ひぐらしの記

ひぐらしの記

前田静良 作

リニューアルしました。


2014.10.27カウンター設置

内田川(熊本県・筆者の故郷)富田文昭さん撮影

 

命を惜しむ、この夏

 七月四日(月曜日)、寝起きののっけから、開くまでもない電子辞書を開いた。
 「命あっての物種:何事も命があって初めてできるものだ。死んでは何もできないから、命を大切にしなければいけないということ。物種は、物事のもととなるものの意。」
 なぜ、わかり切っていることをあらためて電子辞書にすがったのであろうかと、自問する。答えはたったこれだけに尽きる。それは、物種という言葉をしっかりと復習するためだった。人は、「暑い、暑い!」と言って、気象庁は、東京の猛暑日(最高気温三十五度以上)が八日連続になるのは史上初めてと伝え、メディアは連日、わがもの顔で暑さを囃し立てていた。これは、おとといまでである。ところが、きのうは一転、一日じゅう日光が射さない曇り空だった。ときには小雨模様となり、私は妻に急かされて不承不承立っては、いたるところの網戸を窓ガラスに切り替えた。しかし、雨はたいして降らずじまいで、妻への鬱憤だけが弥増した。
 パソコンを起ち上げるや否や私は、まったく初めての試みで、パソコン上に掲示の週間(今週)天気予報を見た。すると、近づく台風四号のせいであろうか、ほぼ今週いっぱい、雨マークと曇りマークが同居、すなわち重なり合っていた。ほぼと記したのは、週末の日曜日(七月十日)だけに、晴れマークと曇りマークが重なっていたからである。おのずから今週は、あれほど憎たらしく、なんだか悪者呼ばわりにされていた暑熱(気温)は、真夏日(最高気温三十度)さえとどかないままのようである。へそ曲がりの私は、暑さをしのげてうれしいどころか、かなり拍子抜けである。
 台風が去って、同時に夏が去ってでもしたらつらいなあーと、私はバカなことを心中に浮かべていた。人間、いやいのちあるもののすべて、自然界のいとなみに恩恵を得たり、翻弄されるのは、あの世のことまではわからないけれど、この世の常である。「慌てる乞食は貰いが少ない」と言うけれど、夏本来の暑さにじたばたするのはもとより滑稽でもあるし、ばかばかしいところもある。結局、じたばたしなければならないのは、四つ目の親父を台風に替えて、「地震雷火事台風」の恐ろしさくらいである。
 確かに暑さ凌ぎは、自然界の風、人間の知恵が生み出した数々の人工物を用いれば極めて容易である。ただしこれには、自省するところはある。こんなのんきなことが言えるのは、私には外働きの仕事、また昼日中あって、あえて外出しなければならない用件などは一切なく、茶の間のソファにもたれるだけの生活に甘んじているからである。私とて、たまの買い物のおりに、たらたらどころか、だらだらと、流れ落ちる汗には辟易している。だからと言ってとうてい、夏の暑熱を悪者にする気にはなれない。もとより、あらがえない自然界の営みにたいし、目くじらを立てるのは大損だからである。
 結局この夏も、私は「命あっての物種」という成句をたずさえて、短い夏を「惜しむ」くらいの心構えで、乗り切りたいと願っている。体(てい)のいい心構えとは、すなわち「我慢」である。今週の走りのきょうは、予報どおりに朝日の輝きが絶えた、曇り空の夜明けである。体感に暑さはなく、網戸は窓ガラスで覆っている。自然界の織り成す夏にあって、わずか一週間とはいえ、暑さが遠のくのは、やはり残念無念である。

