ひぐらしの記

ひぐらしの記

前田静良 作

リニューアルしました。


2014.10.27カウンター設置

内田川(熊本県・筆者の故郷)富田文昭さん撮影

 

詫びと御礼

 1月16日(木曜日)。デジタル時刻は現在、まるで神業のごとくにわが起き出しの定時、5:00ちょうどを刻んでいる。しかし、睡眠にあっては二度寝にありつけず、浅い眠りのままの起き出しを食らっている。高橋弘樹様から賜った「笑いのご教示」は、そののちいまだ実践にいたらず、伏して詫びるところである。これに加えて、詫びなければならないものには、大沢さまへの無礼がある。大沢さまもまた、わが胸の痛みを心配されて、いちはやくそのことをパソコンメールで送信されていたのである。ところが私は、パソコンメールを開かず、そのことに気づかずに過ぎていた。ゆえに遅れて、大沢さまにたいし、詫びと御礼を記すものである。お二人のほかたぶん、掲示板に訪れておられるご常連の人たちもまた、声なき声でご心配くださったと思い、こちらにも御礼を申し上げるところである。わが高年齢のしでかしゆえに、一寸先は闇の中でありこの先、心配はご無用とは言えないけれど、そののち痛みは免れている。きょうは私事、このことを書けば十分である。だから以下は、付け足しである。
 きのうの「小正月」(1月15日・水曜日)にあっては、テレビニュースの映像には日本列島各地の「どんど焼き」風景が散らばった。私は映像を観て、子ども返りとなり、懐かしく郷愁まみれになっていた。「ひとり笑い」は零れなかったけれど、心は全開に和んだ。前日の胸の痛みを和らげた、棚ぼたの小正月だった。
 一方、小正月が過ぎて、それを境にしてきょうあたりから、正月気分は遠のいて行く。するとこの先は、春の訪れの楽しみにすがるわが日暮らしである。元気にいや生きて、暖かい春を迎えたいものである。
 デジタル時刻は、ちょうど5:30。夜明けの光は、まだ先である。肌身は、寒気にブルブル震えている。「大寒」(1月20日)は、まもなくである。

知恵者、高橋弘樹様からさずかった教訓

 起き出して来てパソコンを起ち上げると、デジタル時刻は、4:57と刻まれている。起き出し時刻は、みずから決めている定時(5時)近くにある。まずは生きて起き出していることに、みずからを褒めている。これに微笑(ほほえみ)がともなうと、起き出しは100点満点である。けれど、無念にも笑みは零(こぼ)れていない。いや、笑みの無いことには、ホッとしている。なぜなら、こんなことに笑みが零れたら、もはや私は気狂い(症状)である。
 パソコン起ち上げの倣(なら)いにしたがって、机上カレンダーを見詰めた。すると、きょう(1月15日・水曜日)には「小正月」と記されている。ふるさと時代の子どもの頃の小正月には、元旦の行事(雑煮餅、神棚参りなど)がそっくり繰り返された。加えて小正月特有に、村中の地区ごとには「どんど焼き」が行われた。村人総出の楽しいひととき(行事)であり、老若男女(ろうにゃくなんにょ)だれもが満面に笑みを湛えていた。青竹の先っぽに差した餅を焼くときには、隣の人の焼け具合を見て呵々大笑(かかたいしょう)の渦が湧いた。
 さて、きのうは文章を書いている最中に突然、胸の痛みをおぼえて、心筋梗塞を恐れてすぐに文章を閉じた。こののちは幸いにも事無きを得て、明けて現在は、文章書きにありついている。(なんだったんだろう?……)、今ではちょっぴり笑いたくなるような出来事だったけれど、もちろん笑えない。このときの異変に対し、心優しい高橋弘樹様は早速、いつものエールに加えて、貴重なアドバイスを授けてくださったのである。それは、わが日常生活における「笑いのすすめ、笑いの大事さ」だった。数々の笑いの種のアドバイスにあって、究極はこれだった。高橋様の訓えの根幹はこれである。「笑いたくなくても、『はははははーー!!』」と声に出して笑ってみる」。すなわち、笑いの大事さの諭(さと)しである。すると、このことにちなんで私は、スマホを片手にして「笑い」の検索を試みた。このあとは、スマホの記事のそのままの引用である。
 【笑いとは、楽しさや嬉しさ、おかしさなどの感情を表現する行動です。声や顔の表情で表され、感情体験と深くかかわっています。笑いの効果には、次のようなものがあります。・心身の健康を改善する・免疫力を高める・脳の働きを活性化させる・血行を促進させる・自律神経のバランスを整える・痛みを和らげる・記憶力を高める・認知症の予防に効果的】。「笑いは、感情ではなく行動なので、意識的に増やすことができます。人付き合いを増やしたり、笑いヨガを行ったりすることで笑いを増やすことができます」。
 きょうは歯医者通い、泣くことは容易(たやす)いけれど、わが日常生活にあって笑いは、とうに消えている。少しは高橋様のアドバイスに報いたいものである。もちろん、わが健康のためである。きのうの突然の胸の痛みは、笑いを忘れているわが日常生活の祟りであったろう。夜明けの空は、どんより曇っている。

