ひぐらしの記

ひぐらしの記

前田静良 作

リニューアルしました。


2014.10.27カウンター設置

内田川(熊本県・筆者の故郷)富田文昭さん撮影

 

無念、指先の不始末

 苦心して書いた文章を最後の指先の不始末で、一瞬にして失くしました。無念です。きょう(9月4日)は、歯医者への通院日です。予約時間は午前10時。夜明けの空には、夜来のしとしと雨が音なく降り続いています。わが心中には、大降りの涙雨が音を立てて降っています。きょう一日、晴れ間は望めそうにはありません。

自然界の罪償いは、さわやかな秋の朝

 9月3日(日曜日)、すっかり夜が明けて、清々しい秋の朝が訪れています。夜間に原稿の校正をしたため疲れ果て、寝坊助になり起き出してきました。今、心中にはこんな思いをたずさえていました。自然界は夏の暑さの罪償いに躍起となり、月替わり早々から、人間の心身を冷ややかに癒し始めています。自然界に比べると人間界の罪作りの償いは、見る影もありません。多くは訴訟を通して裁判沙汰へ持ち込まれて、あれこれと言い合って長い年月を要します。「生きとし生けるもの」にあって唯一、感情の動物と崇められる人間は、実際には醜い罰当たりの感情を持っているのでしょうか。訴訟や裁判沙汰、はたまた多くの金銭や財貨を費やしてまで償いはしなくても、一言素直に謝れば多くの人間は、それで気分すっきり済むのです。崇められる人間界は、こんな世の中になりたいものです。
 老獪きわまりない知恵者が悪知恵を授けるのです。「物事の決着には、最初に決して謝るな! 最初は必ず否定しろ!」などと指図して、解決の糸口を摘み、挙句には罪償いの機会を失くし、訴訟や裁判争いへのアドバイスやサゼッシションをするのです。すぐに「すみません」と言えば、多くの人間はそれだけで気分よく、互いを励まし合って、別れることができるのです。私は自然界の罪償いの爽やかさにひたり、こんなことを浮かべていました。
 そしてこのことを、約10分間書きました。これで書き止めです。この先は、自然界の恵みに浸ります。夜明けの大空は、まったく外連味のないさわやかな日本晴れです。自然界の素直な罪償いにあって、私は過ぎた夏の暑さは、もう忘れています。ありがとう。

自然界、人間界、私事

 きのうの「防災の日」にあって自然界は、天上にはほぼ満月を光らせ、地上には天変地異なく、無難に過ぎました。人間界の一部にあっては、セブン&アイ・ホールデイングスが持つ「そごう・西武」のアメリカ系投資ファンドへの売却がありました。一企業の栄枯盛衰とはいえ、世の中の様変わりように驚愕しました。西武デパート池袋本店のこののちの帰趨は、この先話題を呼び続けそうです。
 私事では、内視鏡検査結果は無傷放免となりました。それよりなにより、この先は大腸および胃カメラ共に、予約から解放されました。気分を良くした私は、買い物行動に馳せました。そして、妻とわが好みの食品の買い物に大盤(大枚)振る舞いをしました。すなわち、サバとアジ寿司の二折に加えて、さらには真鯛の刺身(熊本産)、なおかねての念願を果たしました。すなわちそれは、子どもの頃に食べ続けていたクジラの赤身の刺身(南氷洋産)を買い乗せしました。
 阪神タイガースは勝ちました。スヤスヤと眠りに就きました。なのに起きて、9月2日(土曜日)。書くことも、書く気力もありません。すっかり、怠惰心が根づいています。眺める大空には浮雲一つなく、大海原とまがう青空が広く渡り、日本晴れの夜明けが訪れています。この先また、いつものように、しばし大空を眺めます。

