ひぐらしの記
前田静良 作
リニューアルしました。
2014.10.27カウンター設置
寝起きの述懐
もとより文章は、私には手に負えない難物であり、もちろんその作業は、とことん難儀である。それなのに私は、寝起きにあっての脳髄の駆動未だしの中で、なおさらには朝御飯支度前の限られた短い時間にあって、せっつかれた気分で書いている。おのずから殴り書きと走り書きという、悪文の見本を成す体たらくの状態で書いている。
「ひぐらしの記」を書き始める前の私は、昼日中にあっていくらかのネタをめぐらし、たっぷりとある時間の中で書いていた。だからと言って、文章の出来不出来にはそう変わらないところはある。そうではあっても現在の私は、当時の遣り方に戻りたい心境にある。ところが今やそれは、夢まぼろしである。いや、どうしゃちほこだっても、一向に叶わぬが空念仏へなり下がっている。こんな短い文章さえにも、苦心惨憺を強いられている。結局、弁解の余地ない、わが無能力の証しである。
寝起きにあってきょう(三月十日・木曜日)もまた、とっくに夜が明けている。またもや、階下へ向かって、二段跳びいや三段跳びの訓練が強いられる。足を滑らしては、元も子もない。挙句には痛々しい妻に代わられて、私自身が介助をされる憂き目を見そうである。
春はあけぼの、春はおぼろ、春は朝ぼらけ、窓ガラスを通して、春霞がのどかにたゆたっている。
平和
夜明けの後に起き出してきた。すると、朝御飯の支度のために、文章を書く平常心と時間を失くしている。おのずからあわてんぼうとなり、二段飛びで階下へ下りる。わが体たらくぶりが身に沁みる。
自然界は、のどかな朝ぼらけを燦燦とそそいでいる。自分の失態などなど何のその! 「平和」のありがたさをかみしめている。地球には平和を渇望しても叶えられない多くの人間が住んでいる。たった数人の無法者のせいで! たぶん、平和のありがたさを知らない無礼者であろう。そうであれば、声なき声で、平和の尊さとありがたさを伝えなければならない。寝坊助を悔やんで、メソメソなどしてはおれない。わが身を潤す確かな「平和」が、わが身に沁みる。
「嗚呼、無情」
自然界の恵みを享(う)けて、暖かい春が来ている。ところが、人類の住む世界には、まったく気分を緩めようのない閉塞感が渦巻いている。大きく出たけれど、もちろんわが個人の閉塞感もまた、身に沁みて果てしない。このところの人間界は、新型コロナウイルスとの闘いは別として、やることなすことのすべてが、自壊現象を呈している。
もとより人間の知恵は、「生きとし生きるもの」の中にあって、最も優れて称賛すべきもののはずである。ところが、現下の世界事情を見るかぎり、人間の知恵は浅ましさばかりを露呈している。なんたる! 無様だ。大国の驕り、独裁者の高慢、横行闊歩の状態にある。
科学に疎い私と妻の茶の間における、のどかにひなたぼっこ中の会話の一つである。
「パパ、だれが核を発見したの? その人、ノーベル賞をもらったの?」
「俺は知らないよ。馬鹿な人だね!」
人類に有意義をもたらす新発見は、使い方、使う人によって、みずからを滅ぼす矛(ほこ)となるだけで、盾(たて)にはなりにくい。このところの私は、日々、この矛盾(むじゅん)をまざまざと見せられている。
きょう(三月八日・火曜日)の表題は、雨模様の夜明けの空を眺めながら、「嗚呼、無情」と、決めた。「無常」でないのは、人類があまりにも情け無いから、文字どおり「ズバリ、無情」としただけである。
啓蟄
三月七日(月曜日)、例年だときょうあたり、カレンダー上に「啓蟄」の添え書きがある。ところが昨年末にあって私は、百円ショップでわが毎年愛用のちっぽけな卓上カレンダーを買いそびれている。私は一年間しかもほぼ毎日、見入るカレンダーを買い惜しむほどケチな愚か者ではない。何度か、馴染みのお店に足を運んだ。そのたびに出合えず、空振りを食らったのである。
愛用とは不思議な心理状態である。同じようなものがたくさん並んでいる中にあっても、愛用しているものに出合えなければ、買いの手は伸びない。もちろん、買いそびれたわけではない。たかが、カレンダーだ! だからそののちは、意識して愛用の卓上カレンダー探しを見送っていたのである。
そのため、寝起きにパソコンを起ち上げると、私はたちまちその祟(たた)りを被っている。実際の祟りは、「啓蟄」をきょうあたりと、言う始末である。私は手間をかけて、パソコンの検索機能にすがった。けれど、わからずじまいである。挙句には業を煮やし、こんな体たらくの文章を書く羽目になっている。
