ひぐらしの記
前田静良 作
リニューアルしました。
2014.10.27カウンター設置
連載『自分史・私』、完結のあてどはない
再び「掲示板」を汚す身勝手を許してください。恥を忍んでこれからこの先へ綴る文章は、前回の『少年』と相似た、書き殴りのみすぼらしい文章です。しかしながらこれまた、わが文章修業(60歳の手習い)の原点です。なかんずくこの文章は、「現代文藝社」(大沢久美子様主宰)の『流星群』への初投稿と思える、懐かしさつのるものです。大沢さまのご好意に感謝し、そしてささやかに報いるため、掲示板への再掲を試みるものです。書き殴りのエンドレスになりそうで完結叶わず、途中遺作に成り下がるかもしれません。それゆえにまた、「あしからず」という、自己都合の言葉を添えます。わが人生の晩年に付き纏う、「焦り」かもしれません。あらためて読み返すと、自分史の一端を成しています。だから表題は、かつての『内田川』から、『自分史・私』へ替えました。
『自分史・私』
他郷・鎌倉の自宅で目覚めた。他郷とはいえここは、終の棲家を成している。だからいつまでも他郷扱いにはせずに、仕方なくともこの地に馴染まなければならない。さわやかな気分で、書斎兼ベッドルームの窓から、露を帯びた山を眺めている。就寝時に降っていた雨は止んでいる。大空は、のちには晴れてくるかもしれない。白み始めている東の空を眺めながら、そんな予感に囚われていた。職場の同僚の多くは、日曜日には遅くまで床の中に居ると言う。ところが私は、休日も平日も変わりなく、早く起きてしまう。とりわけ日曜日など、飛びっきりの早起きである。出勤支度のない休日の夜明けがたまらなく好きだからである。
今年(平成12年・2000年)の九月末日付けで私には、昭和38年(1963年)4月に入社した医薬品会社(エーザイ)を、37年半の勤務を終えて、定年退職(60歳)が訪れる。残されている勤務日は、日に日に少なく押し迫る。
祝意と感謝
『流星群49号』の発行に際し、大沢さまにたいして、祝意と感謝を申し上げます。次号の50号は、25年継続の記念号になりますね。創刊のおりに私は、埼玉県和光市のご自宅に、書き手仲間の一人として集っています。そのときの仲間も現在は、だれひとりとして『流星群』の書き手に存在していません。ゆえに、『流星群』の誕生(創刊)から、現在を知るのは私だけです。『流星群』の歴史は、大沢さまの過去と現在の書き手への優しさ、大沢さまご自身の有り余る才能、さらには大沢さまの継続への執念への証しです。これらのことを知り、そしてそれらを伝えきれるのは、私だけです。だから私は、この文章を記しました。もちろん次号50号は、いまだ『流星群』の道のりにすぎません。わが生存あるかぎり『流星群』のみならず、妹編『流星群だより』、さらには本体「現代文藝社」の応援を続けます。『流星群49号』の発行案内を眺めているだけには耐えきれず、祝意と感謝の気持ちを書き添えました。大沢さま、ありがとうございます。お疲れ様です。二週おきのご実家帰りで、「望月窯と菜園」に興じ、しばし御身癒してください。
連載『桜つれづれ』、三日続き三日目(完結)
昭和二十二年初旬、まだ桜の花が散り残る頃、私は熊本県北部地域にある当時の内田村、村立内田小学校の正門をくぐった。花の盛りは過ぎていたけれど、校舎周りの桜の花はいくらか散り残り、ピカピカ一年生の心は華やいだ。繋いでいた温もりのある母の手の平から離されると、同じように母親に連れられてきた友達に交じり、私はおそるおそる土間のコンクリートの上に置かれていた踏み板を踏んだ。そして、右脇にあった下駄箱に履いてきた運動靴を入れた。初めて、学校の廊下に上がった。素足だったか、靴下を穿いていたか、何かの上履きか、あるいはスリッパに履き替えたのか、これらの記憶はまったくない。廊下の感触はガタガタと音を立てた踏み板とはまったく違って、滑りこけるようなすべすべした感触だった。全身に、うれしさと緊張感がすばやく駆けめぐった。
やがて、担任の渕上孝代先生の下、授業が始まると小学唱歌『さくら』を歌った。私は弥生(三月)の意味さえ知らないままに、馴染め始めたクラスの友達と大きな声で歌った。『さくら』を歌うとそれだけで、小学校一年生になった気分がこれまた全身に駆けめぐった。桜の花の季節になるといつも、私にはこのときの桜の花が懐かしくよみがえる。わが人生の原点(スタート)だったからなのかもしれない。そして桜の花は、こののちのわが人生行路に常に付き添っている。
私は内田村で年月を重ねて、中学生、高校生になった。高校を卒業すると上京して、昭和三十四年、大学生になった。四年後の昭和三十八年、大学を卒業するとそのまま東京で、社会人一年生になった。これまた、新調の背広に身を包んだ、ピカピカの社会人一年生だった。しかし、このときの桜の花は、小学校一年生で見た内田村のものとは趣(おもむき)を異にし、華の都・東京で散り残っていた。
