ひぐらしの記
前田静良 作
リニューアルしました。
2014.10.27カウンター設置

内田川(熊本県・筆者の故郷)富田文昭さん撮影
寒い朝。究極のマイナス思考
1月22日(日曜日)。目覚めて、胸の鼓動、腕の脈拍、確かめる。生きている。やがて、共に動きが止まる。死ねば、こんな文章さえ書けない。その点、短くても、愛しさきわまる文章である。今週には、稀なる寒気が訪れるという。だとしたら、早めに命を畳もうと思うのは、人生最良の決断なのかもしれない。しかし生来、優柔不断の私は、決断を鈍る。寒い朝、究極のマイナス思考文を書いて、閉じる。挙句、なお生存を求めて、階段の二段飛びで、茶の間へ向かう。そして、人工の暖に当たる。デジタル6:03における、いまだに消え去らぬ寝言である。
焼きが回る
1月21日(土曜日)、ほぼ一晩じゅう眠れず、仕方なく起き出している。それゆえ気分すぐれず、文章を書く気分になれない。起き立てに浮かんでいた言葉を電子辞書でおさらいし、おさらばである。【焼きが回る】「①刀の刃などを焼くとき、火が行きわたりすぎてかえって切れ味がわるくなる。②年を取ったりして能力が落ちる。」身に沁みて、つらい言葉である。
大寒
机上に置くカレンダー上には、「大寒」(1月20日・金曜日)と、記されている。言うなればきょうは、気象の上では寒気が最も厳しい、擂り鉢の底に当たる。もはや嘆くことは勿れ! 寒気は、擂り鉢の窪みに沿ってときおりぶり返しながら、確かな足取りで暖気の頂上へ駆け上る。
再びカレンダーに目を遣ると暖気は、立春(2月4日)、立夏(5月6日)を越えて、間違いなく立秋(8月8日)あたりまで駆け上る。いや、それにとどまらず真夏日は、厳しい残暑の高気温さえもたらして、ようやく暖気は打ち止めとなる。このことでは大寒は、耐えて、歓迎こそすれ嘆くことはない。まさしく大寒は、一陽来復の気分ほとばしる、季節の恵みすなわち屈折節点である。
暖入りのお先棒を担ぐのは、再来週にひかえる「立春」である。きょうは気分良く、このことだけを書けばいいのに、きのう晒した恥のことを書かずにはおれない。きのうの私は、わが日常生活における、真実一路の一端を書いた。もちろん、恥を厭(いと)うたり、覆(おお)うたり、することなく真摯にあけすけに書いた。きのうの恥晒しをあらためて記すとそれは、パソコン部屋とわが寝室における、人工の火の気のないなさけなさの吐露だった。すなわち、きのうの私は冬季にあって、火の気のない部屋におけるわが日常生活の一端を書いたのである。挙句、その主たることは、寒気への防具は身をぶるぶるふるわせるだけの我慢と書いた。結構、長い間の我慢だった。しかしながら、きょうの大寒を始点としてこの先強いられる我慢は、多くて両手指、少なければ片手指の数くらいで済みそうである。
幸いなるかな! 大寒とは名ばかりで、寒気は緩々(ゆるゆる)でわが背筋は伸びて、猫背のように丸まってはいない。それゆえ現在の私は、「大寒」大歓迎の夜明け前にある。確かに、季節や気象はときには嘘を吐く。けれど大筋には、きょうから確かな足取りで、寒気を撥ね退けて暖気の頂上へ駆け上る。春の兆しはもはや兆しとは言えず、コトコトドンドン、確かな足取りで近づいている。
起き出し、「寒い夜明け前」
1月19日(木曜日)。気象庁の予報に違わず、頗る低気温の夜明け前に起き出している(3:58)。起き立てのわが身は、ガタガタと震えている。風袋(ふうたい)の就寝時間は大きく間引きされて、正味の就寝時間はいくらもない。悪の根源は、頻尿のせいである。その回数は、6回ほどを数えている。パソコン部屋の熱源は、頭上の二輪の蛍光灯の明かりだけである。しかし、あたりまえだがまったく熱源の用はなさず、静かに本来の明かりだけを灯している。さらにきょうは、これまで隠していた生き恥を晒そう。わがひとり部屋の寝室のエアコンは、壊れたままで修復がきかずにほったらかしのままで、これまたまったくの用無しである。妻は階下に寝んで、長年、別就寝である。この状態は、文章を書く上では都合がいいためでもある。階下にはエアコンやガスストーブの人工の暖炉がある。私はエアコンの買い替えの金をケチっているわけではない。けれど、つまるところ私は、買い替えなしに冬の寒さや夏の暑さを我慢して寝んでいる。
