ひぐらしの記
前田静良 作
リニューアルしました。
2014.10.27カウンター設置
連載『自分史・私』、21日目
主治医にとってほかの医院や病院の医師との立ち合い診察は、みずからの技量の未熟さを認めるようであり、耐えられない屈辱でもあるという。そのため主治医がそれを拒むため患者は、可惜(あたら)命を亡くす人が多々いるという。ところが幸いにも内田医師には、そんな自己保身の考えはまったく無く、ひたすら母の病気の快復にみずからの命をかけてくださったのである。内田医師はみずからの意思で、町中の某医院のK医師に立ち合い診察を依頼された。そして、K医師と内田医師の立ち合い診断の結果、とうとう看護団に「敗血症」という病名が伝えられたのである。当時はもとより、現下の医療にあっても敗血症は、きわめて厄介な病気の一つと言われている。
手許の電子辞書を開いた。
「敗血症:血液およびリンパ管中に病原細菌が侵入して、頻呼吸、頻脈、体温上昇また低下、白血球増多または減少などの症状を示す症候群。重症の場合は循環障害・敗血症性ショックを起こす」
病名が分かっても安堵することなく、いやむしろ内田医師の苦悩の様子はいっそういや増した。病名を告げられた看護団もまた、敗血症? まったく聞き覚えのない病名に不安を募らせた。看護団のなかで内田医師にたいして、「どんなもんでしょうか? 治りますでしょうか…」と聞く、勇気ある者はだれひとりいなかった。
内田医師はこんな不安な空気をみずから絶つかのように覚悟を決めて、まるで自分自身に言い含めるかのように表情を崩さず硬い面持ちで、看護団にたいしてこう言われた。
「この病気は何かの拍子に、血液に細菌が入り、その毒素が中毒症状を引き起こし、いろんなところに炎症をもたらし、高熱が出るのです。幻覚は高熱のせいです。難しい病気だが、諦めちゃいけません」
こののちは内田医師主導の下、看護団に臨戦態勢が指示された。指示に基づいて看護団は、看護体制の強化を図った。内田医師の下、看護婦役を務めたのは、異母長兄の二女だった。二女は内田中学校を卒業するとはるかに遠い、兵庫県西宮市のS外科医院に就き、看護婦になり立てだった。ところが二女は、たまたま休暇をもらい帰省していた。看護団の祈るような期待を担って若い二女は、手慣れた看護役になりきって内田医師を助け、自分は孫にもなり伯母にもあたる母を懸命に看護した。
高熱対策には切れ目のない氷が必要だった。村内にはアイスキャンデー屋はあっても、製氷を商いとするところはなかった。このため、必要な氷の対応には四兄が庭先にバイクを留めて、看護団から頼まれればすぐに町中の製氷屋へ走る態勢を構えていた。もっとも肝心で急を要したのは、輸血の補給体制だった。幸い母の血液型は、人には二番目に多いと言われるO型だった。看護団は、親類縁者を頼りに血眼でO型の人を探した。看護団の中にもO型の者がいて一時しのぎには救われた。記憶は薄いけれど、たぶん四兄はO型だったような気がする。ところが、輸血に最大の貢献をしてくださったのは、それまでまったく見ず知らずの他人様だった。
自衛隊に入隊していた三兄は、「母、危篤」の知らせを受けたときには、北海道空知郡滝川駐屯地にいた。当時の三兄は飛行機ではなく、汽車を乗り継いで帰って来たと言う。普段の便りで三兄は、「長距離競走では、いつも上位に入っています」と書いて、訓練の頑張りぶりを父と母そして家族に、誇らしげに伝えていた。家族には三兄がはるかに遠い異郷で頑張っている様子を知る、何よりのうれしい便りだった。三兄は「汽車があまりにものろいので、床を走り続けてきた」と言って、憤懣やるかたない面持ちで家族に伝えた。
三兄の熊本・健軍駐屯地時代の同僚に吉野さんという人がいた。元同僚と三兄は、駐屯地は変わっていても、友情はまったく変わらなかった。母と看護団は、未知の吉野さんに助けられた。三兄から連絡を受けた吉野さんは隊務の合間を縫って、熊本市内から駆けつけてくださった。吉野さんの血液型はO型だった。時間をおいて内田医師の注射針で抜き取られて注入される、自衛隊で鍛えた吉野さんの体の新鮮な血液は、そのたびに母を救い生き長らえさせてくれたのである。