出端(でばな)をくじかれて、気分が乗るはずはない。それゆえに、この先の文章は打ち止めである。地中の虫けらさえ蠢(うごめ)き出す好季節にあって、私は憂鬱気分に蹲(うずくま)るばかりである。ほとほとなさけないが、「捨てる神あれば拾う神あり」。祟りを食らって濡れている心中は、のどかな朝ぼらけが乾かしてくれそうである。もちろん、こんな文章には表題のつけようはない。されど、つけなければならない。ならば、先人の知恵すなわち、季節のめぐりを確(しっか)りとあらわす、「啓蟄」でいいだろう。啓蟄は、きのう、きょう、あした、いったい? いつだろうか。いい加減な文章を書いて、ほとほと恥じ入るばかりである。
春先、今どきに偲ばれる懐郷
寒気の緩んだ寝起きにあって、子どもの頃へ思いを馳せて、浮かぶままに春先、今どきの当時の郷里(行政名・熊本県鹿本郡内田村)の田園風景をかぎりなく偲んでいる。懐かしい風景には甲乙をつけがたく、それぞれが横に並んで「イの一番」をなして、心いっぱい懐郷に浸っている。
連山を成す遠峯にたなびく春霞。里山の「相良山」すれすれに浮かぶ白雲。水温み出す「内田川」に煌めく陽光。裏の畑を緑いっぱいに埋める高菜の繁茂。川岸に萌えるヨモギ、川セリ、川ヤナギ。道端、農道脇、なおその周辺の田畑を黄色に彩る菜の花。それらに、のどかに飛び交うモンシロチョウ。畦道に萌え出る、スギナ、ツクシンボ、ギシギシ、スカンポ、ノビル。母手作りの草(ヨモギ)団子。わが家の裏に流れる内田川へ、小走りで向かった魚釣りの楽しさ。冬衣を脱ぎ薄手の農着に着替えて、笑顔が弾む父と母の姿。どれもこれもがわが生涯にあって、ちっとも褪せそうにない懐郷の数々。
わが子どもの頃の日本の国は、太平洋戦争終戦(敗戦)後の復興期の初っ端だった。人間はなぜ、戦争なんかするのだろう。現下、異国の春が、つらく思いやられている。
【領土】
三月五日(土曜日)、きのうに続いてまったく面白味のない文章を書き始めている。実際のところは、わが失念を恥じ入る文章にすぎない。きのうの文章にあって私は、心中に浮かぶままに「土地」にかかわる言葉を羅列した。このことの本意は、人間社会の生活基盤における土地の大切さと、一方、土地にからむ争いの醜さを浮かべてのことだった。現下の世界事情にあっては、かつて教科書で学んだ独裁者政治の再現をリアルタイムに見せつけられている。
実際にはロシアの「ウクライナ侵攻」がメディア、主にテレビニュースを通して伝えられてくる。いやおうなく私は、その残酷さを食い入るように観る羽目となっている。すなわち、私は人間なかんずく独裁者政治の浅ましさと惨たらしさを見せつけられている。するとその感慨は、人間とはこれほどまでに愚か者なのか! の一語に尽きる。
天変地異の織り成す惨たらしさは文字どおり恐ろしく、そのたびに恐懼するばかりである。そして、わが人生行路においてもこれまで多く体験し、さらにはメディアを通して災難を飽きるほど見聞してきた。確かに、天変地異には恐ろしさに加えて、無抵抗の虚しさと諦めが同居していた。これと違って人間の為す独裁者政治には、浅ましさと諦めきれない虚しさが同居し、?がしようなくこびり付いている。これこそ、両者の大きな違いである。
さて、きのうの文章にあって私は、肝心要のこの言葉を失念し、外してしまった。「後悔は先に立たず」。みずからを詰り、恥じ入るばかりである。その言葉は「領土」である。それは、土地にかかわる言葉としてはイロハの「イの一番」とも思えるものである。だから、わが罪滅ぼしに、手元の電子辞書を開いた。
【領土】「①領有する土地。②一国の主権を行使し得る地域。一国の統治権の及ぶ範囲。広義には領海・領空を含む。」ロシアは主権を行使、かつ統治権を失いたくないための戦いなのであろうか。ロシアに主権が有るや無しや、戦う是非が有るや無しや、もちろん私にはまったくわからない。ただただ、独裁者の意固地の面相を大写しで観ているだけである。独裁者が独りよがりに強面(こわもて)に演じるバラエティーまがいの悲劇は、見飽きてもう観たくない。「領土」という言葉、いやそれ自体には、人間のエゴイズムの醸す、切ない響きがある。
ようよう結文にたどり着いたけれど、私自身、ちっとも面白味のない文章である。春の日は、のどかな夜明けをもたらしている。
