ひぐらしの記

ひぐらしの記

前田静良 作

リニューアルしました。


2014.10.27カウンター設置

内田川(熊本県・筆者の故郷)富田文昭さん撮影

 

歳月と季節は早やめぐる、もう1月末日

 1月末日(31日・水曜日)。現在(デジタル時刻2:42)、寒気はこころもち緩んでいる。気象予報士の予報によればきょうの昼間は、春日のように暖かくなると言う。庭中の梅の花は健気に綻び、寒椿は凛々しく咲いている。物心ついて以降こんにち(83歳)にいたるまで、私は見栄えのする「梅にウグイス」の光景を願ってきた。ところがそれは叶わずじまいで、あの世へ旅立つことになりそうである。ところが一方、「椿にメジロ」は、この時期にあっては日々眺めて、私はその光景を十分に堪能している。
 メジロはウグイスより、はるかに美形でなおかわいらしい小鳥である。そしてその色合いは、椿の紅い色とメジロの萌黄色がコントラストに映えて、確かに見た目にもこよなく美景である。メジロの囀りはウグイスに負けるけれど、そのぶん風姿ははるかにメジロが勝っている。だからあえて、仮想の「梅にウグイス」など望まなくても、現実の「椿にメジロ」で十分、私には絵になる光景である。私はその光景を茶の間のソファに背もたれて、日々眺める幸福者である。老いの身にあっては、いくら感謝しても、感謝しきれないひとときである。
 歳月や季節は脱兎のごとくとは言えないまでも、まるでカエルのごとくピョンピョンと跳ねてめぐってゆく。つれて、寒気が遠のくことは、素直に喜ぶべきことなのか。いや、不断の思いとは異なりきょうにかぎれば、老いの身には恨めしいつらい仕打ちである。新年(令和6年・2024年)になって早や、きょうで1年・12か月のうちのひと月が過ぎる。まさしく、「光陰矢の如し」である。老いの身の私は、またまた嘆息しきりである。結局、私は何かにつけて嘆きながらまもなく、この世から身を隠すこととなる。そうであれば私は、悪あがきあるいは「年寄りに冷や水」と、嘲られようとも無為にあの世へ行きたくはない。
 私は、再び一念発起を企てた。ところが、わが一念発起などしれたものの、蚊の鳴く程度のものである。実際には新年を機にして、二か月余絶えていた文章の再始動を試みたにすぎない。ところがこの間は、1日も空けずにきょうの1月末日へ辿り着いている。怠け心をしばし忍んで、われながらあっぱれである!。
 一方では、もとより叶わぬことだけど、カレンダーの日めくりは、きょうで打ち切りにしてほしいという思いもある。しかし、歳月はあすから2月へめぐり、季節はほどなく春へ移ってゆく。ところがわが文章は、それらに連れられて一緒に進むとはかぎらない。なぜなら、三日坊主と意志薄弱共に抱き合わせのわが性癖(悪癖)にあっては、常に頓挫と挫折の憂き目が付き纏っている。生身、いやわが老いの身にあっては、すでにへこたれている。それゆえに私は、きょうがわが文章の途絶え日、すなわち命日にならんことを願っている。いや、思いあがって強気に、命日をくつがえし、この先への続行を決意している。しかし、まったく心許ない決意である。
 現在(3:41)、ぶり返しはなく、寒気は緩んでいる。素直に、喜ぶべきか。いややはり、老いの身にはすんなりとは喜べない、歳月と季節の早めぐりである。