防災の日

 熱帯夜、真夏日、そして猛暑日は、期限切れ間近になり、8月が過ぎて9月になりました。季節は、初秋から中秋へと向かっています。一方でいよいよ、本格的な台風シーズンの幕開けです。ネットの台風情報によれば、こう記されていました。現在、日本列島の南の島付近には、9号、11号、12号、すなわちトリプル台風が存在し、さらには13号、14号の「台風の卵」が生まれていると言う。
 卵が育てば三つを超えて、五つの台風の乱れ打ちになりかねません。台風情報を凌ぐ恐ろしさは、「地震、雷、火事、親父」の筆頭に位置する地震、すなわち震災の恐ろしさです。地震は台風と比べて、事前情報はまったくなく、文字どおりいつ何時、忘れた頃にやってくる恐ろしさです。きょう「防災の日」(9月1日、金曜日)は、かつての「震災記念日」から、呼び名を変えています。震災記念日の発端は、「関東大震災」です。私は電子辞書を開いて、教科書代わりに関東大震災の復習を試みました。関東大地震の発生は、わが誕生年17年前です。以下は、電子辞書記載の文章を指先難渋して移記したものです。文章だけでも、十分に恐ろしさを伝えています。
 【関東大震災】:「大正期の大地震、関東大震災によって起きた大災害。1923年(大正12)9月1日午前11時58分、関東地方南部に大地震が発生、規模マグニチュード7・9、震源は相模湾西北部と計測された。地震は小田原、根府川方面が最も激烈であったが、東京、横浜では地震による火災が加わり甚大な被害を生んだ。東京は3日未明まで燃え続け、下町一帯から山手の一部にかけて全市の3分の2が焼失、本所の被服廠跡では火の旋風で一挙に3万8000人が焼死。横浜では煉瓦造りの洋館などが倒壊し多くの圧死者を出し、全市街がほとんど消失ないし全半壊し、4日まで救援の手が届かなかった。被害は死者9万9331名、負傷者10万3733名、行方不明者4万3746名、全壊家屋12万8266戸、半壊家屋12万6233戸、焼失家屋44万712戸、流失家屋868戸、罹災者340万名」
 生きることの困難さをあらためて知る月替わりです。薄っすらと夜が明けて、きょうの私には朝の9時に予約されている、先日の内視鏡(大腸)検査の結果を聞く通院があります。それが済めば帰宅して、こんどは7度目の新コロナにかかわる予防注射の予約行動が控えています。しかし、台風災害や震災に比べれば、嘆くには及ばない人知の授かりものです。「防災の日」、すなわち「治に居て乱を忘れず」、わが肝に銘ずる人生訓の一つです。

八月最終日

 8月31日(木曜日)。月最終日の夜明け前にあり、まもなく夜明けを迎えます。昼間が短く夜間が長い頃にあってその証しは、なおこの先、日を追って加速度を増してまいります。自然界の営みゆえにあらがうことはできずに、はやり歌の文句を浮かべています。確かに、「時の流れに身をまかせて」、生きるより仕方ありません。
 過ぎ行く8月は、雨の日の少ない暑い日が続きました。そのせいで人間はもとより、命あるものすべて、かつまた地上や地中に息づく樹木草類、虫けらにいたるまで、息づく困難に見舞われました。もちろん私は、空中を飛び交う鳥たち、海中や水中に泳ぐ魚たちは、暑い夏はどうだったかな? など、知るよしはありません。私事で言えば暑い夏は、確かに身に堪えました。実際にはこのことを口実にして、文章書きは飛び飛びになり、かなり休みました。挙句、もはや完走(継続の完結)など、夢まぼろしとなりました。このことでは換言すれば、きわめて消化不良の夏に甘んじました。だからと言って暑い夏が過ぎすれば、モチベーション(意欲)モリモリの当てどなど、まったくありません。人生の晩年を生きる者のつらさが身に沁みています。しかしながら頃は、清々しい初秋を迎えています。私は自然界の恵みに抱っこされて、なお生き続けるつもりです。
 明日(9月1日)は、先日の内視鏡検査の結果を聞くための予約通院(午前9時)があります。4日には新たな入れ歯の型取りのため、歯医者への予約通院があります。この後にはこれまた、眼医者における緑内障経過観察のための予約通院があります。明日あたりには三つの薬剤切れにともなう、診察および薬局通いの予定がります。恥を晒してまでも書けば薬剤は、クレアニチン(腎不全)、LDLコレステロール(悪玉)の基準値超えによるもの、さらには便秘薬です。こうまでしてわが命は、この先を生きる価値があるのだろうか? と、自己矛盾の考察と自問自答の繰り返しに苛まれています。
 茶の間の傍らでは配偶者(妻)が、日々生きるために苦しんでいます。だから私が音を上げては、「主人」という敬称は、はるかかなたへ格下げです。清々しい秋の朝の夜明けが訪れました。月替わって天変地異さえなければ、私は明日も生き続けます。しかしたぶん、文章はいっそう休み休みになりそうです。生きていることだけでも「幸福」なのか、人生の晩年に在っては、「幸福」の色合いは、日々様変わりを続けています。

