ひぐらしの記

ひぐらしの記

前田静良 作

リニューアルしました。


2014.10.27カウンター設置

内田川(熊本県・筆者の故郷)富田文昭さん撮影

 

継続だけの文章は、切ない

 八月三十日(火曜日)、夏らしくない夏、秋らしくない秋、冬みたいな気分の夜明けを迎えている。すっきりしない季節変わりのせいである。きのうから私は、着衣にあっては軽装の夏スタイルに未練を残し、 防寒の冬スタイルに変えた。実際には、上半身は半袖から厚手の長袖に替えた。下半身は短パンやステテコなど未練なく、布地の下着と長ズボンに替えた。就寝時には、重たい冬布団に潜った。どれもが、突如の防寒対策だった。(なんで、こんなに寒いのだろう……)、わが実感だった。
 傍らの妻にたいし、わかりきった警告を告げた。
「寒いね。風邪をひいたら大損だよ。絶対、風邪ひくなよ!」
 同時に、私自身にたいする警(いまし)めの言葉でもあった。
 私はいまだに治りきらない二度目の夏風邪に手を焼いている。それゆえに、かなり後ろめたい気分の警告ではあった。いや、それだけに身に沁みた警告でもあった。確かな、異常気象の秋の訪れにある。
 わが実感は、メディアニュースにも現れていた。それはぐずつく天候のせいで、体調を崩す人が多いというものだった。夏は夏らしく、秋は秋らしく、冬は冬らしく、そして春は春らしい、まっとうな季節変わり望むところである。春・夏・秋・冬、すなわち四季を分ける日本の国特有の季節変わりが崩れたら、災害列島の汚名を雪(すす)ぐ特長を失くすこととなる。そうなればきわめて残念無念である。
 今朝は、寒さに加えて雨模様の夜明けである。きのうの夜明けにあって私は、昼間の胸の透く秋空を願った。ところが、この願いは空念仏に終わった。雨模様の大空を眺めながら、私はきょうも再び、懲りずに願うところである。
 このところのわが文章は、実のないものばかりである。そのうえ、ミスも目立っている。異常気象は、わが精神状態に異状をもたらしている。いや、異常気象のせいにはできない、わが脳髄の不出来のせいである。それゆえ、きょうもまた、書かずもがなの文章を書いてしまった。過ぎ行く八月は、とことん恨めしい月である。急に大空が明るくなり、朝日が射し始めている。わが憂鬱気分直しは、やはり自然界にすがるしか便法はない。

「冠の秋」が来た

 八月二十九日(月曜日)、夜明けの空は朝日の光を強めている。天気予報は見ていないけれど、昼間には胸の透く天高い秋空になるだろう。きのうは、曇天と言うより雨空だった。このところは暑気が去って、早やてまわしの秋モードにある。もはや夏風邪とは言えないが、名残の夏風邪はいまだに治りきらず、鼻先ムズムズの不快感が尾を引いている。いつものことだけれど、「後悔、先に立たず」と「後の祭り」という、同意義の成句を抱き合わせて、浮かべるなさけなさである。風邪の兆しが現れたら市販の風邪薬には頼らず、掛かり医者の処方箋をたずさえて、行きつけの調剤薬局に行くべきだった。確かに、市販の薬は、効果覿面(てきめん)とはいかないところがある。反面、市販の薬には容易に買えて、買い置きもできる便利さがある。それゆえに、面倒くさがり屋の私は、ついつい市販の薬にすがっている。挙句、私は小さな夏風邪さえ長引かせる愚か者である。優柔不断すなわち決断力の不足は、わが生来の性癖(悪癖)の一つである。
  再び書くけれど、このところは秋風とともに、急に風の冷たさが身に沁みている。このためまずは、就寝にあっては掛布団が必需品になっている。さらに、肌身には重ね着が必要になってくる。おのずから夏の醍醐味は、遠のいて薄らぐばかりである。一方で、残暑の暑気の厳しさは知りすぎている。だとしたら欲張って、肌身に優しい季節変わりを願っている。さらに欲張って、台風の来ないさまざまな「冠の秋」の訪れを願っている。欲張りの私には、まだ欲張るものがある。それは、夏風邪の退散である。満天、日本晴れに変わっている。あれ! 鼻先のムズムズ感がとれている。「冠の秋」が来た。