二日続きの、嗚呼、ああ……

 1月30日(火曜日)。83歳のわが身には、「また、あしたね……」という、言葉は存在しない。この一行はきのうの文章で、きょうへの継続を恐れて用いたものである。ところがどうにか、パソコンを起ち上げて私は、(さあ、書くぞ!)という、心構えと態勢を講じている。
 時々、怠け心に襲われてわが文章は、長いあいだ書いて来ても未だに、ルーチンにはなり切れていない。悔しいと言うより、はなはだ残念無念である。定年後を見据えて私は、六十歳間際から文章の手習いを始めていた。そんなおり、突然の私からの電話を通して、懇意を得ていた大沢さまは、あるときこう言ってくださった。「前田さん。何でもいいから書いてください」。心根の優しい大沢さまは私に、手習いの実践の場を与えてくださったのである。私は「何でもいいから」というお言葉にすがりつき、おそるおそる書き出した。思いがけなくすぐに、わが専用のブログが現れ、ブログには『ひぐらしの記』と、命名されていた。たちまちわが心中には、うれしさと恐ろしさが同居した。同時に私には、(すぐには止められないな……)という、気負いと責任感が芽生えた。
 のちにブログには、竹馬の友・ふうちゃんが撮った、ふるさと「内田川」の情景が添えられた。ブログを開くたびに私は、しばし郷愁に浸った。同時に私には、「もはや『ひぐらしの記』の頓挫はできないな!」という、思いがいや増したのである。過去文の繰り返しを長々と書いたけれどここまではまた、わが心中になんらかのネタを呼び出すための序章にすぎない。
 起き立ての私は、いつものようにネタ探しに躍起である。すると、ようやく浮かんできたのは、書かずもがなの碌でもないネタもどきである。熟語「生涯」の成り立ちは、文字どおり「生まれて、涯てる」までの期間である。これに付き添う主語は「命」である。だから生涯とはズバリ、命の存在する期間である。それゆえに命の期間は、しばしば一筋の道に例えられる。換言すれば命の歩く道は、これまたズバリ「人生行路」である。人生行路は、道々に棘(トゲ)ある「茨道」である。赤ちゃん、幼児、児童、生徒の頃は、親に庇護されて歩くゆえにすがれば、どうにか歩けるところがある。ところが、ここを過ぎれば独り立ちにともなう、いくつかの茨道、あるいは分かれ道に遭遇する。先ずは就活、次には婚活、そして生計を立てる文字どおりの生活、人生の終末にあってはこれまた、文字どおりの終活が訪れる。
 こんなどうでもいいことを書いて、継続の足しにしている私は、精神異常をきたしているのであろうか。ところが、幸いにも私には自覚症状はない。診断は大沢さま、そしてご常連の人たちへ委ねるところである。なんだか、心侘しい夜明けである。

嗚呼、ああ……

 きのうの夜更けは日を替えて、きょう(1月29日・月曜日)の夜明けへ向かっている。起き出して来て、パソコンを起ち上げた。デジタル時刻は、3:25と刻んでいる。机上のテイッシュを取り、鼻を噛んだ。一つ、咳が出た。季節は、確かな足取りで春へ向かっている。しかしまだ、寒気は緩むことなく、わが身体を脅かし続けている。
 さあさあ、何を書こうか。私には試練の時が訪れている。凡愚に生まれたゆえに私は、パソコンを起ち上げるたびに悩まされている。切ないルーチンである。パソコンを起ち上げさえしなければ、まだ寝床の中にいて、スヤスヤとはいかなくとも、こんな悩みは免れる。鼻汁のたれを嫌って、鼻を啜っている。鼻汁が溜まるとテイッシュを取り、鼻を噛んでいる。
 防寒冬重装備の分厚いダウンコートのポケットから、スマホを取り出して掲示板を開いた。この行為は、掲示上の現在のカウント数を見るためである。楽しくもあり、切なさもある、わが日課である。よしよし、望んでいる以上のカウント数を刻んでいる。これから、きょうの数値がスタートする。拙い文章の連続だから毛頭、欲はかけない。ご常連の人たちには詫びて、ひたすら感謝するだけである。
 二か月余の空白ののち私は、カレンダー上の「仕事始め」を機に再始動を試みている。みずからに鞭打ち、みずからを鼓舞し、それゆえかなり力んで書いてきた。幸いにも、きょうまで途切れることなく続いている。一方、もはや息切れ寸前にある。くだらないこの文章がその証しである。文章にかぎらず、83歳のわが身には、「あしたまたね!」という、言葉は存在しない。ここまでは、ネタを引き出す序章である。ところが、長々とここまで書いても、未だにネタが浮かんでこない。それゆえに今のわが心境は、焼けのやんぱちに陥っている。
 恥も外聞もなく、何かを書こうと決意する。すると、浮かんだのはこのことである。書き殴りの「ひぐらしの記」はあとで、大沢さまのご厚意で製本(単行本)に編まれてくる。その前に私には、うれしさとかなしさ、相同居する校正作業がある。同居する作業とは言え、うれしさは無限大であり、かなしさは限られている。悲しさは、わが文章の拙さと誤りから生じている。ところが、ときにはこんな喜びに遭遇する。(ここのところは、六十歳の手習いにしては、良く書けているかな!)、すなわち、独り善がりのわずかな自惚れである。
 私は、行きつけの歯医者には予約時間の前に着く。そこには待合室がある。診察券を所定のところへ置くと、やおらソファに腰を下ろす。この先は待ち時間である。ソファの前の小さな卓上には、いくつかの雑誌類や単行本が置かれている。私はこれらの中から、決まって一冊の単行本を取る。そして、診察室から「前田さん、お入りください」と、呼ばれるまで、文章の拾い読みをする。この間は、わずかな時間である。歯医者にかぎらず病医院の待ち時間は、短いほどありがたいものだ。
 表題に釣られて手にするのは、単行本『九十歳。何がめでたい』(作者佐藤愛子)である。佐藤さんご本人は名だたる作家であり、亡きサトウハチローさんの異母妹でもある。直近の「ひぐらしの記89集」の校正作業をしていると、(あれこのところは佐藤さんの文章に似ているな)と、感じたところがった。疲れ癒しのちょっぴりいい気分になった。挙句には自惚れてみたくなった。「九十歳、何がめでたい」、表題からして文章は、かなり皮肉めいて書かれている。すると文章の共通項には、わが生来のマイナス思考に加えて、へそ曲がりと天邪鬼精神が起因していただけだったのである。こんな馬鹿げたことにでもときには遭遇しないと、わが未熟な文章の校正作業は、そのたびに疲労困憊に陥るばかりである。
 きょうのこの文章が悪の根源となり、この先のカウント数は漸減傾向を招くかもしれない。ここまで書くあいだ、私は何度机上のテイッシュ箱に手を伸ばしたであろうか。デジタル時刻は、夜明けまだ遠い4:58と刻んでいる。こんな文章は、鼻水を溜めて、何度も鼻を噛んでまでして、書かなきゃよかったのかもしれない。だから、ご常連の人たちには、「ご勘弁な、許してください!」と、声なき声で言って、文章を閉じることとなる。駄文なのに懲りずに、またまた長すぎた。いや、懲りて、あしたは書かないほうが身のためかもしれない。テイッシュが間に合わず、鼻水がポトリ落ちた。何度か、咳が出た。