へそまがりのわが「夏、雑感」

 心に響きのいい郊外ではなく、都会の僻地しか買えなかった貧乏人の、かなりの負け惜しみだとは、とうに自認している。たぶん、山際の立地(宅地)のせいであろう。わが家は、冬は極度に寒く、そのぶん夏はとても涼しい。どちらがいいかと、天秤にはかけたくない。なぜなら、わが抗(あらが)えない気象がもたらす、どちらも天恵である。冬も暖かい日ばかりでは異常気象と言われて、人間は戸惑うばかりである。まして現代の人の世は、地球温暖化現象に絶えず怯えて、びくびくしているところである。天邪鬼(あまのじゃく)のわが結論を急げば、地震さえなければ人間界にたいする自然界のもたらす天恵は、果てなく限りがない。
 連日「暑い、暑い!」と言って、メディアの街頭インタービューに答えている人が多いけれど、彼らは冷夏の恐ろしさを知らないのかと、勘繰りたくなる。私が街頭で聞かれれば、「夏ですから、暑いのはあたりまえですね」と、答えるであろう。もちろん、こんな答えは真っ先に映像から消される羽目となる。なぜなら、インタービュアーの意図は、「暑い、暑い!」、できれば「これまで初めて、こらえきれないほど暑いです!」と言って、欲しいのである。だから私は、こんな街頭インタービュー光景は、メディアの手前みその夏の風物詩として、共感することなく眺めている。
 自然界のことは、人間があれこれと詮索(せんさく)するまでもなく、時の流れに身をまかすことこそ便法である。どんなに暑い夏でも時が過ぎれば、「もう、夏が終わるのか! いやだな……」と、思うほどに早く秋風が吹いてくる。すると人間は、「ゆく夏を惜しむ……」という、これまた身勝手な詩的感情を露わにする。
 このところ道路を掃いていると、あちこちに楕円形の青い実が転がっている。たちまち、それらを指先で拾い上げる。落ち葉と一緒にそれらを金属の塵取りに、情なく掃き入れるには忍び難いからである。秋になればこの実は、木通(アケビ)、それとも郁子(ムベ、ウベ)のどちらに、姿を変えるであろうか? と、思いを浮かべる。私はひととき郷愁に浸り、やがては秋の山の楽しみの一つとなる。
 いまだ夏の入り口にあって秋へ先駆けるのは、確かに気が早いところではある。秋は自然薯や山栗、山柿が生り、そして里には、総じて実りの秋と果物の秋が訪れる。夏がどんなに暑くても、日本列島には四季の恵みがある。だから、いっときの暑さなど、嘆くまい。七月三日(日曜日)、久しぶりに二度寝にありつけて気分が良いせいか、暑い夏礼賛はもとより、気が早く秋の季節へ思いを馳せている。へそ曲がりのわが、消夏のしかたの一つかもしれない。
 一瞬忘れかけていたけれど秋は、地震の頻発に加えて、台風シーズンたけなわである。だからと言って私は、もとより自然界の営みに恨みつらみはない。いや実際にはそれも、地震さえなければという、限定付きではある。朝日の輝きのない夜明けにあって、私は早やちょっぴり秋の気配を感じている。案外、「短い夏を惜しむ」ようになるかもしれない。そうだと困るなあー、私は夏好きである。もちろん、冬に比べてのことだけれど……、それでもやはり短い夏は、真っ平御免被りたいものである。人間には総じて、空威張(からいば)りや負け惜しみはつきものである。とりわけ私は、その性癖一入(ひとしお)なのであろう。挙句、この文章は、へそまがりのわが「夏、雑感」である。