人間

 八月二十八日(日曜日)、東京都下(国分寺市内在住)の次兄(92歳)伺いのため、朝駆けいたします。このため、文章はこれだけです。きのうの夕方は、妻の四回目のワクチン接種の引率同行でした。幸い妻は、痛みのない夜明けを迎えています。効果はわからず気休め程度です。接種会場は混雑しており、人みな生き続けるために必死です。それらを優しく支えてくださっていたのは、数多いスタッフです。人間のすばらしさを垣間見られて、私にはうれしいひとときでした。確かに、個々の人間はすばらしいです。ところが、党を組むとなさけなくなります。改めてこんなことを知り得て、私にはとても時間でした。

秋の夜明けにすがる私

 八月二十七日(土曜日)、きのうの夜明けのわが嘆きに報いてくれたのか、いくらか秋の夜明けを叶えている。それでも、夜明けに朝日の輝きはなく、二日続いて恨みを買わない程度の、いまだ八歩留まりである。だからなお、胸の透く秋の夜明けを願うことに変わりない。
 人の世は、人間だけでは成り立ち得ない。いや、多くは、自然界の恵みにおんぶに抱っこされている。すなわち人の世は、人間界と自然界の二人三脚で歩んでいる。もちろん、両者の足がもつれ、あるいは片方の足が崩れて、倒れること多しである。それでも二人三脚は、過去、現在、未来永劫にわたり、できるかぎり足をそろえて歩いて来て、この先はてしなく歩いて行く。目下、私は好季節にふさわしい秋の夜明けを望んでいる。具体的にはわが夏風邪治しは、薬剤の効果を凌いでさわやかな秋の夜明けにすがっている。現在、夜明けに呼応しわが夏風邪の治りも八分程度である。全天候型の夜明けと、つれてわが夏風邪の全快を望むところである。
 季節のめぐりには、春夏秋冬という区切りがある。それゆえに私は、せっかくの秋がぐずついて、早やてまわしに冬にでもなればもったいなく、おのずから焦燥感つのるものがある。ここまで時間をかけて書いても、まだ朝日の輝きはない。天高い夜明けの秋空は、もうしばらくであろうか。きのうは、いつもの大船(鎌倉市)街へ買い物に出かけた。コロナのせいでわが外出行動は、自粛すなわち自主規制のさ中にある。それでも最低、生存の糧(かて)すなわち、食料だけは買い置きしなければならない。やや浅ましい気持ちはするけれど結局、人間は「食べるために生きる」というより、背に腹は代えられず、「生きるために食べる」動物である。このことは売り場に立てば、人様の様子を凝視しながら実感できるところがある。
 われのみならず人様も、生きるための食料探しと品定めに躍起である。必ず食べなければならないものであれば、できるだけ長生きできる体に良いもの、さらには美味しいものを血眼(ちまなこ)になって探すのは、命ある者の定めである。そしてそれには、財布の中のお金の過多、この頃では電子マネーの過多の縛りがある。言うなれば売り場は、売る人と買う人、相まみえる生活戦場の様相である。この戦場を癒してくれるのは、海産物、農産物、加えて人工の食品である。海幸・山幸、秋にはサンマが話題にのぼり、さらには新米および山菜そして果物、総じて「実りの秋」満載である。
 「生きるために食べる」とはいえ、楽しい秋の訪れである。その先陣を切るのはやはり、さわやかな秋の夜明けである。だから私は、とことんこれにすがっている。指先ノロノロと時が過ぎて、大空日本晴れとなり、視界には澄明(ちょうめい)な朝日が輝き始めている。夏風邪の名残は、かなり遠のいている。

