ひぐらしの記
前田静良 作
リニューアルしました。
2014.10.27カウンター設置
ウグイスのエールにすがるわが人生
6月26日(月曜日)、味を占めてきょうもまた、昼間に書いている。昼間書きは、ウグイスと時間を共有できるのが一番いいことである。今やウグイスと私は、風貌の醜さにとどまらず、孤独に堕ちた者同士でもある。そのためか私は、ウグイスには親近感深い情愛を持ち続けている。
子どもの頃、山中の「メジロ落とし」の囮(おとり)の籠に差すトリモチに、ウグイスが近づいて来た。ところが逃げられて私は、腹いせに「バカ!」と、大声で叫んだ。遊び仲間でウグイスはいつも、「バカ」と呼ばれていた。情愛の深さは、そのとき蔑(さげす)んだ罪滅ぼしでもある。できれば姿を見せてほしいけれど、ウグイスにも隠れていなければならない切ない事情があるのであろう。確かにウグイスの場合は、隠れていてこそ美徳、すなわち美声が際立ち、人間からやんやの称賛を浴びることができる。だから私は、ウグイスのこの切ない事情をおもんぱかり、無理におびき寄せはしない。孤独に耐えて、鳴きたいだけ、山で鳴けばいいのだ。私は、ウグイスからたまわる友情をも感じている。外へ出るとウグイスは、わが背に待っていましたとばかりにエール(応援歌)の鳴き声を、雨あられのごとく奏でてくれる。相身互い身の友情だけに、双方の絆は揺るぎようがない。
今朝は目覚めて、5時近くから1時間ほどをかけて、道路の掃除を綺麗に仕上げた。昼間書きの功ありて、途絶えがちだった日常生活のルーチンが見事に復元できたのである。確かに、きのうの昼間書きは、今朝のわが気分を愉快に潤してくれていた。
こんな矢先にあって今週からの私には、つらい日常生活が強いられることになる。それは6月29日(木)を一回目として、期限なし(エンドレス)の歯の治療が開始されることである。たぶんこの先、一週置きに予約時間が決められて、私は厳命を受けたごとく神妙にきっちりと、通院を繰り返す羽目になる。先日突然、詰め歯の一つが崩落した。私は慌てふためいて予約を取り、掛かりつけの歯科医院へ通院した。通院期間が空いていたせいかこのときは、主に歯科衛生士(うら若い女性)によるクリーニングが施行された。マスクを免れた目元は、覗き目、とてもうるわしかった。けれど、言葉は残酷だった。
「虫歯のところが4か所、増えていますね。治療の判断は、先生がされるでしょう。写真を2枚撮りますから、こちらへどうぞ……」
このあとは主治医・男性先生が、歯と歯茎を診断された。すると輪をかけて、途轍もなく恐怖の言葉を言われたのである。もちろん私には、こののちの治療方針や治療後の出来具合などまったく見当がつかない。それゆえ私は、戦々恐々の面持ちで、梅雨の曇り空の下、渋々トボトボと帰宅した。曇り空は雨を留めたけれど、わが目は容赦なく涙を溜めた。歯の治療はエンドレスとは言えそれでも、いつかは打ち止めが訪れる。打ち止めは夏過ぎて、秋口あたりだろうか。この間の私は、文章を書く気分を殺がれて、治療の経過しだいでは頓挫の憂き目を見そうである。われながら、悲しい予告である。
こんな泣き言、ウグイスには言えない。いや言っても、子どもの頃の仕返しに遭って、「おまえは、うすらバカ!」、呼ばわりされるだけだろう。窓の外には梅雨明けみたいな、強い陽射しがそそいでいる。歯医者通いをおもんぱかり、ウグイスのエールにすがる、わが気分は沈んでいる。
昼間書きの文章
6月25日(日)、四囲の窓ガラスのすべてを網戸に変えた。すかさず、ウグイスの鳴き声が「ホウー、ホケキョ」と、頻りに耳穴に入ってくる。騒がしいと言うと罰が当たる。いや、千金はたいても買えない、無償の贈り物である。夏至が過ぎればやがてウグイスは、人の声に「老鶯(ろうおう)」呼ばわりされる。そして、セミが鳴き出せばこんどは、「あれ、ウグイス、まだ鳴いているの?」と、気狂い呼ばわりされる。ウグイスは、まだ鳴きたい声をしかたなく抑えて、鳴き止める。だから、この時期のウグイスは期限付きに余計、人懐っこく鳴き続けるのであろうか。それとも欲深くウグイスは、私に同情と憐憫の情をせがんでいるのであろうか。
