ひぐらしの記
前田静良 作
リニューアルしました。
2014.10.27カウンター設置

内田川(熊本県・筆者の故郷)富田文昭さん撮影
恨めしい朝日の輝き
7月12日(水曜日)、時間はまだ早いけれど、日長の頃であり、薄っすらと夜明けが訪れている(4:29)。大空は、淡く彩雲をちりばめている。未だに梅雨の合間の晴れの夜明けだろうか。それとも、気象庁の梅雨明け宣言のしくじりによる、すでに梅雨が明けている夏空の晴れだろうか。どちらにしても穏やかな大空の眺望である。
ところが、こんな暢気な表現はご法度である。このところのテレビ映像はほぼ連日、九州地方を中心にして所を変えて、豪雨惨禍の恐ろしさを伝えている。豪雨のもたらす災害は、洪水、増水、濁流など、加えて土砂崩れや山津波(鉄砲水)などである。とりわけ洪水は、住宅や田園を水浸しにしたり、土砂崩れは直下の家屋を倒壊させる。もちろん、死亡者および行方不明者という、人の命を絶つ惨禍は、そのたびに多大である。
わが生誕の地は、当時の熊本県鹿本郡内田村(現在、山鹿市菊鹿町)である。生家は「内田川」の川岸に建ち、生業は内田川から分水を引いて水車を回し、精米業を営んでいた。それゆえに私は、豪雨のたびに生家(母屋)の裏を流れる内田川の増水の恐ろしさを体験している。内田川にかぎらず、川の増水の恐ろしさは、洪水災害を引き起こし、まさしく「百聞は一見に如かず」であり、テレビ映像に観るとおりである。土砂崩れの恐ろしさもまた然りである。川上から轟轟(ごうごう)と唸りを立てて、岩石、材木、家屋の調度品(畳など)が流れゆく光景を見遣る心境は、もはや生きた心地などあり得ない。この光景の恐ろしさは、今でもわが心象のトラウマ(心的外傷)となり、テレビ映像を観るたびにわが心中を脅かしている。
ところがきのうは豪雨災害の映像に加えて、関東地方のある地域における竜巻惨禍も映し出された。竜巻は未体験だが、一瞬にして家屋が吹っ飛ぶ光景の恐ろしさはこれまた限りなく、残念無念の心地である。
朝日がのどかに輝き始めている。しかし、きょうの夜明けだけには恨めしく、このところ続いている自然界賛歌は、パタッとお預けである。
きょうもまた、朝日すがり
7月11日(火曜日)、朝日は未だ起きずに、雲隠れ中である。私はすでに起きて、身につまされた思いを浮かべている(4:25)。私はこの先あと何度、朝日を迎えるであろうか。それまでわが命、持つであろうか。
きのうの私はまさに「恩に着る」、朝日の輝きに後押しされて、気の乗りのしない予約済の歯科医院へ向かった。予約時間は午前10時、定期路線バスに乗車し、9時45分頃に、外来待合室へ入った。待合室に人の姿は見えず、院内特有のひっそり閑が漂っていた。院長先生はじめスタッフの姿も、受付の開いた小窓越しに垣間見えず、集音機を嵌めた耳にも、足音や物音を感じない。私はこの日もまた、帰りの買い物を考慮し、国防色の大きなリュックを背負い、出かけてきた。リュックの中から分厚い財布を取り出した。財布が分厚いのは札のせいではなく、数多の診察券とポイントカードを含むカード類の多さのせいである。加えて、健康保険証や介護保険証も、膨らみに一役買っている。窓口係(奥様)の姿は見えない。それでも私は、窓口に置かれている「診察券と保険証をここに入れてください」の表示のある箱に、意識して、聞こえるように「ドスン」と入れた。ドスンが呼び水になったのか、すぐに奥様が小窓を開かれて、診察室の方へまわられた。こんどは、診察室のドアを開けて、「前田さん、お入りください」と、一声かけられた。私は(あれ! 早いな)と、怪訝(けげん)な面持ちで、「おはようございます」と言って、神妙に診察室へ入った。診察室には院長先生、奥様、そして一人の顔見知りの若い女性・歯科衛生士の姿があった。歯科衛生士は、三つほど並んでいる診療椅子の一つに、私を導かれた。私はリュックを足場の所定のところに置いて、そのうえに外したマスクと眼鏡を置いた。診療椅子に腰を下ろした。横に置かれている紙コップを手に取り、勝手知った口すすぎを三度した。院長先生がそばに来られた。私は「おはようございます。よろしくお願いします」と、言った。診療椅子が倒されて私は、院長先生が診療しやすいように、生来の大口をさらに精一杯開けた。患者・私の唯一の切ない優しさである。院長先生は早口で、この日の施療の説明をされた。長ったらしい序章はこれまで。いよいよ、厳しい宣告の訪れである。院長先生の言葉が、わが耳を覆ったのである。
