ひぐらしの記

ひぐらしの記

前田静良 作

リニューアルしました。


2014.10.27カウンター設置

内田川(熊本県・筆者の故郷)富田文昭さん撮影

 

「冬の出口、春の入り口のさ迷い」、わがさ迷い

 2月21日(水曜日)。パソコンを起ち上げて、心中にはこんな思いをたずさえている。文章書き、まったく素人の私には、烏滸(おこ)がましい思いである。恥を晒しても、忍んで記してみる。
 文章の出来不出来を起因するものはこうである。先ずはテーマ、すなわち題材、内容、私がよく使うズバリ、「ネタ」の良し悪しである。次には、ネタにそう文意(筋立て)の巧拙である。最後は、筋立てに見合う適語(語彙)選びである。私の場合、文章を書くたびに、この流れに苦悶と呻吟を被っている。これまでは書くまでもない、寝起きの戯言(たわごと)である。
 さて、きのうから一気に気温が高くなり、昼間の買い物にあっては、身体のあちこちが汗ばんだ。(しまった! 三枚重ねの着衣を、一枚脱いで来ればよかった)。後悔、先に立たず。私は、心中にこんな悔いごとを浮かべていた。街中の中年女性のひとりは、スケスケにも見える肌着のような長袖一枚を身に着けて、大らかに闊歩していた。きのうは春姿というより夏姿さえ、まったく異常に感じられないほどの気温の高さとポカポカ陽気だった。夜明け前にあって気温が高く、わが身体はまったく寒気を感じない。ところが、きのうの気象予報士は、この先にはまだ気温の低い寒気が訪れと告げた。だとしたらきのうの高気温は、「冬の出口、春の入り口のさ迷い」であろうか。つれて、わが身体もまたさ迷っている。
 私はこの二日、引用文にすがった。いや、助けられた。どちらも、現在行われている「卓球、世界選手権団体戦」(韓国・釜山)に絡む記事からの引用だった。引用を試みた趣意はこうである。おとといの引用文では、完封(11-0)にまつわる、暗黙のルールの存在における、喧々諤々の賛否両論をのぞいた。1点ぐらい、わざと負けてやるのが相手に対する優しさであろう。いや、共に真剣勝負の試合だから、わざと負けるのは相手にたいし失礼であろう。私の場合は、後者の意見に賛成である。
 きのうの引用文には、ふたつのわが思いがあった。対戦相手のブラジルチームの3人編成は、日系人姉妹選手そして隻腕(片腕)の選手だった。それゆえに私には、どちらにも応援したくなる心情が沸き立っていたのである。とりわけ、片腕の選手の健闘・奮戦ぶりとこれまでの努力には、称えて咽(むせ)ぶものがあった。どちらも、気に留めた引用文だった。
 なんら、繋がりのないきょうの文章はここでおしまいである。文章に四苦八苦するは、わが生来の「身から出た錆」である。幸いなるかな! 気温高く、現在の私には、寒気に対する嘆きはない。

