ひぐらしの記
前田静良 作
リニューアルしました。
2014.10.27カウンター設置
文章に「適当な言葉探し」
私は、掲示板上に行替えなく、長い文章を書いている。しかも硬い文章で、さらにはまったく面白味に欠ける。高校時代の最良の友人は、
「しずよし君の文章は、目が疲れるから、悪いけどもう読んでない。御免な!」
「そうだよね。読みづらいから、こっちこそ、御免!」
もとより、この会話を最後っ屁にして、友情が途切れたわけではない。青春時代に築いた友情は、いっそう深くかつ強まるこそすれ、こんな一片の会話で途切れるほどに、共に薄情ではない。しかしながら友人は、ぺこぺこ謝りながら、読者の位置から離れて行った。もとより、ペコペコではわが意に添わず、ひれ伏して謝りたいのは、危うく友情を断ちそうになった張本人の私である。だから、確かな理由があって読者から離れる友人に追い打ちをかけて、「『ひぐらしの記』を読んでみて!」というほどの蛮勇は私にはなく、また阿房や野暮でもない。
もとよりわが文章は、自己都合の生涯学習の脇役にすぎない。主役は語彙の学習である。いや実際には、直近も含めてこれまで数えきれないほど繰り返し記してきた、語彙の忘却逃れと復習である。それゆえ、心中に浮かぶままの漢字と成句の多用を試みている。おのずから、ぎこちない文章へと成り下がり、自認せざるを得ないものである。
さて閑話休題、いっとき勢いを殺いでいた新型コロナウイルスの感染状況はこうである。【全国で4万9266人の新規感染確認 前週金曜を約1800人上回る】(4/2・土曜日、 1:26配信 朝日新聞デジタル)。「新型コロナウイルスの国内感染者は1日、午後8時現在で新たに4万9266人が確認された。前週の同じ曜日(3月25日)よりも約1800人多かった。死者は78人だった。東京都は全国最多の7982人で、前週の金曜日から693人増えた。1日までの1週間平均は7628・9人と前週(6275・4人)の121・6%で、4日連続で100%を超えた。年代別にみると、最多は20代の1806人で、30代の1410人、40代の1345人、10歳未満の1151人、10代の1029人と続いた」。
数値など覚えきれないニュースを引用したけれど、わが真意は以下のたったこれだけである。すなわち、「鳴りを潜める」の反対語は、「ぶり返し」かな? という、適当な言葉探しであった。つまり文章は、文脈に合致する「言葉探し」である。きょう・四月二日(土曜日)の文章は、このことを書くために配信ニュースを引用したり、無駄に長々と書いたにすぎない。確かに自己都合の代物であり、人様にはまったく面白味なく、目が疲れるだけの文章である。義理読みにすがっているけれど、なんだか私は、みすぼらしい人間である。わが嘆きなどつゆ知らず、夜明けののどかな朝日は、わが切ない心情を癒している。
出会いの月・四月を迎えて、感慨と慨嘆
四月一日(金曜日)、そぼ降る雨の夜明け前にある。なぜ? 歳月はこうも速くめぐるのか! 別れの月・三月は、またたく間に過ぎた。きょうを初日にして、出会いの月・四月を迎えている。学び舎の式典になぞらえれば「卒業式」を終えて、今週あたりを先途にして「入学式」が営まれる。社会人にあっては、人事異動による「別れの儀式」を終えて、きょうあたりから新たな勤務先での、出会いが始まることとなる。この状況を一つの言葉を用いれば、「赴任」が浮かんでくる。別れの月と出会いの月にからむ人情と心情にたいして、これまた一語をあてれば、ずばり「悲喜交々」が浮かんでくる。これらのことでは一年の中で三月と四月は、文字どおり最も悲しみや喜びの感情があふれ出る、人間心理のありのままの露出の月と言えそうである。これすなわち、四月を迎えてのわが「感慨」である。いや、歳月の速めぐり(感)に囚われている私の場合は、言葉を変えて「慨嘆」が適当である。