あれれ!……

 昨夜(1月13日・月曜日)、宮崎県は震度5弱の地震に見舞われたという。地震は大小、時を選ばず日本列島のどこかを絶えず脅かしている。中でも震度5弱に出遭えば人は、生きた心地のしない恐怖に晒される。幸いにも昨夜の地震には、大きな被害は報じられていなく、ひとまず安堵するところである。
 1月14日(火曜日)。壁時計の針は、6時近くを小気味よく回っている。一方、人間社会にあっては、きょうという1日が、無事安楽にめぐることはない。柱時計は人工の産物だから時々刻々、障りなく秒針を刻んでゆく。ところが、生身の人間の個々人の集合体である人間社会は、そうはいかず絶えず、人間自体がしでかす混乱の渦の中にある。様々な事件、突如の事故など、かぎりなくあまたある。衣食住プラス金銭の不自由、避けて通れない人体の病、ほか生きるための難行苦行は計り知れなくある。これらに異常気象がもたらす災害、さらには地震をはじめとする天変地異の鳴動が加わって、人間の日常生活は常に脅かされて営まれている。これらを克服して生きるためにはもとより、個々人は強靭な精神力と生きるための知恵を備えていなければならない。
 翻って、私にはそれらがない。挙句、人生の終末を生きる私は、生きるための戦いに悪戦苦闘を強いられている。実際には人生の終わり方を鑑みて、心身の安らぎを阻まれている。こんなことを書くようでは、とうとう気狂いになってしまったのかと、自覚して思うところである。「ひぐらしの記」は、確かな止め時にある。このところの私は、頓(とみ)に文章を書くモチベーション(意欲、気力)の萎えに見舞われている。ところがそれは、総じて克服できそうにない、人生の終末現象だからいっそう厄介である。あれれ!……、急に胸の痛みをおぼえている。しばし、収まるのをじっと待っている。文章は閉じる。