再びの引用文、感動編「才能を超える努力」

 2月20日(火曜日)。寒気が緩み暑苦しくて、冬防寒重装備(着衣)の上一枚の防寒コートだけは脱ぎ捨てたくなっている(4:17)。きのうはかなりずる賢い引用文で、継続文の足しにした。ところが、きのうに続くきょうの引用文は、わが感動をお裾分けする思いがほとばしり、やまぬやまれぬものがある。「努力に勝る天才なし」。まさしく私は、「才能を超える努力」の証しを観たのである。
 きょうの引用文はきのうに続いて、現在行われている「卓球・世界選手権団体戦」(韓国・釜山)にまつわる記事からである。ブラジルチームは、日系人姉妹、ジュリア・タカハシ選手とブルーナ・タカハシ選手、そして引用記事にかかわるアレシャンドレ選手の編成で、日本チームに臨んだ。日本人の私とて、応援せずにはおれない他国(ブラジル)のメンバーだったのである。
 【世界卓球】ブラジル女子隻腕選手に称賛の声!平野に敗戦もネット「感動」「応援したくなる」(2/19・月曜日、21:52配信 スポニチアネックス)。韓国・釜山で行われている世界卓球選手権は19日、団体戦女子1次リーグ第4戦で日本(世界ランク2位)がブラジル(同25位)を3―0で撃破。注目の“全勝対決”を制し、4戦全勝オールストレート勝ちで首位通過が確定。ネット上では隻腕(片腕)選手として知られるブラジル代表アレシャンドレ(28)のプレーが反響を呼んだ。隻腕のアレシャンドレはパラ五輪東京大会女子シングルス(立位10)で2大会連続の銀メダルを獲得した有力選手。次のパリ大会では五輪とパラリンピックの両方の出場を目指し、ブラジル代表ではタカハシ姉妹に次ぐ“3番手”として今大会に参加した。この日は第3試合で平野美宇(23=木下グループ)と対戦。鋭い回転をかけたサーブなどで善戦するも0―3とストレート負けを喫した。それでもネットからは「アレシャンドレ選手スゴいな。なんか感動したわ」「左手1本で世界卓球戦ってるのスゴすぎ」「カッコいい。まるで卓球漫画のよう」「五輪とパラ両方を目指すなんて……応援したくなる」と話題沸騰。他にも「世界にはまだまだ知らない凄い人が沢山いるな」「パラリンピックの選手がトップレベルの健常者といい勝負出来ることが素晴らしい」「敵国ながら尊敬します」「なんか勇気がもらえました」と様々な反応。特に片手でラケットにボールを乗せて器用にサーブを打つ場面に「アレシャンドレ選手のサーブがカッコイイ」「あんな風に片手で打てるものなのか」「片手でボールを投げてすぐに打つなんてスゴすぎる」「一体どうしたらあんな芸当が出来るのか」と反響があった。
 終始、感動に身震いし目頭が潤み、テレビ観戦を続けていた私は、不断のわがマイナス思考が途轍もなく惨めで哀れに思えていた(4:57)。

余儀ない「引用文」

 2月19日(月曜日)。所要あって朝駆けで東京(品川)へ向かうため、余儀なく休むつもりで寝ていた。ところが、いつもの習性で目覚めてしまった。仕方なく起き出して来て、これまたいつもの習性にしたがい、パソコンを起ち上げている(2:46)。睡魔は去っているけれど、脳髄は空っぽであり、心身共に文章をものする態勢にはない。そうであればと、3度目のいつもの習性にすがった。すなわち、ヤフーニュース項目の一覧の瞥見である。その魂胆はわが文章は止めて、継続文の足しになる記事を探そうという浅ましさだった。
 きのうの夕方5時あたりから、延々と9時近くまで、私は現在行われている「卓球・世界選手権団体戦」(18日、韓国・釜山)のテレビ観戦に心身を埋めていた。この戦いには男女共に、来年の「パリオリンピック」における団体戦の出場権がかかっている。ゆえにきのうは共に負けてはならない、4チームが戦うグループ戦の第3戦目であった。グループ戦はあと一試合を残す4戦目があり、これに勝てばトーナメント戦へ勝ち進むこととなる。
 グループ戦は3人で5戦が組まれていて、3勝すればチームの勝利となる。男子は苦戦しながらも3-1で、台湾チームに勝利した。続いて登場した日本の女子チームは、初出場の南アフリカチームと戦い、こちらはあっさりと勝利した。ようやく、この文章の狙いにたどり着いた。以下は、日本の女子チームにまつわる引用記事である。
 【卓球界の暗黙ルールは消えたのか 木原美悠、平野美宇が11-0で完封ゲーム かつては1点与えることがマナー、モラルと言われた時代も】(2/18・日曜日 21:13配信 デイリースポーツ)。女子1次リーグ第3戦が行われ、日本は南アフリカを3-0で下し、3連勝を飾った。格下相手の戦いで気になったのが、第1試合に登場した木原美悠がパテル相手に第1ゲームを11-0で完封し、第2試合の平野美宇もサスマンを相手に第1ゲームを11-0で完封したことだ。第3試合の早田ひなは3-0でストレート勝ちしたが、完封勝ちのゲームはつくらなかった。かつては10-0になった段階でサーブミスや故意にミスショットするなどして、相手に得点を与えるのがモラル、マナーとされてきた時代があった。SNSでも「0点いつからオッケーになったの?」「暗黙のルールは古すぎる」「しかし11-0はすごい」「強すぎる日本」「1点与えるのがマナーってのもどうなのかな 相手に失礼じゃないかい?」といった反応が集まり、「ラブゲーム勝ちは反則負けが正式ルール」といった書き込みもあった。木原美悠は11-0、11-3、11-6でストレート勝ち。平野美宇は11-0、11-1、11-1と相手に2点しか許さない完璧な内容。早田ひなも11-1、11-2、11-1と付け入るスキを与えなかった。日本は19日の1次リーグ最終戦でブラジルと対戦する。
 「らくちん」と思っていた引用文だったけれど、思いのほか時間のかかる、骨の折れる作業だった(3:28)。