桜の花は学び舎だけにかぎらず、そののちのわが人生行路の折節についてまわり、眺める風景は違っても、私自身を存分に愉しませてくれた。同時に桜の花は、常にわが小心を鼓舞し、強く生きるように励ましてくれた。換言すればわが人生行路は、桜の花との二人三脚とも言えるものだったのである。私には来年、還暦が訪れる。還暦とは、六十歳の異称という。そして古来、還暦の言い伝えには、六十年まわって再び、生まれた年の干支(えと)に還るというものがある。実際のところ私の場合は、童心すなわち小学校一年生の頃へ還るのであろう。だとしたら還暦、すなわち定年退職のおりに見る桜の花もまた、よみがえるピカピカの小学校一年生の気分で見たいものだ。しかしながらそれは、意図して還暦にことよせたわが切ない願望にすぎない。もとより、当時のように華やいだ気分で眺めることはできないであろう。欲のツッパリだけれど定年退職のおりに、仮にピカピカの小学校一年生の気分で桜の花を眺められたら、それこそ「祝還暦」に万々歳である。この先の一年のめぐりにあっては、私はできるだけそれが叶うように心して、身を引き締めた日常生活に努めようと決意する。そして、六十年を耐え忍び、再び迎える第二の人生のスタートにあっては、一陣の風に散り急ぐ桜の花のように、すぐに躓(つまず)き落ちないよう気張ろうと思う。実際の定年退職日は、きりよく西暦2000年(平成12年)9月末日である。できれば桜の花の散り際にあやかり、他人様に惜しまれて第二の人生へステップアップしたいものである。
『桜つれづれ』、すなわち私は、つれづれに桜の花と総じて桜木のことを書いてきた。あらためて、なぜ? 書いたのかと、自問を試みる。答えは桜の花の咲き様と散り様が、私のみならず人生行路の浮き沈みに似かよっているからである。共に「哀歓」があれば、共に「哀感」だけの場合もある。桜の花は咲いて人に楽しみを与えて、散ることで人を悲しませる。人生行路もほぼ同様である。だから私は、桜の花にかこつけて、わが人生行路を心象に映して見たかったのである。
桜の花はただ美しいだけで、人の心を惹くものではない。桜の花は咲いて散ることによって人に、ときには歓(よろこ)びと哀しみを(哀歓)をもたらし、またときには哀しみだけを(哀感)つのらせるのである。これこそまさしく、桜の花と人生行路がぴたりと符合し、共鳴するところでもある。両者共に、「盛者必衰(じょうしゃひっすい)の理(ことわり)あり」。これにも人は共感をおぼえて、人生行路の折節に桜の花と出合うと人は、茨道を桜の花と共に歩むのである。
連載『桜つれづれ』、三日続き二日目
桜の花をめぐるいろんな思いを胸に収めて、私は桜の花の下を歩いて行く。時を合わせるかのようにウグイスが、「ホケキョ、ホウケキョケキョ」と、鳴いている。桜前線の北上を待っていても、待つほどには桜の花は、私の前に長居をしてくれない。桜の花が自然界の摂理に遭遇し、一夜にしていのちを絶った光景を何度目にしたことだろう。
桜の花のいのちの絶ち方は、みずからの病葉(わくらば)や桜木が枯れたせいではなく、多くは風の吹き荒らしのせいである。だから、その光景を見るときの私には、余計切なさが込み上げる。ときには澄み渡る青空の下、そよ風さえ吹かないなかで、チラチラと舞い落ちる花びらを見ることはある。しかしながら、桜の花のいのちの絶ち方の多くは、大嵐、小嵐、強風はたまた微風にとどまらず、一陣の風が吹けば追い立てられるようにあちこちへ舞って、落ち場所がわからないままに地上のどこかにべたつく。
桜の花が有終の美を飾ろうと花吹雪を満目に見せると人は、「まあ、綺麗」と言って、桜の花に愛惜と称賛の思いを募らせる。これこそ古来、「桜の花は咲いて良し、散りてまた良し」と、言われるゆえんである。鳥のように飛翔あるいは滑空する花びらを見上げて人は、散り際の美を誉めそやすのである。密をなしていた花びらは散りじりになりながら人の目に、終焉の華やかさを見せて舗道に舞い落ちて、こんどは花絨毯を敷き詰める。
桜の花の大団円は、バラバラになろうと、再び密になろうと、絵にも描けない晴れ姿である。ところがこれにはまた、常に切なさがともなって、桜の花が人にさずける美的風景でもある。もちろん人の終焉は、こんな感興にはなれない。散り際の美的風景にあずかる人の心は、散りゆく桜の花の嘆きなどつゆ知らず、しばしその見事さに酔いしれる。一方、心ならずも有終の美を飾った桜の花は、その先には一年間の眠りに就く。そして、薫風に葉桜が緑を深める頃や、晩秋に朽ち葉が紅色や黄色に染まる頃には、こんどは桜の花に替わって桜木自体が束の間、また人の口の端に上るのである。
こののちの桜木は、葉っぱを落とし尽くして、裸木をさらけ出して冬ごもりに入る。そして、いっとき桜木は、人の口の端から消えてゆく。いやときには、「桜木には毛虫が着き易いから、わたしはサクラが大嫌いです」などと言われて、お門違いの声に晒されることもある。この季節の桜木は耐え忍ぶことこそが、再び訪れるわが世の春までの美徳なのだ。
強風をともなって夜来の雨が容赦なく降った朝、私は山あいの通勤道路を急ぎ足で歩いて行く。濡れた靴底のぬめりを通して、全身までもが濡れている気分になる。きのうの帰り道には夜桜として見上げた花びらは、一夜にして朝の舗道に打ちのめされていた。私は死に神にでも取り憑かれたかのような気分になり、舗道に濡れ落ちている花びらをできるだけ踏むまいと、全神経を尖らしている。ところが、思いとは逆に私は、いっそう歩度を強めて、速めて、歩いて行く。私は濡れ落ちている花びらに湧いた束の間の同情心は捨てて、鬼心に変えている。靴底にまつわりつく花びらを避けることはできない。いや、心ならずも蹴散らすばかりである。なぜなら、このときの通勤の足は、わが生計を立てるための無情の足なのだ。
わが家から最寄りの「JR横須賀線北鎌倉駅」までは、急ぎ足で歩いても二十分ほどかかる。途中の山道には桜の花の頃にあっては、ソメイヨシノ、大島桜、そして野生の山桜などが、てんでんばらばらに咲いている。ところが、通勤を急ぐ私には、それらの織り成す美的風景を眺める心の余裕はない。代わりに出遭えるのは、舗道に敷き詰めている濡れた花絨毯の汚(きたな)らしい光景である。
