ひぐらしの記
前田静良 作
リニューアルしました。
2014.10.27カウンター設置
のどかな秋の夜明け
9月4日(水曜日)。のどかに晴れた秋の夜明けにある。きのうの天候までは台風10号の影響をこうむり、愚図ついた雨模様が続いた。だから、きょうの夜明けののどかな晴れは、ようやくそんな状態を脱して、ようやく季節(秋)本来の気候になりそうである。やはり自然界の恵みは、人間界にとっては甚大である。ところが私の場合は、なおしくじりが続いている。きのうあたりから収まりを願っていた夏風邪は、願い叶わず快方へは向かわず、ぶり返しをこうむっている。そして、風邪薬の服用が続いているせいで、寝起きが遅れてしまった。そのため切迫時間をこうむり、この先の文章は書けず、書き止めを食らっている。現在は、のどかな秋の夜明けにすがり、鬱気分の直しを願っている。
余生が付き纏う、わが日暮らし
夏の終わりかけにひいて、こじらせていた夏風邪はようやく収まりかけている。それでもまだ完治ではなく、ぶり返しに慄(おのの)いている。ほぼ例年繰り返す夏風邪は私の場合、明確な鼻炎症状である。ゆえにこれに見舞われと気分は、たちまち憂鬱状態になる。挙句、物憂くすべてのことに気力が殺がれてくる。せっかくの秋・好季節にあって私は、長引くことを危ぶんでいた。しかし、幸いにもきょうあるいはあすあたりから、快方へ向かうかな? と、望みをかけている。
きのうの文章には、こんな表題を付した。すなわちそれは、「秋、さわやかな始動」である。夜明けに感じたことをそのまま表題にしたのである。ところが、この表現に背くことなくきのうは、夜明けにかぎらずほぼ一日じゅう、さわやかな秋の気候に恵まれた。夏風邪症状はかなり出足を留めたけれど、それでも私は、委細構わず普段の大船(鎌倉市)の街へ、買い物に出かけた。買い物ルートにしたがって先ずは、「大船市場」へ足を運んだ。すると、売り場はすでに「実りの秋」の先駆け(序章)状態を成していた。実際には「果物の秋」、旺盛状態を成していた。葡萄、梨、桃、そしてほかにもいろんな果実、さらには早出しの栗、柿、蜜柑さえ並んでいた。僅かに夏の名残をとどめていたのは、売り場を狭めて輪切りの西瓜が数個、置かれていた。これらを眺めて私は、こう決意した。(ことしは、実りの秋をたっぷりと愉しもう)。つくづく、バカな私である。なぜなら、こんなことが脳裏を過(よぎ)ったのは、(あと何年か………)と、めぐり来る秋を浮かべていたからである。
わが日暮らしには常に、余生の年数が付き纏っている。きのう(9月2日・月曜日)の一幕である。きょうの夜明けは小雨模様である。
秋、さわやかに始動
きのうの「防災の日」(9月1日・日曜日)にあっては、このところの台風10号のもたらした各地の大雨はほぼ収まり、さらには懸念していた大きな地震はなく過ぎた。そして、きょう(9月2日・月曜日)の夜明けの空には、まるでこの間の長い異常状態を償うかのように、見渡すかぎりに秋天高く日本晴れが広がっている。いよいよきょうあたりから好季節に違わぬ、秋本来の気象になりそうである。これにつれて地上の人間界の営みは、秋本来の恵みを得て、日々豊かに落ち着くであろう。
気に病むところはただ一点、今月に行われる自民党の総裁選および立憲民主党の代表選における、疑心暗鬼を伴う虚々実々の騒動である。しかし、気にすることはない、もとより私には無縁の空騒ぎにすぎない。だから、そんなことはそっちのけにして私は、きょうあたりから始まりそうな、秋本来の季節の恵みをたっぷりと、愉しみたいと願っている。
秋の朝日は、どうしてこうもさわやかに明るく輝くのであろう。
9月1日(日曜日)
きょうから9月入り。久しぶりにぐっすり眠れた。そのせいで執筆時間の切迫をこうむりこの先、文章は書けない。それでも眠れたことで、気分は安んじている。ゆえに、文章は休んでも悔いはない。きょうは本格的な台風シーズン入りと、かつての「関東大震災」にかかわる「防災の日」である。だからもちろん、気を緩めることはできない。しかしながら一方、人間界は様々な「冠の秋」を迎えている。それを恵む夜明けの気候は、一足飛びに肌身に優しく、すっかり凌ぎやすくなっている。確かに、自然界の猛威は気になるけれど、半面人間界は、秋の心地良い気候のもたらす恵みに酔いしれることとなる。
わが身の場合先ずは、「食欲の秋」到来である。きょうにかぎれば、道路が乾きしだい大雨が残した落ち葉の散乱を掃き清めることとなる。この作業が終われば、いよいよ夏の季節とはおさらばである。そしてこの後は、秋の季節におけるわが家の日暮らしの安寧を願っている。だけど、どうなることやら……。
ウグイスの声もセミの声もおさらばで、代わりに草場で集(すだ)く虫(秋虫)の声の合唱が旺盛となる。
途中消え去った、台風10号にことよせて
