ひぐらしの記
前田静良 作
リニューアルしました。
2014.10.27カウンター設置

内田川(熊本県・筆者の故郷)富田文昭さん撮影
連載『自分史・私』、6日目
これから書く文章は、私の文章を読んでくださる人にとっては、またかと思われるものである。しかしながら文章を書くかぎり私は、いろんなところで繰り返し書かなければならない。理由の一つは、わが生涯における最大の悔恨事ゆえに書けば、常に詫びなければならない。もう一つは、私にも弟がいたこと、すなわち敏弘がこの世に生きていたこと(実在)を、書き留めて置かなければならない。まさしく、私にだけ課せられた痛恨の義務である。もちろん、こんなことなど書かなくて済めばいい。しかしながら、そんな身勝手は許されない。罪をしでかした私の、つらい悔悟と懺悔である。
敏弘の誕生日は昭和19年3月31日。母は、兄の私が4歳と8か月のおりに弟敏弘を産んだ。このときの父の年齢は60歳、そして母は41歳だった。敏弘は、二人のしんがりの子ども(末っ子)であり、私にとっては唯一の弟である。さらに言えば敏弘は、異母(6人)と母(8人)が産んだ子ども(14人)の末っ子である。父にすれば敏弘は、14人目の子どもとして誕生している。太平洋戦争の戦雲たなびく昭和20年2月27日の昼下がり、ようやくめぐってきた春はいまだに肌寒いなかにあって太陽は、暖かい光を放っていた。この日の敏弘は、生後11か月近くだった。母は敏弘を背中におんぶして、精米機械類が据えられている母屋、その庭先、そして仕納場(農作業用の二階建ての建屋)の前の広い「坪中」間を足繁く往来していた。母は坪中にひとりで遊んでいた私のところへ、急ぎ足でやって来た。母は「ちょっと、見といてくれんや」と言って、背中の敏弘を地面に下した。母は敏弘の子守を私に託すと、とんぼ返りに小走りで、再び母屋の中へ入った。母のおぶ紐から解かれた敏弘は、家族が認めていた生まれつきの敏捷さで、チエーンを外された小犬のように勢いよく「這い這い」を始めた。私は敏弘のスピードを恐れた。方向感や危険感覚などなく這いずり回る敏弘を追っかけて、私は敏弘にはわかりようない言葉を大声で叫び続けた。
「危ないよ。そっちへ行っちゃ、危ないよ!」
私はなんども敏弘をとらえ、抱きかかえて坪中の奥へ連れ戻した。そのたびに私の足はふらついた。兄とは言えない、まだ頼りない足だった。
敏弘はすぐに這いずり回る。私はまた追う。万事休す。「ドブン」。水しぶきが上がった。敏弘が水路へ落ちた。20メートルほど先には鉄製の大きな水車が荒々しく回っている。敏弘が水車へ向かって流れている。笹や小さな木の葉も流れている。私は敏弘を見つめたまま、呆然と立ち竦んだ。
水車の5メートルほど手前には、最後の砦を成す金属製の丸棒が数本横並びに立てかけてある。ところが、壊れていたのか防護柵は用無しだった。「ゴン」。回っていた水車が止まった。母が血相を変えて、母屋から飛び出して来た。母は、敏弘を抱いて母屋の中に消えた。瞬間、敏弘の命が消えた。(さようなら)。
私には、敏弘の最後の姿を見に行く勇気はなかった。(追認事項、公募単行本、応募入選掲載)。『さようなら物語』(選:立松和平・池田理代子。双葉社:2000年4月30日第一刷発行)。さまざまな別れのかたちをしみじみ味わう【38の物語】、「忘れられない私の別れ」作品集。『別れの川』(神奈川県鎌倉市、1940生まれ)。つらい別れだったせいか、1000編ほどの応募作品の中から、当代人気の二人の選者が選び、かつ市販の単行本に、7ページぶんわが作品が掲載されていた。ときおり私は、書棚から取り出し、兄として弟をつらく偲んでいる。いくら謝っても果たせない、涙タラタラ落ちる罪つぐないである。