文章を書いている私の目から、こんどはたらたらと涙が落ちている。看護団はそろって、吉野さんに拍手したい気持ちをじっとこらえていた。吉野さんは隊務をやりくりしたり、所定の休暇を変更したりして幾日か病床の母の脇で、輸血の補給要員を務めてくださった。母の命の恩人・吉野さんのお名前は、わが生涯において消えることはない。吉野さんは今いづこ、どこにおられるのだろうか。つつがなく、ご存命だろうか。90歳近くになられるが、ご存命であってほしい。三兄は、もうこの世にいない。
母を襲った難病「敗血症」との闘いは、内田医師、吉野様、看護団の一糸乱れぬ熱意と連携の下、今にも絶え消えそうな母の命を奇跡的に蘇らせた。母の命は、まさしく見事に「蘇生」したのである。母の命を救ってくださった内田医師は、後日、いつもの端然とした温和なお顔の満面に笑みをたたえて、「快気祝いは派手にやるんでしょうね」と父に言って、相好を崩された。同時に、母の病気ではじめて、本格的な治療にたずさわられたと思われる、二代目内田医師の評判は内田村に沸騰した。私の心残りは、内田医師と吉野様にたいして、御礼の言葉を言わずじまいになったことである。現在、内田医院は村中にはなく、その後の内田医師は、熊本市内で「内田医院」を開業されている。
母の病気の快癒は、人間神様・内田医師が成し遂げられた大偉業だった。これまた、自分史に書かずにはおれない、途轍もなく切なくも、それを超える大きな果報だったのである。母は元の元気な体に復し、また働き尽くめだったが、子孫に慕われた豊かな人生をまっとうした。
連載『自分史・私』、20日目
わが家が日頃からかかりつけにしていた内田医院は、父親の老医師から二代目の長男・青年医師に代替わりをはじめていた。二代目の内田医師は、色白の眉目秀麗でお顔がふっくらとして、見るからに人格高潔で寡黙な医師だった。九州大学医学部を卒業し、インターンを終えて、父親が開いている「内田医院」へ、Uターンされたばかりだった。
二代目内田医師は、一日に何度も往診に来てくださった。母の診察を終えて医院へ帰り着かれたばかりなのにまた、看護団のだれかが往診依頼へ駆けつけていた。母の病床で見守りを続けているだれかが、母の容態の変化に居たたまれず、内田医院まで20分ほどの道のりを全速力で駆けていたのである。
こんな繰り返しが続いていた。母はなお、高熱に魘され、そのたびに幻覚症状が現れて、「ほら、壁に、いっぱい虫が這ってるよ」などと、意味不明の譫言(うわごと)をひとしきり唸り続けた。それが止むとこんどは、疲れ果てたのか? 死人のように眠り続けた。母の病床のかたわらで見守る者にとっては、どちらも不安だらけだった。父は内田医師の往診のたびに戸口元で爪先立って、一秒でも速く内田医師の到着を待ちわびた。内田医師が到着されるたびに父は、「助けてやってください。お金はどんなにかかってもええから、助けてやってください」と、内田医師に取りすがり歎願し続けた。
現在、敏弘のことを書いたときのように私の目から、涙がぽたぽたと落ちている。内田医師の懸命の診立てにもかかわらず、母の病名は不明のままに日が過ぎてゆく。見守る者の多くは、人知れず匙を投げかけていた。表情をひた隠し、すでに絶望している者もいた。父とて、とうに諦めかけて、一縷の望みにすがっていたはずだ。しかし、自分が諦めないことが母への愛情と思い父は、耐えて内田医師にすがり続けていたのだ。父は病の母に重ねて、先妻を亡くし後添えに母を迎えて、子沢山に恵まれた人生を浮かべているのかもしれない。異母が産んだ子どもたち、母が産んだ子どもたち、共に母の支えがあってこそ、みんな仲良く輪になって、この世に存在することができたのである。「絶対に死なせてはならぬ。助けなければならぬ」。父の並々ならぬ決意には、数奇な人生を母と二人で乗り越えてきた思いがあったのであろう。
