ひぐらしの記

ひぐらしの記

前田静良 作

リニューアルしました。


2014.10.27カウンター設置

内田川(熊本県・筆者の故郷)富田文昭さん撮影

 

ゴールデンウイーク、「みどりの日」

 「みどりの日」(五月四日・水曜日)。朝寝坊にも思わぬ「福」がある。駄弁や駄文は要しない。慌てて起き出して、窓ガラスを覆うカーテンを開いた。日光(朝日)と山が織り成すコラボレーション(共演)を享けて、わが目に緑が眩しく映える。自然界が恵む風景は、もったいないほどの贅沢三昧である。まさしく、自然界が人間界に授ける無償の恩恵である。人間界も、恩知らずではない。恩恵に呼応し、きょう一日を「みどりの日」と名付けて、この風景を賛歌している。これだけで、国民祝祭日としての制定意義は十分にある。もちろんこの恩恵を享けて、人様が近場の物見遊山や行楽、あるいは遠出の遊楽や内外の旅行に酔いしれても、私には一切、恨みつらみはない。正直にあえて、わが心境を吐露すれば、わずかばかりの羨望のみである。それでも妬ましさなどは微塵もなく、私はひたすら往復の無事を祈っている。ただ、朝寝坊で難儀することは、時計の針に急かされて、尻切れトンボのままに文を閉じ、妻が待つ茶の間と、台所へ急がねばならぬことである。こんなでも、みどりの日の私は、幸福である。

ゴールデンウイーク、「憲法記念日」

 進行中のゴールデンウイークは、きょうは「憲法記念日」(五月三日・火曜日)にある。あしたの「みどりの日」(五月四日・水曜日)、あさっての「こどもの日」(五月五日・木曜日)を挟んで週末の日曜日までは、この間の一日(金曜日)に有給休暇を利用すれば、勤務の身の人たちにはまだかなりの連続休日が残されている。ゴールデンウイークと、言われるゆえんである。
 しかしながら勤務の身とて、必ずしもだれもが連続休日にありつけるとはかぎらない。なぜなら人の世は、だれかれなくみんなの支えによって、成り立っているからである。すなわち、みんなが一斉に休日をむさぼることは許されない。たとえ、まわりばんこであっても、必ずだれかの支えが必要である。もとより、自営を生業とする身の人には、ゴールデンウイーク自体が高嶺の花、いや空望みのところがある。
 とっくに職業を離れている私の場合は、「ゴールデン年中」であるため、限られたゴールデンウイークには、ピンのご利益も、キリの実感もない。もちろん、人様のゴールデンウイークに付き纏う旅心は、私には端から遠ざけられている。だからと言って、今や叶わぬ望みにあっては、妬み心もまたすっからかんである。
 ゴールデンウイークなど用無しに、わが普段のごく小さな旅心は、大船(鎌倉市)の街中までの買い物行動にあやかっている。このとき、ちょっぴり旅心にありつけるのは、余儀なく片道二十分あまり、定期路線バスに乗るからである。なんだかなさけないけれど、バスへの乗車が子どもの頃に味わった旅心を、ほんのちょっぴり蘇らせてくれるのである。きのうのテレビニュースは、日本人の外出行動が、新型コロナウイルス流行の前にたいし、全国レベルでは八割近くまで回復(戻った)したと、伝えていた。沖縄県だけには、100%と表示されていた。
 きのうの私は、大船へ買い物に出かけた。すると、この報道を聞く前に私は、買い回りする大船の街における、人出の多さに驚いていたのである。大船の街には、あえて物見遊山に出かけたくなるような、人様を惹きつける呼び物は何もない。それゆえに人出の多くは、私同様に買い物回りであったろう。確かにこのところ、コロナがもたらしている行動障壁は、少しずつ崩れかけているようではある。しかし、遠出の行楽気分は、なお殺がれているのであろう。私にすればいまや他人事とは言え、それでも、陸、海、空の織り成す遠出風景を早く眺めてみたいものではある。
 憲法記念日の夜明けは、のどかに朝日が輝く、絶好の行楽日和である。だけど私には、人様の行楽を羨む気持ちはさらさらない。