連載『自分史・私』、5日目
父・前田吾市は、明治18年2月10日、熊本県鹿本郡内田村に生まれた。父は、父親・彦三郎と母親・ミエの三番目の子どもであり、姉二人の次に一人息子(長男)として生まれている。父が生まれたところは、村内では小伏野集落と言った。しかしそこから移り、人生の大半を過ごしたところは田中井手集落だった。父は内田川をあてにして水車を回し、精米業を営むために、ここへ移り住んだのである。だけど、「前田家累代之墓」は、今なお誕生地・小伏野集落の小高い丘の中にある。当時の田中井手集落には、わが家、隣家、向かえの家の、三軒があったにすぎない。
わが家と隣家の間には水車を回し、双方に動力を伝えて、共に農家を兼ねた精米業で暮らしを立てていた。僅かに三軒にすぎなかったけれど、三軒とも大家族をなしていた。ちなみに隣家には11人、向かえの家は8人家族である。父は明治41年7月、村内にある辻集落の鶴井トジュ様と結婚した。新郎23歳、新婦20歳の若いカップルだった。二人は、長男護、長姉スイコ、二男利行、二女キヨコ、三男利清を誕生させた。戸籍簿上ではもうひとり、ハルミの名がある。ところが、何らかの事故で幼命を断っている。父にとっては先妻、私にとっては異母となるトジュ様は、享年35歳で他界している。
その後の父は、大正14年7月、私の母となる早田トマルと二度目の結婚をした。母の里・井尻集落は、父が住む田中井手集落からは内田川や田んぼを挟んで、見えるところにある。再び花婿となった父の年齢は40歳、初々しい新婦は21歳だった。母は5人の子どもたちを連れた父の男ぶりに惚れたのか。それとも、父のもとへ嫁がなければならないのっぴきならない事情があったのか。私は前者であって欲しいと願った。ところが後者、実際には母の「父助け」があったようである。
私は昭和15年7月15日、父の13番目、母の7番目の子どもとして生まれた。あえてきょうだいの名を記すとこうである。長姉セツコ、長兄一良、二姉テルコ、二兄次弘、三兄豊、四兄良弘、私、弟敏弘である。私が生まれて成長し始めると父は、拙い節回しで『丸まる坊主の禿げ頭……』とか、『箱根八里は馬でも越すが……』などと歌って、私をはやし、父ははしゃいだ。ときには父は、「どれどれ、また大きくなったかな。おお、大きくなっているぞ、天まで昇れ……」と言っては抱いて、高々と持ち上げた。父は背が高く骨太隆々で、まるで仁王のようであった。「気は優しくて力持ち」。物心がつき始めた私が見る、父にたいする第一印象であった。
連載『自分史・私』、4日目
うれしくて、わが生涯において決して消えない記憶がある。多くのきょうだいたちは、わが風貌や日常の動作にたいし、まるで示し合わせでもしたかのように、「しずよしが、いちばんおとっつあんに似ているよ」と、言っていた。ところが、身内にかぎらず隣近所の人たちまでもが、「しいちゃんがいちばん、お父さんに似ているね」と、よく言っていた。確かに自分自身、私が幼い頃に見ていた父の風貌や動作をそっくり映し、真似てでもいるように思えていた。
私は父が大好きだったから、これらの言葉は誉め言葉として生涯、心中に確りと畳み込んでいる。父は『兄の頼朝に虐められた弟の義経』が大好きで、高じて、弱い者に味方する判官贔屓の精神を持っていた。わが命名「静良」の由来を、父の言葉で教えた。父は悪びれることなくいや誇らしく、義経の愛妾『静御前』(白拍子)から、「静」の一字とったと言う。「良」は、長兄一良、四兄良弘にちなむ、きょうだいの証しを示す符号にすぎない。父は、静御前を白拍子(遊女)と知っていたのか、それとも知らずだったのか?