「治療が終わるまで、最後の入れ歯を入れるまでには、この先2か月ほどかかります。9月半ばころまでかかります」
大口を開けていた私は、納得や抵抗の言葉は吐けなかった。
この日の診療は終わった。渋々私は、診察室から離れて、立ち居振る舞いをされている院長先生の横を「ありがとうございました」と言って通り、診察室を出た。このとき、院長先生の呼応なく、わが気分は沈んだ。
待合室へ戻りしばらく、ソファに座っていた。受付の小窓が開いて、「前田さん」と呼ばれた。やおら立ち上がり、小窓へ近づいた。「お待たせしました」「お世話になりました」。次回の予約日の応答の末に、「次回は、7月18日、火曜日の午前10時です」と、決められた。私はこの先の2か月、(何をされるのだろう?……)。腑に落ちない気分で院外へ出た。この先の買い物めぐりには、さらに腑に落ちない気分がいや増していた。挙句、やけのやんぱち気分が旺盛だった。2か月、わが命は持つであろうか。
すっかり夜が明けて、朝日は皓皓と輝いている(5;20)。きょうもまたわが気分直しは、朝日すがりである。
恩に着る、朝日の輝き
7月10日(月曜日)、久しぶりに二度寝にありついて、ぐっすり眠り起き出して来た。すると、朝日がキラキラ輝いている(5:50)。胸の透く愉快な気分である。きょうには気分の重い歯医者通いがある。予約時間は午前10時である。朝日の輝きは、重たい気分を和らげている。まさしく恩に着る、幸先の良い朝日の輝きである。朝日は気分の重い歯医者通いを、(気にするな、行け行………)と、後押ししている。きょうはこのことが書けて、大満足である。だから、これだけを書いて文章を閉じ、恥じを晒してもまったく悔いることはない。いや、棚から牡丹餅気分でひとしきり、自然界賛歌を唱えたい。「日光けっこうコケコッコー」の気分である。丁寧に歯を磨いて、歯医者通いの準備に取りかかろう。朝御飯は抜こうかな。いや、昼御飯の難渋を思えば、早い朝御飯になるだろう。
朝日の輝きは、青天上に白無垢姿の花嫁を見ている思いである。気象庁がこれに梅雨明け宣言を重ねれば、二重の自然界讃歌となり、ひとしきりでは済まない思いが充満している。
また、朝が来た
7月9日(日曜日)、きのうの朝の空模様を繰り返し、曇天の梅雨空を眺めている。網戸から入る風は冷ややかに、わが身に吹きつける。夏風、秋風、それともまだ梅雨の風。こんなことはどうでもいい。ネタのない文章の行間埋めに、書いたにすぎない。ただ、きのうとは異なる、確かな朝が来たことだけは明確な事実である。
朝が来れば起きなければならない。夜になれば寝なければならない。この間に人は、生きるための活動(生活)をしなければならない。生活の基本は、命を絶やさないための食べることの繰り返しである。しかしながらそれには自給自足では賄いきれない、食材購入のためのお金が要る。もちろん生身の人の体は、命絶えるまで無病息災などあり得ず、多額の医療費が必要になる。人は、ひとりでは生きられない。老いては茶飲み友達が欲しくなる。若いうちには恋愛もしたくなる。あわよくば結婚もしたくなる。おのずから交際費が必要になる。結婚すれば必然と、子どもが生まれてくる。親のメンツが擡げて来て、わが子をバカ呼ばわりはされたくない。これまた必然と教育費が嵩んでくる。(朝が来たから起きよう、夜になったから寝よう)とはいかなくなる。結局人は、他人様との競争場裏において、お金稼ぎの行動を強いられる羽目となる。競争にあっては天賦(生まれながらの富裕族)でないかぎり、過酷な労働を強いられる。