醜い姿を隠さずにいられないことでは、ウグイスと私は似た者同士である。しかしながらウグイスは、生来、人が羨む美声に恵まれている。この点ではウグイスは、何らの特徴も有しない私より、はるかに長く生きる価値がある。それなのに、セミが鳴き出すとそれまでの恩恵など顧みられずに、翌年の春先まで忘れ去られてゆく。そののちのウグイスの命の成れの果てなど、もちろん私は知る由ない。
まるで、盛りの梅雨空を忘れたかのように大空から、のどかな陽射しが空中と地上にあまねくふりそそいでいる。雨に打たれ続けて、小枝を曲げてうつむいていたアジサイは、いくらか背筋を伸ばし、花をもたげて一息ついている。これまで、ほぼ閉め切っていた部屋の中には、網戸からいくらか湿り気を落とした風が通り、沈んでいたわが気分に心地良さを恵んでいる。頭上の風鈴がチリンチリンと鳴り、梅雨明けを待たずとも、いっとき夏気分にひたれている。
昼間に文章を書けば、眠気眼と執筆時間に急かされての書き殴りは免れる。それよりなにより、ゆったりとした心の安寧に恵まれる。それゆえに、昼間書きが定着してほしいと思う半面、明け行く空の描写と、厳かな朝の気分を味わうことはできない。どっちもどっち、私は自然界の恵みに生かされている。
ウグイスは、暮れ行く頃まで鳴き続けるであろう。お礼返しに庭中に最高等級の米をばら撒いても、コジュケイのようには山から飛んでこない。醜い風貌を持つ、ウグイス固有の孤独な宿命の証しであろうか。鏡面に写るわが醜面を眺めて、私も(隠れたい!)思いを重ねている。ひねくれて、美声を持つウグイスへの憧れは尽きない。梅雨の合間の、のどかな昼間にあって、一コマの戯れの文章を書いてしまったけど、昼間書きの文章の気分は悪くない。
「夏至」における嘆き
「夏至」(6月21日)が過ぎれば夏が訪れる。夏が過ぎれば秋が訪れる。「立冬」(11月8日)を挟んで冬の季節になると、「冬至」(12月22日)が訪れる。この間の7月には、年齢を重ねるわが誕生日がある。半年ごとの季節のめぐりは短く、毎年、心が急かされている。ところがこの先は、焦る心になおいっそう拍車がかかることとなる。おのずから今より、季節感に浸る気分もまた、いっそう殺がれること、請け合いである。
夏至と冬至、この相対する季節用語は、このところとみに私の気分を苛立たせるようになっている。もちろん、かつての私はこんな気分にはならなかった。いやむしろ、この二つには途轍もなく気分が和んでいた。夏至の場合はわが好む夏が近くなり、足早に過ぎてもこんどは、秋の夜長を十分に楽しめる。冬至の場合は、我慢の一冬さえ越えれば、確かな春の季節が訪れる。しかし、年齢を重ねた現在の私は、悠長な気分にはなれずに、こんななさけない心境をあからさまに吐露している。人間心理とはこうも変わるものかと、ひたすら呆れかえっている。
梅雨明け間近の昼下がりにあって、穏やかな気分になれず、「夏至」が過ぎて苛立つわが嘆きである。確かに、季節の速めぐり感に脅かされて、齷齪(あくせく)するのは愚の骨頂、トコトン馬鹿げている。しかし、人生晩年においては避けられない、人ゆえの切ないさだめである。寝起きとは違って昼日中に、再び「夏至」にちなんで書き留めた文章である。
「夏至」過ぎていて、慌てて書く
6月23日(金)昼間、NHKテレビは、78回目の「沖縄・慰霊の日」にかかわるニュースを盛んに報じている。毎年、同じようなニュースの繰り返しだけれど、実際には現地の風景を変えている。なぜなら、沖縄戦の記憶を伝える人たちは、年年歳歳減少するばかりである。すると、残された者がそれを知るには、記録にすがることとなる。しかしながら記録だけでは、沖縄戦の実相を知ることはできない。戦争の厳しさはやはり、体験ある者が伝えなければならない。このことを肝に銘じて私は、後がない思いで神妙に、つらいニュースを見聞きしていた。