このところの日本国民は、諸物価の値上げ攻勢の渦の中にある。もちろん、私もその渦中にある。しかしながら私の場合は、それを超えた嘆きにとりつかれている。その元凶は、先に記した歳月の速めぐり(感)である。確かに私は、諸物価の値上げを超えて、それに音(ね)をあげている。時あたかも好季節にあって、老いの身の悲しさ、これに尽きるところがある。じたばたしてもどうにもならないことに、「七転八倒」さながらに心を悩ますのは、わが生来の性癖、いやズバリ悪癖である。「バカは死ななきゃ治らない」。わが身に照らし、限りなく切ない成句である。
出会いの月・四月の船出は、夜来の雨の夜明けである。桜雨、これまた切ない。コロナ、戦雲、あるいは地震、人間は生きることの難しさに耐えている。わが身のみならずあまねく人間に、私は四月の月の無事を願うところである。
起き立の自省文
知りすぎている同音異義の言葉の辞書調べを試みた。それらの言葉は、「特長と特徴」である。特長:特にすぐれたところ。特徴:他と異なって特別に目立つしるし。なぜいまさら、だれもが知りすぎている二つの言葉の辞書調べをしたかと言えば、こう書こうとしたからである。「走り書きの特徴は、文脈の乱れを生じることである。書き殴りの特徴は、だらだらと長い文になることである。」
あらためてご常連様各位に教えを乞うたり、指摘を被ったりするまでもなく、わが日々の実体験ゆえに、まったく間違いないところである。どちらも文章を綴る私にとっては、甲乙なしに恥ずべきことである。しかしながらあえて甲乙をつければ、文脈が乱れがちになる走り書きが、イの一番に恥ずべきことである。「」(かっこ閉じ)の文章には、もとより「特長」を用いることはできない。なぜなら、文章自体が誤りになるからである。一方、「特徴」を用いれば、必ずしも誤りではなく、いや案外、適語と言えそうである。それでも、わが本意を伝えるにはまだすっきりしないところがある。それゆえに私は、脳裏に代替語を浮かべてみた。しかし、数々とかさまざまとか、とは書けない。なぜなら浮かんだのは、やっとこさたった一つにすぎないからである。
実際の言葉は、「悪因」である。もちろん、この言葉がぴったしカンカンではなく、煮え切らない半煮え気分である。言うなれば、わが語彙力の限界の証しでもある。「特徴」に変えて「悪因」を用いて、先の文章の再掲を試みてみる。「走り書きの悪因は、文脈の乱れを生じることである。書き殴りの悪因は、だらだらと長い文になることである。」わが生涯学習は、ほとほと切ない。いや、はた迷惑と、言えそうである。
わが文章の悪癖は、硬く、かつまったく面白味に欠けることである。なさけないけれどなんだかこの文章は、わが本意に適って、ぴったしカンカンである。わが最も嫌う文脈の乱れもなさそうである。たった一行の短文にさえにも乱れるようでは、もとから文章など書かないほうがましである。
起き立てがしらに、自省の文章を書いてしまった。もちろん、走り書き文である。だから、文脈の乱れが気になるところである。憂いの気分癒しに春霞のどかにたなびく、夜明けの大空をしばし眺めている。しかし、憂いの気分は癒されるどころか、いっそう深まるばかりである。文章を綴ることは、脳足りんの私にはもとより、千鳥足をともなう重荷である。
天賦、人間の情感
