ひぐらしの記
前田静良 作
リニューアルしました。
2014.10.27カウンター設置
連載『少年』、五日目
母は道下の家で生まれた。明治三十七年二月、早田家の一男四女の二女として誕生している。母は井尻集落で生まれて、田中井手集落の前田吾一に嫁いだ。里と嫁ぎ先の間には高木や民家などはなく、ほかにも視界を遮るものは何もない。農家で生まれた母は、庭先から続く田んぼ仕事の合間に、農家を兼ねて水車を営む父の男ぶりを見ていた。少年の母と父は、大正十四年の七月に華燭の典をあげた。このときの母は二十一歳、一方、父は四十歳だった。父には途轍もない若い花嫁だった。母は初婚だったが、父は再婚だった。年齢が十九も開いているうえに父は、先妻のトジュ様との間に生まれ遺した五人の子どもたちを連れて、新郎の席についた。四十歳の子連れ男が、若い花嫁をもらったのだ。母と父は、口さがない村雀たちのやんやの話題になったであろう。少年はこの縁組をだれがとりもったのか? など、知るよしない。
少年の母は、内田川を挟んだ里の田んぼから、遠目に眼を凝らして田中井手の父の姿をチラチラと見ていたであろう。たぶん、このときの母は、痛々しさに加えて憐憫の情に駆られていたのかもしれない。なぜなら母は、トジュ様の病没のあとに残された父と多くの子どもたちを、かなり不憫に思っていたはずである。それでも、優しい母はそれを承知で父へ嫁いだ。母の立場でかんがみれば、「なぜ? 結婚するの! 同情するのは止めといたら……」と、言いたくなる母の結婚条件だった。少年には父を助けるだけの母の結婚だったら、母がかわいそうに思えたはずである。少年がいくら頭をめぐらしても正解のない、母と父の出会いであり結婚に思えた。
母は決意して井尻集落から田中井手の父のもとへ、「田中井手橋」を渡った。めでたさの中にあって、大きな賭けみたいな母の結婚だったのである。ところが父は、大きな真心と愛情に優しさを添えて、若い身空を思い悩める母の気持ちを受け止めてくれた。母の賭けは、村雀たちの嘲笑を見返すかのように勝利した。母は田中井手の父のもとで、確かに日々忍びながらも一歩一歩、母の新たな生活を固めていった。
少年の父は、二度目の結婚だった。父は明治十八年二月、村中の「小伏野集落」で生まれている。少年にとって祖父にあたる前田彦三郎は、長女、二女、そして三番目に父をもうけた。姉二人がいるとはいえ父は、祖父の一人息子であり待望の長男だったのである。父の最初の結婚は二十三歳で、花嫁は近隣の「辻集落」の鶴井トジュ様だった。トジュ様は三つ年下で、二十三歳と二十歳のカップルが誕生した。祝儀の模様や、新居をどこに構えたかなど、少年の知るところではない。少年の生まれる前の遠い、明治四十一年七月のできごとであった。もちろん少年の推察のうえだが新郎新婦は好き合って、甘美な新婚生活をスタートさせたであろう。
トジュ様は、長男護、長女スイコ、二男利行、二女キヨコ、三男利清の五人の子どもたちを産んだ。少年はトジュ様を知ることはなかったが、トジュ様の兄で伯父様にあたる鶴井仁平さんは知った。伯父さんはとても人懐こいひとだった。いつもニコニコ顔の伯父さんを見ると少年は、妹のトジュ様もまた、心根優しい人だったろうと思った。少年にとって異母のトジュ様は、会うことのできない伝説の人だった。しかし、トジュ様が産んだ子どもたち(きょうだい)にかんがみて、母として思いを馳せ、偲ぶことはできる。少年はそうすることで、トジュ様からは「母の愛」を、異母の兄姉たちからは「きょうだい愛」を授かっていた。血のつながりはなくても、異母きょうだいを通して母親と子の縁はある。