確かに、人生行路は艱難辛苦の茨道である。生きているかぎり、まるで陸上競技のハードル種目さながらに、越えても次のハードル(障害物)に遭遇する。人の世のこの艱難辛苦を出し(方便)にしてお釈迦様は、この世(現世)は「厭離穢土」(おんりえど)、あの世(来世)は「極楽浄土」(ごくらきじょうど)と説法される。挙句、「衆生(しゅじょう)を悟りの異界に」に導かれる。ところが、お釈迦様の施しとて無償ではなく、いや箆棒(べらぼう)に供物や賽銭を求められる。この世、あの世、共に俗物(金)の世に変わりない。
寒さに震えて、こんなことを書くくらいなら、これで書き止めがわが身のためである。夜明けの明かり(熱源)はまだ先である。わが生き様の不甲斐なさが、全身いや心身に沁みる。明日は「大寒」(20日)」である。
安眠、熟睡、「永眠」
1月18日(水曜日)、ぐっすり眠れて、起き立ての気分はすこぶるつきに良い。寒気は、きのうよりいくらか緩んでいる。安眠と熟睡がこんなに気分良いものであれば、永眠は輪をかけてさぞかし気分良いものであろう。だからと言って早やてまわしに永眠にすがる気持ちはなく、今しばらくは生きていたい気持ちをたずさえている。
ところがきのうのNHK「クローズアップ現代」では、部屋の中の寒さは死亡に繋がりやすいという、警戒警報を鳴らしていた。当たり前のことでもあり、聞き耳を立てることはなかったけれど、のほほんと見過ごすこともできず、いくらかの警戒心をかき立てた。なぜなら私は、いつもまったく火の気のないパソコン部屋で、寒気に身震いしながら文章を書いている。だから、私への戒めの番組にも、思えていたのである。
パソコンを起ち上げて、真っ先に見遣ったヤフー画面の項目には、こんなものがあった。今週の「大寒」(20日)に向かう日本列島は、十年に一度くらいの低温に見舞われるという。これまた、わが身に堪える警戒警報である。あれやこれやの警戒警報に際し、「死ぬものか!」と、奮起して気張っているところである。なぜなら大寒とは、擂り鉢にたとえれば真冬の底である。それゆえにこれに耐えれば、しだいに寒気を蹴散らし、暖かい春の季節が訪れる。いやいや、春は遠くない。二週間ほど先には「節分」(2月3日)、翌日には「立春」(2月4日)が訪れる。こんな季節の恵みを間近にして死ぬようでは、私はとことん愚か者である。挙句、人様とて私を、「バカ者」呼ばわりされるであろう。そんな蔑(さげす)みを撥ね退けるためにも私は、「一寸の虫にも五分の魂」という、気概を駆り立てている。
二十分間ほどの殴り書きで、飛んでもないくだらないことを書いてしまった。それゆえに、詫びて結文とするものである。夜明けは、寝床へとんぼ返りをせずにおれないほど、まだ先にある。ほとほと、しくじった文章である。寒中にあって、生きているだけが取り柄である。春近し、永眠はまだ先でいい。
寒さと恥晒しで、身が震えている
1月17日(火曜日)、きのう緩んでいた寒気は一夜にして戻り、起き立ての私は、まったく火の気のないパソコン部屋で、ブルブル震えている。嘆いても仕方のない、季節相応の寒さである。カレンダー上の「大寒」(20日・金曜日)はすぐそこにある。寒気に一利あるとすれば気を締めて書き終え、階下の茶の間へ下りて、人工の暖を取ることである。しかしながら気の引き締めは叶わず、走り書きと書き殴りのコラボ(競作)となり、茶の間へ逃げ込むこととなる。結局、気の利いた文章は果たせず、人工の暖を取るだけとなる。就寝にあっては安眠を遮られ、起き立てにあっては文章に悩まされ、昼間にあっては生存(命)に脅かされる。わが日常生活における、つらい心模様である。小さいこととはいえ、わが人生(生涯)にまつわる厳しさの一端である。しかし、私にかぎらず世の中の人だれしもにも、生涯をまっとうするには厳しさがある。
