ひぐらしの記

ひぐらしの記

前田静良 作

リニューアルしました。


2014.10.27カウンター設置

内田川(熊本県・筆者の故郷)富田文昭さん撮影

 

「夏の朝」三れんちゃん

 8月4日(金曜日)。また、朝が来た。そして、出合えた。このことは、このところやけにうれしさつのる気分をなしている。なぜなら、まだ生きている証しである。確かに、この先、朝は必ず訪れる。だけど、私が必ず出合えることはない。それゆえに、きょうもまた出合えたことにはうれしさつのるのだ。とりわけ、夏の朝に出合えることには、心浮かれる気分旺盛となる。この先出合える回数は片手の指ほどに、いや未満ほどに限られているせいであろう。
 澄んだ夏の青い大空に朝日が音なく光り、空中そして地上満遍なく、のどかなパノラマを映している。この情景を見るかぎり、日本、世界、いや地球は、「平和」である。わが文章は、惰性で書いている。だから、きょう休めばあしたは、書けなくなる恐れがある。私にとってこのことは、トコトンつらいことである。それゆえに私は、迷い文、駄文などお構いなく、なお恥を晒してまでも、書かなければならない。わが偽りのない現在の心境である。
 あれ! ウグイスが鳴いている。まだ、鳴いているかな? と思って試しに、私は両耳に集音機を嵌めて、パソコンを起ち上げた。文章を書くには、集音機はなんらのお助けにはならない。ところが、ウグイスの鳴き声に出合えるのは、集音機のおかげである。わが人生は、人間他人様はもとより、自然界の眺望、ウグイスの鳴き声、庭中へ飛んで来るメジロ、シジュウカラ、コジュケイなどにおんぶにだっこである。
 わが人生になんらの役立たずのものは、虫けらなかでもムカデ、スズメバチ、そして青大将をはじめとする蛇類である。これらは、怖くて肝を冷やすだけである。なんら役立たずの文章を書いたけれど、一縷の望みはあしたへ繋げる文章にはなるのかもしれない。実際には、あしたでなければ分からない。ただわかりきっていることは、あしたも必ず、私の好きな「夏の朝」が来ることだけは請け合いである。
 学童の頃の夏休み中にあっての私は、「内田川」に夕方、「はいこみ」(ふるさとの川魚取りの漁法)を仕掛けて、夜明けを待って引き上げに出向いた。ウナギやナマズが掛かっていた。今や、楽しかった「夏の朝」の夢まぼろしである。ウグイスに負けず、セミも鳴いてほしい。相身互い身、命を惜しむ、わが格好の同類である。

再びの「夏の朝」礼賛

 8月3日(木曜日)、このところの定番の表現をなす、心地良い「夏の朝」が訪れている。しかし、いくらか悪乗りをして、こんなことを心中に浮かべて起き出している。浮かべていたことは、身も蓋もないこんなことである。夏の朝はこの先、途切れることなく未来永劫に訪れる。ところが、わが命はそうはいかない。現在、わが命はカウントダウンのさ中にあって、もはや数値の小さい後半戦へ差しかかっている。
 確かに、こんなことを浮かべて起き出すようでは、きょうの始動もまた、思いやられるところである。文章さえ書かなければ、こんな恥を晒すことはない。ところが、マスメディアが伝えるこのところの世相を鑑みれば、ほぼ人みんな、なんらかの悩みを抱えて生きることに苦しんでいる。挙句、みずからの命を絶つだけでなく、他人様の命を殺める事件が多発している。これらのことに比べれば、わが恥晒しは些細なことと言えそうである。結局人間は、大小さまざまに何かの悩みを抱えながら生きている。それゆえにもとより、わが恥かきなど小さな悩みと言っていいはずである。しかしながら、マイナス思考著しい私にはやはり、ずっしりと重たい悩みである。
 いつものことだが起き立ての朦朧頭で書く文章は、書き殴りに加えて、恥かきまみれになる。もちろん、書かなければ済むことだけれど、「ひぐらしの記」の継続を願うことに付き纏う悲しさである。唯一、書き殴りの文章の妙味と言えば自分自身、出まかせに何が飛び出すかわからないことである。
 テレビ視聴にあってこのところのわが定番は、朝の内はNHKのテレビ小説『らんまん』(15分間)である。そして、夕方6時前から試合終了の夜九時過ぎあたりまでは、「阪神タイガース戦のテレビ観戦」である。これら以外は妻の視聴に合わせて、気乗りのしない「料理番組」を横目に留める程度である。確かに書き殴りの文章は、何が飛び出すかわからない。先ほどはあえて妙味と書いたけれど、もちろん妙味のところはまったく無く、文章を止めたい気分だけが横溢している。この気分癒しにすがるのはやはり、夏の朝のもたらす清々しさである。
 ここまで書いて私は、パソコンから目を外し、背筋を立て雨戸を閉めていない前面の窓ガラスを通して、しばし家並みの甍(いらか)の上に広がる大空を眺めている。大空は見渡すかぎりに青空を広げて、ところどころに白くかすかな浮雲を散らしている。これらに満遍なく朝日がキラキラと射して、のどかな夏の朝のたたずまいを醸している。すると、限りある命をいとおしんで私には、もうしばらく生きたい欲望が溢れている。天変地異さえなければ自然界の恵みは、無限かつ膨大である。その確かな証しは、ごく身近にそしてきわめてきっちりと、「夏の朝」に表れている。

