ひぐらしの記

ひぐらしの記

前田静良 作

リニューアルしました。


2014.10.27カウンター設置

内田川(熊本県・筆者の故郷)富田文昭さん撮影

 

実りの秋、真打「新米、ふるさと便」

 十月二十二日(土曜日)、未だ夜明け前にある。熟語を用いれば、ズバリ「未明」である。寝床に寝そべっていたおりのわが心中は、こんな思いに脅かされていた。それはこうである。つくづく私は、現代社会に適応できないたわけもの(落伍者)である。この思いの発露は、これまでも何度か吐露し、また書いてもきたデジタル社会への不適応、すなわち置いてきぼりである。実際のところは、デジタル社会の便利さへの乗り遅れである。挙句、私は日々鬱陶気分に陥り、落伍者感情がつのるばかりである。このところのテレビニュースでは、紙の健康保険証をデジタルに切り替えるというものがあった。どうなることやらと、あわてふためくばかりである。便利は不便利と裏腹である。その証しはこれまで、何度となく体験し、舐め尽くしてきた。私はそのたびに戸惑い、みずからの無能をさらけ出し、落伍者感情に陥ってきた。現代社会にあっては、「不便のもたらす心の通い合い」は、加速度に価値無しになるばかりである。
 さて、常にわが文章は愚痴こぼしまみれである。もとより、わが小器とお里の知れるところである。晩秋にあってこのところの二、三日は、ずいぶん後れてきた秋空を取り戻している。それでも、遅すぎた! と、恨みつらみはつのるところがある。挙句、ようやく私は、冠の秋の一つへ漕ぎつけた。それは果物の秋である。実際のところは果物の秋の先駆けで、それを包含する実りの秋を体験していた。それは二度にわたり姪っ子から送られてきた、「柿、ふるさと便」であった。ところが、それは涎を流してすでに食べ尽くし、おととい、きのうと連日、店頭の柿を買い込んできた。この秋の蜜柑は、すでに二度買っている。おととい一度目だった栗は、味を占めこれまたきのう二度目を買ってきた。これらに重ねて、いよいよ実りの秋の真打を成す、ふるさと産「新米、ふるさと便」が甥っ子から送られて来た。
 わが家は新米にかぎらず米は、甥っ子に面倒掛けてふるさと産を購入している。それにはこんな理由がある。どうせ市販の米を買わずにおれないなら、甥っ子に面倒をかけても、ふるさと産を購入したいという、わが浅ましい魂胆である。理由を付け足せば、食べなれた美味しさに加えて、ふるさと心を失くしたくないという、わが思いからである。甥っ子とて、すでに老身をたずさえている。そのため、打ち止めがちらついている。しかしながら実りの秋にあって、旺盛なふるさと慕情を断つには、かなりの勇気と決断がいる。そのうえに、堪えきれない哀しさが付き纏うところがある。
 夜明けてみれば、あれあれ! 、どんよりとした曇り空である。秋空もいまだに本調子ではなさそうである。天候の回復に後れを取っていたわが鼻炎症状は、真打の「新米、ふるさと便」の到着で気分を良くし、やっとこさ全快に漕ぎつけている。天候のように逆戻りの恐れは多分にあるものの、わが身を省みず、いっとき自然界のだらしなさ(不甲斐さ)を詰りたい思いである。だけど、「図に乗ってはいけないよ!」と、みずからを戒めている。書き殴りの文章は際限なく続くゆえに、ここで意図し打ち止めである。

