時が過ぎれば、「もう、夏が終わるのか! いやだな……」と、思うほどに早く秋風が吹いてくる。すると人間は、「ゆく夏を惜しむ……」という、これまた身勝手な詩的感情を露わにする。
 このところ道路を掃いていると、あちこちに楕円形の青い実が転がっている。たちまち、それらを指先で拾い上げる。落ち葉と一緒にそれらを金属の塵取りに、情なく掃き入れるには忍び難いからである。秋になればこの実は、木通(アケビ)、それとも郁子(ムベ、ウベ)のどちらに、姿を変えるであろうか? と、思いを浮かべる。私はひととき郷愁に浸り、やがては秋の山の楽しみの一つとなる。
 いまだ夏の入り口にあって秋へ先駆けるのは、確かに気が早いところではある。秋は自然薯や山栗、山柿が生り、そして里には、総じて実りの秋と果物の秋が訪れる。夏がどんなに暑くても、日本列島には四季の恵みがある。だから、いっときの暑さなど、嘆くまい。七月三日(日曜日)、久しぶりに二度寝にありつけて気分が良いせいか、暑い夏礼賛はもとより、気が早く秋の季節へ思いを馳せている。へそ曲がりのわが、消夏のしかたの一つかもしれない。
 一瞬忘れかけていたけれど秋は、地震の頻発に加えて、台風シーズンたけなわである。だからと言って私は、もとより自然界の営みに恨みつらみはない。いや実際にはそれも、地震さえなければという、限定付きではある。朝日の輝きのない夜明けにあって、私は早やちょっぴり秋の気配を感じている。案外、「短い夏を惜しむ」ようになるかもしれない。そうだと困るなあー、私は夏好きである。もちろん、冬に比べてのことだけれど……、それでもやはり短い夏は、真っ平御免被りたいものである。人間には総じて、空威張(からいば)りや負け惜しみはつきものである。とりわけ私は、その性癖一入(ひとしお)なのであろう。挙句、この文章は、へそまがりのわが「夏、雑感」である。

実のない文章で、早起きの暇はつぶれている

 まだ眠いのに二度寝にありつけないことは、お釈迦様が説く四苦八苦に次ぐ、人間の苦しみなのかもしれない。こんなことを胸中に浮かべて、きょう(七月二日・土曜日)もまた、仕方なく起き出してきた。とことん、バカな私である。起き出せばこれまた仕方なく、パソコンを起ち上げている。とことん、バカの上塗りである。バカの証しに、実のない文章を書き始めている。壁時計の針は、いまだ夜間と言える四時前あたりをめぐっている。「夏至」(六月二十一日)が過ぎたばかりなのに、それでも体感的には夜明けを遅く、夕暮れを早く感じ始めている。外働きの職業や、わずかの家内仕事さえいっさい持たない私は、いまだ夜間とも言えるこんな時間に起き出すのは、早すぎて損々である。精神異常をきたしているのか? と、自問するところである。もちろん、自答はノーである。しかし、尋常でないことは、承知せざるを得ない。「春眠暁を覚えず」。春とは言わず夏の夜明けにあっても、この成句に浴することに、こしたことはない。ところが今や、この心地良い成句は、私から遠ざかり死語になりかけている。仕方ない早起きだけれど、そうであればわが子どもの頃のように「早起き鳥」の声を耳にして、起き出したいものである。実際には、懐かしさつのる夢まぼろしである。
 起き立ての私は、開くまでもないと思いながら、電子辞書を開いた。そして、二つの言葉を見出し語にした。一つは、四字熟語の自業自得である。「自業自得:仏教で、自分が犯した悪事や失敗によって、自分の身にその報いを受けること」。一つは、泡沫である。「泡沫:①あわ、あぶく、うたかた、みなわ。②はかないもののたとえ。泡沫候補」。
 幼稚園児はともかく、小学生なら入学したての一年生でさえ知りすぎている簡易な言葉である。それなのにあえて開いたのは、こんな気持ちが心中に渦巻いていたせいである。すなわち前者は、このところのカウント数値の減り傾向が、わが長い駄文のせいかなと、思っていたゆえである。後者は、参議院議員選挙における、テレビ演説を耳にして、泡沫候補の心境をおもんぱかっていたからである。結局は起き立の暇つぶしにすぎない。確かに、私自身には精神異常の自覚症状はない。だけど、はた目にはどうかな? と、思うはざるを得ない、似非(えせ)「早起き鳥」の嘆きである。ほとほと、実のない文章である。涼やかに明けた夏の夜明けが、わが気分を癒し、とめどなく慰めている。

七月初日

 悪夢は、どうやら悪鬼のしわざらしい。ところが悪鬼は、いくら追っ払っても日を替えて、よりもよってわが就寝中に現れる。これでは、安眠をむさぼれるはずはない。いやそのしわざは、安眠をさまたげるだけにとどまらず、一度目覚めると尾を引いて、二度寝にありつけないという、悪だくみを引っ提げている。鬼は実際にはこの世にいなくて、得体のしれない想像上の化け物(怪物)だと言う。だから人間は、鬼を懲らしめようがない。それゆえ、人間ができるあからさまな鬼退治は、節分の日の「鬼は外、福は内」の掛け声とともに、鬼仮面へ豆礫(まめつぶて)をぶっつける豆まきくらいである。昔話に語られる桃太郎は、鬼ヶ島の鬼退治で名を馳せた勇者である。現代の世では桃太郎のような正義感強い勇者はだれもいなく、悪鬼の為すがままである。とりわけ私は、悪夢をしでかす悪鬼に襲われると為すべなく、ほうほうのていで寝床から逃げ出してくるか能はない。
 月が替わってきょうは七月一日(金曜日)、ところが月替われど悪夢は遠のかず、私はいつものようにきょうもまた逃げて、寝床から起き出してきた。挙句、夜中、三時過ぎの起き出しである。これによる唯一の幸福は、夏の夜明け模様にたっぷりと浸れることである。だからちょっぴり、「牛にひかれて善光寺参り」の心境にはある。そして、鬼のしわざについて、ふと浮かんだ言葉をわが掲げる生涯学習における現場主義にしたがって、電子辞書を開いた。
 「鬼の霍乱(かくらん):いつもは極めて壮健な人が病気になることのたとえ」。
 想像上とはいえ鬼が心中に現れなければ、わが身体は病知らず、精神は安寧をむさぼることができるはずだ。少なくとも、悪夢に妨げられず、安眠をむさぼることができるはずだ。つくづく、残念無念である。わが誕生月、七月の書初めがこんな実のない文章ではなさけない。
 梅雨が明けるやいなや連日、猛暑が続いている。そのせいか、掲示板に訪れる人の数値(カウント数)は減る傾向にある。この先、七月と八月の二か月にわたり、いっそう暑い日が続くこととなる。そうであれば私は、一重(ひとえ)にいや三重八重(みえやえ)にご常連様のご健勝を願うのみである。きょうはこのことを切に願って、書き止めである。
 白々と夜が明けたが、壁時計の針はいまだ四時半過ぎである。私は涼しいうちに、庭中の草取りに精出すというより、朝御飯までの暇つぶしをするつもりである。きわめてかたじけなく思う。七月初日、いつもながらの起き立ての殴り書きの文章である。