ひぐらしの記
前田静良 作
リニューアルしました。
2014.10.27カウンター設置
「ふるさと便」は「魔法便」
十月六日(木曜日)、体調不良による気分の滅入りに寒気が重なり、いっそう気分の萎えの増幅に見舞われている。寒気はいまだ緒についたばかりなのに、こんなことではこの先のわが身と気分が思いやられるところである。「好季節・秋」真っただ中にあってもわが気分は、その恩恵からすっかり遠のけられている。至極、残念無念である。
ところが、このわが気分を見透かしてもくれたかのように、先日の姪夫婦から二度目の「柿、ふるさと便」が送られてきた。まさしく好都合、そののちの日々の私は、生柿を包丁で剥いては頬ばりながら、憂鬱気分癒しに与(あず)っている。柿自体、いっそう膨らみと黄色身を増し、よりいっそう食べごろに熟していた。ふるさとの柿は、まったく薬剤要らずの効果覿面の確かな処方箋(好意)である。ふるさと便は、段ボールに詰められた柿の旨味(うまみ)に加えて、文字どおり様々な「ふるさと情感」を蘇らせてくれるところがある。それゆえにふるさと便は、おのずから詰められた物(今回は柿)の旨味、甘味を増幅させる、魔法の便とも言えるものがある。
「きょうは、休みます」と、書くつもりでパソコンを起ち上げた。ところが、出まかせにこんなことを書いてしまった。いや、ちょっぴり、書かずにはおれなかったのかもしれない。夜明けの空はきのうに続いて、どんよりとした寒々しい雨空である。秋空もさ迷っている。わが気分は、二度のふるさと便に助けられている。確かに、休むつもりだったこの文章は、ふるさと便の恩恵の証しである。柿は、たっぷりと甘味を増している。
実のない文章、継続は限界
十月五日(水曜日)、現在の時刻は夜明け前にあって、五時近くである。パソコンを起ち上げても書くことなく、机上に長く頬杖をついている。鼻炎症状は今なお二分ほど残し、鼻先ムズムズの不快感を引きずっている。おのずから朦朧頭にある。こんなことを書くために、パソコンを起ち上げたのではない。頬杖をついていると、来し方(過去)、この先(余生)への行きし方が、堂々巡りしている。過去のことではいろんな後悔ごとに苛まれて、余生のことでは矢鱈と不安感がつのってくる。結局、生きることは、死ぬまでの闘いである。確かに、生まれなければ、この苦しみ免れる。私は、とことんバカなことを書いている。そしてそれを、秘かに私日記で留めることなく、ブログで公開している。まさしく、現在の私は「雉も鳴かずば撃たれまい」という成句に、ピッタシカンカンの心境にある。
「継続は力なり」という成句は、広く人口に膾炙(かいしゃ)している言葉である。私は長年、文章を書いてきた。六十(歳)の手習いをかんがみれば、かなりの継続にありついている。ゆえに、ちょっぴり自惚れるところはある。しかしながら、ちっとも力にはなり得ていない。継続が力になり得るのは、際限ない(無期限)継続あってのことゆえである。私の場合は、生来の三日坊主を少しだけ克服しているにすぎない。それも多くは、こんな実のない文章を書いて、続いているだけである。実際には、心侘しい継続である。
きょうは起き立てにあって長く頬杖をついて、パソコンを起ち上げても頬杖をついたままに書いている。もとより、夜明けまでの時間潰しにすぎない。二十分ほどの指先運動の合間に、夜明けが訪れている。いまだ夜を引き継いだ、朝日の見えない夜明けである。単なる時間潰しのはずだったけれど、挙句、恥を晒してしまった。パソコンは閉じるけれど、頬杖はなお先へ継続である。
称賛、村上選手
十月四日(火曜日)、先ほどまでの就寝時にあって私は、身体の危険信号とも言われる寝汗にまみれた。そのため、汗に濡れた肌着を着替えて、パソコンに向かっている。いまだに治りきらない風邪は、飛んでもない病を潜めているのかもしれない。どんな危険信号なのか? と恐れて、私はネット記事のいくつかを読んだ。この文章を閉じれば、念のため体温を測るつもりでいる。
