ひぐらしの記

ひぐらしの記

前田静良 作

リニューアルしました。


2014.10.27カウンター設置

内田川(熊本県・筆者の故郷)富田文昭さん撮影

 

怠け心のぶり返し

 2月18日(土曜日)、ようやく寒気が緩んでいる。待ち望んでいた春が来たようである。ところが、このところの寒気と口内炎を口実にして、生来の怠け心がぶり返し、まったく文章が書けない。自分自身のせいとは言え、飛んだとばっちりである。新たなエネルギーを吹かすより、便法はない。しかしながらそれは、「言うは易し行うは難し」、まさしく雲を掴むほどに骨の折れることである。いや、もとより叶わぬことである。
 人間は、時々刻々に動く「心模様」の動物である。格別私は、心模様の織り成す「惰性」すがりである。それゆえ、一旦惰性が途絶えると、たちまち「継続」が叶わなくなる。こののち、途絶えを修復し継続を可能にすることは、困難を極めて途轍もない苦難を強いられる。その証しは、現在の私である。それゆえに起き立てにこんな文章をしたためて、泣きべそをかいている。
 寒気は緩み、口内炎の痛さは、おおかた遠のいたというのに、始末に負えない、わが心模様である。書くまでもないことを書いて、この先は書けない。この文章の取り得は唯一、生きている証しである。本格的な春の訪れを告げそうな、雨、嵐のないのどかな夜明けである。怠け心の克服は自力では叶わず、他力すなわち春の恵みに託している。なさけないけれど、箆棒にありがたい、心模様である。

春は、「思い出」

 2月17日(金曜日)。起きて、寒さで心身が縮こまっている。春風駘蕩とは言えない、おどろおどろしい夜明け前にある。このところはほぼ毎日、強風と雨に脅かされて、今なお身に堪える寒気が居座っている。現在の寒さも、この延長線上にある。だからであろうかやけに、子どもの頃ののどかな春の情景が浮かんでいる。畦道のスカンポやギシギシを採り、石垣に座り塩まぶしで食べた。土手のノビルやツクシンボを摘んで、花籠に入れてわが家へ持ち帰った。「内田川」の川岸へ小走り、萌え出ていたヨモギやセリを摘んだ。畑には青々しい高菜、土手には菜の花が黄色く映えて、白い蝶々が飛びかっていた。田んぼにはレンゲソウが緑の絨毯をなしはじめていた。本格的な春の訪れが待ち遠しいところである。しかしながら春は来ても、もはやこんな光景には出遭えない。思い出づくりで、冷えている心身を温めている。

情熱の欠落

 2月16日(木曜日)、口内炎と胃腑不快感に見舞われている。寝床の中でこんなことを浮かべて、スマホで書いている。情熱とは、物事にたいする気概である。私は、すべてに情熱が欠けている。自分自身にたいする戒めである。このところ寒い日が続いている。口内炎もそうだが、それに打ち勝つ、情熱という「熱」が湧かない。寝床は邪気のない恋人である。

悪魔(口内炎)

 ベロ(舌)奥に口内炎ができて、見えず著効の軟膏が塗れない。痛くて気鬱症状に陥り、ほかにも体調不良に見舞われ、文章を書く気になれない。おまけに、天候不順もあり、飛んだとばっちりです。口内炎は季節変わりのせいではないはずだけれど、待ち望んだ春の訪れにあって、恨めしく「春は嫌い」です。

