ひぐらしの記
前田静良 作
リニューアルしました。
2014.10.27カウンター設置

内田川(熊本県・筆者の故郷)富田文昭さん撮影
連載『少年』十八日目
少年にとって夏の内田川は、レジャーランドとなった。日課の『夏休みの友』やほかの宿題を終えると少年は、午後には内田川の中にいた。少年は猿股パンツ一つで裸になり、夏休み中内田川で遊んだ。このため少年の体は、まるで黒棒菓子みたいになり、裸の体は黒光りした。黒光りの少年の体が水に飛び込むと、白く水しぶきが上がった。少年の家は内田川の川岸に建っていた。母は少年の家の裏道を通り川辺に立ち、川中の少年に大声で叫んだ。
「しずよし。茶あがり(三時のおやつの時間)だよ、水から上がって、帰って来んかあ……」
少年にとっては母が呼びに来るまでが、午後の遊びの第一ラウンドだった。母に呼び戻されて家に帰ると、茶あがりの用意ができており、テーブルの周りには父が座っていた。茶あがりのメニュー(献立)は、ほぼ夏の間じゅうは明けても暮れても飽きずに、ソーメンばかりだった。父がソーメンを大好きだったためであろう。ところが少年はソーメンを食い厭きて、そののちトラウマ(精神的外傷)になり、今なお嫌いな食べ物の一つになっている。夏の間、テーブルは釜屋(土間の台所)に置かれていた。少年は裸の体を河童のように水浸しにしたままに、テーブルを前にして椅子に座った。少年は濡れた体のまま、半ば義務のようにソーメンを一気に啜った。ソーメンの良いところは、嫌いでもスムースに喉をスルスル通ることである。少年にとっては、ほぼ毎日訪れる茶上がりどきのおざなりのソーメンの食べ方である。ところが、少年が好きな食べ物もあった。それはソーメンの後にテーブルに乗る西瓜だった。
少年は茶上りが済むと、再び内田川へ走り込んで、西瓜で膨れた体を水中に沈めた。このときが、午後の遊びの第二ラウンドの始まりである。少年は、内田川とその水にたっぷりと戯れた。こののち、第二ラウンド終了の合図の鐘の代わりをしたのは、西の空へ沈む茜色の夕陽だった。
夏休みが終わると、二学期が始まった。少年は遊びすぎた疲れがとれないままに、物憂げに登校した。少年は夏休みの友やほかの宿題も完結に終えて、二学期の始業式を迎えた。始業式の後まもなく、夏休み前に伝えられていた「校内黒肌大会」が行われた。黒光りする少年の体は、白みの友達の体を圧倒して、「一等賞」に選ばれた。担任の渕上先生はいつもの優しいニコニコ顔で、「元気に、たくさん水浴びしたね」と言って、少年を褒められた。少年はそのことを母に伝えたくて、飛ぶようにして家に帰った。精米仕事中の母は、いつものように戸口元で少年を迎えた。少年は母に向かい跳びはねて、「かあちゃん、一等賞、とったよ。渕上先生から、褒められたよ。」と、言った。母は笑って少年の毬栗頭を撫でながら、すかさずこう言った。
「そうや、一等賞だったや、あんたには裏ん川があって、よかったばいね。一等賞になれば、なんでもええたいね。よう、がんばったね」
少年は、渕上先生と母に褒められて、うれしかった。一気に、夏の遊びの疲れは消えた。
少年が三年生になると担任は、渕上先生から男性の徳丸普可喜先生に替わった。少年はすぐに、徳丸先生も好きになった。徳丸先生は、少年の三年生次と四年生次の二年間の担任だった。そして、五年生次と六年生次の担任は、男性の家入喜人先生だった。少年は家入先生にもすぐに慣れて、好きになった。少年の小学校六年間の担任の先生は二年刻みで、最初は渕上先生、次は徳丸先生、最後は家入先生だった。少年はどの先生も好きになった。そのためか少年は、内田小学校の六年間を無欠席(皆勤賞)で終えたのである。
学年が上がるにつれて少年の関心事は、だんだんと教室外へも向いた。これを手助けしてくれたのは、新聞とラジオそして雑誌だった。父や兄たちは、購読紙・西日本新聞を貪(むさぼ)り読んでいた。これに感化されたのか、少年も負けずに読んだ。特に、好きなスポーツ欄は記事を漁り、あとまで記憶に残るように丁寧に読んだ。中でも好きな野球の記事は、プロ野球、都市対抗野球、高校野球、大学野球、など様々に、どれもこれも一様に貪り読んだ。
プロ野球では阪神タイガースが好きな球団になった。タイガースは、巨人(読売ジャイアンツ)と競ってはいたけれど、勝者にはなれなかった。なぜならタイガースは試合と人気においていやすべてに、ジャイアンツには敵(かな)わなかった。ジャイアンツの人気選手は、背番号16番の川上哲治一塁手だった。川上選手は少年のふるさと県・熊本の人吉市出身で、旧制熊本工業中学を経てジャイアンツに入団し、一世を風靡するほどの球界一の大打者そして、人気ナンバーワンの誇り高き名選手である。それゆえ友達のみんなは川上選手が大好きで、自然とジャイアンツファンばかりだった。もちろん少年もまた、熊本出身ゆえに川上選手の大ファンだった。ところが、球団となると別だった。タイガースには個人人気の面では川上選手に対抗する、背番号10番の藤村富美男三塁手がいた。藤村選手は、少年には縁もゆかりもない広島県の旧制呉港中学の出身である。それでも少年は、なぜか? 藤村選手が好きになり、そのままタイガースファンになったのである。
少年がこんな突拍子もないことでタイガースファンになったのは、たぶん少年自身が父のいきかたに一脈相通じていたのかもしれない。少年はいまさらながらにそう思う。父は極端な判官贔屓(源義経ファン)だった。判官贔屓とは、強い者より弱い者に味方する心根である。確かにタイガースは、何かにつけてジャイアンツには勝てない球団だった。好きな藤村選手も、川上選手にはすべて敵わない。だから少年は父に似て、判官贔屓という理由だけで、タイガースファンになったかのように思う。挙句、少年は、未踏はるかに遠い大阪府と兵庫県(神戸)を本拠地(ホームグラウンド)とする、阪神タイガースのファンになってしまっていたのである。