後年の私は一時期、「静」すなわち、「女のきゃくされ(腐った)のような名前」が嫌いだった。高校時代の英語担当の平野先生(あだ名:スッポン)は、「半ば嘲(あざけ)るように、『しずら』、あるいは『せいりょう』」と、名簿を読んだ。まかり間違えば、小学校一年生から、苛めを招く名前であった。しかしながらのちには思い直して、もちろん誇りにはしていないけれど、現在は気に懸けるところはない。なぜなら、父の思い入れの強い命名だったからである。私はまったく偶然に、「義経と静御前」ゆかりの鎌倉に住んでいる。父の恩愛に報いる、箆棒(べらぼう)な亡き父への恩返しである。「鎌倉・鶴岡八幡宮」の賽銭箱の前に佇むと、そのたびにうれしそうな父の面影がよみがえる。
連載『自分史・私』、3日目
鹿本郡内田村、六郷村、そして菊池郡城北村、すなわち三村合併にちなんで、公募から生まれた新しい村の名は「菊鹿村」と決まった。「菊鹿村」それは、菊池郡と鹿本郡から頭文字一字を抱き合わせたにすぎないものだった。だから、私の気分的には拍子抜けを被り、名前的にはまったく洒落っ気なく新鮮味もない、まさしく平凡かつおざなり感横溢するものだった。それゆえに、がっかりした。「なあーんだ、これくらいなら、考えずに、俺も応募できたのに……」と、地団太を踏んだ。後の祭りである。
決まれば仕方がない。私は「内田村」から「菊鹿村」への呼称に、だんだんと馴染んだ。もちろん行政名の変更にすぎず、呼称が変わっただけで、内田村への愛惜が消えるものではなかった。このときから10年を経て昭和40年、町制施行により菊鹿村は、新たに「菊鹿町」になった。すなわち、鹿本郡内田村、次には菊鹿村、そして菊鹿町へと順次、行政名を変えてきたのである。そして現在は(のちの追認事項・平成の大合併)、平成17年1月における1市(山鹿市)4町(菊鹿町、鹿本町、鹿北町、鹿央町)の合併により、鹿本郡を離れて山鹿市の傘下に入り、熊本県山鹿市菊鹿町として存在する。
菊鹿町には四か所に温泉が湧き出ており、それぞれに大小の温泉旅館が営まれている。それぞれは、村人や近郊近在の日帰りや泊り客で賑わいを見せている。大きいところでは、街中の私設のヘルスセンターみたいに客同士打ち解けて、寝そべったりして疲れを癒す大広間の娯楽場もある。ときにはそこに、ドサ周りの大衆演劇がやって来る。将棋盤はどこでも用意されている。将棋好きの父が存命であれば、足繁く通い詰めたであろう。生前の父は母を連れて、わが家から歩いて山並を越えて、年に一度「杖立温泉」(熊本県小国町)への、十日ほどの泊りがけの湯治を習わしにしていたのである。
連載『自分史・私』、2日目
私の住まいは鎌倉市内にある、今泉台住宅地の中にある。とりわけ、山際の一隅にある。わが家を挟んだ住宅地の周回道路の先には、鎌倉の尾根を成す「円海山山系」が連ねている。この尾根は、通称「鎌倉アルプス」とも呼ばれている。ところがそれらの高名に恥じて、最も高いところでも標高は、159メートルほどにすぎない。尾根伝いには一本の山中道、すなわち長いあいだハイカーに踏み慣らされてきた「ハイキングコース」が走っている。ハイキングコースは、老若男女のだれもが突っかけ草履でも踏めそうな容易さである。そのせいかハキングコースは、近郊近在には名が知れて、かなりの人気を博し、休日には多くの行楽客が訪れる。
私の生誕地は熊本県の北部地域に位置し、遠峯と里山に囲まれた山あいの盆地を成している。盆地をなす村中には、一筋の「内田川」が流れている。生前の父と母は、内田川から分水を引いて水車を回し、農家を兼ねて生業を立てていた。当住宅地の近くには、雑木や雑草がむさくるしく覆うせせらぎあるだけで、内田川を偲ぶほどの川はない。ところが、近場の山並はいつも、私に生誕地・内田村の風景を偲ばせている。このことは当住宅地に住む私にとって、大きな儲けものの一つとなっている。