夜来の雨の上がった朝の通勤道路は、濡れた花絨毯との葛藤の場と化している。濡れた花絨毯を無下に踏むときはやはり切ない。しかし、惨(むご)たらしく踏んででも急がなければ、乗車を予定している電車に乗り遅れるのだ。私は濡れた花絨毯をさらに小汚く蹴散らし、ときには駆けて北鎌倉駅へ急いだ。乗車予定の上り電車は寸分の狂いなく、十五両を連ねて長いプラットホームに滑り込んだ。間に合って、安堵した。
夜来の雨上がりの冷たい朝だったが、私は背広のポケットからハンカチを取り出して汗を拭いた。幸運にも、座れた。革靴の周りに濡れた桜の花びらがついているかどうかを確かめた。私はズボンの裾に跳ねついていた花びらを、そっとテイッシュで取り、カバンに入れて車内に目を逸らした。
連載『桜つれづれ』、三日続き一日目
第75回コスモス文学新人賞奨励賞「随筆部門」『桜つれづれ』前田静良。
定年後を見据えて独り、手習いを始めた頃の文章です。だから、拙くても愛着があります。三日間、掲示板を汚します。お許しください。あしからず。
平成十一年、鎌倉の桜の花は都心より遅く咲いた。春先に吹き荒れる風を避けられるから、遅れても恨みつらみはない。いや桜の花は、少し遅れて咲いたほうがいい。春先の風を避けるためだけではなく、桜の花には開花を待つ楽しみもある。つれて、桜の花に関わる話題や賑わいも長くなる。桜の花は咲けば散る。あたりまえだけれど、咲いてすぐに散ってしまっては、一年周りに咲いた桜の花、そしてそれを待っていた花見客、どちらにも残酷無念である。
桜の花の天敵は風である。風と桜の花は、自然界にあっては仲間同士なのに、なぜこうも相性が悪いのだ。確かに、人間界にもそういう仲間同士のいざこざやいがみ合いは多々ある。桜の花が咲く頃の風は、一点集中、桜の花を狙い撃ちでもするかのように吹き荒れる。特に春先の風は、桜の花にたいして悪態のし放題である。それはどこか、人の世にありがちな怨念晴らしのようにも思えてくる。はやり言葉で言えばそれは、桜の花にたいする風のリベンジ(復讐)にさえにも思えるところがある。人の叶わぬ願望だけれど、春先の風は、桜の花を気遣いそよと吹くくらいでいい。ところが風は、桜の花の美しさと、それを花見客が愛(め)でそやす人気をやっかんでいるのであろうか。それとも人には見えないけれど、リベンジしたくなる理由でもあるのだろうか。風は、桜の花にたいし気配りの様子など、一切見せずに吹き荒れる。風は泰然自若としているように思えるけれど、もとより未知の自然界のことゆえに、人にはわからずじまいである。理由はどうあれやはり、「風さん、おとなげないね」。
自然界の雄である風には、人に取り憑(つ)く悪い性(さが)だけは、真似てほしくないものだ。人の願いを重ねれば、風には仲間の桜の花の美しさなど妬(ねた)まず、超然としてその美しさを褒めそやすくらいのおおらかさと優しさがあってほしいものだ。モノ言えぬ桜の花は、唇を嚙み、涙を浮かべ、身を縮めて、ひたすら風の収まりを待つしかないのだ。ところが風は、ときには雨や嵐までをも味方につけて、とことん桜の花を虐め尽くすのだ。確かに、桜吹雪という両者、すなわち風と桜の花が織りなす万感窮まる美的風景はある。風とてこんな至高な芸当、やればできるのだ。
人は風と桜の花の織り成す豪華絢爛たる春景色を、少しでも長いあいだ眺めたいのだ。だから人は、風には一年周りに訪れた桜の花の晴れ姿を、人と一緒に観賞するくらいの太っ腹であってほしいと、願わずにはおれない。しかし風は、切ない人の願望など、つれなくしりぞける。それができないならこの季節、私は判官贔屓になり桜の花に向かって、「風なんかに負けるなよ。とことんねばって、頑張れよ」と、声を掛けたくなる。
人は皆、絶えず自然界とかかわり合いながら生きている。季節が移り、草木が芽吹く頃になると私は、重たい冬衣を脱ぎ捨てる。同時に私は、待ちわびていた春を体の中にいっぱい取り込みたくて、閉じていた心象をいそいそと開くのである。しかしながら訪れた春は、必ずしも楽しさ一辺倒とはかぎらず、春特有の憂愁気分を引き連れてくるところがある。
強風が吹いた三月末にあって、桜の花はまだ五部咲き程度で、風はいくらか空振りを食らった。ところが、この時期の風は一夜にして豹変し、強風や嵐が吹き荒れる。すると桜の花は枝葉もろともに、まるで強い海風に煽られる帆掛け船のように揺れ動く。挙句、ようやく咲いたばかりの花びらを地上に落とされる憂き目を見る。耐え残った桜の花は、一年周りの人との出会いの約束を果たすかのように、(決して、散るまい、挫けまい)という、声なき声をたずさえて、なお耐え抜いてくれるのである。そして、風の妬みと悪態をかいくぐった桜の花は、その先にこんどは、人の目に散り際の美的風景を演じてくれる。
桜の花の咲き方や散り方を眺めていると私は、桜の花にことさら人情を重ねて、様々な思いをめぐらしている。桜の花の咲き様そして散り様は、人の生き様そして死に様を見るようでもある。だから人は桜の花を仰ぎ見ながら、みずからの人生行路を考察したり、あるいは顧みたりするのである。
連載『少年』、二十日目(完結)
日本の国が敗戦後のいたるところで復興の槌音を鳴らしていた頃、父は人生の仕上げどきを迎えていた。やがて父は、母長男の一良兄を後継者と決めて家督を譲り、ひねもす老境生活に入った。働き盛りの頃の父は、大車輪で働いていたと、母はもとより父の働きぶりを知るきょうだいのだれもが言った。それもそのはずで父は、異母から母に繋いで、子沢山(十五人)を養う大黒柱だったのである。しかしながら、父の五十六歳のおりに生まれた少年には、父の働きぶりと精悍な姿は、伝説上の語り草にすぎなかった。少年が見る父の姿は、村中の将棋仲間を呼んで、縁側で一日じゅう将棋を指す姿だった。