不断の父には、後継の妻そして年齢差19の母への罪償いもあったのであろうか。なぜなら、亡くなった異母が遺した長男(私の異母長兄・護)には、母の妹のイツエを妻として迎えている。いや、罪償いは、父の母への最大かつ最良の配慮でもあったのであろう。日常生活における父の母へのいたわりで、私が見たエピソードにはこんなものがある。鶏をさばいていたときなど、わずかばかりとれた珍味の笹身に、父はみずから醤油をかけて、「ニワトリは笹身が一番うまいところだから、食べてみてよ。早く食べないと、だれかに食われるぞ!」と言って、箸先に摘まんでは真っ先に母の口に入れた。こんな思い出の数々が、看病する父の脳裏によぎっているのか、父は眠る母の唇を武骨な指先がそっと撫でた。
「父ちゃん。なんとしても、母ちゃんを助けてあげようね」
「ああ、大丈夫だ。母ちゃんはきっと助かる。助けてやらねばならぬのだ!」
父は、自分自身に言い聞かせでもするかのように強く言った。
固い結束の看護団も日に日に疲弊した。方々の農家では、猫の手も借りたいほどに多忙な麦の穫り入れに併せて、一年じゅうでそれを超えてもっとも多忙な田植えの準備がはじまっていた。一日に何度も重なる内田医師の往診と、熱意ほとばしる施療だけが、並み居る看護団の頼りであった。病臥の母の寝息は、いつまでもつであろうか。
連載『自分史・私』、19日目
八十八夜、風薫る5月の空が照り輝く、最もさわやかな季節にあって、私は内田中学校の修学旅行に出かけていた。行き先は、二泊三日をかけての福岡市内周遊だった。私は洋々たる気分で帰って来た。道すがら土産物を見て喜ぶ、母の笑顔を思い浮かべていた。大きな声で、「ただいま」と言って、戸口元から土間を走り抜けて、母がいるはずの釜屋(土間の炊事場)へ走り込んだ。いるはずの母は、いなかった。この日、修学旅行から帰ってくるのは、手渡していたスケジュール表で、母は知っていた。いつもの母なら、こう言ったはずだ。「もう帰ったつや。早かったばいね。修学旅行は、面白かっただろだいね」。私はこの言葉を思い浮かべて、観光バスを降りて解散したのち、駆け足で帰って来たのである。ところが、釜屋に母の姿はなかった。走り回る足音もしなかった。私は釜屋から離れて、土間の上り口のところに立った。また、大きな声で、
「母ちゃん、ただいま!」
と、叫んだ。母の返りの声はなく、表座敷とは違うごんぜん(奥座敷)から、済まなさそうな表情で、フクミ義姉さんが現れた。
「しいちゃん。早かったばいね。旅行、楽しかっただろだいね。おっかさんは、向かえん畑で茶摘みばしよんなったとき、崖からつっこけて、今、寝とるなるもんね」
姉さんの驚愕の言葉だった。
私は上り口を越えて、ごんぜん(表座敷)へ上がった。そして、表座敷とは別の、茶の間の奥の姉さんが出てきた八畳の部屋を恐るおそる覗いた。母は、額にタオルを乗せて寝そべっていた。土産物のことや旅行気分は、いっぺんにすっとんだ。悲しかった。
「無事に帰ったたいね。すまんね。崖から、つっこけたもんじゃけん……」
母は、仰向けになったままに言った。
「なんで、つっこけた」
「……」
会話が途切れた。
父は昼寝の王様だが、母は昼寝用無しに独楽鼠のように働き尽くめだ。だから昼日中、母の寝込んだ姿を見るのは初めてだった。こともあろうにそれは、修学旅行から帰った日だった。私は手を変え品を変えて選んで買った土産物を母に手渡せず、とても悲しかった。
母は日々高熱に魘(うな)され、ひっきりなしに幻覚症状が現れた。あわや! 母の命は、死線を越えそうになる。どうにか持ちこたえたのちは、病臥する長患いになった。その後も母は、高熱に魘され、幻覚症状に取りつかれて、闘病の日々は厳しさを増し続けた。不断からかかりつけの「内田医院」の下、父および家族そして近場の身内総出の看護団は、一家の家族のように連携を取り合って、母の命の見守りに奔命したのである。