少年にとって、二人の母の愛情に耽れることは嬉しいことだった。二人の母は、宿命のように父を愛してくれた。父は、二人の母の愛に応えてくれた。その証しには父と二人の母の生活、異母と母がつないだきょうだい愛に、少年は十分にそれをみとれるものがある。母はトジュ様が遺した子どもたちを慈しみ、みずからも多くの子どもたちを産んだ。それらの名は、長女セツコ、長男一良、二女テルコ、二男次弘、三男豊、四男良弘、五男静良(少年)、そして、最後尾は六男敏弘である。少年は、昭和十五年七月十五日、呱呱の声を上げた。内田村においては、七月盆のさ中である。
連載『少年』、四日目
少年の家のある所を村中では、「田中井手集落」と、呼んだ。田中井手集落には少年の家を含めて、四、五軒があるにすぎなかった。隣家とはくっついていたが、ほかは飛び飛びにあった。先に書いた、マキさんの家もその一つだった。きわめて小さな集落である。ところが、むかえの田中正雄さんが豪壮な家造りで権勢をもたれていた頃には、その一軒で人が寄り合いいつも賑わっていた。茅葺きの多い村中にあって田中さんの家の屋根は、分厚い瓦葺きで巨大な二階建てだった。二階には宴会場があり、富山県から巡って来る配置薬の人の一夜泊まりにもなっていた。一階では、よろずや風の商いをされていた。産交バスの定期路線・「山鹿市―内田村」間にあってここは一時期、内田村の終発着所になっていた。少年の家の隣は、古家さんと言った。
少年の家と隣の家は、家の間に共同で水車を回し、どちらも精米業を営んでいた。田中井手集落から県道を上方へ進めば、内田川を越える「田中井手橋」がかかり、着けば矢谷集落になる。その先も県道は一本道で、いくつかの集落を越えて山道に入り、熊本県と大分県の県境をなす峠へ向かう。下方へ進めば「仏ン坂」を越えて、はるかに遠い来民町、山鹿市の街中へと向かう。夕闇が迫っていた。少年は空腹をおぼえた。夢中で野山を歩き回った。薄闇になり、仏ン坂が気になった。母の顔が浮かんだ。仏ン坂を下れば、少年の家は近くなる。少年は、わが家へ向かって急いだ。なぜならこのあたり一帯は、坂の名前から連想して普段から、少年にかぎらず子どもたちを怖がらせていた。特に夜間など、子どもたちは通りたくない道だった。県道とはいえ舗装はなく、小石が転がり、砂利が剥き出し、あちこちに穴ぼこがあった。バスが通ると砂埃が舞い上がり、一瞬視界を遮った。県道沿いには、田中井手橋の下から取水した農業用水が小出をなしていた。小出の脇には笹が生い茂り、葉擦れの音を「ササ、ササ、サササッ」と、震わした。足元で崩れる砂利の音、自分の足音、夜の静寂にあってはすべての音が、仏や幽霊を思わせた。夜に歩くと少年は、恐怖心にとりつかれた。臆病というより、少年には未だ、物音がもたらす恐怖心を払う、知恵や勇気が育ってなかった。少年の心は怯えた。物音は全部、仏や幽霊の声のような気がした。
昼間であっても仏ン坂だけは、一目散に走った。いっときも早く、通り抜けたかった。ただ、自分が走ると、仏も幽霊も一緒に走っているように感じた。少年は、なお夢中で走った。左前方にわが家と隣の明かりが近づいた。仏ン坂を下りきると県道の脇から、石ころコロコロの狭苦しい石がら道になった。この道を踏めば、わが家までは100メートル足らずである。この道に辿り着けば恐怖心は去り、少年の心はようやく普段精神状態になりに和んだ。母が、「遅かったばいね!」と言って、毬栗頭を撫でた。
母の里は矢谷集落からやや離れた「井尻集落」の中にある。母の里の家は、田中井手の少年の家から見遣れば、内田川を挟んで川向こうに見える。直線的に測れば200メートルほどである。しかし、少年の家の裏からは川橋がないため、川を渡って行くことはできない。だからいつもの母は、県道にかかる「田中井手橋」を渡り矢谷に着き、さらには左に回りしばらく歩く。やがて、また左に逸れて小道へ入る。遠回りというよりこの正規の道を踏めば、この間は500メートルほどである。井尻集落には、上の家、下の家と呼ばれる、二軒の家が建っていた。
連載『少年』、三日目