冠の秋、到来

 十月二十一日(金曜日)、きのうの好天気は、これまでの秋らしくない天候の償いをしたのであろうか。ほぼ一日じゅう、天高い胸の透く秋空に恵まれた。それを引き継いできょうの夜明けは、まったく風雨のないのどかな朝ぼらけが訪れている。私はこんな夜明けをどれほど長く、待ち望んでいたことだろうか。このことにたいして、「恩に着る」という言葉はなじまない。けれど、その言葉以上に自然界の恵みを称賛せずにはおれない。確かに、人間心理は自然界、直截的には天候の良し悪しに左右されるところ大ありである。その証しには、今なお鼻炎症状を引きずっているけれど、現在の気分は九分どおり爽快である。鼻炎症状が完全に遠のけば、ようやく心身、壮快という言葉に置き換えてよさそうである。しかし、それまでは未だしである。つまるところわが鼻炎症状は、この秋の天候不順よりさらに長引いている。挙句、さしたる書くネタもないため、冒頭からこんないたずら書きを長々と書いている。
 「ひぐらしの記」、風前の灯が消えないように私は、竹筒の火起こしでフーフーと吹いている。この表現は、子どもの頃の家事手伝いの一つ、すなわち風呂沸かしのおりの火起こしの真似である。しかしながら、実際には大きな違いがある。なぜなら、風呂沸かしのときの火起こしは、焚きつけた火が消えないように懸命に吹いていた。そして、消えずに火が燃え出すと、そのあとは火起こし用無しに、火は音を立てて燃え盛った。ところが、「ひぐらしの記」の火起こしは、いくら吹いても燃え盛ることはなく、いや叶わず今にも消えそうである。
 きのうの買い物にあってはこの秋、一度目の栗(茨城産)を買ってきた。栗は、妻の手で栗団子に変わった。味見の栗団子はきょう、食べどきの本番を迎えている。ようやくわが家には、冠の秋のもたらす恵みが現れ始めている。朝ぼらけは満天、青々しい日本晴れとなり、天上、空中、地上に満遍なく輝いている。天界の恵みのおかげでわが鼻炎症状は、きょうで打ち止めになりそうである。そうなれば、果物の秋の買い出しが忙しくなる。もちろん、うれしい悲鳴である。

ひとときの秋天

 十月十七日(月曜日)、早い起き出しで、未だ夜明け前の四時過ぎである。それゆえに、執筆時間はたっぷりとある。しかしながら、書きたいネタもない。それよりなにより書く気分は、いまだに失せたままである。確かに、きのうもそうだった。だから、ずる休みへ逃げ込んだ。きょうも、きのうの二の舞を恐れていた。ところがそれを恐れて、どうにかパソコンを起ち上げた。しかしながら気分は、きのうの二の舞同然にある。
 きのうの昼間は、秋天高い胸の透く秋空に恵まれた。長くぐずついていた天気のせいで、いつまでも乾ききれないでいた道路がようやく乾いた。天気の晴れは、気分の晴れを招くおおもとである。得たりやおうとばかりに昼間、私は絶えていた道路の掃除を勇んで敢行した。確かに、わが気分は和んでいた。てっきりその証しは、掃除の丁寧さに現れた。すなわち、きのうの私は、持病の腰痛さえ厭わずかがめて、道路や側溝の小草のすべてを根こそぎにした。おおかた乾いていたとはいえ、それでも目の粗い舗面には、小嵐くらいでは剥ぎきれない落ち葉がこびりついていた。これらもまた私は、腰をかがめて指先でことごとく剥いだ。抜き取った草や、剝ぎ取った落ち葉のすべてを舗面に散らかすと、仕上げは箒で丁寧に掃いた。さらに最後には塵取りで掬い、物置から持ち出しの透明袋に入れた。風なく、日照りあり、私は汗だくだくになっていた。それにもかかわらず、気分はいたって爽快になった。好天気はようやく、待ちに待っていた晩秋の胸の透く気分を恵んでいた。舗面のいたるところには季節を表す、どんぐりが転げていた。ただ惜しむらくは、いつもの早朝とは異なり昼間の掃除ゆえに、だれひとりご常連のお顔見知りの人に出遭うことはなかった。自然界の恵みの中にあってもなお、私にはお顔見知りの人たちとかわす笑顔や会釈があってこそ、わが気分の良さは増幅することをはっきりと知らされたのである。
 確かに、早朝であってもわが加齢のせいで、お顔見知りの人たちとの出遭いは減る傾向にある。至極、残念無念である。ゆえに早朝であってもこのところの道路の掃除には、わが命の限界を知らされるところがある。一方、秋深まるこの季節、いのち尽きた落ち葉もまた、日ごとに増えている。相身互い身、秋はやけに「命」浮き立つ季節である。やっとこさずる休みは免れたけれど、気分はいまだにすぐれないままである。
 夜明けてみれば小雨模様である。窓ガラスを開けて眺めた舗面は、わずかに濡れている。それでも早朝散歩のご常連の人たちは、速足でめぐるであろう。私にはきょうの早朝の掃除は無用である。ご常連でお顔見知りの人の幾人かが、落ち葉の少ない舗面を眺めて、わが無事いや生存を知っていただければと、思うところである。小雨の夜明け、きょうの昼間の秋天は、望めそうにない。