バレンタインデー

 2月14日(火曜日)、起き立てにあって、こんなことを浮かべていた。生きているかぎり個人事情は、時々刻々に変化する。その多くは、艱難辛苦の茨道である。個人の集合体の社会もまた、時々刻々に変化する。こちらの多くは、事件や事故、はたまた殺戮等の人災、加えて抗(あらが)えない天災による災難からみである。それゆえ社会もまた、生きにくく、住みにくい、茨道である。死んでしまえば人は、すべての苦難から解放される。だとしたら願っていた人の幸福は、ようやく死後に叶えられるのかもしれない。もちろん、実感無き骸(むくろ)の幸福である。
 現役の頃のバレンタインデーにあってのわが気分は、職場の美しい仲間たちの義理チョコに癒されていた。今や、はるかに遠い昔の佳き思い出である。ひるがえってきょうは、自分のための板チョコを自費で買うために、はるばる大船(鎌倉市)の街へ出かけるつもりでいる。
 きのうの雨降りを断って、晴れの天気予報が恵んでくれた、いっときのわが人生の茨道解(ほぐ)しとなりそうである。バレンタインデーとは、もはや人様の義理チョコにはすがれない、自分自身へのせつない恋心である。ときあたかも政治や社会は、頓(とみ)に同性同士の結婚等への関心度が高まりつつある。しかしやはり、ホワイトデーにあっての選び抜いた豪勢なお返しのチョコレートは、淡い似非(えせ)の恋文を添えて、秘かに異性へ手渡したいものである。バレンタインデーは、もはや思い出すがりである。「こちらでこそ、幸福になれますよ!」と言われて、お釈迦様に誘われても、まだこの世に未練がある。なぜなら、思い出すがりとはいえ、バレンタインデーのきょうは、気分が和んでいる。

「トルコとシリア」地震

 2月13日(月曜日)、デジタル時刻は4:00と刻まれている。起き立てにあって、寒気はまったく感じられない。もちろんこのことは、大いに喜ばしいところである。しかしながらこの時季にあって、こんなにも寒気が遠のいていることには、不気味すなわち心穏やかでないものがある。それは天変地異、なかんずく地震でも、今まさに起きるのではないかという恐れである。地震は、時や所かまわず起きるからである。人間にとって地震は、まったく予知や防備、すなわちまったく抗(あらが)えない恐怖のイの一番に位置している。パソコンを起ち上げるといつもの習性に倣い、私はメディアの伝えるニュース項目を一瞥した。すると、真っ先に気懸りになったのは、このニュースである。【トルコ・シリア地震 死者3万人超】(2/12・日曜日、23:25 朝日新聞デジタル)。「トルコ・シリアの地震死者3万3千人超共同通信。【カフラマンマラシュ共同】トルコ南部を震源に発生した大地震で、トルコと隣国シリアの当局などによると、両国で確認された死者は12日、計3万3千人を超えた」。
 地震が起きると規模の大小にかかわらず、いつも悲惨きわまりない。このたびの「トルコとシリア」は、まったく未知の国である。それでも、人間であれば心の痛みは、日本国内の地震と同様でありたいものだと、わが心を諫(いさ)め諭(さと)している。なぜなら、地震にかぎらず天変地異の恐怖は、「あすはわが身」である。いつものことだけれど異常気象には、天変地異の恐れが付き纏うところがある。
 天気予報によれば、きょうの寒気の緩みは、明日には寒気へ戻るという。異常気象でなければ、寒さが堪えても、気分の休まるところはある。いや、このたびの「トルコとシリアの地震」をテレビニュースで観るかぎり、気分を休めてはいけないのかもしれない。地震と新型コロナウイルス、もちろんこれらだけでなく、人間は常に天災や魔界のしわざに脅かされている。災害に無傷に生きていることは幸福である。私はトルコとシリア、そしてその国の人々の災難を慮(おもんぱか)ってはいる。しかし、人様の災難や不幸にかこつけて、わが幸福を呟くようではなさけなく、こころ貧(まず)しいわがお里の知れるところである。

