ひぐらしの記

ひぐらしの記

前田静良 作

リニューアルしました。


2014.10.27カウンター設置

内田川(熊本県・筆者の故郷)富田文昭さん撮影

 

連載『自分史・私』、16日目

 父に初期の高血圧症状があらわれたのは、近くのクヌギ山の間伐に出かけていた日のことだった。不断の父は、すぐに高鼾(たかいびき)が出るほどに寝入りが早かった。働き尽くめできた者特有に父も昼寝が大好きで、「10分ほど寝るからね」と言っては、寝場所を選ばず手枕で、ひょいと寝転んだ。確かに、10分ほどが過ぎるとひとりでに起きて、「よう寝たばい。ぐっすり寝たばいね」と言っては、晴ればれとした気分で呵々大笑した。骨柄太く図体の大きい父の寝姿は、父が慕う源義経を守る『武蔵坊弁慶』のようでもあり、家族には頼もしく思えた。そんな父だから木漏れ日の中で、疲れ癒しに横臥していたに違いない。
 クヌギ山から帰って来た父は、「山ん中にごろ寝していたら、気分が悪くなったんで、帰って来たたいね」と、言った。いつもの父は、気分良く目覚める。だから、家族は心配した。父に高血圧症状が出はじめると、父と私の間には何事にも連携し合う、仲間意識のような感情が芽生えた。晩年の父には高血圧が誘引する心臓病に併せて、脳軟化症状が顕れた。挙句、これが誘引する、いくらかの痴ほう症状も出はじめていた。これらは、晩年の父にとりつく病症状だった。そして、家族を悩ました。
 家具の町で名を馳せる福岡県大川市(筑後)に嫁いでいた異母長姉スイコの義父の法事に、父が出かけることになった。旧国鉄バスと鹿児島本線に乗り継いで往来する旅は、父にとっても家族にとっても不安だらけだった。それまでの父は、「のんきな父さん」だった。しかし、病がちになった父の表情には不安が見えはじめた。
「しずよし、一緒に行ってくれんや。おまえが、一緒に行ってくれれば、ありがたいんだがね。おれも、このところ筑後へは行ってないし、スイコの手前もあるから、行かにゃんもんね。筑後へ行くのも、もう最後になるだろうから行きたいし、どうや、一緒に行ってくれるか?……」
 父は、すまなそうに私に言った。
「おれが、行くの? 筑後へは行ったことがないけんで、行こごたるばってん、でも自信がないなあ……」
 と、私は言葉を返した。
 しかし、普段見ない父の不安そうな表情を見ると私は、父のお守り役を決意した。私にとっても、未知のところへの長旅である。私は、汽車に乗るのも初めてだった。切符の買い方さえわからない「ひよっこのお守り役」、すなわち病がちの父にたいし、私は「にわか付添人」なった。
 途中の父をおもんぱかって私は、くたくたになってはるかに遠い筑後に着いた。玄関先で出迎えたスイコ姉は、
「しずよしが連れて来てくれたんか。ありがとう。よう、来たばいね」
 と、言った。
 母ほどに年の離れた姉は、込み上げるものがあったのか、目頭を押さえながら私に声をかけて、長旅をねぎらってくれた。私には、無事に役目を終えた喜びがあふれた。
「しずよしが、ついて来てくれたから、また来れたつよ。スイコに会えて、とてもうれしかばい」
 と、父は追い打ちの言葉を言った。
 姉に伝える父の言葉は、うれしさで涙声になっていた。私にも、生涯の思い出を成す旅だった。私は、「瀬高」とか、「船小屋」とか、「羽犬塚(はいんづか)」とか、の駅名を知った。特に、羽犬塚駅前の一膳飯屋で、父と一緒に食べた「サバの味噌煮」の美味しさは、今なおありありとよみがえる。まだ小学生だった私は、病が取りつきはじめていた父を無事に送り迎えできた。確かに、父の旅仕舞いであった。一方、私には長旅そして汽車初体験であった。危なっかしい「父子道中(おやこどうちゅう)」だったが、そのぶん、生涯消えることのないピカピカの宝物となっている。