実のない文章で、早起きの暇はつぶれている

 まだ眠いのに二度寝にありつけないことは、お釈迦様が説く四苦八苦に次ぐ、人間の苦しみなのかもしれない。こんなことを胸中に浮かべて、きょう(七月二日・土曜日)もまた、仕方なく起き出してきた。とことん、バカな私である。起き出せばこれまた仕方なく、パソコンを起ち上げている。とことん、バカの上塗りである。バカの証しに、実のない文章を書き始めている。壁時計の針は、いまだ夜間と言える四時前あたりをめぐっている。「夏至」(六月二十一日)が過ぎたばかりなのに、それでも体感的には夜明けを遅く、夕暮れを早く感じ始めている。外働きの職業や、わずかの家内仕事さえいっさい持たない私は、いまだ夜間とも言えるこんな時間に起き出すのは、早すぎて損々である。精神異常をきたしているのか? と、自問するところである。もちろん、自答はノーである。しかし、尋常でないことは、承知せざるを得ない。「春眠暁を覚えず」。春とは言わず夏の夜明けにあっても、この成句に浴することに、こしたことはない。ところが今や、この心地良い成句は、私から遠ざかり死語になりかけている。仕方ない早起きだけれど、そうであればわが子どもの頃のように「早起き鳥」の声を耳にして、起き出したいものである。実際には、懐かしさつのる夢まぼろしである。
 起き立ての私は、開くまでもないと思いながら、電子辞書を開いた。そして、二つの言葉を見出し語にした。一つは、四字熟語の自業自得である。「自業自得:仏教で、自分が犯した悪事や失敗によって、自分の身にその報いを受けること」。一つは、泡沫である。「泡沫:①あわ、あぶく、うたかた、みなわ。②はかないもののたとえ。泡沫候補」。
 幼稚園児はともかく、小学生なら入学したての一年生でさえ知りすぎている簡易な言葉である。それなのにあえて開いたのは、こんな気持ちが心中に渦巻いていたせいである。すなわち前者は、このところのカウント数値の減り傾向が、わが長い駄文のせいかなと、思っていたゆえである。後者は、参議院議員選挙における、テレビ演説を耳にして、泡沫候補の心境をおもんぱかっていたからである。結局は起き立の暇つぶしにすぎない。確かに、私自身には精神異常の自覚症状はない。だけど、はた目にはどうかな? と、思うはざるを得ない、似非(えせ)「早起き鳥」の嘆きである。ほとほと、実のない文章である。涼やかに明けた夏の夜明けが、わが気分を癒し、とめどなく慰めている。

七月初日

 悪夢は、どうやら悪鬼のしわざらしい。ところが悪鬼は、いくら追っ払っても日を替えて、よりもよってわが就寝中に現れる。これでは、安眠をむさぼれるはずはない。いやそのしわざは、安眠をさまたげるだけにとどまらず、一度目覚めると尾を引いて、二度寝にありつけないという、悪だくみを引っ提げている。鬼は実際にはこの世にいなくて、得体のしれない想像上の化け物(怪物)だと言う。だから人間は、鬼を懲らしめようがない。それゆえ、人間ができるあからさまな鬼退治は、節分の日の「鬼は外、福は内」の掛け声とともに、鬼仮面へ豆礫(まめつぶて)をぶっつける豆まきくらいである。昔話に語られる桃太郎は、鬼ヶ島の鬼退治で名を馳せた勇者である。現代の世では桃太郎のような正義感強い勇者はだれもいなく、悪鬼の為すがままである。とりわけ私は、悪夢をしでかす悪鬼に襲われると為すべなく、ほうほうのていで寝床から逃げ出してくるか能はない。
 月が替わってきょうは七月一日(金曜日)、ところが月替われど悪夢は遠のかず、私はいつものようにきょうもまた逃げて、寝床から起き出してきた。挙句、夜中、三時過ぎの起き出しである。これによる唯一の幸福は、夏の夜明け模様にたっぷりと浸れることである。だからちょっぴり、「牛にひかれて善光寺参り」の心境にはある。そして、鬼のしわざについて、ふと浮かんだ言葉をわが掲げる生涯学習における現場主義にしたがって、電子辞書を開いた。
 「鬼の霍乱(かくらん):いつもは極めて壮健な人が病気になることのたとえ」。
 想像上とはいえ鬼が心中に現れなければ、わが身体は病知らず、精神は安寧をむさぼることができるはずだ。少なくとも、悪夢に妨げられず、安眠をむさぼることができるはずだ。つくづく、残念無念である。わが誕生月、七月の書初めがこんな実のない文章ではなさけない。
 梅雨が明けるやいなや連日、猛暑が続いている。そのせいか、掲示板に訪れる人の数値(カウント数)は減る傾向にある。この先、七月と八月の二か月にわたり、いっそう暑い日が続くこととなる。そうであれば私は、一重(ひとえ)にいや三重八重(みえやえ)にご常連様のご健勝を願うのみである。きょうはこのことを切に願って、書き止めである。
 白々と夜が明けたが、壁時計の針はいまだ四時半過ぎである。私は涼しいうちに、庭中の草取りに精出すというより、朝御飯までの暇つぶしをするつもりである。きわめてかたじけなく思う。七月初日、いつもながらの起き立ての殴り書きの文章である。