その中心を成した内田医院、主治医の二代目の内田青年医師の夜を日に継ぐ献身的熱意(治療)は、まさしく神がかりだった。突然降ってわいた母の闘病は、わが生涯(自分史)においては敏弘の事故に次いで、悲しい出来事に位置している。
連載『自分史・私』、18日目
毎年、元日の朝は、家族そろって食卓を囲んだ。父の音頭で新年の挨拶を交わした。『肥後の赤酒』で、猪口(ちょこ)一杯の乾杯をした。アルコールにはまったく縁のない父は、甘酒で舌を濡らした。それでも父は、すぐさま酒焼けの赤ら顔になり、大酒飲みの風体を見せて、「酔っぱらったぞ、酔っぱらったぞ!」と言って、道化者を演じておどけた。
母は釜屋へ戻り、大鍋を抱えて雑煮を運んで来た。父はまた、はしゃいだ。「雑煮ができたぞ。さあ、食うぞおう!」
「父ちゃん、今年はいくつ食うの?」
と、訊いた。
「さあ、どうかね。もう、年を取ったからね。そんなには食えんよ」
父は母の配膳を待った。
70歳に近い父は、丸餅を7個食べ、中学生の私は、6個止まりだった。
桜の花の時期になると父と私は、夜桜見物へ出かけた。行き先は決まって、内田川の澱みに名がついた「蛇淵(じゃぶち)」沿いの道路だった。ここは、近場の桜見物の名所を成していた。夜桜見物と言っても甘党の父は「花より団子」を好み、父の目当ては桜木の途切れる所にある一軒の団子屋だった。団子屋には顔見知りの高齢のおばさんがいた。村人はアズキまぶしの串団子を「あずまだご」と、呼んだ。ここでもまた二人は、数を競って食べた。二人の腹は「ふくらかしまんじゅう」のように膨れて、文字どおり団子腹になった。
「もういいか」
「もういいよ」
食べ終えると二人は、串を並べた。父が9本、私は7本だった。父は私を凌ぐ甘党だった。
父には飲料のアルコール類とタバコは、生涯まったく用無しだった。これらに変わるのは、御飯・麺類なら、なんでもござれの大食漢だった。アルコール類が飲めないのに父には、宴会は必要悪だったのか、それとも人が寄り集まるのを好んでいたのか、わが家でよく開かれた。父は、村中ではいろんな世話役をやっていた。なかでも、父が山の世話人をしていたときには、わが家でたびたび寄り合いがもたれた。会合が済むと、決まって宴会が開かれた。この日の母は、まるで宿命のごとくに朝早くから宴会準備におおわらわだった。宴会の料理はほぼ決まっていて、わが家の鶏(ニワトリ)をさばいての「鶏めしと肉汁」だった。この日のために縁の下で飼われていた鶏は、自給自足の最善の生贄(いけにえ)となった。
母は宴会準備に気忙(きぜわ)しく、鶏は宴会の気配に怯えて、共にびくびくしながら朝から動き回った。宴会は母と鶏の犠牲のうえで盛り上がり、三々五々散会した。「残り物には福がある」。私は、残り物の「鶏めしと肉汁」を鱈腹食べる幸福にありついたのである。しかし、同席で父と食べ競争ができなかったことは、今なお心残りとなっている。
連載『自分史・私』、17日目
父は高血圧症状や心臓病がもとで生じる息遣いの苦しさを「息がばかう」と表現し、たびたび口にした。高校生になって町中へ通うようになった私に父は、「薬屋で『救心』を買ってきてくれんや」と、頼んだ。「救心を服むと、息が楽になり、とてもええがね……」。この言葉がうれしくて私は、たったの一度さえ忘れずに買って帰った。確かに、救心を服んでしばらくすると、父の赤ら顔はいつもの穏やかな顔になり、ばかっていた息は軽くなった。この頃はまだ兆しだった父の心臓病は、しだいに業病になり、やがては息を止めたのである。
『救心』には後日談を添えなければならない。わが勤務するエーザイに、『救心製薬』の社長の子ども言われた男性が大学を卒えて、短い期間限定の「見習い修業社員」として入社した。私には後輩だがいずれは、救心製薬の社長ないし重役として崇めなければならない。こんなことはどうでもいい。私は初対面の彼に真っ先に向かい、心を込めて『救心』に授かった父の命の御礼を述べたのである。