連載『自分史・私』、15日目

 いつも、母屋の戸口元に吊るされている、色褪せて使い古しの野良着は、父の働き盛りの晴れ着である。野良着は紺無地の狩衣風の「半切り」である。手許の電子辞書を開いて確かめた。「甚兵衛羽織」(じんべえはおり)と言うのかな。ところどころは擦り切れて、紺無地は白茶けている。母も、父の本当の働き盛りは知らないと言う。それでも母は、常に私にこう言った。
「父さんは米俵を積んだ馬を引いて、県境の山越ではるかに遠い津江(大分県日田市中津江村)辺りまで行きよんなはったつよ。とても、働きもんだったつよ」
「父さんはたばこの一本も、酒の一杯も飲みならん人でね。一銭の賭けごともされんし、人は〝なんのかんの〟言ったばってん、自分はとても幸せだったもんね」
 父の話をする母は、普段の控えめな母に似ず、誇らしげだった。〝なんのかんの〟という言葉は、母の結婚が後入りのうえに年齢差もあったことで、村人から受けた風評をさしていたようだ。
 将棋のほかの父の楽しみは、母を連れ立っての年に一度の「杖立温泉」(熊本県阿蘇郡小国町)への長湯治だった。父は普段から「杖立、杖立」とよく言っていた。だから、杖立温泉はごく近いところと思っていた。ところが杖立温泉は、大分県と熊本県の境にあり、山越えのケモノ道を歩いて、果てし無く遠いところにあった。私は後年のふるさと帰行のおりに、長兄が運転する軽トラの横に乗り、父と母が歩いた行程をドライブした。このドライブは、私の長兄へのたっての願いで実現したものである。私は父と母が歩いた道を車とはいえ、全道を確かめてみたかったのである。するとそのときの私は、道の険しさと距離の長さに度肝を抜かれた。もちろん、父と母が歩いた頃の道は、舗装などまったくない昼なお暗い山中道、いや多くはケモノ道である。私には当時の父と母の姿が切なく甦る。父は「甚兵衛羽織」に替えて、母は「モンペ」に替えて、二人はどんな一張羅(いっちょうら)を身にまとい、手を取り合って仲睦まじく往来したのであろう。こちらはうれしく偲ばれる。

連載『自分史・私』、14日目

 (私の心中の父は、死人ではない)。様々な思い出が、「生きた姿」でよみがえり増幅する。挙句、わが自分史は、父の思い出で紙幅が埋め尽くされる。それはまた、箆棒な幸運である。私は、自分自身の「墓地」は買っていない。「前田家累代之墓」はふるさとにある。ハードの墓はなくとも、ソフトの墓は残された者の心中にある。ハードの墓は、永代供養のお金や、墓掃除などで面倒くさい。また、ふるさとの墓は遠くて、墓参りはご無沙汰続きである。いや、もう行けない。心中の墓は都合がいい。私はお墓参りに替えて、常に父の姿を浮かべている。
 父の年齢は60代後半であったろう。父は、米俵(60キロ)を地面からひょいと持ち上げて肩に担いだ。あるときの父は、近所の青年・慶ちゃんから相撲の挑戦を受けた。慶ちゃんは腕白坊主が青年の衣を着始めた二十歳の頃で、体中に若い力が漲り弾んでいた。
「小父さんは、相撲はもう弱くなったでしょうな……」
「なんば言うか。まだ、洟垂れには負けんぞ。相撲、取ってみるか……」
 父は、挑んだ慶ちゃんを畳の上でぶん投げた。
 「小父さんは、いつまでも強いな……」と言って、慶ちゃんは再挑戦を諦めた。
 この頃の父は、額から頭の天辺までまん丸に禿げていた。私が学校へ行くと、「ゴットン吾市の禿げ頭」と言って、からかう友達(渕上喜久雄君)がいた。水車の「ゴットン、ゴットン」という音に、禿げ頭の父の名前を付けて、からかったあだ名である。しかし、父好きの私にはまったく苛めの効果なく、びくともしなかった。
 私の学校行事にあっての父は、友達の家族のだれよりも早く現れた。秋の運動会では、運動場にまだ生徒たちの姿ばかりが目立つ中にあって父は、早くから大柄な体と禿げ頭を太陽光線に晒して立っていた。私が照れ隠しに父の前を猛スピードで駆けると、父は「そうだ。その調子だ。速いぞ、速いぞ!」と言って、大きな声で叫んだ。
 授業参観の日には、先生がまだこの日の心構えなどを話している最中に父は、後方の入り口から入ってきた。ひとり、後壁に掲示の図画や習字を見ていた。友達は、キョロキョロと後ろを見た。(あの人は、だれのおじいさんだろう?)と、思ったはずだ。父は飛びぬけて家族思いが強かった。私にかぎらず、子どもたち(きょうだい)みんなが慕い、自慢の父親だった。
 私の場合、父との生活、すなわち直接父の愛情に触れて生活したのは、高校までの18年間だった。ところがこの期間は、すでに父の晩年だった。父と母が結婚した年齢は、父40歳、母21歳である。そして、私が誕生したときの父と母の年齢は、56歳と37歳である。だから、私は若い頃の父はまったく知らない。まして、父の働き盛りの働きぶりなど、露ほども知る由ない。私が知る父の姿は、すでに家督万端を長兄に譲り、隠居然として余生を送っていた。そのため父は終日(ひねもす)、近所近辺の将棋仲間を呼んでは、陽だまりの縁側で唯一の趣味の将棋を指していた。ある日の回覧板の囲み記事の中に、村内の将棋名人のことが載っていた。私はその中に父の名を見つけて、
「父ちゃんが村の名人で、いちばん強いと書いてあるよ」
 と、言った。父は「おれより強いのは、まだいっぱいいるんだけどな……」と言って、相好を崩しうれしそうだった。私もうれしかった。