速めぐる歳月日時、それにぐるぐるつきまとう妄念

 2月18日(日曜日)。寒気は緩んでいる(4:33)。このことだけには、気分が和んでいる。しかし、これから書くことには、気分が沈んでいる。2月は余すところ、11日にすぎない。歳月は脱兎の如く、速足で逃げて行く。挙句、私は日々身を竦めている。抗ってどうなることでもないことゆえに、私は愚か者である。それでも、わが身に堪えている。
 起き立てにあって私は、こんな自問自答を試みていた。若い頃と違って、人生の晩年を生きる現在のつらさ、悲しさ、遣る瀬無さは何だろう。これまた、大馬鹿な思索(思念)である。そして、浮かべれば無尽蔵にある。数えきれない中にあって一つだけに限定すれば、いの一番つまり筆頭に位置するものはこれである。それはズバリ、わが身には「未来の日」がないことだった。これでは、雲を掴むほどに漠然しすぎる。何事にも、大袈裟すぎるわが悪趣味である。
 未来! 実際にはそんな先々のことではない。いや、1年、あるいは2年、遠くて3年先に予定されている、様々な催し物(行事日程)が、一つ一つ無縁になりかけていることである。メデイアの習性として日々、先々の確かな行事日程や、大まかな予定を伝えてくる。ところがこれらは、もはや無意識ではなく、意識して聞き流さなければならない。私の場合、そのたびに行事にかかわる愉しみが消えてゆく。どうにかそこまでは愉しみがつながりそうなのは、来年に予定されている「パリオリンピック」くらいである。これとて、確かな命の保証はない。
 わがファンとする阪神タイガースは昨年、18年ぶりに日本一の栄誉に輝いた。そして現在は、二連覇を目指して、開幕前の春季トレーニングの真っ只中にある。しかしながら二連覇はもとより、あと一回の優勝さえ、わが目では見えそうにない。最も恋い焦がれている中にあって、これまたわが目では見えそうにないのは、母校の「箱根駅伝」における優勝である。悲願のごとく掲げている「ひぐらしの記」、「単行本、夢の100号」の実現には、肝心要の「わが命」が足りそうにない。望んでももとより叶えられないことを望むのは、結局、わが欲望の悪あがきであろう。年老いて、自問にたいする自答を掲げれば、心中、切なくなるものばかりである。だから、もうやめよう。歳月日時はぐるぐる回り、まもなく夜明けが訪れる(5:32)。継続だけが取り柄の文章は、つらい作業である。歳月日時の速めぐりに負けず、心中、妄念がぐるぐる駆けめぐる。