わが生誕地、今や故郷と名を変えた内田村の行政名の変遷を顧みる。明治22年の町村制の施行によって、山鹿郡内田村と六郷村、隣接して菊池郡城北村ができた。こののちの明治29年、鹿本郡の成立にともない、内田村と六郷村は山鹿郡から離れて鹿本郡に属した。昭和30年になると、鹿本郡内田村と六郷村、そして菊池郡城北村は、三村合併を成し遂げた。三村合併にあっては世の中のご多分に漏れず、お決まりのイベントが行われた。すなわちそれは、合併により誕生する新しい村にふさわしい、新たな行政名の公募が図られたのである。当時の私は、内田村立内田中学校二年生であった。多くの村人同様に私も、公募には大きな関心を持った。挙句、洒落た名前をあまた心中にめぐらした。ところが、一点に絞り切れずに、あえなく応募は頓挫した。
連載『自分史・私』、完結のあてどはない
再び「掲示板」を汚す身勝手を許してください。恥を忍んでこれからこの先へ綴る文章は、前回の『少年』と相似た、書き殴りのみすぼらしい文章です。しかしながらこれまた、わが文章修業(60歳の手習い)の原点です。なかんずくこの文章は、「現代文藝社」(大沢久美子様主宰)の『流星群』への初投稿と思える、懐かしさつのるものです。大沢さまのご好意に感謝し、そしてささやかに報いるため、掲示板への再掲を試みるものです。書き殴りのエンドレスになりそうで完結叶わず、途中遺作に成り下がるかもしれません。それゆえにまた、「あしからず」という、自己都合の言葉を添えます。わが人生の晩年に付き纏う、「焦り」かもしれません。あらためて読み返すと、自分史の一端を成しています。だから表題は、かつての『内田川』から、『自分史・私』へ替えました。
『自分史・私』
他郷・鎌倉の自宅で目覚めた。他郷とはいえここは、終の棲家を成している。だからいつまでも他郷扱いにはせずに、仕方なくともこの地に馴染まなければならない。さわやかな気分で、書斎兼ベッドルームの窓から、露を帯びた山を眺めている。就寝時に降っていた雨は止んでいる。大空は、のちには晴れてくるかもしれない。白み始めている東の空を眺めながら、そんな予感に囚われていた。職場の同僚の多くは、日曜日には遅くまで床の中に居ると言う。ところが私は、休日も平日も変わりなく、早く起きてしまう。とりわけ日曜日など、飛びっきりの早起きである。出勤支度のない休日の夜明けがたまらなく好きだからである。
今年(平成12年・2000年)の九月末日付けで私には、昭和38年(1963年)4月に入社した医薬品会社(エーザイ)を、37年半の勤務を終えて、定年退職(60歳)が訪れる。残されている勤務日は、日に日に少なく押し迫る。
祝意と感謝
『流星群49号』の発行に際し、大沢さまにたいして、祝意と感謝を申し上げます。次号の50号は、25年継続の記念号になりますね。創刊のおりに私は、埼玉県和光市のご自宅に、書き手仲間の一人として集っています。そのときの仲間も現在は、だれひとりとして『流星群』の書き手に存在していません。ゆえに、『流星群』の誕生(創刊)から、現在を知るのは私だけです。『流星群』の歴史は、大沢さまの過去と現在の書き手への優しさ、大沢さまご自身の有り余る才能、さらには大沢さまの継続への執念への証しです。これらのことを知り、そしてそれらを伝えきれるのは、私だけです。だから私は、この文章を記しました。もちろん次号50号は、いまだ『流星群』の道のりにすぎません。わが生存あるかぎり『流星群』のみならず、妹編『流星群だより』、さらには本体「現代文藝社」の応援を続けます。『流星群49号』の発行案内を眺めているだけには耐えきれず、祝意と感謝の気持ちを書き添えました。大沢さま、ありがとうございます。お疲れ様です。二週おきのご実家帰りで、「望月窯と菜園」に興じ、しばし御身癒してください。
連載『桜つれづれ』、三日続き三日目(完結)
昭和二十二年初旬、まだ桜の花が散り残る頃、私は熊本県北部地域にある当時の内田村、村立内田小学校の正門をくぐった。花の盛りは過ぎていたけれど、校舎周りの桜の花はいくらか散り残り、ピカピカ一年生の心は華やいだ。繋いでいた温もりのある母の手の平から離されると、同じように母親に連れられてきた友達に交じり、私はおそるおそる土間のコンクリートの上に置かれていた踏み板を踏んだ。そして、右脇にあった下駄箱に履いてきた運動靴を入れた。初めて、学校の廊下に上がった。素足だったか、靴下を穿いていたか、何かの上履きか、あるいはスリッパに履き替えたのか、これらの記憶はまったくない。廊下の感触はガタガタと音を立てた踏み板とはまったく違って、滑りこけるようなすべすべした感触だった。全身に、うれしさと緊張感がすばやく駆けめぐった。