連載『自分史・私』、13日目

 年の瀬、昭和35年12月30日、私は八百弘商店の店先で、顔馴染みの郵便配達員から一通の電報を受け取った。兄たちは車で配達に出かけるが、免許を持たない私だけはいつも、店頭で接客に明け暮れていた。だから、郵便物など外部からの届け物はほぼ、私が受け取っていた。
 大学は冬休み中だった。手にした電報は一目でわかる「弔電」父の訃報だった。3人が配達から帰り4人が揃うと、鳩首を交えて店先に佇んだ。いくらか予期していたとはいえ4人は、沈痛な面持ちで相談を始めた。4人の相談事は、決まって店先でする習わしだった。咄嗟の相談事は、父の葬儀への参列の仕方だった。八百弘商店には、得意先が定着し始めていた。歳末の三が日には毎年、正月用の食品を求めて多くのご贔屓客がきてくれた。それらの多くの人は、兄弟の仲の良さに好感を持って、好意的に八百弘商店をあてにしてくれていた。今でもはっきりと名前とお顔が浮かぶ、馴染みの心優しい人たちである。4人はうれしい悲鳴で大わらわだった。歳末商戦特有に、予約伝票の多さは4人を喜ばせた。「店は閉めて、4人とも帰るか」「お得意様第一だ。店は閉められないだろう」「おとっつあんは、店を閉めるのは望まないはずだよ」「誰かが代表でひとり、帰るしかないだろう」。
 相談事の決着は、4人のうち、葬儀参列者が1人、店番が3人と決まった。次には、だれが行くのかを決めた。結果、この時点でもっとも長くふるさとから遠ざかっていた四兄が、命の絶えた父のもとへ旅立った。私に不満はなかった。いや、父の死に顔を見ないで済んだことは、はしたなくものちのち幸運だった。なぜなら、私の心中にはずっと、合格の知らせを持って帰った、あのときのワンシーン(一コマの情景)が浮かんだままに、「父は生きている」。このことは、世間体はどうあれ、偽りのない箆棒な幸運である。
 父は私の大学合格を知り、そして2年生のおりに永別した。(店が大事だ。だれも来なくていいよ。きょうだい仲良く、東京で頑張れ!)。父はたぶんそう言って、先妻そして後添(のちぞえ)へと繋いでもうけた、めでたい子沢山の人生を閉じたのである(享年75歳)。