ゴミネタの祟り

 1月28日(日曜日)。いまだ真夜中と言っていい時(2:29)の寒気は、わが心身を脅かしとりわけ身体に沁みる。文章を書く私にとってネタ(題材)は、車や動力のエンジン同然である。エンジンが壊れると機械物は、もとよりにっちもさっちもいかない。同様にわが文章は、とうにネタ切れを起こしている。それゆえに私は、パソコンを起ち上げるたびに真っ暗闇の中で、ネタ探しに狂奔している。挙句、探しあぐねて私は、右往左往をするなかでどうにか、ゴミみたいなネタを拾っている。すなわちこの文章は、ゴミネタである。
 不断の私は、自然界現象(自然界賛歌)、著しいところがある。しかしながら、地震、雷、竜巻、これらに強いて加えて大嵐は、もとより自然界賛歌の埒外にある。言うなればこれらは、人間界にとってはまったく益なしの魔物である。大雪、大雨、大風なども確かに、度を越せば人間界に悪さをする。ながら、魔物とは大違いであり、これらは小悪魔呼ばわりくらいでいいのかもしれない。いややはり、これらのもたらす災害もまた甚大である。一方で、度を過ぎない雪、雨、そして風は、人間界にはかり知れない便益、とりわけ風景をもたらしてくれる。ただ、風のもたらす便益と風景は、雪と雨には敵わないところがある。ところが風とて、風車を回しては人間界に原発に頼らないエネルギーを産んでいる。風は木の葉や花びらには悪さをするけれど、そよ風のもたらす様々な風景は、眺めるだけで私に眼福を恵んでいる。度を越さない雪は雪景色を恵み、一方適度の雨は農作物に潤いを与えて、人間界に食べ物を恵んでいる。地震、雷、竜巻、大風(大嵐)さえなければ、春へ向かってわが自然界賛歌はいや増すばかりである。
 雨戸を開ければとうに、庭中に立つ梅の木には花が綻びはじめている。庭中のフキノトウは芽だし始めている。庭中の雑草はのちにはわが手を焼かせるけれど、芽吹き初めのこの時期には健気さがあり、いたずらに踏みにじることには気が留める。茶の間のソファに背凭れていると、窓ガラスを通して早々と、わが心が和む光景に遭遇した。これまた庭中に立つ寒椿は、わが世の春と謳うかのように花びらの色の濃くし、さらに花蘂(かずい)には甘い蜜をいっぱい溜め込んでいる。すると、山から番のメジロが飛んで来て、今にも落っこちそうにバタバタしながら、仰向けで蜜吸いに懸命である。しばし眺めている私には、心が和んで郷愁や童心がよみがえる。ひととき、自然界賛歌の極みである。
 田畑には、大団円さながらに春野菜が育ち始めている。山には山菜が芽吹き、野には菜の花、ノビル、スカンポ、ツクシンボが萌えてくる。川岸にはすでに、ヨモギやセリが緑色を濃くしている。どれもこれもがわが自然界賛歌における脇役、いやその他大勢の役割を十分に担っている。しかし、先日の買い物において私は、一瞬目を逸らしたくなるような人間界の浅ましさに遭遇したのである。売り場には小箱に入ったフキノトウが並んでいた。ところが小箱の中のフキノトウは、わが庭中で見る瑞々しい艶を失くしていた。まもなく、菜の花も売り場へ現れる。人間界の食欲という浅ましさは今や、山菜や野の花あるいは草花さえ相たずさえて、野菜のように促成されつつある。これらにとどまらず人間界の浅ましさは、肉屋でしばし佇みガラス越しに眺めればその極みにある。魚屋へ足を運べばまた、人間界の浅ましさはまた同然である。こうまでしても人間は、浅ましく生き続けなければならない。浅ましさは、人間につきまわる業(ごう)であろう。
 この罪滅ぼしに私の場合は、おのずから自然界賛歌である。だけど、人間界に悪さだけをする地震、雷、竜巻、そして大嵐は、わが自然界賛歌の埒外にある。いたずらに長いばかりのゴミネタで、骨格のない文章は、夜を徹して書いてもまったく味気ない。それゆえに私は、ご常連の人たちにたいしては、ひたすら詫びるばかりである(3:39)。草臥れ損なのか、寒気で身体は冷え切っている。