心地良い「夏の朝」

 書くこともない、浮かぶものもない、夜明けが訪れている。8月2日(水曜日)、しいて書けば、心地良い夏の朝が訪れている。たったこれだけの文章にあっても、私は表現に苦慮した。すなわちそれは、似たもの「夜明け」そして「夏の朝」の用い方である。実際のところは「夜明け」表現でいいところを、意識して「夏の朝」を重ねたのである。この理由を書けばそれは、心地良さすなわち清々しい気分を表すには、「夏の朝」のほうがはるかにわが五感をくすぐったからである。ネタが浮かばない場合、こんなどうでもいいことを書くより逃げて、結文にしたいところである。
 文章における語彙、実際には言葉の表現は難しく、確かに凡愚の私には手に負えないところだらけである。日本列島にあっては、夏の訪れとともに、いよいよ台風襲来の季節にある。早やてまわしにこのところのテレビニュースは、沖縄本島および周辺諸島における台風6号の状況報道におおわらわである。台風襲来のニュースに出合うたびに私は、こんな幼稚な言葉を浮かべて、わが頭を悩ましている。それは、兆し、前触れ、先ぶれ、余波、一過などの言葉である。総じて、「所為(せい)」という言葉である。傍らの妻は、ふとこんな問いかけをした。
「パパ。ちょっぴり雨が降ったのは、沖縄の台風のせいかね?」
 私は言葉に窮し、濁してこう答えた。
「兆しにはなっているかもしれないが、前触れとは言えず、まだ台風6号のせいではないであろう。気象予報士は、『関東地方は、大気不安定と言った』よ」
 自分自身、なんだか煮え切らない答えだった。
 妻は後追いの言葉をせず、黙りこくった。たぶん、わが頼りない言葉に飽き足らず、二の句が継げず匙を投げていたのであろう。
 一過そして余波は、台風にかぎらず物事が済んだ後の言葉だけれど、これとて用い方には難しいところがある。こんな幼稚なことは書き厭きた。それゆえに、いよいよ結文である。心癒しには、清々しい青天上の大空を眺めている。これこそ、夏の朝が恵む醍醐味である。
 ネタの浮かばない文章は、「夏の朝」にすがっている。みっともないけれど、心地良い朝の訪れにある。

