ひぐらしの記

ひぐらしの記

前田静良 作

リニューアルしました。


2014.10.27カウンター設置

内田川(熊本県・筆者の故郷)富田文昭さん撮影

 

春ボケではない、意識は確かである

 3月20日(月曜日)。バカじゃなかろか! 冬が去り、春が来て、それなのに気分が萎えている。春ボケではない、意識は確かである。先日は妻を連れ立って、阪神タイガース対横浜ベイスターズのオープン戦観戦に横浜球場へ出向いた。最後の晩餐になぞらえた、おそらくわが夫婦の人生最後の球場における野球観戦だった。
 きょうの春の高校野球の第一試合では、長崎県・海星高校をテレビ応援する。明日(3月21日、火曜日)の午前八時からは、WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)の準決勝戦、日本対メキシコ戦が放映される。準決勝と決勝戦はこれまでとは異なり球場は、東京ドームから離れて海外へ移される。すなわち、わが未知の国「マイアミ」(アメリカ南東部フロリダ州)である。
 私は、これまでの中国、韓国、チエコ、オーストラリア戦も、テレビ観戦をし続けてきた。私は物心ついて以来、根っからの野球好きである。それゆえに明日のメキシコ戦もまた、一応テレビ観戦するつもりでいる。あえて「一応」と付したのは、生来のわが性質がへそ曲がりのせいである。私は「侍ジャパン」という呼称における、「侍」に違和感をおぼえて、不要にさえ思えている。できれば日本代表チーム、もっと単には「日本(にっぽん)」でよさそうに思う。アナウンサーが「侍ジャパン、侍ジャパン!」と熱狂する声は、私には怒号に響いて試合(熱戦)そのものが興ざめとなる。ブーイングを覚悟して、書きたくなった。野球は、死ぬまで好きである。「ひぐらしの記」は、そろそろ、止めようかなと、思っている。

私の「幸福」

 3月19日(日曜日)。未だ夜明け前(4:34)にあって、きょうの天気はわからない。きのうの彼岸の入り日は、雨風強い大嵐だった。私も驚いたけれど、開き始めの桜の花も、さぞかし驚いたことであろう。しかしながら自然界は、大嵐とて一日くらいで済み、きょうあたりは穏やかな春日を恵むであろう。なぜなら、仲間のせっかくの花便りを無為にすることはないであろう。
 自然界は、百花斉放・百花繚乱の季節にある。自然界に比べれば、人間界は愚かである。異国では、期間限定の無い戦争が続いている。戦地や戦場ではなく、テレビ画像で見るだけでも、人間の愚かさと虚しさに打ちひしがれる。人間の幸不幸は、生まれた国、生まれた年代、折々の社会情勢の違いで、こうも異なるのかと、日々実感するところである。本当であれば無限の動物の中で、唯一人間として生まれたことは、最大の幸福のはずである。ところがそうとは言い切れない、現下の人間事情である。
 翻って、私自身は幸福である。日々、くだらない文章を書いても、咎められることはない。近眼、難聴、虫歯、そしてたまの口内炎の発症はあるものの、我慢さえすれば健康体である。血液検査に出る異常値は、クレアチニン(腎)とLDL(悪玉コレステロール)に見られるものの、気にしても仕方がない。何よりも、血圧と心電図は正常である。生きるための肝心要の食欲は、三度の御飯では飽き足らず、なおひっきりなしに間食を加えてもまだ足りず、手あたりしだいの駄菓子の餓鬼食いで凌いでいる。知恵や知能に恵まれない者、すなわち私の幸福は、これらの証しで十分であろう。まったくみすぼらしいけれど、十分満足すべき「わが幸福論」である。
 どういう風の吹き回しなのか、きょうの私は起きて、こんなことを書きたくなっていた。たぶん、異国における長引く戦争の惨禍を観るに忍びないせいであろう。夜明けの空は、どんよりした曇り空である。このまま昼間になれば、花曇りと呼ばれそうである。