妻孝行

 十月十五日(土曜日)、今にも雨が降りそうな小嵐の夜明けにある。すっかり私日記風に文章を書いていると、このところは明けてくる日も、悪天候ばかりと思うところがある。この表現は必ずしも当たっていない。なぜなら思うというより、実際にもそうだからである。頃は中秋を過ぎて、すでに晩秋へ深入りしている。それなのに大袈裟な表現に切り替えれば、私には初秋からこれまで好季節・秋の天候に恵まれた実感がない。さらにくどく言葉を重ねればこの秋、私は秋天高い胸の透く天候の恩恵を感じていない。異常気象と天候不順は、同義語なのであろうか。いずれにしても、大損気分横溢である。
 そぼ降る雨の中、きのう私は、長く途絶えていた「今泉さわやかセンター」(鎌倉市)へ出向いた。ここには、妻と共に所属する卓球クラブがある。しかしながら、妻の転倒事故(騒ぎ)以来、突然介助役が降ってきて私は、自分だけでも卓球クラブへの足が遠のいている。ここには卓球クラブ同様に、カラオケ同好会のクラブもある。音痴の私には用無しのクラブだけれど、歌好きの妻は嬉々として所属している。ところが、転倒事故以来おのずから妻の足は、途絶えたままである。カラオケクラブには、優しい高齢の男女の仲間がいる。きのうはその仲間のおひとり、近くの男性から妻へ誘いの電話があった。マイカーでの迎え送りつきだという。これにはこんな事情もあった。それは妻がこれまで長い間、買って持ち込んだCDが不要となり、持ち帰って欲しいという用件であった。そうであれば迷惑をかけるから、行かざるを得ない。持ち帰りに妻ひとりではさらに迷惑をかけると思い介助役の私は、いつものように引率同行した。きのうは、雨のせいか十人足らずの高齢仲間が来ていた。妻は久しぶりにマイクを握り、持ち歌・愛唱歌(懐メロ)の何曲かを歌って、心を躍らせていた。舞台は畳敷きの大広間である。介助役の私は、高齢仲間の歌謡ショーをだれかれになくお愛想の手を叩き、三時間半ほど見入っていた。妻の気分は高揚し和やか、わが、妻孝行の一日だった。
 読んでくださる人にとっては、まったく味気ない文章である。「ひぐらしの記」は、すっかり私日記へ成り下がり、大恥晒しさえ厭(いと)わなくなってしまい、ほとほとなさけない。雨降りは免れそうだけれど、いまだ朝日は雲隠れのままである。

嗚呼、嘆息

 十月十三日(木曜日)、いまだ暗闇の夜明け前にある。パソコンを起ち上げたけれど、気分が乗らず長く机上に頬杖をついている。気分喪失の原因は体調不良に加えて、パソコン操作の未熟さが起因している。世の中はパソコンにかぎらず、すべてに日進月歩、デジタル社会を強めるばかりである。それゆえにこれらに不得手の私の場合は、日常生活が鬱陶しさまみれにある。
 一方、あらゆるデジタル機器を駆使できる人には、確かにきわめて便利かつ有効な社会であろう。だから、無能の私からしたらそれらは、どんなに崇めても崇めきれない、羨望著しい人たちである。私にとってデジタル社会は、恨めしさつのるばかりである。もちろんそれは、私だけのデジタル事情である。
 日常生活にあってもう一つ鬱陶しさおぼえているものには、ポイント(固定客引き込みのオマケ)社会がある。これまた、無能ゆえのわが固有事情の鬱陶しさである。テレビ通販の誇大広告も耳障り激しく、鬱陶しいかぎりである。結局、無能の私にとって文明の利器社会は、きわめて生きにくい社会である。しかしながら、わが固有事情であるゆえに、これらに泣き言は言っても、もとより逆らうことはできない。なぜなら、確かにデジタル社会は、総じて便利な世の中を生み出し、この先へ向かっていっそう加速度を強めて、進化するばかりである。挙句、これに取り残されているわが身の無能を嘆くより仕方ない。
 再び書けばデジタル社会は、私にかぎればきわめて生きにくい世の中である。ネタのないパソコン生活は苦痛である。頬杖をついているうちに、薄っすらと夜が明けてきた。風雨まじりの夜明けである。