さて、もとよりきょうは、野球ファンであればすでにだれもが周知のことを記録しておくことに決めていた。実際には、メデイアが伝える配信ニュースの引用である。村上選手は本塁打数で、これまでの日本人最高本数(55号)で、読売ジャイアンツ在籍時代の王貞治選手に並んでいた。そしてこの日、ついに56号を打って、今シーズンを終えたのである。ところが村上選手は、本塁打王(日本人最高本数)のみならず、三冠王(本塁打、打率、打点、三ついずれも首位)の快挙を成し遂げたのである。言葉を重ねれば、高校出四年目の若干22歳の若者が果たした壮挙である。村上選手は熊本県出身、学び舎は私立・九州学院高校である。下記は、全容記事からの一部抜粋である。ヤクルト・村上 最終打席で決めた56号は会心「手応えばっちり」呪縛解かれ安ど「長い1本だった」10/3(月) 22:34配信 デイリー)。「ヤクルト8-2DeNA」(3日、神宮球場)。すでに優勝を決めていたヤクルトがCSで対戦する可能性があるDeNAに快勝して、リーグ最終戦を終え、リーグ戦を締めくくった。村上宗隆内野手が球界18年ぶり、令和初の三冠王に輝いた。最終成績は打率・318、本塁打56本、打点134だった。レギュラーシーズン最後の打席となった七回。DeNA5番手の入江のインコースの直球をジャストミート。61打席ぶりの快音で、歴史の扉をこじ開けた。試合後は「手応えはばっちり。タイミングも合っていた」と振り返り「ホッとしましたし、長い1本だった。本当にホッとしました。最終打席というより、打撃フォームを修正しながら、動画を見て感じたところを表現できたらと思っていた。こうして最後の打席で打てたのは自分でもビックリしてます。最後のご褒美と思って喜びたい」と、うなずいた。
ちよっぴりだけ、明るい文章
十月二日(日曜日)、きのうの初日の天候から鑑みれば、どうやら十月の気象は不順なく、晩秋の好季節にありつけそうである。きょうの夜明けの空は、白地というより淡い青地に、朝焼けの彩りが浮いている。清々しい朝空である。自然界の穏やかな恵みは、眠気眼を見開きにしてくれる、長閑(のどか)なひとときである。おのずから、昼日中の秋天の恵みが楽しみである。
きのうは妻の髪カットの引率同行で、大船(鎌倉市)の街にある、妻が行きつけのお店へ出かけた。お店とは何たる不穏当の表現であろうか。やはり、美容院と書くべきか? と戸惑った。しかし、お店とした。熟慮の末に、美容院よりお店のほうが適当に思えたからである。言うなれば美容院という言葉にはなじまない、安価を旨に十五分程度の髪カット専門である。私は妻と一緒に店内に入り、仕上がりを店内で待って、終われば二人して外に出る。髪カットの済んだ後の妻の表情は、良く写真などで見かける仕様「前、後」のように、様変わりに明るくなっている。老婆になっても女性! 美容にかかわる女性心理は、男性の推測をはるかに超えるものがある。
確かに私自身、散髪の後の気分は、かなり解(ほぐ)れてくる。しかしながら、美容院(髪カット)後の女性の場合は、この程度の気分の解れで済みそうではない。すなわち女性の場合は、美容(見目形の良さ、綺麗、美しさ)は生涯のテーマであり、憧れと言えそうである。いや、ないものねだりでもある。もちろん、妻も同類項である。このことには十分、私は同意・納得するところがある。
髪カットが済むと二人は、気分良く買い物回りを済まして、帰途に就いた。妻の予約時間は、午後三時半だった。わが家へ返り着いたのは、ほぼ五時だった。リモコンスイッチでテレビを点けた。読売ジャイアンツ対横浜ベイスターズ戦は、運よくプレイボールだった。私たちは、試合終了まで見入った。ファンとする阪神タイガース戦でもないのに、手を叩き、固唾をのんで、ベイスターズを応援した。その甲斐あり、1対0で、ベイスターズが勝利した。他力本願だがこのとき、タイガースの3位が確定した。負けたジャイアンツが4位になり、タイガースはCS(クライマックス・シリーズ)への進出を決めたのである。
