ひぐらしの記
前田静良 作
リニューアルしました。
2014.10.27カウンター設置
欲得まみれの「この先のわが生活信条」
4月18日(火曜日)、4:24。実際にははるか前に目覚めて、起きている。やはり願う、熟睡と安眠は叶えられず、挙句この先、寝不足状態が続きそうである。人生の晩年と精神の動揺にあっては、仕方ないと思うところである。次兄の終焉の病床で看取りを続けて、通夜・葬儀に明け暮れていたため、この間は長く文章を休んだ。これに加えて機を同一にして、パソコンのメール機能の不全を被っていた。パソコンのメール機能は、パソコン上のやり取りで、昨日回復した。これには後払いで、臨時の8800円の金がかかった。それでも、金に換えられないほどに、心は安堵した。
パソコン機能が復活すると、たちまち思いがけないわが無礼と失態が現れた。文章が沙汰止みになっていることを案じて、「ひぐらしの記」ではお馴染みの渡部さんは、わが体調伺いのメールをくださっていたのである。ところが、余儀ないこととはいえ私は、心温まる渡部さんのメールに対し返信無し、すなわち梨の礫(つぶて)を続けていたのである。メール機能の回復はきのうだけれど、渡部さんの送信メールに気づいたのは「今」である。それゆえに私は、大慌てで返信メールを書いて、次にこの文章を書いている。私は、恥をかくために生きているのかもしれない。
さて、私にはもはや百年(一世紀)および五十年(半世紀)の大計は望めない。だからせめて、三か年計画くらいを心中に模索している。短いけれど、欲張りいっぱいの期間である。すなわち、この間に希望することは、認知症は免れて、かつ闘病の苦しみのない安らかな永眠である。そして、日々の生活信条の一つには、果て無く、望郷や懐郷に浸ることである。さらに一つは、親きょうだいのレイクエム(鎮魂歌)と思慕すがり、すなわち面影にかぎりなく耽ることである。結局、この二つを軸にして私は、人生の様々な思い出に助けられて、生存の余りを生きる覚悟である。残念ながら「ひぐらしの記」の単行本100冊の目標は、余命では叶わずおのずから未達である。頃は晩春、わが命は晩節である。
きょうの文章は、欲張りまみれの「晩節の誓い、いや希望」である。夜明けの空は、風の揺らぐ薄曇りである。5:35、夜明けは未熟である。
「われ一人に思う」
4月17日(月曜日)、夜明け前にある。諸々の心痛でこのところは、普段にも増して睡眠不足に陥っていた。けれど、昨夜はいくぶん眠れた。一晩だけでは、まだわからない。この先、睡眠不足は改善傾向をたどるかもしれない。いやそれともぶり返し、もっと深みにはまるかもしれない。どちらにしてもわが心理状態ゆえに、人様にすがることはできない。挙句、自分自身で心理状態をコントロールしなければならない。いずれにしても、悩ましいことである。
恥を晒してという表現と、恥じ入ることなくという表現は、相対する表現である。きのうの私は後者の表現で、心中に浮かんだままのことを不特定多数のブログ「ひぐらしの記」に記した。それでも、恥を晒したかな! という思いはある。だけど、記した後の祭りである。いや、恥じ入ることはないと、ひたすら自己慰安に努めている。
私は、親の優しさと多くのきょうだいの情愛に育まれて、こんにちまで生きてきた。それゆえきのうの私は、心中に今は亡き親・きょうだいを浮かべて記した。それは無粋な、親・きょうだいの数の一覧表を成した。しかしながらそれには、わが思いが凝縮していたのである。かつての私は、親・きょうだいの情愛や絆を断たないために、ひたすら文章を書き続けていた。そして、『ひと想う』という手作りの単行本を五巻ほど編んだ。それらを生存中の姉や兄に贈った。この試みは功を奏して、多額の金とわが苦労は、十分に報われたのである。
ところがとうとう、生存者は自分一人となってしまった。もはや書いても、読んでくれるきょうだいはいない。わが役割は、終わったのである。つらく、心寂しいわが役割の終焉である。挙句に私は、この先を生きる気力を殺がれている。朝日が射して、のどかな夜明けが訪れている。わが余生が思いやられる夜明けでもある。