少年の家から100メートルほどの先には、往還(県道)を挟んで同じ「田中井手集落」に住む、古田マキさんの家があった。マキさんは、少年には訳知らずの独り暮らしだった。庭の一角には裏山の地中から、冷たい山水が滾々と湧き出ていた。特に夏休みにあっての少年は、バケツを両手に提げて、ほぼ毎日もらい水に出かけた。「ごめんください。水をもらいに来ました」と大声を上げて、勝手に汲んだ。道々、溢れ出る水を零しながら持ち帰った。冷たい山水のもらいは、ソーメンを冷やすための、母への家事手伝いだった。
隣家の遊び仲間の子どもたちも勝手に汲んでは、これまたほぼ毎日持ち帰った。少年から見るマキさんは、もうかなりのお年寄りだった。そのうえ独り暮らしのせいか、家の中はいつもひっそり閑としていた。少年はマキさんのお声で、「はい、自由に汲みなっせ……」という、許しを得ることはなかった。家の庭中には、時季物のニガウリがぶら下がっていたり、赤茶けたカボチャが転がったりしていた。家の周囲には、わが家や隣家にはない、高木の梨の木と枇杷の木があった。台風や大風のときには、少年と隣家の子どもたちは共に納屋奥にしゃがんで、落ちるやいな脱兎の如く拾いに走った。
マキさんの家の裏山へ登ると、山下集落の人のクヌギ林があった。林の中には、青空に白煙たなびく炭焼き窯があった。少年は、いくつかのクヌギの幹を強く足蹴りした。クワガタがパラパラと、足もとの笹藪に落ちた。笹藪を分けて拾い上げると、クワガタは鋭い角をぎりぎりに立てて抵抗した。それでも少年は構わず、クワガタの角間に小指の先を入れた。少年は、クワガタの角の力を試してみたかったのである。クワガタは死ぬ物狂いで、少年の指先にくらいついた。「痛てて……」、少年は慌てて手首を強く振った。クワガタは少年の指先から離れて、笹藪のどこかへ飛んだ。少年の指先には、出来立てほやほやの鮮血が滲んだ。少年は、バカなことをしたことを悔やんだ。
少年は、秋にはドングリを拾った。椎の木の下では、炒って食べるために椎の実を拾った。雑木林の中では、蔓を頼りにして山芋を掘った。あちこち探し回して見つけは、山柿、山ぶどう、木通(アケビ)、郁子(ムベ)などを千切って食べた。少年は、山の冷ややかな空気もたくさん吸った。里山は少年の家からごく近くにあり、突っかけ草履でも登れるほどに馴染んでいた。クヌギ山に入らず左に曲がれば、狭い段々畑が二、三枚あった。そこには季節を変えて、サツマイモ、アズキ、ジャガイモ、エダマメ、トウキビなどが植えられていた。
マキさんの家の脇には一本の往還(県道)が走り、一日に何往復かの定期路線バス(産交バス・九州産業交通)と、馬車引きさんが引く馬車の主要道路を成していた。村人はそれらが通ると路肩へ寄り、通り過ぎるまで道を空けた。
里山の奥に入ると谷あいには一か所、小さな溜まりがあり、山鳥たちの格好の水浴び場となっていた。同時にそこは、少年にとっても、とっておきの場所だった。溜まりにはメジロやウグイスなどが、水浴びに舞い降りた。少年はそれを狙って、長く飼い慣らしている愛鳥のメスのメジロを囮(おとり)に入れたメジロ籠を、溜まり近くの小枝に吊るした。メジロ籠には、鳥もちを満遍なく塗ったくった細木を差した。鳥もちのついた細木の先には、小鳥が好む熟柿やツバキの花をすげた。仕掛けを終えると少年は、20メートルほど離れた高木の陰に身構えた。メジロが鳥もちにバタつくとドドッと駆けて、神妙に鳥もちから外した。メジロはともかく、利口なウグイスは少年だけでなく、隣家の遊び仲間の子どもたちのだれにも、たったの一度さえ捕らえることはできなかった。腹いせに子どもたちと呼び合うウグイスの名は、「バカ」となっていた。
連載『少年』、二日目
少年の家は、内田川の川岸に建っていた。川をじかに背負っていた。家は山背に建てば、四季折々の山の移ろいが楽しめる。そのぶん、山崩れが隣り合わせにある。川背に建てば、春先の水面の陽炎に目を細めて、瀬音に身を委ねることができる。だけど、洪水の恐怖に慄くこととなる。