悪しからずと思う、夜明け前

 2月17日(土曜日)。パソコンを起ち上げると四発、咳が出た。続いて、鼻水が垂れそうになる。机上に置くテイッシュを手にとり、鼻先を押さえた。寸でのところで、難を逃れた。風邪の兆しなのかもしれない。曲がり間違っても、新型コロナウイルスの兆しではないだろう。おお、寒い。春はまだ、寒気を脱してはいないようだ。そうであれば、図に乗ってはいけない。今しばらくは気を引き締めて、冬防寒重装備(着衣)を身に纏うより仕方がない。きのうの文章だったかな? 暑苦しくて、防寒コートだけは脱ぎ捨てたいと、書いた記憶がある。季節はやはり、三寒四温を繰り返し、まだまだ冬から春へ向かっている。ゆめゆめ、気を抜いてはならないと、「天の戒め」だろうか。
 日記は文字どおり、「日の記(しるし)」である。それゆえに日記には主に、一日の出来事や行動を書き留める。「ひぐらしの記」もまた、日記みたいなものである。ところが、これには貧弱な脳髄(凡庸)をフル回転させて、何らかのことをめぐらして付け足している。掲げられている命題からすればひぐらしの記は、「日記」を脱して、「随筆」まがいのことを書かなければならない。そのぶん、「ひぐらし記」の執筆は、私には厄介なものとなっている。もちろん、言い訳でも、負け惜しみでもない。いや、木っ端みじんに負けている。なぜなら、日記を書き続ける人には、何十年も書き続けている人がいる。わが知る人には、50年、60年いや期限なく、この先も書き続ける人がいる。三日坊主の私からすれば、まさしく現人神(あらひとがみ)として、崇敬するばかりである。これらの人からすれば、途切れ途切れのわがひぐらしの記は、「ひよっこ」である。
 くしゃみと咳を繰り返している。そのたびに鼻水が溜まり、溢れそうになる。テイッシュ箱の紙が減り始めている。ここまで、20分ほどの殴り書きには寒気がいや増して、わが身に堪え始めている。現在のデジタル時刻は5:26、早くなり始めているとはいえ、まだ夜明けは先である。やはり、こんな屑みたいな文章は、書かなければよかった。
 あれ、ゴホンと音が出た。まぎれもなく咳である。風邪用意には枕元に、市販の「カコル持続性鼻炎カプセル」(坂本漢方製薬)を置いている。行きつけのドラッグストアで、値段の安さだけを頼りに買い求めた、名をまったく知らないメーカーの風邪薬である。それまでは名の知れた、「コルゲンコーワの鼻炎用ミニカプセル」を買っていた。効き目はどちらもどっこいどっこいである。私の風邪はいつも鼻炎症状である。だから私は、総合感冒薬は買わない。それは効果覿面の風邪薬を買って、遠回りに銭失いをしたくないためである。
 このところの掲示板のカウント数は、わが想定外に増えている。それに報いるつもりで、書こうと思った文章である。ところが、こんなみっともない文章ではわが意に反し、掲示板のカウント数は減るであろう。わが脳髄は(なんだか、無駄働き)をしたようである。所要、30分ほどの殴り書きの気分は惨めである。パソコンを閉じて、枕元へ向かい、鼻炎カプセルを手にして、水道の蛇口をひねり、ふた粒、服んでみる。まだ夜明けは先の先である。殴り書きの駄文、悪しからずと思う、夜明け前である。

