ひぐらしの記
前田静良 作
リニューアルしました。
2014.10.27カウンター設置
「雪害」
1月29日(日曜日)、つくづくバカな私である。雪や霰(あられ)やこんこんではなく、起きて、コンコンと咳をしている。春の足音コツコツなのに、どうやら風邪をひいたようである。日本語にあってバカは、「うすのろまぬけ」ともいう。「こんなはずじゃなかった」と言って、悔しがるのは正真正銘の「間抜け」である。だれだ! それは、「私」である。
パソコンを起ち上げると、いつもの習性に倣(なら)い、ヤフー画面のニュース項目をチラッと見遣った。すると、富山県を中心にして北陸地方は、大雪に見舞われているという。大雪のせいで交通渋滞をはじめ、住民の日常生活が脅かされているという。あらためて書くこともない、冬季特有の「雪害」である。日本列島の南に位置する九州のど真ん中・熊本県生まれの私は、子どもの頃からこれまで、雪の怖さを知らずに生きてきた。実際には18年間の生誕地(今やふるさと)生活にあっては、大袈裟に言えば降雪予報を寝ずに待って、予報どおりに降れば数々の雪遊びを愉しんだ。雪の怖さは当時、わが家購読の「西日本新聞」で知る、雪崩(なだれ)の怖さくらいだった。もちろん私は、今なお雪崩の体験はない。それゆえに私は、(雪害という言葉、あるかな?)という、半信半疑を浮かべて、電子辞書を開いた。すると、明確に記載されていたのである。
【雪害】「豪雪・積雪・雪崩のために交通機関・農作物・構築物などが受ける被害」。
冒頭で用いた「雪害」という言葉は、電子辞書を開いて確認して用いたものである。咳に加えて鼻水たらたら、鼻先ムズムズ、さらには体が冷え冷えとなり、本格的な風邪症状に見舞われている。挙句、身体のルルブルは、加速度を増している。夜明けは、まだははるかに遠い。かたじけなくも、尻切れトンボのままに文章を閉じて、自称階下の「茶の間」へ逃げ込むこととする。雪害に見舞われている人たちをおもんぱかれば、わが風邪の兆しなど嘆くには当たらない。いや、バカ丸出しの文章である。つくづく、なさけない。
清々しい、嘆き文
1月28日(土曜日)。待っていた春が、駆け足で近づいてきた。降雪予報で驚かされたけれど、雪降りなく過ぎた。降ったとしてもこの時期の雪は、もはや冬を閉めて、春の訪れを告げる、早鐘みたいなものである。冬はもう、後ずさりはしなく、三寒四温の季節用語をたずさえて、この先一歩一歩、確かな春へと近づいて行く。ゆえに寒気を嘆くのも、いましばらくである。
生きているかぎり、日々嘆くことは、ほかに数多(あまた)ある。起き立ての私は、わが身の甲斐性無しを恥じながら、亡き親(父母)の面影を浮かべて、懐かしく偲んでいる。ひとことで言えばそれは、わが不甲斐なさを省みて、親の偉さとありがたみへの追慕である。
子どもの頃の私は、熊本県北部地域の山あいの片田舎にあって、子ども心特有に天真爛漫に生きていた。もちろん、生きることの困難さなど、微塵(みじん)も感じていなかった。ところが現在の私は、一女の親になり、自分自身、日々生きることの困難さを露わにしている。親は三段百姓を兼ねて水車を回し、心許ない生業(なりわい)に明け暮れていた。ところが驚くべきことには、子沢山(14人)の親業をしっかりと為していた。私は、親が生きることに苦しんだり、嘆いたりしている様子を見たことなど、ただの一度さえなかった。本来、親とはこうあるべきはずなのに不断の私は、日々生きることに四苦八苦しながら、狼狽(うろた)えかつ嘆いている。挙句、文章を書けば愚痴こぼしばかりである。なさけなくも私は、親の遺伝子を断ち、遺徳を汚(けが)している。親と子、わが親と私自身、こうも違うのかと、やはり嘆いている。しかしながら、きょうだけは親を偲んで、清々しい嘆きである。こんな文章、投稿ボタンを押すか、押すまいかと、迷っている。わが脳髄にはバカの言葉が付く、早やてまわしの春が来ているようである。春が近づいて、寒気は緩んでいる。