やがて、担任の渕上孝代先生の下、授業が始まると小学唱歌『さくら』を歌った。私は弥生(三月)の意味さえ知らないままに、馴染め始めたクラスの友達と大きな声で歌った。『さくら』を歌うとそれだけで、小学校一年生になった気分がこれまた全身に駆けめぐった。桜の花の季節になるといつも、私にはこのときの桜の花が懐かしくよみがえる。わが人生の原点(スタート)だったからなのかもしれない。そして桜の花は、こののちのわが人生行路に常に付き添っている。
私は内田村で年月を重ねて、中学生、高校生になった。高校を卒業すると上京して、昭和三十四年、大学生になった。四年後の昭和三十八年、大学を卒業するとそのまま東京で、社会人一年生になった。これまた、新調の背広に身を包んだ、ピカピカの社会人一年生だった。しかし、このときの桜の花は、小学校一年生で見た内田村のものとは趣(おもむき)を異にし、華の都・東京で散り残っていた。
桜の花は学び舎だけにかぎらず、そののちのわが人生行路の折節についてまわり、眺める風景は違っても、私自身を存分に愉しませてくれた。同時に桜の花は、常にわが小心を鼓舞し、強く生きるように励ましてくれた。換言すればわが人生行路は、桜の花との二人三脚とも言えるものだったのである。私には来年、還暦が訪れる。還暦とは、六十歳の異称という。そして古来、還暦の言い伝えには、六十年まわって再び、生まれた年の干支(えと)に還るというものがある。実際のところ私の場合は、童心すなわち小学校一年生の頃へ還るのであろう。だとしたら還暦、すなわち定年退職のおりに見る桜の花もまた、よみがえるピカピカの小学校一年生の気分で見たいものだ。しかしながらそれは、意図して還暦にことよせたわが切ない願望にすぎない。もとより、当時のように華やいだ気分で眺めることはできないであろう。欲のツッパリだけれど定年退職のおりに、仮にピカピカの小学校一年生の気分で桜の花を眺められたら、それこそ「祝還暦」に万々歳である。この先の一年のめぐりにあっては、私はできるだけそれが叶うように心して、身を引き締めた日常生活に努めようと決意する。そして、六十年を耐え忍び、再び迎える第二の人生のスタートにあっては、一陣の風に散り急ぐ桜の花のように、すぐに躓(つまず)き落ちないよう気張ろうと思う。実際の定年退職日は、きりよく西暦2000年(平成12年)9月末日である。できれば桜の花の散り際にあやかり、他人様に惜しまれて第二の人生へステップアップしたいものである。
『桜つれづれ』、すなわち私は、つれづれに桜の花と総じて桜木のことを書いてきた。あらためて、なぜ? 書いたのかと、自問を試みる。答えは桜の花の咲き様と散り様が、私のみならず人生行路の浮き沈みに似かよっているからである。共に「哀歓」があれば、共に「哀感」だけの場合もある。桜の花は咲いて人に楽しみを与えて、散ることで人を悲しませる。人生行路もほぼ同様である。だから私は、桜の花にかこつけて、わが人生行路を心象に映して見たかったのである。
桜の花はただ美しいだけで、人の心を惹くものではない。桜の花は咲いて散ることによって人に、ときには歓(よろこ)びと哀しみを(哀歓)をもたらし、またときには哀しみだけを(哀感)つのらせるのである。これこそまさしく、桜の花と人生行路がぴたりと符合し、共鳴するところでもある。両者共に、「盛者必衰(じょうしゃひっすい)の理(ことわり)あり」。これにも人は共感をおぼえて、人生行路の折節に桜の花と出合うと人は、茨道を桜の花と共に歩むのである。
連載『桜つれづれ』、三日続き二日目
桜の花をめぐるいろんな思いを胸に収めて、私は桜の花の下を歩いて行く。時を合わせるかのようにウグイスが、「ホケキョ、ホウケキョケキョ」と、鳴いている。桜前線の北上を待っていても、待つほどには桜の花は、私の前に長居をしてくれない。桜の花が自然界の摂理に遭遇し、一夜にしていのちを絶った光景を何度目にしたことだろう。
