ひぐらしの記

ひぐらしの記

前田静良 作

リニューアルしました。


2014.10.27カウンター設置

内田川(熊本県・筆者の故郷)富田文昭さん撮影

 

「建国記念日」&「結婚記念日」

 2月11日「建国記念日」(土曜日、祝祭日)の未明、窓ガラスに掛かるカーテンを開いて舗道を眺めた。恐れていた雪は降っていない。きのう降り続けていた雨は止んでいる。きのうの大雪予報は、鎌倉地方では外れて、霙(みぞれ)や霰(あられ)は降らず、寒々しい氷雨(ひさめ)が降り続いた。氷雨のなかわが夫婦は、リハビリを主とするデイサービス施設の送迎車に、往復乗り込んだ。かねて予定されていた、リハビリ施設の体験見学を実践したのである。実践者は、大腿部骨折による入院、手術、そして退院後の妻である。私は、いつものように引率同行者である。妻はいくらかの器具の体験を試みた。私はその様子を眺めたり、男女老齢の人たちのリハビリぶりを、椅子に腰を下ろして見詰めていた。人それぞれにひたすら、「生きることを目的」にリハビリに励んでいた。私は、「いずれわが身かな」と思って、心寂しく感慨に耽った。やはり、人間にとって「生きること」は幸福なのであろう。いや、介護や介助など、人様なの支えなく生きたいのであろう。確かに、「人生は死ぬまで努力」が定めである。妻は、渋々なのか、進んでなのか、とりあえずなのか、入所を決意したようである。
 きょうは何度目になるのか知らないけれど、なんだか侘しいわが夫婦の「結婚記念日」である。もちろん、指折り数えればわかるけれど、あえて数えたくはない。さて、メディア報道によれば3月13日より、マスク着用から原則、解放されるという。3年ほど願って、ようやく「待っていました」と、言える朗報である。しかしながら、確かな吉報となるのか、それとも先走りの凶報となるのか、と手放しの朗報には未だ心許ないところがある。
 起き立てにあって私は、きのうの人様のリハビリ様子を浮かべていた。いずれ、リハビリ予備軍になるとはいえ、今のところ私は幸福者である。なぜなら、まったく火の気のないパソコン部屋で、腰の痛みなく硬い椅子に座り、五月雨式(さみだれしき)とはいえ指先自由にキーを叩いている。だから、きょうだけは意識してマイナス思考を沈めて、何度目かの結婚記念日を寿(ことほ)ぐべきなのかもしれない。ただしかし、やむにやまれずリハビリを決意した、きのうの妻の姿が痛々しかったのは残念無念である。
 薄っすらと夜が明けて、雪降りない、雨降りない、そして太陽の光ない、寒々しい冬空である。

汚れた祭典、落ちゆく日本人の徳

 2月10日(金曜日)、起き出して来てカーテンを開き、窓ガラスを通して、舗道を眺めた。未だ夜明け前にある。雪は、降っていない。きょうの関東地方は、大雪予報である。予報の外れがなければ雪は、昼時あたりから降るのであろうか。体感的にきのうは、一日じゅうこの冬で最も厳しい寒さだった。茶の間のソファに背凭れていても、寒くて身震いをおぼえていた。現在、火の気のないパソコン部屋は冷え切っている。
 自然界は、梅雨明けには人間界に大雨を降らし、なんらかの災害をもたらすものである。すなわち、無傷にすんなりとは明けてくれないという、最後の悪あがき現象が多々ある。これと似たものは、冬から脱し春の訪れあたりの気象である。すなわち、これまた最後の悪あがき現象のごとく、猛烈な寒気に加えて、大雪をもたらす傾向にある。大雪予報のきょうあたりが、本格的な春を迎えるにあたっての、最後の胸突き八丁と言えそうである。そうであれば耐えて、春の訪れに希望を託すところである。
 きのうの文章は、「ひぐらしの記」の頓挫を恐れて、メディア報道にすがっただけである。実際には「トルコ地震」にまつわる記事を引用し、さらには4人の日本人・容疑者のしでかした悪徳を書いた。前者は、天災をおもんぱかっただけで、仕方のないものだった。一方後者は、日本人の徳の落ちのぐあいをかんがみて、嘆かざるを得なかった。しかしながらこちらは、もともと悪人のしでかした悪徳ゆえに、日本人の徳からは埒外(らちがい)と言えるものではある。だからこの事件に比べれば、日本人の徳の落ち込み、徳の廃れを感じて、もとより嘆き悲しむべきものはこちらである。すなわちそれは、このたびの「東京オリンピックおよびパラリンピック」における、組織体と企業体にまつわる悪徳報道である。こちらは善人面をした個人の絡む組織と企業がしでかした悪徳ゆえに、こちらこそ日本人の徳が地に落ちたことを嘆かずにはおれないものである。きょうはこのことを書き足したくなり、パソコンを起ち上げたのである。
 「おお、寒い」。寒気に加えて、日本人の徳の汚(けが)れと落ち込みを嘆いているせいである。こんな暗いネタで、「ひぐらしの記」の継続が叶えられるのは、もちろんわが本意ではない。夜が明けても、雪は降っていない。だけど、寒さが身に沁みる。