判官贔屓には悔いはなく、今なお高じたままに頂点を極めて、「トラキチ」に変じている。雑誌はたぶん、友達の中でも少年だけが親に買ってもらっていたと思う。雑誌名は『少年倶楽部(クラブ)』である。少年が月一回の発行を待って貪り読んだのは、人気抜群の連載漫画『のらくろ』だった。
連載『少年』、十七日目
少年はまた、内田川のことを書いている。少年の独り善がりの文章など、だれも読まないから気楽に何度も書けるのだ。少年の家は、川の上流から中流にかけて位置している。裏戸を開けると下手の方では、太陽の照り返しが白く水面を舐めて、竹山の隙間の向こうには、青い水が輝いている。どちらかと言えば裏の川は、まだ上流である。向こう岸と少年の家の間を流れる早瀬の音、浅瀬のせせらぎ、溜まりにたゆとう水は、あいなして四季折々に周囲の風景と調和する。内田川はそのたびに、少年の心を和ませた。少年はしばし深呼吸を繰り返し、川風を咽頭へ呼び込み、いっぱい吸った。新鮮な空気がはらわたに落ちると、少年の心身は一層和んだ。
少年の家は、内田川の河川敷際に建っていた。当時、少年の家には、水道や自前の井戸はなかった。内田川の水が当然のように少年の家に、生業の水車用の水と生活用水を恵んでいたからである。裏戸を開ければ内田川が流れている。内田川に堰を作り、水車用に自前の水路が設けられていた。分水は水路を通り、庭先はもちろんのこと、母屋の台所の中にまで引き込まれて流れていた。少年の家の内外には日常的に、内田川の水がたっぷりとあった。だからたぶん、当時の父と母は、そんな施設は用無しと決め込んでいたのかもしれない。それほどに少年の家は、内田川とそれが恵む水に密着し、大家族の命を育み、暮らしの生計を立てていたのである。換言すれば、少年の家の生活の中に、内田川が流れていた。そのぶん、少年の家の上方の家で赤痢や疫痢の発生が伝わると、少年の家はみな恐々としなければならなかった。
内田川は川中に点在する大きな岩や小石にあたり逆巻いたり、水しぶきを高く上げながら流れている。それでも、それを凌げば緩やかな流れになる。これは、雨のない日の内田川の流れの情景である。しかしながら内田村にあっても、少年、家人、村人に優しいばかりの山河はあり得ない。なぜなら自然界は、四季折々に人間に目を剥く恐ろしさをたずさえている。山紫水明に恵まれた内田村にあっても自然界は、ひとたび変調をきたすと防ぎようのない狂態を露わにした。
内田川は台風のたびに暴れ川となり、少年の家に恐怖と被害をもたらした。村中のあちこちでは土砂崩れが起きて、荒れた山肌を剥き出しにした。あるときは山津波が発生し立木を倒し、崩落した土砂に立木と岩石が混じって流れて来て、近くの民家を襲って家人の死亡事故を招いた。少年の家もそうだが、内田川にすがり川辺で水車を営む家は、川が増水するたびに恐怖に見舞われる。すると、地区の消防団の防災監視下に入った。少年は止みそうもなく土砂降りを続ける雨と、時々刻々に増水を極める内田川を、茶の間の窓ガラスに額をつけて立ったまま、じっと眺めていた。すると少年は、内田川の水嵩が増すたびに、怖くて泣きべそをかいた。降りしきる雨はいつになったら小降りになり、いつ止むのか。濁流の水嵩は、流石と流木のからむ轟音をともない、寸時に水勢をいや増して行く。
農作業用の二階建ての「しのば」(仕事場)は、河川敷の端に礎石を置いていた。母屋とて礎石と内田川との間は、河川敷を挟んで20メートルほどの近距離である。水嵩が増すたびに内田川は、河川敷を狭めては川幅を広げて、濁流が礎石へ迫ってくる。少年は恐怖に慄き、体の震えが止まらない。「生きた心地がしない」という表現は、このときこそ「ぴったしカンカン」である。
少年は豪雨と強風のなか、家人を探した。しかし家人は、しのばと母屋の点検防備に走り回っている。少年の泣きべそは、あふれる涙に変わった。土砂降りが細くなりかけ、空がうっすらとしはじめて、家族そろって「ああ、無事だった」と、嘆息を吐けるのだった。確かに、内田川にかぎらず内田村の山河自然は、少年の家の家族や村人に大きな恐怖を与えた。一方、内田川と内田村の山河自然は、恐怖をはねのけて村人の命を育んでくれた。だから、少年が感謝することこのほかにはない。この御恩返しに少年は、何度もひたすら内田川はもとより、内田村の山河自然を愛(め)で書いている。もちろん恥じたり、書き厭きることはない。ただひとつ少年にとって残念なことは、内田川は少年の唯一の弟・敏弘の命を助けずに、こともあろうに内田川の分水(水路)へ流してしまったことである。
連載『少年』、十六日目
内田村は熊本県の北部地域にあって、いくつかの村道と数多の私道を脇に従えて、熊本県から大分県方面へ向かう一本の県道が走り、ときには並走し一筋の内田川が源流と上流をなして、途中出遭う支流を抱き込みながら流れている。北へ向かう県道の先は山中の細道となり、県境の峠へ到達する。内田村は遠峯の連山と里山に囲まれた盆地を成して、中には農山村特有の段々畑と狭い田畑が点在する。村人の農作業の手助けには、最初は馬にのちには牛に頼っていた。村人の多くは農山林に合間の仕事を見つけ、中心には米や麦づくりを置いて、主に自給自足で暮らし向きを立てていた。山が恵む収入源には、炭焼き、シイタケ栽培、タケノコの掘り出し、杉山や竹山の切り出しなどにほぼ限られていた。口内炎に悩む少年の母は、それに効くという蜂蜜をつくる家を近くに知っていて、そこから買っていた。
村中には一軒の製材所があった。大きな動力を要するものでは、ほかに一か所村有の水力発電所があった。小さな動力のものでは少年の家のように、内田川の恵みにすがってあちこちに水車が回っていた。