人生とは、ざっとこんなものであろう。人生の晩年を生きる、わが身に照らした人生論のほんのさわりである。10分間ほどの書き殴りで、こんなことしか書けない「ひぐらしの記」は、確かな終焉の時を迎えている。パソコンを閉じれば、道路の掃除と庭中の草取りを予定である。無償であっても人には、余儀ない様々な日常生活がある。幸か不幸か私にも、まだ様々にある。明日には歯医者通いがある。これも、その一つである。御飯を美味しく食べる楽しみが無くなれば、もはや生きる価値(甲斐)はない。
のどかに、朝日が輝き始めている。愚痴はこぼすけれど何度来ても朝は、純粋にわが心が和むときである。
朝が来た
7月8日(土曜日)、曇天の梅雨空の朝が来た。梅雨は明けそうで明けない。一年のめぐりはやけに早い。この先、わが身辺にはどんなことが起きるのか。いよいよ、「ひぐらしの記」は終焉の時が来た。起き出して来て、わが心中に浮かんでいることを書いた。自己診断では内蔵器官に自覚症状なく、異状は無さそうである。手に負えないのは精神、すなわちモチベーション(意気)の低下である。ただこちらも、精神破綻を来している自覚はない。だから、さわやかな夏空が来たら案外、心身共に健全に戻り、意気軒高になるかもしれない。
来週にはこんな予定が詰まっている。10(月曜日)、歯医者。14日(金曜日)、内視鏡検査の要否相談のための「大船中央病院」への通院。15日(土曜日)、次兄初盆。そしてこの日は、わが誕生日(83歳)。確かに、じたばたしても、どうにもならない。ところが、「どうにでもなれ!」と嘯(うそぶ)く、豪胆さが自分にはない。自分自身にたいし、恨みつらみつのる夜明けである。この先が書けない。
七夕
7月7日(金曜日)、寝床で目覚めたままに夜が更けて、淡い夜明けが訪れている。もとより、疲れを癒すはずの寝床にあって、逆に疲労困憊を極めている。挙句、寝不足に陥り、気鬱症状と朦朧頭のコラボレーション(抱き合わせ)状態にある。人生晩年における、つらくて、悲しいわが営みである。こんなこと、私日記なら臆せず気楽に書ける。しかし、ブログでは恥をさらけ出し、呻吟しながら書いている。まさしく、文章を書くわが身の祟りである。文章は楽しく書けば、おのずから明るい文章になる。ゆえに、気乗りのしない文章は書くべきでないと、常に自戒するところはある。それでもパソコンを起ち上げるのは、継続の途絶えを恐れるわが身の浅ましさである。
淡い夜明けだったけれど、本格的に太陽が目覚めて、幸いなるかな? 光を強めている。このぶんなら、七夕の夜にあって彦星様と織姫様は、天の川を挟んで一年ぶりの逢瀬が楽しめそうである。
翻って人の世は、明けても暮れてもセクハラや不倫報道ばかりが旺盛である。ひとしきり、天上の一途な恋模様に横恋慕をすれば、わが気鬱症状は癒されるかもしれない。近くに七夕飾りがあれば、一つにかぎらずいくつかの短冊に、それでも書き足りないほどの願い事を書きそうである。短冊に代えてここで書けば、願い事は叶わぬままに、人様の嘲笑を買うだけになりそうである。にっちもさっちもいかない、七夕のわが暮らしである。
雨の梅雨空
7月6日(木曜日)、パソコンを起ち上げてしばし、雨戸開けっ放しの前面の窓ガラスを通して、大空模様を眺めている。模様と表現することもない、一点の曇り空から雨が降りしきるだけである。あえて模様と表現するには、単一の空模様ではなく、錯綜する心模様が適当である。なぜなら、心模様には様々なものが浮かんでくる。主に九州地方の豪雨惨禍で、梅雨明けかな? と、思えていた。ところが、自然界はこれだけでは物足らず、さらにはどこかに災害をもたらしたのち、梅雨は明けるのであろうか。
あれ、雨をかぶりながら、電線に一羽の小鳥が飛んで来た。羽を振るわせ雨を落とすと、すぐにどこかへ飛んで行った。名を知らぬ小鳥は、慣れているはずなのに梅雨空に、戸惑っているのであろう。突然、見たままのことを書いてしまった。
