ひぐらしの記
前田静良 作
リニューアルしました。
2014.10.27カウンター設置

内田川(熊本県・筆者の故郷)富田文昭さん撮影
おっちょこちょこの人生
パソコンを起ち上げて、のっけから電子辞書を開いている。「徳俵:相撲で、土俵の東西南北に、俵の幅だけ外側にずらしておいてある俵」。力士にすればオマケの俵である。だから、徳俵と名がついている。これくらいの説明書きがなければ、電子辞書の価値はない。徳俵のことはどうでもいいけれど、文章の都合上、冒頭で徳俵の由来を記したのである。わが人生はオマケの「徳俵」さえ踏んでしまい、いよいよ後がない。
きのうは下歯に詰めていた岩石みたいな詰め歯が、まるで西の空の日没を見ているかのように静かに外れた。このため下歯は、前歯周辺の何本かを残して、左右には噴火口みたいな旧い穴ぽこに加えて、新たな穴ぽこが並んだ。上歯はすでに詰め歯がとれていて、いたるところが穴ぽこだらけになってしまった。歯医者嫌いで、これまでは痛みが出ないかぎりほったらかしにしていた。しかし、きのうの下歯の詰め歯の外れは、「万事休す」、と宣告を受けたのである。上下すなわち、歯並び全体が「穴ぽこ」だらけになり挙句、大好きな御飯さえ(もう、食べなくてもいいや)と駄々をこねて、敬遠する状態になりつつある。
すわ! これでは歯どころか、「命」が一大事だ! と、慌てふためいて私は、間遠になっている掛かりつけの歯医者に予約を入れた。そのとき決められた診察時間は、きょうの午後2時である。運よく修復できるのか。それとも運悪くもはやお手上げで、また穴ぽこのままにほったらかしにし、やがて訪れる痛ささえ我慢して、自然死まで耐えるのか。きょうは、わが生来の優柔不断の決断をどちらかに迫られる日になりそうである。もちろん診察を終えるまでは、わかりようはない。ただ、残存のわが命に突然、大きな出来(しゅったい)が生じたことだけは明白である。
もう一つ、知りすぎている言葉だけど、電子辞書調べをした。「パンク:①自動車や自転車のタイヤのチューブが破れること②物が膨らんで破裂すること③適量を大幅に越えて機能が損なわれること」。調べるまでもない言葉なのにあえて、電子辞書を開いたのは、これまた文章都合上のためである。そしてそれは、電子辞書の説明書き③の記述に該当する。私の歯、いや体全体は、徳俵でこらえてももはや、後がないパンク状態にある。あすと言わずきょうにも、息の根が止まりそうである。いよいよ私は、人生の総括をしなければならない焦燥感に見舞われている。確かに私の体は、歯のみならず日に日にどこかの不良をいや増し続けている。ところが、わが体の不良や衰弱ぶりばかりではなく、身内、友人、知人の訃報は途切れることなく続くようになり、おのずからわが気分をむしばんでゆく昨今(さっこん)である。
三度目の電子辞書すがりは、これまた知りすぎているこの言葉である。「昨今:きのうきょう。この頃」。わが体いや命は、焦眉の急に脅かされている。大袈裟に書いたけれど、創作文(虚構)の真似事をしたまでのことである。こんな文章など身のため、書かなければよかったのかもしれない。しかしながら、書かないと文章は、きのうで頓挫の憂き目を見たことになる。継続とは恨めしいかぎりである。継続は世に言う、わが人生に力を与えてくれているのだろうか。
梅雨とアジサイの季節は、私にとっては物憂い季節である。ただ、きょうの診察しだいでは、すぐに明るくなることはある。表題は「おっちょこちょこの人生」でいいだろう。
人生終盤における、一つの述懐
現在の私は、人生の最終盤を生きている。来月7月には83歳になる。最終盤というより、余命はほんの僅かである。この間の私は、もちろん仕事ではなく、趣味でもなく、ただいたずらに四半期を超える長い間、文章を(作る、書く、生む、綴る、紡ぐ、記す)ことの一つの行為を続けてきた。いや私の場合は、その序の口とも言える文章を作る(作文)ことに甘んじてきた。作文とは、与えられた課題やみずから気ままに選ぶ自由題を浮かべて、文意に添って語句(言葉と文字)を連ねて、文章を完成させることである。難しく書いてしまったけれど、もともとはそんなに難しいものではない。なぜなら、就学し立てにもかかわらず、小学校1年生と2年生の頃には「綴り方教室」の時間があり、書けない者などだれもいなかった。すなわち作文は、習い立ての語句を用いさえすれば、文字どおり十分に作れるものである。
