ひぐらしの記
前田静良 作
リニューアルしました。
2014.10.27カウンター設置

内田川(熊本県・筆者の故郷)富田文昭さん撮影
カレンダー「節分、立春」に背く、「冬空・雪空」
冬から春への季節変わりの真っ只中にある。人為のカレンダー上にはきのうは「節分」、そしてきょうには「立春」(2月3日・月曜日)と記されている。ところが肝心の自然界(気象)は、きのう、きょう、なお留まることなく今週末にかけて、春の訪れに背いている。
【4日から災害級の大雪の恐れ 24時間100センチのドカ雪も 車の立ち往生に警戒(tenki.jp)。4日(火)以降は今季最強寒波の影響で、北海道から九州の日本海側を中心に大雪となるでしょう。北陸では24時間降雪量が100センチと予想され、災害級の大雪となる恐れもあります。普段は雪に慣れない西日本の平地でも積雪となる所があるでしょう。車の立ち往生など交通障害に警戒が必要です】。
きのうの鎌倉地方には降雪はなかったけれど、一日じゅう冷たい雨に見舞われて、私は独り茶の間暮らしを余儀なくした。娘に誘い出されて一晩泊りの旅に出ていた妻は、夜の10時近くに、娘の配偶者が運転する車で無事、いや嬉々として帰宅した。私は心配で凝り固まっていた胸を撫でおろし、遅いため気に懸けていた「豆まき(福豆)」はなく、いそいそと就寝した。心配が解(ほぐ)れ、またほぼ一日じゅうソファに凭(もた)れていたせいなのか気鬱や疲れがあり、そのせいで普段の就寝とは異なりぐっすり眠れた。このため、寝起きの気分は悪くない。ところが現在、身体のみならず精神もまた、悍(おぞ)ましい寒気を食らっている。しかし、嘆くまい。なぜなら、季節は確かな「春入りのゴング」が打ち鳴らされて、この先一週間程度の我慢を凌げば、待ち望んでいた春が訪れる。ただ恐れるところは、大雪予報につきまとっている「災害級」の表現である。なぜなら、わが現住する鎌倉地方は免れても、多雪地方の難渋は他人事(ひとごと)ではない。だから私は、気象庁の予報の外れを秘かに、いや大っぴらに願っている。
薄っすらと夜が明けた。雨も雪もない、どんよりとした「冬空」(雪空)である。はるか彼方の多雪地方の空模様が気懸りである。
娘と母(妻)、旅道中
当時は気づかなかったけれど、子どもの頃に遊んだカルタの読み札には、いろんな人生訓が含まれている。「節分」(2月2日・日曜日)の寝起きにあって、わが心中には語順にそって読み札が浮かんでいる。その一つ、「負うた子に教えられる」には、ちょっぴりうれしさつのるところがある。ところが、これを捩(もじ)った咄嗟のわが成句、「負うた子に世話かける」には、切なく寂しさつのるところがある。
きょうの関東地方には、雨ないし降雪や積雪予報が出ている。現在、デジタル時刻は4:48と刻んでいる。それゆえに私は、起き出して来てパソコンを起ち上げる前に、傍らのカーテンと窓ガラスを開いて外気を確かめた。一基の外灯が灯す道路上には、積雪は見えず降りやんだばかりの雨の跡が見えた。予報が確かであれば、こののちの降雪の準備は十分整っている。
さて、現在の私は、わが家にあって独居のさ中にある。もちろん、病身の妻が逝ったせいではない。娘が母(妻)を一晩泊りで、往復新幹線利用で遠出の旅へ連れ出しているからである。娘の善意(親孝行)なのか、それとも悪意(旅費用はわが支弁)なのか、それはわからずじまいだけれど、私は渋って娘と妻の二人だけの旅立ちである。