午前中はまだ、このところの悪天候を引き継いでいた。ところが、しだいに日光がさしはじめた。私は濡れていた道路の渇きぐあいを待った。(よし、掃けるぞ!)。私は掃除の三種の神機(箒、塵取り、半透明のビニール袋)を携えて、すばやく道路へ向かった。1時間ほどかけて、綺麗に掃き終えた。この間、山のウグイスは、わが姿を見て安心してくれたのか、うれしくなったのか、歓迎の鳴き声を高らかに奏(かな)で続けていた。山の法面に沿って長く横列に並んでいるアジサイは、帯びていた露玉に光をあて返してひときわ輝いた。
このところの私は、「ひぐらしの記」に連載物を書き続けていた。そのため、季節の日めくりを遠のけて、可惜(あたら)季節感から遠ざかっていた。だから、きょうの私は、久しぶりに心地良い季節感を味わっている。季節感忘却の筆頭はこれである。すなわち、「夏至」(6月21日・水曜日)という、文字を書かずに梅雨明け、そして夏日へ向かうところだった。
人間にとっていや私にとっては、季節感を失くすことは、「生きる屍(しかばね)」同然である。確かに、ぼろ家のわが家では、ゴキブリ、ムカデの這い回る季節ではある。だからこの季節、必ずしも手放しに喜べるものでもない。だと言って季節感を失くして、いたずらに時が過ぎゆくのはもったいなくて、元も子もない。
無題
パソコンを起ち上げた。ところが、書くことがなく、休もうと、閉じかけた。すると、私を助け、「ひぐらしの記」の継続を叶える、出来事が浮かんだ。とうとう、多くのきょうだいの中で、生存者は私一人だけになった。寂しさ、無限につのるものがある。「捨てる神あれば拾う神あり」。突如、LINEの中に、こんなチーム名が誕生していた。それは、「前田チーム、静良叔父ちゃんを励ます会」である。メンバーはとりあえず、首都圏に住む、甥と姪たちが主である。出来立てであるのに、10名のメンバーが記されている。二兄(東京都国分寺市)にかかわる甥2名、姪1名、都合全員で3名。三兄(東京都昭島市)かかわる甥全員で2名。四兄(東京都国分寺市)にかかわる甥1名、姪1名、義姉1名、都合全員で3名。私にかかわる娘1名。私。都合全員で2名。ここまでのメンバーで10名である。妻はまもなく入会するはずだ。とりあえずと書いたのは、ふるさとの長姉と長兄にかかわる、甥と姪へも入会が呼びかけられている。加えて、私より年上になる異母長兄の姪3人と甥1人。さらには異母長姉の甥2人も、呼びかければすぐに入会しそうである。これらには子・孫あるいはひ孫のいる家庭を持つ者もある。みんな、わが父、異母、そして母との繋がりの一員を形成している。とりあえずの10名は、メールのやり取り盛んに、私の励ましにおおわらわである。
きょうはこんなことを書いて、継続の足しにしておしまいである。恥晒しではないけれど、かたじけなくおもう。私は、死ねなくなっている。文章とは言えそうにないから、題はない。
おっちょこちょこの人生
パソコンを起ち上げて、のっけから電子辞書を開いている。「徳俵:相撲で、土俵の東西南北に、俵の幅だけ外側にずらしておいてある俵」。力士にすればオマケの俵である。だから、徳俵と名がついている。これくらいの説明書きがなければ、電子辞書の価値はない。徳俵のことはどうでもいいけれど、文章の都合上、冒頭で徳俵の由来を記したのである。わが人生はオマケの「徳俵」さえ踏んでしまい、いよいよ後がない。
きのうは下歯に詰めていた岩石みたいな詰め歯が、まるで西の空の日没を見ているかのように静かに外れた。このため下歯は、前歯周辺の何本かを残して、左右には噴火口みたいな旧い穴ぽこに加えて、新たな穴ぽこが並んだ。上歯はすでに詰め歯がとれていて、いたるところが穴ぽこだらけになってしまった。歯医者嫌いで、これまでは痛みが出ないかぎりほったらかしにしていた。しかし、きのうの下歯の詰め歯の外れは、「万事休す」、と宣告を受けたのである。上下すなわち、歯並び全体が「穴ぽこ」だらけになり挙句、大好きな御飯さえ(もう、食べなくてもいいや)と駄々をこねて、敬遠する状態になりつつある。
すわ! これでは歯どころか、「命」が一大事だ! と、慌てふためいて私は、間遠になっている掛かりつけの歯医者に予約を入れた。そのとき決められた診察時間は、きょうの午後2時である。運よく修復できるのか。それとも運悪くもはやお手上げで、また穴ぽこのままにほったらかしにし、やがて訪れる痛ささえ我慢して、自然死まで耐えるのか。きょうは、わが生来の優柔不断の決断をどちらかに迫られる日になりそうである。もちろん診察を終えるまでは、わかりようはない。ただ、残存のわが命に突然、大きな出来(しゅったい)が生じたことだけは明白である。