文章は語句の習得が増えるにつれて入り組んで、見栄えが良くなるところはある。換言すれば確かに、見た目、読む意、共に華やかにはなる。ところが、必ずしも語句が多く見栄えの良い文章が上手で、良質とはかぎらない。なぜなら、肝心要の文意がごちゃごちゃなら文章にはなり得ない。結局、文章は文意に添って単純明快に、できれば最も適語を嵌め込む作業である。そしてこれこそ、上手く良質の文章と言えるものである。もちろんこんな、当たるも八卦当たらぬも八卦の文章論など、六十(歳)の手習いさえ未完成の私が語るべきことではない。
ただ、四半期を超える長いあいだ文章を書き続ければ、何か一つぐらい学びたいものではある。するとこのことは、たった一つだけの体験上のわが学びと言えそうである。しかしながらこれでも、私には易しいとは言えず、難しいところだらけである。繰り返しになるけれど作文は、まずは文意を浮かべること、次にはそれに添った語句を浮かべることである。これが叶えられれば作文は、見事という飾り言葉を付されて完成する。だから私は、このことだけを意に留めて、文章を書いてきた。そして、「綴り方教室」における作文同様の文章は書けたと、自負するところはある。しかしながら私には、種無しからネタを作るすなわち無から有を生じる創作文は書けない。そのため私は、常に文意を浮かべるネタ不足に見舞われて、いつも同じような文章の書き殴りに甘んじてきたのである。挙句、ネタに新味がなく、私自身書き飽き嫌気がして、このところは一気に疲れがいや増している。
おのずから文章書きは、終焉のドツボに嵌まりそうである。なんでもいいから書かなければならない継続文は、やはりわが凡庸な脳髄には荷が重すぎて、トコトン恨めしいかぎりである。私の場合、継続は力というより、自分虐めの総本山になりつつある。総本山? 適語とは思えないけれど、これに替わる語句が浮かんでこない。もとより私は、望んでも叶わぬ熟練工(練達)は望まない。しかし、せっかく長く書いてきたのだから、できれば見習工(初歩技術)くらいは修めて、疲れ癒しにあの世へ急ぎたいものである。
人生行路における「不運と幸運」
「合格証書一級前田静良 あなたは文部省認定平成八年第三回漢字能力試験において頭書の等級に合格したことを証明します。平成九年二月二十四日 財団法人日本漢字能力検定協会理事長大久保昇 第九六三00000六一号」。私の人生行路における文章書きにかかわる不運は「三日坊主」より生じて、のちのち後悔と祟りに苛まれ続けている。何度か日記を試みたけれど、そのたびに三日ともたずに挫折を繰り返し、断念の憂き目に遭遇し続けた。もし仮に日記が続いていたら六十(歳)の文章の手習いにあって、おぼつかない脳髄の記憶頼りにならないで済んだはずだと、いまなお悔み続けている。「後悔は先に立たず」と「後の祭り」の同義語を重ねて、至極残念無念である。
冒頭の認定証は、定年(平成12年)後のありあまる時間を危ぶみ、かつそのときのわが日常生活をおもんぱかって、やり始めた確かな証しとして用いたものである。すなわち、わが本棚の上に置く、埃まみれの額入りの日付証明書である。これを見て顧みるとわが文章書きの手始めは、定年を間近に控えた4年前の頃からである。