私は中学生のとき、鹿本郡の中体連(全国共通の中学生陸上競技大会)において、3競技種目に出場した。一つは砲丸投げで2位になり、一つは走り高跳びで4位になった。400メートルリレーには、ふうちゃん、健次郎君、信吉君と出た。2位までは熊本県大会へ出場できた。私は砲丸投げで県大会への出場を決めた。県大会はかねて憧れの「熊本市水前寺陸上競技場」で行われた。私は内田中学校からただひとり出場した。
父は、私の出場を大層喜んだ。そして、大会前の十日間、毎日馬肉を買って来た。馬肉は熊本名物とはいえとても高価だった。父は「食え、食え、いっぱい食え!」と言って、みずから馬肉の塊を箸先で摘まみ上げ、私の小皿に移した。私の利き腕・右腕には、日に日に馬力がついた。私は頼もしげに力こぶを作っては、瘤を撫でた。
あるとき、わが家に出入りの博労(ばくろう)が、良馬という触れ込みで、「北海道産の馬」を連れて来た。父は多額の金をはたいて、その馬を買った。たぶん、北海道産という言葉に釣られ、馬に惹かれたのだろう。確かに、北海道産の馬は、父と家族の期待の馬だった。ところがその馬は、飛んだ暴れ馬で農耕には向かなかった。これに懲りて父は、それ以降は馬から牛に変えた。家族はこのことで、父を責めることはなかった。父もまた、すぐに「のんきな父さん」に戻った。
父はよく行きつけの魚屋から、無塩(生魚)の藁苞(わらづと)をぶらぶら提げて帰って来た。多くは安手のイワシ、サバ、タチウオだった。ときには金を張り込んで、「うばぎゃ」(アサリ? それとも名を知らぬ小貝の刺身)、または赤身鯨(クジラの刺身)を買って来た。不断の父には、子煩悩躍如するところがあった。顔馴染みの魚屋はそれを見透かして、常套句で父を釣った。「あたげにゃ、子どもが多いけれど、みんな良い子ばかりですな。どのぐらい計りましょうか?」まんまと釣られて父は、「四百匁ほど計ってくれんかいた」と、言っては買うようになった。子煩悩に釣られ、絆(ほだ)されて上得意へ祭り上げられたのである。
母は父が遣ることにはまったく無抵抗で、笑顔で藁苞を受け取ると、夕御飯には煮魚を食卓へ乗せた。家族も賞味にあずかれるので、不平を言う者はいなかった。父は無邪気な好々爺だった。
連載『自分史・私』、16日目
父に初期の高血圧症状があらわれたのは、近くのクヌギ山の間伐に出かけていた日のことだった。不断の父は、すぐに高鼾(たかいびき)が出るほどに寝入りが早かった。働き尽くめできた者特有に父も昼寝が大好きで、「10分ほど寝るからね」と言っては、寝場所を選ばず手枕で、ひょいと寝転んだ。確かに、10分ほどが過ぎるとひとりでに起きて、「よう寝たばい。ぐっすり寝たばいね」と言っては、晴ればれとした気分で呵々大笑した。骨柄太く図体の大きい父の寝姿は、父が慕う源義経を守る『武蔵坊弁慶』のようでもあり、家族には頼もしく思えた。そんな父だから木漏れ日の中で、疲れ癒しに横臥していたに違いない。
クヌギ山から帰って来た父は、「山ん中にごろ寝していたら、気分が悪くなったんで、帰って来たたいね」と、言った。いつもの父は、気分良く目覚める。だから、家族は心配した。父に高血圧症状が出はじめると、父と私の間には何事にも連携し合う、仲間意識のような感情が芽生えた。晩年の父には高血圧が誘引する心臓病に併せて、脳軟化症状が顕れた。挙句、これが誘引する、いくらかの痴ほう症状も出はじめていた。これらは、晩年の父にとりつく病症状だった。そして、家族を悩ました。
家具の町で名を馳せる福岡県大川市(筑後)に嫁いでいた異母長姉スイコの義父の法事に、父が出かけることになった。旧国鉄バスと鹿児島本線に乗り継いで往来する旅は、父にとっても家族にとっても不安だらけだった。それまでの父は、「のんきな父さん」だった。しかし、病がちになった父の表情には不安が見えはじめた。
「しずよし、一緒に行ってくれんや。おまえが、一緒に行ってくれれば、ありがたいんだがね。おれも、このところ筑後へは行ってないし、スイコの手前もあるから、行かにゃんもんね。筑後へ行くのも、もう最後になるだろうから行きたいし、どうや、一緒に行ってくれるか?……」