「死期と死に方」、気になる死に方

 1月27日(土曜日)、現在の時は、日を替えたばかりの頃にある。このところの書き殴りの長文を真摯に詫びて、今の私は、心して短い文章を書く心づもりをたずさえている。
 きのうは月に一度の補聴器の定期調整のために、はるばる神奈川県横須賀市内の大津町まで出向いた。高価な買い物のため、まるで車検みたいなものだな! と思って、私は渋々出かけた。遠いところで買ったことでは、今なお私は、「牛にひかれて善光寺参り」の心境にはなれていない。いや、横須賀市内に住む娘に拿捕されて、無理矢理娘の行きつけの店(眼鏡市場)へ連れて行かれた思いに苛まれている。娘の勝手な言い分はこうである。
「こうでもしないかぎり、頑固な父親(肥後もっこす)は安価な集音器で我慢して、よく聞こえる補聴器に買い替えない。だからわたしには、父親思いの優しさがある」。
 だけど、わが思いは、娘の騙し討ちに遭ったようなものである。もちろん連れて行っただけで、娘が買ってくれたわけではない。高価の支払には、日々細り続けるわが身銭をはたいたのである。高価な補聴器は、わが残余の命にどれほど貢献できるだろうか。元が取れるだろうか。実際のところはこの先わが命短く、銭失いになりそうである。娘が読んだら目を剥きそうな、書くまでもないことを書いた。ここらあたりで止めないと、また長文になりそうである。くわばら、くわばら……。だからこの先は、きょうの主題に切り替えて書くけれど、愉快なネタではない。
 絶命は人間であるかぎりすべてに訪れ、かつ老少不定のさだめにある。絶命にはだれしも、抗うことはできない。そしてだれしも、「死期と死に方」を気に懸ける。とりわけ、小心者の私は心中、日々こんな思いを浮かべている。(死期の訪れは仕方がない。だけど、死に方が気になる)。もちろん、浮かべてどうなることでもない。だから、なさけない無駄な想念であることとは知りすぎている。そのうえこの思いはわが身だけではとどまらず、茶の間でひねもす相対する妻へもふりかかる。
 おととい(1月25日・木曜日)書いた文章、すなわち『消えゆく同期入社の仲間』にあっては、同期入社のひとりの訃報のことを書いた。前に届いていたふるさと情報では、生まれてこの方までの友人、渕上喜久雄君の訃報を知った。そして、日を替えたばかりの先ほどには、スマホメールでまた新たな訃報が届いた。それは大学時代において、7人の親友グループを成す中の、ひとりの訃報だった。枯葉が道路に落ちるのを掃くのはわが日課である。所を変えて時を変えて、仲間と親友の命がまるで、枯葉のごとくに落ちてくる。わが身には、残る者の寂しさと侘しさがつのるばかりである。
 死期はともかく、私はどんな死に方をするだろうか。私は浮かべても、どうなることでもないことを浮かべている。補聴器と入れ歯を外した。寝床に入っても、当分寝付けそうにない。もちろん、寒気のせいではない。