一方、私の人生行路における文章書きにかかわる幸運は、街中の本屋における「無償の立ち読み」からもたらされている。具体的には漢字検定一級への挑戦は、勤務する大阪支店における単身赴任のおり、大阪・梅田の「紀伊国屋書店」の立ち読みが発意である。書棚の雑誌を手にとりめくりながら、(これくらいなら、自分もできるかな?)。初受験にもかかわらず下級を飛び越え、最上位級(一級)を受けて一発で合格できたものである。もう一つの幸運は、買い物の街・大船(鎌倉市)に在った本屋の立ち読みから生じている。雑誌コーナーに競い合って並んでいたものから、一つの雑誌を手にとりつらつらとページをめくったのである。そして、出合ったのは「日本随筆家協会」(神尾久義編集長、故人)と、そのときからのちのち現在にいたるまで厚誼を賜り続けている「現代文藝社」(主宰大沢久美子様)である。
結局、定年後を見据えたわが文章書きは、「不運と幸運の抱き合わせで」で発端を成している。そのスタートラインは平成8年(1996年)頃、そして現在は令和5年(2023年)。長いなあー、能無しの私は、疲れるはずである。
命
父は先妻を喪い、後添えに母を迎えて、二人の妻から生まれた14人の子どもたちを養い育てた。そして、戦争が終わった昭和20年8月15日から15年後、父は昭和35年12月30日に他界した(享年77)。それから25年後、母は昭和60年7月15日に亡くなった(享年81)。母の枕辺を、子どもたち、孫たち、親類縁者たちが囲んでいた。母は常々、「おとっつあんが良か人じゃったけんで、自分は幸せじゃったもんね」と、言っていた。奇しくもこの日は45年前、母が私を産んだ日であった。また、七月盆のさ中にあり、異母と自分が産んだ子どもたちのみんなも、御霊の父に付き添って枕辺にそろっていた。母はこの日に、みずからの祥月命日を重ねるという、離れ業をやってのけたのである。
今や私だけが生き残り、親、きょうだいを偲ばなければならない役目にある。私の脳裏には、大学に合格したことを伝えるために帰郷したおりの、やつれた病顔に笑みを湛えた父の温和な眼差しがよみがえる。―自分の中では、父はいつまでも元気なままの姿で生き続けているー 私には、この思いがあらためて膨れ上がっている。父の葬儀へ参列しなかったことへのわだかまりなど、些細なことのように思えている。一方、父のことを和んだ表情で話す、皺を重ねた母の潤んだ目元がひときわ懐かしくよみがえる。そしてこれらは、幼くして命を絶った唯一の弟・敏弘を父と母に替わって、いつも思い続けてやることで、(敏弘のぶんまで生きるんだ!)という思いを一層、私に強くつのらせる。文章を書くかぎり、(もう、書き厭きた)などとは、言ってはいけない思いが、ひしひしと私を責め立てる。だけど、疲れた。謝っても謝り切れない胸の痛みは、もはや私だけである。「鶴は千年、亀は晩年」。だけど、「生きとし生けるもの」、命尽きぬものはない。
連載『自分史・私』、22日目、中途完結
私は苦慮している。とても、後悔している。自分史とは、自分の記憶や記録を書き留めているものであり、もちろんブログ等で公開する読み物ではない。私日記のように書き留めて置けば済むものである。ゆえに自分史は、書き殴りであろうと、雑多なことの繰り返しになろうと、自分的にはなんら構わない。それを恥じることもない。私は恥を晒すことにはやぶさかではない。しかし、公開するかぎり、これらのことはご法度である。今書いていることもこの先へ書けば、雑多な文章の繰り返し、すなわちエンドレスとなりそうである。それを恐れて私は、きょうの文章で中締め・中途の完結とするものである。
「嘘も方便」。多くの子どもたちを育てるためには母は、余儀なく生活面においていろんな工夫や秘策を講じなければならなかった。秘策と思えるものの一つには、「置き座」のやりくりがあった。置き座とは、母が考えついた物の隠し場所である。母屋の土間には、精米機、製粉機、その他の機械類が密に寄り合って配置されていた。置き座は、土間の一隅で最も奥にあった。それは、ベッドのように平たく作られた板張りだった。それには、長いあいだ溜め込んできた世帯道具類が、わざとてんでんばらばらにでもしたかのように置かれていた。確かに、てんでんばらばらに置いて隠すことこそ、母の秘策だったのである。
