ひぐらしの記

ひぐらしの記

前田静良 作

リニューアルしました。


2014.10.27カウンター設置

内田川(熊本県・筆者の故郷)富田文昭さん撮影

 

「スポーツの日」(10月14日・月曜日)

 現在はまだ夜明け前(4:48)。娘の家族の迎えで一緒に、車で「河口湖」への行楽へ向かうため、文章は書けません。事故に遭遇すればこの文章で途絶え、無事に帰宅できればこの先へ続きます。わが人生における、最後の行楽をほのめかす誘いゆえに、断り切れません。何らかのトラブルに遭いそうで、気分はウキウキせず、いや慄いて後ずさりしています。娘夫婦は共に、難病に脅かされています。そのため、不断のわが日暮らしに、ウキウキ気分はまったくありません。いっときの気分晴らしを願ってはいますけれど、そうにはなりそうにもなく、不安に取りつかれた名前負けの、「行楽」にならないことを願っています。

「秋の朝」、つれづれ

 あすの「スポーツの日」(祝休日)を控えた中日(10月13日・日曜日)、夜明けの頃はとうに過ぎて、朝と言える「時」に起き出している。だけどいつもとは違って、熟睡と安眠がともなった気分の好い朝寝坊である。ところが自然界は、これにさらなる好気分を上乗せしてくれている。目覚めると私は、部屋の明るさに驚いて大慌てで起きた。そして、元からカーテンの造作のない前面の窓ガラスは要なしに、ほかの窓ガラスに掛かるカーテンのすべてを開いた。すると見渡すかぎりに、全天候型の胸の透く日本晴れの「秋の朝」が訪れていた。むかし、「体育の日」(10月10日)と言っていたこのあたりは、初秋、中秋、晩秋という、秋の三区分の中にあってもやはり、好季節の真っ只中にある。ようやく自然界(気象)は、きのうの三連休の初日(10月12日・土曜日)あたりから、本来の秋の恵みをもたらしている。あしたもまた日本列島には隈なく、「スポーツの日」にふさわしい好天気が訪れそうである。ここにきて自然界は、本来の秋の恵みを人間界にもたらすだろう。これに関して願うところは欲深く、地震を筆頭とする天変地異が起きないことである。
 現下の人間界いや日本社会は、衆議院の解散にともなう、立候補者の公示日(10月15日)を前にして、総選挙(選挙運動)の走りにある。そして、その投開票日(10月27日(日曜日)までのこの間は、まさしく人間のこころ善悪、剥き出しの選挙戦になり変わる。できればこれに呼応し自然界は、これまたわが欲深く、雨傘要らずの街頭演説を恵んでほしいと願うところである。
 朝が昼へ向かうにしたがってきょうもまたわが心は急いて、挙句文章はまったく実のない殴り書きと走り書きに陥っている。ゆえにこの先を苦しんで書いても文章にはならず、加えてせっかくの好気分は塞ぐばかりである。ゆえにここで、結文とするところである。
 きのうのクライマックスシリーズ第一戦は、わがファンとする阪神タイガースは、横浜ベイスターズに敗れた。きょうの第二戦に敗ければ、たちまち万事休すである。幸いにもきのうの負けによる憂鬱気分は、「秋の朝」が恵んだ好気分でかなり和らいでいる。できればこれまた欲深く、きょうはテレビの前で妻と相和して、タイガース応援グッズの一つ、メガホンをときには口にあて、ときには力いっぱい打ち鳴らしたいものである。秋天高く日本晴れの甲子園球場には、球場の収容定員(47、400人)満杯までに、観衆が訪れるだろう。涙にはうれし涙と悔し涙がある。テレビの前の二人の瞼には、どちらかの涙が溜まりそうである。
 こんな文章! こころ急(せ)いてまで無理して書く価値はない。自分自身がしでかした罪(駄文)なのに、ちょっぴり恨んでいる。身勝手に罪をほかになすりつければ、好気分をもたらした「秋の朝」のしわざなのかもしれない。