言葉が出始めると少年は、父を「とうちゃん」と、呼んだ。父は、すでに禿げ頭だった。「じいちゃん」と呼んでいいほど、顔などは皺くちゃだった。少年の年齢が進むと呼び名は、「おとっつあん」に変わった。他人様との会話のときなどでは、わきまえて「父」と言った。物心ついて呼び名が替わるたびに、少年の父への敬愛心はいや増した。少年は後年、美空ひばりが歌う、『波止場だよ、おとっつあん』という、歌がとても好きになった。少年は、歌の中の「粋なマドロス姿」に、父を重ねていたのである。少年はしょっちゅうこの歌を歌って、父への思いをふくよかにした。父を知る人は他人様でもみんな、父は飛びっきりの働き者だったと言う。このことは、母が少年に父のことを話すときにはいつも、まるで枕詞のように離れずついていた。母は父を信頼し、敬慕し、すべてに頼り切っていたのである。
確かに少年は、不断の母の言動で、母の父への信頼度は知りすぎていた。後年、母が父のことで述懐した言葉が常に、少年には宝物としてよみがえる。母は「おとっつあんは偉かったたいね。家にはしょっちゅう、大工さんや左官屋さんが来ていて、なにかしらの造作をされていたばい!」と、母は言った。敗戦後の日本の国の復興に合わせて、少年の家でもみんなが懸命に働いた。内田村でも村人は競って働いた。その労働は、金目の細い糸を手繰るかのように村人はみな、お金を求めて奔走した。時代が「金、金」と鳴り響くおりにあって少年の家には、カナヅチやカンナの音が響く幸福に、母は酔いしれていたのだ。そもためか母は、父の愛情に報いる、とっておきの言葉をこう言った。
「おとっつあんが優しかったけんで自分は、とても幸せだったたいね。トジュ様大勢の子どもたちがいる後入りにきても、おとっつあんがいい人だったから、自分には何の苦労もなかったたいね」
すでに亡き父にたいして母は、心中に溜め込んでいた万感の思いを引き出し伝えるかのように、満ち足りた表情で少年に言った。このときの母は、大勢の子どもたちの母と言うより、明らかに父を愛する妻の一心になっていた。
少年は母の言葉で、うれしい事実を知ることができたのである。事実の一つは父の優しさであり、もう一つは、母の人生はかぎりなく「幸福だったのだ」と、いうことである。母は後入りという結婚条件、そして先妻のトジュ様から自分に引き継いだ子沢山の子育て模様、さらには農家や精米業の内仕事また家事の多忙に晒されても、母の建前の人生は、幸福にありついていたのだ。母はトジュ様から渡されたバトンを確りと自分の手に握り替えて走り続けてきた。そして母は、変則的な結婚や子育てを、幸運にも他人様から非難や侮蔑を被ることなく、最愛の父を慕ってあの世へ旅立ったのである(享年八十一歳)。母の忍びの人生は、「田中井手」の父の下で二十一歳から始まり、六十年をかけて「幸福」というたった二字のご褒美へたどりついたのである。だからこそ「母の幸福」は、少年には飛びっきりうれしいのだ。
しかし、実際には母の人生は、苦労を限界までに耐え忍び、それを幾重にも重ねたはずだ。それを思うと少年は逆に、母の幸福とはこんなにも薄っぺらいものであり、母の人生は儚いものかとも思う。母は耐えて泣かなくとも、少年は耐えきれずに泣きたくなる。
昭和二十六年十二月、少年の家には結婚式があった。母一男の一良兄(長男)が、村中の相良集落から花嫁さんを迎えたのである。花嫁さんは、父の甥っ子の長女にあたる縁戚の人であり、少年も日頃から知っている人であった。母一女のセツコ姉(長女)が嫁いで以来、少年には「姉さん」と呼ぶ人はいなくなっていた。セツコ姉の結婚式は、少年が小学校二年生のときだった。だから、新たな姉さんができたときの少年は、うれしくて跳びはねた。文字で書けば「姉」と分けて、「義姉」と書かなければならないけれど、日頃から知っていたことでもあり、少年は言葉の発音にすがり「姉さん」と、書きたいと思う。
姉さんが一良兄の新妻として少年の家に来たのは、少年が小学校五年生のときだった。少年が五右衛門風呂に入っていると、初々しい花嫁さんは少年にたいして、「しいちゃん、風呂はぬるくはにゃあな、ぬるいなら言いなっせ、たきもんばくべちやったい……」と、いつもの姉さんの「相良言葉」丸出しで、湯加減を聞かれた。少年はとっさに、「よございます」と、言ってしまった。それは緊張のあまり、少年がこれまでまったく使ったことのない、よそ行き言葉だった。だから、ぎこちなかった。少年は「ぬるくは、にやあばいた……」と、言えばよかったけれど、後の祭りである。少年は風呂の中で、湯でのぼせてしまい、全身がタコ茹でのようになっても恥ずかしさで、風呂から出るのを我慢した。嫁いで来られると姉さんは、少年を「しいちゃん」と、呼ばれた。少年にはうれしい、こそばゆい言葉だった。
明くる昭和二十七年、一良兄とフクミ姉さん(義姉)には、長女の良枝が生まれた。このときの少年は、小学校六年生だった。小学校の最後になり、少年には楽しさと同時に子守りの家事手伝いが増えたのである。少年は学校から帰るとすぐに、良枝を背中におんぶして子守りをした。背中の良枝は少年に似て骨格が太く、少年の肩に食い入るように重かった。一方で少年には敏弘をおんぶしたときの兄の気分は、こんどは妹をおんぶしたような兄の気分になっていた。小学校六年生、すなわち少年の少年時代の最後を飾るにふさわしい、懐かしい思い出の一つである。
内田村の夏は、ときにはまるで南洋の島にでも住んでいるかのように暑くなる。裸足で遊びまわる少年の足裏は、燻(くすぶ)る残灰を踏んでいるように熱くて、痛かった。少年は熱さ凌ぎに、雑草が覆う畦道をしばし踏んだ。ところが畦道も、まるでホームカーペットのように熱くなっていた。