置き座があった土間の一隅は昼なお暗く、上方には一つの裸電球がぶら下がっていた。しかし、裸電球は用無しのごとくに、ほとんど灯されていなかった。これまた案外、母の秘策だったのかもしれない。なぜなら、暗いところへ行き、雑多なうえに製粉の粉まみれの中から、物を探すことには勝手知った家族にもためらいがあった。母が意図したことの第一は、外部からの侵入者(泥棒)の目眩(めくら)ましだったのかもしれない。ところが、泥棒というほどではないにしても、泥棒(コソ泥)は、外部からの侵入者ばかりではない。獅子身中の虫・わが子だって、油断すればコソ泥になり得た。いや、母の秘策の本当のところは、わが家のコソ泥除けだったような気がする。
母はいろんな物を意図して、置き座のどこかに隠し、必要に応じて出してきた。置き座は、家族のだれもが知る母の必要悪の「へそくり」の場所だった。母は子どもたちの目眩らましには、日替わりで置き場所を変えたりもした。まさしく、母の苦心のコソ泥除けである。そして母は、「もうない、もうない」と言った後でも、もうないはずの物を小出しして、何度か置き座から出してきた。
「母ちゃん。甘納豆、もうないの?」
「もうない、もうない」
もうないはずの甘納豆は、何度か出てきた。母の小出しは、楽しみをいっぺんで終わらせることなく、のちまで楽しみをとっておいてやりたいという、親心だったのであろう。
また、早い者勝ちや独り占めを防いで、子どもたちにたいし平等に与えるという、これまたせつない親心だったのかもしれない。母は、置き座を操ることに腐心していた。母は、隠すことと、出すことのバランスの妙で、家事をやりくりしていた。ゴキブリの住み処のようにしか見えない置き座は、母の意を酌んで魔法の置き座の役割を演じていたのかもしれない。なぜなら、子どもたちの操縦術も、不意の訪問客への接待術も、母が置き座を操ることで保たれていた。総じて置き座の操縦術は、母が生み出した生活の知恵だった。同時にそれは、大勢の子どもたちをかかえ育てるための、母のやむにやまれぬ苦心の秘策だったのであろう。忙しく、釜屋と土間を駆けずり回る、母の面影がチラチラ浮かんでいる。
連載『自分史・私』、21日目
主治医にとってほかの医院や病院の医師との立ち合い診察は、みずからの技量の未熟さを認めるようであり、耐えられない屈辱でもあるという。そのため主治医がそれを拒むため患者は、可惜(あたら)命を亡くす人が多々いるという。ところが幸いにも内田医師には、そんな自己保身の考えはまったく無く、ひたすら母の病気の快復にみずからの命をかけてくださったのである。内田医師はみずからの意思で、町中の某医院のK医師に立ち合い診察を依頼された。そして、K医師と内田医師の立ち合い診断の結果、とうとう看護団に「敗血症」という病名が伝えられたのである。当時はもとより、現下の医療にあっても敗血症は、きわめて厄介な病気の一つと言われている。
手許の電子辞書を開いた。
「敗血症:血液およびリンパ管中に病原細菌が侵入して、頻呼吸、頻脈、体温上昇また低下、白血球増多または減少などの症状を示す症候群。重症の場合は循環障害・敗血症性ショックを起こす」
病名が分かっても安堵することなく、いやむしろ内田医師の苦悩の様子はいっそういや増した。病名を告げられた看護団もまた、敗血症? まったく聞き覚えのない病名に不安を募らせた。看護団のなかで内田医師にたいして、「どんなもんでしょうか? 治りますでしょうか…」と聞く、勇気ある者はだれひとりいなかった。
内田医師はこんな不安な空気をみずから絶つかのように覚悟を決めて、まるで自分自身に言い含めるかのように表情を崩さず硬い面持ちで、看護団にたいしてこう言われた。
「この病気は何かの拍子に、血液に細菌が入り、その毒素が中毒症状を引き起こし、いろんなところに炎症をもたらし、高熱が出るのです。幻覚は高熱のせいです。難しい病気だが、諦めちゃいけません」