世界事情(トルコ地震)、日本事情(地に落ちた日本人の徳)

 2月9日(木曜日)。起き出して、まったく自己都合だけの文章である。いや、文章とは言えない。なんでもいいから書かないと、沙汰止みになるのを恐れて、メディア報道にすがったにすぎない。一つは天災、「トルコ地震」にかかわるものである。「トルコ、シリアを合わせた死者は8日、1万1000人を超えた。死者数が1万人を超える地震は、2011年の東日本大震災以来となる。トルコでは6400軒以上の建物が倒壊した」。一つは人災、このことである。「フィリピンを拠点とし、特殊詐欺と日本国内広域強盗事件にからんで、フィリピンから移送された容疑者4人の逮捕」である。天災、人災共に、文字どおり世界と日本を震撼させたものである。前者は、事件とは言えない青天の霹靂であり、耐えるしかない。後者は、まさしく人の為す大事件である。共に、悍(おぞ)ましいことには変わりない。しかしながら、人間の、いや日本人の、恥晒しでは後者である。確かに前者は、大地を揺るがした。確かに後者は、地に落ちた。その落ち方は、どん底すなわち、かぎりなく惨(みじ)めである。メディアすがりの文章で、頓挫を免れるかどうかは、明日へ持ち越しである。

春愁

 2月8日(水曜日)。書くのは大変。掲示板を覗いてくださる人も少なくなりました。潮時が訪れました。冬を耐えて、書きやすい春が来たと言うのに、わが身哀れ❗

共に老いた、配偶者

 2月7日(火曜日)。きのうぶり返していた寒気は、きょうは緩んでいる。本格的な春に向かって、特有の季節のめぐりである。2月はこんな日を繰り返しながら、暖かい確かな春三月が訪れる。その前にはこれまた、季節特有の「春一番」が吹く。自然や季節は老いることなく、過去の気象データに沿って、ほぼ正確にめぐってゆく。これに比べて人間には必定、老化現象という人生の晩年がある。このところわが夫婦は、まさしくその現象を露呈している。傍目には「オシドリ夫婦」さながらであろう。しかしながら実際のところは、共に切ない老い姿のさらけ出しである。それはときには腕を組んで、ときには手を取り合っての、ヨタヨタ歩きの光景である。
 「パパ。わたしの足に合わせて、歩いてよ」
 「合わせているよ」
 「もっと、合わせてよ」
 「そうだな」
 このところの私には、妻の病院通いのための引率同行が増えている。病院へ行けば、どこかの調剤薬局へも回ることになる。現在妻は、大腿骨骨折による施術後の経過観察のための通院と、ほか諸々の体調不良ゆえの通院がある。これらに加わるものには、髪カットの外出がある。これらの行動は、ほぼ定期的にめぐって来る。
 妻は、大船(鎌倉市)の街への買い物行動はしないというよりできない。それゆえに大船への買い物行動は、わが単独の専売特許である。妻の通院は住宅地内の開業医院の一院と、ほかは往復定期路線のバスを利用しての大船である。たまに妻が買い物に出かける場合は、住宅地内の最寄りの「湖畔商店街」である。こちらにはリハビリを兼ねて、買い物車を引いて妻単独で出かけることもある。しかしながらそれでも、気に懸けるより出かけるほうがましだと、私は途中助太刀に向かう。
 わが買い物行動は、すべて遠出の大船の街である。そしてその行動は、おおむね週に二度である。もちろんこれは、妻の引率同行がない週のほぼ決まり事である。ところが、妻の引率同行があると、おのずからこのパターン(習わし)は崩れて大忙しになる。なぜ、こんな面白味のない私的なことを書いたかと言えば、先週・今週にあっては妻の引率同行が、わが日程に混んでいるからである。今週にかぎればきのうは、K耳鼻咽喉科医院(大船)、きょうは「大船中央病院」、そして金曜日(10日)には、民間のリハビリ施設(大船)における体験見学が予定されている。
 結論を急ごう。私の場合、老いて益々盛んというのは、妻の外出行動にともなう、切ない引率同行である。もちろん、好きなものを漁る買い物と比べれば、まったく楽しめるものはない。しかしながら妻は、みずからの人生を棒に振ってまで、心許ない田舎者の私に懸けてしまったのである。まさしく賭け、大博打(おおばくち)である。それを思えば、妻を粗末にはできない。ヨタヨタ歩きは、共に老いた配偶者の哀しみである。夜が明けて、妻の通院の準備も、率先躬行しなければならない。頼りない鬼の目にも、妻を案じて、しばし、涙タラタラでる。いや、自分自身の老いを案じている。