三月三十日(水曜日)、夜間にあって桜雨が降ったのであろうか。夜明けにあって、道路が濡れている。花に小嵐は遠のいて、のどかな花日和が訪れている。山の法面に一本、染井吉野がほんのりと咲いていたけれど、惜しむらくはおおかた花の姿を失くし散り急いでいる。手植えの染井吉野の上方、すなわち山の天辺あたりには、時あたかも山育ちの山桜がわが世の春を謳っている。一本の染井吉野は、防災用にコンクリート壁の埋め込みがあったおり工事人にたいし、私がたっての願いですがったものである。人の手がなした桜木と、山育ちの桜木の生命力の違いを、まざまざと見せつけられたようでもある。だから余計、染井吉野の散り際には、なおいっそう哀惜感極まりないものがある。古来、桜の花はよく、人間の命になぞらえてきた。いや、人間の命が、桜の花になぞらえてきた。「花ののちは短りき」。だから、人の命の裏返しでもある。
きのうの文章において私は、桜の花にまつわる言葉を説明無用に羅列した。もちろん、単なる羅列ではなく、私はそれぞれに言葉を発して、心中にはその意味をめぐらした。なぜならそれは、生涯学習と銘打っているための、常なるわが独習のならいでもある。するとそれぞれの言葉は、陳腐なく新味の情感や情趣を恵んでくれた。もちろん興趣ばかりではなく、一段と悲哀のつのる情感をも醸しだした。確かにそれらは、古来、人間が情感を織りなし、それぞれの情感で紡ぎ出してきた言葉の神髄の証しを成していた。それゆえに羅列した言葉だけに尽きるものではなく、もちろんほかにも無数の言葉が存在する。
結局、桜の花にたしてのみならず、人間の情感は、悲喜交々の感情や人情を織りなして、人間だけに与えられた崇高の宝物である。このため、人間固有の情感を失念しては、損々いや大損である。もちろん、散り急ぐ桜の花にたいしても、人間の切ない情感が渦巻いている。まして、花を蹴散らす桜吹雪に出遭っては、限りない情感が混在する。ただ単に腹立たしさだけではない、哀れみ、愛惜、切なさ入り乱れての情感である。もちろん、泣きべそをかきたくなる情感もなおさらにある。きのうの言葉遊びは、無駄ではなかった。人の命、いや、わが命を顧みる手近な捷径と言えるものだった。案外、桜の花は、わが命をいとおしむ教材なのかもしれない。
書き殴りの結末には、虚しさがともなっている。満開を極めた桜は、いよいよ散り急ぎに向かっている。ただ人の命とは違って、桜の花は一年間の我慢で再び甦る。確かに、人間の命も、後世に託すところはある。しかし、桜の花には似ず、綺麗ごとすぎて潔さはまったくない。散り急ぐ桜の花にあって、つれない桜吹雪は見栄えが良いだけで、まったく御免である。散り際を愛でて、「綿桜」という、咄嗟のわが造語を浮かべている。桜の花にたいする、現在のわが情感である。
日本列島、花だより
きのうの寝起きにあっては、無理やり浮かべたネタをだらだらと、長く書いた。きょう(三月二十八日・月曜日)の寝起きにあっては、目覚めて二度寝にありつけず、皮肉にも現在、脳髄は休眠状態にある。もちろんこれではネタは浮かばず、おのずから短い文章さえお手上げ状態にある。こんなままならない日常を繰り返しながら、幸か不幸かわが人生は、やがていやすぐさま閉じる。
季節のめぐりは現在、絶好の真っただ中にある。きのうのテレビニュースは、東京の桜が「満開になった」と、伝えていた。多分、鎌倉の桜だよりも東京に並ぶはずである。私の場合は「花より団子」である。それでも、それにありつける残りの回数は、すでにカウントダウンに入っている。しかもその回数は、両掌を広げるまでもなく、片手の掌の指だけで十分である。もちろん妻とて、もはや同類項にある。
「パパ。あした、近くの花を見に行きたいね。行きましょうよ。パパは、みたくないの?」
「行ってもいいけど、行けるの?」
「わたし、行きたいのよ!」
「そうか、そんなら、連れて行くよ。おれも、もう何度しか見れないね!」
避けて通れない切ない会話である。介助のつらさがわが身に沁みる。いや、つらさと言ったら身も蓋もない。だから、つらさを悲しさに置き換えてみる。しかし、つらさと悲しさは消えない。なぜなら、現在の介助は、自分自身のちにはだれかに介助されるだろうという、つらさと悲しさを見据えている。すなわち、現在の妻への介助は、のちに私自身が介助されるおりの予行練習を兼ねてもいる。そんなこんなで介助役の私は、妻の一挙一動にわが全神経を凝らしている。