父は、すまなそうに私に言った。
「おれが、行くの? 筑後へは行ったことがないけんで、行こごたるばってん、でも自信がないなあ……」
と、私は言葉を返した。
しかし、普段見ない父の不安そうな表情を見ると私は、父のお守り役を決意した。私にとっても、未知のところへの長旅である。私は、汽車に乗るのも初めてだった。切符の買い方さえわからない「ひよっこのお守り役」、すなわち病がちの父にたいし、私は「にわか付添人」なった。
途中の父をおもんぱかって私は、くたくたになってはるかに遠い筑後に着いた。玄関先で出迎えたスイコ姉は、
「しずよしが連れて来てくれたんか。ありがとう。よう、来たばいね」
と、言った。
母ほどに年の離れた姉は、込み上げるものがあったのか、目頭を押さえながら私に声をかけて、長旅をねぎらってくれた。私には、無事に役目を終えた喜びがあふれた。
「しずよしが、ついて来てくれたから、また来れたつよ。スイコに会えて、とてもうれしかばい」
と、父は追い打ちの言葉を言った。
姉に伝える父の言葉は、うれしさで涙声になっていた。私にも、生涯の思い出を成す旅だった。私は、「瀬高」とか、「船小屋」とか、「羽犬塚(はいんづか)」とか、の駅名を知った。特に、羽犬塚駅前の一膳飯屋で、父と一緒に食べた「サバの味噌煮」の美味しさは、今なおありありとよみがえる。まだ小学生だった私は、病が取りつきはじめていた父を無事に送り迎えできた。確かに、父の旅仕舞いであった。一方、私には長旅そして汽車初体験であった。危なっかしい「父子道中(おやこどうちゅう)」だったが、そのぶん、生涯消えることのないピカピカの宝物となっている。
連載『自分史・私』、15日目
いつも、母屋の戸口元に吊るされている、色褪せて使い古しの野良着は、父の働き盛りの晴れ着である。野良着は紺無地の狩衣風の「半切り」である。手許の電子辞書を開いて確かめた。「甚兵衛羽織」(じんべえはおり)と言うのかな。ところどころは擦り切れて、紺無地は白茶けている。母も、父の本当の働き盛りは知らないと言う。それでも母は、常に私にこう言った。
「父さんは米俵を積んだ馬を引いて、県境の山越ではるかに遠い津江(大分県日田市中津江村)辺りまで行きよんなはったつよ。とても、働きもんだったつよ」
「父さんはたばこの一本も、酒の一杯も飲みならん人でね。一銭の賭けごともされんし、人は〝なんのかんの〟言ったばってん、自分はとても幸せだったもんね」
父の話をする母は、普段の控えめな母に似ず、誇らしげだった。〝なんのかんの〟という言葉は、母の結婚が後入りのうえに年齢差もあったことで、村人から受けた風評をさしていたようだ。
将棋のほかの父の楽しみは、母を連れ立っての年に一度の「杖立温泉」(熊本県阿蘇郡小国町)への長湯治だった。父は普段から「杖立、杖立」とよく言っていた。だから、杖立温泉はごく近いところと思っていた。ところが杖立温泉は、大分県と熊本県の境にあり、山越えのケモノ道を歩いて、果てし無く遠いところにあった。私は後年のふるさと帰行のおりに、長兄が運転する軽トラの横に乗り、父と母が歩いた行程をドライブした。このドライブは、私の長兄へのたっての願いで実現したものである。私は父と母が歩いた道を車とはいえ、全道を確かめてみたかったのである。するとそのときの私は、道の険しさと距離の長さに度肝を抜かれた。もちろん、父と母が歩いた頃の道は、舗装などまったくない昼なお暗い山中道、いや多くはケモノ道である。私には当時の父と母の姿が切なく甦る。父は「甚兵衛羽織」に替えて、母は「モンペ」に替えて、二人はどんな一張羅(いっちょうら)を身にまとい、手を取り合って仲睦まじく往来したのであろう。こちらはうれしく偲ばれる。
連載『自分史・私』、14日目