秋の朝

 8月30日(水曜日)、自然界はすっかり秋モードへ変わりました。身近なところでその証しは、朝夕の風の冷ややかさです。さらに一つ加えれば、朝、昼、夕の空の高さと色の澄明さと美しさです。現在の夜明けの空は、まさしく秋の朝の証しを清々しく演じています。青く澄みわたる大空には、真っ白くちぎれた浮雲が浮かんでいます。そして、朝日が大空をキャンパス替わりにしてそれらを照らし、壮大なパノラマ図を描いています。いっとき大空は、朝焼けみたいな彩りを見せていました。ところがそれは消えて、今は青色と白色のツートンカラーで、これまた絵になる風景を演じています。確かな、清々しい初秋の朝の訪れです。おのずから自然界は、朝だけにかぎらず、朝、昼、夕、そして夜の月光など、恵みを変えてわが気分を癒してくれます。
 きのうの私は、予約済に内視鏡(大腸)検査の当日であり、ほぼ一日中その対応に明け暮れました。検査結果は、明後日(9月1日)の午前9時の予約となっています。このほか、このところの私は、医療行動(通院と薬剤の服用)に追い立てられています。挙句、現在のわが日常行動は、これらに買い物行動を加えた二本立てです。かつての映画見物のように娯楽であれば、二本立てでも、三本立てでもお構いなしです。しかし今や、そんな心境は夢まぼろしです。
 私にかぎらず生きている人間は、なお生きるための悩みは底なしです。これを和らげてくれるのは、自然界の恵みとそれを寿ぐ謳歌です。「まん丸のお月さん」を目がけて、月ロケット発射など、人間の驕りであり、愚の骨頂です。自然界を人間の欲得まみれに変えるのは、人間の悪知恵です。しばし私は、秋の朝が恵む大空のパノラマを愉しみます。わが気分癒しの、一等賞です。

休みます

 8月27日(日曜日)、初秋の候。さわやかな朝風、秋風、吹いていて、起き立ての気分は良好です。窓を開けて直下を眺めると、道路上には枯葉や落ち葉があちこちへ舞っています。日曜日の朝の散歩常連組は、早や立ちです。道路を掃いてさわやかな気分を恵むため、パソコンを閉じて急いで向かいます。

季節の恵み

 8月26日(土曜日)、清々しくかつのどかに夜明けが訪れている。これまで、夏の朝という表現を多く用いてきたけれど、もうお蔵入りにしなければならない。なぜなら、季節は秋冷の候にある。朝夕の風、昼間の大空そして日光は、すっかり秋の装いへ変わっている。風はさわやかに冷えて、大空は天高く深海の色のごとくに青色を深めている。未だに残暑の候は続くけれど、それとてもはや期間限定である。
 人間いや私は、欲張りである。夏が過ぎようとすれば、夏の長居を願うところがある。去りゆくものへの挽歌と言えるものなのかもしれない。それはそれで人間特有の心情であり、捨て去るものでも、恥ずべきものでもない。いや、誇らしいものなのかもしれない。「生きとし生けるもの」にあって人間は、唯一感情の動物である。すると感情のほとばしりは、イの一番に季節感に表れる。すなわち人間は、季節感に鈍感になったときこそ、もはや「生きる屍(しかばね)」と、言えそうである。だとしたら私は、まだ生きている。
 雨戸開けっぴろげの前面の窓ガラスを通して私は、一か所白雲を抱く広大な青空を眺めている。「早起きは三文の徳」。いやいや、測り知れない無償の眺め、徳だらけの空の眺めである。煩悩渦巻く人間界ではほとんどあり得ないけれど、自然界の恵みには素直に癒される。
 きょうの文章はネタなく、いや仕方なくこれで閉めるところである。そしてなおこの先、大空を眺め続けることにする。自然界の恵みには限りをつけることなく、私は存分に浸りたいのである。自然界ではウグイス、セミに代わり、虫たちが集(すだ)いて、出番を待っている。これまた、季節の恵みである。