「春ボケ」とは言えない

 2月12日(日曜日)。(休みたい)、(もう、書けない)、さらには(書きたくない)と、思いながらパソコンを起ち上げている。これはいつもの愚痴こぼしではなく、正直なわが心境である。言うなれば能力なく文章を書き続けている、わが痛々しい心境である。このことでは、「何十年もの日記」を書き続ける人の偉さが浮かんでいる。(もう、やめるか)、(何を、書こうか)、起きれば強いられる鬩(せめ)ぎ合いである。
 さて、起き立てにあっては、体感気温は遠のいている。いや、就寝中の私は、寒気どころか暑さが寝苦しく、冬布団を撥ね退けた。先日の大雪予報は、鎌倉地方では外れたけれど、多くの地方や地域では、予報どおりに降ったようである。このことを鑑みればこのたびの大雪は、寒気と冬の打ち止めの徴(しるし)と言えそうである。すなわち、いよいよ季節が替わり、確かな春の訪れのサイン(信号)だったようである。そう思うほどに現在は、一気呵成に寒気が遠のいている。この先の寒気のぶり返しなど、まったく知らぬが仏である。幸いなるかな! 新型コロナウイルスの感染者数も減る傾向にある。これまた、このぶり返しも知らぬが仏である。だとすれば確かな春の訪れに酔いしれて、しばし和みたいものである。
 こんな文章しか書けないゆえに、私は絶えず冒頭の気分に苛(さいな)まれるのであろう。とことん、生来のわが「身から出た錆」の祟(たた)りである。起き立ての私は、まるで夢遊病者のごとく、書かずもがなの文章を十分間ほど書いてしまった。だから詫びて、おしまいとするものである。こんな気分、一年じゅうだから、期間限定の「春ボケ」とは言えない。

「建国記念日」&「結婚記念日」

 2月11日「建国記念日」(土曜日、祝祭日)の未明、窓ガラスに掛かるカーテンを開いて舗道を眺めた。恐れていた雪は降っていない。きのう降り続けていた雨は止んでいる。きのうの大雪予報は、鎌倉地方では外れて、霙(みぞれ)や霰(あられ)は降らず、寒々しい氷雨(ひさめ)が降り続いた。氷雨のなかわが夫婦は、リハビリを主とするデイサービス施設の送迎車に、往復乗り込んだ。かねて予定されていた、リハビリ施設の体験見学を実践したのである。実践者は、大腿部骨折による入院、手術、そして退院後の妻である。私は、いつものように引率同行者である。妻はいくらかの器具の体験を試みた。私はその様子を眺めたり、男女老齢の人たちのリハビリぶりを、椅子に腰を下ろして見詰めていた。人それぞれにひたすら、「生きることを目的」にリハビリに励んでいた。私は、「いずれわが身かな」と思って、心寂しく感慨に耽った。やはり、人間にとって「生きること」は幸福なのであろう。いや、介護や介助など、人様なの支えなく生きたいのであろう。確かに、「人生は死ぬまで努力」が定めである。妻は、渋々なのか、進んでなのか、とりあえずなのか、入所を決意したようである。
 きょうは何度目になるのか知らないけれど、なんだか侘しいわが夫婦の「結婚記念日」である。もちろん、指折り数えればわかるけれど、あえて数えたくはない。さて、メディア報道によれば3月13日より、マスク着用から原則、解放されるという。3年ほど願って、ようやく「待っていました」と、言える朗報である。しかしながら、確かな吉報となるのか、それとも先走りの凶報となるのか、と手放しの朗報には未だ心許ないところがある。
 起き立てにあって私は、きのうの人様のリハビリ様子を浮かべていた。いずれ、リハビリ予備軍になるとはいえ、今のところ私は幸福者である。なぜなら、まったく火の気のないパソコン部屋で、腰の痛みなく硬い椅子に座り、五月雨式(さみだれしき)とはいえ指先自由にキーを叩いている。だから、きょうだけは意識してマイナス思考を沈めて、何度目かの結婚記念日を寿(ことほ)ぐべきなのかもしれない。ただしかし、やむにやまれずリハビリを決意した、きのうの妻の姿が痛々しかったのは残念無念である。
 薄っすらと夜が明けて、雪降りない、雨降りない、そして太陽の光ない、寒々しい冬空である。