ケチなわが考察
三月四日(金曜日)、寝起きにあって「ウクライナ侵攻や紛争」を鑑み、私は柄でもない思いに取りつかれている。確かに、人間にとって土地は、あらゆる生活の大切な基盤である。そしてそれは、個人、法人、もちろん国家においても、一様に揺ぎ無い基盤である。
さて、土地にかかわる名称を浮かぶままに記してみる。これらとてほんの僅かなものであり、おのずからわが知識の限界を知ることとなる。まずは所有者やそれらの権利においては大雑把に、私有地、民有地、国有地などが浮かんでくる。古来、これらに絡んで大小さまざまな紛争や、もしくは大戦争が引き起こされてきた。このことでは土地は、それぞれのレベルにおいて大切な生活の基盤ゆえに、一方ではいっそうのっぴきならない悪の根源でもある。
もっとも卑近なところで隣近所の諍いの多くの基は、私有地すなわち宅地(区画)争いに絡んでいる。さて、国レベルであれば、わが薄弱な知識ではこんな言葉が浮かんでくる。すなわち、領地、領海、領空、さらには地上権、地中権、空中権などである。そして、国レベルの紛争や戦争は、総じて国土とそれにかかわる権利の奪い合いと言えそうである。
いまさらながらにこんな幼稚なことを復習したり、あらためて学習するようでは、とんでもないわが恥さらしである。そうであっても私は、現下のロシアのウクライナへの侵攻や互いの紛争、高じて戦争にでもなれば、土地(国土)争いの原点を見ているようでもある。私自身、こんなことを書いてはちっとも面白くない。しかしながら、人間にまつわる浅ましさを日々、シネマスコープで観ているようであり、書かずにおれないところがある。
国境という、国の宅地(国土)は、いったいだれが決めたのか? もちろん私は知るよしない。国境や国土という区画の割り当てがあるから、必然的に人間の知恵は、後先考えずに破天荒な「武器」をわれ先に生み出すのであろう。ところが、恐ろしいことにこの知恵は、今や天上に輝く星(無限の星空)の取り合い、奪い合いまでに加速度を強めている。やがて私は、人間から離れて、地中の骸(むくろ)となる。そのとき初めて、(おれは、人間から離れて幸福だ!)と、うそぶくようではなさけない。生存中の幸福は案外、「土地」離れがもたらすのかもしれない。
結局、人間とは醜い人の集団と言えそうである。いや、為政者だけなのかもしれない。あほらし! 人間であればこぞって、のどかな春の訪れに酔いしれたいものである。
「ひな祭り」(桃の節句)
三月三日(木曜日)、私のみならず人心に潤いを恵む、「ひな祭り」(桃の節句)の夜明けが訪れている。春三月にあって幸先の良い、日本社会の二十四節気の一つでもある。確かに、寝起きのわが身体からは、寒気が一切遠のいている。私はこんな状態をどれほど長く、待ち焦がれてきたものか。寒気が去って、この上ない喜悦の心境にある。
こんな様変わりの恩恵にあっては、文章が最も書き易い季節の到来でもある。ところが実際のところは、心象を「意馬心猿」にかき乱されて、文章が書けない。心中に出没する両者の実像は、馬にたとえれば「新型コロナウイルス」であり、猿にとえれば「ウクライナ紛争」と、言えそうである。そしてどちらも、攪乱とまでは言えないまでも、わが心象をかなり困惑に陥れている。困惑度の予感は、限りあるわが大切な余生を汚し、台無しにしそうな恐れである。自力ではまったく抵抗できない事変にたいし、心中を乱された挙句、こんな弁解をつぶやく羽目になるのは、まさしくわが愚の骨頂の極みである。確かにそのことは、とくと自認するところである。しかしながらテレビに向かってリモコンすれば、私はいやおうなく双方の報道の渦の中に放り込まれている。すると、朴念仁では済まされず、おのずからわが心中は塞ぎ込むばかりである。命の儚さは、観るに耐えがたく、聞くに忍びないものがある。
馬鹿じゃなかろうか! さて、私はささやかな抵抗として、買い置きの「雛あられ」を間髪容れずに口中に運んで、憂さ晴らしと心の癒しの試しをするつもりでいる。書かずもがなの、ネタ切れの駄文を書いてしまった。つまりは「意馬心猿」にかき乱されて、なさけないつぶやきの文章仕立てである。
きょうから、春三月
三月一日(火曜日)、正真正銘の春が来た。その皮切りの夜明けを迎えている。体感温度と気温は、様変わりに緩んでいる。このことを記すだけできょうにかぎれば、多言や長い文章はまったく不要である。確かに、わが心身は、沸々と喜びにあふれている。