8月初日

 8月1日(火曜日)、デジタル時刻は、3:09と刻まれている。ウトウトさえにも寝付けず、日を替えて0時過ぎあたりから、寝床で煩悶に苛まれていた。雨戸を閉めていない寝室の寝床に寝そべっていると、まるで間欠泉のごとくに稲光が煌めいてくる。稲光をいくらか後追いして、ゴロゴロと雷鳴が轟いてくる。自然界の営みは、わが身体の機能(器官)の不具合を超越して、真夜中をも構わず光と音をもたらしている。
 就寝のおりの私は、目から眼鏡を外し、両耳から集音機を外している。すなわち、視覚および聴覚不全の状態にある。ところが稲光と雷鳴は、共に認知される。稲光と雷鳴は、わが目と耳の機能テストみたいである。幸いなるかな! テストの結果は、まったくの不全ではなく、機能(器官)の衰えの証しである。突然の稲光と雷鳴は、人間心理に様々な恐怖心をもたらすところがある。
 私は仕方なく起き出して、パソコン部屋へ移った。まずは、窓ガラスに掛かるレースのカーテンを撥ね退けて窓を開け、右手を空中へ延ばし、掌をいっぱいに広げて左右に揺らした。雨粒は当たらなかった。すぐに、一基の外灯の照らす道路へ目を遣った。道路は、濡れて光っている。雨の跡の確かな証しである。
 私の場合、稲光と雷鳴に出遭って身近なもので最も恐れるのは、突然の停電である。停電になればそれを恐れて事前に、パソコンの電源を切るかどうかの判断が迫られる。ところが、私は切らずにパソコンを起ち上げ、この文章を書いている。このところの雨(天水)無しにあっては、「生きとし生きる者」、いや、草根木皮のすべてにいたるまで、いのち枯れ枯れの状態にある。すると私は、矛盾するけれど待ち焦がれていた雨をもたらしてくれた稲光と雷鳴にたいし、それらの代わりに御礼を述べたい心地にある。
 現在、稲光と雷鳴は止んで、涼やかな夏風と朝風をも恵んでいる。しかしやはり、いっとき身の縮む思いがした8月初日の未だ夜明け前にある。夜が明ければ、予約済の歯医者通いの準備に慌てふためくこととなる。端から休むつもりだった、8月初日の戯れ文である。

7月最終日

 7月最終日(31日・月曜日)、清々しい夏の朝が訪れています。ウグイスはいまだに朝っぱらから、高音を囀り続けています。ところが、先日はセミの初鳴き声を聞きました。セミの声に出番を奪われるウグイスの声は、この先、日ごとに切なさを帯びて、やがては夏の朝から消え去ります。それでもウグイスは、セミを妬むことはできません。いやもとより、命短いセミを妬むことは罰当たりです。なぜならウグイスは、半年ほども生存に浴して、もしかしたら再び春の季節を迎えることができます。一方セミはひと夏さえ、いや日数を数えるほどしか、生存は叶いません。セミの命は、短い命の代名詞として、人間界に定番を成しています。ウグイスの高音、そして雨無しの暑い夏、どちらも自然界の営みと思えば、素直に悦び一切腹は立ちません。
 腹立ちのすべては、自分自身に向かっています。すなわち私は、自分自身に克てず、長い夏休みというより、もう「ひぐらしの記」の継続は止めた! と決め込んで、文章を書かない安楽を貪り続けていました。
 きのうは老いた妻の手を取り、ひとり娘とひとり孫娘の住む、神奈川県横須賀市浦賀町における「夏祭り見物」へ出かけました。炎天下、神輿担ぎの人たちの力感溢れる姿を観続けていました。すると元気をもらい、この文章に漕ぎつけています。しかしながらまだ、ヨタヨタヨロヨロ気分で、この先は書けません。
 鳴き続けていたウグイスの声がなぜか、バッタリと途絶えています。切ない相身互い身、なんだかウグイスにエール(応援歌)を送りたい心地です。

大玉西瓜の魅力

 7月22日(土曜日)、夜更けを引き継いだ夜明け前にある(3:43)。パソコンを起ち上げて、脈絡なく浮かべている事柄を書いてみる。一つは、このところのテレビニュースを観るかぎり、ロシアとウクライナの戦争は、世界戦争への突入の様相(予感)を深めている。一つは、これまたきのうの悲しいテレビニュースである。福岡県のある町のある川では夏休み初日にあって、水浴びをしていた児童8人のうち、3人が溺れ死んだという。すぐに、わが児童の頃の夏休みを想起して、いたたまれないニュースだった。なぜなら私も、夏休みの初日から猿股パンツ一つで、わが家の裏を流れている「内田川」へ飛び込んでいた。つらく、惨(むご)たらしいニュースだった。ニュースに映し出された現場(川)の映像を私は、映像が消えるまで涙あふれて見続けていた。今なお、無念きわまりない。
 三つめは、これらとはまったく場違いであるけれど、浮かべていたかぎりは書き留めるものである。それは、きのうの文章で書き忘れていたことの付け足しである。題して、「大玉西瓜の魅力」である。これまた、ランダムに書き添えるものである。すなわち、美味しさのほかに、大玉西瓜に感じる魅力である。一つは、かかえたおりに感ずるスベスベツヤツヤする快い触感である。まるで、丸い地球をかかえているような快感でもある。次もまた、快感の重なりである。まずは、無傷の大玉西瓜に包丁を入れた瞬間の、バリバリ音の心地良さである。次には、半月に割った西瓜の真っ赤な色合いの快感である。あらかじめ知らされた黄色い実の西瓜を割ったことがあるけれど、ところがこの快感はなく、やはり西瓜は赤玉にかぎるところがある。最後は、盆皿に並んだ三日月形の西瓜を食べる楽しさとうれしさである。それをムシャクシャ食べると、涎と汁がポタポタ落ちてくる。すばやく母は、手拭いを持って来て、わが膝元に広げた。
 きょうの文章は、これらのことを書いて終わりである。この先、夜明けまでの空き時間をどうするか。思案のしどころではある(4:12)。