少年の家は内田川の水量を頼りにして水車を回し、精米業を営んでいた。内田川が精米業を恵んでなりわいが立ち、大勢の家族はつつがなく暮らしていた。矢谷、滝の下、二又瀬、深瀬などにも水車が回っていた。水車の音は、のんびりと「コトコト、コットン」とか、「ゴットン、ゴットン」ではなく、轟音を唸らして速回りをしていた。水車の回転は水量の加減で変調し、水量しだいで速くも遅くもなった。いっときも家族は、水車の音に気を懸けていた。戸外の取水口には、水量調節機能の「さぶた」がしつらえてあった。水車の回転音に変調を感じると少年の母は、矢玉のごとく飛び出し、一目散にさぶたの所へ走った。
水車の家内仕事は、主に母の役割だった。水車は、母の動きと手捌きで回っていた。少年の母は、水車番の家中のエンジニアであった。母は大家族を支え一方では、せわしなく回る精米機や製粉機などをエネルギッシュに操っていた。母の働きぶりを見る少年は、母は何に憑かれてこんなに働くのだろうかと、思った。母の左の手首には、大きな傷痕があった。それは少年に記憶が芽生える前に、製粉機のベルトに巻き込まれたおりのものと言っていた。大参事なのに、少年には母の事故の記憶はない。しかし、いつもの母は、怯むことなく、働きどうしだった。少年は、このことだけでも「母は強い」と、実感した。
水車は大水の日などでは恐怖まじりに、真っ先に村人の口の端にのぼった。どこどこの家が水に浸かったとか、もう危ないとか、村中の被害状況は一番先に、あちこちの水車の家から伝わった。その証しに地区の消防団は、先ずは水車の家に見張りに張り付いていた。
周囲の山並みは、少年の心を離さなかった。はるかに望む連山の風景もあれば、庭先からちょっと入るほどに近い里山もある。内田村は自然界の織り成す山・川のなかにあって、村人は農山村の産物で暮らしを賄っていた。少年にとって山は、風景を愉しむ山と、生活の場としての山に、分かれていた。眺望を愉しむ山は、東方遠くに県境の峰を望み、近くには里山の雄「相良山」を眺めていた。
少年の家から相良山は、内田川を挟んでいた。川向こうには、川岸伝いに平坦な田んぼが連なっていた。やがて田んぼは狭隘な畑地へ変わり、その先はなお狭い段々畑の重ねを成していた。段々畑は、相良山の山裾へせり上がっていた。相良山の裾野は地元・相良地区共有の村山を成し、人工の耕地となり一面、栗林になっていた。遠峯の稜線は主に国有林の杉林になり、下る所の合間には孟宗林が混じり、空の色と山の色をくっきり分けていた。
少年の家から眺める相良山は、典型的なおむすび形で、里山の風情を漂わせて、少年、家族、村人を和ませていた。生活の場の山は、少年の家が加わる近くの山下集落の山だった。ここにもまた、この地区の共有林があり、シイタケ目当てのクヌギ林と、炭焼きや薪取り用の雑木林が山を成していた。竈(かまど)の薪(たきぎ)は、ほとんどこの共有林から取り、ようよう背負って、ヨロヨロと持ち帰った。
連載『少年』、一日目
4月24日(月曜日)、ほぼいつもの時間に目覚めて、起き出している。しかし、現在の心境は、普段とは様変わっている。わが人生は、すでにカウントダウンのなかにある。未来はなく、過去にしがみついても、もはやいっときである。私は聖人君子ではなく、やはり心寂しいものがある。私は定年後の有り余る時間を考慮して、定年(60歳)間近になると、文字どおり文章の六十(歳)の手習いに着手した。手元には何ら資料(記録)もなく、浮かぶままにほぼ一日がかりで、書き殴りの文章を書き終えた。ところが、苦心したことがもったいなくて、全国公募誌に応募し、急いで最寄りのポストへ投函した。すると、2000年2月・第234号の目次にわが名を見つけた。そして、こんな表彰に浴していたのである。第72回コスモス文学新人賞奨励賞(ノンフィクション部門、「少年」(99枚)、前田静良 神奈川県。