きのうに続いてきょうまた、どうでもいいことを書いた。きょうは、ここで結び文とする。きのうよりちょっぴりましなのは、意識して短い文で留め置くことである。妻のヨタヨタ足を脅かしそうにないのどかな花日和が、夜明けの空にあらわれている。朝日すなわち、「日光、日光!」と唱えて、私にはありがたさの極みにある。
「八百万の神」にあって、私は「疫病神」
三月二十七日(日曜日)、いつものことだけれど寝起きにあってのわが思考は、てんでんばらばらである。ネタ不足は、今や極限態にある。それを映して心中にはこんなこと、いやどうでもいいことが浮かんでいる。身も蓋もないけれどそれを文章にして、私はネタ不足を埋めようとしている。
わが子どもの頃のわが家は、水車を回して精米業を営み、子沢山の生業を立てていた。そのためか両親は、ことのほか「水神(すいじん)さん」を崇めていた。いくら崇めてもご利益にはありつけないことくらい知りつつも、心の支えを願っていたのかもしれない。実際のところは加護などあてにしない、「おまじない」程度のものだったであろう。もとより神様とは、ご利益を求めてひたすら祈り、身銭を切って賽銭を投じても、まったく実益にはありつけないまぼろし(幻)の存在と、言えそうである。そうとわかっていても人間心理は神様の助け、かつ限りない恩恵を求めて、日々神様を崇める心情を絶やすことはない。
これまたわが子どもの頃のわが家の朝の営みにあって、とりわけ両親は、備え付けの神棚を仰いで、深々と頭(こうべ)を垂れては合掌していた。しかし、敬虔な祈り姿ではなく、実際のところは夜明けを告げる「早起き鳥」を真似た、寝起きどきの習わしだったのであろう。何らあてにはならないと知りながら、日常茶飯事における神様すがりは、つまるところ人間の暮らし向きの困難さやつらさの写し絵であろう。そうであればやはり、神様すがりを無下にできないところもある。だとしたらもとより、神様すがりは深入りせず、確かにこんな程度でいいのかもしれない。
【天神地祇(てんしんちぎ)】、すなわち「天つ神と国つ神。すべての神々」。水神さん(水の神)、山の神、海の神(わたつみ)、さらには広く地の神)。
人間の心情の祈りだけに、人それぞれのそれを合わせれば、もとよりすがる神様の数には限りがない。他人様が難癖をつけようはなく、人それぞれに神様すがりは、確かにその程度で十分なのであろう。優しい女神もあれば、胡散臭い男神もある。日本の国には、「八百万(やおよろず)の神」が存在するという。すなわち、数値では表せない数限りない神様が存在する。そして、建前上はどの神様も、人間の味方(加護)を念じてはいる。しかしながら実際には、数々の悪神が混在する。それら、想像上の神様を含めて、卑近なところでわが最も恐れるのは、「疫病神」である。私は、疫病神には取りつかれたくない。いや、私自身が疫病神にはなりたくない。もちろん、そう呼ばれたくはない。ところが、そう呼ばれて、毛嫌いや忌避される恐れは多分にある。私自身が疫病神を成す根源は、生来わが身につきまとう愚痴こぼしとマイナス思考である。このことで人様の気分を著しく損なうことである。それゆえ私自身が、疫病神と自認するところである。
神様にすがっても「八百万の神」いても、だれひとり救ってはくれない。だから、自分自身が「拾う神」すなわち、「助ける神」にならなければ解決しない。これこそ自戒、文字どおり自らへ戒めである。こんなネタ不足逃れの思いつきの文章は、妻はもとよりだれしもそっぽを向くこと請け合いである。すでに私は、人様が忌み嫌う疫病神なのかもしれない。