成人の日

 わが精神は希望を断たれ、身体は老いさらばえている。余命は、カウントダウンの後半のさ中にある。日々、私は生きることに苦しんでいる。いや、私にかぎらずおおむね、人生の終末を生きる、人間の精神と身体模様(状態)である。
 人は生まれると赤ちゃんと呼ばれ、こののちは生涯を生存の期限として、年数という時を刻んでゆく。もちろんそれを、三区分で表すには大まかすぎる。けれど、若年(じゃくねん)、中年、老年と、区切ってみる。確かに、大まかすぎる。なぜなら、若年にあっても年代は、赤ん坊、幼年、少年、少女、あるいは総じて青少年、そしてこれらをひっくるめて「子ども時代」と言える。子ども時代の先は、それを脱して日本社会(国)が認める「おとな時代」である。その儀式と言えるものは、年を変えて毎年訪れる「成人の日」(国民祝日)である。
 かつての成人の日は一定日(1月15日)だったけれど、2000年から1月の第2月曜日に変わっている。変更の意義は週末二日の休日に合わせて、三連休とするためのものである。これに基づいて、新年(令和7年・2025年)の「成人の日」(1月13日・月曜日)が訪れている。おのずから、三連休最終日である。
 現在の時はまだ夜明け前であり、夜明け模様(天気)を知ることはできない。しかし、寒気は肌身に沁みている。余命わずかとはいえ私もいまだ日本国民ゆえに、もはや成人の日は無縁とは言い切れない。ゆえに私は、新成人のおとなへの門出を寿(ことほ)ぐ気持ちを十分にたずさえている。
 現下の日本社会は、少子高齢化社会にある。このことを鑑みれば新成人は、まさしく日本社会の宝物の真っ只中にある。だからすべての新成人は、前途洋洋の意気をたずさえて、各自治体が催す「成人式」に出席することを願うところである。もちろん、それにありつけない妬みや僻みなど一切なく、新成人のおとなへの門出に際し、謹んで餞(はなむけ)の言葉を添えるものである。
 気になるのはやはり、成人式(祝典)にあたりきょうの天気模様である。立って、傍らの窓ガラスを開けて、外気を確かめた。一基の外灯が淡く灯す中、風・雨共にない静かな夜明け前にある。きょうの天気予報は聞きそびれている。

作者と、作品を世に出された、お二人に称賛

 あすの「成人の日」(1月13日・月曜日)を含めて、三連休の半ばにある(1月12日・日曜日)。人間社会は年代を変えて、机上カレンダーにそってたゆみなくめぐっている。つれて、わが世代・昭和は、はるか遠くへあとずさり、おのずからわが生存は現世から消えて、あの世に墜ちる。だけど、同世代だれしものことゆえに寂寥感はない。ただ一つ望むところは、七転八倒することなく静かに、野末の草場の露に濡れたいものである。
 冒頭に気分の滅入ることを書いてしまい、のっけから平に詫びるところである。目覚め時にはこのことを書こうと思っていたのに、後回しになったのは品格劣るわが罪である。内心では称賛が遅れてしまい、申し訳なさでいっぱいである。
 掲示板上掲の写真は、冬空の下、地上に広がる田畑や森に、日光がのどかに零れる胸の透く絶景である。掲載の写真は、プロを目指す半ばに若くして逝かれた、坂本弘司様が遺されたものである。私はもちろん、坂本様の作意など知ることなく、掲示板を開くたびにしばし眺めて、ひたすら称賛と堪能を極めている。このわが思いに常に加わるのは、お姉様・大沢さまの弟君・弘司様にこびり付いている優しさである。もとより、姉君・大沢さまの優しさがなければ、弟様のどんな名作も隠れたままであり、ゆえに私たちが目にすることはできない。このことではお二人しての名作と言えるものであり、お二人に対し賛辞つきないものがある。
 上掲の写真にかぎらず大沢さまは、季節に応じてそれにふさわしい、弘司様が遺された写真を掲げてくださっている。おのずからそのたびに私は、無粋な言葉を用いれば目の保養と称賛にさずかっている。どんな名作であってもそれを伝える人がいなければ隠れたままであり、人の目に触れることはできない。ゆえに私は、掲示板を開くたびに弘司様と共に、大沢さまへ感謝しきりである。きょうはこれまで胸につかえていたことを書いて、結文とするものである。
 現在の時刻は6:00ちょうど、夜明けの明かりはまだ見えず、外は真っ暗闇である。だけど、胸のつかえがとれて、私は気分の好い夜明け前にある。

