ひぐらしの記

ひぐらしの記

前田静良 作

リニューアルしました。


2014.10.27カウンター設置

内田川(熊本県・筆者の故郷)富田文昭さん撮影

 

勤労感謝の日

 「勤労感謝の日」(11月23日・水曜日)。日本大百科全書(ニッポニカ)より引用。「勤労をたつとび、生産を祝い、国民がたがいに感謝しあう」国民の祝日。1948年(昭和23)制定された。その前は国の祭日で、天皇が新穀を天神地祇 (てんじんちぎ)に勧め、自らも食する新嘗祭 (にいなめさい)という祭事の日であった影響でこの日はいまも農業関係者の祭典の色彩が濃くみられる。さて、「すっきり」と「すっかり」という言葉の発音は極めて似ている。ところが、用い方は真逆(まぎゃく)である。「寝起きの私の気分は、すっきりしている」。「口内炎と胃部不快の抱き合わせ症状により私は、すっかり体調を崩してしまった。」現在の私は、後者である。
 勤労をたっとぶ「勤労感謝の日」にあって、私は「生きる屍(しかばね)」状態にある。体調が崩れて気分憂鬱のせいで、この先の文章は書けない。なさけない。昭和23年にあっての私は、熊本県鹿本郡内田村立内田小学校2年生であった。こんなロートルになろうとはつゆ知らず、明るく校門をくぐっていた。楽しかった思い出は、はるかに遠くなってしまった。人生行路においては、共に生きているのに、「幼年と晩年」もまた、真逆の生き方である。口内炎の痛さに耐えきれず、起き出して来た。現在の時刻は、4:44と刻まれている。

恩義忘れず「だらだら文」

 十一月二十二日(火曜日)。夜の静寂(しじま)の頭上の二輪の蛍光灯の明かりは、十五夜の月光に肖(あやか)るかのように、皓皓(こうこう)とふりそそいでいる。現在の時刻は、夜明け未だの四時前にある。夜明けの遅い仲冬ゆえに、こんな表現をしても、もちろん嘘っぱちでも、大袈裟でもない。
 夜の静けさは、人間界に授けられた天界の恩寵(おんちょう)である。実際のところは、太陽の恵みであろう。わが下種(げす)の勘繰りをすれば、夜なく昼ばかりでは寝ることなく労働を強いられて、人間は命を縮めるであろうという、太陽の粋なはからいに思えている。学業成績(テスト)において、化学および物理共に常に赤点だった私は、そのたびに科学のもたらすロマンより、わが心の描く空想にロマンを掛けてきた。かなりの負け惜しみだけれど、まんざら嘘っぱちでもない。いや人間は、心の描くロマンこそはてしなく、夢見る心地にありつけるところがある。
 さて、ロマンは止めて、現実に戻ろう。寝床から起き出して来た私は、すぐさまこんな行動をとった。階下に寝ている妻を気遣い、階段を下りて洗面所へ行った。そこに置いていた口内炎治療薬(軟膏)を指先に少し取り、鏡面に向かい患部を睨んで、ベロ(舌)の穴ぽこを中心にして、左右満遍なく塗り付けた。これが済むとパソコンを起ち上げている。そして現在の私は、口内炎の痛さを必死に堪えて、なおかつ、塗った軟膏が患部からずれないようにと、唇を固く結んでいる。何事においても敵を倒すには、先手必勝が戦闘の常道である。
 このことは愚か者の私とて、十分知りすぎている戦術・戦法である。ところが、このたびの口内炎との闘いにおいては、後手に回ってしまったのである。あからさまにいや文字どおり私は、「後悔は先に立たず」という、悔いある現象をさらけ出したのである。口内炎の発症には、胃部不快がつきものである。あるいは逆に、胃部の損傷が口内炎を招くのか? こんな訳の分からぬ道理はどうでもいい。ただただ私は、口内炎の痛みと、胃部不快から逃れたい一心である。そうしないと三度の御飯は、旨くも楽しくもなく、生き続けるための虚しい「餌(えさ)」にすぎない。
 早く、逃れたい! 何らあてにならない神頼みなどは捨ててきのう、後手になった闘いの一つを敢行したのである。私は、大船(鎌倉市)の街中にある行きつけのドラッグストア・「ダイコク」に赴いた。そして、口内炎用には「口内炎治療薬・ラウマー軟膏」(万協製薬)、胃部の不快鎮めには「整胃薬・セルベース錠剤」(エーザイ)を買った。ラウマー軟膏の効き目は未だしである。一方、セルベース錠剤は著効を示している。後者は義理でもこう言わなければ、恩義に背くとになる。なぜなら、セルベース錠剤は、わが現役勤務の会社が産み出した優れた薬剤であり、そのうえわが年金生活の大元を為しているからである。このことを書くために「だらだら文」を書いてしまった。
 夜明けはまだ遠く、私日記定番の天気模様は記せない。パソコンを閉じて寝床へ戻っても、二度寝にはありつけそうにない。だとしたら、再び階段を下りて、軟膏を患部に塗りたくってみようかな? と思う、虫けらの浅ましさである。