支離滅裂

 六月三十日(木曜日)、就寝中の私は、夢の中に生きていた。それも、ほとんど悪夢の中に生きていた。私は無名人。だから苦心惨憺しながら書いても、読んでくださる人たちは、手足の指の数をわずかに超えるくらいである。それゆえにこれらの人たちは、私にとっては恩人を超えて神様と崇めてもいい人たちである。ところが、ほとんどそれらの人たちの名さえ知らない。もとより、感謝の思いを伝える手立てはない。だからなお、対面で感謝を伝えたい思い山々である。
 翻って世の中の有名人は、みずからは一字さえ書くことなく、ゴーストライターに書いてもらい、星の数ほどの読者にありつける。もちろん、僻んでいるわけではない。起き立てに、ちょっぴり書いてみたくなっただけである。言うなれば、悪夢払いの便法である。
 まだ時間は早いのに、夏の夜明けはすでに朝日がキラキラと光っている。何たるさわやかな夏の朝、いや夏の夜明けだ。実際にはこの気分が、悪夢をすっかり払ってくれている。このところの私は、梅雨が明けるやいなや、夏風または夏の朝風の快さなどを立て続けに書いた。そしてきのうは、これらの打ち止めいや総括みたいに、「わが、夏礼賛」という文章を書いた。しかし、これで打ち止めとするのはもったいなく、まだ書きとどめて置きたいものある。無論、付け足しとは言えず、わが体感に違いを変えて、夏の朝風にも匹敵するものである。だから順位をつけずに、夏にかぎりわが好む風を掲げてみる。それらは、朝風、昼風、夕風、そして夜風である。もちろんこれらは、言葉どおりだとかなりの違和感がある。しかしながらどれもが、心地良さを恵んでくれることにはかわりない。昼風の場合は、ズバリ木陰にたたずんでいるおりに吹いてくる涼風、夕風は夕涼みどきに吹いてくれる心地よい風、夜風はこれまたずばり、網戸から忍び込むひやりとする風である。風と並んで雨もまた、夏の雨は好し! と、書きたいところはある。ところがこちらは、日照り雨と夕立くらいである。
 このところの私は、書き殴り特有に長い文を書いている。だからきょうは、意図してこれで書き止めである。こんな味気ない文章を読んでくださる人たちは、私にとってはやはり、いつわりのなく現(あらひと)の神様である。悪夢には、魘(うな)されるとう常套語(じょうとうご)がつきまとう。漢字の成り立ちからすれば、確かに「鬼」の仕業であろう。だとしたら、追っ払ってもつきまとう、飛びっきりの悪鬼(あくおに)なのだろう。ならば、さわやかな夏の夜明けで鬼退治である。
 現在のわが気分は、鬼を懲らしめてさわやかである。ただし、あまりにも支離滅裂で、この文章には表題をつけようがない。仕方ない、ずばり支離滅裂としよう。表題はどうあれ、鬼退治を果たし、悪夢を遠のけて、わが気分は爽快である。