間抜けの夏

 7月21日(金曜日)、梅雨明け間近というより、すでに心地良い夏の朝の訪れにある。しかしながら何を書こうかと、気分はさ迷っている。それなら書かなければ、気分は一件落着である。確かにそうだけれど、パソコンを起ち上げてしまった。
 さて、わが買い物の店「大船市場」(鎌倉市)の売り場は、今や夏模様旺盛である。それらの中で最も目につき、かつまた食欲をそそられるものでは、あちこちに出盛りの西瓜の山積みがある。しかし、この頃の西瓜の売り場光景は、子どもの頃の大玉だけから様変わりを呈している。すなわち、大玉、小玉、半切り、さらには四分の一などと様々である。
 夏の季節にあって西瓜は、わが特等の好物である。ところが私は、プクプクする涎を抑えて、眺めるだけでいや目を瞑(つむ)って、足早に素通りしている。なぜなら、わが懐郷つのる西瓜は、小玉そのほかすでに切れ物や割れ物ではなく大玉である。わが西瓜好きは食感だけのものではなく、夏の風物詩の一端を担っているのである。すると、それを叶えるには、包丁や手つかずの大玉でなければ意味がない。私は買い渋る大玉にこそ未練タラタラであり、小玉や輪切りのものには、買う気も食い気も生じない。
 竹馬の友のふうちゃん(ふうたろうさん)だけは、このことを知っていた。かつてふうちゃんは、砲丸投げで強いわが腕で抱いてもヨロヨロする、(こんな大玉もあるんだな……)と、思う西瓜を送ってくれた。もちろん、ふるさと産の最高級ブランド「植木西瓜」だった。私はヨロヨロしながら小躍りした。美味しさは抜群、何日がかりで冷蔵庫に入れたであろう。挙句、妻はこう言った。
「パパ。西瓜の大玉は、もう買わないでね。冷蔵に入れられないのよ」
「そうだね。わかった。もう西瓜自体、買わないよ」
 確かに大玉は、わが買い物には難渋する。だからと言って大玉以外の物は、わが好む西瓜の埒外(らちがい)にある。結局、売り場の西瓜は現在、私にとっては意地悪な見世物へと成り下がっている。
 先日、西瓜はとっくに諦めて、これまた出回り盛んなトウモロコシを、夫婦に合わせて2本買って来た。これまた、夫婦共に大好物であり、加えて私の場合は郷愁まみれとなる代物でもある。子どもの頃の私は、馬小屋の馬や牛が、飼い葉桶の飼い葉をムシャムシャ食うように、トウモロコシを食べ続けていた。トウモロコシのレシピは、二通りに分かれていた。一つは塩茹でトウモロコシであり、一つは焼きトウモロコシであった。どちらかと言えば私は、後者が好きだった。けれどこちらは、焼くのが面倒で数が限られていた。一方前者は、母が大鍋いっぱいにギュウギュウ詰めで何本も茹でた。結局私は、どちらも変わりなく大好きで、ハーモニカを吹くときのように口に真一文字に添えて、粒にかぎらず粒床あたりまで齧り尽くした。ところが、買って来たトウモロコシの食べ方は、夫婦共にそうはいかず、鳩ポッポが豆を拾うように、一粒ひとつぶを恐るおそる口へ運んだ。なぜなら現在、夫婦共に歯の欠損に見舞われて、トウモロコシの食べ方に難渋を強いられているせいである。しかし、トウモロコシは西瓜の大玉とは違って、買い物に不便はなく、次の出番もありそうである。一方、大玉の西瓜は妻の禁を破ったとしても、帰りのタクシーに乗らないかぎりは、わが買い物にはもはや出番はない。西瓜を食べない夏は、間抜けの夏に変わり始めている。
 大船の街には、「氷旗」も見えなくなった。買い置きのアズキのアイスキャンデーだけでは、やはり間抜けの夏と言えそうである。書かないつもりが書けば、だらだらの長文となった。自戒すべきである。早起き鳥のウグイスが笑っている。