関東地方と北陸地方に、「春一番」が吹いた

 2月16日(金曜日)、あえて現在のデジタル時刻を記そう(2:36)。真夜中を過ぎた頃にあって寒気はまったく感じず、人工の熱源は要なしである。起き立てにあって私は、いつものように冬防寒重装備(着衣)を身に纏っている。ところが暑苦しくて、重ね着の厚手の防寒コートだけは、脱ぎ捨てたくなっている。
 日本の国の気象の特徴は、明確に変わる四季(春夏秋冬)と言われている。私の場合、梅雨入りには夏近し、梅雨明けには夏の訪れを感じる。台風一号の発生を伝えるニュースや集く虫の音には、秋の訪れを感じる。そして万民は、木枯らし一号が吹けば寒々しい冬の訪れを感じる。小春日和には束の間の暖かさを感じる。春一番には、風の冷たさに身震いしながらも春の訪れを感じる。四季の変わり目にあっては、ぼうっとしていても感ずる、それぞれに特有のシグナル(徴)がある。私は冬の訪れを告げる「木枯らし一号」は大嫌いだ。一方、春の訪れを告げる「春一番」は、吹きつける風の冷たさに一瞬身を竦めても大好きだ。相対する両者は、わが心模様をまったく異にする、季節変わりの徴(しるし)である。
 きのう(2月15日・木曜日)、気象庁は関東地方と北陸地方に「春一番が吹いた」と、告げた。いよいよ、待ったなしに「春」が来たのである。しかしながら北陸地方、なかでも震災被災地および被災者・避難者の人たちは、どんな生活状態や心境で、春一番を迎えているであろうか。遠吠えながらひたすら、わが案ずるところである。いの一番には日本海おろしの風の弱まりと、雪の日が遠ざかることを願っている。これまた知りすぎているとはいえ、私は机上に置く電子辞書を開いた。
 【春一番】「立春後、はじめて吹く強い南寄りの風。天気予報では、立春から春分までの間に広い範囲ではじめて吹く、暖かく強い南寄りの風をいう」。
 わが生涯学習は死ぬまで、電子辞書すがりである。暖かい春の訪れが、わが生涯学習を後押ししてくれたらと願っている。だけど、そうは問屋が卸さない。しかしながら春一番が吹いて、本格的な春へ向かい、日に日に暖かくなることは願ったり叶ったりである。さらに欲深く願いを重ねれば、天変地異なき穏やかな春の訪れを望んでいる。
 寒気が緩んでいて、この先を書きたい気分はある。けれど、書けばだらだら文となる。ゆえに、ここでおしまいである(3:49)。寒気が緩んだ夜は、寝床にとんぼ返りはせず、机上に頬杖をついて、しばし愉しみたい心地である。春一番のおかげである。