こののちは内田医師主導の下、看護団に臨戦態勢が指示された。指示に基づいて看護団は、看護体制の強化を図った。内田医師の下、看護婦役を務めたのは、異母長兄の二女だった。二女は内田中学校を卒業するとはるかに遠い、兵庫県西宮市のS外科医院に就き、看護婦になり立てだった。ところが二女は、たまたま休暇をもらい帰省していた。看護団の祈るような期待を担って若い二女は、手慣れた看護役になりきって内田医師を助け、自分は孫にもなり伯母にもあたる母を懸命に看護した。
高熱対策には切れ目のない氷が必要だった。村内にはアイスキャンデー屋はあっても、製氷を商いとするところはなかった。このため、必要な氷の対応には四兄が庭先にバイクを留めて、看護団から頼まれればすぐに町中の製氷屋へ走る態勢を構えていた。もっとも肝心で急を要したのは、輸血の補給体制だった。幸い母の血液型は、人には二番目に多いと言われるO型だった。看護団は、親類縁者を頼りに血眼でO型の人を探した。看護団の中にもO型の者がいて一時しのぎには救われた。記憶は薄いけれど、たぶん四兄はO型だったような気がする。ところが、輸血に最大の貢献をしてくださったのは、それまでまったく見ず知らずの他人様だった。
自衛隊に入隊していた三兄は、「母、危篤」の知らせを受けたときには、北海道空知郡滝川駐屯地にいた。当時の三兄は飛行機ではなく、汽車を乗り継いで帰って来たと言う。普段の便りで三兄は、「長距離競走では、いつも上位に入っています」と書いて、訓練の頑張りぶりを父と母そして家族に、誇らしげに伝えていた。家族には三兄がはるかに遠い異郷で頑張っている様子を知る、何よりのうれしい便りだった。三兄は「汽車があまりにものろいので、床を走り続けてきた」と言って、憤懣やるかたない面持ちで家族に伝えた。
三兄の熊本・健軍駐屯地時代の同僚に吉野さんという人がいた。元同僚と三兄は、駐屯地は変わっていても、友情はまったく変わらなかった。母と看護団は、未知の吉野さんに助けられた。三兄から連絡を受けた吉野さんは隊務の合間を縫って、熊本市内から駆けつけてくださった。吉野さんの血液型はO型だった。時間をおいて内田医師の注射針で抜き取られて注入される、自衛隊で鍛えた吉野さんの体の新鮮な血液は、そのたびに母を救い生き長らえさせてくれたのである。
文章を書いている私の目から、こんどはたらたらと涙が落ちている。看護団はそろって、吉野さんに拍手したい気持ちをじっとこらえていた。吉野さんは隊務をやりくりしたり、所定の休暇を変更したりして幾日か病床の母の脇で、輸血の補給要員を務めてくださった。母の命の恩人・吉野さんのお名前は、わが生涯において消えることはない。吉野さんは今いづこ、どこにおられるのだろうか。つつがなく、ご存命だろうか。90歳近くになられるが、ご存命であってほしい。三兄は、もうこの世にいない。
母を襲った難病「敗血症」との闘いは、内田医師、吉野様、看護団の一糸乱れぬ熱意と連携の下、今にも絶え消えそうな母の命を奇跡的に蘇らせた。母の命は、まさしく見事に「蘇生」したのである。母の命を救ってくださった内田医師は、後日、いつもの端然とした温和なお顔の満面に笑みをたたえて、「快気祝いは派手にやるんでしょうね」と父に言って、相好を崩された。同時に、母の病気ではじめて、本格的な治療にたずさわられたと思われる、二代目内田医師の評判は内田村に沸騰した。私の心残りは、内田医師と吉野様にたいして、御礼の言葉を言わずじまいになったことである。現在、内田医院は村中にはなく、その後の内田医師は、熊本市内で「内田医院」を開業されている。
母の病気の快癒は、人間神様・内田医師が成し遂げられた大偉業だった。これまた、自分史に書かずにはおれない、途轍もなく切なくも、それを超える大きな果報だったのである。母は元の元気な体に復し、また働き尽くめだったが、子孫に慕われた豊かな人生をまっとうした。
連載『自分史・私』、20日目
わが家が日頃からかかりつけにしていた内田医院は、父親の老医師から二代目の長男・青年医師に代替わりをはじめていた。二代目の内田医師は、色白の眉目秀麗でお顔がふっくらとして、見るからに人格高潔で寡黙な医師だった。九州大学医学部を卒業し、インターンを終えて、父親が開いている「内田医院」へ、Uターンされたばかりだった。