やはり私は夏が好き

 7月20日(木曜日)、やはりまだ、梅雨空の夜明けが訪れている。気象庁が梅雨明け宣言忘れのドジを踏んだと思えていたけれど、逆にわが早とちりのドジだったようである。いくら早いけれどこの時期、ほぼ毎年同じようなことを浮かべている。すなわち、「やはり私は夏が好き」である。まずは、夏の季節で困ることを浮かべている。すると、筆頭の地位に位置するものは暑いことである。おとなの問いに対し、なんだか幼児が答える理由みたいである。後には、それに誘引されるものが続くこととなる。
 熱中症の危険性が高まる。寝冷えで夏風邪がひきやすくなる。冷房エアコンや扇風機が入り用になり、はたまた頻発するシャワー掛けや、さらには洗濯機のフル回転などで、やたらと光熱費が嵩んでくる。しかしながらこれらは、冬の季節の暖房エアコンや風呂への給湯にかかる光熱費と比べれば、まだ少なくて済むところはある。
 繁茂する夏草取りには往生を極める。夏痩せ願望は逆太りに遭って、まったく果たせない。
 最後に持ってきたけれど、生きるための活動(生活)の基本を成す買い物には、途轍もなく難渋を強いられる。浮かぶままに並べてみた。すると、わが夏の季節が好きという理由は、ことごとく打ちのめされそうである。だからそれを防ぐにはおのずから、それらの項目を超える夏の季節特有の利点を浮かべなければならない。浮かぶままの利点を記してみる。もちろん勝負は、好き嫌いの項目の多寡ではない。たとえばこのことだけで、嫌いを打ち負かすことができそうである。すなわち、着衣の軽装、着脱の簡便さである。これらに付随するものでは、夜具の軽さがある。確かに、これらのことだけで、わが夏の季節好きの理由には、十分適(かな)っている。それゆえ、この先の項目は付け足しである。
 旬の夏野菜三品(トマト、キュウリ、ナス)が美味い。西瓜、かき氷、アイスキャンデーを食べれば老い心は、たちまち童心返りに恵まれる。網戸から入る夏風は、わが身にあまるほどに快い。セミの声には郷愁を掻き立てられる。板張りに仰臥する昼寝は心地良い。木陰の涼み、夕涼み、夕立のあとの涼みなどの快さは、何ものにも替え難い。いずれも自然界から、夏の季節にかぎりたまわる無償のプレゼントである。確かに、夕立に付き添う「雷さん」には恐れるけれど、幸いにもなぜか、鎌倉地方にはそんなに怖いものはやってこない。
 ところが、ほかの季節と違って夏特有に、とことん恐れるものには、ムカデの茶の間や枕元への闖入(ちんにゅう)がある。妻はヤモリやゴキブリにも形相を変えるけれど、それらはご愛敬で恐れることはない。スズメバチやマムシあるいは青大将の出没がなければ敵は唯一点、ムカデだけである。(あな、恐ろしや!)そのためには用意周到に、ムカデ殺しのスプレーをあちこちに常置している。挙句、わが夏の季節が好きの帰趨には、ムカデの出没ぐあいが大きくかかわっている。ほとほとなさけないけれど、それでもやはり私は、夏の季節が好きである。
 梅雨空ももはや、最後の悪あがきであと数日であろう。軽装の身には早やてまわしに網戸から、涼しい夏の朝風が吹きつけている。夏暑いのは、耐えるよりしかたがない。やせ我慢と言われても、気にすることはない。