過ぎ去ったこの冬の日本列島にあって、多雪地帯や地域は史上最高あるいは最多の豪雪に見舞われていた。わが身体は、寒さでブルブル震え続けていた。わが齢(よわい)八十一年にあって、際立って寒い冬だった。しかし、まったく抵抗できない自然界現象ゆえに、私は手をこまぬいて寒さに耐え続けていた。
わが知恵のほどこす唯一の抵抗策は、冬防寒重装備の着衣と、寒気を遮る羽毛の冬布団と、さらには厚手の毛布を重ねた寝床だった。それでも、例年にない寒さは、日々わが身体のみならず精神を脅かし、懲らしめ続けた。もちろん、必死に耐え続けた。それでも、寒気とつらさが骨の髄まで沁みた。自然界現象に、恨みつらみはご法度(はっと)だし、ひたすら耐えざるを得なかった。
ところが、きょうからの春三月の訪れは、早やこれまでの寒気を棒消しにしそうである。とりわけ、春三月初日の現在の体感温度と気温は、重ね着を一枚脱いでみたけれど、なお暑苦しさを感じるほどの様変わりようである。時ならぬなごり雪や、寒気のぶり返しは真っ平御免だけれど、私は春三月の訪れに気分良く酔いしれている。しかし、好事魔多し。なかんずく、天変地異の恐ろしさは、とくと肝に銘じている。
春三月初日の朝日が満天に輝き、のどかに地上にそそいでいる。多言は弄してはいないけれど、むやみに長く書きすぎたかなと、恥じ入るところはある。
無味乾燥、会話を失くしつつある人間社会
現代の世と未来の世は、人間にとって途轍もなく住みにくく、生きにくくなるであろう。わがケチな実感と推測である。当たらぬも八卦当たるも八卦、幸いなるかな! わが身には、犬の遠吠え程度でさしたる影響はない。しかしながらこの傾向に加速度がつけばやはり、余生短いとはいえまったくの無傷には済まされない。現に、かなりの影響を日々被りつつある。住みにくく、生きにくい世の中をもたらす張本人となりそうなのは、あにはからんや! 人間の知恵や知能がもたらすITやAIなどの人工の技術開発とその進歩発展などによるだろう。これらによっておのずから人間社会は、人間自体の変質や変容がもたらされた挙句、本末転倒にもそれを成す人間が住みにくさや生きにくさの火の粉を浴びそうである。
目覚めて起き出し現在、私はわが柄でもないことを書いている。きょうは二月の末日(二十八日・月曜日)、春三月を前にして私は、早や春ボケ状態にある。現下の新型コロナウイルス禍にあってわが日常の外出行動は、主に粛々と大船(鎌倉市)の街における買い物に限られている。買い物行動にあって私は、買い物コースの店のそれぞれに、レジ係の人との顔馴染みを心掛け、それによる交互の一声の掛け合いを楽しみしてきた。言うなれば交互で無言のままではわが楽しみがなく、そのため私は意識してそれを避けてきた。確かに、交互一声でありそれは、「こんにちは」「ありがとうございます」の掛け合いにすぎない。レジ客が私だけの場合は、あまのじゃくにも短く、「お元気そうですね」の言葉を重ねていた。「情けは人の為ならず」。もちろん、私自身の気分が和むための、身勝手な一声の実践にすぎない。いやこれには、私自身の小粋な計らいもある。すなわち、ベルトコンベヤー装置における流れ作業の如くに寸分も空けずに、かつ無言でレジを打つだけでは、(多分、面白くないはずだ!)という、わが余計な配慮がともなっている。
互いに気分の和む会話は、人間社会における最大かつ最良の楽しみであろう。ところが現下の人間社会は、日に日に会話が殺がれる状態にある。そしてこの傾向は、未来いやほんのこの先に向かって、加速度を強めるであろう。卑近なところではスーパーや店舗などのレジ風景は、一足飛びに様変わりを続けている。実際のところは、人間疎外(不要)の端末機一辺倒になりつつある。あまりの変わりようで戸惑い、その場に立ち竦んでいると、監視員いや指導員らしき人がにわかに闖入(ちんにゅう)してきたて、無言で端末機に触れて足早に去っていく。支払い方法を教えていただいたことや、支払いの加勢をしていただいたことにたいし、礼を言う暇も会話もなしに去ってゆく。
私にとって身近なところで、日々体験するつらい一幕である。結局、かぎりなく会話をなくしつつある間社会は、日々虚しさと寂しさを強勢し、増幅するばかりである。もちろんこんな世で、あっていいはずはない。ITやAI社会は、いずれはしっぺ返しを被るであろう。いや私は、早いとこ「それを」望んでいる。