汚れた祭典、落ちゆく日本人の徳

 2月10日(金曜日)、起き出して来てカーテンを開き、窓ガラスを通して、舗道を眺めた。未だ夜明け前にある。雪は、降っていない。きょうの関東地方は、大雪予報である。予報の外れがなければ雪は、昼時あたりから降るのであろうか。体感的にきのうは、一日じゅうこの冬で最も厳しい寒さだった。茶の間のソファに背凭れていても、寒くて身震いをおぼえていた。現在、火の気のないパソコン部屋は冷え切っている。
 自然界は、梅雨明けには人間界に大雨を降らし、なんらかの災害をもたらすものである。すなわち、無傷にすんなりとは明けてくれないという、最後の悪あがき現象が多々ある。これと似たものは、冬から脱し春の訪れあたりの気象である。すなわち、これまた最後の悪あがき現象のごとく、猛烈な寒気に加えて、大雪をもたらす傾向にある。大雪予報のきょうあたりが、本格的な春を迎えるにあたっての、最後の胸突き八丁と言えそうである。そうであれば耐えて、春の訪れに希望を託すところである。
 きのうの文章は、「ひぐらしの記」の頓挫を恐れて、メディア報道にすがっただけである。実際には「トルコ地震」にまつわる記事を引用し、さらには4人の日本人・容疑者のしでかした悪徳を書いた。前者は、天災をおもんぱかっただけで、仕方のないものだった。一方後者は、日本人の徳の落ちのぐあいをかんがみて、嘆かざるを得なかった。しかしながらこちらは、もともと悪人のしでかした悪徳ゆえに、日本人の徳からは埒外(らちがい)と言えるものではある。だからこの事件に比べれば、日本人の徳の落ち込み、徳の廃れを感じて、もとより嘆き悲しむべきものはこちらである。すなわちそれは、このたびの「東京オリンピックおよびパラリンピック」における、組織体と企業体にまつわる悪徳報道である。こちらは善人面をした個人の絡む組織と企業がしでかした悪徳ゆえに、こちらこそ日本人の徳が地に落ちたことを嘆かずにはおれないものである。きょうはこのことを書き足したくなり、パソコンを起ち上げたのである。
 「おお、寒い」。寒気に加えて、日本人の徳の汚(けが)れと落ち込みを嘆いているせいである。こんな暗いネタで、「ひぐらしの記」の継続が叶えられるのは、もちろんわが本意ではない。夜が明けても、雪は降っていない。だけど、寒さが身に沁みる。

世界事情(トルコ地震)、日本事情(地に落ちた日本人の徳)

 2月9日(木曜日)。起き出して、まったく自己都合だけの文章である。いや、文章とは言えない。なんでもいいから書かないと、沙汰止みになるのを恐れて、メディア報道にすがったにすぎない。一つは天災、「トルコ地震」にかかわるものである。「トルコ、シリアを合わせた死者は8日、1万1000人を超えた。死者数が1万人を超える地震は、2011年の東日本大震災以来となる。トルコでは6400軒以上の建物が倒壊した」。一つは人災、このことである。「フィリピンを拠点とし、特殊詐欺と日本国内広域強盗事件にからんで、フィリピンから移送された容疑者4人の逮捕」である。天災、人災共に、文字どおり世界と日本を震撼させたものである。前者は、事件とは言えない青天の霹靂であり、耐えるしかない。後者は、まさしく人の為す大事件である。共に、悍(おぞ)ましいことには変わりない。しかしながら、人間の、いや日本人の、恥晒しでは後者である。確かに前者は、大地を揺るがした。確かに後者は、地に落ちた。その落ち方は、どん底すなわち、かぎりなく惨(みじ)めである。メディアすがりの文章で、頓挫を免れるかどうかは、明日へ持ち越しである。