わが、夏礼賛

 六月二十九日(水曜日)、二度寝にありつけないため、仕方なく起き出している。ところが、これには予期しないオマケがある。いくらか長くは夏の朝、短くはその夜明けが楽しめることである。窓ガラスを網戸にきり替えると、「あなたをうずうずして待っていました!」とばかりに、夏風いや夏の朝風がわが身に吹いてくれる。私は、この瞬間が好きである。これを超える無償の風の恵みは、炎天下にあって木陰にたたずむおりに、わが身にさらっと当たる涼風(すずかぜ)である。共に、有償のビールなどで喉や身を潤すまでもない、無償でありつける心地良さである。風のありがたさをしみじみと感じるのは、こんなおりに吹く風、すなわち夏風である。決め手のここで、転換ミスで「夏風邪」と誤れば、わが「夏風」礼賛は台無しである。心地良い夏風と比肩してもう一つ、わが夏好きを成しているのは、着衣の軽装である。いやこちらは、心地良い夏風を凌いで、飛びっきりの夏礼賛を成している。半ズボン、猿股パンツ、ふぁふぁのステテコ、薄地の半袖でシャツの恩恵など、これらこそわが夏礼賛の筆頭に位置している。
 長く文章を書き続けていると、はからずも四季折々に同じようは文章を書いている。もちろん、反省しきりである。しかし一方、それは仕方のないことだと、自己弁護する気持ちも旺盛である。なぜなら、もとより私は、創作文は書けない。だから、『ひぐらしの記』に甘んじて、文字どおり書き殴りで日記風に書いている。すると、わが脳髄の乏しさに加えて、毎年、四季折々に書くネタはほぼ同様となる。私には、それらのネタを焼いたり煮たりする能力はない。挙句、二番、三番煎じどころかいやいや、自分自身が飽きて呆れかえるほどに、繰り返し書き続けているにすぎない。
 確かに、このところの私は、駄文を字数多く書き続けている。もちろんこれには、仕方がないという自己慰安は捨てて、反省しきりである。だからきょうは、尻切れトンボを自覚してまでも、これで書き止めである。いや、少しだけ自己弁護をすれば、きのう纏めた草取り袋、そして庭木の切り枝の束をごみ置き場へ持ち込むためである。これらの持ち込みは、週一・水曜日に限られている。
 とっくに、夜明けの朝日は輝いている。朝御飯の支度までには、まだかなりの時を残している。もちろん、朝飯前の一仕事とも言えない。ただ、無性(むしょう)に夏の夜明けの心地良さを実感できるひとときである。

快い夏の夜明け

 六月二十八日(火曜日)、メディア報道からの一部抜粋の引用文(毎日新聞 © tenki.jp 提供)を記している。「きょう27日、気象庁は『関東甲信地方、東海地方、九州南部が梅雨明けしたとみられる』と発表しました。関東甲信地方は平年より(7月19日ごろ)より22日早く、昨年(7月16日ごろ)より19日早い梅雨明けで、統計開始以来最も早い梅雨明けです。6月中の梅雨明けは、6月29日に梅雨明けした2018年以来4年ぶりとなります。東海地方は平年より(7月19日ごろ)より22日早く、昨年(7月17日ごろ)より20日早い梅雨明けで、6月中の梅雨明けは1963年(6月22日ごろ)以来です。九州南部は平年(7月15日ごろ)より18日早く、昨年(7月11日ごろ)より14日早い梅雨明けで、6月中の梅雨明けは1955年(6月24日ごろ)以来です。」
 この引用文に付け足すものは何もない。ただ、驚く表現を心中に浮かべている。アッと驚く為五郎、度肝を抜かれる、びっくり仰天、青天の霹靂などが咄嗟に浮かんでいる。言うなればわが掲げる生涯学習の現場主義である。もちろん、まだたくさんの表現がある。しかし浅学非才、わが脳髄に咄嗟に浮かぶはずもない。あえて付け足すとすれば、この二つある。一つは、梅雨明けの速さである。そして一つは、ほぼ例年みられる豪雨などによる災害なく、すんなりと明けたことである。後者など、こんなに早く暑い真夏が来たと言って、恨んだり嘆いたりすることはない。いや、思いもよらない吉報であり、この上ない天の配剤すなわち天恵である。
 このところの習癖、私は二度寝にありつけず仕方なく起き出してきた。現在はいまだ五時前である。それゆえ、執筆時間は焦ることなくたっぷりとある。しかし、それをいいことにしてこの先、駄文を連ねることは野暮である。寝床にとんぼ返りをしても、たぶん悶々とするだけであろう。引用文そして駄文は、これでさらばである。ならば、道路の掃除、さらには草取りの後片付けでもしよう。梅雨が早々に明けて、一足飛びに快い夏の夜明けが訪れている。