書き殴りを「御免」と思う

 十一月二十一日(月曜日)、今なお治りきらない口内炎の痛さに遭って、七転八倒しているうちに時は流れ、挙句に寝坊して起き出してきた。夜明けの時刻はとうに過ぎている。けれど、雨戸開けっ放しの前面の窓ガラスの外は、いまだに夜中のたたずまいにある。太陽光線の恩恵は、はかり知れない。この世いや地球にあって、無償の恩恵に授かる筆頭は、太陽光線であることをあらためて知る。
 寝起きのわが脳髄は、空っぽである。こんなことではこの先を書くのは止めて、現在は「三十六計逃げるに如かず」の心境にある。しかしながら私は、口内炎の痛さを我慢して、パソコンを起ち上げてしまった。飛んだ、わがしくじりである。それゆえに脳髄の乏しさ、いわゆるバカ状態をさらけ出している。
 確かに、物事において「継続は力なり」である。ところが、こんな駄文で継続の力を求めるのは、本末転倒の誹(そし)りを免れない。それでも継続を求めるのは、わが浅ましさと貪欲さの証しであろう。私はいつも、こんな実のない、味気ないことを冒頭に綴っている。そうこうしているうちに、何か? 脳髄に浮かぶことを待っている。ところがきょうは、この先を続けても何も浮かびそうにない。
 「ああー、痛い!」。ベロ(舌)の突先マンホールみたいに、ぽっかりと穴を空けている。いや、一つの穴だけでなく、左右横広がりに爛(ただ)れている。ピロリ菌を退治して以来、幼年の頃から取りついていた口内炎は、バッタリと遠のいてくれていた。ピロリ菌退治は、鬼退治に勝る朗報だった。だから今回の口内炎の発症には余計、怖さを感じるものがある。すなわち、ピロリ菌退治の賞味期限はもとより消費期限切れにあっているのであろうか。次回の通院のおりには主治医にたいして、真っ先に「ピロリ菌は、生き返るのでしょうか?」と、尋ねるつもりでいる。
 たかが口内炎ではあるけれど、私の場合は確かな難病である。やはり、この先は書けずにパソコンを閉じる。はなはだ忝(かたじけな)く思う、二十分間程度の書き殴りである。継続文に値するかどうかは、わが知ったこっちゃない。寝坊助のせいで、焦って書いた。ところが、半面そのせいか、朝御飯の支度まではたっぷりと余裕時間を残している。薄闇の夜明けは雨降りである。

案外、私は「食通」なのか?