ようやく訪れた秋晴れの下で、思う

 不確かだった「夜明け」と「朝」の違いは、きのう開いた電子辞書の説明書きで、ようやく確かなものとなった。10月12日(土曜日)、来週の「スポーツの日」(10月14日・月曜日、祝休日)へ繋ぐ、三連休初日の夜明けを迎えている。「朝」とは、こののち正午あたりまでを言う。朝が過ぎれば「昼」となり、昼が暮れれば「夜」となる。明ければ次の日(翌日)の夜明けが訪れる。24時間を経て、一日は回って行く。それにちなむ人間の営みは、文字どおり「日暮らし」である。なんだか今の私は、学童時代の「綴り方教室」へ戻り、学び始めの文章を書いている。
  もちろん、いつものように起き出して来るや否や、ネタなく綴り始める文章にすぎない。だけど、せっかくだから「綴り方教室」へ遡り、今心中に浮かんでいることの書き添えをつらつらと試みる。もとより、何が飛び出さすか不明の文章ゆえに、不都合すなわち、ふるさと言葉に置き換えれば「気色悪い」文章になれば、平にお許しをこうところである。
 当時、私たち内田小学校一年生そして二年生までの持ち上がりのご担任は、見目麗しくうら若い渕上孝代先生だった。先生はのちに、ご同僚の平先生へ嫁がれたので、現在は「平先生」とお呼びしている。ご長男のお嫁さんの平洋子様は、ときおり掲示板へふるさと情報をご投稿されて、同クラスだったふうちゃん(ペンネーム・ふうたろう)や私にたいし、平先生のご近況を伝えてくださっている。恩師(お義母さん)と教え教え子たちとを、絶えず結んでくださる洋子様のお心遣い、さらにはお義母さんへの飛び切りの優しさに出合うと、私は常にこの上ない感謝と感激にうちひしがれている。
 恩師・平先生は、今は亡きわがふるさとの長兄と同級生であり、はたまたお義母様もまた、生誕地の集落と学級を共にした仲の好い友達であられたと言う。恩師・平先生の現在のご年齢は95歳と推察するところだけれど、洋子様はいまなおお元気とお伝えくださっている。ゆえに私たちは、安堵していっそう長生きされることを願っている。
 現在、格好の「実りの秋」の季節である。秋らしくなく長く愚図ついていた秋は、気象予報士の予報に違わずようやく、胸の透く秋晴れが定着しそうである。ふるさとにあってはたぶん、山には山栗や山柿あるいは山葡萄が生り、里の野には栗、柿、梨、蜜柑などの果物が盛り迎えている。さらには新米の収穫に絡む農作業は、喜びに溢れながら多忙を極めている頃であろう。しかしながらそれらゆえに、わが心中によみがえる現在のふるさとは、一年じゅうでもっとも絵になる美的風景である。
 三連休にあって、それに見合う秋晴れになりそうである。この間のわが関心事は、きょうを第一戦として始まる、プロ野球クライマックスシリーズ、阪神タイガース対横浜ベイスターズのテレビ観戦である。文尾にあたり、洋子様へひとこと。起き出して来てネタなく、成り行き的な文章を綴ってしまい、たぶん朝ぱっらから「気色悪い」思いをさせていたとすれば、再び平にお許しをこうところである。
 手のろの文章は、夜明けから朝までかかってしまった。重ねて、わが恥である。しかし、恥を蹴散らして、秋天高い日本晴れが朝日に輝いている。おのずからわが気分は、すこぶる良好である。