「ひぐらしの記」には場違いなので、私は大沢さまにお許しを請うた。私は2000年9月に、六十歳で定年退職をしている。焦る気持ちで、『少年』を読み直し、身勝手にもこの先長く、連載を決めたのである。これまで私は、だれも読まないたくさんの文章を書いてきた。もちろんこのたびの連載も、読む人はいない。しかし、わが文章手習いの原点であり、余生短いための焦燥感もある。心して、『少年』の連載のお許しを願うものである。
『少年』、連載一日目である。
内田小学校一年生になったばかりの少年は、わが家に向かって石蹴り遊びをしながら帰っていた。いつ帰り着くやらあてどもない。緊張した入学式から日が経って、少年は学校生活に馴染み始めていた。石がコロコロと転げた。転げて、道路の路肩の草むらに止まった。少年は大きく息を吸った。また少年は、石を蹴った 。追っかけて走ると、背中のランドセルがカタカタと鳴った。ランドセルは、まだ少年の背中に馴染んでいない。少年が走るたびに、ランドセルは上下左右に跳ねて、よそごとのようにソッポを向いた。
蹴った石が、こんどは遠くへ飛んだ。昼間の「仏(ほとけ)ン坂」は、少年の家が左手に見えて、少年から恐怖心は取り除かれていた。一年生の帰りを待つ母の顔が浮かんだ。少年は気ままに石を蹴って、わが家との距離を詰めていた。そのたびにランドセルの中で、真新しい教科書は、あちこちへぶつかった。教科書は少年の遊び心に、とばっちりをこうむった。
昼下がりを歩く少年の下校姿は、眠気を誘うほどにのどかである。少年の目に太陽の白い光が、石がら道に照り返り、少年はまぶしさで目の上に手をかざした。「内田川」の川面に沿って、村を貫く一本の県道がくねくねと曲がっている。少年の家と学校を結ぶ通学路は、この道以外にほかにはない。周囲を山並に囲まれた、当時の熊本県鹿本郡内田村(現菊鹿町)は、山背の鄙びた農山村の佇まいを見せていた。
内田村は県の北部地域に位置し、遠峯は熊本県、福岡県、大分県との県境をなしている。現在の菊鹿町は、旧内田村、旧六郷村、そして近隣の菊池郡旧城北村のとの三村合併のおりに菊鹿村となり、十年後に町名に変えたものである。村の中央には一筋の川が流れていた。村人は、内田川とも、「上内田川」とも、呼んでいた。山あいから流れる川は、蛇行を繰り返してその先は大海へ向かう。内田川は途中、菊池川に呑み込まれて川の名を消して、有明海へとそそいでいる。
村の南に開けた鹿本・菊池平野は、平野とは名ばかりで、狭い盆地の中に田園風景を広げていた。北の山部に向かっては、猫の額ほどの段々畑が重なり合い、山裾を踏めば奥深い国有林へと連なっている。村には自然界の息遣いだけが聞こえて、人の暮らし向きはひっそり閑としている。
御礼
平洋子様。お義母様(恩師)の近況報告と元気なお姿(写真)を賜り、感謝にたえません。ありがとうございました。この先は、恩師がうら若い受け持ちの頃の呼称、「渕上先生」で記します。心中に根づいている懐かしさを、いっそう強く蘇らせるためです。渕上先生のお母様は、わが母の里・矢谷集落における、共に生涯にわたる幼馴染の仲の良い同級生でした。生誕地はいくらか離れて、お母様は尾上地区、わが母は井尻地区です。わが記憶によればお母様のお名前は、「たか子様」だったと思います。しょっちゅう母が、「たか子さん、たか子さん」と、言っていたと記憶しています。記憶間違いであれば、御免なさい。さらには、渕上先生とわが長兄は同級生、これに留まらず四兄にも、仲の良い同級生がおられました。お名前は、こちらは間違いなく、「たえ子様」でした。私の知るお母様、渕上先生、たえ子様は、村一番の美人系で、名を馳せていました。このまえお電話したおりの洋子様は、こうお話されました。
「義母が里へ行ってみたいと、言ってます」
私はこう応えました。
「お里は、尾上ですね。ご実家は、長い上り坂の右脇にありました。そこは、精米済の米の配達のおり、最も汗をかいて立ち止まり、二人で一息ついたところです」