家人や村人たちは昼寝から覚めると、農作業や田畑の見回りに出かける。小鳥たちは羽ばたいて塒(ねぐら)へ戻る。夕陽が沈むと、内田村の暑かった夏の一日は暮れてゆく。内田村は、川の恵み、田畑の恵み、山の恵みに負う鄙びた村である。それらに、村人の人情が重なり合って、のどかな村の情景を映し出している。だから少年は、感謝のしるしに内田村のことを繰り返し書いてきたのである。それでも、まだ書き足りないところはいっぱいある。少年は内田村が自分を健やかに育ててくれたと、固く信じている。少年は、内田村が好き、父が好き、トジュ様が好き、母が好き、異母きょうだいたちもみんな好き、母きょうだいたちもみんな好き、小学校六年間の担任、渕上先生、徳丸先生、家入先生たちもみんな好き、文昭君と宏子さんが好き、子どもの頃の近所の遊び仲間も大好き。少年は、みんなが好き好きである。
少年は内田村に生まれて、名を連ねた人たちに助けられて、少年時代の命はつつがなく育(はぐ)まれた。だから少年はお礼返しに『少年』を綴り、生まれてから小学校六年生頃までの少年時代を書きたかった。少年は萌え出たばかりのレンゲソウ畑に寝転んで、青い空を見上げている。「冬来たりなば、春遠からじ」。冬枯れの季節もいい。清澄な山の佇まいもいい。清冽な川の流れもいい。春が来た。内田村の春は、少年をあたたかく迎えている。少年の心は十分に満ち足りて、全天候型に晴れわたっている。
連載『少年』、十九日目
少年は体を損ねることなく登校した。小学校一年生から六年生までの学年末の終業式の日にあっての少年は、毎年一年間の「無欠席賞状」をもらった。そして、六年生の終業式の日には、一年間に併せて「六年間無欠席賞状」ももらった。ちなみに少年は、内田中学校の三年間も無欠席で通し、小学校と中学校をまたいで「九年間無欠席者」に該当した。ただ、小学校および中学校の通年で、「九年間無欠席賞状」があったかどうかは記憶にない。しかし、少年が九年間無欠席であったことは、中学校に記録されている。記憶をさかのぼれば少年は、中学生時代に盲腸炎の手術を受けている。だとすれば手術は、期間の短い冬休みは無理で、夏休みを利用したのであろうか。
学校を休むほどではなかったけれど少年には、口内炎の発症が頻発した。そのたびに少年は耐えがたき痛さを堪え、治癒までの間の気分は憂鬱を極めた。内田村には内田医院、相良医院、谷川医院という三院が存在していた。これらのなかでは内田医院は、小学校と中学校を通して学校医を委嘱されていた。内田医院は、少年の家の掛かり医院でもあった。内田医院と言っても、内田村をもじった名称ではなく、内田清医師が開業されていた個人の医院である。内田医師は、だんだんと若い二代目の長男医師に代替わりを始められていた。確かに少年は、診察室へ入ると二代目先生の白衣姿を見ることがあった。
内田医院は、一本の県道を挟んで内田小学校の近くにあった。正面の玄関口には水飴色の板に墨滴で、「内田医院」と、書かれたものが掲げられていた。玄関ドアを開けて中に入ると、そこは待合室になっていた。手前には幅の狭い横長のコンクリートの土間があり、その奥は一段高く畳敷きの十畳ぐらいの待合室になっていた。玄関ドアを開けて中へ入ると、右手には小窓の投薬口があり、その手前には調剤や調合が済んだ薬袋、薬瓶、薬缶などを置く、長い横板が張られていた。投薬口を通してチラチラ見えるのは、調剤室担当の白衣姿の奥様である。奥様は看護婦兼任だったのかもしれない。なぜなら少年は、診察室でも奥様のほかに、看護婦さんを見たことがない。調剤室内の奥様は、天秤皿を前にして薬の調合をされている。普段から顔見知りの奥様は、内田村の名家の出と医院の奥様にふさわしく、育ちの良さを映して飛びっきり美しい人である。
患者は待合室に屯(たむろ)し、診察室から順に名前が呼ばれると、診察室ドアを開けて恐る恐る入る。ようやく少年の順番がきて、診察室から「前田さん」と、呼ばれた。少年は立ち上がり、おずおずと診察室のドアを開けた。診察室特有の消毒のにおいが鼻についた。少年は立ったまま、「こんにちは。だいぶいいですが、まだ痛いです」と言って、先生の前の診察用椅子に座った。先生は「どれどれ、口を大きく開けてごおらん……」と言われて、診察が始まった。先生は、頭にはヘッドライトのような円い鏡を嵌めて、片手の指先に細い金属棒を持って、それを口内炎の窪みにあてられた。「痛い」。少年は悲鳴を上げた。奥様はスリッパをパタパタさせて、床は板張りで仕切のない診察室と調剤室を往来されている。少年は診察室を出ても、痛みのとれない口内炎の個所を指先で触ってみた。すると、少年の指先には紫色のヨードチンキがべったりとついた。少年は、バカなことをしたことを悔いた。(体質かな? ちっともよくならないし、もう通院は止めようかな……)と、少年は泣きべそまじりに自己診断をした。こののちの少年の通院は、先生の診察に期待するでもなく、通院そのものがおざなりになった。
だんだんと少年の関心事は、待合室の板壁にもたれて、置かれている雑誌や漫画の本を読み漁ることに移っていった。そして少年は、子どもらしい浅はかな一考をめぐらした。(待合室を図書館か、勉強部屋のように活用すればいいのだ!)。少年はそう思うことで順番など気にせず、漫画などを読み続けることができた。患者の少ないときに板壁にもたれて、畳に足を投げ出して、ゆったりとした気分で読む待合室の時間は、医院にいるのを忘れるかのように楽しく一変した。少年は順番がきて待合室から呼ばれても、読みかけのページが気に懸かり、(まだ呼ばれなくてもいいのになあー、だれかお先にどうぞ……)と、頓珍漢な開き直りぶりさえみせた。