私は風邪薬を服んで、床に就いた。明けても、いまだに鼻炎症状を残している。しかし、いつもと違って、ちょっぴり明るい文章が書けたのである。きょうのわが日課には、妻の髪染めの手伝いがある。わが自主行動であるから、これにはまったく腰の重さはない。妻のお返し言葉は、いつも決まって「パパ。ありがとう」である。大空の彩りは消えて日本晴れ、すなわち青一辺倒に変わっている。十月の気象は、不順だった九月の罪滅ぼしをしてくれそうである。
十月一日
月が替わって十月一日(土曜日)、文字どおり中秋から晩秋にかけての、秋たけなわの夜明けを迎えている。朝日は照らず、台風に前触れみたいな風が吹いている。けれど、まずは穏やかな月替わりの朝を迎えている。しかし、わが身の場合は、必ずしも穏やかではない。もちろん、気分もすぐれない。
さて、きのう夜明けにあっては、早とちりをしてしまった。すなわちそれは、「鼻風邪は持ち込まずに済んだ」と、書いたのである。確かに、夜明けから昼過ぎあたりまでは、風邪症状は消えていた。ところがこの間は、不完全状態をひた隠しにしていただけだった。なぜなら風邪症状は夕方頃からぶり返し、私はたちまち憂鬱気分に取りつかれた。そして、一夜明けた現在もなお、風邪症状に悩まされて、おのずから気分は憂鬱状態にある。挙句、とんだ月替わりを招いている。S医院からもらっていた風邪薬はとうに服み尽くし、今は妻が貰っていた「葛根湯」を盗み服みし、さらにそれに買い置きの市販の総合感冒薬を重ねている。ところが、罹り始めの夏風邪は名を秋風邪に代えて、未だに治りきらないままである。
「風邪は大病の基」。そうであれば現在は、肺炎の惧(おそ)れを気にせずにはおれないところはある。だったら風邪などと侮(あなど)らずに、早々に外来患者となるべきときかもしれない。
きのうのNHKニュースでは、落語家・三遊亭円楽さんの訃報が伝えられた。私より十も年下(享年72歳)である。きわめて惜しまれる、他界(肺がん)だった。他人様(人様)とは思えず、心からご冥福を祈るところである。わが年齢をかんがみれば、風邪症状を蔑(ないがし)ろにするところはまったくない。もちろん、承知の助ではある。しかし、通院にさえ決断力不足(優柔不断)がともなうのは、わが生来の「身から出た錆」である。
秋本番、すなわち好季節の真っただ中にあっては、季節にふさわしい明るい文章を書きたい、書くべきである。しかしながら書けず、とんだ月替わりに成り下がっている。「可もなし、不可もなし」、いや不可だらけの月替わりである。平に詫びて、御免蒙(こうむ)りたい思い満杯である。強風に朝日が加わり始めている。
九月最終日
九月最終日(金曜日)、いつものように(万古不易)、夜明けが訪れている。時々刻々、変わるのは人の世である。起きて私は、小難しい成句を浮かべている。生噛りの覚束ない成句ゆえに、電子辞書を開いて復習を試みる。自分勝手なお浚いゆえに、平に詫びるところである。説明文は、電子辞書の転記である。
【兄弟(けいてい)牆(かき)に鬩(せめ)げども外その務(あなど)りを禦(ふせ)ぐ】「兄弟(きょうだい)は家の中では喧嘩をしても、外から侮(あなど)られるようなことがあれば、力を合わせてそれを防ぐということ」。例文「―、兄弟とは本当にいいものだね」。
秋は物思いの季節である。異母兄弟を含めて多くの兄弟姉妹(戸籍の上では14人)にあって、次兄(九十二歳)を残すのみとなった。だれもが喧嘩一つしない兄弟愛を育んだために、必ずしもこの成句は、ピタリ適当と言えないところはある。しかし、幸運にもこの成句を浮かべずにはおれない、わが身のありがたさである。ネタ切れが招いた、とんだ報酬、すなわちわが身に沁みる成句である。