待ち焦がれる、さわやかな秋の訪れ

 八月二十六日(金曜日)、さわやかな秋とは言えない、ぐずついた夜明けが訪れている。わが気分は、鬱状態である。気象のことはちんぷんかんぷんで、まったくわからない。ところが、わが気分の崩れはわかっている。それは二度寝にありつけないことが招く、煩悶のせいである。煩悶に苛(さいな)まれるのはなぜか。それもわかっちゃいるけれど、どうにもならない。なぜなら、わが人生行路にとりつく傷(いた)みだからである。
 文は人なり。大沢さまの文章は常に前向き。わが文章は常に後ろ向き。もとより、人間性と器の違いの証しである。創作分とは異なり「ひぐらしの記」は、わが日常生活をありのままに書いている。もちろん、文飾(ぶんしょく)のしようはなく、恥をさらけ出して書いている。もとより、恥をさらけ出すことには吝(やぶさ)かでない。なぜなら、恥さらしを怖がっていたのではネタなく、文章はすぐさま頓挫の憂き目を見ることとなる。いや、呻吟しながら書くのは、大損であり野暮でもある。だから、恥晒しなど知ったこっちゃない。確かに、恥晒しを恥と思えば、十五年も続くはずもない。
 「ひぐらしの記」と、ほぼ同時に誕生した孫のあおばは、現在中学三年生(十五歳)である。私は根っからのふるさと志向の塊である。ところが、わがふるさと生活は十八年にすぎない。これらのことをかんがみれば、おのずから「ひぐらしの記」の長さ浮き彫りとなる。すなわち、恥晒しを恥と思えば、書き続けられるはずもない長さである。もとより、六十(歳)の手習いは恥さらしである。ところが恥さらしは、「ひぐらしの記」継続の根源となっている。仕方なく、そう悟りきってはいる。それでも、さらけ出す恥の多さには辟易している。結局、二度寝にありつけない原因は、総じてわが人生行路から生じているさまざまな傷みである。だから、いのち尽きるまで修復のしようはなく、二度寝など望むべくもない。もっぱら泣き寝入りしか、眠る方法はないであろう。
 こんな実のないない文章であっても、十五年継続の足しにはなっている。もちろん、わがお里の知れる文章である。二度目の夏風邪は、まだ治り切っていない。憂鬱気分を晴らす、さわやかな秋の訪れを願っている。

二日続けてのずる休みを避けて、書いただけ

 八月二十五日(木曜日)、「ひぐらしの記」は、わが生きている証しだから、起きてパソコンへ向かっている。しかしながら、書く気力は失せている。どう気張ってみても、おのずから命の終焉が近づいているせいであろう。きのうは、二度とはドジを踏まないつもりだった夏風邪をひいてしまい、気分が鬱になりずる休みをした。ところが、二度目の夏風邪はいまだに治りきらず、こんななさけない文章を書く羽目になっている。確かに、老いの身をかんがみれば、爽快な気分を望むのは、もはや欲張りなのであろう。ウイズ・コロナの表現を真似れば、わかこの先の人生は、ウイズ・老い耄れと言えそうである。すなわち、私は老い耄れの心身をたずさえて、日々生きる活動(生活)をしなければならない。もちろん、若い頃の幻想は捨てて、その覚悟はしている。実際には、老齢に見合う暮らし向きである。しかしながらこのことは、「言うは易く行うは難し」の典型である。だから、元気いっぱいとはいかなくとも、こんな泣き言の文章は書かずに済むくらいの、日常生活にはありつきたいものである。しかし、だれ(人様)にすがることはできず、要はわが精神力の賦活(克己心)に頼るしか便法はない。今の私は、こんななさけない文章を書いて、恥を掻いている。ただ、こんな文章でも二日続けてのずる休みを免れた益にはなる。いや、休んだほうがよかったのかもしれない。
 夜明けの空は、今にも雨が降りそうな曇り空である。世の中は、コロナと政治家の混迷ぶりでどんよりとしている。だから、夏風邪ひきに加えて、気分の晴れようはない。こんな気分、もうしばらくの我慢と言えようか。それともこの先、延々と続くのであろうか。季節は夏過ぎて、さわやかな秋の訪れで、わが気分直しと世直しを願うところである。ところが、夜明けの空は、もどかしく気迷っている。ならば、鳴き疲れている山の鳥と里のセミの声、つれて集く秋の虫たちの鳴き声に、わが気分直しと世直しを託してみたくなっている。