8月31日(土曜日)。鉛色の曇天だけれど、雨・風まったく無い夜明けが訪れている。幸いにも台風10号は、鎌倉地方までには届かず、接近途中のどこかで消えてなくなった。日本列島にあって国民は、大型台風と予報されて、一週間を超えて恐怖に慄(おのの)いていた。テレビニュースは、防災グッズの売れ行きぐあいを盛んに報じていた。街頭インタビューにあっては、私はマイクを向けられた人達の台風にたいする備え、すなわち身構えや心構えを感じた。私もちょっぴり備えて、風に吹き飛ばされそうな鉢物などは物置に仕舞い込んだ。全国的には被害を被った人達がかなりいた。だから、台風の恐ろしさは十分に感じた。
しかし一方、予報の騒々しさからすれば台風10号は、いくらか空振りに思えた。台風情報などに絡む防災は、警告や準備を促すことを建前とすれば、いくらか大袈裟になることは妥当であり、仕方のないところでもあろう。案外、拍子抜けや空振りこそ喜ぶべきものなのかもしれない。私も、そうとはわかっちゃいるけれど、それでもやはりかなり騒ぎすぎた感は否めない。
確かに防災は、事前や途中に騒ぎすぎるほどが是(ぜ)なのであろう。なぜなら、これだけ予報と実際に狂いが生じても気象庁は、謝りあるいは弁解の記者会見をするつもりはなさそうである。もちろんこのことは、私の言い分ではなく、いろんな防災に明け暮れて、肩透かしを食らった人達の恨みつらみを鑑みてのわが代弁である。
雨・風去っても日本晴れの夜明けではないけれど、しかし昼間には台風一過を擬(ぎ)して、日本晴れになるかもしれない。こんな文章書いた私は、つくづく天邪鬼(あまのじゃく)である。
私が崇める「スーパーウーマン」
8月29日(金曜日)。台風10号の本隊(眼)は、日本列島のどのあたりまできているのであろうか。いや、どこら辺りをさ迷っているのであろうか。テレビニュースを見聞していると、あまりにもどこかしこにその影響が出ているようであり、そう思わざるを得ないところがる。
鎌倉地方もすでに台風10号の影響を受けているのであろうか。風は吹いていないけれど、夜明けにあって小雨が降っている。叶うことであれば、パッと来てパッと去ってほしいと、願っている。ぐずぐずと長引く台風は、日本全体を長く鬱(うつ)状態にするばかりだからである。
さて、今朝の私は、こんな思いをたずさえて起き出している。近づく自民党の総裁選および立憲民主党の代表選にあっては、いずれにも幾人かの女性の立候補者が取りざたされている。現下の日本社会にあっては、女性の活躍が望まれていることからすれば、確かにそれはそれで歓迎こそすれ、非難すべきではないだろう。しかしわが下種(げす)の勘繰りからすれば、立候補予定の女性議員は、それにふさわしい能力の持ち主であろうかと、疑うところはある。門外漢ゆえに、もちろん私の知るところではない。
私には常々、ごく身近に本当のスーパーウーマン(超人的女性)と思える人がいる。端的に言えば、多能力と活躍ぶりが華々しいのである。まったく、誇張や偽りのない真実である。現在、掲示板上掲には「流星群だより第46号」の発行案内が掲げられている。もとより「流星群だより」は、姉編「流星群」の妹編である。姉妹編共に半年に1回、すなわち1年に2回、つごう姉妹編あわせて、1年に4回発行されている。ところがこれらの冊子は本業ではなく、過去から現在に至り作者としてかかわりのある人たちへの、無償(ただ働き)の賜りものである。
私が崇める、スーパーウーマンの名を明かそう。その名は、出版社「現代文藝社」を単独で起ち上げ、23年余25年近く、寸時も休まず発行され、活躍され続けておられる大沢さまである。もちろん、大沢さまの才能や活躍ぶりはこれだけで限るものではなく、みずから作家を成し、ほか陶芸、写真、絵画などの芸術活動に加えて、野菜や花づくり対する蘊蓄(うんちく)、ほか囲碁も究められているようである。わが苦手とするパソコンをはじめとする電子機器(端末)の操作までお茶の子さいさいなのか、本業へも大いに利用さているようである。別荘まがいのご実家回りは、畑地および周辺地共に、常に綺麗に整頓されている。これらを鑑みて私は、大沢さまの能力と活躍ぶりにたいし、まさしくスーパーウーマンと名付けている。日本社会にあって、女性の活躍が叫ばれるたびに私は大沢さまを浮かべて、スーパーウーマンと崇めている。
小雨は本降りなり、先ほどからスマホには横浜市内の地区への避難指示のアラーム(大雨、警戒レベル4)が何度か鳴り響いている。わが家のある(鎌倉市大船)は、横浜市栄区と隣接を成している。だから、アラームはそのあおりを食っているだけであり、まだ鎌倉市当局からの避難指示は出ていない。
二日続いての「題、無し」