身勝手記述、許してください
異母長兄:1男3女:孫、曽孫多数。異母長姉:3男0女:孫、曽孫有り。異母二兄:1男0女:孫、曽孫あり。異母二姉:1男0女:孫、曽孫有り。異母三兄(戦死・独身)。異母三姉(幼児事故死)。実母長姉:2男1女:孫、曽孫多数。実母長兄:1男2女:孫、曽孫多数。実母二姉(病死・独身)。実母二兄:2男1女:孫、曽孫多数。実母三兄:2男0女:孫、曽孫多数。実母四兄:1男1女:孫、曽孫多数。実母五男・私:1女:孫1女。実母六男・弟(幼児事故死)。父1人、母2人。子ども14人。生存中は、私だけである。
しょんぼり
4月16日(日曜日)、3:59。次兄他界に合わせて、パソコンのメール機能が不全になりました。メール機能は、難聴とそれゆえの電話交換の厄介さを補完するものでした。それが壊れて、ダブルの不運に見舞われて現在、わが気分は憂鬱状態です。真っ先には、文章を書き続ける気分が殺がれています。実際のところは何もかもが嫌になり、最も肝心なところでは、メール機能の修復作業のやり取りさえする気になりません。だから、正直なところ現在のわが心境は、この先をどう生きるか? この一点だけに集中し、余命の生き方を模索中です。次兄他界に際し早速、お見舞いと激励を賜った、大沢さまと高橋様には篤く御礼を申し上げます。
私事、次兄他界
4月15日(土曜日)。夜間は寝付けず、朝方から眠りこけて、昼間に目覚めて起き出しています。小降りの雨です。人生のつらさをたっぷりと詰め込んでいたため、疲れ果てています。男性の私は、この世に産み出す苦しみは免れます。しかしながら、この世から押し出す苦しみは、免れることはできません。
次兄の闘病に、4日ほどは病院のベッドの傍らで寝ずに付き添い、つらい涙を流し、人間の死に様の一部始終を看ていました。尋常あれば短い期間も、身に堪えた膨大な時間でした。臨終(4月8日、午前11時)、通夜(4月13日、午後6時、葬儀(4月14日、午前9時)。
儀式に、つらさはありません。次兄の苦しみを思い、さっぱりしています。それまでの過程がつらいのです。次兄は、この世を去りました。
深まりゆく春にあって、怯える人間界と自然界
4月4日(火曜日、4:38)、起き立て早く夜明けはまだ先にあり、きょうの天気模様はわからない。もちろんきのうに続いて、好天気を望んでいる。きのうは、昼近くから照り始めた日光に重い腰を誘(おび)き出されて、私は大船(鎌倉市)の街へ買い物に出かけた。それゆえ、二日続きのきょうの買い物は、免れそうである。しかしながら買い忘れたとか、なんやかんやの自己都合の理由をつけて、きょうもまた出かけるかもしれない。なぜなら、普段、散歩をしない私の場合、買い物行は唯一、仕方のない散歩代わりを為している。
買い物へ出かけないと私は、茶の間のソファに凭れて、まるでカタツムリ同然の動きのない姿で明け暮れる。言うなれば往復、バスに乗っての遠出、大船の街への買い物行は、わが飛びっきりの散歩を為している。
3月から4月へと変わり、春は日を追って深まりゆく。4月の人間界は、別れの月3月が過ぎて、出会いの月である。きのうのテレビニュースはその確かな証しとして、人間界にあっては入学式や入社式光景を映していた。一方自然界は、わが眼前にこれまた季節特有のこんな風景をもたらした。
買い物行にあって私は、バス通りにある最寄りの「半増坊下バス停」のベンチに座り、巡り来るバスを待っていた。すると、そよ風に煽られて散り急ぐ桜の花びらは、道路に花吹雪を舞った。道路をまるで花絨毯、また見ようによっては、小川の花筏風景を晒し出した。この風景は、わが眼前に突如現れた桜川みたいでもあった。ところが、やがて巡ってきたバスは、一瞬にしてそれらを蹴散らした。私は忍び難い切ない心情をたずさえて、ヨロヨロと乗車し、定期券を運転士にかざした。以下は、きのうのテレビニュースが報じていたことにかかわる引用文である。人間界および自然界こぞって、恐ろしいニュースである。