夏が終わる、ゴング

 八月二十三日(火曜日)、このところの気候は、すっかり秋モードに変わっている。いよいよ、過ぎゆく夏を惜しんでの、悪あがきの残暑の候である。
 令和四年、高校野球夏の大会(阪神甲子園球場)は、宮城県代表校・仙台育英高校の初優勝(栄誉)で閉幕した。そしてこれには、優勝旗がかつての白河の関を越えて、東北勢としての初めての栄誉(栄冠)が刻まれた。それだけに宮城県にとどまらず東北各県人の喜びは、ひとしおだった。もちろん、私としてもその栄誉を、両手叩いて称えている。夏の高校野球は、真夏の風物詩として定着している。それゆえに決勝戦が終わると、一気に夏の終わりのゴングが鳴り響いてくる。もとより夏の大会は、学び舎の夏休み期間を利用して行われる。だから決勝戦が終わる頃は、高校にかぎらずそれぞれの学び舎の夏休みが終わる頃となる。すなわち、児童、生徒、学生には、寂しさ募るところである。加えて彼らは、今週あたりは夏休み中の宿題の仕上げに、てんてこ舞いであろう。
 今や学び舎とはまったく無縁の私であっても、夏の終わりにあっては、気もそぞろに寂しさ募るものがある。もちろん、今や宿題は免れている。しかしながら私は、宿題よりはるかにバカでかい、人生の課題に四苦八苦させられている。すなわち、早や秋風の吹く季節の速めぐり(感)は、日々いのちの縮む思いである。こういう思いをたずさえて、わが人生はなすすべなく閉じるのであろう。
 確かに、バタバタしてもどうしようもない、季節のめぐりである。だとしたら「ゆく夏を惜しむ」より、泰然と「くる秋を愉しむ」、心境にならないかと願うところである。しかしながらその願いは空念仏にすぎず、私は日々季節の速めぐり(感)に慄いている。生来、私はとことん損な性分である。
 仙台育英高校の凱旋帰郷および帰校は、きょうあたりであろうか。再び拍手して、わが気分を直したいものである。それより先に山の鳥は、朝っぱらから鳴きずくめで、わが気分を癒している。つくづくなさけないなあ……。

続、ゆく夏を惜しむ

 八月二十二日(月曜日)の夜明けにあって、すっかり夏風から秋風に変わっている。肌身の心地はそれなりに良いけれど、ちょっぴり心寂しさをおぼえている。確かに心寂しさは、秋の季節特有のものである。すると、この先の秋本番に向かって私は、どれほどわが身に堪える心寂しさに遭遇するであろうか。戦々恐々とするばかりである。季節は、夏の終わりから秋へまたぐ残暑の候にある。ところが、きのうは暑さが遠のいて、一日じゅう寒気をおぼえていた。その証しには、家中の網戸はすべて用無しに、窓ガラスに切り替えた。それでも妻は、「パパ。寒いわねー……」と言っては、厚手の毛布にくるまって、ソファに寝そべっていた。
 きのうの文章の表題は、『ゆく夏を惜しむ』とした。ぴったしカンカン私は、心からゆく夏を惜しんでいた。私の場合、夏が早々と姿を消すのはこりごりである。もうしばらく、夏の暑さを望むのは、へそ曲がりであろうか。確かに私は、生来のへそ曲がりではある。結局、願望した夏痩せはまったく叶わず、季節は「馬肥ゆる秋」へ先走っている。確かに、冠の秋には高尚な「芸術の秋」もある。しかしこれは、もとより私には用無しで、もっぱら「新米、果物、食べ放題」の餓鬼食いの秋である。
 暑い夏去って、涼しい秋の訪れは、それなりに楽しめるもの満載である。ただ、ちょっとだけ早すぎる季節変わりである。起き立ての殴りかきであっても文章は、私には手に負えない難物である。いまだ夏スタイルのわが身体を、秋風がブルブルと震わせている。