もう一つ、知りすぎている言葉だけど、電子辞書調べをした。「パンク:①自動車や自転車のタイヤのチューブが破れること②物が膨らんで破裂すること③適量を大幅に越えて機能が損なわれること」。調べるまでもない言葉なのにあえて、電子辞書を開いたのは、これまた文章都合上のためである。そしてそれは、電子辞書の説明書き③の記述に該当する。私の歯、いや体全体は、徳俵でこらえてももはや、後がないパンク状態にある。あすと言わずきょうにも、息の根が止まりそうである。いよいよ私は、人生の総括をしなければならない焦燥感に見舞われている。確かに私の体は、歯のみならず日に日にどこかの不良をいや増し続けている。ところが、わが体の不良や衰弱ぶりばかりではなく、身内、友人、知人の訃報は途切れることなく続くようになり、おのずからわが気分をむしばんでゆく昨今(さっこん)である。
三度目の電子辞書すがりは、これまた知りすぎているこの言葉である。「昨今:きのうきょう。この頃」。わが体いや命は、焦眉の急に脅かされている。大袈裟に書いたけれど、創作文(虚構)の真似事をしたまでのことである。こんな文章など身のため、書かなければよかったのかもしれない。しかしながら、書かないと文章は、きのうで頓挫の憂き目を見たことになる。継続とは恨めしいかぎりである。継続は世に言う、わが人生に力を与えてくれているのだろうか。
梅雨とアジサイの季節は、私にとっては物憂い季節である。ただ、きょうの診察しだいでは、すぐに明るくなることはある。表題は「おっちょこちょこの人生」でいいだろう。
人生終盤における、一つの述懐
現在の私は、人生の最終盤を生きている。来月7月には83歳になる。最終盤というより、余命はほんの僅かである。この間の私は、もちろん仕事ではなく、趣味でもなく、ただいたずらに四半期を超える長い間、文章を(作る、書く、生む、綴る、紡ぐ、記す)ことの一つの行為を続けてきた。いや私の場合は、その序の口とも言える文章を作る(作文)ことに甘んじてきた。作文とは、与えられた課題やみずから気ままに選ぶ自由題を浮かべて、文意に添って語句(言葉と文字)を連ねて、文章を完成させることである。難しく書いてしまったけれど、もともとはそんなに難しいものではない。なぜなら、就学し立てにもかかわらず、小学校1年生と2年生の頃には「綴り方教室」の時間があり、書けない者などだれもいなかった。すなわち作文は、習い立ての語句を用いさえすれば、文字どおり十分に作れるものである。
文章は語句の習得が増えるにつれて入り組んで、見栄えが良くなるところはある。換言すれば確かに、見た目、読む意、共に華やかにはなる。ところが、必ずしも語句が多く見栄えの良い文章が上手で、良質とはかぎらない。なぜなら、肝心要の文意がごちゃごちゃなら文章にはなり得ない。結局、文章は文意に添って単純明快に、できれば最も適語を嵌め込む作業である。そしてこれこそ、上手く良質の文章と言えるものである。もちろんこんな、当たるも八卦当たらぬも八卦の文章論など、六十(歳)の手習いさえ未完成の私が語るべきことではない。
ただ、四半期を超える長いあいだ文章を書き続ければ、何か一つぐらい学びたいものではある。するとこのことは、たった一つだけの体験上のわが学びと言えそうである。しかしながらこれでも、私には易しいとは言えず、難しいところだらけである。繰り返しになるけれど作文は、まずは文意を浮かべること、次にはそれに添った語句を浮かべることである。これが叶えられれば作文は、見事という飾り言葉を付されて完成する。だから私は、このことだけを意に留めて、文章を書いてきた。そして、「綴り方教室」における作文同様の文章は書けたと、自負するところはある。しかしながら私には、種無しからネタを作るすなわち無から有を生じる創作文は書けない。そのため私は、常に文意を浮かべるネタ不足に見舞われて、いつも同じような文章の書き殴りに甘んじてきたのである。挙句、ネタに新味がなく、私自身書き飽き嫌気がして、このところは一気に疲れがいや増している。