二代目内田医師は、一日に何度も往診に来てくださった。母の診察を終えて医院へ帰り着かれたばかりなのにまた、看護団のだれかが往診依頼へ駆けつけていた。母の病床で見守りを続けているだれかが、母の容態の変化に居たたまれず、内田医院まで20分ほどの道のりを全速力で駆けていたのである。
こんな繰り返しが続いていた。母はなお、高熱に魘され、そのたびに幻覚症状が現れて、「ほら、壁に、いっぱい虫が這ってるよ」などと、意味不明の譫言(うわごと)をひとしきり唸り続けた。それが止むとこんどは、疲れ果てたのか? 死人のように眠り続けた。母の病床のかたわらで見守る者にとっては、どちらも不安だらけだった。父は内田医師の往診のたびに戸口元で爪先立って、一秒でも速く内田医師の到着を待ちわびた。内田医師が到着されるたびに父は、「助けてやってください。お金はどんなにかかってもええから、助けてやってください」と、内田医師に取りすがり歎願し続けた。
現在、敏弘のことを書いたときのように私の目から、涙がぽたぽたと落ちている。内田医師の懸命の診立てにもかかわらず、母の病名は不明のままに日が過ぎてゆく。見守る者の多くは、人知れず匙を投げかけていた。表情をひた隠し、すでに絶望している者もいた。父とて、とうに諦めかけて、一縷の望みにすがっていたはずだ。しかし、自分が諦めないことが母への愛情と思い父は、耐えて内田医師にすがり続けていたのだ。父は病の母に重ねて、先妻を亡くし後添えに母を迎えて、子沢山に恵まれた人生を浮かべているのかもしれない。異母が産んだ子どもたち、母が産んだ子どもたち、共に母の支えがあってこそ、みんな仲良く輪になって、この世に存在することができたのである。「絶対に死なせてはならぬ。助けなければならぬ」。父の並々ならぬ決意には、数奇な人生を母と二人で乗り越えてきた思いがあったのであろう。
不断の父には、後継の妻そして年齢差19の母への罪償いもあったのであろうか。なぜなら、亡くなった異母が遺した長男(私の異母長兄・護)には、母の妹のイツエを妻として迎えている。いや、罪償いは、父の母への最大かつ最良の配慮でもあったのであろう。日常生活における父の母へのいたわりで、私が見たエピソードにはこんなものがある。鶏をさばいていたときなど、わずかばかりとれた珍味の笹身に、父はみずから醤油をかけて、「ニワトリは笹身が一番うまいところだから、食べてみてよ。早く食べないと、だれかに食われるぞ!」と言って、箸先に摘まんでは真っ先に母の口に入れた。こんな思い出の数々が、看病する父の脳裏によぎっているのか、父は眠る母の唇を武骨な指先がそっと撫でた。
「父ちゃん。なんとしても、母ちゃんを助けてあげようね」
「ああ、大丈夫だ。母ちゃんはきっと助かる。助けてやらねばならぬのだ!」
父は、自分自身に言い聞かせでもするかのように強く言った。
固い結束の看護団も日に日に疲弊した。方々の農家では、猫の手も借りたいほどに多忙な麦の穫り入れに併せて、一年じゅうでそれを超えてもっとも多忙な田植えの準備がはじまっていた。一日に何度も重なる内田医師の往診と、熱意ほとばしる施療だけが、並み居る看護団の頼りであった。病臥の母の寝息は、いつまでもつであろうか。
連載『自分史・私』、19日目
八十八夜、風薫る5月の空が照り輝く、最もさわやかな季節にあって、私は内田中学校の修学旅行に出かけていた。行き先は、二泊三日をかけての福岡市内周遊だった。私は洋々たる気分で帰って来た。道すがら土産物を見て喜ぶ、母の笑顔を思い浮かべていた。大きな声で、「ただいま」と言って、戸口元から土間を走り抜けて、母がいるはずの釜屋(土間の炊事場)へ走り込んだ。いるはずの母は、いなかった。この日、修学旅行から帰ってくるのは、手渡していたスケジュール表で、母は知っていた。いつもの母なら、こう言ったはずだ。「もう帰ったつや。早かったばいね。修学旅行は、面白かっただろだいね」。私はこの言葉を思い浮かべて、観光バスを降りて解散したのち、駆け足で帰って来たのである。ところが、釜屋に母の姿はなかった。走り回る足音もしなかった。私は釜屋から離れて、土間の上り口のところに立った。また、大きな声で、