 十一月二十日(日曜日)、夜明けまではまだ、行き着きないところにある。口内炎にともなう胃部不快、すなわち抱き合わせの不快感は、未だに極限状態にある。寝起きの私は、不意に美食家という、言葉を浮かべている。だから、これにともなって、三つの言葉を浮かべている。きわめて簡易な言葉だけれど、まずは電子辞書を開いた。
 美食:うまいものや贅沢なものを食べること。また、その食べ物。美食家。
 素食:①肉類を加えず野菜だけの料理②平生の食べ物。
 粗食:粗末な食事をすること。またその食べ物。
 美食にはいくらか揶揄的に、「家(か)」が添えられている。すなわち不断、最も有体(ありてい)に添えられるのは「美食家(びしょくか)」である。ところが、この言葉は電子辞書にはない。こんどは、スマホに搭載の「国語英語辞典」を開いた。これには明確に、美食家の説明文が記されていた。
 美食家:ぜいたくでうまいものばかりを好んで食べる人。グルメ。
 ところが、素食と粗食にあっては、それぞれに素食者そして粗食者の説明が付くくらいだった。もちろん私は、美食家ではない。また説明書きに従えば私は、必ずしもズバリ素食者や粗食者でもない。
 私の場合、三度の御飯(主食)は、ほぼ米飯(白米)一辺倒である。麺類やパン類は好まない。御数とて手の込んだ手料理などは好まない。言うなれば「レシピ」施しの、あれこれと煮たくったものは好まない。納豆一品の御数で十分である。だからと言って、粗末な御数とは言えない。
 付け出しだけれど、わが好む特等の食べ物は、「赤飯にごま塩」まぶしである。これには魚の刺身、タイの尾頭つき塩焼き、寿司さえお手上げである。確かに私の場合は、美食家ではないことはもちろんのこと、素食者および粗食者とも言えない、より下位に甘んじている。だけど、満足している。
 「食通」:「料理の味などに通じていること。また、その人」
 案外いや結構、私は食通なのかもしれない。口内炎と胃部不快のもたらす憂鬱気分消えず、この先は書かずおしまいである。夜明けの明かりは見えず、未だ薄暗い夜明け前にある。それゆえにきょうの天気模様は、書けずじまいである。きのう、きょうの天気予報は聞いていない。

人情、他人様から賜る情け

 十一月十八日(土曜日)。寝床から抜け出して来て、パソコンを前にして椅子に座り、壁時計を横目で見遣った。時計の針は、四時あたりをさしている。夜明けの遅い仲冬の夜明けまでは、未だ夜の静寂(しじま)にある。それでも、きのうの「丑三つ時」の寝起きに比べれば、二時間ほど長く眠れていたことになる。口内炎の痛さは峠を越して、下り坂に向かっているようである。そうであれば、ささやかとは言えない朗報である。つれて、憂鬱気分も緩和傾向にあり、どうにか「文章の体・態(てい)」を為している。
 きのうは口内炎のもたらす憂鬱気分に陥り、文章を書く気分になれずじまいだった。挙句、出まかせの石ころみたいな創作川柳でつないだ。人の世は、「捨てる神あれば拾う神あり」。この定則を露わにしたのは、文字どおり他人様(ひとさま)の情けと優しさであった。実際には掲示板上の高橋弘樹様のご投稿文から、こんなアドバイスを賜ったのである。「前田さん。口内炎には『KAGOME野菜生活100オリジナル』(200ml)が良いですよ」。「牛に引かれて善光寺参り」:他人に誘われて知らぬうちに善い方へ導かれることのたとえ。この成句にいくらか似ているけれど、実のところはまったくそうではない。なぜなら私は、常日頃にエールを賜る高橋様のアドバイスにすがり、定期路線バスに乗って大船(鎌倉市)の街へ出かけたのである。そして、セブンイレブンに立ち寄り、高橋様お勧めの目当て「野菜生活」を買い込んだ。きのうは、たちどころに二本飲んだ。効き目はわからない。しかし、買い込んだおりのわが心中には、咄嗟にこんな成句ができていた。「親の声、絶えて代わりの、他人(ひと)の声」。
 わが晩節の生存は、人様の声に「助けられ、支えられ」て、叶っている。「痛い、痛い、口内炎」は、他人様(ひとさま)の人情を篤くもたらしてくれたのである。だから痛くても、ありがたくて我慢のしどころである。まだ、夜明けの明かりは見えない。パソコンを畳んで、寝床にとんぼ返りをしたら、案外いや結構、二度寝にありつけそうである。