村中の学校は内田村立内田小学校と内田中学校が校区、すなわち校地や運動場を共用し、村の中央地区にあたる堀川集落に本校を構えていた。本校とは別に東方の番所集落と西方の山内集落には、小学校一年生および二年生の登下校の足をおもんぱかり、それぞれに小さな平屋の分教場が設けられていた。小学校三年生になると、そこで学んでいた同学年生は本校に合流した。
村中には何人かの馬車引きさんがいた。馬車は「ゴロゴロ、ゴロゴロ」と音を立て、馬はときには「ヒヒン、ヒヒン」と嘶(いなな)いて、馬車引きさんに手綱を取られて、重たい馬車(荷台)を引いていた。馬車が通ると、車輪の音、蹄の音、崩れる石がらの音などが合奏し、一層高く音を周囲に響かせた。ただ、これらの音は村人には馴染んでいて、内田村ののどかな情景の一つでもあった。
ときたま、定期路線の「産交バス」がエンジン音を吹かして近づくと、馬車引きさんは早くから馬車を道の傍らに寄せた。そして、手綱を確り引いてバスを見送った。バスの音に慣れていた馬は、音にいきりたつこともなく、首筋を伸ばし静かに立っていた。馬車引きさんはバスが通り過ぎると、腰に垂らしていた手拭いを取り、顔から首筋にかけて汗を拭き、煙草を一本くゆらした。僅かだがこのひとときは、馬車引きさんと馬にとっては、疲れた体を休める「オアシス」みたいなものだったのかもしれない。馬は再び鞭打たれて馬力を高めることで、飼い葉を与えてくれる馬車引きさんに報いるしかなかった。しかしそれは、馬車引きさんの生業に報いる馬の悲しい宿命でもあった。
馬と馬車は、馬車引きさんの手さばきに操られて、内田村と近隣の村を往来した。胸突き八丁で吐息し、涎を垂らして、頭、顔、首を上下させて馬車を引く馬に、少年はしょっちゅう出合った。学校帰りに後方から空の馬車を見遣った少年は、馬車を一目散に追っかけた。そしてまだ遠くから、顔見知りの馬車引きさんにたいして、「馬車に、乗せてくだはーり」と、大きな声で叫んだ。馬車に追いつくと馬車引きさんはたいがい、「いいよ。乗ってもいいよ。だけんど、落ちないようにしろよな!」と、言って馬車に乗せてくれた。少年はランドセルを背中から下ろし馬車に置いて、乗るタイミングを見計らって、揺れ動いて進む馬車にひょいと飛び乗って座った。あたりまえだが積み荷を仕事とする馬車の荷台の板は、武骨で硬くできている。少年は尻と板を馴染ませるために、尻を板に「ゴニャゴニャ」させた。馬車は少年の所作にはお構いなく、石がら道の凹凸に応じて揺れ動いた。そのたびに少年の尻はあちこちにいざった。少年は馬車から落ちないように全神経を尖らせて、馬車の揺れ具合に集中した。少年はダルマのように丸くなり、落ちないようにさらに体を固めた。それでも馬車の揺れは、「ゴトゴト、ドンドン」と、少年の尻を揺り動かした。しばし少年の体は、風に揺らぐ葦のように頼りなく揺れた。ようやく少年の尻が板に馴染んだところで、馬車は少年の家の近くまで来ていた。こんどは下りることに、全神経を尖らした。無事に下りると少年は、前方の馬車引きさんへ向かって、「ありがとうございました。また乗せてくださあーい」と、さっきよりさらに大声で叫んだ。馬車引きさんと馬は振り向かず、馬車は「ゴロゴロ、ゴロゴロ」と音を立てて進んで行った。
少年は生まれながらにして、村人の情けと内田村の山河自然を愉しんだ。この頃の少年の一日は登校すること、そして下校すれば山や川で遊ぶことで過ぎた。戦時下のおりの少年は、兄たちに連れられて里山に入り松根油を採り、銃後の守りを固めた。ところが少年の場合、それには悲壮感などなく、楽しい山遊びの一つだった。少年は野原に萌えるスカンポやギシギシなどを手あたりしだいに採り、歯でむしり「ガリガリ」嚙んだ。ときには川辺へ行き、カワヤナギの幹をこじ開けて、蠢く白いヤナギ虫を取り出した。少年は家へ持ち帰ると、母にフライパンで炒ってもらって食べた。これだけは、食べるには勇気のいる怪しい珍味だった。
連載『少年』、十五日目
GHQ占領下の日本の国の舵取りは、良いにつけ悪いにつけ個性派首相と言われた吉田茂が握ることとなった。吉田首相は、ときには傲慢とも思えるワンマンぶりみせて顰蹙を買った。一方では、育ちの良い憎めない愛敬を持ち合わせていた。吉田首相は、硬軟併せ持っていたと言っていいだろう。特に外交においては硬、すなわち豪胆ぶりを発揮した。その証しに吉田首相は、GHQの占領下にもかかわらず、GHQにおもねるだけの政治姿勢はとらなかった。吉田首相は、負けた国のリーダーにありがちな卑屈さなど微塵もみせずに、真っ向GHQと対峙した。内田小学校二年生になった少年は、父がラジオや新聞を通して政治や社会問題などに強く関心を持っていたことからその影響を受けて、少しずつ社会の動向に関心を寄せていた。吉田内閣は、七年間の長期政権をまっとうした。
昭和二十三年一月、少年の家には一つの婚儀があった。母一女のセツコ姉は、当時はまだ近隣の村・六郷村の島田集落の義兄に嫁いだ。少年にははじめて体験したきょうだいの結婚式だった。戦地に赴いていた男性軍が復員、すなわちわが家へ帰り始めて、女性軍はそれを待って内田村には結婚式が増えていた。結婚適齢期だった姉もまた、この範疇の一人だったのであろう。戦地帰りの男性軍との出会いは、銃後の守りに明け暮れていた女性軍にとっては、まさしく「敗戦後のあけぼの」とも言える果報だったのである。なぜなら戦争は、適齢期の男女の交際や結婚にまで、奇妙な現象をもたらしていた。将来の約束をして、帰らぬ人それを待つ人。出征前にあわただしく形だけの結婚式を挙げて新妻となり、帰らぬ夫を耐えて待つだけの人もいた。戦争は人々の心と生活に重石を乗せていたのである。