世情とわが事情

 2月15日(木曜日)。起きて(3:57)、パソコンを起ち上げる前にあって、こんな簡易な語句さえ電子辞書を開いた。世相:世の中のありさま。生きて、世の中に存在するかぎりは世相まみれであり、ゆえに現下の世相を浮かべないことは一刻さえない。すると、真っ先に浮かんでいるのは格差社会の高進である。実際のところは、インフレ(物価上昇)の高まり現象である。ここでいう格差社会とは、お金を持つ者、持たざる者のとの差、すなわち日常の生活水準の差である。より具体的には、お金を持たない者、お金にありつけない者の日常生活の苦しみである。
 現下の日本政府の舵取りは、長年続いていているデフレ(物価下落)から脱却である。このための施策は、インフレ傾向(2パーセント程度)を目指していると言う。そして現在は、ようやくこの施策の達成が見込めるところへきていると言う。反面、物価上昇による齟齬をきたさないために政府が躍起となっている施策の一つはそれに見合う、いやそれを超える給料や賃金の上昇である。ところが半面、この施策は格差が生じる元凶ともなっている。すなわちそれは、給料や賃金にありつけない人たちの置き去りである。職業や仕事を持たずに、収入というお金にありつけない私も、この範疇に入る。このところ、株価がバブル以来(34年ぶり)の高値を更新したと囃し立てられている。まさしく、株式(金銭)を持つ者と、持たない者の格差の現出である。
 新型コロナウイルス蔓延の時期にあっては仕方なく自粛を強いられていたけれど目下、堰が切れたごとくに海外および国内旅行への復帰が取りざたされている。これまたお金持ち(富裕層)に限られて、お金を持たざる者(貧困層)は、おのずから置いてきぼりにあっている。
 きのうのNHKテレビニュースは、医療機関における初診料および再診料の値上げを報じていた。世情に疎い私は、(なんで、初診料や再診料が要るんだ!)と、腑に落ちない思いだった。こんなことを長々とそして一々書いては、わが気分が滅入るばかりである。だから、わが柄でもないことはここで書き止めである。
 きのうの聖バレンタインデーにあっての私は、わが身銭を切って買ったクッキーを自分の口に鱈腹入れた。義理チョコにさえありつけないわが身の悲しさは、まぼろし仕立ての女性の愛にさずかり、自前でもクッキーは美味しかった。いや、美味はともかく、わが気分はすこぶる和んだ。そして、世知辛い世相(世情)を生き抜くには、たまにはこんな気違いじみた自演も必要悪だ! と、悟った。愛のない世相は、真っ平御免である。
 お金のように形はないけれど、愛(愛情や情念)こそ、人間の生きる価値の本源と言えそうである。ところが今の私には、現(うつつ)の他人様からさずかる愛はなく、自演でまぼろしの愛を紡ぐより便法はない。それにはやはり、一抹の寂しさはある。それでも、まぼろし仕立ての女性の姿は、安価なクッキーにまぼろしの美味を加えていた。
 これ以上書けばいたずら書きは、エンドレスになりそうである。夜明けまではまだたっぷりと時間がある(4:49)。だから、ここで止めなければインフレのごとくに、わが妄想は高進しそうである。夜長に向かい妄想は、日々更新を続けている。

聖バレンタインデー

 2月14日(水曜日)。机上の卓上カレンダーには、「聖バレンタインデー」という添え書きがある。現在のデジタル時刻は、4:28と刻まれている。あえて時刻を記したのはこの時、わが身体にはまったく寒気を感じていないからである。季節は早やてまわしに、「春本番」を迎えている。その表れで気温が緩んでいる。この証しは、わが体感だけではない。いや、きのうの気象予報士は、天気図に指示棒を這わせて、予報として伝えていた。いよいよ、春が近づいた。いや、「春が来た」と、言っていいのかもしれない。
 ところがそれを素直に喜べないのは、人生の晩年を生きる者(私)の切なさである。すなわちそれは、季節めぐりの速さ(感)につきまとう、老齢の身ゆえの哀情(哀感)である。脳髄凡庸の私は、知り過ぎているごく些細な語句や語彙であっても、あえて机上に置く電子辞書にすがっている。就寝時にあっては、電子辞書は枕元へ移る。ところが、電子辞書の役割もしだいに、スマホの機能に脅かされつつある。それでもまだ、電子辞書にすがるのは、これまでのわが習性なのであろう。
 私はパソコンを起ち上げる前に電子辞書を開いた。そしてだれもが知る、相対する二つの言葉を見出し語にして、意味調べを試みた。
 他愛:自己の福利を犠牲にして他人を愛すること。利他。
 自愛:自らその身を大切にすること(多くは手紙文に使う)。
 妻の場合はまったくの他人ではないから、「他愛」の語句は適当でない。すると、現在の私には、他愛の対象者はいない。ゆえにきのうの買い物にあっての私は、心中に他愛すべき「まぼろしの女性」を浮かべた。そして、身銭を切って、チョコレートまぶしのビスケット(クッキー)買って来た。私はクッキーが大好きである。しかし、きのうは食べるのを我慢して、きょうの聖バレンタインデーに持ち越している。こんな気違いじみた行為(演技)は、もちろん今では叶わないために、あえて演じた切ない余興にすぎない。
 きょうは、まぼろし仕立ての女性からもらったクッキーを、際限なく鱈腹たべる日である。そして私は、せつなく「自愛」を増幅させるであろう。こんな文章、書かなきゃよかった。だけどなんだか、心身が和んでいる。聖バレンタインデーに合わせて、「春が来た」ためだろうか。いやいや、気違いじみた余興のせいと言えそうである。妻の介助にあっては、犠牲とは言えない。なぜなら、いつなんどき逆転し、こんどは妻に犠牲を強いるかもしれない老耄(ろうもう)のわが身である。ふり仮名は、「おいぼれ」のほうがズキンとわが身に沁みる。
 約一時間の殴り書きには、とんでもない文章を書いてしまった。「生きとし生けるもの」にあって人間の価値は、他愛および自愛、すなわち愛情を持てることだろう。聖バレンタインデーの夜明けは、まだまだ先である。