連載『自分史・私』、12日目

 私は中央大学だけを2学部受けた。法学部は落ちたけれど、商学部は受かった。大学の中庭に掲示される合格者名簿は、二兄と並んで見遣った。この頃の私たちは、そののちの父には危篤状態は訪れず、病臥が続いていると聞いていた。受験を終えると兄たちは、「一度、わが家へ帰ってこい!」と、優しい言葉をかけた。私は、兄たちの優しさがうれしかった。父へは真っ先のこと、長兄やフクミ義姉そして母に、合格の喜びを伝えるために私は、行きとは逆に飛び跳ねるような気分で、下りのブルートレインに乗った。これまた行きとは逆に私は、戸口元で「ただいま」と言うと、猛スピードで座敷に病臥しているはずの父のところへ走った。
 思いがけなく父は、兄たちが金を出し合って買ってくれていた当時はやりの分厚いマットレスの上に半身を起こして、「ぴょこん」と座っていた。私はうれしかった。傍らには内田小学校に上がったばかりの内孫の良枝が付き添っていた。たぶん、おじいちゃんの見守りを頼まれていたのであろう。父に声をかける前に、わが目から滂沱のごとく涙が流れた。ぬぐい切れない涙を拳で拭いて私は、「父ちゃん。会いたかった。治ってよかったなあ……。大学、合格したよ!」
 と、言った。
 今、私の目から涙がこぼれている。涙まじりに声をかけると父もまた、仏陀のような温和な眼差しに涙をためた。そして、病の顔に精いっぱいの笑顔をつくった。この頃の父には、心臓病とは別にいくらの痴呆症状が出始めていたという。ところがその様子は微塵もなく、やつれているとはいえ正気の笑顔だった。父は、髭まみれのゴボウのような水気のないゴツゴツした両手の平を合わせて何度も叩いた。父のありったけの祝福と喜びを伝える「無言の手たたき」だった。傍らの良枝もまた真似て、「やんやの手たたき」をしてくれた。この情景はわが生涯において、もっともうれしく、そしてせつなく、わが心の襞(ひだ)に焼き付いている。文章を書かなければもちろん、わが心中にだけ埋没している一コマのワンシーン(情景)である。作者冥利に尽きるとはたぶん、こんなことを言うのであろう。
 3月になると私には、内田村から本当の巣立ちが訪れた。私は父を病臥に残して、受験に向かったとき同様に、沈痛な面持ちで再び、「東京行き、夜行寝台急行列車」に乗車した。大学に入学すると私は、八百弘商店を営む兄たちとヨシノ義姉の生活の中に本格的に割って入った。そして、四兄弟の末の店員の一人として、懸命に働いた。ふるさとの長兄は毎月、5千円の仕送りを続けた。私の大学生活は、「多くのきょうだいの中で、ひとりぐらい大学にやろうじゃないか」という、兄たちの思いやりで実現したものだった。そうした兄たちの恩愛と願望を心身に甘受し、私はとうとう生誕地・内田村から離れ別れて、異郷・東京における生活をスタートさせたのである。