夜明けの空は、穏やかな花日和である。だからと言って私は、神様のご利益とは言いたくない。のどかな朝日は、自然界が恵む確かな陽ざしである。私はへそ曲がりが高じた、疫病神なのだろうか。切なく、自問してみる。しかし、答えは自分自身ではわからない。しかし、人様へ訊く勇気は、さらさらない。
ああー、童心、ああー、青春
三月二十五日(金曜日)、いくらか寒の戻りをともなって、花曇りの夜明けが訪れている。いよいよ三月の日時は、残り少なくなってきた。これまでどうやら、三月はエンストなしに駄文を連ねてきた。しかしながら、ガタガタゴトゴトゆえに、残り日にあっても突然、エンストを食らうであろう。それは、仕方ないことでもある。なぜならわが文章は、常に生煮えならぬ、ネタ不足を自認するところがある。
わが無能力を棚に上げて弁解気味に言えばそれは、寝起きにあってかつ、朝御飯支度前の制限時間にせっつかれて、ネタ探しをすることなく、書き殴り始めるからである。本当のところは、こんな嘘っぱちなど書きたくはない。もちろん、わがお里が知れるからである。実際には無能力の祟りを食らっているにすぎない。このことこそ、確かにまぎれもなく自認しているところである。きょうの文章は、偶然拾った過去ネタに鑢(やすり)をかけて、ごく短く書くつもりでいる。
さて、合否を分ける受験シーズンは、悲喜交々の光景を映し出してほぼ終了した。学び舎にあって次に訪れるのは二つの式典、すなわち前は卒業式、そして後は入学式である。これまた、それぞれが悲喜交々の学び舎光景である。そしてまず、この時期にあっては、あちらこちらの学び舎がほぼ卒業式風景一色に染まる。かつての広大な「松竹大船撮影所」が閉ざされた跡地には現在、「鎌倉女子大」、「鎌倉芸術館」、「イトーヨーカドー大船店」、そして「BOOK OFF」などが、犇(ひし)めき合って同居している。それぞれの借地なのか、それとも購入済みの所有地なのか? もちろん私は知るよしない。人様の財産にたいして、妬(ねた)ましく下種の勘繰りをするのは野暮でもある。
先日のイトーヨーカドー大船店での買い物のおりに、私は鎌倉女子大の校門前に屯(たむろ)する、女子学生の集団に遭遇した。チラホラ、新調と思えるスーツを着た学生がいたけれど、多くの学生は、ピカピカの羽織袴の姿だった。その所だけは、まさしく花咲く桃源郷の華やかさだった。老い身の私には、眩(まぶ)しすぎるほどに煌(きら)めいていた。しばし佇んで、指を咥(くわ)えて眺めていたい気分だった。しかし気が留めて、コソ泥のごとくに逃げ足を速めて、イトーヨーカドーへ入った。それでも、わが心中には童心と青春時代が快く甦っていた。心を鎮めて、バニラソフトクリームを注文し、ゆっくり舐め尽くし、やおら立ち上がり、買い物行動は開始した。
入学式はいつなのかな? こんどは華やかさ二の次である。しかし、初々しい姿に出遭えば気分良く、またバニラソフトクリームを舐めるであろう。せっかく、いやつかの間の童心や青春時代の甦りに恵まれて、恥を忍んで身を竦(すく)めるのは愚の骨頂である。制限時間が切れて、待ったなしの行動に立ち上がった。書き殴り特有に、わが意に反し、駄文をとめどなく書きすぎたかな! 花曇りは、花日和に変わり始めている。
「太陽の恵み」
皮肉にも彼岸の中日(春分の日)を挟んで春は遠のき、真冬並みの寒気に見舞われて、わが身体はブルブルと震え続けていた。きょう(三月二十四日・木曜日)の夜明けにあって春は、ようやく元へ戻り、大空から空中や地上へ、見渡すかぎりにのどかな朝日をそそいでいる。このところの私は、赤ちゃんの話し始めの一つ言葉のように、「日光、日光!」と、呪文を唱えている。もちろんそれは、太陽光線の恵みを称えて、なお欲深くそれをほしがる心境丸出しの証しでもある。