【イルカ集団座礁と地震「安易な結びつけ早計」】(SNS投稿に識者、4月3日、月曜日、19:58配信 毎日新聞)。「大地震の前兆か」。千葉県一宮町付近の海岸にイルカ約30頭が打ち上げられた3日、ネット交流サービス(SNS)にはこうした投稿が相次いだ。東日本大震災の7日前にも同様の事態が起きており、不安に感じているようだ。果たして、イルカの集団座礁と大地震の発生に相関関係はあるのか。地震の前兆現象に詳しい「災害予測情報研究所」の織原義明代表は「完全に否定はできないが、安易に地震と結びつけるのは合理的ではない」と話す。織原代表によると、一宮町の北約80キロに位置する茨城県鹿嶋市沖で約10年間(2001年1月~11年3月)の状況を調査したところ、イルカを含む鯨類の集団座礁は6回確認されたという。だが、「6回は2~5月に集中しており、この時期の海流が影響したと推察される。鹿島灘(沿岸の海域)は遠浅で一度迷い込むと脱出しにくいこともあり、いろいろな要因が考えられ、地震と結びつけるのは早計ではないか」と語る。鹿嶋市の海岸では11年3月4日、イルカの一種「カズハゴンドウ」54頭が集団座礁し、同11日に東日本大震災が起きた。一方、15年4月にも鹿島灘の沿岸約10キロにイルカ156頭が打ち上げられたが、その後に大きな地震はなく「(東日本大震災の時は)偶然と考えた方が自然」とみる。
今回の件については「詳しいことがまだ分からない」とした上で「集団座礁を防災情報として役立てるのは現段階では難しく、地震との相関関係は見いだせない」と話した。明けて夜明けの空には、淡く朝日が射し始めている。早起きのウグイスは、声高に鳴いている。しかしながら春深まりゆく季節にあって、人間界そして自然界共に、一寸先は闇の中にある。
心満たさない夜明け
4月3日(月曜日)、すでに夜が明けている。朝日はまったく見えない。けれど、雨・風・嵐はない。久しぶりに二度寝にありつけて、半面、心が急いている。みずからの縄張りで、ウグイスが鳴いている。起き立てに心急いて書く文章は、とことん手に負えない難物である。いやこのことは、口実まがいのとんでもなく間違った表現である。なぜなら、起き立てでなければ文章書きは、容易いと言うことではない。昼間にあってたっぷりと時間をかけて書く文章であってもやはり、私には変わりようなく手に負えない難物である。起き立ての文章は、心に余裕なく書き殴りに甘んじる。それゆえに起き立ての文章は、書く気分が殺がれている。
わが長い人生行路を省みては、限りなく悔恨がよみがえる。もちろん「後の祭り」であり、それゆえいまさらの悔恨である。文字どおり、悔しさと恨みつらみはいや増すばかりである。
文章書きにまつわる悔恨の一つは、子どもの頃よりこんにちにいたるまで、私には教科書と新聞以外に読書歴はない。ところが実際のところこれらは、読書歴の範疇とは言えない。すると私には、読書歴は皆無である。だからこのことは、わが人生行路における悔いごとの一つをなしている。挙句に私は、もし仮に読書歴があれば人様の文章を真似て、わが文章書きは容易くなったのでは? という、「捕らぬ狸の皮算用」を浮かべている。
このところの私は、長い文章をグダグダと書いて、疲れている。そのうえきょうは、遅い起き出しにあって心が急いている。疲れはいや増しそうである。身も蓋もない文章を書いてしまった。書かなきゃ、よかった。だからこの文章は、これでおしまい。
朝日が光り始めている。二度寝にありつけるのも、ありつけないのも、どちらもつらいわが晩年の生き様である。心焦っての、せっかくの文章だから、心満たされずとも、投稿ボタンに指先を触れてみる。
草臥れ儲けにさえならない、書いただけの駄文