降雪予報の外れに、駆けめぐる妄想

 2月13日(火曜日)。起き立てにあって私は、とんでもない妄想をめぐらしている(4:00)。罪と罰、すなわち罪を犯した者は罰を被る。これは人間社会における最善の掟、すなわち最たる社会規範(道徳)である。道徳に背けばズバリ背徳という言葉があり、おのずから社会(人民)に鋭く罵られる。
 きのうの夜、私は茶の間のソファで相対する妻に対して、「気象予報士は、一言も詫びないね」と、言った。妻はキョトンとして仕方なく、「そうね」と、相槌を打った。続いて、「何に、詫びるの?」と、問い返した。
「きょうは、雪が降るはずだったんだよ。ところが、はずれた。だから、一言くらい詫びてもいいと思うよ」
「なんで、雪降るのよ。きょうは、いい天気だったじゃないの。わたしはひとり、見えるところまで出かけて、富士山を見に行ったじゃないの。パパも、行けばよかったのよ。途中で、誘ったじゃないの。だけどパパは、俺は見なくていいよと言って、茶の間のソファに背もたれていたじゃないの。パパって、馬鹿よ。わたしは、知らない人と立ち止り、長い間、富士山を眺めていたのよ。パパも、電話したからくればよかったのよ。パパは、大馬鹿よ」
「おまえは富士山を眺めるのが好きだから、行ったんだからそれでいいよ。おれは茶の間から、椿の花の蜜を吸う、メジロを見るのが好きだから、それでいいよ」
 普段の妻は、わが介助や支援なしには、心許ない足取りである。見合い結婚の末に婚約を決めたのちであっても私は、妻の手を取ったり、腕を組んだり、肩を抱くことなど恥ずかしくて、まったく未体験のままにすぎた。それはあか抜けない自分自身にたいし、常につきまとっていた羞恥心からくる躊躇いだった。
 ところが現在は、羞恥心を撥ね退けて、手を繋いだり、腕を組んだり、肩を組んだりしている。もちろんこれは、妻の転倒防止のための、やむにやまれぬ切ないわが行為である。
 妻は近所に回覧板を回しに出かけた。日頃、これくらいはわが付き添いなくても、近いゆえに妻が率先してやっている。ところがきのうの妻は、回覧板回しが済むと、富士山が見えるところまで出かけていたのである。わが知ることのない、妻の行動だった。わが足であれば、富士山が見えるところまでは、わが家から10分程度の道のりである。しかし、現在の妻のヨロヨロ足では倍強、25分程度はかかる。妻のスマホからわがスマホに、妻の声が入った。
「今、どこにいるのか。また、転んだのか?」
「転んでないわよ。今、富士山を見てるのよ。わたし、富士山を見に来てるのよ。いい天気で富士山は、素晴らしい眺めよ。パパも、すぐに来なさいよ」
「そうか、転んでいなければ、行かないよ。転ばないようにして、帰って来てよ!」
「わたし、転ばないわよ。来ないの? パパは、馬鹿よ!」
 電話を切った後のわが内心は、転ぶかな? と、ヒヤヒヤしていた。行けばよかったかな? と、オドオドしていた。
 一時間半くらい経って妻は、玄関口のボタンを矢鱈と押した。茶の間にはまるで警報のごとく、音が鳴り響いた。私は大慌てで玄関口へ出向いて、玄関ドアを開けた。妻はニコニコ顔で、「いい天気だったから、富士山が良く見えたわよ」と、言った。私は「転げなくて、よかったね」と言って、抱えるようにして妻を出迎えた。
 女性気象予報士は、降雪予報の外れなど、一言も詫びることなくしゃあしゃあと、きょうのポカポカ天気の予報を告げていた。気象庁、気象予報士、そしてウエザーマップなどの気象の専門家は、専門家ゆえの傲慢なのか。天邪鬼の私は、「きのうの降雪予報は外れてしまって、お詫びいたします」という、言葉があってのち、本格的な春の訪れを予報してほしかったのである。ところが妻は、降雪予報の外れなど気に懸けず、いや外れを喜んで、富士山眺望にありついていたのである。降雪予報にかぎらず天気予報全般の外れに、目くじらを立てるのは、ソンソン(損損)なのかもしれない。しかし、社会規範からしたら、やはりすっきりしない気分は山々である。