わが脳髄は、空っぽ

 十月十二日(水曜日)、起きて、パソコンを起ち上げても書くこともない。こんな心境が果て無く続いている。私は、もう止め時と際限なくつぶやいてきた。ところが、なかなか見切れず、牛の涎のごとくだらだらと続けている。挙句、味もそっけもない文章に陥っている。自業自得とはいえ、常連にあずかってきた人さえ、少なくなってしまった。ゆえに現在の心境は、部活やスポーツ競技において、練習ばかりで試合には出られない人の切なさ、侘しい心境に似ている。無理して何かを書こうと思えば、こんなくだらないことしか書けない。こんな文章の唯一の取り得は、生きている証しにすぎない。
 この文章、ここでやめようかと思う。しかし、せっかくだから、世の中の一つや二つ、三つのことを書いてみる。一つは、ウクライナは連日戦争状態で、実際のところはどんな状態であろうか。連日戦争状態であれば、国は破綻していると思うところがある。一つは、幸いにもこのところのコロナの感染選者数は、ようやく漸減傾向にある。うれしいかぎりである。これに関してわが望むのは、だれもがマスクを外した生活への復帰である。マスク生活は自分自身鬱陶しいし、さらに人様のお顔の見えないことは、生活の面白味を欠いている。最後の一つは、経済活動の後押しとはいえ、旅行へ行く財力のある人へ、あえて税金で補助をする必要があるであろうかという、下種の勘繰りである。すなわち私には、税金の使い道の不公平感が渦巻いている。
 約二十分間の書き殴りで、文章を閉じる。能無し野郎の切なさが込み上げている。夜明けの空はわが心象のごとく、どんよりとして今にも雨が落ちてきそうである。こんな文章は、無理して書かなきゃ良かった。寝坊助の後の祭りである。

「スポーツの日」、明けて

 十月十一日(火曜日)、三連休明けの夜明けは、雨なくのどかに明けている。手元にカレンダーがなく、きのうの表題では、失態を演じた。脳裏にこびり付いていた「体育の日」は、二年前(2020年)から「スポーツの日」と呼称を変えて、設定日を替えていた。飛んだしくじりだったけれど、そんなに罪意識はない。
 きのうの私は、みずからの身体は茶の間もソファに凭れたままに、二つのスポーツのテレビ観戦に興じた。もとよりこんなスポーツの日は、設定の趣旨に副うものではなく、大いに慎むべきところではある。ときにはソファから身を起こし、テレビ体操に合わせて柔軟体操でもすれば、いくらか設定趣旨に副うところはある。ところが私は、それさえせずにミノムシさながらに、ソファにべったり張り付いていた。
 テレビ観戦の一つは、大学三大駅伝の一つである「出雲駅伝」であった。出雲は、大沢さまのふるさとである。私は、かつて大沢さまが書かれたご姉妹三人のお母様の納骨紀行文を懐かしく蘇らせていた。それゆえ、大沢さまに何度か電話を入れようかと思いながらも果たせず、観戦を続けた。
 もう一つはプロ野球、阪神タイガース対横浜ベイスターズの第三戦(最終戦)のテレビ観戦だった。こちらはタイガースが勝利し、次のステップで東京ヤクルトスワローズ戦へ進んだ。結局、スポーツの日は、みずからの身体はソファに張り付いたままに、人様が為すスポーツのテレビ観戦で終始した。しかしながら気分は、晴れ晴れとした。このことでは他力本願にすがり、スポーツの日に報われた気分だった。すなわち、きのうスポーツの日は、二つの競技のテレビ観戦に興じて、気分晴れ晴れの清々しい一日だった。
 老躯に鞭打つスポーツは沙汰止み、もっぱらテレビで観るスポーツに変わっている。それで気分が晴れれば、越したことはない。なぜなら、粋がってやって、挙句転んで腰でも傷めれば、年寄りの冷や水となり、バカ呼ばわりされるだけである。夜明けの空は、淡い日本晴れに変わっている。

体育の日

 きょうは「体育の日」(十月十日・月曜日)、三連休最終日にあっても、とうとう雨まじりのぐずついた夜明けを迎えている。目に見えない天界の事情は知るよしないけれど、損々気分横溢である。日本列島のきょうあたりは、好季節の秋の真っただ中にあっても、飛びっきりの好天にあずかれるはずである。ところがきょうと言わず三連休の天候は、好季節の恩恵を遠のけたままである。もとより体育の日は、好季節および好天をあてにして、国民の健康増進の一助を願って、国の祝祭日として設けられている。これに呼応し体育の日にあっては、学び舎では運動会、自治体などでは市民体育祭などが集中的に行われている。これらのことをかんがみれば、とんだ悪天候の夜明けである。運動会や体育祭にかぎらず、このおりの三連休は絶好の物見遊山の機会でもある。ところが、天候のぐずつく三連休は、それらの多くを台無しにして終わりそうである。つくづく残念無念である。
 翻って私の場合は、夏風邪以降いまだに治りきらず、加えれ諸々に体調を崩している。それにより、今なお憂鬱気分を引きずっている。憂鬱気分は、文章を書く気分を殺いでいる。挙句、こんな愚痴こぼしを二か月余も書いている。それゆえ、パソコンを起ち上げる前はいつも、(きょうは休もう)という気分が心中に渦巻いている。きょうもまたそんな精神状態でパソコンを起ち上げ、こんな文章を書いている。自分自身なさけないと同時に、かたじけなく思うところである。この先、書く気分を失くしている。ほとほと、なさけない体育の日である。