私の場合、人間として生まれてこれまで、無償の恵みにありつけているものでは、実感的に実益的にも「太陽の恵み」がイの一番である。確かに、恩恵を得ているものにはほかにも、数えきれないほど、いや無限大にある。しかしながらそれらの多くには、金銭というコスト(費用)がともなっている。このことからだけでも私は、常々太陽を崇拝し、太陽の恵みの表れの一つである日光にたいし、かぎりなく感謝の気持ちをあらわにしている。もちろん、なんら反応のない「暖簾に腕押し」の呪文ではあるけれど、承知の助で唱えずにはおれない。
今朝は久方ぶりに「春眠暁を覚えず」という、季節の恵みを堪能し、そのオマケで寝坊した。反面、その祟りもあって、早々と休筆を決め込んでいた。ところが、この決意を覆し、約十分間の走り書きを試みている。その誘因は、目覚めて起き出してみると、寒気は遠のいて、かつ大空は穏やかな日本晴れである。たちまち、わが心中には快い気分が充満した。心勇んで、パソコンを起ち上げた。それでも、この先は書けない。なぜなら、階下の茶の間で、妻がわが朝の支度を待っている。ご常連様各位にたいしては、かたじけなく思うところが大だけれど、「太陽の恵み」を享けて、身勝手にもわが気分は、すこぶるつきの良好である。
寒の戻りと節電要請
三月二十三日(水曜日)、夜明け前。「寒いなあー」。春の恩恵を堪能していたら、飛んだとばっちりを受けている。その一つは、真冬並みへの寒の戻りである。自然界の変事ゆえに抵抗できずに、寒さに耐えて泣き寝入りするしか能はない。もう一つも自然界の織り成す、地震の仕業が根源のようである。だから、これまた抵抗はできない。
実際にはこのたびの地震により、原発の二基が稼働停止に見舞われているという。挙句、あいにくの寒の戻りのさ中にあって政府は、突然の節電要請を呼び掛けている。わが愛国・日本の国の一大事とあれば、もちろんのほほんとしてはおれない。さしずめわが家は、給湯器と便器の温度を下げている。確かに、小さなことながらこれらとて、節電には大事なことであろう。しかし、明らかな節電効果は、電力を多用する諸施設に頼らざるを得ないであろう。
このことで心中に浮かぶのは、あさって(三月二十五日)開幕するプロ野球のナイター(夜間試合)の昼間への移行など、覿面に節電効果があろう。もちろん、赤い灯、青い灯、ちりばめる街中のネオンの減灯や消灯なども、効果覿面であろう。日本国民は新型コロナウイルスの感染防止にたいし、一枚岩を強いられて、こぞって我慢強く対応している。これに、新たに節電要請が加わってきた。よしよし! 日本国民の胆力、すなわち協調性と我慢強さの見せどころである。
それにしても寒いなあー! 泣きべそをかいて、文章は尻切れトンボのままに、書き止めである。朝日(日光)の暖かさを恋い焦がれる夜明けの空である。ところが自然界はそっぽを向いて、花曇りと言おうか、ちっとも朝日の見えない寒空(さむぞら)である。やはり、人間の知恵や、人工の熱源にすがるしか、寒さ逃れの便法はない。
鳥、懺悔、と、愛玩鳥
山からわが家の庭中に飛んで来る鳥たちは、小鳥ではシジュウカラ、メジロが、一日に何度かの常連であり、子どもの頃に見慣れていたスズメは来ない。それゆえ私には、スズメは今や絶滅危惧の恐れのある小鳥に成り下がっている。もとよりスズメは、山に棲みつく小鳥ではなく、田園や河川敷育ちなのであろうかと、思う。子どもの頃には一年じゅう、あんなに馴染みのあるスズメだったのに、ところがそれらに対する愛情ある知識はまったくなかった。いやそれどころか私は、家事手伝いではスズメを追っ払う役割を担っていた。時には畦道にバッタリ(手作りの罠)を掛けては捕り、毛を毟り、焼いて、「旨い、美味い」と言って、ムシャムシャ食べた。だから、どこからでもいい、スズメが群れて飛んで来れば、ひれ伏して謝りたいものだ。さらに私は、わが主食の白米を惜しみなく庭中に放り、深くこうべを垂れて、懺悔と罪滅ぼしをするつもりでいる。ところが、私の恐ろしさをDNAに持つスズメたちは、今なお恐れているのか、まったく飛んで来ない。いや案外、老いてみすぼらしいわが姿は、スズメには「山田の案山子」に、見えているのかもしれない。今なお憎たらしいというより、今やわが切ない愛情をそそげないことには、はなはだ残念無念である。