「母ちゃん、ただいま!」
と、叫んだ。母の返りの声はなく、表座敷とは違うごんぜん(奥座敷)から、済まなさそうな表情で、フクミ義姉さんが現れた。
「しいちゃん。早かったばいね。旅行、楽しかっただろだいね。おっかさんは、向かえん畑で茶摘みばしよんなったとき、崖からつっこけて、今、寝とるなるもんね」
姉さんの驚愕の言葉だった。
私は上り口を越えて、ごんぜん(表座敷)へ上がった。そして、表座敷とは別の、茶の間の奥の姉さんが出てきた八畳の部屋を恐るおそる覗いた。母は、額にタオルを乗せて寝そべっていた。土産物のことや旅行気分は、いっぺんにすっとんだ。悲しかった。
「無事に帰ったたいね。すまんね。崖から、つっこけたもんじゃけん……」
母は、仰向けになったままに言った。
「なんで、つっこけた」
「……」
会話が途切れた。
父は昼寝の王様だが、母は昼寝用無しに独楽鼠のように働き尽くめだ。だから昼日中、母の寝込んだ姿を見るのは初めてだった。こともあろうにそれは、修学旅行から帰った日だった。私は手を変え品を変えて選んで買った土産物を母に手渡せず、とても悲しかった。
母は日々高熱に魘(うな)され、ひっきりなしに幻覚症状が現れた。あわや! 母の命は、死線を越えそうになる。どうにか持ちこたえたのちは、病臥する長患いになった。その後も母は、高熱に魘され、幻覚症状に取りつかれて、闘病の日々は厳しさを増し続けた。不断からかかりつけの「内田医院」の下、父および家族そして近場の身内総出の看護団は、一家の家族のように連携を取り合って、母の命の見守りに奔命したのである。
その中心を成した内田医院、主治医の二代目の内田青年医師の夜を日に継ぐ献身的熱意(治療)は、まさしく神がかりだった。突然降ってわいた母の闘病は、わが生涯(自分史)においては敏弘の事故に次いで、悲しい出来事に位置している。
連載『自分史・私』、18日目
毎年、元日の朝は、家族そろって食卓を囲んだ。父の音頭で新年の挨拶を交わした。『肥後の赤酒』で、猪口(ちょこ)一杯の乾杯をした。アルコールにはまったく縁のない父は、甘酒で舌を濡らした。それでも父は、すぐさま酒焼けの赤ら顔になり、大酒飲みの風体を見せて、「酔っぱらったぞ、酔っぱらったぞ!」と言って、道化者を演じておどけた。
母は釜屋へ戻り、大鍋を抱えて雑煮を運んで来た。父はまた、はしゃいだ。「雑煮ができたぞ。さあ、食うぞおう!」
「父ちゃん、今年はいくつ食うの?」
と、訊いた。
「さあ、どうかね。もう、年を取ったからね。そんなには食えんよ」
父は母の配膳を待った。
70歳に近い父は、丸餅を7個食べ、中学生の私は、6個止まりだった。
桜の花の時期になると父と私は、夜桜見物へ出かけた。行き先は決まって、内田川の澱みに名がついた「蛇淵(じゃぶち)」沿いの道路だった。ここは、近場の桜見物の名所を成していた。夜桜見物と言っても甘党の父は「花より団子」を好み、父の目当ては桜木の途切れる所にある一軒の団子屋だった。団子屋には顔見知りの高齢のおばさんがいた。村人はアズキまぶしの串団子を「あずまだご」と、呼んだ。ここでもまた二人は、数を競って食べた。二人の腹は「ふくらかしまんじゅう」のように膨れて、文字どおり団子腹になった。
「もういいか」
「もういいよ」
食べ終えると二人は、串を並べた。父が9本、私は7本だった。父は私を凌ぐ甘党だった。
父には飲料のアルコール類とタバコは、生涯まったく用無しだった。これらに変わるのは、御飯・麺類なら、なんでもござれの大食漢だった。アルコール類が飲めないのに父には、宴会は必要悪だったのか、それとも人が寄り集まるのを好んでいたのか、わが家でよく開かれた。父は、村中ではいろんな世話役をやっていた。なかでも、父が山の世話人をしていたときには、わが家でたびたび寄り合いがもたれた。会合が済むと、決まって宴会が開かれた。この日の母は、まるで宿命のごとくに朝早くから宴会準備におおわらわだった。宴会の料理はほぼ決まっていて、わが家の鶏(ニワトリ)をさばいての「鶏めしと肉汁」だった。この日のために縁の下で飼われていた鶏は、自給自足の最善の生贄(いけにえ)となった。