正月の歳時、1月11日には「鏡開きと「蔵出し」

 きのうの文章は『最後の砦』、変な文章を書いたものだと悔いている。「ひぐらしの記」はやはり、もう書くべきではないのかもしれない。書かなければ自分自身、楽な気分になるし、人様に不快な気分を、及ぼすこともない。もちろん、わが文章の拙さのせいである。ひぐらしの記は、私日記風特有に、日を空けずに書き続けることだけを願っている。命題にそって文字どおり、「日暮らし日記」と言えるものである。実際には寝起きの朦朧頭と眠気眼、加えてみずからもうけている制限時間内に書いている。挙句、おのずから文意および文体のととのわない、書き殴り文に陥っている。ゆえに恥を晒し、同時にわが悔いるところである。
 しかし、悔いてどうなることでもない、わが能力の限界をこうむっている。継続を叶えるためにはただ一点、どんな餌にも食いつく「ダボハゼ」の心境をたずさえていなければならない。なぜなら、ネタ(餌)がなければひぐらしの記は、たちまち継続を断たれて「お陀仏」となる。この時季、寒気に震えて書く価値はない。しかしながら一方、私は継続が断たれたのちの「心の空白」に怯(おび)えている。だから私は、ダボハゼ状態になって、釣り針を含んでいようがいまいが堪えきれずに、なんでもネタになりそうなものには飛びつくのである。
 寝起き書きの習性にしたがって、パソコンを起ち上げると机上カレンダーを眺めた。するとシメシメ、ネタになりそうな歳時にありついた。喜び勇んで、机上に置く電子辞書を開いた。まさしく私は、人魚の大型のダボハゼさながらである。きょう(1月11日・土曜日)には、二つの歳時(行事)が記されている。だれでも知るものだけれど、継続を叶えるためには、おのずから恥の掻き捨ては厭(いと)わない。
 一つ目「鏡開き」、【(「開き」は「割り」の忌み詞)。①正月11日ごろ鏡餅を下げて雑煮・汁粉にして食べる行事。近世、武家で、正月には具足餅を、女は鏡台に供えた餅を正月20日(のち11日)に割って食べたのに始まる。鏡割り。②祝い事に酒樽のふたを開くこと。鏡抜き】。
 二つ目「蔵開き」、【新年に吉日を選び、その年初めて蔵を開くこと。多くは1月11日とし、福神に供えた鏡餅で雑煮を作ったりする】。
 寒気にブルブル震えて、この先、自作文を加える気はしない。夜明けはいまだ訪れず、窓ガラスの外に太陽の光はなく真っ暗闇である(5:57)。

最後の砦(とりで)

 1月10日(金曜日)。起き出して来て,寒気が身に沁みている。机上カレンダーへ目を遣ると、「十日えびす」と「100当番の日」と、併記されている。前者はおまじないとはいえ、人間が無病息災や幸福に生きるためには、欠かせない歳時なのであろう。後者もまた人間の共生のためには、人間の知恵が生んだ大事な創意である。人間、いや「生きとし生きるもの」にあっては、命絶えれば「おしまい」である。
 目覚めて私は、心中にこんなことを浮かべていた。すなわち、こうである。自分は、父、異母、母、そしてその子どもたちの中にあっては、「最後の砦」である。異母は6人、母は8人、つごう14人の子どもを産んだ。これらの流れの中で今や私は、たった一人だけ生きている。私が死ねばおのずから、この流れは絶えることとなる。だから私は、最後の砦である。ゆえに今の私は、面影やまぼろしを求めて、切なく、神妙な気持ちになっている。最後の砦という、わが責任は果てしなく重いけれど、もちろんそれを果たすことはできない。
 きょうは、寒気に震えて休むつもりだった。ところが、こんな無粋なことを書いてしまった。平に詫びるところである。まだ、夜明けは訪れない。しばし心中で、数ある御霊(みたま)たちと、声えない会話を続けるつもりである。たぶんこの文章は、掲示板上に表示のカウント数の減少の引き金になるだろう。