連載『自分史・私』、11日目

 この文章は記録や資料などにはすがることなく、浮かぶ記憶のままに書き殴りで書いている。本音のところは早く書き終えて、楽になりたいだけである。言い訳がましいことを書いたけれど、自分自身、記憶がこんがらがっているから書き添えたものである。
 八百弘商店は、店舗付き住宅の小さな借家であった。二兄がどういう経過でここを借りたかは、詳しくは知らずじまいである。ただ、後で書くけど二兄は、一つだけ借りたいきさつを教えてくれた。先ほどは10分足らずと書いたけれどそれは誤りで、当時の国鉄「国分寺駅」北口からは、5分ほどだったようにも思えている。
 借家の八百弘商店はトタン屋根の平屋造りで、町家が並ぶ中にあって、かなり古ぼけていた。裏の勝手口の壊れかけていた木製のドアを開けると、「西武・多摩湖線」の線路が「国分寺駅」を終発着駅にして、長く寝そべっていた。線路を挟んでは立ち入りを止めるために、有刺鉄線を三筋ほど横に張った支柱が等間隔に立ち並び、その一本には「入るな、危険」と、手書きされた板書が貼り付いていた。
 表の店先にはバスの通らない5メートルほどの道路が走っていた。線路伝いに道路は、「青梅街道」方面へ延びていた。八百弘商店は国鉄・国分寺駅からは近いけれど、駅前のメイン道路からはすぐに左に逸れて、裏通りの一角にあった。八百弘商店の隣は狭山茶を広範囲に商う店で、二兄はここから借りたのである。一つだけ二兄が教えてくれたのは、どうしてもここで八百屋をやりたいという熱意にほだされて、屋号『御茶きん』を営む大家が、安価な条件で貸してくれたという。
 上京すると私は、八百弘商店の下、兄たちの庇護を頼りに居候生活が始まった。二兄は、結婚したての新婚ホヤホヤの真っ盛りだった。ヨシノ義姉は福島県出身で、保険外交員として互いのところに出入りされていた、馴染みの人が引き合わせた見合い結婚だった。細面(ほそおもて)の義姉はびっくり仰天するほどに美しく、そのうえ未だ独身の三人の弟たちに対しては、この人以外にはいないと思えるほどの心優しい人だった。そのお返しに弟たちは生涯、義姉を母親代わりにして、「東京の若いお母さん」として慕った。特に高校を出たばかりの私にとっての義姉は、第二のふるさとにおける母親になりきっていた。突然飛び込んできた私に対し義姉は、「しいちゃん。今は勉強するのがいちばんの親孝行だからね」と言って、受験生の私をおもんぱかり、日々温かく励まし続けた。だから私は、受験日までは一切、店の手伝いをすることもなく勉強に専念した。しかしながら、どんなときにも私には、病臥に残してきた父のやつれた姿が心中にこびりついていた。
 八百弘商店は異郷で大繁盛した。その後の私は、ここを出るまで店員になりきり、大車輪で働いた。もちろんそれは、無償の居候生活に報いる恩返しだったのである。二兄に続いて三兄そして四兄も結婚して、それぞれに適地を求めてみずからの八百屋を開店した。これまた見目好い妙齢の義姉二人は、「東京の若いお母さん」を真似て、心優しい「東京の若いお姉さん」になった。三兄のお嫁さんは、父の姪っ子の長女(熊本県玉名市出身)という縁戚で、四兄のお嫁さんは、内田村におけるわが親しい同級生である。

連載『自分史・私』、10日目

 父と母の言葉の裏に私は、降ってわいた大学受験を温かく見守り、応援していることを感じた。それに報いるためにも私は、(何がなんでも合格するんだ!)、という決意を固めた。
 父が最初の危篤に陥ったのは、昭和34年の1月末の頃だった。父は家族、嫁いでいる長姉、近くに住む異母長兄の家族などに囲まれて病臥していた。幸いにも、危篤は大事に至らず凌いだ。ところがわが家族、とりわけ私にはつらい決断が迫った。神様の無慈悲のいたずらなのか? よりによって父は、私が受験のために東京ヘ向かう予定の前日に危篤に見舞われたのである。時々刻々と出発の時間が迫るなかにあっても私は、なお出かける決断がつかずに、病臥する父の枕辺に蹲(うずくま)っていた。「早く行け!」という最後通牒は、急かせる長姉や長兄の優しさだった。
「おとっつあんのことは、自分たちにまかせて、早く行け。汽車に間に合わなくなるぞ!」
 出発の準備万端は、前々から用意周到にととのえたていた。だから決断さえすれば、万事OKになる。しかし、私は決断ができない。家族は「行け行け、早く行け!」と言って、私の追い出しにおおわらわである。それでもまだ私は、病臥の父を見つめている。私に替わって、母が決断した。
「早く行けばええたいね。おとっつあんは治るばい。遅れんようにせんといかんたいね。東京では、兄さんたちが待っているよ。早く行かないと、汽車に乗り送れるばい!」
 私は流れ出る涙を拳(こぶし)で拭きながら、なお病臥の父を振り返り、小走りで戸口元を出た。このときになってもなお、わが決意はためらい揺れていた。私は町中の「産交バス山鹿停留所」で乗り継いで、3時間ほどかけて熊本駅に着いた。東京、いや試験日に向けて勇躍するはずのわが意気は、まったく上がらないままに夕方、私は予定していた「夜行寝台急行列車東京行き」に乗車した。黙然と車窓を見つめていて浮かぶのは、病臥している父への切ない思いだけだった。
 熊本駅から19時間ほどかけた夜行列車は、午前11時近くに10番ホームへ滑らかに着いた。スピードを緩めた窓を通してプラットホームを凝視していると、迎えに出ていた二兄の姿がチラッと見えた。二兄も、目敏く私を確認した。そして、(ここにいるよ)と、わかるように右手を上げて左右に振った。まばゆいばかりの明かりの中、雑踏する人の波にもまれながら、二兄にしがみつくようにして私は、一番線の「中央線ホーム」へ辿りついた。
 二人は50分ほどで、国分寺駅北口を出て、歩いて10分足らずの「八百弘商店」に着いた。待ち構えていた二兄と三兄は、「しずよし、よう来たな。おとっつあんのことは心配せんちゃええ……」と言って、ニコニコ顔で出迎えてくれた。(東京だ)、わが決意は、受験に向けて固まった。