4月2日(日曜日)、夜明け未だ遠い静寂の中に起き出している。聞こえようのない心音は、確かな鼓動を刻み、私は生きている。しかしながら、意義ある生存かどうかは、知らぬが仏である。だけど、死んでいるより生きていることは、はるかに増しである。
頃は良し、日本列島のあちこちにおいて人々は、時を変えて桜見物の真っ盛りのさ中にある。確かに花便りは、芽吹き初めもよし、盛り(満開)もよし、散り際もよし、すべてよしである。今時、桜の花は、口の端に誉めそやされて、賑わう花便りの謳歌を極めている。このところのテレビ画面は、すでに終わりだろうか、今や盛りだろうか、まだこの先だろうか。茶の間のソファに凭れながら、日本各地の桜の花模様(花便り)の画像をかぎりなく堪能させてくれている。こんな好季節にあってマイナス思考にとりつかれメソメソするのは、確かに愚の骨頂窮まるバカ丸出しである。
この季節にあって自然界の恩恵は、もちろん桜の花だけではない。百花繚乱、百花斉放のみならず、山紫水明、花鳥風月など、さらには盛りだくさんの四字熟語のオンパレードである。まさしく季節は、春うらら、春爛漫の真っただ中にある。しかしながら、年老いたわが身において厄介なことは、狭小とはいえ庭中に萌え出している雑草取りの手始めがある。雑草という名づけは、雑草には罪なく抜き取る厄介さゆえに付けられた、人間の驕りと言えそうである。なぜなら、雑草とて桜の花に負けず劣らず、ようやく一年回りに健気に芽吹いて、日々背丈を伸ばし、緑を深めている。あえて人間が雑草と呼ばなければ、それなりの美的風景を恵んでいる。それでも草取りをせずにおれないのは、やはり確かな人間の驕りである。すなわちそれは、人間に付随する見栄心のせいである。
確かにわが草取りは、道行く人が眺めて(ここは空き家かな?)と思われて、蔑視を受けないための最低限の行為である。ところが年年歳歳、わが草取り行為は難儀を極めるばかりである。やはり、綺麗ごとは抜きにして、雑草呼ばわりしたくなる。起き立てにあって、こんな書き殴りの文章は、もとよりわが恥さらしである。
「ひぐらしの記」の継続の支えは、掲示板を開いてくださる人様のご好意と情けすがりである。だから起き立ての私は、その恩情に背くまいと、書き殴りと駄文をも省みず、必死にキーボードに不器用な指先を這わせている。きょうの文章は、まさにその証しである。
明けきれない空は、朝日が隠れた曇天、いや今にも雨が落ちてきそうな雨空である。この季節にかぎれば起き立てにあって私は、両耳には難聴用の集音機を嵌めている。もちろんそれは、わが日常生活に朝っぱらからウグイスの鳴き声を味方にしようという、さもしい魂胆のせいである。現在の私は、子どもの頃の早起き鳥(ニワトリ)の声に替えて、山に棲みつくウグイスの声すがりである。もとより二度寝にありつけず、早起きを誘う早起き鳥(ウグイス)の声を、憎たらしいとは思わない。散り急ぐ桜の花と、朝早いウグイスの鳴き声に、わが心身は癒されている。そして季節は、この先晩春へ向かい、咲き誇る花々を変えては、「目に青葉山ほととぎす初鰹」(山口素堂)へと移ってゆく。それゆえ、せっかくの好季節にあって、わが身を儚んでいては大損である。
きょうの文章は、起き立ての焦燥感に煽られて、書き殴りの典型である。ご好意と情けに背いて、つくづくかたじけないと、思うところである。時が過ぎて、夜明けの空には曇天をけちらし、まるで寝ぼけまなこみたいな、おぼつかない朝日が射し始めている。それでも、雨・風・嵐去って、自然界の夜明けは、のどかである。
出会いの月、4月1日
4月1日(土曜日)。頃は良し、生きているのに、さしたる感慨はない。世の中は心寂しい別れの月(3月)が去って、新たに心楽しい出会いの月へと入れ替わる。しかしながら私には、不意の親類縁者あるいは自分自身との別れはあっても、もはや出会いは一切ない。