喜悦無し、「ゴールデン年中」

 五月二日(月曜日)、二度寝にありつけず輾転反側(てんてんはんそく)を繰り返し、すなわち、寝返りのたうち回りして、仕方なく起き出している。私は、いまだ「草木も眠る丑三つ時(午前二時頃)」に在る。もはや、恥も外聞も厭(いと)わない老爺(ろうじ)に成り下がっている。こんな文章を書くことこそ、その明らかな証しである。もちろん、こんな文章では夜明けまでの時間潰しの足しにはならない。いやいや、恥の上塗りだけにすぎない代物である。
 今週、世の中の多くの人たちは、「待っていました!」とばかりに、ゴールデンウイークに浮かれている。そして、それらの人たちは、まるで蝶々の如く、行楽という花から花へ、飛び回っている。飛べない私は、妬んで蝶々を追っ払うすべもなく、指を咥えて遠目に眺めている。子どもの頃の私は、菜の花や田畑に飛び交う蝶々に出遭うと、まったくの遊び心で片手の掌をハエはたきのように広げては、さっと横払いをした。それだけのことであり、無理やり捕って、握り潰しはしなかった。もとより私は、そんな無慈悲なことをするような薄情者ではない。
 さて、私には期間限定のゴールデンウイークはない。もちろん、より長い、ゴールデンシーズンもない。だからと言って、嘆きはしない。いや、勿怪の幸い! 私にあるのは、期間限定無しの「ゴールデン年中(ねんじゅう)」である。ところがこれは、甚(はなは)だ曲者(くせもの)でもある。なぜなら、ゴールデン年中は、期間限定に付随する喜悦を端(はな)から葬り去っている。喜悦はやはり期間限定、いや束の間であってこそ、至上の桃源郷であり、楽園である。
 意図した時間潰しとは言え、こんな出鱈目文を書くようでは、「ひぐらしの記」は、いよいよ風前の灯火(ともしび)にある。もちろんそれは、恥を知り、それを逃れる、わが身のためである。

続編、「時のめぐりの速さ感」、そして嘆息

 きのうの「昭和の日」(四月二十九日・金曜日)にあっては、私は時の速めぐり感を書いて、遣る瀬無く嘆息した。きょうの文章はそれに輪をかけて、二番煎じさらには三番煎じとも言える続編である。しかし、あえて言えばそれらには、わが実感する確かな違いがある。きのうの場合は、一年回りにめぐってくる、ゴールデンウイークにともなう、一年の速さ感に唖然としての嘆息だった。言うなればそれは、一年という時のめぐりの速さ感に起因していた。これに加えてきょう書くのは、一月(ひとつき)と一日にともなう時のめぐりの速さ感にかかわるわが実感である。
 まずはひと月のことで言えば、それはこの現象に起因している。私にはひと月ごとに薬剤をもらうだけに余儀なく、通院を強いられているものがある。これに実感するのは、ひと月という、時のめぐりの速さ感である。私は服(の)み忘れを防ぐために、薬剤は枕元に置いている。するとよく、「あれ、もうない!」という、場面に遭遇する。そしてこのとき、私はひと月の速さ感を痛切に感じて、遣る瀬無く嘆息を吐いている。そしてそれは、明らかに自己嫌悪に陥るほどの深い嘆きである。次には、一日につきまとう時のめぐりの速さ感である。挙句、これこそ、ひしひしと実感をともなう、時のめぐりの速さ感である。
 わが人生の最大の楽しみは一日三度の御飯と、その間における甘味の駄菓子の食べ放題である。これらにともなう、時のめぐりの速さ感の実感はこうである。「朝御飯を食べればもう昼御飯、昼御飯を食べればもう晩御飯」。そして、この実感にはこんな思いが張り付いている。それは、胃部がいまだに前者の食べ物を砕いている最中にあって、後者の食べ物が喉元から垂れ流されてくるほどの時の速めぐり感である。私は歳月そして日々、いや時々刻々と、時のめぐりの速さ感に追われては、あたら余生短い命に焦燥感を募らせて、遣る瀬無く嘆息を吐いている。
 月末、四月三十日(土曜日)の夜明けの空には、きのうの冷たい雨空を撥ね退けて、のどかに朝日が照り輝いている。バカな私は、まったく抗(あらが)えない時の速めぐり感に慄(おのの)いて、やたらと遣る瀬無い嘆息を吐くばかりである。だとしたら悠久の自然界に、わがひ弱な心を癒してもらうしか便法はない。なぜなら、私には時のめぐりの速さ感を「ケ、セラセラ」と、達観する度量や勇気はない。