彼岸の入り日

 3月18日(土曜日)、起き出して来て、外は雨降りである(5:29)。何も書くことがない。いや、文章を書く気になれない。なさけないというより、つくづく困った心境である。もうとっくにわが心境は、文章を書くには賞味期限を超えて、消費期限さえ切れている。分別する手間などなくして、ごみ置き場へ運ぶより仕方がない。
 机上カレンダーを眺めながら、一つだけ書けばきょうは、「春彼岸の入り日」とある。中日、すなわち「春分の日」(21日・火曜日)は、この先に訪れる。心中に浮かび、それについて思うことを一つだけ書けばそれは、日本の国の喫緊の社会問題である。しかしながらこれとて、今やどうにもならないことである。
 きのうの夕刻(6時から)、NHKテレビは、岸田総理の会見を映していた。会見の趣旨は、日本の国の出生減少傾向を止めるための日本政府肝いりの、国民に対する様々な施策の説明であった。中でも岸田総理は、「育休」をはじめとする、子どもを産みやすくするための日本政府の様々な支援策(手立て)を縷々述べられていた。もちろん、施策のそれぞれは大事なことであり、「ないよりまし」という、効果はありそうである。しかしながら私には、諸々の施策というより、このときのテーマの「育休」に関しては、腑に落ちないところがあった。その一つはまた、格差社会を助勢するだけで終わらないだろうか? という危惧である。三人、四人と産める人たちは、もとよりそんなに支援を要しない富める人たちであろう。いや、目下の日本社会は、二人で一人さえ産むことのできない、すなわち結婚難儀(結婚敬遠)にさらされている状況であろう。だから、わが下種の勘繰りからすれば育休施策の前に、本当のところは結婚難儀問題の施策こそ肝心要であろう。ところが、結婚環境をととのえることは、育休よりはるかに難題である。それゆえに日本政府も、出生問題の本題すなわち結婚環境(施策)に入ることには、逃げ越しにならざるを得ないのであろう。
 「暑さ寒さも彼岸まで」、春ボケかつネタ無しゆえの戯言(たわごと)である。夜明けの地上は、雨・風ひどい春の嵐である。世の中には、あがききれない難題がたくさんある。だれしも、人生行路はその最たるものである。

身勝手な「望郷」

 呱呱の声を上げて、生誕地(故郷)に住んでいたのは、高校を卒業して上京するまでの18年間にすぎない。この間は、当時の熊本県鹿本郡内田村村立内田小学校と中学校に通った。そして高校は、町中・鹿本郡来民町中にあった県立鹿本高校へ、はるばる自転車通学をした。舗装のない、砂利や石ころ剥き出しの遠い田舎道だった。鹿本高校は、当時の鹿本郡内にあったる唯一の普通高校である。普通高校へ志願の内田中学生は、みんな鹿本高校を受験した。その先の街中には、山鹿高校があった。ところがのちに、両校は併合され、新たな校地は山鹿市内にできた。そして、鹿本高校のほうの名を残して、現在は熊本県立鹿本高校として山鹿市内に存立する。18年にすぎない生誕地生活だけれど、望郷の念はいっときさえ尽きることはない。いや私は、望郷の念に支えられて、82年の生存を成し得ている。
 ところが、私は熊本県人でありながら、幼年、学童そして生徒時代をほぼ一定地域で生活した。ゆえに私は、熊本県内のほかの村、町、市街の様子など今なおまったく知るよしない。そのため、くだらないとも思えるアンケートにも関心を留めたのである。挙句、うれしくなった。この引用文は、きょうも文章を書く気がないことを埋めた、身勝手な余興である。
 旧内田村は、隣の菊池郡あった城北村との合併のおりに誕生した行政名・菊鹿村から菊鹿町へと経緯し、現在は熊本県山鹿市菊鹿町と変えている。「熊本県」で一番イケてると思う街ランキング! 2位は「菊池市」、1位は? (3/15日、水曜日、17:10配信、ねとらぼ調査隊)。九州本島の中央部に位置している「熊本県」。東部では世界有数の「阿蘇カルデラ」を持つ阿蘇山などの雄大な山々を望むことができ、また西部は有明海や八代海に面するなど、豊かな自然に恵まれています。さまざまな魅力を持っている熊本県には、一度は訪れたい、また何度行っても楽しめるような「イケてる街」も多くありますよね。●第1位:山鹿市。第1位は「山鹿市」でした。得票数は209票、得票率は25.8%です。熊本県の北東部にある山鹿市は、今回2位となった「菊池市」の隣にある自治体。福岡県や大分県にも境を接しています。豊かな自然環境を背景とした農業が盛んに行われており、特に栗やタケノコでは熊本随一の生産量を誇る街です。レトロな街並みが残る「山鹿温泉」をはじめ、「熊入温泉」「平山温泉」など、良質な温泉も魅力の一つ。やわらかく肌触りの良い温泉は「美人の湯」と呼ばれ、長年多くの人に親しまれてきました。他にも「チブサン古墳」や「方保田東原遺跡」、大和朝廷によって築かれた「鞠智城」といった国指定史跡も見逃せない観光スポット。夏には「山鹿灯籠まつり」、冬には「山鹿灯籠浪漫・百華百彩」といったイベントも行われ、四季折々の魅力がたくさん詰まった街です。そこでねとらぼ調査隊では、2023年2月25日から3月4日まで「『熊本県』で一番イケてると思う街は?」というアンケートを実施していました。今回のアンケートでは810票の投票をいただきました。