日常生活のつらさ、かなしさ
1月27日(金曜日)、起きて、水道の蛇口をひねった。水が出た。きのうは出なかった。きのう出なかったのは二階の蛇口だけで、一階の台所の蛇口は、いつものように水を流した。大本の水道管の破裂は免れて、二階へ延ばしている鉄管が剝き出しにあり、そのせいで鉄管がいっとき凍っていたのであろう。のちにひねると、二階の蛇口からも水が溢れた。それでも、悔やんでも悔やみきれない、確かなあばら家の証しである。それゆえにきのうの文章には、ズバリ「あばら家のつらさ」と記した。正直なところは、つらさに加えて「つらさ、かなしさ」である。水道の蛇口は、寒暖を表すには正鵠無類である。
起き立てにあって体感気温は、きのうよりかなり緩んでいる。確かにわが家は、貧相、貧弱、みすぼらしい、お粗末など、いくら同義語を重ねても尽きない「あばら家」である。ようやく免れるのは、掘っ建て小屋くらいである。こんな建屋なのに私は、文章の中では意識して見栄っ張りのごとくに、「茶の間」と記している。もちろん実際には、「茶の間」と呼べる、洒落た部屋(スペース)はない。これまた正直に言えば、「茶の間、もどき」である。なぜならそこは、小さなテーブルを挟んで、相対にソファを置いているにすぎない。傍らには、テレビを置いている。壁付けのエアコンと置き型のガスストーブがある。これらの装置のせいと、老夫婦は日常生活のほとんどをここで過ごすため、おのずから私は「茶の間」と呼んでいるにすぎない。実際には、茶の間の体裁からは程遠いところである。しかしながら、あばら家のわが家にあってはここしか、嘘を承知でそう呼ぶところはほかにない。明らかな自演だけれど、「茶の間」と呼べば、心が和らぎ、気分が寛(くつろ)ぐところはある。それゆえに私は、似非(えせ)の「茶の間」にすがり、わが日常気分を癒している。いや、実際のところはソファに背凭れて、窓ガラスを通してふりそそぐ、暖かい太陽光線に鬱な気分を癒している。確かに、太陽光線のありがたさ横溢である。すると、太陽光線の恵みに応えて、不断の私は、まるで呪文のごとく「太陽礼賛」を唱えている。
一方、茶の間には、わが家の日常生活のつらさが凝縮している。いや、つらさはただ一点、ここに尽きる。それは相対で見遣る、互いの老いさらばえてゆく姿である。つまるところわが家の日常生活のつらさは、互いの目から見遣る配偶者の「老いの身」の確認である。姿を変えてゆく妻を見るつらさは、ずばり現在のわが日常生活における、「つらさ、かなしさ」の筆頭である。すなわちこれこそ、「あばら家のつらさ」をはるかに凌ぐ、わが日常生活における現実である。
水道水が元に戻り、寒気が緩むと、碌なことは書かない。しかしながら、書かずにはおれない、わが日常生活における、つらさ、かなしさである。
あばら家のつらさ
1月26日(木曜日)、起きて、わが甲斐性無しが身に沁みている。「しまった」、二階の水道水が出ない。デジタル時刻4:46、階段を駆け下り茶の間へ急いだ。早い目覚めではなく、たぶん、いつもの夜更かしの続きであろう? 妻は、すでに起きていた。
「起きてたの? 早く寝たら……、二階の水道水が出ないよ。失敗したね」
「そうなの? 困ったじゃないの! 水、出しっぱなしにしておけばよかったのね」
「そうだな。失敗したね!」
「水道管、破裂したのかな?」
「破裂はしてないよ。凍っているだけだよ。暖かくなれば出るよ」
「そうかなあー」
妻は立ち上がり、台所へ行った。すぐに、ニコニコ顔で戻り、「パパ、出たわよ」と、言った。「そうか。よかったなあ……」。
心塞いで余儀なく休養を決め込んでいた私は、すばやく2階へ上がり、冷え切っているパソコン部屋で椅子に腰を下ろした。長居は無用、ここで止めて再び、火の気のある茶の間へ向かう。2階の水道水はまだ出ない。
わが人生の苦しみは「生きること」