ゴールデンウイーク、「昭和の日」

 四月二十九日(金曜日)、きょうは令和四年(2022年)のゴールデンウイークの初日に当たる「昭和の日」(休祭日)である。とりたてて募る思いはないけれど、あえて記すと一年のめぐりの速さ感の横溢まみれにある。年齢が加わるにつれて私は、転んで怪我などの自損をこうむらないようにと、普段意識してノロ足で歩いている。もちろん叶わぬことながらできれば、歳月のめぐりもノロ足で、めぐってほしいものである。
 ゴールデンウイーク初日にあっての唯一の感慨、すなわちまったくありえないわが空望みである。わが心身は文字どおり時々刻々に、時の刻みの音に脅かされている。確かに、わが日常生活に時の刻みを意識するのは、馬鹿げている愚の骨頂の最たるものである。もちろん、愚かなこととは、十分に知りすぎている。ところが一方では、寸時でもこのことを忘却することはできない。なぜなら、われのみならずだれしもの日常は、時の刻みの中に営まれている。
 しかし私の場合、ゴールデンウイークは、格別時の刻みに取りつかれている。それは老いの身ゆえの、一年のめぐりにたいする遣る瀬無さとも、言えるものである。私に物見遊山や行楽の予定でもあれば案外、この遣る瀬無さはいくらか和らぐであろう。ところが実際には、それらにちなむ予定はまったく皆無である。結局、わができることは、人様の行楽シーズン入りを前にしての、わずかばかりの施しにすぎない。
 きのうの私は、鎌倉めぐりのハイカーの訪れを前にして、道路の隅々を綺麗に掃除した。とりわけ、側溝に隠れているごみや、側溝に芥子粒ほどに生えている雑草の小さな根までをもことごとく引き抜いた。仕上がりの道路は、わが家の汚れている板の間を凌いで、鏡面の如くに綺麗になった。おとといは、東京へ出向いた。東京都国分寺市内に住む次兄(91歳)にたいする、表敬訪問であった。おとといときのうには、文章はずる休みに甘んじた。きょうもそのつもりであったけれど、こんな味気ない文章を書いてしまった。
 わがゴールデンウイークは、茶の間のソファに背もたれて、窓ガラス越しに新緑を眺めだけになりそうである。ちょっぴり動作をともなうものでは、わが家の庭中をあてにして、山から飛んで来るコジュケイへの、ふるさと産・新米のバラマキがある。これに、日課とする道路の掃除がついて回ることとなる。こんなことでは転びようはないけれど、それでも心してゴールデンウイークの明けにありつきたいものである。ウグイスが鳴き声高らかに、エールを囀ってこれそうなことだけは請け合いである。わがゴールデンウイークの楽しみは、山の緑、コジュケイ、ウグイスなどが恵む、他力本願だけであり、自力のもたらすものはない。

人の命

 どうにもならない自然災害などで奪われる人の命には、ただただ忍び難い気持ちが充満する。軽率きわまりない人の行為で奪われる人の命には、ただただ腹立たしさだけが充満する。このたびの「北海道・知床半島沖、観光船事故」のニュースを聞いたおりの、苦々しいわがつぶやきである。実際のことは何も知らない。だから、これ以上のことは言えないし、もちろん書けない。そのため一つだけ書いて、結文とするものである。まさしくそれは、近場の物見遊山をはじめとするさまざまな行楽にもってこいの観光シーズン到来のさ中にあっての、きわまりない痛憤をおぼえるニュースだった。
 「ひぐらしの記」は、わが日暮らしだけではなく、ときには人様の暮らしぶりも書かなければならない。人の命とは、もとより自分だけの命に限るものではない。だから人の命は、「相身互い身」、みんなで支えなければならない。すなわち人の命は、独り善がりは許されない、尊いものである。四月二十六日(火曜日)の夜明け、いつものウグイスの鳴き声に、私は哀切感をつのらせている。