8月29日(木曜日)。台風が近づいているけれど、風雨ない夜明けにある。台風接近中の予報がなければ心急(こころせ)くことはないけれど、やはり予報に脅かされている。私は夏の終わりかけにあって、夏風邪を拗(こじ)らせている。私はつくづく愚か者である。症状は頭重(ずおも)、鼻水、鼻のムズムズ感、ときおりの咳である。これらのせいで、総じて気分は憂鬱を極めている。ゆえに心象風景は最悪に陥り、おのずから文章を書く気分は殺がれている。起き出して来て、書くまでもないことを書いている。日課の道路の掃除も頓挫にある。この先の文章は書けず、パソコンを閉じることにした。
初秋、好季節到来に反し、私は体調不良をこうむっている。鼻風邪症状に抗(あらが)う薬剤は、わが頼みとする市販の「コルゲンコーワ鼻炎ジェルカプセル」である。
題、無し
8月28日(水曜日)。遅く起きて、書く時間がない。だから、文章は書けない。ゆえに、このことだけを書いて、惰性の継続を願っている。台風10号が近づいている。一度、屋根を吹き飛ばされているからそののちは、台風のたびにびくびくしなければならない心境に様変わりしている。今朝はまだ無風で晴れの夜明けにある。
台風にかぎらず地震もまた、秋という季節のめぐりに合わせて、過去体験でシーズン入りを迎えている。わが衰えてゆく身体はどうにもならないが、自然界現象もまたどうにもならない。だったら、一縷の生存の楽しみを見つけなければ大損である。しかし私の場合は、行楽の秋にはもはや縁がない。だからそれに替えて、普段の買い物を通して実りの秋にその願いを託そうと思っている。行きつけの「大船市場」(鎌倉市)は、秋の果物満載である。巷間、悩まされているコメ不足も、新米が出回れば解消するであろう。私には芸術の秋もまた無縁である。
初秋、アホ丸出しの夜明け
8月27日(火曜日)。夜明けの空から音なく、小雨が降っている。風は凪(な)いで、木の葉の揺れはまったく無い。両耳に補聴器を嵌めていないため、セミや小鳥の声も聞こえない。普段の散歩連れは、雨のため通っていない。だから、人の声はするはずもない。キー叩きの音も聞こえない。確かに、心臓の鼓動は感じている。けれど、これまた音、聞こえず動いている。ネタなく、書くことは何もない。しかし、こんなことでも書けば、生きている証しにはなる。日々、人の世の喧騒の中に居ついていると、わずかの時であっても、案外、音無しのひとときは桃源郷と思えるところはある。
きょうは、まるで世捨て人の仙人みたいな心境を書いて、結び文に甘んじる。ネタのないせいとはいえ、こんなみすぼらしい文章、書かなきゃよかったのかもしれない。だから、人様には詫びて、自分自身は悲しんでいる。初秋の戯れ文と嘯(うそぶ)いて、みずからを慰めている。
つけようのない表題は、「初秋、アホ丸出しの夜明け」でいいのかな。いや、いくらか飾って、初秋、小雨降るのどかな夜明けである。
幸先の良い秋にあっても、マイナス思考は消えず
8月26日(月曜日)。閉めて寝ていた窓ガラスを開けると、網戸から入る風は冷えていて、気象はすっかり秋モードに変わっている。前面の窓ガラスを通して眺める大空は、秋天高く青く澄んだ日本晴れを広げている。ところどころに抱く白雲は、上りかけの朝日に照らされて、これまた見事に澄んで、重量感なくふわふわと浮いている。秋の空は季節が恵む、胸の透く一大パノラマである。こんな季節や自然界の恵みにあっても素直に酔えないのは、人生の終盤を生きるわが身の悲しさである。なぜならわが心境は、季節や歳月の速めぐり感に怯えている。つれて余生は、日を追って縮まるばかりである。常に私は、マイナス思考の祟りを食らっている。自ら認める、わが人生の大損である。
さて、きのうは行動予定にしたがって、「大相撲巡業、横須賀場所」の観覧に出かけた。妻と娘と連れ合って、親子三人連れだった。わが関心事は、大相撲巡業の催行だった。催行された会場は炎天下の広場ではなく、程よく空調がされていた屋内、すなわち「横須賀アリーナ」だった。朝の九時に開場、そして千秋楽と表記されていた閉場は午後三時だった。これに沿ってプログラムが組まれていた。まず驚いたことにはプログラムは、本場所さながらに進められていた。これらの中から時間の都合で、取り組みの番数が省かれていたところがあったのはやむを得ない。それでも再び言えば、全体プログラムは本場所同然に組まれていた。次に驚いたことは、広大なアリーナを埋め尽くしていた観覧者(人数)の多さだった。そして、屋内の観覧席もまた、大相撲の殿堂・国技館を真似て桟敷多く設(しつら)えてあった。見終えた私たち三人は、それぞれが満足して家路に就いた。
大相撲巡業の初体験は結局、愉しめた親子一大行事だったのである。そしてそれは、幸先の良い秋の訪れを感じさせた。できればそれにさずかり、わがマイナス思考は千秋楽にしたいと願っていた。ところが、日を替えて起きてみるとそれはやはり、叶えられず夢まぼろしのままである。