謝意、感謝と謝り

 10月11日(金曜日)。昼間に比べて夜間は「冬至」(12月21日)へ向けて、視覚的にも体感的にも日々少しずつ長くなり、そのぶん夜明けは遅くなっている。このところの私は、目覚めて起き出してくる時間にばらつきを被り、とりわけ遅い時間の起き出しには、慌てふためいて心が急いている。もちろんそれは、文章を書く心境をやたらとせっつかれるからである。挙句にはネタを浮かべたり、探したりする余裕を奪われて、いつも同じような寝起き時の天気に絡む文章を書く羽目になり、自分自身飽き飽きし、書き止めを決意した。自分自身の不甲斐なさや遣る瀬無さだけではなく、掲示板を汚し人様へ迷惑をかけるなさけなさが身に沁みているからである。
 きのうはこんな状態のわが心境をあからさまに吐露し、さらには恥を忍ばず文章に記した。まさしく、恥の「掻き捨て」である。同音異義を用いれば、まさしく「書き捨て」こそ妥当であろう。ところが、「捨てる神あれば拾う神あり」。私は二人の神様、すなわち一人は女神の大沢さま、そして一人は男神の高橋弘樹様に拾われたのである。しかし、救われたかどうかはまだわからない。確かにきのうの私は、決意にすぐに止めを刺そうという心境にあった。ところが、お二人の神様からメッセージ付きのエールを賜り、決意は先延ばし、こちらは恥を忍んでまだ続けようかなと現在、心境が揺らいでいる。しかしながら書けばやはり、様変わりしない文章になることはみずから請け合いである。
 自然界現象(気象)、すなわちきょうの夜明けは、きのうとはまたっく異常(異質)と思うほどに様変わっている。実際のところきのうの夜明けには、台風並みの雨嵐が荒れ狂っていた。つれて寒気もひどく、大慌てで私は、準冬防寒重装備で身を包んだ。今にもぶり返しそうな風邪は、確かな効き目をおぼえている風邪薬を間を置かず二度服用し、寸でのところで防いだ。きのうと様変わるきょうの夜明けは、荒れ狂った雨風は消え去り、そよ風が視界の木々の枝葉をのどかに揺らしている。見渡す大空はこれぞ秋の日本晴れ! 朝日にキラキラと照らされて、大海原のごとく青く光っている。きのう酷い寒さを感じた肌身は、これまた大慌てで元の着衣に戻しても、寒気はほどよい心地良さにある。
 パソコンを起ち上げるや否や私は、電子辞書を開いて不断、不確かさをおぼえている言葉を確かめた。なんとそれは、「朝と夜明け」の時の区分である。
 朝:(古代には、昼間を中心にしたときの表現法と夜間を中心にしたときの表現法があり、「あさ」は昼間を基準にした「あさ」「ひる」「ゆう」の最初の部分)夜明けからしばらくの間、また、正午までの間。
 夜明け:夜が明ける時。東の空が白んで、うす明るくなってくる頃。あけがた、あかつき。
 わが寝起きは、あるときは「夜明け」になり、あるときは「朝」へ間延びする。けれどわが命の鼓動は、まだ一日のこのサイクルの中で動いている。84歳、だから幸運な生命を嘆かず、私は恥など「知らぬが仏」で、しばらく「書かない決意」の先延ばしをわが肝に命じている。言葉違いの「銘」ではなく、脳髄からの肝への「命令」である。
 実のない文章を長々と書いてしまい、平に御免蒙りたいものである。わが命の鼓動は、夜明けから朝早いところで、「もう、起きろ!」と、病みのない正規鼓動を繰り返してくれている。とてもありがたく、だからそれに背かず、もうしばらくは「もう書きたくない決意」の離散を願っている。
 普段と違ってこんな良好な気分は、二人の神様に励まされ、同時にようやく訪れた好季節が恵んでいるのであろう。きょうの私は、人と季節の相なすコラボに恵まれて、いつものマイナス思考を遠のけている。しかしやはり、こんな気分の制限時間切れに慄いている。時間があると、こんどは駄文を書きすぎる。早い起き、朝寝坊、どちらも文章は様にならない。