早やてまわしの「五月晴れ」にあって、嗚呼、無題

 照る日、曇り日、雨の日、ぐずつくこのところの天候状態の表現である。本当はこれらに、雨まじりの小嵐を含めたいところではある。四月二十五日(月曜日)、夜明けにあってきょうの昼間は、どれに落ち着くであろうかと、いくらか思いあぐねている。なぜなら、きのうの私は、きょうの天気予報は聞きそびれている。しかしながら、夜明けの空をほのかに染め始めている朝日を見やれば、曇り、雨、そして雨まじりの小嵐のない、澄明な青空になりそうではある。
 季節めぐりは日々、晩春を遠のけて初夏の走りにある。初夏の次には鬱陶しい梅雨入りと、本格的な梅雨すなわち雨の季節がひかえている。それまでは、ひと月あまりしかない。そうであれば私は、照る日、曇り日、そして雨の日などと、もったいなどつけずに、すっきりさわやかな晴れの日を望んでいる。
 過ぎ行く四月を代表する鬱な季節用語には、ずばり「菜種梅雨」がある。幸いなるかな! この四月は、どうにかこの言葉は免れて、今週は五月への橋渡しにある。確かに、訪れる五月にも、鬱な「五月病」などという、似非季節用語がひかえている。いくら私がマイナス思考の塊とは言え、こんな鬱な言葉ばかりを浮かべるようでは、わが人生から面白味が殺がれている。そのため意図して私は、いっときこんな鬱な言葉などかなぐり捨てて、訪れる五月すなわち初夏にふさわしい季節用語の一つを浮かべてみた。すると、まるで一つ覚えの如くに真っ先に浮かんでいるのは、「風薫る(薫風)五月」である。次には望郷に浸り、のどかな一幕が甦る。それは、「新茶摘みの風景」である。こんな好季節がたったのひと月あまりでは、ソンソン(損々)いやまったく物足りなくて、大損である。
 ところが、たとえ鬱な言葉であっても、言葉遊びに興じているわが身は、まだましで幸福である。なぜなら、きょうの寝起きにあってわが心中には、いやおうなくこんな言葉が浮かんでいた。それは表現を替えただけの、共に同義語である。すなわちそれは、「引くに引けない状態」と「膠着状態」という言葉であった。これらの言葉が浮かんでいたのは、もちろんウクライナとロシアにおける戦況を日々、テレビ映像で見せつけられているからである。戦争は、口争いや喧嘩などとは異なり、一旦戦端が開くと双方共に、「御免、降参、もう参りました。許してください!」などとは、言えないところがある。私は、この証しを現下の異国の戦況で見せつけられている。戦争は自然界が恵む好季節などそっちのけにして、人間同士が醜い争いに明け暮れる野暮な行為である。
 文章を書く身の私は、いつなんどきも心中にさまざまな語句を浮かべては、めぐらしている。きょうの文章は、なんら実のないその証しである。かたじけなく、またなさけない。夜明けの朝日は時を追って天上の大海原もどきになり、胸のすく「五月晴れ」になりそうである。しかし、早や合点し「好季節到来」とうそぶくのは、虫が良すぎるであろう。異国とは言え、戦雲たなびく世界事情をかんがみれば、独り悦に入ってばかりにはおれないところ大ありである。昼間には、確かな日本晴れになりそうである。駄文に、表題のつけようはない。

新緑が恵む「至福の時」

 四月二十四日(日曜日)、薄曇りの夜明けである。夜来の雨はなく、道路は乾いている。こんな日は、夜明け時の道路の掃除が気になるところである。
 起き立て真っ先に、私はレースのカーテンを開いて、窓ガラス越しに道路に目を凝らした。すると、幸いなるかな! きのうの夕方の掃除の後の状態を留めている。日課とする夜明け時の道路の掃除を免れて、私は心安んじてパソコンに向かっている。加えていつもとは異なり、早起き鳥さながらに執筆時間はたっぷりとある。できれば薄曇りを突いて、朝日が射し始めるのを望んでいる。こんなのどかな文章を書けるのは、起き立の「至福の時」と言えそうである。しかしながらこの至福の時は、最良かつ最高の位置にはない。実際にはきのうの昼間の至福の時には負けて、それに準じている。
 わが目に眩しいとは言っても、もちろん新緑は花ではない。きのうの昼間の私は、カタツムリの如く茶の間のソファに背もたれていた。目先の窓ガラスにはカーテンを掛けず、目に入る外景をほしいままにしていた。窓ガラス越しに照る陽射しは、晩春から初夏に移りつつあった。この違いは、見た目に外連味(けれんみ)なくさわやかさを感ずることである。点けっぱなしのテレビ映像は、のどかな旅番組を流していた。しかしながらわが目は、そちらにはあまり向かわず、もっぱら窓ガラス越しに見る、山の新緑に釘付けになっていた。
 「目には青葉山ほととぎす初鰹」(山口素堂、鎌倉にて詠む)。このときの私は、常に手元に山積みしている駄菓子を間断なく、口に運んでいた。もちろん、苦吟する俳句など浮かべず、そのぶん無償の恵み、すなわち「至福の時」に無心に酔いしれていた。おやおや、先ほどの薄曇りは太陽に蹴散らされて、大空には朝日が射している。つれて、山の新緑は、映え始めている。きょうもまた昼間、私は至福の時を授かりそうである。時あたかも新緑の煌めきは、数々の花をも凌ぐ自然界が恵む、美的風景である。確かに、これに酔いしれる私は、いっときの果報者である。