四兄が米俵を積んだリヤカーを引き、私は後ろから懸命に押していました。私は、(渕上先生、おられるかな?)と、四兄は(たえ子さん、おられるかな?)と、期待を弾ませて、チラッと家の中を見遣っていました。
洋子様、今度は渕上先生の願いを叶えてやってください。たぶん、無理かもしれません。もし、叶えられたら、身勝手ながらまた、ご投稿文をお願いします。末尾になりましたけれど、早々の「タケノコ、ふるさと便」を賜り、重ねて御礼申し上げます。柔らかで滋味強く、鱈腹食べました。揮毫の掛塾は、名人・ご主人の作ですね。生け花、鯉のぼり舞う、ふるさと風景もいいですね。添えられている写真のすべてを目を凝らして、篤と眺めています。
死期が近づいている
4月22日(土曜日)、5:02,天気模様のわかる夜明けはまだ先である。現在は、朝日の見えない夜空である。もう、朝日が見えてもいい時間帯である。曇り空の夜明けになるのかもしれない。もはや、わが文章はネタ不足である。「ひぐらしの記」は継続が断たれて、頓挫になりそうである。文章が書けなければ、この先の起き立ての時間はなんで埋めようかと、思案をめぐらしていた。挙句、本棚からかつて投稿したことのある全国公募誌「コスモス文学」(コスモス文学の会・長崎市)を取り出した。そこれには「第237号・2000年5月、同人誌」と、記されていた。
この冊子はもはや、記憶から遠ざかっていた。366ページを成す、分厚いものである。誌面のジャンルには、「随筆・ノンフィクション」と、記されている。今号の筆者数を粗く数えてみると、80人ほどが名を連ねていた。そして、それらの作品数は、一人で数編の人もあり、面倒くさくなり数えるのを止めた。これらの中には随筆部門にあって、わが投稿文の三編があった。ちなみにそれらの作品は、『父と母』(14枚)、『ふたりの旅』(7枚)、『パソコンが届いた日』(11枚)である。枚数とは、投稿文が400字詰めの原稿用紙の数(換算字数)である。私の場合は同人になった思いはなく、行き当たりばったりに何度かの応募を試みている。ところが幸運にも一度、随筆部門で賞にあずかり、そして最もうれしかったことでは、ノンフィクション部門で、「コスモス文学新人奨励賞『少年』(98枚)を戴いたことである。久しぶりにそのおりに届けられた大きな額入り賞状を眺めていると、平成12年211日と記されている。ノンフィクション部門への投稿は一度切りである。随筆部門は、ほかにも二、三度ある。もちろん、お金をかけての投稿ゆえに見切りどきが肝心であり、文章手習い初めの一時期のことにすぎない。
今朝は、『父と母』だけを読み返した。ちょっぴり自惚れてみよう。良く書けている。こんな思い出に耽るようでは、いよいよわが死期が近づいている。もちろん、「ひぐらしの記」にはふさわしくない。しかし、ネタ不足を埋めて、日を継いで書き連ねて見たくなっている。もちろん、みずから駄文とは言いたくない。なぜなら、わが苦心惨憺の証しである。だれも、読んでくれる人はいなかった。だから無念、もったいない気分横溢である。きょうは埋めても、明日の起き立ての時間は埋めようない。過去文の連載しようかな……。夜明けてみれば、朝日の見えない雨嵐である。
出会いがしらの「望郷」
4月21日(金曜日)、5:18,朝日の輝きを隠し、薄っすらと夜が明けている。きょうの天気予報は聞きそびれている。きのうに続いて昼間は、夏日の訪れるになるのであろうか。確かにことしの気象は、前倒しの早めぐり観を示している。いつもであればゴールデンウイークあたりに、満開に咲き誇る庭中のツツジは、すでに満開を終えて散り急いでいる。異常気象が飛んだ天変地異をもたらすのではないかと、かなり戦々恐々するところにある。自然界の営みは、文字どおり自然界まかせである。私にかぎらず、人間界のなすすべはない。