中型の鳥で飛んで来るのは、ヒヨドリ(鵯)だけである。中型と大型の中間を成すもので、飛んで来るのはコジュケイだけである。どちらも山を塒(ねぐら)とする、野生すなわち山の鳥である。その証しに子どもの頃の私は、双方の生け捕りのためには、奥深い山の中に「罠」を掛けていた。そして、運良く掛かっていると、落ちている枯れ枝を拾い上げ巻きつけて肩に担いだり、片手に下げたりして、わが家へ走った。わが家に戻ると、「延え込み」(川魚捕りの仕掛け)に、ウナギが掛かっていたときのように、母に見せびらかした。そして、父と一緒に裏戸近くで毛を毟り、枯れた杉の葉を拾い集めては、燃やして焼いた。ヒヨドリは当時もそう呼んでいたけれど、コジュケイは「朝鮮雉(キジ)」と、呼んでいた。それがコジュケイという名と知ったのは、あな! 恥ずかしや、ごく最近の学びである。そんなこんなで私の場合は、スズメ同様にヒヨドリとコジュケイにも、罪償いをしなければならない罪作りがある。
ところが妻は、ヒヨドリにだけには阿修羅のごとき面相で、窓ガラスを開けるや否や、憎さ百倍のふるまいをするのである。「コラ!」と、声をあげたり、さらには近くに置く「麻姑の手」を手に取り振りかざし、追っ払うのである。私は「ヒヨドリも、追っぱらわなくていいよ。来てもいいじゃないか。おれは、罪償いのをしたいのよ」と、一声かける。しかし、妻は聞き耳を持たず、すかさず追っぱらいを実行する。
妻の場合は、ヒヨドリが椿の花の蜜を吸うメジロを追い立てる光景に、不断から腹の中が煮え返っているのである。だから、形相を変えた妻の行為は、もはや私には止めようがない。確かに、ヒヨドリさえ除けば、飛んで来る鳥たちのへの妻の優しさは、私をはるかに凌ぐものがある。この頃ではそれは、コジュケイに対する優しさが一番あふれている。茶の間の窓ガラスを通して庭中に下り来るコジュケイの姿を目にすると、リハビリちゅうにもかかわらず妻は、ソファからヨロヨロ立ち上がり、優しさの行動開始である。「危ないから、やめとけ! また、転ぶよ」
これまた、妻はわが声には聞き耳を持たずに、窓ガラスを開けては実践躬行態勢に入る。そして、もう「餌」などとは呼べない、わが主食を成す白米をほどこすのである。買い置きのコメは、ふるさとから購入済みのもったいない今年度産である。その米を妻は、足場を成すコンクリート上に、惜しげもなくぽろぽろと、いや満遍なく落としている。馴染みになった三羽のコジュケイは、今やニワトリ代わりのわが家の家禽である。惜しむところは、時を告げる「早起き鳥」には成れないくらいで、健気にわが老夫婦の日常の癒し役を務めている。大切なコメが日々減るのさえ惜しくなく思えているのは、もはや愛玩鳥を超えて、コジュケイがわが家族の一員を成しているのかな? と、思うところがあるからと、言えそうである。
罪を作った私にすれば、ヒヨドリにもそうしたい思い山々である。しかし、ヒヨドリだけには妻との不協和音が鳴り響いて、いっこうにやまない。確かにヒヨドリは、漢字の成り立ちは、文字どおり「卑しい鳥」すなわち、「鵯(ひよどり)」である。そうであれば私は、妻を「非情」と、罵(ののし)ってはいけない。起き立の長い文章の書き殴りには、ほとほと疲れるものがある。そして、今のところ、表題が浮かばない。