なんだかなあ……の気分

 目覚めても布団の中から抜け出せず、寝坊助状態で心が急いている。きのう(10月9日・水曜日)の寒さは、身体にはひどく堪えて、おのずから心は萎えた。昼頃までは強さの段階を上げて、小型、中型、そして大型へと、台風並みの雨嵐に見舞われた。それが止み去っても、日光を見ることなく、寒い一日に終始した。わが身体は寒気でゾクゾク感を被り、私は大慌てで着衣を冬着スタイルに替えた。同時に恐れたのは、治ったばかりの風邪がぶり返しそうになった。夏風邪を拗らせて長引き、それがようやく治ったばかりだった。
 夏風邪という言葉は、電子辞書にも記載があり、俳句の季語にもなり日本社会に認知されている。一方、秋風邪や冬風邪さらにはオマケに春風邪という言葉は、電子辞書には記載がないことを知りながら、バカ丸出しにあえて私は、また電子辞書を開いて確かめた。当り前だがこれらはなく同音異語として、秋風、冬風、春風の記載に留まっていた。もちろん、夏風の記載はある。結局、夏風邪は季節外れの現象で、それをひくのは尋常でない証しであろう。
 確かに、夏風邪をひくのは愚か者(バカ)の証しであろうか。寸でのところで私は、再びの風邪は免れている。しかし、渋々起き出して来た身体は、きのうの寒気を引きずり冷え冷えである。雨は止んでいるけれど強い風が残り、さらにはまだ朝日が雲隠れしているせいであろう。
 ところが、きのうの気象予報士の予報によれば、この先一週間ほどは晴れの日が続くと言う。そうであれば寒気はともかく、ようやく本来の秋の気候、すなわち天高く澄んだ秋晴れが望めそうである。その兆しなのか、まだ朝日の輝きはないけれど、大空は少しずつ明るみ始めている。
 ネタなく、起き立ての天気に絡んで、いつも同じような文章を書く私は、つくづく哀れである。継続だけを願って無理に、こんな実のない文章を書くのはもうこりごりで、打ち止めにすべきであろう。私は寒気に加えて、自戒に苛(さいな)まれている。

願望は叶わず「雨嵐」

 きのうの昼間へ向かっての豹変、すなわち秋晴れ願望は気象に背かれて、叶わずじまいだった。ゆえに願望は余計につのり、きょう(10月9日・水曜日)の夜明けを迎えている。ところが起きて来て、驚くばかりの小型台風並みの「雨嵐」が暴れている。雨嵐の表現は、わが目と耳が感知する現在の状況に照らしている。目は滂沱の雨と山と空き家に残された植栽に立つ、木々の大揺れを見ている。耳は補聴器を嵌めているため、窓ガラス、雨戸、そして戸袋へ、間断なくぶち当たる音を捉えている。見聞する暴れようから、小型並みと言うのは段階を上げて、中型の台風並みに置き換える。
 机上のカレンダーを眺めている。きのうの繰り返しになるけれど、まもなく「スポーツの日」(10月14日・月曜日)が訪れて、好季節の秋にあっても、その最良にある。カレンダーに罪はないけれど、自然界の恵む季節はなぜこうも? こんな罪作りをするのかと、恨めしい気分横溢である。不断の私は、わが憂鬱気分直しにすがり、「自然界賛歌や礼賛」に満ち溢れている。しかしながら、このところの愚図つく天候に出合っては、そのたびにこの思いは陰るばかりである。秋の季節は長く、初秋、中秋、そして晩秋へ移りゆく。すると今や、晩秋へ近づいている。ところがこれまでのところこの秋に、私は胸の透く秋晴れに出遭った記憶がない。もったいないというより、腹の立つ季節の裏切りである。
 きょうもネタが浮かばず、たった一つだけを記すつもりでパソコンを起ち上げた。すると、飛んだ夜明けの雨嵐に遭って、序章とは言えない無駄な文章を書いてしまった。すなわち、記すつもりだったのはこれである。衆議院はきょう解散し、選挙戦に入る。前の岸田文雄総理に替わり、新たに石破茂総理が誕生し、そしてその内閣まもない選挙戦である。野党第一党の立憲民主党もまた、前の泉健太代表から、新たに野田佳彦代表へ替わっている。ただこれだけのことを書くつもりだった。どうせテーマのない雑文、ならばこのことも書いて置こうと思っている。死刑確定者となっていた「袴田事件」の袴田巌さん(88歳)は、検察が控訴せず無罪となられた。こちらは、きのう飛び交ったニュースである。
 段階を上げて中型台風並みと記したけれど、雨嵐は起き出し時よりいっそう強く暴れており、さらに段階を上げて大型台風並みと記してもよさそうである。選挙もまた、大嵐になりそうな予感が渦巻いている。