桜の花のいのちの絶ち方は、みずからの病葉(わくらば)や桜木が枯れたせいではなく、多くは風の吹き荒らしのせいである。だから、その光景を見るときの私には、余計切なさが込み上げる。ときには澄み渡る青空の下、そよ風さえ吹かないなかで、チラチラと舞い落ちる花びらを見ることはある。しかしながら、桜の花のいのちの絶ち方の多くは、大嵐、小嵐、強風はたまた微風にとどまらず、一陣の風が吹けば追い立てられるようにあちこちへ舞って、落ち場所がわからないままに地上のどこかにべたつく。
桜の花が有終の美を飾ろうと花吹雪を満目に見せると人は、「まあ、綺麗」と言って、桜の花に愛惜と称賛の思いを募らせる。これこそ古来、「桜の花は咲いて良し、散りてまた良し」と、言われるゆえんである。鳥のように飛翔あるいは滑空する花びらを見上げて人は、散り際の美を誉めそやすのである。密をなしていた花びらは散りじりになりながら人の目に、終焉の華やかさを見せて舗道に舞い落ちて、こんどは花絨毯を敷き詰める。
桜の花の大団円は、バラバラになろうと、再び密になろうと、絵にも描けない晴れ姿である。ところがこれにはまた、常に切なさがともなって、桜の花が人にさずける美的風景でもある。もちろん人の終焉は、こんな感興にはなれない。散り際の美的風景にあずかる人の心は、散りゆく桜の花の嘆きなどつゆ知らず、しばしその見事さに酔いしれる。一方、心ならずも有終の美を飾った桜の花は、その先には一年間の眠りに就く。そして、薫風に葉桜が緑を深める頃や、晩秋に朽ち葉が紅色や黄色に染まる頃には、こんどは桜の花に替わって桜木自体が束の間、また人の口の端に上るのである。
こののちの桜木は、葉っぱを落とし尽くして、裸木をさらけ出して冬ごもりに入る。そして、いっとき桜木は、人の口の端から消えてゆく。いやときには、「桜木には毛虫が着き易いから、わたしはサクラが大嫌いです」などと言われて、お門違いの声に晒されることもある。この季節の桜木は耐え忍ぶことこそが、再び訪れるわが世の春までの美徳なのだ。
強風をともなって夜来の雨が容赦なく降った朝、私は山あいの通勤道路を急ぎ足で歩いて行く。濡れた靴底のぬめりを通して、全身までもが濡れている気分になる。きのうの帰り道には夜桜として見上げた花びらは、一夜にして朝の舗道に打ちのめされていた。私は死に神にでも取り憑かれたかのような気分になり、舗道に濡れ落ちている花びらをできるだけ踏むまいと、全神経を尖らしている。ところが、思いとは逆に私は、いっそう歩度を強めて、速めて、歩いて行く。私は濡れ落ちている花びらに湧いた束の間の同情心は捨てて、鬼心に変えている。靴底にまつわりつく花びらを避けることはできない。いや、心ならずも蹴散らすばかりである。なぜなら、このときの通勤の足は、わが生計を立てるための無情の足なのだ。
わが家から最寄りの「JR横須賀線北鎌倉駅」までは、急ぎ足で歩いても二十分ほどかかる。途中の山道には桜の花の頃にあっては、ソメイヨシノ、大島桜、そして野生の山桜などが、てんでんばらばらに咲いている。ところが、通勤を急ぐ私には、それらの織り成す美的風景を眺める心の余裕はない。代わりに出遭えるのは、舗道に敷き詰めている濡れた花絨毯の汚(きたな)らしい光景である。
夜来の雨の上がった朝の通勤道路は、濡れた花絨毯との葛藤の場と化している。濡れた花絨毯を無下に踏むときはやはり切ない。しかし、惨(むご)たらしく踏んででも急がなければ、乗車を予定している電車に乗り遅れるのだ。私は濡れた花絨毯をさらに小汚く蹴散らし、ときには駆けて北鎌倉駅へ急いだ。乗車予定の上り電車は寸分の狂いなく、十五両を連ねて長いプラットホームに滑り込んだ。間に合って、安堵した。
夜来の雨上がりの冷たい朝だったが、私は背広のポケットからハンカチを取り出して汗を拭いた。幸運にも、座れた。革靴の周りに濡れた桜の花びらがついているかどうかを確かめた。私はズボンの裾に跳ねついていた花びらを、そっとテイッシュで取り、カバンに入れて車内に目を逸らした。
連載『桜つれづれ』、三日続き一日目
第75回コスモス文学新人賞奨励賞「随筆部門」『桜つれづれ』前田静良。