気分直しは「望郷」

 3月15日(水曜日)。夜明けが近づいて、仕方なく起き出している。しかし、気力がともなわなくて、書く気分を殺がれている。きのうはずる休みというより、根っから生きることに疲れてしまい、文章が書けなかった。生きることも、死ぬことも、たやすいことではなく、もとより人生行路は茨道である。きのうのメディアは、喜ばしいことでは死刑囚・袴田巌さんの再審決定を伝えた。このまま控訴なく、再審において無罪になれば、喜びひとしおを超えて、惨たらしい仕打ちである。もちろん私は、ご当人の無罪を望んでいる。しかし、無罪を得られても、つらい人生である。それと同時に私は、弟の無罪勝ち取りに生涯を懸けられているお姉様の肉親愛と優しさに涙する。しかし、これまた勝利に酔えないつらい人生である。
 一つには、ノーベル文学賞作家・大江健三郎さんの永眠が伝えられた。大江さんは作家活動一筋ではなく、諸々の社会問題を提起し、みずからそれと闘う、作家であられたという。きのうの私は柄でもなく、人様の人生模様をかんがみて、「生と死」にしみじみ感をおぼえていた。
 夜が明けた。気分直しに、望郷に浸る。ふるさとに存在する「相良観音」は、きょう(15日)から18日まで、春季恒例祭が営まれる。子どもの頃の私は、片手に硬貨を握り締めて駆けて行った。賽銭箱は用無しに参道で、ニッキ水と綿菓子を買った。減るのを惜しむように、ちょびちょび啜り、ちょびちょび舐めた。望郷こそ、気分直しの本山である。しかしながら、一足飛びはあり得ず、少しずつにすぎない。
 きのうは、まったく書けなかった。きょうは、少し書けた。一歩、前進である。望郷のおかげかもしれない。

マスク着脱

 3月13日(月曜日)、待ち望んでいた日の夜明けが、曇り空で訪れている。きょうはマイナス思考をともなう、グダグダ文章は書かない。もしかすると死ぬまで、マスクの着用を強いられるのか? と、恐怖に怯えていた。ところが、きょうを境にしてマスクの着脱は、個人の判断に委ねられることとなる。日本政府のお達しだから、公(おおやけ)である。もちろん、一足飛びにマスクの着用が不要となることはないけれど、無言の同調圧力は免れそうである。
 私の場合、このことがことのほか、うれしいのだ!。近眼と両耳難聴ゆえに私は、耳穴は集音機で塞ぎ、耳たぶには眼鏡の柄とマスクの紐を掛けている。これらは、わが日常生活においてはきわめて煩わしい所作である。それゆえ、新型コロナウイルス発生以降私は、この三つ巴の所作からの解放を願い続けていたのである。一方でそれは、もう無理かな? と,諦めかけていたのである。ところがそれが、いまだに不完全ながらも叶ったのである。不完全というのは、場所や人の込み具合、さらには人様への迷惑、なお自分自身への感染の恐れを判断し、適応や対応を必要とするからである。そうであってもやはりきょうは、目の前に棚から牡丹餅がおちて来たごとくに、うれしい日である。
 これで、グタグタの書き止めである。飛んでもない、令和5年(2023年)3月、すなわち春日(しゅんじつ)の朗報である。私には桜便りを超えて、うれしい便りである。