予告の降雪予報の採点

 1月26日(金曜日)、起き立て(4:27)にあって私は、こんな想念を浮かべている。冒頭から記しているけれど、きょうの文章にあっては、付け足しの番外編にすぎない。寒気はすでに過ぎた「大寒」(1月20日)を底にして、春へ向かって擂り鉢の底を這い上がるどころか逆に、なお奥の大底を探るかのような無茶苦茶ぶりである。しかしながら私は、(バカにするな!)と声なき声で、寒気を懲らしめることはできない。いや私には、暴れん坊のなすがままに、じっと耐えるしか能がない。
 さて、掲示板上に書いているわが文章は、行替えのない書き殴りである。このため、ご好意で読んでくださる人たちには、きわめて読みづらいものである。これには、こんな理由がる。掲示板の文章は、大沢さまのご厚意に授かりのちには、まずは「ひぐらしの記」のブログに、こちらは行替えをされて移記される。そして次には、これまた大沢さまにはさらなるご面倒をおかけして、栄えある製本(単行本)へ編んでくださっている。この間には私は、大沢さまから「行替えなしがし易い」という、サゼスション(示唆)を賜っている。もとより私は、この示唆に逆らうことはできない。なぜなら、起き立てに書き殴るわが文章はいずれ、わが生来の夢のまた夢、すなわち壮丁奇麗な「単行本」へと、なり替わるのである。もちろん叶わなぬことだけれど、こんな僥倖にありついていることを草葉の陰の父と母が知れば、私をしっかり抱いて喜ぶこと請け合いである。
 しかしながら一方、ご好意で掲示板を覗いてくださるご常連の方々には、読みづらい書き殴りにすぎない。ところが、きのうの私は、読みづらさの典型とも言える、長文をだらだらと書いてしまった。400字詰めの原稿用紙にすれば5枚強(2000字を超える)の長さだったのである。きょうの私は、まずはこの無礼を詫びる心づもりをたずさえていた。ところがあにはからんや! きょうの文章もまた、きのうの二の舞になりかけている。
 きのうの私は、まったく久しぶりに掲示板上のカウント数をメモした。その理由には二か月余の空白のせいで、自業自得とはいえカウント数は激減をこうむっているはずだと、思っていたからである。ところが幸いなるかな! カウント数の激減はまのがれて、いやそれどころか思いがけない数を数えたのである。だからこのことにはひれ伏して、ご常連のかたがたにたいし、感謝と御礼を記すものである。またな長々と書いて、読みづらい文章になりかけている。ゆえに、ここらで結文にするのが本当の詫び心であろう。
 しかしながら、予告していたこのたびの降雪予報の結末を素通りしては、わが身は廃りさらには「噓つきカモメ」に成り下がる。それを避けるために私は、降雪予報の当たり外れ、すなわち採点を試みる。先回の降雪予報は、追試に耐えないほどの赤点丸出しだった。しかし、降雪予報は外れてこそ、歓迎すべきところがあるから厄介であり、別物の予報とも言えるところがある。外れてももちろん、気象庁や気象予報士への非難は埒外にある。
 さて、このたびの降雪予報にたいするわが評価は、気象庁や気象予報士にたいしてはかろうじて合格である。能登半島を中心とする震災被災地における降雪予報は、幸いなるかな! 赤点すれすれだった。ところが、赤点を補って合格点へ持ち上げたものには、これら二つの雪降り情景三つほどの雪降り情景がある。必ずしも降雪予報どおりの日本海添いの地方ではなかったけれど、一つには名神高速・関ケ原インターチエンジ道路(岐阜県関ケ原町)付近における5キロに及ぶ車の立ち往生情景があった。二つ目には滋賀県米原市における、多雪からもたらされた人々の難渋ぶりの情景があった。これら二つは、NHKテレビニュースの映像から観た雪降り情景である。三つめは、思いがけないふるさとの雪降り情景であった。こちらはテレビ映像には現れなかったけれど、ふるさとの生家を守る、亡き長兄の後継者(長男)の妻からのLINE送りによる三枚写真と、平洋子様からの掲示板上へのご投稿文によるものだった。能登半島を中心とする震災被災地の降雪予報が、いくらか外れたことで合格点とはいえ、赤点すれすれだったことでは、私には気象庁と気象予報士をなじるつもりはさらさらない。雪模様のない、あさぼらけが訪れている。しかし、寒気が身に沁みる。