周辺の桜の花は日に日に散り急ぎ、緑したたる葉桜模様を深めてゆく。そして、人々が誉めそやす賑わいは静まりゆく。その先には咲き誇る花々を変えて、風薫る五月(さつき)の空が訪れる。別れと出会いをなす学び舎の儀式は、明確に卒業式から入学式へ変わる。おのずから世の中には、様々に人の賑わいが溢れ出す。ところが私の場合は、置いてきぼりを食らったままである。もとより人との出会いがないのに、まかり間違って天変地異との出遭いだけは、真っ平御免蒙りたいものである。
4:50,起き出して来て、気狂いみたいな文章を書いている。たぶん、このところ書き続けた長い文章のせいで、心身共に疲れているのであろう。いや、「ひぐらしの記」の執筆は、もうとっくに賞味期限どころか消費期限が切れた状態にある。実際には起き立ての、書き殴りの文章に嫌気がさして、疲れの主因を為している。だから疲れを取りには、たっぷりと時間をかけて、俗にいう整理整頓、すなわち文意を確かめ飾り言葉を整えて、書きたい思いが切々である。せっかくの出会いの月の初めにあって、こんな文章を書くようではなさけない。頼りにする山のウグイスは、まだ見知らぬ塒(ねぐら)でスヤスヤと眠っている。私は二度寝に就けず、キューキューと悶えている。薄明りの夜明けはのどかである(5:06)。
起き立の妄想
3月最終日(31日・金曜日)の夜明け前にある(4:45)。「春眠暁を覚えず」には程遠い。熟睡に誘われず、仕方ない起き出しである。もちろん、モチベーションは低下し、文字どおり気力は損なわれている。起き出しながら、脈略なくこんなことを浮かべていた。一つは、時節柄のことで桜の花のことを浮かべていた。「花の命は短りき」。花にからんで、世の中の多くの人が認知する定番の表現である。この場合は、ずばり桜の花(花びら)をさしている。確かに桜の花には、花びら自体の弱さと、咲く期間の短さがある。これらに輪をかけて虐め尽くすのは、桜の花時をめがけて荒れ狂う雨・風・嵐の仕打ちである。ところが、弱弱しく見える花びらにも、これらに耐える意地と根性は強いものがある。私は歩きながら両手を重ねて、桜応援にパチパチ叩いた。
きのうの私は、行動予定どおりに大船(鎌倉市)の街へ買い物に出かけた。そのおりの最寄りのバス停「半増坊下」までの道すがらにあっては、未だに散り残りの桜の花びらが青空に映えていた。思いがけない風景に遭遇し、私は意識して童心返りを演じていたのである。確かに、何ら脈絡はない。
もう一つは、こんなことを浮かべていた。生きるためのコスト、すなわち大雑把に言えば、生きるための生活費(金、費用)の様々である。すると、真っ先に浮かんだのは、総体的に「衣・食・住」にかかる金である。もちろん、このほかにも諸々ある。大きなところでは修学にまつわる学費、社会人になっての遊興費および交際費、そして、リスキル(学び直し)を望めば新たな学費が要り用になる。さらには、終活、婚活、育活、さらには終活にも金がかかる。加えて現下、物価高で困惑を極めている電気・ガス・上下水道料などがある。なお現在、身に沁みて馬鹿にできないものでは、パソコンやスマホ、電話などの通信費がる。冠婚葬祭費では、冠婚のほうは少なくなったけれど、葬祭費は増えるばかりである。終身にあっては、様々な税金から免れることはできない。
最後に書かなければならないのはやはり、心身の健康維持にまつわる限りのない医療費全般の多さである。死ぬのも、ただ(無料)では済まない。火葬や葬式代もかかる。きょうの文章は、「嗚呼、無常、無情」の抱き合わせである。
夜が明けた(5:43)。こんな実のない文章など、書き殴りとはいえ、苦労して書かなければよかった。二度寝にありつけない祟りである。夜明けが訪れた。なんだかすっきりしない、桜の花びらの息の根を止めそうな雨空である。しかし、早起きのウグイスは鳴いている。今の私は、いつもなら嵌めない集音機を両耳に嵌めている。ウグイスの鳴き声を聞くためである。確かに、生きるには様々な生活費がかかる。だからと言って、みずから死に急ぐことはない。こんな気持ちになるのは、山のウグイスのおかげである。案外、桜の花もわが生存に貢献しているのかもしれない。