きのう、茶の間のソファに背凭れていると、NHKアナウンサーの声に、ドキッとした。「山鹿市」がこの日の日本列島における、最も暑い(高温)地域として伝えられたのである。すばやくテレビ画面に目を移すと、数行並んだ筆頭の位置に山鹿市があり、数値は30度を超えていた。わがふるさとは、熊本県山鹿市菊鹿町である。わが子どもの頃の行政名は、熊本県鹿本郡内田村であった。当時の内田村はのちに、近隣の六郷村、そして菊池郡城北村との3村合併により菊鹿村となり、十年後に行政名を菊鹿町と変えた。こののち、平成の大合併の嵐に巻き込まれて、山鹿市と鹿本郡内の4町、すなわち1市4町の合併により、山鹿市菊鹿町として現存する。行政名は変えても旧内田村は、当時より村人の数を大きく減らし、過疎化を強めて鄙(ひな)びたままである。確かに、村の風景は変わりようなく、狭隘な田畑や段々畑を中に置いて、山間(やまあい)の盆地を成している。点々とする集落にあって、一筋の県道と一流れの「内田川」を取り囲み里山がはべり、遠峯には熊本県、福岡県、大分県と、県境を分ける国有林が連なっている。遠峯はおおむね杉林である。里山を成すのは雑木林である。椚山(くぬぎやま)はシイタケ作りを成し、栽培物の栗山、タケノコを生み出す孟宗林がある。遠峯の杉林は、世の中のご多分に漏れず杉の需要がなく、手入れや伐採なく聳えるままである。
きのう、甥っ子(長姉の長男)から、「タケノコ、ふるさと便」が届いた。甥っ子は、汗タラタラに、タケノコ掘りをしたのであろうかと思い、ありがたくお礼の電話を入れた。ふるさとは山菜の季節である。甥っ子は、こんなことを言った。「ことしは、タケノコがいつもより早く出てしまい、もう終(しま)いのほうになってしまった。だから、硬いかもしればってん……」。
早出の「柔らかいタケノコふるさと便」は、とうに平洋子様から届いて、鱈腹ご馳走になっている。書き殴りを御免蒙りたいと思う、今朝の文章である。おやおや、夏日を思わせる、朝日が輝き始めている。きょうもまた、ふるさと・山鹿市が高温のトップニュースになるのであろうか。難聴の耳を澄まし、近眼の目を凝らしていよう。6:21。
焦り
4月20日(木曜日)、曇天だがとうに夜が明けている。焦る心は弥増している。きのうはぐっすり寝た。きょうは寝すぎた。どちらにしても、文章はお陀仏である。二度寝にありつけないよりはるかに増しだが、わが心身には避けようのない焼きが回っている。おのずからこの先の文章は、沙汰止みになる。
きのうの私は、途絶えていたルーチン(日常生活)を取り戻すため、二つの行動を試みた。一つは、朝の道路の掃除である。一つは、昼間にあっては庭中の草取りである。いずれも、このところ萎えていた心を宥(なだ)めすかした自己発奮だった。しかしながら、その目的は未達のままである。それゆえ、この先のわが生き様が思いやられるところである。一方、自然界の恵みは、今を盛りに謳歌を極めている。庭中に這いつくばっていると、わが萎えた心身を真っ先にウグイスが鼓舞してくれた。わが世の時を謳うツツジや草花なども、ウグイスに引けを取らずに癒してくれた。やはり私は、自然界の恵みに篤と励まされ、箆棒(べらぼう)に癒されている。
きょうは書くまでもないことを書いて筆を折る、いや指先を止める。曇天は、のどかに明るくなっている。風薫る「五月(さつき)の空」が近づいている。私は、心身の修復を急がねばならない。
ルーチン
4月19日(水曜日)。5:41。ぐっすり眠れた。気分は良し。さあ、これから書こう。いや、書かない。青空に朝日が輝いている。久しぶりに、かつてのルーチン(朝の道路の掃除)へ向かおう。途切れていた、生活のリズムを取り戻すためである。まったく、自己都合の身勝手である。お顔見知りの散歩ご常連に人たちとの、朝の出会いがうれしく、すこぶる楽しみである。前田さんは「どうされたかな? 死んだかな? 」と、思われていたはずである。