(私の心中の父は、死人ではない)。様々な思い出が、「生きた姿」でよみがえり増幅する。挙句、わが自分史は、父の思い出で紙幅が埋め尽くされる。それはまた、箆棒な幸運である。私は、自分自身の「墓地」は買っていない。「前田家累代之墓」はふるさとにある。ハードの墓はなくとも、ソフトの墓は残された者の心中にある。ハードの墓は、永代供養のお金や、墓掃除などで面倒くさい。また、ふるさとの墓は遠くて、墓参りはご無沙汰続きである。いや、もう行けない。心中の墓は都合がいい。私はお墓参りに替えて、常に父の姿を浮かべている。
父の年齢は60代後半であったろう。父は、米俵(60キロ)を地面からひょいと持ち上げて肩に担いだ。あるときの父は、近所の青年・慶ちゃんから相撲の挑戦を受けた。慶ちゃんは腕白坊主が青年の衣を着始めた二十歳の頃で、体中に若い力が漲り弾んでいた。
「小父さんは、相撲はもう弱くなったでしょうな……」
「なんば言うか。まだ、洟垂れには負けんぞ。相撲、取ってみるか……」
父は、挑んだ慶ちゃんを畳の上でぶん投げた。
「小父さんは、いつまでも強いな……」と言って、慶ちゃんは再挑戦を諦めた。
この頃の父は、額から頭の天辺までまん丸に禿げていた。私が学校へ行くと、「ゴットン吾市の禿げ頭」と言って、からかう友達(渕上喜久雄君)がいた。水車の「ゴットン、ゴットン」という音に、禿げ頭の父の名前を付けて、からかったあだ名である。しかし、父好きの私にはまったく苛めの効果なく、びくともしなかった。
私の学校行事にあっての父は、友達の家族のだれよりも早く現れた。秋の運動会では、運動場にまだ生徒たちの姿ばかりが目立つ中にあって父は、早くから大柄な体と禿げ頭を太陽光線に晒して立っていた。私が照れ隠しに父の前を猛スピードで駆けると、父は「そうだ。その調子だ。速いぞ、速いぞ!」と言って、大きな声で叫んだ。
授業参観の日には、先生がまだこの日の心構えなどを話している最中に父は、後方の入り口から入ってきた。ひとり、後壁に掲示の図画や習字を見ていた。友達は、キョロキョロと後ろを見た。(あの人は、だれのおじいさんだろう?)と、思ったはずだ。父は飛びぬけて家族思いが強かった。私にかぎらず、子どもたち(きょうだい)みんなが慕い、自慢の父親だった。
私の場合、父との生活、すなわち直接父の愛情に触れて生活したのは、高校までの18年間だった。ところがこの期間は、すでに父の晩年だった。父と母が結婚した年齢は、父40歳、母21歳である。そして、私が誕生したときの父と母の年齢は、56歳と37歳である。だから、私は若い頃の父はまったく知らない。まして、父の働き盛りの働きぶりなど、露ほども知る由ない。私が知る父の姿は、すでに家督万端を長兄に譲り、隠居然として余生を送っていた。そのため父は終日(ひねもす)、近所近辺の将棋仲間を呼んでは、陽だまりの縁側で唯一の趣味の将棋を指していた。ある日の回覧板の囲み記事の中に、村内の将棋名人のことが載っていた。私はその中に父の名を見つけて、
「父ちゃんが村の名人で、いちばん強いと書いてあるよ」
と、言った。父は「おれより強いのは、まだいっぱいいるんだけどな……」と言って、相好を崩しうれしそうだった。私もうれしかった。
連載『自分史・私』、13日目
年の瀬、昭和35年12月30日、私は八百弘商店の店先で、顔馴染みの郵便配達員から一通の電報を受け取った。兄たちは車で配達に出かけるが、免許を持たない私だけはいつも、店頭で接客に明け暮れていた。だから、郵便物など外部からの届け物はほぼ、私が受け取っていた。
大学は冬休み中だった。手にした電報は一目でわかる「弔電」父の訃報だった。3人が配達から帰り4人が揃うと、鳩首を交えて店先に佇んだ。いくらか予期していたとはいえ4人は、沈痛な面持ちで相談を始めた。4人の相談事は、決まって店先でする習わしだった。咄嗟の相談事は、父の葬儀への参列の仕方だった。八百弘商店には、得意先が定着し始めていた。歳末の三が日には毎年、正月用の食品を求めて多くのご贔屓客がきてくれた。それらの多くの人は、兄弟の仲の良さに好感を持って、好意的に八百弘商店をあてにしてくれていた。今でもはっきりと名前とお顔が浮かぶ、馴染みの心優しい人たちである。4人はうれしい悲鳴で大わらわだった。歳末商戦特有に、予約伝票の多さは4人を喜ばせた。「店は閉めて、4人とも帰るか」「お得意様第一だ。店は閉められないだろう」「おとっつあんは、店を閉めるのは望まないはずだよ」「誰かが代表でひとり、帰るしかないだろう」。