夏の朝風

 きのう(六月二十六日・日曜日)、どこかしこ局のテレビニュースには、日本列島各地の猛暑報道があふれかえっていた。街頭インタビューに応じる人々は、異口同音、みずから感じた猛暑ぶりを伝えていた。もちろん顔面は違うけれど、これまたみな同様に辟易顔をさらけ出していた。私は涼しい顔で茶の間のソファにもたれて、それらに見入っていた。気象庁は気温の高さを基準にして、こんな暑さの指標を定めている。
 「熱帯夜:夜間の最低気温が25度以上。真夏日:昼間の最高気温が30度以上。猛暑日:昼間の最高気温が35度以上」。
 気象庁はまだ決めかねているけれど、私は自分勝手に「酷暑日」(昼間の最高気温が40度以上)という、指標を設けている。これらの指標は気温を基に定められていて、人みなそれにしたがって暑さの程度を感じ取っている。これら科学的指標とは異なり、人体まちまちに体感的に感じる暑さの程度を表す言葉は、人それぞれにさまざまある。私はソファにもたれながら浮かぶままに、それらを脳髄にめぐらしていた。言うなれば浮かぶままに私は、語彙(ごい)の復習をめぐらしていた。わが凡庸な脳髄が浮かべるものは、おのずからごく限られている。もちろん、暑さの程度も確かなものではなく、浮かんだ言葉のごちゃまぜの羅列にすぎない。極暑、酷暑、猛暑、激暑、炎暑、炎天、灼熱、暑熱、真夏、盛夏、暑中、残暑、日照り、蒸し暑い、うんざりする暑さ、さらに暑さが誘引する熱中症を加えても、ざっとこれくらいである。頭脳明晰な人であれば、まだまだたくさん浮かべるであろう。
 確かに、うんざりする暑さを浮かべたけれど、不断の私は、太陽(光線)を悪者呼ばわりしたことなどたったの一度さえない。いや逆に、心中では「日光、日光!」と呪文さえ唱えて、崇め奉っている。すなわち、私にとって太陽の恵みは無限大である。私は太陽には憎さはないけれど言葉の綾として対比して用いれば、憎さ百倍いや無限大の憎さを感じるのは地震である。
 ふるさと県・熊本は、きのう震度5程度の地震に見舞われたという。このところの日本列島は、各地に地震が頻発している。確かに、太陽の暑熱と地震を対比するのは愚かであろう。太陽の暑熱はいっときの我慢、一方地震は生涯の恐怖である。
 きょう(六月二十七日・月曜日)、夜明けの天上、空中、地上には、まばゆいほどに清々しい朝日(太陽光線)が光っている。きのうに続いてたぶん、日本列島のどこかは猛暑日を超えて、わが造語酷暑日あたりまで気温が上がるであろう。たとえそれが鎌倉地方であっても、私は「なんのその…」と嘯(うそぶ)くくらいで、もちろん憎みはしない。ただ、「日光、日光!」と唱える呪詛は、一時停止の憂き目を見るかもしれない。暑い昼間があるからこそ、余計夏の朝風は心身に沁みて、すこぶる快いものである。もちろん、負け惜しみではなく、わが本音である。

起き立ての過ち

 六月二十六日(日曜日)、梅雨明け間近かな? と思わす、日本晴れをしたがえた朝日が照り輝いている。このことではたぶん、昼間の日本列島の各地は、真夏日(気温三十度以上)、あるいは猛暑日(気温三十五度以上)に見舞われるであろう。気象という自然界の営み、いや言葉をいくらかの悪意を持って変えれば、仕業(しわざ)であるから抵抗のしようはない。だから、「泣き寝入り」という、言葉を添えてみたくなる。
 一方、真夏日や猛暑日なく冷夏であれば、それはそれで夏らしくなく、夏の季節を好む私は、大慌てになり戸惑うであろう。実際にはこのところわが夏好きは、四季の中にあって冬のみを後塵に拝するほどまでに、順位を下げつつある。それは、夏好きの基を成していた「内田川」における水浴びや水遊び、かつまた、ひんやりとした蚊帳吊りの中の寝床の感触、さらにはよだれたらたらに連日ありついていた西瓜食いの情景など、今や夢まぼろしのせいである。
 現在、窓ガラスは網戸に替えている。このため、夏風それともまだ朝風と言うべきか、心地良い風がわが身を潤し、そして慰めてくれている。このおかげで、沈みがちだったわが心身は、現在いくらか回復途上にある。さて、わが「最後の晩餐」は、この先いつ訪れるであろうか。できれば、わが大好物の赤飯の食い仕舞(じま)いを願っている。このところの私は、身体不良かつ精神不調に見舞われている。だからと言ってもちろん、それらのせいではなく、浅学非才、もとよりわが凡庸な脳髄のせいである。すなわち、このところ書いている文章にミスが目立っている。きのうの文章ではとうとう、アナログをアナグロと書いてしまい、訂正すら怠っていた。苦しんで書いて、大恥をかくようでは、書かないほうがいい、いや死んだほうがましである。
 きのう恥さらしといくらかの反省を込めて、きょうは休養を決め込んでいた。ところが、いつもの起き立ての書き殴りに誘われて、書いてしまった。表題は、「起き立ての過(あやま)ち」でよさそうある。だから、この先は、書き止めである。夏風を装う朝風は、味方となってわが気分を癒している。「日光、結構、コケコッコウ」、使い方を間違えたかな? 電子辞書を開いた。「ない」。ミスが絶えない、悩みが増幅した。