この文章はすでに世を去ったきょうだいへの少年の鎮魂の役割と、きょうだい愛を繋ぐ役割でもある。だから、少年の知らない異母きょうだい(兄と姉)の結婚模様を記すのは、あながち蛇足とは言えない。しかし、読む人はいないであろう。それでも一向にかまわない。なぜなら、多くのきょうだいの中で、一人残された少年の役割だからである。異母一男護兄はイツエ義姉と昭和七年十月、異母一女スイコ姉は栄次義兄と昭和八年六月、異母二女キヨコ姉は秀雄義兄と昭和十七年三月、そして異母二兄利行兄はチズエ義姉と昭和十八年三月。異母三男利清兄は結婚の夢叶わず、異国の島で名誉の死という飾りを付されて戦死した。異母の兄姉たちが青年淑女の頃の新郎新婦ぶりは、どういう情景をみせていたであろうか。ただ、時代は華やかには味方せず、日本の国は満州事変を発端にして、戦時下と戦時色を深めていた中だった。それでもやはり、新婚気分は「いいもの」であったはずだと、少年は思いたい。その点、母一女セツコ姉の結婚式は、少年が生まれている戦後のことでもあり、そのうえ少年に物心ついた小学校二年生のときでもある。だからわずかでも、少年の記憶の中にある。一つは祝儀を前にして、姉の様子
は弾んでいた。一つは、義兄は中国大陸の戦地から帰り、姉を見初めたのである。異母一男護兄と義姉の出会いには、恥を晒しても書いておかねばならないことがある。それは珍妙と言うより、確かな実話だからである。まずは護兄に嫁いだイツエ義姉は、母の一男四女のきょうだいの中で、二女母の実の妹(四女)であった。すなわち父は、姉の母と、そして長男護は、母の妹と結婚している。二つ目の実話はまだ続く。姉(母)と妹(義姉イツエ)の子どもたちのうちの三人は、誕生年を同じくする同級生でもある。あえて書こう。母三男豊と義姉一女京子ちゃん、母四男良弘と義姉二女静代ちゃん、そして、母五男少年(静良)と義姉一男彰ちゃんである。少年と彰ちゃんは同級生でありながら、叔父と甥、なおいとこ同士の関係でもある。戦争資材さながらに、「産めや増やせの時代」とはいえやはり、少年の家の子どもたちは、異母から母に継いで、表彰状に値するほどに多すぎた。しかし少年は、恥で顔を赤らめることはない。なぜなら、むかえの田中さんには六人、隣の古家さんにも九人の子どもたちがいた。
少年が臆面もなくこんな文章を書けるのは、父と異母そして母、その子どもたち(きょうだい)の繋がりに、一切の諍いもなく全天候型に仲がよかったおかげである。大勢の子どもたちは勝ち戦であれば日本の国を救う玉財になり得ても、負けてしまえば糊口を凌ぐにはやはり大家族でありすぎた。水車を回し農業を兼ねて、自給自足に頼る少年の家にも、生きるための厳しい生活が待ち受けていたのである。朝鮮半島からは異母一男護兄(長男)の家族が引き上げて来て、上海からは気象庁の職員(独身)として出向いていた母一男一良兄(長男)が帰って来た。一良兄とフクミ義姉の結婚式は昭和二十六年、少年が小学校五年生のときだった。だれにとっても華燭の典は、文字どおり人生の華である。きょうだいの中でそれを叶えられなかったのは、異母三男利清兄(戦死二十三歳)、母二女テルコ(病没十八歳)、母六男少年の唯一の弟敏弘(事故死生後十一か月)である。今、少年目からは涙がポタポタと落ちて、三人の面影が蘇っている。
連載『少年』、十四日目
内田小学校一年生になった少年には、「夏休み」のある夏が四季のなかでは、一番好きな季節になった。少年は母に、「『夏休みの友』は、暑くならない午前中にやるからね」と、約束した。夏休みにはこのほかにも漢字の書き取りや、日記ないし自由課題の生活文などがあった。ほかにも、宿題があったと思うが思い出せない。
母と約束した午前中の勉強が済めば、夏休みの午後のすべては、少年の遊び時間となった。少年は畳敷きの表座敷ではなく、冷やっこい板張りの座敷に足を投げ出して、背丈の低い横長の文机(置き机)に向かった。ページをめくる感触、鉛筆の音、ときおり柱時計が「ボーン、ボーン、ボーン……」とけだるく鳴って、まだ静かな夏の朝の雰囲気を醸した。夏休みにあっては、精米機械の音なども普段とは違って聞こえて、やかましいとは思わなかった。少年は母と、午前中に勉強を終えれば、午後は川遊びに行っていいという、約束もしていた。少年は家の裏を流れる川へ、または「田中井手橋」の堰の下へ、水浴びに出かけた。
「内田川」は橋の下をくぐり、少年の家の裏へ流れて来る。夏の内田川に真っ黒い体の少年が飛び込むと、辺り一面に白い水しぶきが舞った。夏の内田川は、水の瀬清く緩やかに流れている。ウナギ、ナマズ、ドンカチ、シーツキ、ゴーリキ、カマヅカ、ハエ、なども泳いでいる。夏の内田川は、少年たちを夕陽が西の空へ落ちるまで、存分に遊ばせてくれた。少年に負けまいと競って水に飛び込むのは、声を掛け合って出かけた隣近所の子どもたちで、洋ちゃん、賢ちゃん、新ちゃん、だった。
少年は内田川のほとりに生まれたことがうれしくて、内田川は少年の自慢の川となった。子どもたちは夏休みが終わるまで、内田川で無邪気・天真爛漫に遊びほうけた。少年にとって、戦時下、終戦(敗戦)、そして敗戦後の記憶は、ごちゃまぜである。だからこの文章は、ときにはちぐはぐというか、頼りない記憶のままに書いている。なかでも時のずれは、ご容赦願うところである。
忌まわしい昭和二十年もラジオから『リンゴの歌』が流れて、日本国民は少しずつ敗戦の憂さを晴らし始めた。この歌は、戦争で憔悴しきっていた国民の心を捉えた。『リンゴの歌』は軽いリズムで、弾むようなメロデーだった。曲の明るさは、きょうやあしたをどう生きようかと、思い悩む国民への格好の応援歌となった。明るく流れる『リンゴの歌』を聞いて国民には生気が戻り始めて、敗戦国日本には復興の明かりがともろうとしていた。