「秋、万々歳!」

 10月8日(火曜日)。夜明けは雨こそ降っていないけれど、朝日は見えずどんよりと曇っている。いや、今にも雨が降りそうである。来週には「スポーツの日」(10月14日)を控えて、もとより好季節の秋にあっても、一年じゅうで最も好い頃にある。ところがこのところは昼間にあっても、秋天高い秋晴れは望めていない。心急くほどにもったいない気分をもたらしながら、好季節はおかまいなく冬日へ向かっている。
 途中、どこへ消えたかわからないままに台風17号と18号は、幸いにも大きな災いをもたらすことなく去った。しかしながら、長く続いている悪天候はやはり、不運にもこれらの台風の捨て鉢の置き土産だろうかと、勘繰りたくなる。人間、いや私の気分は、一日にあっても、夜明け、昼間、そして夕暮れの天気の良し悪しで様変わる。それなのに、四季にあって最も好季節と定評のある「秋」にあって、こんな「ザマ」では確かにもったいなく、かなり腹の立つところがある。
 こんな苛立つ気分を和らげてくれるものには、買い物において売り場で遭遇する「実りの秋」のお出ましがある。長く空き棚になっていたコメ棚は、おおかた早出しの新米で埋められている。見違えるほどに眼福と食欲をそそる素敵な光景は、果物フロアにおける秋の果物の勢ぞろいぶりである。すなわち、栗、蜜柑、柿、梨、葡萄、などの競い合いである。林檎は季節おかまいなく並んでいて、愚かな私は、林檎の季節は知らずじまいである。これらに本来は山育ちのはずの、今や栽培物の木通(アケビ)や郁子(ムベ)などが、後追いでやがて売り場に現れる。はたまた、料理(レシピ)に欠かせない酢橘(スダチ)などの柑橘類も、数多お出ましである。
 このところの天候にはいっとき難癖をつけても、やはり私は、秋の季節を毛嫌いすることはできない。風邪が治りそれにともなうネタ切れにあって、きょうは書けず休むつもりだった。けれど、「実りの秋」のおかげで、こんな文章へたどり着いた。やはり、「秋、万々歳!」である。
 秋の天気は一気に様変わるけれど、昼間は秋晴れになるだろうか。ただいまだに、小雨が降りそうな曇り空である。

夏風邪治り、ネタ切れ文

 10月7日(月曜日)。ようやく中秋にふさわしく晴れて、のどかな朝が訪れている。このところの天候はまるで、好季節を忘れたかのように長く、愚図ついていた。わが身体は長く夏風邪を引きずり、この間のわが気分は、憂鬱(感)を極めていた。きのうの私は、雨上がりの乾いた道路を独り、3時間ほどかけて綺麗にした。いつもの倍ほどの時間がかかったのは、落ち葉の量の多さ、長雨の後の汚さなどに加えて、さらには普段はしない他人様の領域へ入り込みそのため余計、丁寧に仕上げたためだった。わが領域をしているうちに自然とそうしないと、わざと残していじわるでもしたかのように、気分が塞いでいたからである。
 起き出して傍らの窓際に立ち、窓ガラスに掛かるカーテンを開いて、見渡せるかぎりの道路を眺めた。ところどころに夜間の落ち葉はあるものの道路は、いまだきのうのわが掃除の後の綺麗さを留めていた。私を長く苦しめていた夏風邪は、きのうでぴたりと消えた。だからこの間、ほぼ夏風邪一辺倒のネタは、幸いにもきょうから書き止めとなる。ところが一方、この先はネタ切れには悩まされる。けれど、憂鬱気分は去って幸運である。ネタなく、こんなことを書き出している。
 千切らずに一つ残している柿の実は、先ほど眺めるとかなり明るんでいる。柿の実は、生ったままに放っておけばやがては熟柿になる。そして、晩秋の野の絵になる風景の王者となる。一つ残したのは、郷愁に駆られてこの風景を見るためであった。ところが私は、たった一つだけどきょう千切り、食べようかと思っている。わがお里の知れる浅ましさである。浅ましさの発露はこうである。残しても、かつてタイワンリスに齧られた悔しさがよみがえるからである。しょっちゅう、カラスも飛んでいる。山のメジロにつつかれるのはいいけれど、無邪気なメジロがあくどいこれらに適うはずはない。結局、これらに負けず先取りできるのは、わが浅ましさである。しかしながら私とて、その敢行には今なお迷い、苦しんでいる。
 朝日は秋天高い日本晴れを隈なく照らしている。ようやく胸の透く秋晴れの訪れにある。この文章を閉じれば、綺麗になっている道路にしばし佇み、未練がましくたった一つ残る柿の実を見上げるつもりである。生来、優柔不断の質(たち)の私だからその場で、どうするかの決断はつきそうにない。