春うらら

 3月12日(日曜日)、起きて、こんなことを浮かべている。天災は、人間の知恵の及ばないところに隠れている。だからこの瞬間とて、地震が起きるかもしれない。時刻はまさしく、「阪神淡路大震災」(平成7年・1995年1月17日)の発生時刻(午前5時46分)にある。この日時は、うろ覚えではなく正確な記憶である。なぜなら当時の私は、勤務時代における大阪支店に在籍しており、被災地・兵庫県尼崎市東園田町の単身赴任者用の会社・借り上げマンションの一室「401」で遭遇したからである。きのうのテレビニュースは、12年前に起きた「東日本大震災」(平成23年・2011年3月11日,午後2時28分)で、ほぼ埋め尽くされていた。今でもどちらも、地震の恐ろしさが消えない哀しい記憶である。地震の恐ろしさと痛々しい記憶は、決して忘れ、消えるとはない証しである。
 ところが、天は罪作りである。きのうの東京の空は、首都の隅々にまで陽光こぼれる「春うらら」だった。まるで、地震の恐ろしさと未だに生々しい記憶を消し去るでもするような、まさしく麗らかな春日和だった。私は行動予定にしたがい、東京都国分寺市内に在る次兄宅への朝駆けを敢行した。「ひぐらしの記」を書き殴りで終えると、朝飯抜きにわが家を飛たった。時刻は7時過ぎ、それでも、次兄と顔を合わせたのは、10時半頃だった。12時半近くまで在宅した。いつもより帰りを急いだ。こんな魂胆をたずさえていたせいである。いつもであれば私は、JR中央線・新宿駅で下車し、湘南新宿ラインに乗り換えて、わが下車駅・大船へ向かう電車に乗る。ところがきのうの私は、新宿駅には降りずに、その先四ツ谷駅を挟んで、「御茶ノ水駅」で下車した。まずは、かつて通った母校・中央大学の校地に建てられた新キャンパスを見るためであった。ここを終えると、東京メトロ「御茶ノ水駅」から乗車し、二駅そして後楽園駅を挟んで、「茗荷谷駅」で下車した。茗荷谷駅は、勤務時代の下車駅である。この近くにも、母校の新キャンパスが建てられていた。それを見物し終えると私は、途中勤務した社屋(本社)を眺めながら、後楽園駅までテクテク歩いた。WBCの行われている「東京ドーム」を目の前にして、「後楽園駅」から電車に乗り、帰りに方向を変えた。
 今、スマホを手にして、きのうの歩行数と距離を確認した。それは、11,635歩と、そして8・9キロメートルだった。歩きながらのわが心中には、会社同期入社仲間の渡部さん(埼玉県所沢市)の偉大さだけが浮かんでいた。渡部さんは「ひぐらしの記」では、お馴染みである。私が友情を超えて敬愛する人である。現在、渡部さんは首都圏(東京都、埼玉県、千葉県、神奈川県)にある郵便局の大小にかかわらず、文字どおりそれぞれに貯金をしながらしらみつぶしの敢行の途中にある。すでに、3500か所の郵便局回りを果たされて、現在は、千葉県周りのさ中だという。きょうの文章は、このことを書きたかったのである。この後のテレビ番組を観るため、尻切れトンボを恥じて、ここで書き止めである。
 東京メトロの一駅間を歩きながらわが足は、ヨタヨタに疲れ果てていた。渡部さんの偉大さが身沁みた、春うららの歩行だったのである。渡部さんは僻地に住む、わが住宅地内にある最小規模の郵便局周りは、すでに済まされている。世の中には、いやわが仲間にはこんなにも偉大な人が存在する。地震なく、きのうに続いて、春、麗らかな夜明けが訪れている。

「東日本大震災・12年」

 令和5年(2023年)3月11日(土曜日)の夜明け前にある。「東日本大震災」は12年前のきょう、平成23年(2011年3月11日、午後2時28分)に起きた。きょうは、天災とりわけ地震の恐ろしさを忘れてはならない日である。このときの私は、ふるさとに帰っていた。そして、姪っ子(長兄夫婦の次女)の嫁ぎ先が催す「昼宴会」に参じていた。私を連れて行ったのは、長兄夫婦だった。宴会は馬刺しや鯛の刺身、寿司三昧など、てんてこもりの大盤振る舞いだった。宴会は和気藹藹と賑やかに続いて、お開きになったのは夜の七時頃だった。この間、テレビを観ることはなかった。客間から離れて姪っ子は、帰り際に居間のテレビを点けた。みんなが立ち竦んで見る画面には、大津波が家々を流していた。このときから、大騒動になった。すぐさま、兄夫婦と私は、車で自宅へ戻った。これ以降私は、固定電話と携帯電話を頼りにして、妻の安否確認に狂奔した。しかし、その日の夜そして明けて昼時になってもとうとう、妻との交信は叶わなかった。わが家の固定電話、妻の携帯電話以外には、卓球クラブの同僚・小林さんの携帯電話へかけ続けた。私は、ご近所で人の好い小林さんに頼ったのである。昼頃であろうか、小林さんと交信できたのである。まさしく、溺れる者が漂う一本の縄を掴む心境であり、現人神様(あらひとがみさま)への出会いだった。小林さんは狂奔する私の依頼に応えてわが家へ出向かれて、妻とわが家の安全を告げてくださったのである。 一難去れば、私は身勝手である。危難を免れると、こののちの私は、他人事みたいにテレビニュースを見聞きした。長兄とフクミ義姉さんは、もうこの世にいない。
 きのうは、生前のフクミ義姉さんの志を継いだ姪っ子から、「高菜漬けのふるさと便」が届いた。きょうの私は、朝駆けで東京へ向かう。東京都下国分寺市に住む次兄(92歳)宅への訪問である。もっと端的に言えば、老いを深める次兄の体調確認とご機嫌伺いである。しびれを切らしていた、久しぶりの訪問である。次兄は、姿を変えているであろうか。先回の訪問は第二のふるさとと任じて東京で、優しく母親代行役をされていたヨシノ義姉さんの一周忌(昨年12月)だった。歳月の流れには逆らえず、私も妻も老いて行く。来年は、どんな「東日本大震災・13年」になるであろうか。のどかに、夜が明けている。久しぶりの上り電車だけれど、心楽しい旅ではない。