惜しむ夏

 8月25日(金曜日)、未だ夜明け前にある。清々しい夏の夜明けを望んでいる。日本の国の真夏の風物詩と言われる高校野球は、107年ぶりに慶応高校(神奈川県代表校)が優勝を果たして終幕した。確かに、「栄冠には涙あり」。半面、甲子園球場は「オール慶応の応援団」で埋め尽くされ、かつ応援の仕方にいくらかの賛否を招いている。しかしながら、107年ぶりともなると、慶応高校に絡んでいれば熱狂応援は、壮観を極めても仕方のないところであろう。まずは、快挙を寿ぐところである。
 高校野球が終われば気候は、それまでどんなに暑い夏であっても、しだいに「惜しむ夏」へと移って行く。何事においても絶頂の物事は、終われば寂しさつのるものがある。確かにこの夏は、極めて暑い夏の連続だった。加えて、夕立はおろか、瞬時の日照り雨さえ降らない日照り続きだった。このことでわが身に堪えたのは、わが清掃区域の道路に、早やてまわしに枯れた落ち葉が敷き詰めていることだった。これには、日々往生するところがある。
 さて、どんなに暑くても生きているかぎり、日常生活は賄わなければならないという、生存の掟がある。掟に従いわがことで命に栄養を与え続けることは、普段の買い物行である。具体的には食料という買い物を断てば、たちまちわが命は枯葉のごとく枯れる。確かに、いっとき薬剤の点滴にすがる方法はある。しかしながらこれは、命にすれば何の足しにもならない。いや逆に、生き長らえようとする命をかえって蝕むだけである。「医食同源」という言葉があるけれど、この真意を歪めて書けば、命にとって大事なことでは、医術(薬剤)より食料のほうがはるかに勝っている。こんな野暮なことを心中に浮かべて私は、ちょっと動けば汗あふれる炎天下、食料買い出しの買い物行を繰り返している。
 わが買い物帰りの姿は、ほぼ決まってこうである。背中には大型の国防色のリュックを背負い、利き手の右手、そして左手、どちらにも市販の布既成の買い物袋の両提げである。それらにあふれるほどに嵩張るものを詰め、重たくてヨロヨロ足でわが家への帰途についている。かつては妻同行の買い物行もあったけれど、妻の身が壊れている現在は、専一わが単独行へ成り下がっている。もちろん、主要区間の往復には、「江ノ電バス」の乗車にありついている。しかしとうとう私は、茶の間の妻に対し、弱音を吐いた。
「買い物の帰りは、タクシーにするよ」
「パパ。いつもなの?」
「いつもではないけど、……、もうこりごりだよ」
 嗚呼、恨めしや! 「買い物難民」という言葉がわが身に、現実味を帯び始めている。
 汗だくだくで帰れば、茶の間の妻の早速の施しは、氷を山ほどに浮かべたコップいっぱいの水道水と、さらには買い置きの「井村屋のアズキバー(アイスキャンデー)」である。確かに、一杯の水道水も一本のアイスキャンデーも、食料の範疇なのであろう。それまでの不平不満は消えて、わが命は鼓動を打って、息づくのである。点滴では味わえない快感でもある。
 「惜しむ夏」、大空いっぱいにピカピカと光る、清々しい日本晴れの夏の朝が訪れている。人間の日常生活は案外、だれしもこんなところであろう。生きる悦びは、欲張らずこれぐらいで、十分なのかもしれない。

世の中の出来事、二つ

 8月24日(木曜日)。目覚めてみればすっかり夜が明けて、朝日がカンカン照りに輝いている。文章を書く時間はない。それゆえに朝日新聞の朝刊・きょう付け(24日)の記事にすがり、二つの出来事を転記し記録に留めるものである。一つ目は、こうである。第105回全国高校野球選手権記念大会は23日、兵庫県西宮市の阪神甲子園球場で決勝があり、慶応(神奈川)が8-2で仙台育英(宮城)を破り、1916(大正5)年の第2回大会以来107年ぶり2度目の優勝を果たした。昨夏、東北勢としては初優勝した仙台育英の史上7校目の連覇はならなかった。二つ目は、このことである。東京電力福島第一原発の処理水について、東電は早ければ24日午後1時から海への放出を始める。廃炉完了の目標の2051年までに終える計画だ。経済産業省は23日、放出を前に風評・流通対策の会議を開き、小売業界の団体トップに、「三陸常磐もの」の取り扱いや販売促進を求めた。
 どちらも長い年月だ。残り短いわが命には、行き先知らぬ出来事である。もちろん、この記録を再び読み返すことは無さそうである。世の中の出来事は、悲喜交々に無限である。だとしたら、清々しい日本晴れの朝の、今を愉しむことが最良かつ最大の悦びであろう。ウグイスの声はすっかり途絶え、セミの声は鳴き焦っている。人間は、笑ったり、泣いたりである。