消えゆく同期入社の仲間

 1月25日(木曜日)。現在は、真夜中あたりにある。日常生活におけるごく身近なところで、食品には「賞味期限」と「消費期限」が表示されている。一方、これまた身近なところで、医薬品や医薬部外品には「使用期限」が表示されている。双方共に私は、スーパーなどでの買い物のおりや、はたまた調剤薬局でもらうときなど、あるいはドラッグストアで買うときには、これらの表示は気にしない。ところがまた双方共に私は、こんなときにはかなり、それぞれの期限表示を気に懸けている。すなわち食品の場合は、食べる前には賞味期限と消費期限を確かめている。薬品の場合は、これまた使用期限を確かめている。もちろん、「残り物には福がある」からではない。買い置きや、もらい置き、すなわち在庫があるからである。共に、「残り物には害がありそうで」、期限切れが気になるからである。だからと言ってケチな私は、とことんこれらの表示にこだわってはいない。もとより薬品ではしないけれど、食品の場合は期限切れであっても、ムシャムシャと食べている。それでもこれまでのところは、食中毒は免れている。
 閑話休題。きのう(1月24日・水曜日)には突然、同期入社のYさんから電話を戴いた。用件は、同期入社のひとりであるTさん(83歳)の訃報を知らせてくれるものだった。顧みれば同期入社の数は、大卒にかぎれば50数名だったように思う。電話のやり取りの中でYさんは、「みんな亡くなっていくよ。残っている人はもうあまりいないね。それらの中で元気な人は、渡部さんと前田さんのふたりくらいだね。前田さんは相変わらず元気でしょ?……」
「Yさんからは、早々に年賀状をもらってありがとう。ぼくは書かずじまいで、後出しになり、ごめんね。そう元気でもないけれど、今、卓球クラブの練習から帰ってきたばかりです。Yさんは、元気そうですね!」
「いやいや、前田さんも知ってのとおり、たくさんの病で苦しんでいますよ。前田さんは、まだ、卓球やっているの? 元気じゃないの……」
「ほんとに、渡部さんはとても元気です。渡部さんとはぼくの文章書きや、Yさんも知っていると思うけれど、渡部さんの郵便局回りなどをとおして、日々交流があります。いやぼくは、渡部さんにはすごく助けられています」
「前田さんはまだ文章を書いているの? 自分も教えてもらって以降、読んでいたけれど、途中からどこに書いているのかわからなくなり、もう書いてはいないんだなと思って、そのあとは読んでいないよ」
「そう、ありがとう。だけどもう、読まなくていいよ。とぎれとぎれになりかけているから……」
 渡部さん(埼玉県所沢市ご在住)は、「ひぐらしの記」や掲示板ではすでにお馴染みなので実名を用いた。いや、実名で書かずにはおれなかった。渡部さんはわが文章が途絶えるたびにパソコンメールで、こんな激励メッセージを送信してくださっている。「前田さん。このところ文章を見ないけど、どうかしているの? 毎朝、君の文章を読むは、自分の楽しみのひとつです」
 渡部さんは同期入社の誼(よしみ)をはるかに超えて、人間味いや人間の優しさがあふれて、わが崇敬するひとである。もちろんこのことは渡部さんの優しさの番外に位置しているけれど、渡部さんには「ひぐらしの記」にあっては、創刊号から発行されたばかりの直近の第89集にいたるまでのすべてを、有料購入にあずかっている。だからこれまた、渡部さんにかかわる、書かずにおれないことの一つである。
 現下の渡部さんは、首都圏(東京都、埼玉県、神奈川県、千葉県)にある、大小すべての郵便局をまるで、しらみつぶしのごとくに訪ね歩かれている。驚くことなかれ! 渡部さんは、わが住宅地にある個人商店みたいなちっぽけな郵便局にさえすでに訪れ済である。そして現在は、ひときわ広域自治体である千葉県を日々、はるばる所沢市から回られている。Yさんが言う「元気な人は渡部さんと前田さんのふたり」とは、実際のところ私の場合は、渡部さんの足下にも及ばないものである。
 賞味期限や消費期限、いや命だから使用期限が妥当と思えるけれど、わが命はとうに使用期限切れにある。Yさんの誉め言葉にはうれしいと言うより私は、同期入社の仲間が消えゆくことぞっとした。こののちの私は、Yさんからの電話のことを伝えたくて、渡部さん御宅の固定電話の呼び鈴を鳴らした。ところがあいにく、呼び鈴は鳴りっぱなしのままで、肝心の渡部さんを呼び出してはくれなかった。たぶん渡部さんは、千葉県の九十九里浜海岸沿いの小さな郵便局回りをされていたのかもしれない。
 きのうの関東地方は、雪こそ降らずじまいだったけれど、身に沁みる寒さだった。わがふるさとのきのうの雪景色風景は、亡き長兄の後継者(長男)の妻から、三枚の写真付きでLINEで送られてきた。そして、とどめのふるさとの雪降り情景は、平洋子様から賜ったのである。
 この文章はとっくに使用期限が過ぎたわが命を惜しんでだらだらと書いた、エンドレスになりかけの長文である。さむいなあ……。日本列島のあちこち、やたらと雪が降っている。あしたは降雪予報の結末を書くことになるかもしれない。