私はパソコンを起ち上げると真っ先に、ヤフー画面を開いている。そして、連なるニュース項目を見遣る。見遣る項目は、新聞記事の総覧みたいなものである。ごちゃまぜに、10項目くらいの見出し記事が羅列している。すなわち、人間の生き様を表す社会編である。それらを読むと多くの記事は、人間だれしも生きる苦しみの証しをなしている。なんで人間社会は、こうも悪徳まみれだろうと思うばかりである。いつものことだがまったく、善徳や良徳を表す見出し項目には遭遇しない。悪徳を並べるのは目立ちがりやのメディアの習性なのかと、勘繰りたくなる。いややはり、世の中の出来事は悪徳まみれなのかもしれない。ちっとは綺麗な人間社会を夢見て、いや現実に見て、あの世へ逝きたいものである。
項目の中には開いて、深読みするものもある。ところがそれをすると、そののちの「ひぐらしの記」の執筆時間が圧縮される。あるいは、悪徳記事を深読みすれば、気分の落ち込みに見舞われて、文章書きの気分を殺ぐことになる。それを避けるために多くは、項目だけをサラッと読んで、駆け足で「ひぐらしの記」へ向かっている。こんなときにはもとより、気の利いた文章など書けるはずもない。なさけない、楽屋事情(話)である。こんな文章は、先へつなぐ必要はなく、これで書き止めである。いや、書かなければよかった、思う30分間ほどの書き殴りである。寒気に身が震えている。重ねて、恥を晒したことに身が震えている。夜明けはまだ先にある。幸いにも生存を叶える、命の鼓動は脈々とある。
戯れ文
1月16日(月曜日)、二つのごく小さい僥倖に恵まれて起き出している。一つは、「大寒」が今週(20日・金曜日)にひかえているのに、寒気は大緩みにある。一つは、恐れていた起き出し時刻の早さ(3時近く)の定着を免れて、いい塩梅の頃(4:59)に起き出している。この二つとは異なり、こちらは僥倖とは言えない不断の恵みだけれど、書けば読んでくださる人がいる。逆に言えば、読んでくださる人が絶えれば、即刻書き止める。このことは、虫けらの固い意志である。
あえてこの理由を書けば、寝起きの眠気眼に加えて朦朧頭で、さらには文章に難儀し、恥を晒して書くまでもない私日記にすぎないからである。確かに、寝起きの駄文とはいえ、文章の体裁をととのえることには、ほとほとつらいものがある。換言すればそれは、わが脳髄の出来をはるかに超えた苦悶の作業である。挙句、こんな文章を書いては、あけすけに読んでくださることをねだっている。私は、身の程知らずの欲張りである。確かに、私日記であれば秘かに書いて、人様の目に晒さずとも満足すべきものである。ところが、これに反する心境をたずさえているのは、私日記をブログに認(したた)めているせいなのかもしれない。すなわち、ブログこそ欲張りの根源を為している。いや、ブログゆえに、人様の厚誼に出合い駄文継続の支えにあずかっている。ネタの浮かばない起き立ての文章には、私自身、何を書いているのかさっぱりわからない。たぶん、頓珍漢なことを書いていることだけは、はっきりと請け合いである。
きのうの「小正月」が過ぎて、いよいよ正月気分はおさらばとなる。だとしたらこの先、少しは増しな気の利いた文章を書かなければならない。きょうは三十分近くの殴り書きで済まして、気分鎮めを試みることにする。夜明けはまだ先だけれど、寒気の緩みにすがり、長く頬杖をついて迷想を愉しむつもりである。こんな文章は読んでくださらない人がいても、もちろん書き止めの原因にはならない。なぜなら、単なる身勝手な継続文にすぎないからである。やはり文章は寒気に身震いしてこそ、体裁をととのえる意気が沸き立つのかもしれない。ほとほと、かたじけない文章である。デジタル時刻は現在、5:34と刻まれている。表題のつけようがない戯(ざ)れ文である。