雨の梅雨空を眺めながら私が浮かべていたのは、望郷につのるこの時期のふるさと光景だったのである。実際には子どもの頃のこの時期に、しょっちゅう眺めていた大空が髣髴していたのである。ありえないけれどもし仮に、眺めている大空の下、水田があれば当時のこの時期の、ふるさと光景の丸写しに思えている。戸口元に掛かる蓑笠を着けて、田んぼ回りをする老いた父の面影が浮かんだ。眺めている雨の梅雨空は、鬱陶しさを撥ね退けて、なんだか心が和む光景である。
雨にはそよ風が混じり、空き家に残された高木をユラユラ揺らしている。こちらは、やがてわが身に訪れる切ない光景である。雨の梅雨空にあって、心模様は尽きないけれど、尻切れトンボにこれで指止めである。それでも、恥じ入ることもなく、かまわない。なぜなら、ネタなく休むつもりだった、いたずら書きの番外編だからである。パソコンを閉じても、雨の梅雨空を眺め続けるであろう。望郷にかぎりはない。
弱音の朝
7月5日(水曜日)、デジタル時刻4:30、未だ明けきれない曇り空の朝が訪れています。大空を見るかぎり気象庁の梅雨明け宣言は、きょうにはなさそうです。NHKニュースで、日本列島各地における豪雨惨禍や竜巻被害を見遣れば、弱音は罰当たりと言えそうです。しかしながら私は、弱音に取りつかれています。弱音は生きることの根源を成す、日常生活における疲れです。きょうの文章は文章とは言えなくも閉じれば、朝駆けにする作業が待ち受けています。大袈裟好きの私は、文字どおり大袈裟に書きました。なぜなら、たった数分間の作業にすぎません。すなわちそれは、先日剪定作業を終えて、きょうのゴミ出しに備えている、束ねた物をごみ置き場へ運ぶだけのことです。それでも焦るのは、このてのゴミ出しは、週一の水曜日だけに限られているせいです。これが済めば道路を掃いて、なおそののちは、朝のうちに庭中の夏草取りをするつもりです。ところが、たったこれだけのことが億劫になり、弱音の根源を成しています。それゆえ、この先のさらなる老い身を思えば、生きることの苦しみがのしかかっています。現在、4:45、薄い夜明けが訪れています。指先を留めて、パソコンを閉じます。
書き殴りの、あえて妙
7月4日(火曜日)、未だ夜更けの延長線上の夜明け前にあり、窓の外は暗闇である。静かな部屋の中にあって私は生きて、パソコンを起ち上げている。「雉も鳴かずば撃たれまい」。この成句に倣って私は、文章を書かなければ大衆にたいし、愚痴を晒すこともない。一方、愚痴こぼしは、文章継続のネタになっている。すなわち、文章を書かなければ愚痴こぼしは免れる。けれど、愚痴こぼしを厭(いと)ってはたちまち、ネタ探しに混迷することとなる。確かに、愚痴こぼしはわが身を助けている。そして今や、パソコンは唯一のわが愚痴こぼしの相手でもある。文章を読んでくださる人は少ないけれど、読んでくださる人には不快な思いをさせて、平に謝るしかない。
さて、人生晩年とそのつらさの証しは、年年歳歳、対話する人の数が減少してゆくに尽きるところがある。対話こそ、知恵ある人間の証しである。対話が無くなればもはや孤立無援、すなわち人間は「生きる屍(しかばね)」同然に等しいものがある。確かに人間は、文明の利器の進歩により対話に代わるものとして、電話をはじめとするあらゆるデジタル通信による交流手段を有している。それでもやはり、対話こそ、それらに勝る人間本能の優れものである。いや、対話こそ、万能の人間のみが具(そな)える飛びっきりの肉声である。