戦地で生き延びた人たちは祖国日本へ、疎開先からはわが家へ帰って来る人が増えた。敗戦後の混迷や混乱は収まりかけて、日本国民ははっきりと前を向いた。しかしそれはまた、新たな敗戦後処理の序奏と幕開けでもあった。占領下の日本の政治に、GHQ(連合国総司令部)の縛りが加わったのである。間接とはいえ有無を言わさず、GHQの意向が日本を支配した。占領軍はほとんどアメリカ軍で固められて、占領政策はアメリカ主導で行われた。GHQは占領国日本にたいし、数々の指令を発した。GHQは日本社会の改革に向けて、様々な処方箋を企図し要請した。それらの根幹は、日本の古い政治体制や社会慣習に「民主主義」を基に変化を求めるものだった。実際にもそれを基に、いろんな面に改革の賦活剤が処方された。ところがこれらの処方箋は、衰弱しきっていた日本の国にはきわめて苦い薬だった。しかしながらのちに顧みれば、「良薬は口に苦し」の成句があるように、日本の国にとっては必ずしもすべてが苦いものばかりではなかったであろう。
民主主義の国アメリカの占領政策は、喧嘩に勝ったガキ大将のように、負けた者へのわがままのし放題とは、だいぶ違っていた。なぜなら、GHQの占領政策は、日本の国や国民にたいし、かなりの温情や配慮がされていたのである。もしかりに日本が戦争に勝って、占領政策を執る立場ともなれば、それこそ日本軍はただ威張り散らし、我がままのし放題ではないだろうかと、少年は思った。日本の国の政治は、敗戦後の初めての総選挙を通して社会党内閣が誕生し、片山哲が首相になり、片山内閣を組閣した。しかし片山内閣は、社会党、民主党、国民協同党の三党連立のせいで政治基盤が弱く、片山内閣は一年足らず終焉した。そして、昭和二十三年二月、こんどは民主党の芦田均が首相になり、片山内閣に代わり芦田内閣を組閣した。芦田内閣は中道政治を進めた。ところが、疑獄事件で足元を掬われて、芦田内閣もまた、片山内閣同様に短命に終わった。
これより先、昭和二十一年に誕生した第一次吉田茂内閣は、途中を中道政治に譲ったものの昭和二十三年に第二次吉田内閣として復活した。少年は内田小学校の二年生に進級し、担任は持ち上がりでそのまま、渕上孝代先生が教壇に立ってくださった。そのため、少年の小学校二年次の学校生活は楽しく続いた。
連載『少年』、十三日目
少年にとって運動会は、走ったり、遊戯をしたりすることより、昼の弁当の時間が楽しみだった。家族そろって弁当を開くところは、二か所が設けられた。一つは、広い運動場のセパレートコース周り(コース外)の適当なところだった。一つは、教室の使用が許された。多くの家族は煌めく青空の下、適当なところを探しては、剥き出しの土の上に持ち込みの茣蓙を広げた。木陰の下を選ぶ家族もいた。一方、陽射しを避けて、教室内で食べる家族もいた。もちろん、年によって選び方はまちまちであり、必ずしもどちらかに決めているわけではなかった。
この日の少年の家族は教室を使用した。机や椅子は隅に高く積み上げられていて、教室の広い板張りが敷物要らずのテーブル代わりになった。家族はここでご馳走を囲んで車座になった。たちまち、家族団欒の悦びが湧いた。母は、背負ってきただだっぴろい風呂敷に包んだ大きな箱を床に置いた。箱の中は、薬篭みたいに何段かに仕切られている。そこには普段、母が「わりご」と呼んでいる木造りの正方形の小箱が入っていた。これこそ、母からひとりに一個手渡される「わりご弁当」である。「わりご」自体は、枠は黒塗りで中裏は黒ないし朱塗りである。少年は「わりご」が大好きで、これを見ているだけでもなんだか殿様気分になる。
実際には「わりご」は、重箱仕様の小型の弁当箱である。なぜなら重箱もまた、枠は黒か朱で中裏は黒ないし朱塗りである。「わりご弁当」には行儀よく、銀シャリの塩むすびが三つ入り、脇には煮物のおかずが綺麗に詰められていた。わりごの中のおかずには、茹で卵の輪切りが仰向けに玉座を占めていた。少年は、塩むすびは手づかみで頬張り、おかずはまるで鶏が餌をつっつくごとくに、箸で矢継ぎ早に取り間断なく口に入れた。こうすることで少年の心身には、フワフワと幸福感が纏わりついた。
母が手提げてきた重箱の食材には肉類はなく、母が作る野菜畑の野菜を多くにして、いくつかの出来合いの物(購入物)が用いられていた。あえて記すとそれらは、ゴボウ、コンニャク、干しシイタケ、茹でタケノコ、ニンジン、サトイモ、昆布、ちくわ、かまぼこなどだった。これらの食材を用いて母は、釜屋で夜遅くまで煮物の煮炊きに汗を流していた。
母が手提げできたものではもう一つ、袋物ものがあった。袋の中には、茹で栗と栗団子、さらには皮を剥かないままの柿や梨が入っていた。飲み物はビールなどのアルコール類は一切なく、もっぱら内田川の生水を水筒に入れただけのものだった。家族そろってこんなご馳走三昧に出合えるのは、年に一度の運動会の日に限られていた。だから少年は、運動会が大好きだった。
周囲に目を遣ると家族ごとに、思い思いの持ち込みの食べ物を愉しんでいた。教室の中は「平和のすし詰め」のような賑やかさになっていた。廊下を走り回る子どもがいれば、泣きべそをかいている子どももいた。運動会は小学校だけの恒例行事とは言えず、村あげてそして村人総出の内田村における最大の年中行事をなしていた。その証拠には内田小学校と内田中学校共用の校庭(運動場)には、村中の小学生、中学生、男女の青年団員、その家族、そしてこれらに関係のない人たちまでが運動場と観覧席に集まった。まさしく、内田村あげての大運動会だったのである。そのためか、運動会の開催は一定日になっていて、秋の十月十日(のちの体育の日)だった。敗戦後間もない運動会だったせいか、さらには村人の気分直しをも兼ねていたのか、運動会は一日じゅう大盛況を極めた。