連載『自分史・私』、9日目

 二兄は、「八百弘商店」開店の第一報を東京からふるさとへ送った。
「決して、親には心配を掛けません。これからは食べ物関係の商売なら、食いっぱくれることはないと考えて、三人で八百屋を始めました」
 手紙が届いた日、涙をためてかたわらで不安そうに手紙を覗き込む母に対して父は、「次弘は根性があるけんで、心配することは要らんよ」と、言った。このときの私は、内田中学校1年生だった。
 こののちは、「八百弘商店」からよく木枠のリンゴ箱が送られてきた。母が剥くリンゴを食べている父の姿は、不安というより大きな期待に溢れていた。父は何より、兄弟が助け合って開店したことを喜んでいた。この頃の父は、高血圧症状による心臓病を患い始めていた。このため父は、宣伝文句を頼りにして市販の『救心』を服み始めていた。高校生の頃の私は、父の依頼で帰りに町中の薬屋で救心を買った。救心を買い忘れることは、たったの一度さえもなかった。いや、救心を買う日の私には、「これで治るようで」、うれしさが込み上げていた。なぜなら救心は文字どおり、私にも気懸りな父の心臓病を救ってくれるそうに思えていた。
 私の大学受験生活は、予期しない長兄主導の兄たちのひそひそ話で始まっていた。「きょうだいが多いのだから、ひとりぐらい大学にやろうや」。もはや、この望みに該当するのは私だけである。「しずよし、大学へ行ってもいいぞ」。ところが、私は進学希望者向けの課外授業さえ用無しに、高校三年の秋まで部活のバレーボールに明け暮れていた。バレーボールの練習から帰ると毎度、眠たい夜が訪れた。
 異母二兄の病気療養を兼ねて、はたまたチズエ義姉との新婚者住宅として、小さな家が建てられていた。家族は、「下ん家」と呼んだ。ところがその家は、異母二兄が亡くなり、チズエ義姉が再婚で出ると、空き家になった。のちに「下ん家」は、父と母そして私が寝泊まりするだけの離れ家となった。最終的には、長兄とフクミ義姉の蚕室となっていた。
 母屋で夕食を摂り、風呂を済ませると寝るためにだけ父と母と私は、「下ん家」へ行った。いや、私にだけにはそれに、「勉強をするため」という、大義名分が加わっていた。だから、私がいちばん先に行った。ところが部活の疲れで毎夜、私は勉強机に涎を垂らしてうつ伏せになっていた。後からやって来た父は、「さぞ、眠かろうねー。無理するな。風邪ばひくぞ。もう布団に寝ればいいよ」と言って、丹前の袖から色鮮やかなごっだま(飴玉)のいくつかを机の上において、床に就いた。
 一方母は、抱えてきた湯たんぽを布団の中に入れたり、わが足下に置くちゃちな市販の「電気行火(でんきあんか)」を丁寧にわが足にととのえて、「もう、勉強せんちゃ、よかろだい」と言って、布団の中に入った。私は、母肝いりの分厚い練りの褞袍(どてら)を羽織っていた。一晩中、無駄な灯りが煌煌とついていた。ただ、降ってわいた大学受験は、夢心地の中で東京の兄たちにすがるしかないことだけは固めていた。