人生の一コマ

 人生の最終末にあって人生行路を顧みて、わが甲斐性無しを嘆いても仕方がない。84年も生き長らえたことで十分であり、わずかとはいえなおこの先にも、残存の命がある。
 寒気は「大寒」(1月20日)へ向かって、日増しに強まっている。しかし、鎌倉地方にはまだ、雪降りの日はない。だからいっそう、降雪地方の積雪の嵩の高さには驚いて、気分は滅入るばかりである。テレビニュースが伝える映像には、そのつど驚いてぞっとするばかりである。驚愕する映像に加えて、雪下ろし中に亡くなられた人のニュースが伝えられると、痛ましさにはかぎりがない。だからと言って、降雪地方に住む人にたいし、むやみに同情心はもとより禁物である。なぜなら、住む人のだれしもにもそこは生地であり、離れて住む人には常に愛しい故郷である。
 現代の日本社会の世相には「移住」が流行り、実際にも移住を叶えて、喜び溢れる人の姿がテレビ映像に現れる。ところが、これらまでのところ私は、降雪地方からどこかに移住された人の姿は、たったの一度さえ目にしていない。このことに私は、救われている。なぜなら、人だれしも生地は、まさしく聖地なのである。わが生地、今や故郷の熊本地方は、南から北上する台風の通り道(台風銀座)である。それなのに生地在住時代(高校生まで)にあって、私はそれを嘆く村人に出遭ったことはまったく無い。人にとって生地は、安易に「住めば都」と口走り、それと同列に置くべきものではなく、それを超えて魅惑尽きないところである。
 さて、きのう(1月8日・水曜日)は、妻をともなって普段の「今泉さわやかセンター」(鎌倉市)へ出かけた。ヨロヨロ足で歩けば20分ほどの道のりである。ところがきのうは、わが家最寄りの「鎌倉湖畔商店街」から、小型の送迎バスに乘った。用向きは、卓球クラブの初打ちだった。実際には、新年の挨拶が主だった。私と妻の技量は「ピンポン」で、転ばず怪我無くわが家へ戻れば十分である。どうにかこの目的を果たして、共に気分爽快にわが家へ帰った。これを機に、いよいよわが家の新年の始動である。ことし一年の無事を願うところである。しかし一寸先は闇の中、ヨレヨレの願望である。
 人間だれしも、生きることの困難さは、日々のテレビニュースに溢れている。がんばろう。窓ガラスの外には、薄く夜明けが訪れている。雪降りの無い空を眺めて、見えようないはるかなたの、降雪地方のきょうの大雪模様を案じている。同情心は禁物だけれど、案じるぐらいはわがつとめである。

嗚呼、啜ってしまった「七草」

 正月(1月)にあっては予め、机上カレンダーを見据えて文章を書いている。なぜなら、1月には年始特有に様々に「初」の付く歳時(行事)が併記されている。きょう(1月8日・水曜日)には、「初薬師」と記されている。無知の私は生涯学習の心意気をたずさえて、机上に置く電子辞書を開いた。「正月8日の、その年最初の薬師如来の縁日、また、それに詣でること」。薬師如来とは、病苦を救い無明の痼疾を癒すという「仏様」であり、衆生(人間のみならず一切の生き物)の救済をしてくれるようである。しかし賽銭を恵んでも、まったく霊験を感じない「仏様」や「神様」のことなど、もとより私には要無しである。
 きのうの歳時は、「七草(粥)」(1月7日)だった。これとて、効果はあてにならないおまじないにすぎない。しかしながらこちらは神仏にすがりのものではなく、日本古来の粋な風習であり、だから効能はさておいて無下にはできない。「泣く子と地頭には勝てぬ」。この成句を捩(もじ)れば私の場合は、「妻の頼みごとには勝てず」、きのうの買い物にあっては、「七草(粥)セット」(西友ストア大船店で800円)を購入した。
 生来、私は粥(御飯)嫌いである。粥を食べるくらいなら、死んだほうがましである。
「パパ。七草、買って来てよ。粥(御飯)、食べてみたいのよ。体にとてもいいらしいわよ。パパも、食べなさいよ」
「おれは、買ってこないよ。粥なんて、俺は食べないよ。買わないよ」
「パパって、ばかねー。体にとてもいいのよ。買って来てよ」
「おれは買わないよ」
 きのうは予告どおりに先ずは、10時の予約の歯医者に行った。かかりつけの「宮本歯科医院」である(鎌倉市大船)。ここを出ると、ことし初めての買い物行動である。順路(コース)は、まず「大船市場」へ出向いた。妻・スマホ依頼のナス、生シイタケ、カブ、ブロッコリーを買った。番外編では、妻好物のイチゴ1箱を所定の籠に入れた。配偶者(私)の咄嗟の行為だった。次には鈴木水産へ向かった。ここでは妻依頼の生モズク、釜揚げシラスを買った。年の瀬に買った食品は、いまだに在庫豊富である。ここを出ると、目の前の「肉とサラダの店」に入った。ここでは、妻の好むサラダを二品買った(毎週火曜日は2割引き)。
 いよいよ順路最終コースは、西友大船店である。妻のスマホの指示に従ってフロアを回り、もれなく買いそろえた。突然、売り場の掛かりの女性に出遭った。
「お忙しいところすみません。七草粥セットはどこにありますか?」
 係の中年女性は、小走りして私を誘導された。買わずにはおれなくなった。私は、買ってしまった。
「七草、買って来たよ」
「パパ、買って来たの?……、ありがとう」
「俺は、粥は食べないよ」
「食べなさいよ。体に良いわよ」
「俺は、食べないよ。くどいな!」
 妻も去る者。しばし台所にいると妻は、御飯の無い「七草スープ」をこしらえて、お椀を差し出した。素朴な味で美味しかった。だけど、体に良いかどうかはわからない。粥ではないから効果は、粥の三割とまりくらいであろう。七草のせいで現在の私は、書き疲れている。疲れは、夜明けの日本晴れに癒されている。