夏の木陰の恵み」

 7月19日(水曜日)、このところの書き出し同様に、のどかな夜明けが訪れている。未だに気象庁の梅雨明け宣言はないようだけれど、私には腑に落ちない思いがある。気象のプロを自任する気象庁の「後だしへま」でなければと、老婆心をたずさえておもんぱかるところがある。なぜなら、このところの陽射しの厳しさは、体感的にはすでに梅雨明け後の夏の日照りと思うばかりである。
 きのうは、歯医者帰りに買い物を兼ねた。大きな買い物用リュックを背負う首筋には、汗がタラタラと流れ続けた。私はハンカチを手にして、流れ出る汗を拭き続けた。街行く若い女性の中にはチラホラと、本当の命名(商標名)は知る由ないが、小型の「電動携帯扇風機」を手にして顔の前にかざし、歩いている人たちがいた。テレビ映像でも街中にあってもこの光景は、未だに男性ではほとんど見ない。だとすれば暑さ凌ぎの電動携帯扇風機というより案外、現代女性のおしゃれの一つなのかもしれない。確かに、女性であれば、絵になる光景である。逆に、男性の場合は、様にならない光景である。現代のジェンダー(性差)喧(かまびす)しい日本社会にあっては、こんな表現は顰蹙(ひんしゅく)を買うのであろうか。
 現在行われている「大相撲名古屋場所」における観客席の浴衣姿も、女性に限れば絵になる光景である。手に持つ電動小型扇風機は、昨年あたりから若い女性に一気に普及しているように思えている。夏の暑さ凌ぎであれば私があれこれ言うことではなく、文明の利器の進歩を称賛するところである。暑さしのぎではないけれど、日本社会の移り変わりのことで最近、目にして驚いたことを加えればこのことが浮かんでいる。
 これまたテレビ映像のもたらしたものだが、学童が背負うランドセルには教科書ではなく、一つだけ小型のタブレットが入っていた。すると、インタービュアのインタービューに応じる学童は、こともなげに「軽くていいです」と、言った。もはや日本社会は、デジタル難民を自認する私の住むところではなくなっている。
 歯医者の診療椅子に横たわり私は、歯の痛みの場合の古代人はどうしていただろうかと、野暮のことを浮かべていた。このところは日本社会の止まらず世界中で急に、「ChatGPT,生成AI」すなわち、AI(人工知能)からみの話題が沸騰している。私の場合、日本社会の変容にはほとほと汗をかくばかりである。
 きのうの私は、深緑を増す葉桜の下、しばし半増坊下バス停のベンチに座り憩いながら、木陰のもたらす自然界賛歌に浸っていた。能無しの私には、ぴったしカンカンの自然界の恵みである。

寸時の幸福を呼ぶ「冷ややっこ」

 「海の日」を含む三連休明けの夜明けが訪れている。いや、もはや夜明けの頃は過ぎて、まがうことない夏の朝である。見渡す天上の大空は一面、純粋無垢の青色の広がりである。それに朝日が輝いて空中と地上もまた、朝日の恩恵を得て純粋無垢に輝いている。この光景をしばし眺めているわが気分は、すこぶる付きにのどかで穏やかである。夏の朝はやはり、人間が自然界からたまわる無償のプレゼントと言えそうである。
 本当のところこんな夏の朝に出遭わなければ、きょうの私は極めて気分の重たい日である。なぜならきょうの私には、午前10時予約済の歯医者通いが予定されている。このこともあって遅く目覚めた私は、文章は端から休むつもりだった(6:21)。ところが、パソコンを起ち上げてしまった。喜ぶべきか、それとも悲しむべきか。わが性(さが)は、習性になりかかっている。やはり、悲しむべきであろう。なぜなら、ネタのない文章に呻吟を強いられている。しかしながら、パソコンへ向かえば何かを書いて、消化不良のままであっても、閉じなければならない。これこそ、悲しい性のゆえんである。
 歯医者通いを始めて以降の私は、御飯時に難渋を極めている。おのずから、硬い食べ物は遠ざけている。いや、具体的には夏という時節もあってか、必然的に「冷ややっこ」(豆腐)が増えている。ところが、幸いにも子どもの頃から冷ややっこは好物の一つである。好物に助けられることは、身に沁みて幸福である。しかしブランドを変えて、冷ややっこを貪るたびに私には、不満タラタラの思いが駆けめぐる。不満の元は、もちろん郷愁ばかりではない。すなわちそれは、子どもの頃に村中のご夫婦の豆腐屋から買っていた手作り豆腐の美味しさゆえんである。確かにそれは、ブランドを変えて売り場にあふれている現代製法の豆腐の味をはるかに凌いでいる。夏の夕方、母に頼まれて買っていた四角四面の分厚い豆腐の味は、現代のあらゆるブランド名を超越し、飛びっきりの美味しさだった。布目の跡がくっきりとして、文字どおり冷ややっこの食感あふれるものだった。今でもありありと浮かぶのは、「栗原豆腐店」の豆腐の美味しさである。きょうはこのことを書き殴りに書いて、歯医者通いの準備にとりかかる。
 朝日は夏の風を呼び込んで、いっそうさわやかに輝いている(6:43)。