口内炎の夜

 十一月十八日(金曜日)、口内炎の痛さに耐えきれず起き出してきた。夜明けまでは、はるかに遠い「丑三つ時」(午前二時から二時半頃)にある。こんな気分ではこの先、文章は書けない。それゆえにきょうは、起き立てに浮かんでいる、三つの創作川柳を記して、おさらばである。しかしながら、おさらばの先が寝床へのとんぼ返りとなりそうなのは、泣き面に蜂である。
 俳句は苦吟するけれど、川柳は楽ちん(楽吟)である。その証しには、石ころみたいなものが、ころころと転がっている。それらの中から、浮かんで出来立てほやほやの三つの川柳を晒して、文章の代わりに役立てる。一つは、松尾芭蕉の俳諧を真似て、川柳仕立てにしたものである。「古池や老い顔隠す濁り水」。ずばり、わが姿の実写である。二つは日頃、わが心境を脅かしている事柄を模写したものである。「ポイントに客引きされて銭失い」。「デジタルの意味さえ知らず明け暮れる」。みずからの老い顔は、嘆いても仕方ないことである。けれど後者は、面倒な世の中になったものだ! と、日々嘆いている。挙句、仕方がないと悟るまもなく、「命」切れるであろう。
 こんな文章には、表題のつけようはない。だけど、文を結んだのち考えてみる。夜明けの明かりは見えようなく、私日記定番の天気模様を記すことはできない。私にとっての口内炎は、難病である。

生きてます

 十一月十七日(木曜日)、夜明け間もないところで起き出している。ぐっすり眠れて、気分安らかにパソコンへ向かっている。寝起きの気分の安らぎは、二度寝に恵まれた「成果」である。長く、成果という言葉にはありつけず、それゆえ死語になるのを恐れて、へんてこりんなところで意図して使ったまでである。本当のところ成果の表現は大袈裟すぎて、単に「せい、あるいは、ため」くらいが適当語である。精神の疲れの場合は、二度寝にはありつけない。ところが一方、身体の疲れの場合は、二度寝にありつける。きょうの寝起きは、如実にこの証しを示している。
 きのうの私は、久しぶりに長く歩いた。そのせいで、身体が疲れた。その報いがきょうの寝起きに顕れたのである。「報い」とは自分自身、常に気をつけないと用い方に誤りを招く言葉である。なぜなら、報いに変えて熟語の「報酬」を用いればそれはずばり、自分がいいこと(善行)をしたことにたいする対価(見返り)となる。ところが、この言葉には善行だけではなく、わるいこと(悪行)にたいする、仕返しの意味もある。すなわち、よく定型的に用いられるものでは、「悪の報い(仕返し)」という表現がある。
 きょうの文章は、書き殴り特有にまったく締まりがない。この先、こんな文章を書き続けては、せっかくの好気分はたちまち変転し、滅入るばかりである。それゆえこれで、急転直下の結び文とするところである。のどかに、仲冬の朝日が昇り始めている。文章と言えないものには、表題のつけようはない。生きている証しのいたずら書きである。