仕事始め(月曜病・休日病)を癒す「七草(粥)」

 きのう(1月6日・月曜日)は、大沢さまが待望されていた雨が、久々にちょっぴりだけど、鎌倉地方にも降った。埼玉地方もお湿り程度の雨降りと推測するところだけれど、まずは「めでたし、めでたし」である。
 日本社会における多くの人たちにとってきのうは、ことし(令和7年・2025年)の「仕事始め」だった。ことしの仕事始めは、9日間にも及ぶ年末年始を貪ったあげくだった。仕事や職業を持たない私は、テレビニュースが伝えるそれぞれの仕事始めの様子を口あんぐりとして観ていた。心中ではかなり同情心を抱いて、現役時代に罹患した月曜病や休日病を慮っていた。
 仕事や職業を持たない私にも、新年初めての行動(多くは金銭費消)や行為はある。きょうには長く前歯の欠損をほったらかしにしていたことを悔い改め、その修復のための歯医者通いの始まりがある。ことし初めての買い物行動は、このおりのついでに実行する。ことしの前半期(半年)にあっては、私には厄介な役回りがある。それはわが地区における、町内会の班長の役回りである。こちらにはまだ、ことし初めての会合はない。ことし初めてのゴミ出しは、きのう済ましている。私のことしの対外行動はおおむね四つ、すなわち、通院、買い物、班長、ゴミ出しである。家庭内のことでは自分自身の存命行為(主は三度の食事と間隙ない間食)、そして妻の存命を支える役割(渋々を抑えての率先行為)がある。
 書き殴りの序文はさておいて、きょうの本文はわが自作ではなく、メディア記事の引用である。
 【「緊張の糸が…」 9連休明け、退職代行の依頼が250件超と最多に、1/6(月)19:29配信 毎日新聞】。「多くの企業や官公庁で仕事始めとなった6日、本人に代わって勤務先に退職意思を伝える退職代行サービスの依頼が急増した。例年より長かったこの年末年始の『9連休』明けで、職場へ向かうハードルも高くなったとみられる。転職・退職支援会社『アルバトロス』(東京都港区)が管理する『退職代行モームリ』の都内の事務所には、朝から依頼の電話が相次いだ。1日当たりの依頼件数の最多はこれまで約180件だったが、6日は午後5時時点で約4割増の250件超と最多を更新したという。モームリは、本人に代わって勤務先に退職の理由や意思を伝えるとともに、退職届の郵送や備品の返送などの調整を代行する。利用料は正社員・契約社員は2万2000円、アルバイトは1万2000円だ。」(以下の記事は省略)。
 日本社会にあってこんな代行業があることに私は、新年早々、度肝を抜かれている。私は机上カレンダーを眺めている。きょうは「七草(粥)」である。立って、外気を確かめた。雨上がりの真っ暗闇である(6:09)。