一日を生かされた、テレビ観戦

 十月九日(日曜日)、どんよりとした曇り空にあって、雨のない夜明けが訪れている。明日の天気予報は聞いていないけれど、行楽日和とは言えそうにない三連休半ばの空模様である。起きてきて、生きている証しの文章を書いている。
 きのうの昼間は、プロ野球、阪神タイガース対横浜ベイスターズ戦のテレビ観戦に興じた。試合は今シーズンの公式戦を終えたのちの、クライマックスシリーズの初戦だった。どちらかが二勝すれば、次のステージへ臨めることになる。次の相手は、今シーズンの公式戦で優勝した東京ヤクルトスワローズである。きのうの試合は、タイガースが勝った。それゆえきょうも勝てば、タイガースは次のスワローズ戦へ勝ち進むことになる。負ければ、明日の試合でどちらかに決まる。きょうもまたわが夫婦は、身構えてテレビ観戦をすることとなる。
 夜は、世界卓球選手権のテレビ観戦に見入った。男子は準決勝で中国と対戦した。結果は2対3で惜敗した。しかし、日本チームは予想を超える大奮闘だった。女子は決勝戦で、これまた中国と対戦した。試合結果は、0対3の完敗だった。中国の強さが際立った。しかしながら、男女両チームともに、神業とも思える技量を発揮した。神業とは、人間業ではないという決まり切った表現である。私は、中国であろうと対戦国にお構いなく、技量を称賛し堪能した。男女とも中国に負けたとはいえ、私はまったく引けをとらない日本選手の技量の凄さに酔いしれた。
 結局、きのうの私は、昼夜のスポーツのテレビ観戦で、気分の良い一日を過ごした。きょうの私は、きのうに続いて「柳の下のドジョウ」を狙っている。ひたすら、他力本願にすがるわが生存である。

つらい予報「秋が短くなりそう」

 十月七日(金曜日)、夜明け未だしで、窓ガラスの外は暗闇である。雨は降っていないようだけれど、こののちの天候は、いまのところはわからない。体感で知り得るのは、きのうに続いて寒気が痛烈である。きのうの寒さは、わが身に堪えた。寒気の証しにはほぼ一日じゅう、人工の熱源(ガスストーブ)にすがっていた。現在の寒気からすればきょうもまた、きのうの日常生活の繰り返しになりそうである。できればそれは、真っ平御免こうむりたいところである。
 気象予報士だったか、それともテレビニュースのアナウンサーだったか記憶にないけれど、「秋が短くなりそう」と、言っていた。四季にあって秋が短ければ、その前後は長いことになる。ところが、すでに過ぎた夏は、残暑さえ撥ね退けて短く去った。そうであればこの先は、おのずから冬が長いことになる。そうであれば寒気を極端に嫌う私には、とんでもなく厳しい季節回りになる。体調不良で執筆は、今にも頓挫しそうである。体調不良に寒気が加われば、たちまち「ぐうの音」も出なくなる。私は長袖への衣替えどころか、早やてまわしに冬防寒重装備で、寒気に備えなければならい。
 九月に続いて十月もまた、異常気象となるのであろうか。ふるさとの柿は、すでに二度送られてきた。ところが、ふるさと産・新米の宅配は、まだかなり先になりそうである。すなわち秋は、いまだ真っ盛りとも言えないのに、もう秋仕舞いかな? とも思える予報を耳にした私は、一瞬度肝を抜かれた思いだ。わが身に堪えた「秋が短くなりそう」という、予報だったのである。
 世界中の科学者が警告する地球温暖化傾向など、私にはまったく実感するところはない。研究に研究を重ねた挙句、そんな嘘っぱちなど、私は聞きたくもない。へそ曲がりゆえにあえて記すと、地球寒冷化傾向であれば、大いに納得するところがある。結局、寒気を嫌う私は、秋短く、冬長い季節のめぐりは、懲り懲りである。夜明けて、曇天の寒空である。わが身は冷え切っている。