気に懸かる、再びの降雪予報(震災被災地)

 1月24日(水曜日)。私はいつもの習わしにしたがってパソコンを起ち上げると、すばやくメデイアが伝えるニュース項目の一覧を瞥見した。ほかのニュースは、ニュース内容(本文)までを読むことはなかった。ところが、後段に記す一点のニュース(引用文)は本文を開いて、恐怖感をつのらせて目を凝らして読んだ。きょうはわが文章にあらずして、ニュース項目からの引用である。だからと言って、疲れ癒しにお茶を濁しているわけではない。いやいや、震災被災地にからむ降雪予報であれば他人事ではなく、私は気に留めずにはおれなかった。すなわち私は、北陸地方(石川県、富山県、福井県)、中でも石川県を中心とする震災被災地における降雪予報(降雪と積雪)を甚く慮ったのである。先回の降雪予報はおおかた外れて、大過なくすぎた。それゆえに天邪鬼の私は、外れたことがうれしくてそののち、いくらかからかいの文章を書いた。それは気象予報にかかわることや、もっとあからさまに気象予報士の職業にたいし、かなり皮肉めいた文章だった。できれば今回もまた、明後日(1月26日・金曜日)の文章では、降雪予報の外れを喜ぶ文章を書きたいものである。そして、幸いにも今回また外れれば、こんどは気象予報士に留まらず、いっそう皮肉まじりに気象庁を称えたり、詰ったりする文章を書きたいものである。なぜなら気象庁は、今回の降雪予報においては「災害級の警報」と言って打ち鳴らし、すでに国土庁と相並んで事前の記者会見を開いて、大いなる注意を呼び掛けている。日本地図をもとに東から北から、かつ西から南にかけて、帯び長く日本海側に存在する自治体に色塗られた降雪予報には、石川県あたりに飛びっきり濃い色が塗られていた。このことこそ、今回の降雪予報にたいし、私が震え怯えている「大本」である。
 さて、以下は「ウエザーマップ」が報じる引用文のあらましである。【日本海側中心に 25日(木)にかけて大雪・高波に警戒 太平洋側の平地でも積雪のおそれ】(1/23・火曜日、18:05配信)。「25日(木)にかけて、東日本から西日本の日本海側を中心に大雪となる所がある見込み。大雪や路面の凍結による交通障害に警戒が必要だ。北日本や北陸は、高波にも警戒が必要となる。また、北日本から西日本の日本海側は、落雷や竜巻などの激しい突風に注意が必要だ。日本付近には25日(木)にかけて、上空およそ5500メートルに-40℃以下のこの冬一番の強い寒気が流れ込み、冬型の気圧配置が強まる見込み」。
 「柳の下にいつもドジョウはいない」。私は、またいてほしいと願っている。