ゆく夏を惜しむ

 八月二十一日(日曜日)、過ぎ行く夏、初秋のどかな夜明けが訪れている。夏風邪は市販の風邪薬の2、3服の服用で治った。暑中お見舞いを申し上げた矢先の、飛んだしくじりだった。高橋様には早速、お見舞いの言葉と、「大、大、大のエール」を賜った。謹んでお礼を申し上げるところである。なぜならエールは、再びパソコンに向かう勇気づけになっている。
 夏風邪をひいたのは自業自得、お腹丸出しに寝そべっていたからである。すなわち、夏の醍醐味を貪っていた祟りである。幼児の頃のように、「金時印の腹かけ」みたいなものを巻いて寝ていれば、夏風邪はひかない。棺桶間近の大のおとなが、そんな知恵も忘れるようでは、もはや生きる屍(しかばね)同然である。なさけない。もとより、夏風邪は軽症である。しかしながらその間、気分が鬱になることには変わりない。反省を込めれば、夏風邪をひいたのは飛んだしくじりだった。
 私の場合、夏の醍醐味の筆頭には、甲乙つけずにこんなものがある。まずは着衣の軽装と夜具(夏布団)の用無しである。実際の軽装は、上半身は肌着一枚であり、下半身はステテコないし短パンで済むことである。確かに夜具は、薄っぺらの夏布団さえほとんど掛けずに、ごろ寝で済むことである。さらなる醍醐味は、入浴のおりの脱衣の簡便さである。いや、入浴さえ用無しにシャワーだけで済むことである。これらは、もちろん夏にしかありつけない夏の魅惑、すなわち飛びっきりの夏の醍醐味である。
 確かに、夏風邪をひいたのは、お腹丸出しのごろ寝の飛んだしっぺ返しだった。ところが現在の私は、夏風邪に懲りず、過ぎ行く夏を惜しんでいる。「暑い、暑い夏」は、あたりまえと思って我慢すれば済むことである。だから私は、夏の季節がもっと長ければいいのに……と、欲張っている。たぶん、私以上にセミたちは、夏の長さ、いやいのちの長さを欲しがっているであろう。ヒグラシが「かな、かな、かな、……」と鳴き、初秋を告げる草むらの集(すだ)く虫たちの鳴き声は、いやがうえにも寂寥感をいや増して来る。あらがえない季節のめぐりとはいえだから私は、もうしばらくは暑い夏の継続を願っている。
 夏風邪に再度、ドジを踏むつもりはない。確かに、初秋の朝風は夏風を凌いで心地良いところがある。「ゆく夏を惜しみ、訪れる秋を楽しむ」。だとしたら四の五の言わず素直に、自然界讃歌でいいのかもしれない。

夏風邪

 とんだ気のゆるみ、すなわち寝冷えで夏風邪をひき、気分が鬱状態です。寝床を抜け出してきて、この文章を書き終えれば、寝床へとんぼ返りをいたします。体温は測っていません。平熱程度だと、感じているからです。それゆえ、コロナではありません。もちろん、怠け者の節句働きのせいでもありません。なぜなら、普段にも身に堪える働きは、何一つしていません。だから実際のところは、人様のお盆休みを妬んでの、怠け者の遅れてきた盆休みです。言うなれば、ケチ臭い休みです。