私は妻の身体模様を鑑みて、「やめとけ」と言いそうになった。しかし妻は、娘の誘いを断り切れず旅立っている。いくらか不同意の私は、行き先の詳細は知らずのままで、たぶん静岡県浜松方面である。二人が出かけたのちの私は、スマホ情報にすがり、不時の臨戦態勢にある。ところが、幸いなるかな! 現在までは、娘と妻のウキウキ気分の様子がまるで、間欠泉のごとくに噴き出し流れてくる。先ほど(夜中2:13)のメールには、妻が夜景の素晴らしさを伝えてきた。二人は就寝中のはずなのに、妻は心が浮きだって寝つけないのだろうか。私の場合は、いつもの二度寝にありつけず、悶々として起き出している。二人の旅はあと半日あまり、私は無事の帰宅を祈って、ひたすら待つのみである。
妻が帰ってきての豆まきは、例年とは異なり「鬼は外(そと)」の掛け声と、豆のぶっつけは免れそうである。だけど今夜の豆まきは、心配と共に高額な「福豆」になっている。冬から春への確かな季節変わりの節分にあって、降雪や積雪予報にはたじろぐばかりである。一方、現在の私は、娘と母それに妻をダブらせて、わが家の吉報を待つところにある。
ほぼ一時間の書き殴りを平に詫びるところである。夜明けはまだ遠く、娘と妻への心配事は、まだ半日余も残っている。独居生活を愉しむ心の余裕はない。
カレンダーは「2月入り」
現在、デジタル時刻は5:33と刻まれている。1月が過ぎて、2月初日(1日・土曜日)の夜明け前にある。このこともあって起き立ての私は、机上カレンダーをじっくり眺めている。もとより2月は例月に比べて、日数を2日ないし3日少なくしている。それなのに2月には2度の国民祝祭日、すなわち「建国記念日」(2月11日・火曜日)と「天皇誕生日」(2月23日・日曜日)にともなう、「振替休日」(2月24日・月曜日)がある。これらに加えて2月には「バレンタインデー」(2月14日)、さらには春の訪れを実感できる「節分」(2日)そして「立春」(3日)が連なっている。節分には「豆まき」や「恵方巻」の歳時もあり、巷間(こうかん)にあって人はそわそわ気分になる。そうこうしているうちにもとより短い2月は、あっという間もなく過ぎ去って行く。春3月の訪れが早いことにはうれしさ、ところが高齢のわが身には、かなしさと寂しさが相同居してつのるものがある。カレンダーを眺めながら、書くまでもないことを書いて、ネタ無しを埋めている。
きょうは、このことを書こうと思ってパソコンを起ち上げている。掲示板上には現下の日本社会の世相を表す「諸物価高」を話題にして、たまご様と高橋弘樹様のやり取りが綴られている。すると、わが日常生活において、買い物専一行動にある私は、この話題にだけは参加できそうと思えたのである。なぜなら私も、買い物のたびに「モノの値段」の騰がりようには、痛憤をおぼえているからである。日本政府は物価高を超える賃金の上昇を要請し、多くの企業は仕方なくそれに応じている。中でも、名のある大手どころでは初任給の上昇も相次いでいる。ところが、これらに浴する人たちでさえまだ、物価高を超える実感はないという。
翻って多くの国民は、賃金上昇の掛け声など、ありつけない遠吠えに過ぎず、日々物価高に苦しんでいる。現下の物価高は、辛い世の中の証しである。ところがもうひとつ、直近ではつらい世の中の証しが伝えられてきた。全体では自殺者数は減っているけれど、小学生、中学生、高校生では増えているという。目下のテレビ映像には降雪地方の大雪模様と、道路陥没事故にまつわる懸命の作業行動が映り続けている。2月になっても「春近し」と思えないのは、つらい社会現象である。首都圏も週末には、降雪および積雪の予報にある。夜が明けて朝になり、なんだか風雲急を呼びそうな空模様である。
起き立てのいたずら書き