少年は通院日ではなくても、放課後の帰り道に、内田医院へ寄り道した。少年の目当ては、投薬口にあった。すでに医院内は、静かになっていた。診察時間が終わると先生は、たぶん診察室を空けて居宅に戻られるのだろう。ところが、投薬口から見える調剤室では、その時間であってもいつも、奥様だけは何かの仕事をされている。投薬口からは覗けば、中の薬棚が見える。少年が覗くと、薬棚の薬箱、薬瓶、薬缶は、どれもが色鮮やかで綺麗だった。少年は投薬口の枠に顔を着けて、「要らない箱があればください」と、こわごわと奥様にお願いした。このときの少年には欲しいもの欲しさで、不断の恥ずかしがり屋と内気な性向など撥ね退けられて、少年には清水の舞台から飛び降りるほどの勇気が出ていた。調剤室の奥様はニコニコしながら、少年には涎がポタポタ落ちそうな綺麗な空の薬箱を投薬口から横板の上に置かれた。少年はとうとう病みつきになった。その後の少年は、毎日のように放課後の帰りに内田医院へ寄り道して、投薬口の枠に額を着けて、調剤室の奥様に「また、ください」と、お願いした。そのたびに奥様は、いつものようにニコニコしながら、綺麗な空の薬箱と少年に渡された。少年はかなりの間、こんなダボハゼみたいな行為を繰り返した。ところが少年は、たったの一度だって奥様に嫌な顔をされて、断られたことはなかった。書かずにおれなかった、少年の少年時代の飛びっきり楽しい思い出の一つである。
少年はおとなになって、「エーザイ」(医薬品会社)に勤務した。少年は、もらっていた空の薬箱のいくつかは、「エーザイの物だったのだ」と、知った。楽しい思い出に加え、うれしくて、懐かしい思い出である。
連載『少年』十八日目
少年にとって夏の内田川は、レジャーランドとなった。日課の『夏休みの友』やほかの宿題を終えると少年は、午後には内田川の中にいた。少年は猿股パンツ一つで裸になり、夏休み中内田川で遊んだ。このため少年の体は、まるで黒棒菓子みたいになり、裸の体は黒光りした。黒光りの少年の体が水に飛び込むと、白く水しぶきが上がった。少年の家は内田川の川岸に建っていた。母は少年の家の裏道を通り川辺に立ち、川中の少年に大声で叫んだ。
「しずよし。茶あがり(三時のおやつの時間)だよ、水から上がって、帰って来んかあ……」
少年にとっては母が呼びに来るまでが、午後の遊びの第一ラウンドだった。母に呼び戻されて家に帰ると、茶あがりの用意ができており、テーブルの周りには父が座っていた。茶あがりのメニュー(献立)は、ほぼ夏の間じゅうは明けても暮れても飽きずに、ソーメンばかりだった。父がソーメンを大好きだったためであろう。ところが少年はソーメンを食い厭きて、そののちトラウマ(精神的外傷)になり、今なお嫌いな食べ物の一つになっている。夏の間、テーブルは釜屋(土間の台所)に置かれていた。少年は裸の体を河童のように水浸しにしたままに、テーブルを前にして椅子に座った。少年は濡れた体のまま、半ば義務のようにソーメンを一気に啜った。ソーメンの良いところは、嫌いでもスムースに喉をスルスル通ることである。少年にとっては、ほぼ毎日訪れる茶上がりどきのおざなりのソーメンの食べ方である。ところが、少年が好きな食べ物もあった。それはソーメンの後にテーブルに乗る西瓜だった。
少年は茶上りが済むと、再び内田川へ走り込んで、西瓜で膨れた体を水中に沈めた。このときが、午後の遊びの第二ラウンドの始まりである。少年は、内田川とその水にたっぷりと戯れた。こののち、第二ラウンド終了の合図の鐘の代わりをしたのは、西の空へ沈む茜色の夕陽だった。
夏休みが終わると、二学期が始まった。少年は遊びすぎた疲れがとれないままに、物憂げに登校した。少年は夏休みの友やほかの宿題も完結に終えて、二学期の始業式を迎えた。始業式の後まもなく、夏休み前に伝えられていた「校内黒肌大会」が行われた。黒光りする少年の体は、白みの友達の体を圧倒して、「一等賞」に選ばれた。担任の渕上先生はいつもの優しいニコニコ顔で、「元気に、たくさん水浴びしたね」と言って、少年を褒められた。少年はそのことを母に伝えたくて、飛ぶようにして家に帰った。精米仕事中の母は、いつものように戸口元で少年を迎えた。少年は母に向かい跳びはねて、「かあちゃん、一等賞、とったよ。渕上先生から、褒められたよ。」と、言った。母は笑って少年の毬栗頭を撫でながら、すかさずこう言った。
「そうや、一等賞だったや、あんたには裏ん川があって、よかったばいね。一等賞になれば、なんでもええたいね。よう、がんばったね」
少年は、渕上先生と母に褒められて、うれしかった。一気に、夏の遊びの疲れは消えた。
少年が三年生になると担任は、渕上先生から男性の徳丸普可喜先生に替わった。少年はすぐに、徳丸先生も好きになった。徳丸先生は、少年の三年生次と四年生次の二年間の担任だった。そして、五年生次と六年生次の担任は、男性の家入喜人先生だった。少年は家入先生にもすぐに慣れて、好きになった。少年の小学校六年間の担任の先生は二年刻みで、最初は渕上先生、次は徳丸先生、最後は家入先生だった。少年はどの先生も好きになった。そのためか少年は、内田小学校の六年間を無欠席(皆勤賞)で終えたのである。
学年が上がるにつれて少年の関心事は、だんだんと教室外へも向いた。これを手助けしてくれたのは、新聞とラジオそして雑誌だった。父や兄たちは、購読紙・西日本新聞を貪(むさぼ)り読んでいた。これに感化されたのか、少年も負けずに読んだ。特に、好きなスポーツ欄は記事を漁り、あとまで記憶に残るように丁寧に読んだ。中でも好きな野球の記事は、プロ野球、都市対抗野球、高校野球、大学野球、など様々に、どれもこれも一様に貪り読んだ。