わが劣等の元凶は「脳髄」

 この世に呱呱の声を上げて以降こんにちにいたるまで(83歳)、私はあらゆる面において劣等感情ではなく、正真正銘の劣等につき纏われている。二字の熟語に置き換えればそれは「生来」と言える。再び置き換えれば、「生まれつき」である。確かに、生まれつきの劣等を悔いるようではバカ丸出しである。しかしながら私は、常々悔いている。だけど、どうにもならない。だから、劣等をカムフラージュして、できるだけ楽天家を装ってみる。しかしながらこれまた、生まれつきの精神惰弱のせいで、常に劣等に脅かされている。まさしく私は、どうにもならないことを悔い、嘆いている「大バカ者」である。
 確かに、生まれつきの劣等はどうにもならない。そして、それを悔いてもまた、どうにもならない。幸いにも身体には、劣等を自覚したり、自認するところは少ない。体躯は、人並みに生まれついている。それでも欲を言えば、10ないし15センチほど高い身長に恵まれたかった。わが生まれつきの身長は170センチほどである。だから、中・高校生時代の部活のバレーボール部にあっては、身長のことを思い続けていた。しかし、身長は伸びなかった。
 児童、生徒、そして学生時代にかけては、近眼が進むにつれて(死にたい!)と呟いては、絶望感にうちひしがれていた。人生の晩年にあっては、すでに白内障の手術を終えて、現在は緑内障の進行経過を見るために、半年ごとの通院を余儀なくしている。まさしくエンドレス、通院のデッドライン(死線、最終期限)は、文字どおりわが命の絶え時までである。
 わが両耳は、日々難聴に脅かされている。ところが幸か不幸か、こちらには(死にたい!)という、思いは免れている。いや、(できればもっと生きたい!)という、思いが渦巻いている。その表れには年末にあっての私は、それまでの安価な集音器に換えて、高額の補聴器を買った。この買い替えには、苦悩ばたつく思案をめぐらした。なぜならそれには、今はやりの「コストパフォーマンス」(元をとれるかどうか?)、すなわち、可否や是非の選択がつき纏っていた。実際のところ私は、まもなく命絶えるのに40万円強を掛ける必要があるやなしやという、切ない自問自答の呻吟に苛まれていた。生まれつきの醜面や醜男は、もちろん大損である。だけどこれこそ、悔いて嘆いてもどうなるものでもなく、ばかばかしさがつのるだけである。結局、わが身を苛む劣等のすべては、脳髄の貧弱さと乏しさに起因している。それゆえに私には手に負えない。いや、診療科あまたにわたる掛かりつけの医師であっても、まったく手に負えないものである。
 さて、人生の晩年にあって日々、私が悩まされているものでは、デジタル社会からこうむる様々な難儀がある。逆に言えばデジタル社会に精通や適合が叶えば、現下の私の悩みの多くは雲散霧消することとなる。しかしながらそれは叶わず、ゆえにわが日常生活は暗雲に覆われている。その元凶は、劣等な脳髄である。具体的には、パソコンおよびスマホ操作共に、いまだにひよっこのヨチヨチ歩きさながらである。それでも頼らざるを得ないデジタル社会は、わが精神を日々疲弊させている。脳髄劣等の「恨み骨髄に徹す」ばかりである。
 寒気が緩んでいる。そのせいか、バカなことを長々、だらだらと書いてしまった。脳髄および指先共に、劣等の証しでもある。

起き立ての下種の一念

 1月22日(月曜日)、夜明け間近に起き出している。起き立てにあって未だ暗い中、一基の外灯の光を頼りに私は、カーテンと窓ガラスを開いて外を見た。霙や霰、雪も雨もない。寝起きの気分が落ち着く、静かな夜の佇まいである。前週末の二日にかけての降雪予報は見事に外れて、老夫婦の日常は身構えていた雪の日の難渋な生活を免れた。あえて、「見事に」と記した。もちろん、予報を外した気象予報士を嘲ったわけでなく、いや逆にかぎりなく崇めたい心境(気分)の表れである。
 生誕地・熊本における子どもの頃とは違って老いの身の私は、チラチラとちらつくくらいの雪降りだって、まったく望んでいない。だから、雪模様を免れた前週末の二日間の私は、カタツムリのごとくに茶の間のソファに背もたれていても、内心には明朗快活気分が溢れていた。
 気象予報士という職業は、高給を得てなおかつ、予報が外れても文句を言われるどころか、私の場合はいっそう誉めそやしたい気分である。それゆえにわが感慨には、(いい職業だなあ……)と、羨むところがある。いやズバリ、憧れる職業(仕事)と言っていいのかもしれない。もちろん気象予報士になるには、超難関試験を突破しなければならない。それにもかかわらず就活にあって人は、意を決して憧れの気象予報士という、職業へ立ち向かうのであろう。もちろん空夢であり、正夢にはありつけないけれど、再び職業選択の機会があれば私とて、何度落ちても受験へ臨むであろう。へそ曲がりの私の悔いごと多い述懐である。それほどに気象予報士は、私には到底叶わぬ憧れの職業である。なぜなら、当たっても外れても損のない、そしてなおかつ高級を食み、専門家として特段に崇められる職業(仕事)である。降雪予報の外れくらいであっても、こんなに気分が弾んでいる。するともし仮に、地震予報の外れであった場合の私は、気象予報士を現人神のごとくに崇めて、額づいては合掌を繰り返すであろう。気象予報士という職業は、予報が外れても敵愾心を被ることは稀である。いや、万々歳である。
 夜明けて、満天にのどかなあさぼらけが訪れている。このところの私は、いたずらに長い文章を書き続けて疲労困憊にある。それゆえにきょうは、心身休めにこれで結文とする。表題のつけようはないけれど、何かを考えよう。