バカなことを書いている

 十一月十六日(水曜日)、窓ガラスの外は未だ暗闇の、夜明け前に起き出している。起きて、心中にぼんやりと浮かべていたのは、こんなことである。一つは、またコロナが勢いを増している。怖いなあー。結局、罹らずには済まないのかもしれない。自分は罹らなくても、体力が落ちている妻は、罹るかもしれない。仕事や学業中の娘や孫は、もっとその渦中にいる。困ったなあー。一つは、私には読書歴がない。それゆえ、言葉や文字の学習、すなわち習得がない。わが人生における大きな損失である。「後悔先に立たず」、さらに重ねれば「後の祭り」である。一つは、私は起き立てに書き殴りの文章ばかりを書いている。だから、腰を据えて、推敲を重ねた文章を書きたいなあ……。寝起きに浮かべていたことゆえに、何らの筋立ても繋がりもない。ボウフラみたいに、突然わいて出た脳みその屑にすぎない。
 きのうはパソコントラブルに見舞われて往生し、挙句、文章は書かずじまいだった。幸いにも、トラブルは修復した。しかしながら、こんな文章しか書けない。私は「生きる屍(しかばね)」状態にある。夜明けを待つまでもなくこれで閉じて、壊れている気分の修復にかかろうと思う。もちろん、コールセンターには頼れず、自分自身にすがるしか便法はない。
 こんな文章、書かなきゃよかった。まったくの無価値である。早起きは、三文の徳ならず大損である。

トラブル

 マウスがまったく反応しない。それゆえ、マウスに頼らず指先を滑らしている。しかし、これでは不便きわまりなく、文章を書くことはできない。不断のかぎりない嘆息に、突然また一つ、嘆かわしい問題が加わっている。デジタル社会は、大嫌いだ。夜明けの空はこれまでの長い好天気を断って、地上に音なくシトシト雨を降らしている。わが心中は、轟轟と音を立てて土砂降りの雨である。好天気が断たれたことだけは記そうと、ヨタヨタと指先を滑らした。この文章は、「ひぐらしの記」の書き止めをもたらしそうである。

続いている「好天気」

 十一月十四日(月曜日)、起きてパソコンを起ち上げ、しばし机上に両頬杖をついていた。頬杖を外し、ポコポコとキーを叩き始めている。片目で見遣る壁時計の針は、五時近くを回っている。夜明けが早い頃で晴れであれば、燦燦と朝日輝く夜明けにある。しかし仲冬の時は、「冬至」(十二月二十二日)へ向かって、いっそう夜明けを遅らせている。それゆえ、前面の雨戸開けっ放しの窓ガラス越しに見る外界は、未だに暗闇である。ところが、私には夜明けの遅いご利益(りやく)がある。それは、執筆に焦燥をおぼえないというご利益である。確かに、私はのんびりとキーを叩いている。めっぽう、うれしいご利益である。
 きのうは、書き殴り特有の締まりのない文章を長々と書いた。挙句、草臥(くたび)れ儲けだけの文章に甘んじた。そののち、草臥れは尾を引いて、きょうは休養を決め込んでいた。しかし、書き出したからには寝起きにあって、心中に浮かべていた一つを書いておさらばである。自然界は、天変地異の鳴動で人間界に罪をつくる。そしてその償いは、四季折々の恵みで果たす。とりわけ、好天気のもたらす償いは、天変地異の罪を蹴飛ばす感さえある。これはこのところの好天気にありついて、わが実感である。きのうの道路の掃除にあっては、自然界のこんないたずらに遭遇した。掃き清めたところに、まるで「待っていました!」とばかりに、ほぼ同量の枯れた枝葉が舞い落ちてきた。憎たらしく、かつ業(ごう)を煮やすところだけれど私は、もはや手に負えず苦笑(にがわらい)を浮かべて、山を見上げた。このときの心境は、好天気恵んだ心象の余裕だったのである。確かに、自然界は罪をつくり、一方で確かに、罪償いをしている。人間界はどうであろうか? しばし、落ち葉時雨の中にたたずみ、あらためて学んだ自然界の健気(けなげ)さであった。
 夜明けて、朝日の見えない曇り空に、数えきれない彩雲が散らばっている。是れ、また好しの夜明けである。