プロ野球では阪神タイガースが好きな球団になった。タイガースは、巨人(読売ジャイアンツ)と競ってはいたけれど、勝者にはなれなかった。なぜならタイガースは試合と人気においていやすべてに、ジャイアンツには敵(かな)わなかった。ジャイアンツの人気選手は、背番号16番の川上哲治一塁手だった。川上選手は少年のふるさと県・熊本の人吉市出身で、旧制熊本工業中学を経てジャイアンツに入団し、一世を風靡するほどの球界一の大打者そして、人気ナンバーワンの誇り高き名選手である。それゆえ友達のみんなは川上選手が大好きで、自然とジャイアンツファンばかりだった。もちろん少年もまた、熊本出身ゆえに川上選手の大ファンだった。ところが、球団となると別だった。タイガースには個人人気の面では川上選手に対抗する、背番号10番の藤村富美男三塁手がいた。藤村選手は、少年には縁もゆかりもない広島県の旧制呉港中学の出身である。それでも少年は、なぜか? 藤村選手が好きになり、そのままタイガースファンになったのである。
少年がこんな突拍子もないことでタイガースファンになったのは、たぶん少年自身が父のいきかたに一脈相通じていたのかもしれない。少年はいまさらながらにそう思う。父は極端な判官贔屓(源義経ファン)だった。判官贔屓とは、強い者より弱い者に味方する心根である。確かにタイガースは、何かにつけてジャイアンツには勝てない球団だった。好きな藤村選手も、川上選手にはすべて敵わない。だから少年は父に似て、判官贔屓という理由だけで、タイガースファンになったかのように思う。挙句、少年は、未踏はるかに遠い大阪府と兵庫県(神戸)を本拠地(ホームグラウンド)とする、阪神タイガースのファンになってしまっていたのである。
判官贔屓には悔いはなく、今なお高じたままに頂点を極めて、「トラキチ」に変じている。雑誌はたぶん、友達の中でも少年だけが親に買ってもらっていたと思う。雑誌名は『少年倶楽部(クラブ)』である。少年が月一回の発行を待って貪り読んだのは、人気抜群の連載漫画『のらくろ』だった。
連載『少年』、十七日目
少年はまた、内田川のことを書いている。少年の独り善がりの文章など、だれも読まないから気楽に何度も書けるのだ。少年の家は、川の上流から中流にかけて位置している。裏戸を開けると下手の方では、太陽の照り返しが白く水面を舐めて、竹山の隙間の向こうには、青い水が輝いている。どちらかと言えば裏の川は、まだ上流である。向こう岸と少年の家の間を流れる早瀬の音、浅瀬のせせらぎ、溜まりにたゆとう水は、あいなして四季折々に周囲の風景と調和する。内田川はそのたびに、少年の心を和ませた。少年はしばし深呼吸を繰り返し、川風を咽頭へ呼び込み、いっぱい吸った。新鮮な空気がはらわたに落ちると、少年の心身は一層和んだ。
少年の家は、内田川の河川敷際に建っていた。当時、少年の家には、水道や自前の井戸はなかった。内田川の水が当然のように少年の家に、生業の水車用の水と生活用水を恵んでいたからである。裏戸を開ければ内田川が流れている。内田川に堰を作り、水車用に自前の水路が設けられていた。分水は水路を通り、庭先はもちろんのこと、母屋の台所の中にまで引き込まれて流れていた。少年の家の内外には日常的に、内田川の水がたっぷりとあった。だからたぶん、当時の父と母は、そんな施設は用無しと決め込んでいたのかもしれない。それほどに少年の家は、内田川とそれが恵む水に密着し、大家族の命を育み、暮らしの生計を立てていたのである。換言すれば、少年の家の生活の中に、内田川が流れていた。そのぶん、少年の家の上方の家で赤痢や疫痢の発生が伝わると、少年の家はみな恐々としなければならなかった。
内田川は川中に点在する大きな岩や小石にあたり逆巻いたり、水しぶきを高く上げながら流れている。それでも、それを凌げば緩やかな流れになる。これは、雨のない日の内田川の流れの情景である。しかしながら内田村にあっても、少年、家人、村人に優しいばかりの山河はあり得ない。なぜなら自然界は、四季折々に人間に目を剥く恐ろしさをたずさえている。山紫水明に恵まれた内田村にあっても自然界は、ひとたび変調をきたすと防ぎようのない狂態を露わにした。
内田川は台風のたびに暴れ川となり、少年の家に恐怖と被害をもたらした。村中のあちこちでは土砂崩れが起きて、荒れた山肌を剥き出しにした。あるときは山津波が発生し立木を倒し、崩落した土砂に立木と岩石が混じって流れて来て、近くの民家を襲って家人の死亡事故を招いた。少年の家もそうだが、内田川にすがり川辺で水車を営む家は、川が増水するたびに恐怖に見舞われる。すると、地区の消防団の防災監視下に入った。少年は止みそうもなく土砂降りを続ける雨と、時々刻々に増水を極める内田川を、茶の間の窓ガラスに額をつけて立ったまま、じっと眺めていた。すると少年は、内田川の水嵩が増すたびに、怖くて泣きべそをかいた。降りしきる雨はいつになったら小降りになり、いつ止むのか。濁流の水嵩は、流石と流木のからむ轟音をともない、寸時に水勢をいや増して行く。
農作業用の二階建ての「しのば」(仕事場)は、河川敷の端に礎石を置いていた。母屋とて礎石と内田川との間は、河川敷を挟んで20メートルほどの近距離である。水嵩が増すたびに内田川は、河川敷を狭めては川幅を広げて、濁流が礎石へ迫ってくる。少年は恐怖に慄き、体の震えが止まらない。「生きた心地がしない」という表現は、このときこそ「ぴったしカンカン」である。