小正月・旧正月
1月15日(日曜日)。おととい、きのうに続いて、きょう三日目、ほぼ同時刻(三時前)に起き出して来た。私は、こんな時刻の起き出しの定着を恐れていた。ところが、あにはからんや! 三日も続いてしまった。それゆえにこの先へ続けばと、恐怖感つのるばかりである。
しかしながらきょうの起き立てには、この二日とは違って、かなり安穏するところがある。おとといときのうの場合は、目覚めて起き出すまでには二時間余、寝床の中で眠れず悶々とし、仕方なく起き出した。そのせいで起き立ての気分は、憂鬱状態に陥っていた。ところが、この二日に比べればきょうの寝起きは、形(時刻)はほぼ同じでも中身は、雲泥の差と言えるところがある。きょうの場合は、二時間余の悶々とする時間は免れ、ぐっすり眠れて起き出している。おのずから起き立ての気分は、全天候型に良好である。わが日常生活における気分の良し悪しを最も左右するのは、あらためて安眠の可否であることを知るところである。
起き立てにあって、電子辞書を開いた。
【袋小路】「行き詰まって通り抜けることのできない小路。転じて、物事の行き詰まること。対比の言葉は抜け小路」。
なぜ? 知りすぎている安易な言葉なのに、あえて電子辞書を開いたかといえばこうである。すなわちそれは、人生の晩年を生きる現在のわが身の立場を象徴しているかのように思えたからである。具体的にはもはや過去にこだわりすぎることはできないし、無論、この先のことは書けない。そのため、ネタ不足に陥った現在の状態を、まるで袋小路だな! と、思っていたからである。
ネタ不足に手を焼いてきょうの私は、カレンダー上の「小正月」(きょう15日)にかんがみ、ネット記事を閲覧した。以下は、似通った二つの引用文の抱き合わせである。「小正月とは、正月15日の行事である。または、14日から16日までの3日間、または、14日の日没から15日の日没まで、または、望の日、または、元日から15日までの15日間ともされる。 本来旧暦だが、明治の改暦後は新暦1月15日、もしくは、2000年からは成人の日に行われる場合もある。1月1日の大正月に対して,1月15日を中心にした数日をいう。農耕に関する様々な予祝・年占(としうら)の行事や,鳥追い・どんど焼き・なまはげなどの行事が行われる。二番正月。松とりて、世こゝろ楽し、こしょうがつ( 芭蕉)」。
私は「小正月」にまつわる子どもの頃の思い出にすがり、小正月を祝っている。懐かしく甦る思い出は二つある。一つは「どんど焼き」であり、一つは母が煮炊きした雑煮餅を、父と数を争って食べたことである。当時の父と母は、「小正月」を「旧正月」と言っていた。再び、電子辞書を開いた。【旧正月】「旧暦の正月」。やはり私は、ネタに過去のことを書かないと、袋小路に嵌った状態にある。夜明けは、まだ先のところにうずくまっている。デジタル時刻は、4:19である。
「嗚呼、眠れない!」、続編
1月14日(土曜日)。きょうの文章はきのうの「嗚呼、眠れない」の続編である。きのうとまったく同様に、寝床で二時間余を悶々として眠れず、両目玉冴えて起き出して来た。すると、パソコン上のデジタル時刻もまた、きのうとほぼ同じ2:58と刻まれている。
私にはデートという、洒落た記憶はない。結婚前の私は、妻と歩いていてもわが田舎者には恥ずかしくて、手を繋いだり、腕を組んだり、はたまた肩を抱いたり、したことは一度さえなく、間隔を空けて歩いていた。ところが現在の私は、妻のヨロヨロの足取りを支えるために仕方なく、手を取り、腕を組んで歩いている。傍目に見るこの光景は、82年生きてきたわが成れの果てである。