文章は日曜日

 10月6日(日曜日)。買い替えた風邪薬はたった一度の服用で、副作用なく症状を止めました。うれしくて、繰り返します。夏風邪は治りました。ほぼ、夜明け頃の定時に目覚めています。ただ、起きることなく、二度寝をむさぼります。夜明けの様子は、雨、風、曇り、晴れ、いずれか、わかりません。

夏風邪と逆らう風邪薬

 10月5日(土曜日)。起き出して来るや否や私は、傍らの窓ガラスを開けて、右腕を空中へ伸ばし、手の平を広くして振ってみた。雨粒が二つ当たった。私は直下の道路を凝視した。道路には隈なく落葉が散乱し、道路そして落葉共に、生々しく濡れている。就寝中は気づかなかったけれど、結構強い風雨の夜の証しである。しかし現在は、夜来の雨は今にも止みそうな小雨模様である。就寝中の私は、用無しの補聴器は両耳から外している。さらに、メガネや入れ歯も用無しのため、三つの器官補助器は外している。メガネや入れ歯はともかく、補聴器を外しているせいで、かなり強い雨・風だったようだが、知らぬが仏で寝入っていた。
 さて、私は自認する愚か者である。就寝前にあっては、まだ風邪薬を服んでいる。おとといまでの私は、「コルゲンコーワの鼻炎カプセル」を服んでいた。ところがこれが切れて、きのうの私は風邪薬を目当てに、買い物に出かけた。行き先は、普段のわが買い物の街「大船」(鎌倉市)である。いろんな買い物メモは後にして、私は真っ先に馴染みのドラッグストア「ダイコク」へ向かった。風邪薬と表記されているコーナーにしばし佇み、値段を比べかつ効きそうなものを目や手で漁った。入店前は迷うことなく、切れた従前の物をさっと手にするつもりだった。ところがその場にあって、長く迷ってしまった。挙句、購入を決め手にしてレジへ向かったのは、外箱に「エスタック総合感冒」と記された風邪薬だった。私は長年馴染んでいた風邪薬に、とうとうこの場で見切りをつけたのである。
 就寝前に、新たな風邪薬を服んだ。起きて、今なお効いたかどうかはわからない。効き目の確信には一つ、主訴あるいは副作用など構わず、こんな証しがある。確かなところではそれは、確かな副作用だが寝坊助を被るかどうかがある。ところが今朝の私は、寝坊助を被ることなくすんなりと起き出している。これを鑑みて現在の私は、効き目は副作用さえない風邪薬を買ってしまったのかと、案じるところにある。
 私は市販の風邪薬に頼り、夏風邪を拗(こじ)らせている。ゆえに現在の私は、後の祭りだが当住宅地にある掛かりの「S医院」へ、風邪の兆しのおりいち早く行くべきだったと自戒している。長引いている夏風邪に纏(まつ)わる、悔しいこれまでの顛末(てんまつ)である。これまでと区切りをつけた顛末ゆえに、本当の顛末はまだ先送りである。
 小雨は止んでまだ朝日は昇らないけれど、秋の空特有にのちには晴れるだろう。買い替えた風邪薬の著効、いやそれどころか効き目は、まったく感じていない。眠くはないけれど、鼻先がムズムズしている。