他人様との会話を望む日常

 2月6日(月曜日)、起き出してみると、寒気がぶり返している。書くネタもない。寒気に震えるより、休んだほうが身のためである。しかし、パソコンを起ち上げてしまった。せっかくだから一つだけ、わが現在の関心事を書き止めたい。新型コロナウイルスの感染者数は、このところ全国ベースで減る傾向にある。もちろん、喜ぶべきものである。なぜなら、予告どおりにことが進めば、マスク着用から解放されそうである。生きているうちのマスク着用の日常生活は、もうこりごりである。自分自身、鬱陶しいことが第一である。次には、他人様(ひとさま)との対面における、会話がもどかしいゆえである。いや、互いにコロナを気に懸けて、マスク着用では会話自体がなくなりつつある。
 人生の晩年にあって会話は、和みと意気を上げる命綱である。会話のない人生は、もはや生きる屍(しかばね)、人間とは言えない動物の範疇にある。政府の予告によれば、コロナのぶり返しがなくこのまま収束へ向かえば、5月8日にはマスク着用から解放される。日本政府の予告とはいえ、異界のコロナの動静しだいであり、当てにはできない神様頼りではある。しかしながら神様と違って日本政府の予告であり、私は予告の実現に期待するところ最大である。
 行動や外出自粛を強いられてきたコロナ発生以来の三年間は、人の、いやわが愉しみとする会話を殺がれてきた。そうこうしているうちに残りのわが命は、もはや後がない。挙句私は、死ぬまでマスク着用が強いられでもしたらと懸念し、その味気ない日常生活に恐々するところがあった。私は茶の間で対面する妻との会話だけでなく、戸外や路上で他人様との出会いがしらの会話を生き甲斐にして、わが命を長らえてきたのである。言うなれば私は、「会話こそ、人生の愉しみ、わが命の根源」と、肝に銘じてきたのである。すると、交わす会話に、マスクはお邪魔虫である。結局、コロナの収束、できれば終息、そしてマスク着用の不要予告は、現在のわが関心事のイの一番である。もちろんそれは、他人様との会話を愉しみ、わが残りの命に味付けをしたいためである。やや切ないけれど、会話のある日常生活こそ、わが最大の願望である。
 短く書くつもりだったのに、だらだらと火の気のないパソコン部屋に長居をしたため、身体は冷え冷えである。三寒四温、昼間は春の陽ざしになりそうな夜明け(朝日)である。

春の恵み

 2月5日(日曜日)、いくらか寒さを感ずる夜明け前にある。しかしながらもはや、たいしたことはない。季節は三寒四温という季節用語をたずさえて、確かな春へ向かっている。きのうは「立春」(2月4日)、昼間の陽気は体に汗が滲むほどのポカポカだった。茶の間のソファに背凭れながら私は、心中(季節は人間とは異なりこんなにも正直者なのか)と、自然界の恵みを礼賛した。驚く勿れ! 暖かい陽射しに呼応するかのように、庭中の梅の花は綻び、椿の花は色艶を濃くしていた。山から番(つがい)のメジロが飛んで来て、嘴(くちばし)を突っ込み、しばし椿の花の蜜を啜った。自然界の営みに酔いしれていっとき、私は自然界のもたらす和みに身を沈めていた。
 ところがどっこいテレビを点けると、世にも摩訶不思議、いや物騒な事件を報じていた。それは、日本列島の住民(国民)を怯えさせている強盗事件のあらましだった。この事件の全容を知るまでは、いまだ序の口である。ところが、この事件のみならずこのところのテレビニュースには、やたらと他殺すなわち殺傷事件が増えている。なんだか人の世は、一気呵成に惨たらしい様相を深めている。これらの事件に物価上昇を加えれば、確かに人の世は、生きにくく、住みにくくなるばかりである。さらに加えれば、このところ減少傾向にあるとはいえ、コロナの報道が尽きることは未だ闇の中である。
 あんなこんなで、人の世の憂さ晴らしを託すのは目下、自然界の恵みがイの一番と言えそうである。なかんずくその先兵を為すのは、のどかな春の訪れである。人間としてなんだか侘しい心地だけれど、それでも春の恵みにすがりたい気分山々である。「春よ、来い! 早く、来い!」。いや、「立春」過ぎて、もう、春は来たのである。