「物思いの秋」は月を替えて、いよいよ特有の愁(うれ)いを帯びて深まりゆく。鼻風邪は、月替えに持ち込まずに済んだ。爽秋は、秋愁(しゅうしゅう)の季節である。視界、秋の朝日が輝いている。この先、私はどんな物思いに耽るであろうか。
カンフル剤は「ふるさと便」
九月二十九日(木曜日)、夜明けは今にも雨が落ちてきそうな、どんよりとした曇り空です。生きて目覚め、起き出して、パソコンを起ち上げています。しかしながら、心象は乱れて、文章が書けません。モチベーション低下のせいです。このところ、生きる気力が萎えています。ふるさと在住の姪っ子から、秋恒例の「柿、ふるさと便」が届きました。ふるさと便は常に、最良かつ最高の生きるためのカンフル剤です。早速、柿を剥き、四つ切にして、「旨い、旨い!」と言って、頬張りながら食べました。ふるさと慕情がムクムクと溢れました。傍らの妻も、「パパ、美味しいね!」と言って、笑顔で同調してくれました。この言葉で、わがふるさと慕情は、さらに風船みたいに膨らみました。それなのに、こんな惨めったらしい文章を書いてしまい、ほとほとなさけないです。焦らず、モチベーションの回復に努めるしか、便法はありません。わが心中は、すでに土砂降りの状態です。空中および心中の晴れ間を望んで、戸惑っている指先を閉じます。気狂いの自覚症状はありません。だからなお、厄介と言えるかもしれません。せっかくの好季節にあっても、清々しい気分は遠のいています。書くまでもないことを書いてしまった、わがお里の知れる約十分間になりました。すみません。
続「通院日」
九月二十八日(水曜日)、半眠りの朦朧頭で起き出してきたため、なさけなくも文章の体をなすものが書けません。そのため、きのうの『通院日』」の続きを殴り書きして、文章を結びます。
診察時間は、予期したとおり三分足らずで済みました。それゆえ、私は拍子抜け気分をつのらせて、診察室を後にしました。もちろん長い時間、診察室に留め置かれるよりは、ありがたいことです。診察はいつもの男性・院長先生とは異なり、いまだ中年にも満たないと感じた初見の女医先生でした。私が両耳に集音機を嵌めていたのを咄嗟に察知されたのであろうか。先生は、大きく明るく弾んだお声で相対されました。私は優しさを感じて、気分は患者らしくなく、すぐに解れました。マスク越しのため向き合っても、先生のお顔の全容を見ることはできません。しかしながら私は、女医先生は「美貌」と、決め込みました。
診察は主に、事前の視野検査の画像を眺めながらでした。
「変化はありません。大丈夫です。薬はまだありますか?……」
「5本ほど、お願いします」
「次も、半年先に、診てみましょう」
「わかりました。ありがとうございました」
診察室を出ると、ドア近くの椅子に並ばれていた次の人の顔には、驚いた様子があらわれました。お顔には、わが診察時間の短さにたいする、驚きとうれしさが交錯していました。私は予約時間の午前11時前に出向いて、午後2時過ぎに当院を後にしました。いつものことながらこの日もまた私は、目病み患者の多さにびっくり仰天していました。
きのう・この日(九月二十七日)の日本社会は、故元安倍総理の国葬の日でした。待合室で見たかぎり下々の国民は、病をこらえ、治しては、生きることに懸命です。きのうに続く、きょうの夜明けの日本晴れは、秋の復調の確かな証しと、言えそうです。長く待ち望んでいたことだけれど、半面寒さがに身に沁み始めています。実のない駄文、やはり、休むべきだった。もちろん、「朦朧頭だから、仕方がない!」と、言い訳の効かない文章です。
通院日
九月二十七日(火曜日)、どうやら不順続きの天候は正規軌道へ戻り、地上に穏やかな夜明けを恵んでいる。すると、残るはわが不良体調の良化である。ところが、こちらは未だしである。実際には、夏風邪の尾を引く鼻風邪は、未だに治りきらないままである。気分もすぐれず、またとりたてて書くネタもなく、それゆえにきょうは、端から休筆を決め込んで、起きてきた。しかしながら、それはそれで、気分はしっくりしない。仕方なく、パソコンを起ち上げた。浮かんだネタは、このことだけである。きょうの私は、半年ごとに訪れる「大船田園眼科医院」(鎌倉市)への通院日である。実際の施療は、緑内障の半年ごとの経過診察である。