実のない「作文」

 3月10日(金曜日)、パソコンを起ち上げるといつも考える。いや、何を書こうかと悩んでいる。文章にする得意分野(ジャンル)を持たないせいである。おのずから、得意分野を持って、スラスラと書ける人に憧れる。何年書こうと、死ぬまで書こうと、この悩みは消えない。言うなれば、わが生涯における尽きない悩みである。現在は、こんなつらい心理状態にある。
 文章なんて、容易(たやす)く書けるはずだ。なぜなら、心中に思っていること、あるいは浮かんでいることを、語彙(言葉と文字)に替えれば済むことだからである。人間だれしも、心中がまったくの空っぽになることはない。ガラクタであっても、何かしらを浮かべている。学童の頃の「綴り方教室」においては、浮かんだことを原稿用紙に埋めていた。ところが現在は、適当なネタを探し、ネタが浮かべば文脈を考える。次には、文脈にそう適語や飾り言葉(修飾語)を探す。すると私は、文章をものにするこの流れに行き詰まる。挙句、しばし机上に頬杖をついている。現在の私である。しかし、書けなく、頬杖をついていても、焦ることはない。いや、気分は和んでいる。それは、寒気をまったく感じない、気分の緩みのせいである。
 春夏秋冬、春の恵みはかぎりなく膨大である。気象予報士によればきのうの関東地方は、5月頃の暖かさだったと言う。そしてきょうは、雨の予報である。ところが、のどかな春雨でとどまらず、乱れて嵐になるところがあると言う。しかしながら、春には嵐がつきものと思えば、そう気にすることはない。寒気さえ遠のけば私は、荒れ模様の天気でも構わない。コロナは収束へ向かっている。桜だよりは日を追って、賑やかになりつつある。ただ、好日にあってきょうの私には、妻の通院における引率同行予定がある。もとより、引率されるよりはましだから、仕方がないとは言えない。妻の身を労わり、わが身を労わり、共に人生晩年の日々はめぐっている。命の終焉まで残り日少なく、万感きわまりない歳月のめぐりである。だから、どんな春でも粗末にするのはもったいない。
 ネタなく、こんな文章を書いてしまい気恥ずかしい思いである。いや、気恥しいと言って、怯(ひる)むことはもったいない。雨模様の夜明けが訪れている。山の枝木の揺れは、まったくない。

苦痛と快楽

 3月9日(木曜日)。春は、半ばへ向かっている。摘み残っていた庭中のフキノトウは、文字どおりすでに臺(とう)が立っている。起きて、寒気は緩んでいる。心は、穏やかである。心身、縮むことなくのんびりとキーを叩いている。夜明け前に文章を書く私にとっては、寒さが遠のいたわが世の春の到来である。ところがこれは上部(うわべ)だけにすぎず、心中はそうではない。なぜなら文章のネタなく、しどろもどろの状態にある。
 文章の才無き私には、文章を書くことには絶えず「苦痛」がともなっている。苦痛の対義語は「快楽」である。文章を書く上で、快楽はあるであろうか。苦痛だけで快楽が無ければ、生来、三日坊主の私ゆえに、継続はあり得ない。ところが、曲がりなりにも継続が叶えられている。その理由には二つある。一つは、生涯学習に「語彙」のおさらいや新たな学びを掲げているからである。すると「ひぐらしの記」は、大沢さまのご好意にさずかり、生涯学習の実践の場(機会)にあずかっている。ところがなさけないことに心中は、(止めたい、書けない)という苦痛の状態にある。この苦痛にわずかでも快楽を求めればそれは、文脈に適(かな)った語彙が浮かんだときである。滅多にないことだけれど、浮かんだときには確かに快感を覚えている。しかし、苦痛と快楽を天秤にかければ、苦痛はなはだ重く天秤棒はピョンと一方へ傾き、測定不可能となる。「苦痛と快楽」、言葉の学びだけの文章である。継続の足しにはなっている。しかし、快楽(感)は、まったく無し。日の出の早い、夜が明けている。