立春

 「立春」(2月4日・土曜日)。春は風・嵐。草木は芽吹く。春眠。季節はめぐる。わが残りの命は短く縮む。起き立てに浮かんでいる、立春にちなむわが感慨である。一年の始めの日は元旦である。春夏秋冬・四季の始めの日は立春である。すなわち立春は、季節めぐりの始めの日である。茶摘みの頃の「八十八夜」も、台風シーズンを表す「二百十日」も、立春を起点として数えられる。それほどに立春は、人の生活に待たれている。裏を返せば、冬衣を脱ぎ捨てて、春を迎える喜びの証しである。
 さらに浮かぶ言葉や成句を重ねれば、春風駘蕩、春日遅遅、春はあけぼの、春眠暁を覚えず、などがある。もちろん春は、長閑(のどか)な日ばかりではなく、「春に嵐」はそれらを凌ぐ「春のいたずら」である。
 こんな子どもじみた遊び心はどうでもよく、冬嫌い、いや寒気嫌いの私は、立春の訪れの悦びに浸っている。確かに、立春は起き立てにあって、寒気を遠のけている。喜ぶべきか、今朝もまた、寝坊してしまった。それゆえ、尻切れトンボを恥じずこれでおしまいである。いや、春は恥かく季節でもある。

節分

 2月3日(金曜日)「節分」、私は寒気を遠のける「春の節分」を首長く待っていた。それゆえに、インターネット上に記載の節分にかかわる人様の文章を読んで、ワクワク童心返りを試みた。下記する引用文は、節分にかかわる似たり寄ったりの文章を「」(かっこ)閉じで分けて、並べたものである。こんな遊びは案外、節分気分を高めるものである。巻き寿司は夫婦共に大好物だけれど、恵方巻は商魂臭くて腹いせまじりに買わない。妻がわが身にぶつける炒り豆はすでに、買い置きしている。おまじないと知りつつも、邪気払いになればと、痛くとも耐えるしかない。
 「2023年2月3日は節分です。節分の日に恵方巻きを食べる時に向く恵方の方角は『南南東やや南』です。」
 「節分とは? 節分は季節の分かれ目で本来は立春、立夏、立秋、立冬の前日を指しますが、現在では節分というと春の節分、立春の前日を指します。これは立春から始まる二十四節気が春の節分で一巡し、春の節分が季節の分かれ目だけでなく一年の節目となっていることによります。」
 「節分と豆まき 節分に豆をまくのは古くから行われている事で、季節の変わり目は邪気が入りやすいと考えられていて、一年の最後の日に邪気を払うために豆をまく儀式がはじまりました。」
 「節分と恵方巻き 節分に恵方巻きを食べる風習は一部の地域で古くから行われていたようですが、全国的に広まったのはコンビニなどで売られるようになってからと言われています。恵方巻きはその年の福を司る神様の方角を向き、無言で願い事を思い浮かべながら、一本をほおばるとよいとされています。恵方の方角は毎年異なります。」
 「節分と柊鰯 節分の日には、柊鰯(ひいらぎいわし)を飾る風習もあります。柊鰯とは柊の枝に鰯の頭をさしたもので、柊のトゲと鰯の臭いによって邪気を払い、魔よけのために飾る風習もあります。柊鰯も古くから行われていたようです。」

春の証しの寝坊助

 2月2日(木曜日)、「春眠暁を覚えず」の候にはまだ早いけれど、久々に寝坊助を被り心が焦っている。そのため、きょうは休もうと思いながら、パソコンを起ち上げている。夜明けの明かりは未だないけれど、デジタル時刻は6:13と刻まれている。いつもは真夜中とも言える頃に起き出しており、それゆえこんな時間の起き出しは喜ぶべきであろう。なぜなら、目覚めの気分はやはり爽快である。しかし一方、文章を書く時間は圧迫されて、文字どおり走り書きで急いでいる。
 旧年の「冬至」から「春分の日」(3月21日)までには半ばほどを過ぎて、夜明けの早さも半ばどきにある。しかしながら現在は、いまだに夜のたたずまいである。このことではきょうは、朝日の見えない夜明けなのであろうか。それとも、雨模様、あるいは曇り空の夜明けなのであろうか。文章の拙さの自業自得とはゆえ、このところ掲示板を覗かれる人の数は、かなり減りがちである。すると、こんな文章では多分、さらにその傾向に加速度を増し、拍車がかかりそうである。
 このところ私は、生来のマイナス思考を意識的にプラス思考へ変えている。しかし、心許ないたったの五日目である。だから、この決意の頓挫を恐れている。だから、あえてそのことを愚痴こぼしはしない。いや、「一寸の虫にも五分の魂」、この屈辱を跳ね返し、頑張ろうと思っている。きょうの文章は、この決意を確かめて、この先は書き止めである。現在時刻は、6:31へと進んでいる。
 夜は薄く明けて、朝日の見えない曇り空である。寒気は、はるかかなたへ遠のいている。明日は「節分」、明ければ「立春」である。紛れもなく「春はあけぼの…」の候が近づいている。きょうの文章の取り柄は、「生きている証し」である。いや寝坊助を被り、心焦って、生きている証しである。