少年は豪雨と強風のなか、家人を探した。しかし家人は、しのばと母屋の点検防備に走り回っている。少年の泣きべそは、あふれる涙に変わった。土砂降りが細くなりかけ、空がうっすらとしはじめて、家族そろって「ああ、無事だった」と、嘆息を吐けるのだった。確かに、内田川にかぎらず内田村の山河自然は、少年の家の家族や村人に大きな恐怖を与えた。一方、内田川と内田村の山河自然は、恐怖をはねのけて村人の命を育んでくれた。だから、少年が感謝することこのほかにはない。この御恩返しに少年は、何度もひたすら内田川はもとより、内田村の山河自然を愛(め)で書いている。もちろん恥じたり、書き厭きることはない。ただひとつ少年にとって残念なことは、内田川は少年の唯一の弟・敏弘の命を助けずに、こともあろうに内田川の分水(水路)へ流してしまったことである。
連載『少年』、十六日目
内田村は熊本県の北部地域にあって、いくつかの村道と数多の私道を脇に従えて、熊本県から大分県方面へ向かう一本の県道が走り、ときには並走し一筋の内田川が源流と上流をなして、途中出遭う支流を抱き込みながら流れている。北へ向かう県道の先は山中の細道となり、県境の峠へ到達する。内田村は遠峯の連山と里山に囲まれた盆地を成して、中には農山村特有の段々畑と狭い田畑が点在する。村人の農作業の手助けには、最初は馬にのちには牛に頼っていた。村人の多くは農山林に合間の仕事を見つけ、中心には米や麦づくりを置いて、主に自給自足で暮らし向きを立てていた。山が恵む収入源には、炭焼き、シイタケ栽培、タケノコの掘り出し、杉山や竹山の切り出しなどにほぼ限られていた。口内炎に悩む少年の母は、それに効くという蜂蜜をつくる家を近くに知っていて、そこから買っていた。
村中には一軒の製材所があった。大きな動力を要するものでは、ほかに一か所村有の水力発電所があった。小さな動力のものでは少年の家のように、内田川の恵みにすがってあちこちに水車が回っていた。
村中の学校は内田村立内田小学校と内田中学校が校区、すなわち校地や運動場を共用し、村の中央地区にあたる堀川集落に本校を構えていた。本校とは別に東方の番所集落と西方の山内集落には、小学校一年生および二年生の登下校の足をおもんぱかり、それぞれに小さな平屋の分教場が設けられていた。小学校三年生になると、そこで学んでいた同学年生は本校に合流した。
村中には何人かの馬車引きさんがいた。馬車は「ゴロゴロ、ゴロゴロ」と音を立て、馬はときには「ヒヒン、ヒヒン」と嘶(いなな)いて、馬車引きさんに手綱を取られて、重たい馬車(荷台)を引いていた。馬車が通ると、車輪の音、蹄の音、崩れる石がらの音などが合奏し、一層高く音を周囲に響かせた。ただ、これらの音は村人には馴染んでいて、内田村ののどかな情景の一つでもあった。
ときたま、定期路線の「産交バス」がエンジン音を吹かして近づくと、馬車引きさんは早くから馬車を道の傍らに寄せた。そして、手綱を確り引いてバスを見送った。バスの音に慣れていた馬は、音にいきりたつこともなく、首筋を伸ばし静かに立っていた。馬車引きさんはバスが通り過ぎると、腰に垂らしていた手拭いを取り、顔から首筋にかけて汗を拭き、煙草を一本くゆらした。僅かだがこのひとときは、馬車引きさんと馬にとっては、疲れた体を休める「オアシス」みたいなものだったのかもしれない。馬は再び鞭打たれて馬力を高めることで、飼い葉を与えてくれる馬車引きさんに報いるしかなかった。しかしそれは、馬車引きさんの生業に報いる馬の悲しい宿命でもあった。
馬と馬車は、馬車引きさんの手さばきに操られて、内田村と近隣の村を往来した。胸突き八丁で吐息し、涎を垂らして、頭、顔、首を上下させて馬車を引く馬に、少年はしょっちゅう出合った。学校帰りに後方から空の馬車を見遣った少年は、馬車を一目散に追っかけた。そしてまだ遠くから、顔見知りの馬車引きさんにたいして、「馬車に、乗せてくだはーり」と、大きな声で叫んだ。馬車に追いつくと馬車引きさんはたいがい、「いいよ。乗ってもいいよ。だけんど、落ちないようにしろよな!」と、言って馬車に乗せてくれた。少年はランドセルを背中から下ろし馬車に置いて、乗るタイミングを見計らって、揺れ動いて進む馬車にひょいと飛び乗って座った。あたりまえだが積み荷を仕事とする馬車の荷台の板は、武骨で硬くできている。少年は尻と板を馴染ませるために、尻を板に「ゴニャゴニャ」させた。馬車は少年の所作にはお構いなく、石がら道の凹凸に応じて揺れ動いた。そのたびに少年の尻はあちこちにいざった。少年は馬車から落ちないように全神経を尖らせて、馬車の揺れ具合に集中した。少年はダルマのように丸くなり、落ちないようにさらに体を固めた。それでも馬車の揺れは、「ゴトゴト、ドンドン」と、少年の尻を揺り動かした。しばし少年の体は、風に揺らぐ葦のように頼りなく揺れた。ようやく少年の尻が板に馴染んだところで、馬車は少年の家の近くまで来ていた。こんどは下りることに、全神経を尖らした。無事に下りると少年は、前方の馬車引きさんへ向かって、「ありがとうございました。また乗せてくださあーい」と、さっきよりさらに大声で叫んだ。馬車引きさんと馬は振り向かず、馬車は「ゴロゴロ、ゴロゴロ」と音を立てて進んで行った。
少年は生まれながらにして、村人の情けと内田村の山河自然を愉しんだ。この頃の少年の一日は登校すること、そして下校すれば山や川で遊ぶことで過ぎた。戦時下のおりの少年は、兄たちに連れられて里山に入り松根油を採り、銃後の守りを固めた。ところが少年の場合、それには悲壮感などなく、楽しい山遊びの一つだった。少年は野原に萌えるスカンポやギシギシなどを手あたりしだいに採り、歯でむしり「ガリガリ」嚙んだ。ときには川辺へ行き、カワヤナギの幹をこじ開けて、蠢く白いヤナギ虫を取り出した。少年は家へ持ち帰ると、母にフライパンで炒ってもらって食べた。これだけは、食べるには勇気のいる怪しい珍味だった。