1月25日(水曜日)、起き出して来てパソコンの起ち上げは、デジタル時刻3:50である。目覚めは途轍もなく早くて、書けば人様から「前田さんは、気狂いしたのか?」と、思われそうで書けない。ただし、気狂いの自覚はない。今や寝床は、安眠を貪る桃源郷ではなく、ひたすら安眠を願う修羅場と化している。
さて、私は苦しみながら生きている。私にとって人生の苦しみは、「生きること」である。私日記丸出しに書けば、恐れていた雪は降っていないようである。夜明けて、晴れなのか、雨なのか、曇りなのか、それとも雪空なのか。窓外、暗闇にあっては知ることはできない。ただ、明らかな幸運は、窓ガラスに雪がべたついていないことである。寝床で温めていた身体は、ここまで書いただけですでに冷えている。寒さに震えてまでして、こんな実のない文章を書く必要があるの? と、自問を試みる。すると、心中の答えは、(即刻、止めなさい)である。「そうか、そうだな」、もうやめるよ。生来、優柔不断の性癖(悪癖)著しいのに、思いがけなく即決即断である。だからこの文章は、いつもにない決断の早さだけが取り柄である。文意は、わがお粗末人生の一端の披露にすぎない。
現在、デジタル時刻は4:05。15分の殴り書きで結文とするものである。「ひぐらしの記」は、多くはこんな実のない継続文で、わが生きた証しを記してきた。確かに、人生の苦しみは、「生きること」である。だったら、(もう、あの世が、いいかな?)と、ちょっぴり思う一文である。夜明けの光はまだはるかに遠く、私日記定番の天気模様を記すことはできない。
雪月花、筆頭「雪景色」
1月24日(火曜日)。寝床の寒さ対策はしたけれど、火の気のないパソコン部屋は、冷蔵庫の中みたいにも感じている。温まっていたわが身体は、たちまち冷えてブルブル震えている。こんな部屋では長居は無用。だから、わが文章に替えて、メディアの伝える記事を挟んで、ほうほうのていで再び、寝床へ潜り込むつもりである。【日本海側で危険な大雪・暴風雪 太平洋側でも積雪に要警戒 外出は控え安全確保を優先 tenki.jp】。山紫水明、雪月花。自然界が人間界に恵む風景にあって、シルバー(銀色)に彩る雪景色は、人それぞれに思いは異なるけれど、それでもたぶん最上位に位置している。私の場合は、まちがいなく最上位にある。ところが半面、雪景色を彩る雪は、降り方(積雪の嵩の高さ)によってこれまた、人間界に悪さをする最上位に位置する。確かに、水(海)も山(霊峰)も大暴れをして、人間界に大きな被害や苦難をもたらすことたびたびある。多くの人々に愛でられる花々とて、曲がり間違えば毒花もある。その点、月は待ちに待った「月見の宴」で翳るくらいで、人体に大きな悪さをすることはない。わが子どもの頃の雪降りの日の思い出は、雪だるま、雪合戦、雪掻き、雪滑り、さらにはドンブリに新雪を取り、砂糖をかけて食べた似非(えせ)かき氷に凝縮される。雪道に転ぶことはあっても、冷たいだけで痛くはなく、ほぼ楽しい思い出ばかりである。文字どおり長い氷柱(つらら)を、ポキポキ折りながら、食べたことも楽しい思い出である。雪がこんなにも人間界に悪さをすることを知ったのは18歳で上京し、以来関東地方(東京都、埼玉県、神奈川県)に住むようになってのことである。それでもその悪さは実体験ではなく、九州(熊本)に比べて、より身近に感じていたにすぎない。結局、わが見る雪景色のつらい風景は、テレビニュースに観る雪の降り様のもたらす、人々の苦しむ光景である。日本列島の多雪地方にあっては、大雪警戒警報が出ている。それゆえ、わが雪景色礼賛は慎む覚悟で、現在は起き立ての寒さを堪えている。山沿いのわが家周辺にも、雪が降りそうである。だとしたら積もらず、チラチラ小雪が舞う程度を願っている。ひたすら願うのは、警戒警報が出ている地方および地域の人々の安寧である。今や雪景色は、心中の思い出と風景で、十分こと足りる。嗚呼、寒いなあー。だらだらと、長く書いてしまった。夜明けの光(熱源)は、まだ先である。