おのずから文章書きは、終焉のドツボに嵌まりそうである。なんでもいいから書かなければならない継続文は、やはりわが凡庸な脳髄には荷が重すぎて、トコトン恨めしいかぎりである。私の場合、継続は力というより、自分虐めの総本山になりつつある。総本山? 適語とは思えないけれど、これに替わる語句が浮かんでこない。もとより私は、望んでも叶わぬ熟練工(練達)は望まない。しかし、せっかく長く書いてきたのだから、できれば見習工(初歩技術)くらいは修めて、疲れ癒しにあの世へ急ぎたいものである。
人生行路における「不運と幸運」
「合格証書一級前田静良 あなたは文部省認定平成八年第三回漢字能力試験において頭書の等級に合格したことを証明します。平成九年二月二十四日 財団法人日本漢字能力検定協会理事長大久保昇 第九六三00000六一号」。私の人生行路における文章書きにかかわる不運は「三日坊主」より生じて、のちのち後悔と祟りに苛まれ続けている。何度か日記を試みたけれど、そのたびに三日ともたずに挫折を繰り返し、断念の憂き目に遭遇し続けた。もし仮に日記が続いていたら六十(歳)の文章の手習いにあって、おぼつかない脳髄の記憶頼りにならないで済んだはずだと、いまなお悔み続けている。「後悔は先に立たず」と「後の祭り」の同義語を重ねて、至極残念無念である。
冒頭の認定証は、定年(平成12年)後のありあまる時間を危ぶみ、かつそのときのわが日常生活をおもんぱかって、やり始めた確かな証しとして用いたものである。すなわち、わが本棚の上に置く、埃まみれの額入りの日付証明書である。これを見て顧みるとわが文章書きの手始めは、定年を間近に控えた4年前の頃からである。
一方、私の人生行路における文章書きにかかわる幸運は、街中の本屋における「無償の立ち読み」からもたらされている。具体的には漢字検定一級への挑戦は、勤務する大阪支店における単身赴任のおり、大阪・梅田の「紀伊国屋書店」の立ち読みが発意である。書棚の雑誌を手にとりめくりながら、(これくらいなら、自分もできるかな?)。初受験にもかかわらず下級を飛び越え、最上位級(一級)を受けて一発で合格できたものである。もう一つの幸運は、買い物の街・大船(鎌倉市)に在った本屋の立ち読みから生じている。雑誌コーナーに競い合って並んでいたものから、一つの雑誌を手にとりつらつらとページをめくったのである。そして、出合ったのは「日本随筆家協会」(神尾久義編集長、故人)と、そのときからのちのち現在にいたるまで厚誼を賜り続けている「現代文藝社」(主宰大沢久美子様)である。
結局、定年後を見据えたわが文章書きは、「不運と幸運の抱き合わせで」で発端を成している。そのスタートラインは平成8年(1996年)頃、そして現在は令和5年(2023年)。長いなあー、能無しの私は、疲れるはずである。
命
父は先妻を喪い、後添えに母を迎えて、二人の妻から生まれた14人の子どもたちを養い育てた。そして、戦争が終わった昭和20年8月15日から15年後、父は昭和35年12月30日に他界した(享年77)。それから25年後、母は昭和60年7月15日に亡くなった(享年81)。母の枕辺を、子どもたち、孫たち、親類縁者たちが囲んでいた。母は常々、「おとっつあんが良か人じゃったけんで、自分は幸せじゃったもんね」と、言っていた。奇しくもこの日は45年前、母が私を産んだ日であった。また、七月盆のさ中にあり、異母と自分が産んだ子どもたちのみんなも、御霊の父に付き添って枕辺にそろっていた。母はこの日に、みずからの祥月命日を重ねるという、離れ業をやってのけたのである。