「光陰矢の如し」。新年になり早や、1月の最終日(31日・金曜日)の夜明け前にある。体内気温は低く、心身は寒気にブルブル震えている。だから、長居は無用である。きょうは「三寒四温」という季節用語を用いれば、さしずめ「寒」に当たるのであろう。正月三が日を含む特異の月にあって私は、この文章を書き終えれば出来はさておいて、完走すなわち書き続けたことになる。このことではちょっぴり、自惚れていいのかもしれない。
さて、元大関・豊昇龍(立浪部屋、モンゴル出身)は、横綱審議会において満場一致で、新横綱への推挙を得た。横綱推挙への伝達式において豊昇龍は、「気魄一閃、精進します」と、口上を述べた。力士はほぼだれしも、アナウンサーの闘う気持ちの問いに答えては、「一日一番」という。暗に、(あすはない敢闘精神で取っている)という、気持ちの表れであろう。確かに、大相撲は格闘技の範疇に入る。ゆえに、「気魄一閃」あるいは「一日一番」という、気力の充実をたずさえた敢闘精神が無ければ、「木偶坊」(でくのぼう)へ成り下がり負けが込む。長い人生行路とて、「一日一番」の積み重ねである。だから私は、日々この言葉を噛みしめて生きている。人生の終盤にあっては、狂おしいほどの切ない決意である。しかしながらもはやわが命は、確かな一寸先は闇の中にある。このことを鑑みれば、決して大袈裟な決意や表現でもない。たったひと月の完走にすぎないけれど、確かに自分自身は、喜び一入(ひとしお)のところがある。実際のところは、文章を書き終えればホッと安堵する。それほどに私は日々、こんな取るに足らない文章にさえにも辛苦を極めている。
私の場合、敢闘精神の欠落は、モチベーション(意識、意欲)の低下として表れてくる。きょうはモチベーションの低下に見舞われて、さらには寒気を言い訳にして長居は無用である。だから、尻切れとんぼを恥じず、ここで結文とするものである。おのずから、安堵の気分はお預けである。
いまだ夜明け前にあっては、朝日に重たいこころ解(ほぐ)しをすがることはできない。かすかに朝日の見えない夜明けが訪れている。老いの身にあっては、歳月の流れの速さは哀れである。
終日、気に懸かる空模様
きのう(1月29日・水曜日)に起きた、埼玉県八潮市における道路の陥没事故は、惨(むご)たらしくてテレビ映像を観るに堪えない。もちろん、日頃わが願う格好のネタではないので、このことのこの先は書かない。私にかぎらず人間であれば、だれしものことであろう。ただ一途に願うのは、落とされている人様の命と、救出作業に励む人たちの善意が共に、助かり報われることである。
今、脳裏に浮かぶのは、子どもの頃の落とし穴、戦場の落とし罠、そして今回の陥没事故などを浮かべて、悪戯(いたずら)、犯罪、そして事故のもたらす災難の惨さである。それなのに会期中の国会にあっては、相も変わらず党利党略かつ自己保身、喧伝まがいの質問と答弁が繰り返されている。
現在、世事にあって国民の関心事の一つには、フジテレビにまつわる出来事の帰趨がある。私も野次馬になりいっときだけ、当該のフジテレビが報じる記者会見の様子に見入った。ところが、質問に立つ記者の面々の品位の無さに呆れてしまい、胸苦しさをおぼえて早々にチャンネルを変えた。記者とは社会の木鐸(ぼくたく)ではなく、独善で目立ちがりやの人物にすぎないと、あらためて認識するありさまだった。こちらには虫唾(むしず)が走り、この先を書くつもりはまったくない。
しかしながらやはり私は、陥没事故の痛ましさには一言を加えたくなっている。すなわちそれは、寒空の下、人様の善意が実り、報われることを切に願っている。夜が明けて、幸いにも八潮市あたりも晴れが予想される。なぜなら、鎌倉地方の夜明けは晴れており、たぶん関東地方のどこかしこも、のどかに晴れた夜明けの訪れであろう。