競技種目は三者合同の運動会にちなんで、それ相応に様々なものが組まれた。最後の小学生、中学生、青年団入り交じる「部落対抗リレー」には、どよめきの声が沸き立ち、観覧席は熱狂の坩堝と化した。入場門は、村人が花飾りの杉門を作った。ゴールラインを走り抜ければ旗を持った係が、三等までの順位の子を追っかけて、一等賞、二等賞、三等賞の旗の下に並べた。少年は六人横並びの徒競走では、足の速い文昭君がいたため、二等賞の旗の下に並んだ。ブルマを穿いていた宏子さんは、ニコニコしながら一等賞の旗のところに並んでいた。少年にはモンペかズボンかわからないものを穿いた渕上先生は、いつものニコニコ顔で子どもたちを見守りながら、いろんな世話係で一日じゅう運動場を駆けずり回られていた。子どもたちの一等賞、二等賞、三等賞の賞品には等級に応じて、帳面、鉛筆、消しゴムが渡された。少年には鉛筆だけが溜まったが、それでもうれしくて、解散になると急ぎ足で家路に就いた。
連載『少年』、十二日目
昭和二十二年の春先から初夏にかけては、少年の入学式、始業式、授業参観、家庭訪問などがあって、少年の家は学校とのかかわりが多くなっていた。家庭訪問の日がきた。少年の担任は、うら若く美しい渕上孝代先生である。母は顔見知りとはいえ、やはり緊張している。恥ずかしがり屋の少年の緊張は、言わずもがなである。
渕上先生は下の方から、真新しい自転車に乗ってやって来る。やって来られる道で一番見易いところは「仏ン坂」である。少年は縁先に立って、(渕上先生、来ているかな?)と、何度か様子見を繰り返した。これは、釜屋(土間の台所)で支度をしている母の指図だった。様子見のたびに少年は、「渕上先生は、まだ来よんならんよ」と、釜屋の母に知らせた。渕上先生は自転車で、仏ン坂を下って来られるはずだったのである。
母はおもてなしの支度に大わらわで、釜屋の中を往来していた。家庭訪問は、親と子の落ち着きのない一日だった。やがて先生は、どこからかひょっこり来られた。先生は用意していた表座敷に上がられて、母と向き合って少年の学校の様子を話されていた。ときおりは母、「そうでしょうか……」と言って、ぎこちないよそ行き言葉で相槌を打っていた。少年は先生に挨拶もせずに、近くの襖の陰に隠れて、聞き耳を立てていた。しかし、二人の話の内容は聞き取れなかった。
突然、母が、「しずよし、隠れていないで出てきて、先生に挨拶すればええたいね」と、言った。母に不意におびき出されて決まりが悪かったけれど、少年はおずおずと出て行った。渕上先生は「しずよし君、いたばいね」と言って、笑われた。
先生が母に、おいとまの言葉をかけて立ち上がられると、母は用意していたおもたせを先生に渡した。先生は自転車に乗って、次の友達のだれかの家へ行かれた。少年は母に、「渕上先生は、なんて言うてた」と、矢継ぎ早に聞いた。
「渕上先生は『しずよし君は、とてもいい子です。心配することは何もありません』と、言われたよ」
と、母は言った。少年はうれしくなり、はにかんだ。母と少年が気懸りだった家庭訪問は、何事もなく済んだ。
当時の内田村には保育園や幼稚園はなかった。だから少年は、小学校へ入学してはじめて、村中の同級生に出会い、学校という集団生活が始まった。それゆえ、少年にとっての学校生活は、毎日が新鮮で楽しいことばかりだった。学校へ行きたくないと思う日は、一度もなかった。
少年は水道の蛇口のある水飲み場もおぼえたし、足の洗い場おぼえた。運動場や砂場にも慣れた。みんなでガヤガヤ言ってする、教室や廊下の掃除も苦にならず、楽しかった。学校にあるいろんな施設もだんだんとわかった。友達とは、みんな仲良しになった。少年は、渕上先生をますます好きになった。少年は日に日に学校に慣れて馴染んだ。小学校入学したての頃は、教科書を開くことも少なく、渕上先生を先導役に友達との輪を広げて、集団生活に慣れて行った。
学校行事の一つには運動会があった。少年は運動会では天真爛漫に、とことん楽しんだ。もう一つには遠足があった。春と秋、二度の遠足の行き先はほぼ決まっていて、少年の家からははるかに遠い鷹取山だった。鷹取山は山というより小高い丘で、村中の桜の名所をなしていた。鷹取山の遠足には少年は、リュックに握り飯を三つ詰めて、ほかにはゆで卵や駄菓子、果物があればそれも持って行った。重たくても、水筒の持参は欠かせなかった。行きは弁当を食べる楽しみがあって気分が弾んだ。しかし、帰りはすっかり草臥れはてて、重い足を引きずった。そのうえ少年は、のんびりと道草を食べながら帰ったため、帰る時間が長く余計疲れが増幅した。
原集落を過ぎて、近くの内野集落あたりになると、いっとき道端に座り込んで、元気の良い友達を見送った。途中の原集落には、クラス仲間で仲の良い富田文明君の家があり、内野集落にはこれまた仲の良い宏子さんの家があった。少年の家から鷹取山は遠く、このあたりから帰り道は、まだ半道強を残していた。鷹取山への遠足は、こんなことでつらい思い出である。これに比べて運動会は、楽しいだけの思い出である。
連載『少年』、十一日目
昭和二十二年三月には、教育基本法が制定され同時に学校教育法によって、六、三、三、四の新学制が発足し、六、三制の義務教育が導入された。いよいよ日本の国は、戦勝国の占領体制の下、あらゆる面で敗戦後の復興政策がスタートした。おりしも少年はこの年の、桜の花がいまだいくらか残る四月初旬にあって、内田村立内田小学校に新一年生として入学した。
少年は母の手に引かれて、運動会の入場門のように花で飾り立てたられた内田小学校の正門を嬉々としてくぐった。少年の家には久しぶりに明るい話題が訪れた。不幸続きで重苦しかった少年の家は、少年が小学校一年生になったことでいくらか華やいだ。少年は一年一組にクラス分けされた。気に懸けていた担任は、美しい渕上孝代先生だった。幼い心が高ぶった。少年は教室に入ると立ったままに、窓ガラスを通して運動場を兼ねる校庭を見た。校庭の広さに驚いた。少年は緊張をほぐすため深呼吸をした。おそるおそる座った椅子はひんやりとした。すぐに、木椅子の肌触りがズボンを通して尻に馴染んだ。しかし、体の大きい少年には二人掛けの机は窮屈で、身を縮めて両膝を直角より内側に曲げた。