今や私だけが生き残り、親、きょうだいを偲ばなければならない役目にある。私の脳裏には、大学に合格したことを伝えるために帰郷したおりの、やつれた病顔に笑みを湛えた父の温和な眼差しがよみがえる。―自分の中では、父はいつまでも元気なままの姿で生き続けているー 私には、この思いがあらためて膨れ上がっている。父の葬儀へ参列しなかったことへのわだかまりなど、些細なことのように思えている。一方、父のことを和んだ表情で話す、皺を重ねた母の潤んだ目元がひときわ懐かしくよみがえる。そしてこれらは、幼くして命を絶った唯一の弟・敏弘を父と母に替わって、いつも思い続けてやることで、(敏弘のぶんまで生きるんだ!)という思いを一層、私に強くつのらせる。文章を書くかぎり、(もう、書き厭きた)などとは、言ってはいけない思いが、ひしひしと私を責め立てる。だけど、疲れた。謝っても謝り切れない胸の痛みは、もはや私だけである。「鶴は千年、亀は晩年」。だけど、「生きとし生けるもの」、命尽きぬものはない。
連載『自分史・私』、22日目、中途完結
私は苦慮している。とても、後悔している。自分史とは、自分の記憶や記録を書き留めているものであり、もちろんブログ等で公開する読み物ではない。私日記のように書き留めて置けば済むものである。ゆえに自分史は、書き殴りであろうと、雑多なことの繰り返しになろうと、自分的にはなんら構わない。それを恥じることもない。私は恥を晒すことにはやぶさかではない。しかし、公開するかぎり、これらのことはご法度である。今書いていることもこの先へ書けば、雑多な文章の繰り返し、すなわちエンドレスとなりそうである。それを恐れて私は、きょうの文章で中締め・中途の完結とするものである。
「嘘も方便」。多くの子どもたちを育てるためには母は、余儀なく生活面においていろんな工夫や秘策を講じなければならなかった。秘策と思えるものの一つには、「置き座」のやりくりがあった。置き座とは、母が考えついた物の隠し場所である。母屋の土間には、精米機、製粉機、その他の機械類が密に寄り合って配置されていた。置き座は、土間の一隅で最も奥にあった。それは、ベッドのように平たく作られた板張りだった。それには、長いあいだ溜め込んできた世帯道具類が、わざとてんでんばらばらにでもしたかのように置かれていた。確かに、てんでんばらばらに置いて隠すことこそ、母の秘策だったのである。
置き座があった土間の一隅は昼なお暗く、上方には一つの裸電球がぶら下がっていた。しかし、裸電球は用無しのごとくに、ほとんど灯されていなかった。これまた案外、母の秘策だったのかもしれない。なぜなら、暗いところへ行き、雑多なうえに製粉の粉まみれの中から、物を探すことには勝手知った家族にもためらいがあった。母が意図したことの第一は、外部からの侵入者(泥棒)の目眩(めくら)ましだったのかもしれない。ところが、泥棒というほどではないにしても、泥棒(コソ泥)は、外部からの侵入者ばかりではない。獅子身中の虫・わが子だって、油断すればコソ泥になり得た。いや、母の秘策の本当のところは、わが家のコソ泥除けだったような気がする。
母はいろんな物を意図して、置き座のどこかに隠し、必要に応じて出してきた。置き座は、家族のだれもが知る母の必要悪の「へそくり」の場所だった。母は子どもたちの目眩らましには、日替わりで置き場所を変えたりもした。まさしく、母の苦心のコソ泥除けである。そして母は、「もうない、もうない」と言った後でも、もうないはずの物を小出しして、何度か置き座から出してきた。
「母ちゃん。甘納豆、もうないの?」
「もうない、もうない」
もうないはずの甘納豆は、何度か出てきた。母の小出しは、楽しみをいっぺんで終わらせることなく、のちまで楽しみをとっておいてやりたいという、親心だったのであろう。
また、早い者勝ちや独り占めを防いで、子どもたちにたいし平等に与えるという、これまたせつない親心だったのかもしれない。母は、置き座を操ることに腐心していた。母は、隠すことと、出すことのバランスの妙で、家事をやりくりしていた。ゴキブリの住み処のようにしか見えない置き座は、母の意を酌んで魔法の置き座の役割を演じていたのかもしれない。なぜなら、子どもたちの操縦術も、不意の訪問客への接待術も、母が置き座を操ることで保たれていた。総じて置き座の操縦術は、母が生み出した生活の知恵だった。同時にそれは、大勢の子どもたちをかかえ育てるための、母のやむにやまれぬ苦心の秘策だったのであろう。忙しく、釜屋と土間を駆けずり回る、母の面影がチラチラ浮かんでいる。