その証しは多々あるけれど、中でもその一つには、道路の掃除どきにおける互いの対話、すなわち挨拶言葉がある。時に応じて短く交わす、「おはようございます」あるいは「こんにちは」の肉声の交換(交歓)には、どちらにも心和むものがある。私は時流に逆らうかのようにまるで、ダボハゼのごとくに対話を欲しがっている。たとえそれが自分勝手、相手迷惑の一方通行であっても、私には無言のままではおれないものがある。いや確かにそれは、味気ない自分自身のためではある。そのため、買い物のレジを通るにあっての私は、一声かけは欠かせない。実際のところ対話はともかく、対面するところと言えば、道路の掃除のおりの通りすがりの散歩の人たち、そして買い物のおりのレジ係の人だけになりがちである。いわゆるこれらの人たちは、わが生存の価値(甲斐)を助けてくださっている大切な人たちである。それゆえに、たとえ一方通行であっても、これらの人たちへの一声かけは、わが気の済むお礼返しでもある。翻って妻との会話は、こんな純粋な気分にはなれず、多くは棘(トゲ)を含んでいる。
人生晩年の確かな証しは、対話の減少である。対話であれば相手の言葉が挟まり、そう愚痴こぼしもできない。しかし、文章では愚痴の垂れ流し、留まるところがない。挙句、愚痴こぼしは継続文のネタを担っていると、負け惜しみをほざくありさまである。書き殴りはいいなあー、でたらめを書いて、文章が埋められる。しかし、気分が晴れることはない。気分が晴れるのは、心地良い対話だけである。
雨の夜明けが訪れて、まだデジタル時刻は5:04である。道路上の今朝の会話は、お預けである。きょうの私には昼間、買い物の予定がある。レジ係人との出会いは楽しみである。相手が、知ったこっちゃない。
継続文の足しになればいい
7月3日(月曜日)、きのうとほぼ同時間に目覚めて起き出し、パソコンを起ち上げている(午前4時前)。しかし、心模様はきのうとはまったく異なり、のんびりタラタラとキーを叩いている。きのうの心模様は、薄い夜明けを待ってのアジサイの剪定作業のことばかりだった。そしてきのうは、予定の行動どおりにそれを実行した。道路に切り落したアジサイの枝葉は、朝食を挟んで12時頃に束ね終わり、週一・5日(水曜日)のゴミ出しに備えている。気に懸かっていたことを終えて現在の私は、気分晴れ晴れである。通りがかりの散歩の人は、ほぼ一人も欠けず、心癒しの言葉をかけてくださった。言葉一つで疲れが緩み癒されるのは、言葉をかける人の知恵であり、癒される者の特権であろう。
ここまで書いても、何らネタが浮かんでこない。能無し野郎にとって継続とは、やはり負荷された重荷である。だから、何でもいいから書いてみよう。子どもの頃から、わが食感に馴染んできたおふくろの味は数々ある。これらの中で、筆頭の位置にあるものは「きんぴらごぼう」である。きんぴらごぼうは、スーパーや総菜店にあっては、どこかしこ定番の一つを成している。すなわち、だれもが好む表れである。もちろん、わが買い物における定番でもある。ところが、どこのお店で買っても出来合いのきんぴらごぼうは、おふくろの味からしたら、序の口にもなれないままである。いや、おふくろの味をいや増す、おふくろの味の引き立て役に甘んじている。夫婦共に、きんぴらごぼうにはおふくろの味があるせいか、妻はきんぴらごぼうをよく作る。妻にもまた、おふくろの味があるのであろう。もちろん、それはそれでいい。無理にわがおふくろの味に合わせることを私は、野暮に強要することもない。
ところが、きのうのきんぴらごぼうの出来栄えは、わがおふくろの味に近いものだった。私にも夫婦円満を願う知恵はある。
「きょうのきんぴらごぼうは旨いねー。子ども頃に食べていたきんぴらごぼうのようだよ。笹型割き、ピリ辛(唐辛子)、最高に旨いね。おふくろの味達成だ! ありがとう」
こんな文章を書いていたら、夜明けて5時過ぎ。この頃、きのうは勇んで剪定作業に取り掛かっていた。指先を休めて窓際に立ち、剪定作業を終えたところを眺めている。朝駆けの散歩めぐりの人は、アジサイの終わりと夏の訪れに気づいてくれるであろうか。きんぴらごぼうのおふくろの味に味を占め、またアジサイの剪定作業を終えて、わが気分はすこぶるつきに良好である。きょうあたり、梅雨明けかな。薄明りを破り、夏の朝日がぎらぎらと輝き始めている(5時過ぎ)。継続文の足しになればいい。