「のどかに」を用いたのは、わがお里の知れるところで、不用意で不謹慎な言葉だったかもしれない。ゆえに私は、はるかに遠い埼玉県(八潮市)の空に向かって、平に詫びている。きょうの私には終日、彼方の空模様が気に懸かりそうである。
嘆き節
「前田さんは、飽き飽きしていないのか?」と、問われれば飽き飽きしている。確かに、毎回同じような書き出しで飽いている。しかしながら、それを恥晒しと思えば書けず、もとより文章の継続はあり得ない。だから、懲りずに書いているだけである。
1月29日(水曜日)、現在のデジタル時刻は5:05であり、わが起き出し時刻の定時(5時)、ほぼ近くにある。このところは寒気が緩んで、嘆き節の一つは免れている。だけど、嘆き節はまるで雨後の筍(たけのこ)のごとくに、ひっきりなしに現れてくる。きのうは「ダジャレ文」と表題を付けて、実際のところは嘆き節の真実を書いた。きょうも、またあすも、その延長線上の文章を書きそうである。なぜなら、これを留めたらたちまち、文章は沙汰止みとなる。確かに、文章を書かなければ、マイナス思考や恥を曝け出すことは免れる。ゆえに寝起きの私は、常に心中で(書こうか書くまいか)と、自己葛藤の渦の中にある。こんな心境で綴る文章に、希求する明るさなどあるはずもない。だったらやはり、(もう、書かない!)と、決め込んだほうがよさそうである。ところが私は、その決断にさえもさ迷っている。ゆえにこのところは、ひしひしとわが脳力(能力)の限界に脅かされている。
具体的には長年の書き疲れと、ネタの書き尽くしのダブルの穴に陥っている。私はネタ不足を補う、得意の分野を持たない。だから、これまでの私は、ネタ不足に見舞われると、郷愁や母恋慕情を募らせてどうにか文章を繋いできた。しかしながらこれらも、すでに書き尽くしている。挙句、現在の私は、にっちもさっちもいかない状態にある。まことにつらい、楽屋話である。あれれ! きょうはこんなことを書いて、文章を閉じる羽目となる。
年が変わり、幸いなるかな! わが一つの日課が消えている。それは道路上に落ち葉が無くなり、日課としていた道路の掃除を免れていることである。私にすれば大きな負担軽減である。ところが好事魔多し、日課ではないけれど、半年間の町内会の班長(24世帯)の役が回ってきている。老齢(84歳)のわが身には、大きな心理上の負担を成している。
壁時計の針は5時半あたりを回っている。実の無い文章は、ここで書き止めである。ガラス窓の外は、いまだ真っ暗闇である。しかし、きょうの鎌倉地方の天気は晴れの予報である。鬱な心の癒しになりそうである。
「寝起きのダジャレ文」
1月28日(火曜日)。ほぼ一晩じゅう悪夢に魘され、妨害されて睡眠自体ままならず、仕方なく起き出している(5:28)。私は人生の終盤を生きることに苦しんでいる。それゆえにわが書く「ひぐらしの記」は、日々おのずから明るさからかけ離れている。こんなことでは寝起きにあって、呻吟してまで書く価値はまったくない。だから、(もうやめます)と白旗を掲げる、あるいはギブアップ宣言をすべき「時」は、もうとっくに過ぎている。それなのに生来、優柔不断の性癖(悪癖)にある私は、決断を先延ばしに続けてきた。挙句にはこんな、様にならない文章を書く羽目に陥っている。(まだ生きたい!)と欲ボケすることなく、急いで人間(命)を閉じるべきなのかもしれない。気狂いの自覚はなく、あえて「寝起きのダジャレ文」としよう。しかし、ダジャレ文とは言い切れず、確かな本音(真実)でもある。