教壇にはニコニコしながら渕上先生が立たれている。名簿を広げて、名前を読むためである。渕上先生は、「名前はあいうえお順に読みます」と、言われた。少年は頭の中で、自分の順番をめぐらした。少年は生まれつきの小心で、恥ずかしがり屋である。精神状態はもう、オドオドドキドキしている。「ま行」はうしろのほうで、順番の早い友達は「はい」と言って、すでに返事を済ましていた。そのためか教室は、だんだん騒がしくなっている。しかし、順番の遅い少年の緊張は解けない。少年の名が読まれた。少年は「はい」と、言った。順番を長く気に揉んでいたせいか、「はい」の声のタイミングが少しずれた。少年に恥ずかしさが襲った。しかし渕上先生はニコニコ顔で、次の順番の松本宏子さんの名前を読まれた。宏子さんはハキハキと明るい声で、「はい」、と言った。先生のニコニコ顔はさらに微笑ましくなった。少年は宏子さんが羨ましくなった。同時に、恥ずかしさがいやまして、綿飴のように一気に膨らんだ。恥ずかしさは先生のニコニコ顔に救われて、しだいに萎んだ。
少年は渕上先生が好きになった。学校が終わると少年は、渕上先生のことを母に話したくて、ときには走り出しながら家に帰った。学校で感じた恥ずかしさは消えて、普段の少年になっていた。少年は大きな声で、「ただいま」と言って戸口元を入り、土間の三和土(たたき)を急ぎ足で駆けて、釜屋(土間の台所)へ行った。母は、「もう帰ったつや、早かったばいね」と、言った。
「きょうは、教室で名前を読まれただけじゃもん。担任は、渕上先生になったよ」
「そうか。そりゃ、よかったね。渕上先生は、よか先生じゃもんね」
「うん。とても、よか先生じゃった」
「渕上先生の家は、矢谷の尾上にあるよ」
「うん、知っている」
「渕上先生のお母さんは、自分と同級生で仲良しじゃったけん。あそこの人はみんな頭が良くて、女の人たちはとても綺麗な人ばかりたいね」
「渕上先生も、美しかったよ」
少年は上がり框(かまち)に片膝をついて、座敷の埃を片手で払い、ランドセルを置いた。座敷脇の板張りにも白く埃が見えた。家の中のどこかしこが埃まみれになるのは、母屋の中に機械類が据えられて、糠や粉が舞うせいだった。少年の家は、作業場付きの住まいだったのである。
家事に一息ついたのであろうか。釜屋にいた母が、垂らした前掛けに残りの雛あられを包みながら、少年の所へやって来た。母もまた座敷の埃を手で払い、板作りの上がり框をそばにあった濡れ雑巾で拭いた。雛あられは新聞紙を広げて転がされた。少年と母は、雛あられを挟んで上がり框に座った。少年は腹が減っていた。雛あられを指先で一度にいっぱい抓まんで、矢継ぎ早に口に入れた。空腹はかなり満たされた。母はまた、「きょうは、どうだったや?」と、少年に聞いた。少年はさっきのこととは別に、渕上先生のことをたくさん話した。「はい」のタイミングがズレて、恥ずかしくなったことも話した。宏子さんのことも、ちょっとだけ話した。母は「そんなこつ、気にせんちゃ、ええたいね。宏子さんは、内野の松本先生の娘さんじゃろ? 松本先生も、よう知っとるたいね。よか人じゃもんね」と、言った。
少年は、校庭の広さのことも話した。母はニコニコしながら、少年の話に聞き耳を立てて、うれしそうだった。また母は、「渕上先生は、よか先生じゃけん、よかったばいね!」と、言った。少年は母ちゃんが何度も、「渕上先生は、よか先生じゃけん」と、言ってくれたことがとてもうれしかった。
連載『少年』、十日目
まだ分別が利かない少年は、昭和二十年にわが家を襲った数々の忌まわしいできごとが、時間の経過とともに早く薄らぎ、遠ざかることだけを願った。少年は、家族の哀しみが日々疎くなることを望んだ。少年は弟や姉のしめやかな葬儀にも、実際には肉親が亡くなったという意味や悲しみのすべてを、感得できる年齢ではなかった。ただ土葬のおり、棺に泥をコロコロと落とすときだけはひたすら悲しく、号々と泣いた。皮肉にも本当の悲しみは、少年の成長に合わせて増幅した。
ところが、少年の家にはこの先も不幸が続いた。昭和二十一年十一月には内田村を遠く離れて、福岡県大川市(筑後)に住む、義兄・秀夫さんのもとに嫁いでいた異母二女のキヨコ姉が、突然の心臓麻痺で亡くなった(二十七歳)。キヨコ姉と義兄は、一粒種の赤ん坊新治君を遺した。不断のキヨコ姉は、頑丈この上ないほどの丈夫な体だったらしい。父は届いたキヨコ姉の訃報を手にして、「キヨコが死んだ? そんなばかな、人違いだ!」と、絶句した。父は異母一女のスイコ姉がすでに嫁いでいた筑後に、妹のキヨコ姉をも嫁がせて、安心しきっていた。異郷からの悲しい知らせだった。
戦後という切ない名称を付されて日本の国には、復興の槌音が響き始めた。少年の家でも、敏弘を吞み込んだ水車は、日々荒々しく回った。生業とはつらいものである。少年の家は、忌まわしい内田川の水から離れることができず、いや日常の生活用水として、なお内田川に家族の命を託さなければならなかった。少年の家は、またもや不幸に見舞われた。昭和二十二年一月、日頃わが家で病気療養中だった異母二男の利行兄が、闘病に勝てず力尽きて亡くなった(三十三歳)。チズエ義姉との間には、これまた一粒種の晟暢君が生まれていた。利行兄は志願して海軍の軍務に就いていたが半ばで病になり、療養のためわが家へ帰っていた。療養中の兄の姿には、軍務を諦めざるを得ない悔しさと国にすまないという、思いが滲み出ていた。鄙びた内田村を出て世間を知る兄は、それゆえ世の中の動きを直視していた。父は子どもとはいえ兄には一目置いて、大きな信頼を寄せていた。