連載『自分史・私』、8日目

 家族はあっと驚いて、働き場所のあてどなくも二兄は突然、内田村のわが家から単身(19歳)で、はるかかなたの東京へ飛び立った。上京後の二兄は、二か所ほど働き場所を変えたと言う。そののちは、発足したばかりの「警察予備隊」(のち保安隊、現在自衛隊)に合格して入隊した。そして、入隊当初から「2年間と決めていた」と言う、意志どおりに除隊した。除隊後の二兄は、東京都八王子市にあった八百屋の住み込み店員となった。
 そののちの二兄は昭和31年、25歳で独立して、東京都国分寺市で八百屋を開いた。このおり、二人の弟が二兄に呼応し駆けつけた。そのひとりの三兄は、入隊していた(入隊は保安隊)自衛隊を除隊して、北海道千歳郡滝川町から加わった。またそのひとりの四兄は、勤務していた吉祥寺(東京都武蔵野市)のデパートをすぐに辞めて加わった。未だ独身の二兄、三兄、そして四兄は、きょうだいそろって念願の、「八百弘商店」をスタートさせたのである。
 屋号に付く「弘」一字は「良」同様に、わがきょうだいの証しを示す符号である。ところが、三兄だけは双方の符号から外れて「豊」である。こんなことはどうでもいい。しかし、のちの私は、「八百弘商店」とこれを開いた三人の兄の優しさと兄弟の絆を頼りにして、高校を卒業すると内田村から巣立って上京した。そして、華の都・東京を皮切りに、後生大事に私の人生がスタートしたのである。
 長々と書いたけれど、書かずにはおれない。なぜなら、ここぞわが自分史の凝縮かつ根幹を成すところである。重ねて言えばすなわち、このときこそわが人生の基盤であり、きょうだいの絆をいっそう強めて、さらには第二のふるさと誕生の由縁である。

連載『自分史・私』、7日目

 内田村は熊本の県北部にあり、福岡と大分とに県境を分ける熊本県側に存在する。三国山とか国見山とか名のついた連山には、峠道が入り組んでいる。遠峯と里山に囲まれた内田村は盆地を成して、細切れの段々畑と狭隘な田園風景を見せている。村人の暮らしは農産物の恵みにすがり、主に自給自足で賄っている。村の中央には一本の県道が走り、それにオシドリのように寄り添って、一筋の内田川が流れている。私の家は内田川を裏戸の背にして、川岸に建っていた。
 年に一度父は、水車の取水溝を共有する隣家に呼び掛け、共同で川中の堰を落として、取水溝を干し上げた。この日は隣家の子どもたちと私にとっては、一年のなかで最も楽しい魚取の日だった。なぜなら、この日にはおとなたちも混じって、共に家族総出の魚取りが行われたのである。互いの家族は、これを「車井出、落とし」と、呼んだ。双方が持ち寄ったバケツは、ウナギ、ナマズ、ゲギュ、シビンチャ、ハエ、ドンカチ、アブラメ、カマドジョ、シーツキ、ゴーリキ、ほか雑魚などで満杯になった。それらをほぼ均等に分け合い、わが家へ持ち帰った。夕方になると、互いの釜屋(土間の炊事場)から醤油煮の匂いが漂った。
 わが家にあっての内田川は、生業を恵むかたわら敏弘の非業の死をもたらした。罪をしでかした真犯人は私である。ところがこのときの私は幼くて、死の意味すら十分には知らなかったのかもしれない。私の替わりに泣き崩れたのは父と母である。なかでも母の悲嘆ぶりは、父をいたく心痛させた。
 さらに父は、母の精神状態が病み壊れることを極度に心配した。不断の父はどちらかと言えば寡黙朴訥であり、母との会話もそんなに多くはなかった。ところがこのときから父は、堰が切れたごとく饒舌愉快に振舞った。まるで子どもをあやすような親の姿になりかわり、父は朝な夕な母に話しかけた。ちょっとした笑いの種にも父は、大袈裟に笑いこけた。敏弘の事故死以来父は、母の沈痛な面持ち解すために、意識して道化者の役回りを演じていたのである。敏弘の死後の父と母の思いは、いっそう強く私に向けられた。それもまた、親の私をおもんぱかっての並々ならぬ気遣いに満ちたものだったのである。