嗚呼、無常、そして無情「トラキチ」

 四月二十二日(金曜日)、またもや雨上がりの夜明けである。道路は濡れている。そのせいで、一つのわが日課は、用無しである。ありがたいことではあるけれど、気分は憂鬱状態にある。いくら「ひぐらしの記」とは言え、こんなことばかりを書き続けているようでは、誇らしくも、甲斐もない。いや、恥じ入るばかりである。
 わがファンとする阪神タイガースは、テレビ観戦のたびに、負け続けている。いまや、勝敗数に関心はない。いくらか、いや大いに関心があるのは勝ち数ではなく、この先どのくらいの負け数を重ねるかだけである。確かに、現在の私は、この先のタイガースの負け数に関心がある。こうまでなるともはや、タイガースの戦いぶりは、ドサまわりの大根役者の演ずる田舎芝居の観覧の如くに、大笑いするところたびたびである。そして、苦笑まじりに、愉快な気分にもなる。幸いなるかな! 負け続けていても、負け惜しみを超越して、気分は鬱になることなく、大らかいや朗らかにさえある。だから、タイガース戦のテレビ観戦は、この先も厭きずに続けること請け合いである。なぜなら、「トラキチ」の称号を、みずから捨てることはできない。また、勝敗の決着にドキドキすることから、いまや免れている。
 今朝の寝起きの約十分間の殴り書きは、これだけで十分である。夜明けの空には朝日が射してはじめて、青、白、グレイなどに色彩を帯び始めている。おやおや、自然界の恵みのおかげで、寝起きの憂鬱状態は去っている。人間界の営みは欲得まみれである。タイガースの勝敗に、一喜一憂するのは大損である。残り少ない余生は、穏やかに、和んだ気分で、暮らしたいものである。

渇望する「二度寝」

 四月二十一日(木曜日)、朝日が大空をほのかに赤く染めている、夜明け時にある。一時過ぎからとうとう、二度寝にありつけずに、夜明けを迎えている。このため寝起きの私は、憂鬱病に罹っている。
 途轍もなく長い時間、眼明(めあき)きを食らっていたこの間、わが心中にはさまざまなことが出没した。いや言葉を替えれば、実際にはいろんなことがピョンピョンと跳ねて、鬱勃していた。
 それらの中から一つだけ取り出すと、これである。自問を試みたのである。わが身に取りつく「愚痴こぼし」の反意語は、何だろうか。すると自答には、浮かんでは消え去る言葉の中から一つだけ残し、それは「自惚れ」と、決めたのである。もちろん、当たるも八卦、当たらぬも八卦の、出まかせ言葉の決着である。わが身に、自惚れるものは何もない。反面、愚痴こぼしの種(ネタ)はかぎりなくある。おっちょこちょいの私は、愚痴こぼしに一利を見出したのである。それはこうである。愚痴こぼしのネタがあるため、それが継続のエネルギーとなって文章は、これまで長く続いてきたのであろうか。再び記すと、確かに私には、自惚れる種(ネタ)は何もない。挙句に文章は、どん詰まりに陥り、すぐさま途絶えていたこと請け合いである。もちろん、愚痴こぼし歓迎と嘯(うそぶ)くことはできない。しかし、文章継続の僅かな足しにはなっていたようである。遣る瀬無い、自己欺瞞と言えそうである。
 こんなことを寝床で、目覚めてめぐらしているようでは、もとより二度寝にありつけるわけはない。私は熟睡を欲張りはしない。うつらうつらであっても、二度寝にありつきたいだけである。