私の問いは、
「先生、死ぬまで続くのですか?」
「そうですね」
わが言葉に変えれば、「死がゴール」のエンドレス通院と、言われたことになる。あえて、聞かなきゃよかったのだ。聞いたゆえに、つらい宣告を被ってしまったのだ。私には、何らの悪い自覚症状はないのに。
治療には、一日に一度だけの点眼薬の一滴こぼしが、もう何年も続いている。診察室に入っても、三分の診察時間さえ与えられず、いつも二分程度でおさらばである。それはそれで長引く診察よりいいわけだけれど、私は半日がかりの通院日にあっては物足りなさを感じている。確かに、「念のため、日を替えて精密検査をしてみましょう」と、言われるよりは大ましではある。だけど私は、「こんにちは」「ありがとうございました」の間隔のあまりの短さにいつも、狐につままれた面持ちで診察室を後にしている。おそらく、きょうの診察もそうなること、請け合いである。もちろん私は、異状宣告を望んでいるわけではない。しかし、半日、半年、がかりの診察であれば、私にはもっと長い時間診て欲しいという、願いや思いはある。
書くつもりのない文章だっただけに、これでおしまい。日本晴れに朝日が映えて、清々しい夜明けである。それなに、こんなことを書いて、とことん、バカな私である。
文明の利器の祟り
九月二十六日(月曜日)、起き出してきて夜明けの空をしばし眺めている。朝日こそ見えないけれど、風雨のない穏やかな夜明けにある。どうやらこの先は、秋本来の好季節にありつけそうである。ところが、わが気分は穏やかではなく、なさけなさが充満している。いまだに治りきらない夏風邪のせいもあるけれど、それよりはるかに痛手のなさけなさに見舞われている。それすなわち、わが脳髄の衰えと、それによる様々な不都合が加速しているせいである。おや! 認知症の兆しかな? とも思える、へまも多くなり始めている。具体的に大きなショックを受けているのは、脳髄の衰えにともなう記憶力喪失である。
そんなかにあって最近驚愕した体験では、本来、容易な漢字であっても、手書きではまったく書けなくなっていたことである。なさけなくもこれには、大きなショックを受けている。明らかに、文明の利器すなわちデジタル文字(漢字)に頼りすぎてきた大きな祟りである。パソコンで長いあいだデジタル文字(漢字)を叩き続けたことにたいし、逆らいでもするかのように、手書きの漢字が書けなくなっていたのである。確かに、この傾向には以前から気づいてはいた。しかしながら最近、手書きしたいくつかの容易な漢字で、その加速度が増しているを知らされたのである。ショック、つらい確認だった。
これに懲りてこのところの私は、夏風邪特有の鼻先グズグズの不快感丸出しのなかにあっても、手書き漢字のおさらい(書き取り)に大わらわになっている。具体的には、小学用と中学用を主とする、常用漢字(1950余)の手書き漢字の復習である。それゆえに私は、余生短いなかにあって突然飛び込んで来た、お邪魔虫(再度の手習い)さながらの思いに打ちひしがれている。小学校低学年時代に学んだ漢字にさえこうだから、後学の熟語、四字熟語、諺、成句などの記憶喪失には、はかり知れないものがある。ところがもはや、これらを復習する余生の時間はない。あまりのショックを受けたものだから、恥を晒してまでも私は、きょうの文章のネタに用いたのである。
脳髄の衰えは加齢のせいにはできない、もとよりわが脳髄の脆(もろ)さ、貧しさではある。ようやく中秋らしい、胸の透く清々しい、朝日が輝き始めている。ところが私は、パソコンを閉じれば、小学用漢字の手書きをする羽目になる。表題は、なさけなくも「文明の利器の祟り」でいいだろう。