潮時
1月23日(月曜日)、5:28に起きている。寝床の寒さはこの二日、ごく小さな「電気行火(でんきあんか)」で対策している。功を奏して、よく眠れている。ところが好事魔多し、胃部不快感に見舞われて、気分を殺がれ、この先文章が書けない。「ひぐらしの記」は、潮時なのであろう。潮時とは、平易な日常語である。だけど、案外難しい言葉でもある。使い方を、間違っているかもしれないと思い、電子辞書を開いた。
【潮時】「①潮水のさしひきする時刻。②あることをするための、ちょうどよい時期。好機。時期。」
やはり、なんだか腑に落ちない。だから、この場合は潮時を用いず、こう言いかえればいくらか腑に落ちる。案外、「ひぐらしの記」を止める決断をする時なのかもしれない。しかし、決断は鈍っている。
寒い朝。究極のマイナス思考
1月22日(日曜日)。目覚めて、胸の鼓動、腕の脈拍、確かめる。生きている。やがて、共に動きが止まる。死ねば、こんな文章さえ書けない。その点、短くても、愛しさきわまる文章である。今週には、稀なる寒気が訪れるという。だとしたら、早めに命を畳もうと思うのは、人生最良の決断なのかもしれない。しかし生来、優柔不断の私は、決断を鈍る。寒い朝、究極のマイナス思考文を書いて、閉じる。挙句、なお生存を求めて、階段の二段飛びで、茶の間へ向かう。そして、人工の暖に当たる。デジタル6:03における、いまだに消え去らぬ寝言である。
焼きが回る
1月21日(土曜日)、ほぼ一晩じゅう眠れず、仕方なく起き出している。それゆえ気分すぐれず、文章を書く気分になれない。起き立てに浮かんでいた言葉を電子辞書でおさらいし、おさらばである。【焼きが回る】「①刀の刃などを焼くとき、火が行きわたりすぎてかえって切れ味がわるくなる。②年を取ったりして能力が落ちる。」身に沁みて、つらい言葉である。
大寒
机上に置くカレンダー上には、「大寒」(1月20日・金曜日)と、記されている。言うなればきょうは、気象の上では寒気が最も厳しい、擂り鉢の底に当たる。もはや嘆くことは勿れ! 寒気は、擂り鉢の窪みに沿ってときおりぶり返しながら、確かな足取りで暖気の頂上へ駆け上る。
再びカレンダーに目を遣ると暖気は、立春(2月4日)、立夏(5月6日)を越えて、間違いなく立秋(8月8日)あたりまで駆け上る。いや、それにとどまらず真夏日は、厳しい残暑の高気温さえもたらして、ようやく暖気は打ち止めとなる。このことでは大寒は、耐えて、歓迎こそすれ嘆くことはない。まさしく大寒は、一陽来復の気分ほとばしる、季節の恵みすなわち屈折節点である。
暖入りのお先棒を担ぐのは、再来週にひかえる「立春」である。きょうは気分良く、このことだけを書けばいいのに、きのう晒した恥のことを書かずにはおれない。きのうの私は、わが日常生活における、真実一路の一端を書いた。もちろん、恥を厭(いと)うたり、覆(おお)うたり、することなく真摯にあけすけに書いた。きのうの恥晒しをあらためて記すとそれは、パソコン部屋とわが寝室における、人工の火の気のないなさけなさの吐露だった。すなわち、きのうの私は冬季にあって、火の気のない部屋におけるわが日常生活の一端を書いたのである。挙句、その主たることは、寒気への防具は身をぶるぶるふるわせるだけの我慢と書いた。結構、長い間の我慢だった。しかしながら、きょうの大寒を始点としてこの先強いられる我慢は、多くて両手指、少なければ片手指の数くらいで済みそうである。
幸いなるかな! 大寒とは名ばかりで、寒気は緩々(ゆるゆる)でわが背筋は伸びて、猫背のように丸まってはいない。それゆえ現在の私は、「大寒」大歓迎の夜明け前にある。確かに、季節や気象はときには嘘を吐く。けれど大筋には、きょうから確かな足取りで、寒気を撥ね退けて暖気の頂上へ駆け上る。春の兆しはもはや兆しとは言えず、コトコトドンドン、確かな足取りで近づいている。