時ならぬ、再びの降雪予報

 2月12日(月曜日)。きのうの「建国記念日」(2月11日)が日曜日と重なったため振替休日となり、三連休の最終日を迎えている。パソコンを起ち上げると私は、「ヤフーニュース項目一覧の一行目」にあって、こんな記事に出遭った。引用する記事は全容の一部である。【連休最終日は関東平野部でも積雪 山地は大雪による交通障害や路面凍結に注意】(ウェザーマップ)。「多摩地方の山地や秩父地方では、12日(月)明け方まで、大雪による交通障害や路面の凍結に注意が必要だ。また、12日(月)昼前にかけて、関東の沿岸部と伊豆諸島では、落雷、竜巻などの激しい突風、急な強い雨、降ひょうに注意したい。関東甲信では、12日(月)昼前にかけて雪や雨が降り、多摩地方の山地や秩父地方では、12日(月)明け方まで大雪となる所がある見込み。大雪による交通障害や路面の凍結に注意が必要となる。関東の平野部でも積雪となる所がある予想。東京も、23区を含む平地でもうっすらと積もる所がありそうだ。」
 現在(4:06)、寒気は緩んでいる。春へ向かう足音は寸止めを食らって、いくらか足踏みをしなければならない。一方気象は、いくらか図に乗っている。寝起きの私は、戸惑っている。私は、三日前(2月10日)に『名残り雪』という文章を書いた。文章の筋立ては、三日前(2月8日)の降雪にともなうものだった。老衰の記憶は、未だに生々しくよみがえる。名残り雪の文章の中に私は、こんなことを書いた。この先(2月29日まで)、雪が降ったら、「また、降った」と、言うしかないと書いた。胸中にはもう降らないだろうという、思いがあった。ところが、実際には降るか降らないかわからないけれど、上記の思いがけない降雪予報に出遭ったのである。予報どおりに雪が降ったとしたら、やはり「また、降った」と、言うしかない。
 指先をしばし止めて、窓際へ向かう。私は二重のカーテンと窓ガラスを開けて、一基の外灯が灯す明かりにすがり、雪模様を確かめた。すると、雪はおろか雨も降っていない。雪降りの兆しは分からずじまいで引き返し、私は再び椅子に座った。さあ、昼間へ向かうにつれて、雪が降り出すのであろうか。たとえ降っても、春止めにはなりそうにない。いや、春の足音にいっそう勢いをつける余興ぐらいであろう。しかし、時ならぬ降雪予報にあって、やはり私は戸惑っている。それは、降れば「また、降った」と、言うしかない、わが脳髄の貧弱さとボキャブラリー(語彙)不足のゆえである。