確かに、人生行路は茨道である。わが体験を顧みれば人生行路にあっては、何度もいやひっきりなしに「進み方、生き方」の厳しい関門が訪れる。まずは、進学・進路の選び方と、それに伴う試験が訪れる。それを終えるとこんどは、就活と言われる就職、すなわち職業選択とそれに伴う試験が纏わり着く。大方これに次のは、婚活と言われる結婚問題、すなわち妻(配偶者)選びの関門が訪れる。勤務する会社における昇進試験も、これまた厳しい関門である。働く時代にあっては、仕事を熟(こな)すことそれ自体、日々に横たわる関門である。そして、仕事の打ち止め(定年)を無事に迎えることは、さらに大な関門である。定年を迎えて、仕事を離れて身も心も自由人になればほどなく、来し方や生き方の総ざらいと、その先への身構えが訪れる。これまた、文字どおり心身に堪える関門である。こののち、人生行路の最後の関門は、終活と言われる「命、仕舞い」の準備である。人生行路の終着駅は、「命の終焉」である。未体験だがこれにも、大きな関門がありそうである。
電子辞書を開いた。【関門】①関所の門。関所。②通過するのがむずかしいところ。使用例、「人生の最初の関門」。
確かに、きょうの文章は、これまたきのう同様に夜明けまでの暇つぶしである。しかし、実際のところこんな短い文章では、暇のつぶしようはなく、いまだデジタル時刻は3:29にすぎない。だからもとより、暇つぶしの足しにはならない。ところが、こんな文章を書きたくなったことにはこんな理由がある。すなわち、きょうとあす(15日)の二日をかけて、「大学共通入試」が行われるからである。受験生の健闘を願うとともに、過ぎた遠い日のわが苦悶が想起されたゆえでもある。それはまさしく、わが人生行路の青春時代に賭けた大きな関門だった。そしてそれは、大道(王道)をくぐり抜けることは叶わなかったけれど、逸れた小道をやっとこさくぐり抜けた、わが人生行路における第一関門だったのである。
現在の私は、「嗚呼、眠れない!」が、あす、その先へ定着するのを恐れている。結文の表現はきのう同様に、夜明けはまだはるか先にうずくまっている、でいいだろう。
嗚呼、「無情」。長い夜
1月13日(金曜日)。嗚呼、眠れない。寝床で悶々すること2時間余、起き出して来た(2:54)。心象(風景)は、時々刻々に変化する魔物である。きょう書けているからと言って、あすも書けるとはかぎらない。継続を叶えることは、極めて困難事である。その証しには、今にも書き止めを食らいそうである。常々私は、文章継続の困難さに脅かされている。だとしたら、きれいさっぱり止めれば、気分の憂鬱や動揺は免れる。人生の晩年を生きる私は、確かに継続の可否の決断のしどころにある。これまた、悶える苦しい決断である。
人生行路は、大まかに時代を区切りそれを連ねて命の終焉へ辿り着く。換言すれば命(人生)の生涯である。一つは、生まれて親の愛情に育まれる幼年時代。一つは、学びに就いて小学生、中学生、高校生、なお何かの学びを続ける場合の学び舎の時代。高校を卒えて実業に就いたとしてもこの時期は、なお学び舎の延長線上にあると言っていいだろう。総じて、青少年時代である。一つは、おとなの仲間入りをして実業社会で堂々と働く時代である。これすなわち、定年(60歳あたり)を区切りとする壮年時代である。一つは、こののちに訪れる老年時代である。わが大まかな時代分けゆえに、もちろん人それぞれに思いや区分は異なるであろう。しかしながら、異なる人生行路であってもまっとうすることは一様に困難事である。
こんなことを、安眠をむさぼれる寝床に浮かべているようでは、もとより眠れるはずはない。私には人生晩年の焼きが回っている。嗚呼、「無常」は、あの世へ導くお釈迦様の身勝手な説法(言葉)である。私の場合は言葉を変えて嗚呼、「無情」である。寝つけの頓服薬が市販されていれば買って、のみたいところである。あっても、人生の晩年を生きる私には効き目はなさそうである。夜明けは、まだはるか先にうずくまっている。起きて、悶々とする長い夜である。