命の鼓動があるかぎりわが心中は、時の刻みに合わせて様々に揺れ動いている。できれば、明るい気分に揺れてほしいものである。きょうはこんなことを書いて結び、再び寝床へ戻り安寧な眠りを望んでみよう。幸いなるかな! 夜明けの光はまだ遠い先に控えている。
それぞれの夜明け
1月27日(月曜日)。デジタル時刻は5:16と刻んでいる。夜明けは早くなり始めていても、未だ夜明け前にある。季節は三寒四温を繰り返し、確かな春へ向かっている。さしずめきょうは「温」にあたるのであろうか。寝起きの身体に、寒気は緩んでいる。きょうのわが行動予定には、予約(午前10時)の歯医者通いがある。ゆえに現在、心急くところがある。このこともあってきょうは、メディアが伝える記事を引用し、わが記憶に留めるものである。悪しからずまずは、平に詫びるものである。
さて、きのうの千秋楽における優勝を決める「巴戦(3力士、豊昇龍、王鵬、金峰山)」は、感涙を呼ぶ熱戦だった。
【大関・豊昇龍が意地の逆転V! 優勝決定ともえ戦を制し綱取りかけた初場所で2度目の賜杯 綱取りへ望みつなぐ。1/26(日)17:40配信ABEMA TIMES】。「大関・豊昇龍(立浪)が意地の逆転優勝だ。2敗で単独首位を走っていた前頭十四枚目・金峰山(木瀬)が、3敗をキープしていた前頭三枚目・王鵬(大嶽)に本割で敗れたため、同じ3敗だった豊昇龍を含め、2022年11月場所ぶりの優勝決定ともえ戦が行われる運びに。豊昇龍は見事そこで金峰山、王鵬を破って2連勝を飾り、劇的な逆転Vで2度目の賜杯を抱いて綱取りに望みをつないだ」。
3力士にはそれぞれにエピソードを付加しなければならない。なぜなら、そのことでわがテレビ観戦は、余計に興趣の坩堝(るつぼ)に嵌っていたのである。豊昇龍(立浪部屋)25歳、モンゴル出身。叔父は、元横綱朝青龍で甥っ子にあたる。豊昇龍は今場所の優勝でほぼ新横綱誕生を手中に収めて、叔父・甥共に横綱を張ることになる。王鵬24歳、東京都出身。祖父にはかつての名横綱大鵬を持ち、父には元関脇の貴闘力を持つ、相撲界のサラブレット。男子4兄弟にあって長兄はプロレスラー、そして二兄(納谷)、3男(王鵬)、4男(夢道鵬)の3人は現在、共に「大嶽部屋」(大鵬部屋直系)に所属する3兄弟力士。4男「夢道鵬」は今場所、幕下優勝を決めている。金峰山晴樹(木瀬部屋)27歳、カザフスタン出身、日大出身。金峰山は熊本県に所在する山。しこ名の由来は、11代木瀬親方・元幕内「肥後ノ海」が熊本県出身によるもの。さらに「晴樹」に関しては、肥後ノ海の日大相撲部において、同期だった成田晴樹さんに由来する。成田さんは元高校横綱であったが、在学中に死去されたという。巴戦におけるエピソードはこれである。豊昇龍と王鵬は共に同時に初土俵を踏んだ相撲界同期という。
相撲のテレビ観戦は、様々なエピソードを携えていれば、興味津々尽きないものである。3力士それぞれに、うれし涙、かなし涙、つきまとう夜明けになりそうである。私の場合は、巴戦の感涙いまだ消えない夜明けである。歯医者通いはなさけない。
日本の国に報いる老婆心
1月26日(日曜日)。壁時計の針は6時に近づいている。いまだに夜明け前だけれど、窓ガラスの外に雨はなく、風だけが強く吹いている。しかし、寒気は緩んでいて、身を縮めることはない。確かな足取りで、春の足音が近づいている。寒気に震えていたことを思えばわが寝起きの心境は、気分良く様変わっている。しかしながらこれは自然界の恵みのせいであり、私自身が成し得た好気分ではない。私自身は相も変わらず、こんな心境を携えて起き出している。私自身、妻、総じてわが家の終(しま)い方を案じて、日々心が安らぐことはない。いや、言葉を強めて言えば、日々、終い方の恐ろしさに憂(うれ)えている。