相談事の決着は、4人のうち、葬儀参列者が1人、店番が3人と決まった。次には、だれが行くのかを決めた。結果、この時点でもっとも長くふるさとから遠ざかっていた四兄が、命の絶えた父のもとへ旅立った。私に不満はなかった。いや、父の死に顔を見ないで済んだことは、はしたなくものちのち幸運だった。なぜなら、私の心中にはずっと、合格の知らせを持って帰った、あのときのワンシーン(一コマの情景)が浮かんだままに、「父は生きている」。このことは、世間体はどうあれ、偽りのない箆棒な幸運である。
父は私の大学合格を知り、そして2年生のおりに永別した。(店が大事だ。だれも来なくていいよ。きょうだい仲良く、東京で頑張れ!)。父はたぶんそう言って、先妻そして後添(のちぞえ)へと繋いでもうけた、めでたい子沢山の人生を閉じたのである(享年75歳)。
連載『自分史・私』、12日目
私は中央大学だけを2学部受けた。法学部は落ちたけれど、商学部は受かった。大学の中庭に掲示される合格者名簿は、二兄と並んで見遣った。この頃の私たちは、そののちの父には危篤状態は訪れず、病臥が続いていると聞いていた。受験を終えると兄たちは、「一度、わが家へ帰ってこい!」と、優しい言葉をかけた。私は、兄たちの優しさがうれしかった。父へは真っ先のこと、長兄やフクミ義姉そして母に、合格の喜びを伝えるために私は、行きとは逆に飛び跳ねるような気分で、下りのブルートレインに乗った。これまた行きとは逆に私は、戸口元で「ただいま」と言うと、猛スピードで座敷に病臥しているはずの父のところへ走った。
思いがけなく父は、兄たちが金を出し合って買ってくれていた当時はやりの分厚いマットレスの上に半身を起こして、「ぴょこん」と座っていた。私はうれしかった。傍らには内田小学校に上がったばかりの内孫の良枝が付き添っていた。たぶん、おじいちゃんの見守りを頼まれていたのであろう。父に声をかける前に、わが目から滂沱のごとく涙が流れた。ぬぐい切れない涙を拳で拭いて私は、「父ちゃん。会いたかった。治ってよかったなあ……。大学、合格したよ!」
と、言った。
今、私の目から涙がこぼれている。涙まじりに声をかけると父もまた、仏陀のような温和な眼差しに涙をためた。そして、病の顔に精いっぱいの笑顔をつくった。この頃の父には、心臓病とは別にいくらの痴呆症状が出始めていたという。ところがその様子は微塵もなく、やつれているとはいえ正気の笑顔だった。父は、髭まみれのゴボウのような水気のないゴツゴツした両手の平を合わせて何度も叩いた。父のありったけの祝福と喜びを伝える「無言の手たたき」だった。傍らの良枝もまた真似て、「やんやの手たたき」をしてくれた。この情景はわが生涯において、もっともうれしく、そしてせつなく、わが心の襞(ひだ)に焼き付いている。文章を書かなければもちろん、わが心中にだけ埋没している一コマのワンシーン(情景)である。作者冥利に尽きるとはたぶん、こんなことを言うのであろう。
3月になると私には、内田村から本当の巣立ちが訪れた。私は父を病臥に残して、受験に向かったとき同様に、沈痛な面持ちで再び、「東京行き、夜行寝台急行列車」に乗車した。大学に入学すると私は、八百弘商店を営む兄たちとヨシノ義姉の生活の中に本格的に割って入った。そして、四兄弟の末の店員の一人として、懸命に働いた。ふるさとの長兄は毎月、5千円の仕送りを続けた。私の大学生活は、「多くのきょうだいの中で、ひとりぐらい大学にやろうじゃないか」という、兄たちの思いやりで実現したものだった。そうした兄たちの恩愛と願望を心身に甘受し、私はとうとう生誕地・内田村から離れ別れて、異郷・東京における生活をスタートさせたのである。