「バカは死ななきゃ治らない」

 六月二十五日(土曜日)、眺望全開、朝焼けの夜明けが訪れている。私は、今なおアナグロとデジタルの違いがわからない。私には、焼きが回っている。普段、よく使う日常語だけれど、電子辞書を開いた。
 「焼きが回る:①刀の刃などを焼くとき、火が行きわたりすぎてかえって切れ味がわるくなる。②年をとったりして能力が落ちる」
 かつての私は、紙の辞書を使っていた。ところが現在は、それは書棚のお邪魔虫へと、成り下がっている。あんなにお世話になったことをかんがみれば、何かしらの供養をしてもいいはずである。書棚を棺桶と置き換えれば、線香に火を灯し、しばし合掌でもすれば気休め、いやいくらかの恩返しにはなるだろう。紙の辞書を断った現在は、電子辞書とスマホ搭載の辞書にすがっている。紙に比べて、後者の使い勝手の良さは格別である。後者・二つの比較では、共にどっこいどっこいである。いや、語彙の学びを生涯学習に掲げている私の場合は、スマホのほうがいくらか優れものである。中でも漢字を学ぶには、スマホのほうがかなり好都合だからである。ずばり、スマホの場合は、書き順をスラスラと示してくれることである。紙と電子の違いが、アナログとデジタルの区分けなのか? 私は、 わが脳髄の貧弱さに呆れかえっている。
 バカのついでに、こんな自問を試みる。目に見えないもので、大切なものは何だろうか? 容易に答えにありついた。それは「心」である。また、電子辞書を開いた。
 「心:①人間の精神作用のもとになるもの。また、その作用。②知識・感情・意志の総体。からだに対する」
 「体」は目に見えるけれど、見えない「心」はいったいどこにあるのだろうか? 私は文章の中でよく、「心中に、胸中に、あるいは脳裏に」浮かべてなどと、書いている。まるで、胸あるいは脳裏(頭)と同様に、心中すなわち「心」がからだの中に実在しているような書きぶりである。しかしながら実際には姿なく、たちまちこんがらがってくる。起き立ての私は、自覚的に気狂いはしていない。
 梅雨の晴れ間、きのうの私は、ほぼ一日じゅう庭中の草取りをした。百円ショップで買い求めたプラ製の腰掛けに臀部(尻)を下ろし、まるでドンガメの如くにのろのろと前へ進んだ。このときの私は、「心中、胸中、脳裏」どこでもいいけれど、こんな馬鹿げたことめぐらしていた。すなわち、人間の究極の平等は、年をとること、死ぬことである。一方、人間の究極の不平等は、富裕者(お金持ち)と貧者(貧乏)に分かれることである。このことではまた、馬鹿げたことが、「心中、胸、脳裏」に、浮かんでいた。
 お金持ちは手厚い看護を受けてこの世におさらばできるけれど、貧乏人は野垂れ死の如くでおさらばである。結局、これらのことを書くために私は、だらだらと長い文章を書いたことになる。「バカは死ななきゃ治らない」。とことん、バカな私である。このところは、書くに堪えない、読むに堪えない文章が続いている。
 梅雨時とはいえ、自然界の恵みべらぼうにある。なかでも、のどかな朝日は快いものである。ひるがえって人間、とりわけ私は、煩悩(ぼんのう)丸出しである。こんなバカな文章、いたく苦しんでまでして、書かなきゃよかったのかもしれない。わがお里の知れるところである。