もはや私は、日本の国のこの先の行きし方を案じる年齢ではない。わが死んだ先の日本の国は、どうなっても構わないとまでは思うはない。けれど、それに近い思いはある。このことでいくつか、寝起きの心中に浮かべていたものがある。真っ先の一つはこのことである。現下の日本社会には日本政府の施策もあって、「インバウンド」(訪日外国人観光・旅行客)が矢鱈と増えている。この先には、なおいっそう増え続けると予測されている。
観光の見所やそれを外国人が愛(め)でてくれることには、日本人として私にも素直に喜ぶところはある。しかしながら一方、外国人が日本の国に定住することとなると、私はにわかに日本の国の行く末を案じて憂えている。昭和の人間・やはり私は、令和の世にあっては、料簡(了簡、了見)が狭いのであろうか。このことでは超絶な思い、すなわちかつての「鎖国時代」さえ偲ばれてくる。
これに加えて、この先の日本の国を案じることにはやはり、「少子高齢化社会」と「格差社会」がある。老い先短い私がこんなことを慮って案じ憂えることは、確かに愚の骨頂である。なぜなら、翻ってわが身の周りには、嘆き危惧することが溢れている。それでも真っ先に日本の国の行く末を案ずるのは、長く住んでいることに報(むく)いる老婆心(ろうばしん)の発露であろう。杞憂(きゆう)にすぎないことを願うのみである。満天、日本晴れの朝が訪れている。
わが自然界礼賛に背く、人間社会の犯罪の多発
1月25日(土曜日)。現在、デジタル時刻は、6:11と刻んでいる。しかしながらまだ、夜明け前にある。だけど、この文章の中頃には、白々と夜が明けてくる。昨年の「冬至」(12月21日)から一か月余が過ぎて、視覚的にも体感的に日長を感じ始めている。具体的には夜明けが早くなり、日暮れが遅くなり始めている。加えて昼間の陽射し(日光)は、暖(だん)を帯び始めている。わが自然界崇拝や礼賛にあっては、掛け値なしに「太陽(日光)」こそ、その筆頭を成している。
きのうの私は、いつもの買い物の街・大船(鎌倉市)へ出かけた。もちろん用件は買い物である。出だしは、寒気を恐れての買い物だった。ところが案じることなかれ、陽射し(日光)の暖かさに恵まれて、体じゅうが汗ばんだ。わが気分は、はしゃいだ。自宅へ戻るとテレビは、石破総理の施政方針演説の場面を映していた。演説の根幹(キャッチフレーズ)には、「楽しい日本」が掲げられていた。確かに、そうありたいと思う。ところが、天邪鬼のわが心中には、(犯罪のない日本)がいいのではないかという、思いが浮かんでいた。もちろん、石破総理の演説にケチをつけたり、当てこすりをするものではない。けれど、このところの日本社会は、頓(とみ)に犯罪社会の様相を呈している。中でも直近の出来事で頻発しているのは、見知らぬ人が出遭いがしらに、見知らぬ人を殺傷する「通り魔事件」の多発である。まさしく、身近なところで起きている犯罪の恐怖である。このところ、これに限ることなく日本社会には、事件をはじめとする様々な犯罪が頻発している。被害当事者はもちろん、これらのニュースを聞くたびに日本国民は、犯罪の恐ろしさに怯(おび)えている。だから、「楽しい日本」を為す先駆けには、「犯罪のない日本」が妥当と言えそうである。
きょうは出合がしらにこのことを書いて、文章を閉じるつもりである。おやおや、中頃はとうに過ぎている。夜明けが早まり、薄々と明るみ始めている。風雨なく、いや寒気は和らいで、雲隠れの太陽(日光)の恵みにさずかっている(6:56)。