それに応えて兄は、父の相談役をも務めた。戦時色を深めてゆく日本の国にたいし二人は、行く末を見据えていた。海軍勤務という職業柄の気概もあってか、兄の愛国心は常に高揚した。病身とはいえ背筋を伸ばし、凛々しく佇む兄の姿に少年は、近寄りがたい思いを抱いた。年の差も離れていた。しかし、兄の威厳には怖さばかりではなく、常に優しさが付き纏っていた。だから、少年にたいする兄の威厳は、少年の兄にたいするする敬慕にかわった。兄は職業軍人特有に、親に孝行する心構えと、きょうだい愛に格別腐心していた。なかでも、弟妹にたいする向学の勧めと、それを支える気持ちは殊更旺盛だった。わが母の一男一良兄は、「おれは利行兄のおかげで、旧制中学にも行けた」と、常々口癖のごとく言っては感謝頻りだった。利行兄の強い体と高い見識は蝕む病魔には勝てず、日本の国の敗戦を強く悔いたのち、短い人生が閉じた。利行兄は軍務半ばで、胸の病に罹っていた。少年の家はほぼ三年間に、五人の子どもたちを野辺に送ったのである。
この悲しみは少年の小学校への入学程度で、忘れ去れるものではなかった。少年の家に不幸はいつまでとりつくのであろうか。父と母そして家族に、涙が乾ききる日はまだ遠く、悲しみを克服する日が続いた。しかし、戦時下および戦後にあっての哀しみは、国民だれでもが一様に見舞われ、耐えなければならなかったのである。少年の小学校への入学は、利行兄の他界の悲しみまだ消えないのちの、この年・昭和二十二年の四月初旬だった。内田村にあっては、桜の花の散り際だった。
連載『少年』、九日目
国敗れて山河あり。内田川の流れも周囲の山並みも変わることなく昭和二十年、内田村には煮えたぎるような太陽の陽ざしが照り煌めいていた。変わっていたのは人の命と、戦時下における人々の営みであった。八月十五日の昼下がり、少年は異母二男の利清兄から、怒号まじりの説教と詳しい説明を受けた。兄の言葉が終わると少年は、濡れた猿股パンツを脱いで、乾いたものに取り換えた。この日はそののち、神妙に家の中に閉じ籠った。少年は戦争の勝ち負けがどういうものかも知らずに、終戦(敗戦)の日を迎えていた。
少年はあくる日からまた、小魚取りや水浴びに行った。夏の間、猿股パンツだけで裸丸出しの少年の肌は木炭のように黒びかり、少年は内田村の山河を遊びまわった。少年はひと月前の七月十五日に、五歳の誕生祝いを終えていた。少年にとって昭和二十年は戦争が終わった年というより、三人のきょうだいを亡くしたつらい年として心に刻まれた。少年はこの年の二月二十七日に、自分の子守どきのへまで、唯一の弟・敏弘の命を絶った(生後、十一か月)。結局、敏弘は一歳の誕生日を迎えることなく、家族の言う敏弘は誕生日前に歩くだろうという予想をも覆し、短い命を絶った。少年の生涯から、弟を持つ兄の気分は幕を下ろした。少年にとって、弟との生活は短い間だった。だけど、敏弘が味あわせてくれた、兄の気分は最高傑作だった。弟のからだを抱き上げることで、兄の肌身に、弟の感触が伝わった。
戦地に赴いていた異母三男の利清兄は、戦地から帰らぬ人となった。帰らぬ日となったのは、七月十七日。父は利清兄がフィリピン・レイテ島・ビリベヤ方面で、名誉の死を遂げたという公報を受け取った(独身、二十三歳)。「名誉の死などあるものか!」。父は憤慨した。少年は後日談で母長男の一良兄から、切ない話を聞いている。「利清兄には、戦地に恋人がいたらしい……」。利清兄は、異国の地に若い命を埋めた。
少年の家には時を置かずに、またもや不幸が訪れた。体つきも性格も少年に似ていたという、母二女のテルコ姉が病魔に攫われたのである(若い身空の十八歳)。病は単なる盲腸炎から腹膜炎を併発していた。テルコ姉は、二日後に終戦となる八月十三日、病床で見守る家族のそれぞれに、途切れかかる声を細く絞り出し別れの言葉を告げた。テルコ姉は少年の手を取って、息絶え絶えに掠れる声で、「しずよし、力強く生きて、わたしの代わりに親孝行をしてね……」と、言った。今、このフレーズを書いている少年の両眼には、こらえきれなく悲しい涙があふれている。父と母はこのとき以来、「テルコは、戦争さえなければ死なずに済んだ」と、言い続けていた。この言葉は、家族に臨終を告げた村中のかかり医院・内田清医師からの受け売りでもあった。内田医師はこの言葉に添えて、「薬さえあれば娘さんは、盲腸炎くらいで死ぬことはなかった!」とも、言われたという。戦争が招いた、哀しい言葉だった。
敗戦後のことなどわかりようのない少年には、この先の生活など気に懸けることはなかった。しかし、弟、兄、姉と、三人のきょうだいを亡くした昭和二十年は、少年の心の襞につらく悲しい記憶として刻まれた。戦争が終わって国民は、一様に脱力感に見舞われ、さらには悲壮感、疲労感、虚無感などの三竦みの気分にも襲われた。一方で国民は、これまで体験したことのない敗戦国の戦後処理とは、どういうものになるのであろうかという、不安に苛まれた。少年の家にも他家にも悲しみが伝えられて、戦争の傷跡が痛んだ。
昭和二十年八月三十日、日本国民は神奈川県厚木飛行場で、タラップを下りてくる連合国最高司令官マッカーサー元帥の一挙手一投足に怯えた。敵軍の将は太いパイプをくゆらして、戦いを終えたばかりの適地に悪びれる様子もなく、また凱旋将軍の傲慢ぶりも見せずに、淡々とタラップを下りた。日本国民が懸念していた戦後処理は、敗戦国日本からみれば国民生活に配慮された、望外の温情に満ちたものだった。日本国民はひとまず悲憤慷慨の胸をなでおろしたが、以後七年間にわたり、敗戦を被った占領国の呪縛に耐えなければならなかった。敗戦であっても、ようやく戦争は終わった。夜間、人々の家の電燈からは灯火管制でかぶせていた布切れが外され、裸電球が明るく灯ったのである。