定年後を見据えて独り、手習いを始めた頃の文章です。だから、拙くても愛着があります。三日間、掲示板を汚します。お許しください。あしからず。
平成十一年、鎌倉の桜の花は都心より遅く咲いた。春先に吹き荒れる風を避けられるから、遅れても恨みつらみはない。いや桜の花は、少し遅れて咲いたほうがいい。春先の風を避けるためだけではなく、桜の花には開花を待つ楽しみもある。つれて、桜の花に関わる話題や賑わいも長くなる。桜の花は咲けば散る。あたりまえだけれど、咲いてすぐに散ってしまっては、一年周りに咲いた桜の花、そしてそれを待っていた花見客、どちらにも残酷無念である。
桜の花の天敵は風である。風と桜の花は、自然界にあっては仲間同士なのに、なぜこうも相性が悪いのだ。確かに、人間界にもそういう仲間同士のいざこざやいがみ合いは多々ある。桜の花が咲く頃の風は、一点集中、桜の花を狙い撃ちでもするかのように吹き荒れる。特に春先の風は、桜の花にたいして悪態のし放題である。それはどこか、人の世にありがちな怨念晴らしのようにも思えてくる。はやり言葉で言えばそれは、桜の花にたいする風のリベンジ(復讐)にさえにも思えるところがある。人の叶わぬ願望だけれど、春先の風は、桜の花を気遣いそよと吹くくらいでいい。ところが風は、桜の花の美しさと、それを花見客が愛(め)でそやす人気をやっかんでいるのであろうか。それとも人には見えないけれど、リベンジしたくなる理由でもあるのだろうか。風は、桜の花にたいし気配りの様子など、一切見せずに吹き荒れる。風は泰然自若としているように思えるけれど、もとより未知の自然界のことゆえに、人にはわからずじまいである。理由はどうあれやはり、「風さん、おとなげないね」。
自然界の雄である風には、人に取り憑(つ)く悪い性(さが)だけは、真似てほしくないものだ。人の願いを重ねれば、風には仲間の桜の花の美しさなど妬(ねた)まず、超然としてその美しさを褒めそやすくらいのおおらかさと優しさがあってほしいものだ。モノ言えぬ桜の花は、唇を嚙み、涙を浮かべ、身を縮めて、ひたすら風の収まりを待つしかないのだ。ところが風は、ときには雨や嵐までをも味方につけて、とことん桜の花を虐め尽くすのだ。確かに、桜吹雪という両者、すなわち風と桜の花が織りなす万感窮まる美的風景はある。風とてこんな至高な芸当、やればできるのだ。
人は風と桜の花の織り成す豪華絢爛たる春景色を、少しでも長いあいだ眺めたいのだ。だから人は、風には一年周りに訪れた桜の花の晴れ姿を、人と一緒に観賞するくらいの太っ腹であってほしいと、願わずにはおれない。しかし風は、切ない人の願望など、つれなくしりぞける。それができないならこの季節、私は判官贔屓になり桜の花に向かって、「風なんかに負けるなよ。とことんねばって、頑張れよ」と、声を掛けたくなる。
人は皆、絶えず自然界とかかわり合いながら生きている。季節が移り、草木が芽吹く頃になると私は、重たい冬衣を脱ぎ捨てる。同時に私は、待ちわびていた春を体の中にいっぱい取り込みたくて、閉じていた心象をいそいそと開くのである。しかしながら訪れた春は、必ずしも楽しさ一辺倒とはかぎらず、春特有の憂愁気分を引き連れてくるところがある。
強風が吹いた三月末にあって、桜の花はまだ五部咲き程度で、風はいくらか空振りを食らった。ところが、この時期の風は一夜にして豹変し、強風や嵐が吹き荒れる。すると桜の花は枝葉もろともに、まるで強い海風に煽られる帆掛け船のように揺れ動く。挙句、ようやく咲いたばかりの花びらを地上に落とされる憂き目を見る。耐え残った桜の花は、一年周りの人との出会いの約束を果たすかのように、(決して、散るまい、挫けまい)という、声なき声をたずさえて、なお耐え抜いてくれるのである。そして、風の妬みと悪態をかいくぐった桜の花は、その先にこんどは、人の目に散り際の美的風景を演じてくれる。
桜の花の咲き方や散り方を眺めていると私は、桜の花にことさら人情を重ねて、様々な思いをめぐらしている。桜の花の咲き様そして散り様は、人の生き様そして死に様を見るようでもある。だから人は桜の花を仰ぎ見ながら、みずからの人生行路を考察したり、あるいは顧みたりするのである。