母は宴会準備に気忙(きぜわ)しく、鶏は宴会の気配に怯えて、共にびくびくしながら朝から動き回った。宴会は母と鶏の犠牲のうえで盛り上がり、三々五々散会した。「残り物には福がある」。私は、残り物の「鶏めしと肉汁」を鱈腹食べる幸福にありついたのである。しかし、同席で父と食べ競争ができなかったことは、今なお心残りとなっている。
連載『自分史・私』、17日目
父は高血圧症状や心臓病がもとで生じる息遣いの苦しさを「息がばかう」と表現し、たびたび口にした。高校生になって町中へ通うようになった私に父は、「薬屋で『救心』を買ってきてくれんや」と、頼んだ。「救心を服むと、息が楽になり、とてもええがね……」。この言葉がうれしくて私は、たったの一度さえ忘れずに買って帰った。確かに、救心を服んでしばらくすると、父の赤ら顔はいつもの穏やかな顔になり、ばかっていた息は軽くなった。この頃はまだ兆しだった父の心臓病は、しだいに業病になり、やがては息を止めたのである。
『救心』には後日談を添えなければならない。わが勤務するエーザイに、『救心製薬』の社長の子ども言われた男性が大学を卒えて、短い期間限定の「見習い修業社員」として入社した。私には後輩だがいずれは、救心製薬の社長ないし重役として崇めなければならない。こんなことはどうでもいい。私は初対面の彼に真っ先に向かい、心を込めて『救心』に授かった父の命の御礼を述べたのである。
私は中学生のとき、鹿本郡の中体連(全国共通の中学生陸上競技大会)において、3競技種目に出場した。一つは砲丸投げで2位になり、一つは走り高跳びで4位になった。400メートルリレーには、ふうちゃん、健次郎君、信吉君と出た。2位までは熊本県大会へ出場できた。私は砲丸投げで県大会への出場を決めた。県大会はかねて憧れの「熊本市水前寺陸上競技場」で行われた。私は内田中学校からただひとり出場した。
父は、私の出場を大層喜んだ。そして、大会前の十日間、毎日馬肉を買って来た。馬肉は熊本名物とはいえとても高価だった。父は「食え、食え、いっぱい食え!」と言って、みずから馬肉の塊を箸先で摘まみ上げ、私の小皿に移した。私の利き腕・右腕には、日に日に馬力がついた。私は頼もしげに力こぶを作っては、瘤を撫でた。
あるとき、わが家に出入りの博労(ばくろう)が、良馬という触れ込みで、「北海道産の馬」を連れて来た。父は多額の金をはたいて、その馬を買った。たぶん、北海道産という言葉に釣られ、馬に惹かれたのだろう。確かに、北海道産の馬は、父と家族の期待の馬だった。ところがその馬は、飛んだ暴れ馬で農耕には向かなかった。これに懲りて父は、それ以降は馬から牛に変えた。家族はこのことで、父を責めることはなかった。父もまた、すぐに「のんきな父さん」に戻った。
父はよく行きつけの魚屋から、無塩(生魚)の藁苞(わらづと)をぶらぶら提げて帰って来た。多くは安手のイワシ、サバ、タチウオだった。ときには金を張り込んで、「うばぎゃ」(アサリ? それとも名を知らぬ小貝の刺身)、または赤身鯨(クジラの刺身)を買って来た。不断の父には、子煩悩躍如するところがあった。顔馴染みの魚屋はそれを見透かして、常套句で父を釣った。「あたげにゃ、子どもが多いけれど、みんな良い子ばかりですな。どのぐらい計りましょうか?」まんまと釣られて父は、「四百匁ほど計ってくれんかいた」と、言っては買うようになった。子煩悩に釣られ、絆(ほだ)されて上得意へ祭り上げられたのである。
母は父が遣ることにはまったく無抵抗で、笑顔で藁苞を受け取ると、夕御飯には煮魚を食卓へ乗せた。家族も賞味にあずかれるので、不平を言う者はいなかった。父は無邪気な好々爺だった。