ひぐらしの記
前田静良 作
リニューアルしました。
2014.10.27カウンター設置
秋の朝
8月30日(水曜日)、自然界はすっかり秋モードへ変わりました。身近なところでその証しは、朝夕の風の冷ややかさです。さらに一つ加えれば、朝、昼、夕の空の高さと色の澄明さと美しさです。現在の夜明けの空は、まさしく秋の朝の証しを清々しく演じています。青く澄みわたる大空には、真っ白くちぎれた浮雲が浮かんでいます。そして、朝日が大空をキャンパス替わりにしてそれらを照らし、壮大なパノラマ図を描いています。いっとき大空は、朝焼けみたいな彩りを見せていました。ところがそれは消えて、今は青色と白色のツートンカラーで、これまた絵になる風景を演じています。確かな、清々しい初秋の朝の訪れです。おのずから自然界は、朝だけにかぎらず、朝、昼、夕、そして夜の月光など、恵みを変えてわが気分を癒してくれます。
きのうの私は、予約済に内視鏡(大腸)検査の当日であり、ほぼ一日中その対応に明け暮れました。検査結果は、明後日(9月1日)の午前9時の予約となっています。このほか、このところの私は、医療行動(通院と薬剤の服用)に追い立てられています。挙句、現在のわが日常行動は、これらに買い物行動を加えた二本立てです。かつての映画見物のように娯楽であれば、二本立てでも、三本立てでもお構いなしです。しかし今や、そんな心境は夢まぼろしです。
私にかぎらず生きている人間は、なお生きるための悩みは底なしです。これを和らげてくれるのは、自然界の恵みとそれを寿ぐ謳歌です。「まん丸のお月さん」を目がけて、月ロケット発射など、人間の驕りであり、愚の骨頂です。自然界を人間の欲得まみれに変えるのは、人間の悪知恵です。しばし私は、秋の朝が恵む大空のパノラマを愉しみます。わが気分癒しの、一等賞です。
休みます
8月27日(日曜日)、初秋の候。さわやかな朝風、秋風、吹いていて、起き立ての気分は良好です。窓を開けて直下を眺めると、道路上には枯葉や落ち葉があちこちへ舞っています。日曜日の朝の散歩常連組は、早や立ちです。道路を掃いてさわやかな気分を恵むため、パソコンを閉じて急いで向かいます。
季節の恵み
8月26日(土曜日)、清々しくかつのどかに夜明けが訪れている。これまで、夏の朝という表現を多く用いてきたけれど、もうお蔵入りにしなければならない。なぜなら、季節は秋冷の候にある。朝夕の風、昼間の大空そして日光は、すっかり秋の装いへ変わっている。風はさわやかに冷えて、大空は天高く深海の色のごとくに青色を深めている。未だに残暑の候は続くけれど、それとてもはや期間限定である。
人間いや私は、欲張りである。夏が過ぎようとすれば、夏の長居を願うところがある。去りゆくものへの挽歌と言えるものなのかもしれない。それはそれで人間特有の心情であり、捨て去るものでも、恥ずべきものでもない。いや、誇らしいものなのかもしれない。「生きとし生けるもの」にあって人間は、唯一感情の動物である。すると感情のほとばしりは、イの一番に季節感に表れる。すなわち人間は、季節感に鈍感になったときこそ、もはや「生きる屍(しかばね)」と、言えそうである。だとしたら私は、まだ生きている。
雨戸開けっぴろげの前面の窓ガラスを通して私は、一か所白雲を抱く広大な青空を眺めている。「早起きは三文の徳」。いやいや、測り知れない無償の眺め、徳だらけの空の眺めである。煩悩渦巻く人間界ではほとんどあり得ないけれど、自然界の恵みには素直に癒される。
きょうの文章はネタなく、いや仕方なくこれで閉めるところである。そしてなおこの先、大空を眺め続けることにする。自然界の恵みには限りをつけることなく、私は存分に浸りたいのである。自然界ではウグイス、セミに代わり、虫たちが集(すだ)いて、出番を待っている。これまた、季節の恵みである。
惜しむ夏
8月25日(金曜日)、未だ夜明け前にある。清々しい夏の夜明けを望んでいる。日本の国の真夏の風物詩と言われる高校野球は、107年ぶりに慶応高校(神奈川県代表校)が優勝を果たして終幕した。確かに、「栄冠には涙あり」。半面、甲子園球場は「オール慶応の応援団」で埋め尽くされ、かつ応援の仕方にいくらかの賛否を招いている。しかしながら、107年ぶりともなると、慶応高校に絡んでいれば熱狂応援は、壮観を極めても仕方のないところであろう。まずは、快挙を寿ぐところである。
高校野球が終われば気候は、それまでどんなに暑い夏であっても、しだいに「惜しむ夏」へと移って行く。何事においても絶頂の物事は、終われば寂しさつのるものがある。確かにこの夏は、極めて暑い夏の連続だった。加えて、夕立はおろか、瞬時の日照り雨さえ降らない日照り続きだった。このことでわが身に堪えたのは、わが清掃区域の道路に、早やてまわしに枯れた落ち葉が敷き詰めていることだった。これには、日々往生するところがある。
さて、どんなに暑くても生きているかぎり、日常生活は賄わなければならないという、生存の掟がある。掟に従いわがことで命に栄養を与え続けることは、普段の買い物行である。具体的には食料という買い物を断てば、たちまちわが命は枯葉のごとく枯れる。確かに、いっとき薬剤の点滴にすがる方法はある。しかしながらこれは、命にすれば何の足しにもならない。いや逆に、生き長らえようとする命をかえって蝕むだけである。「医食同源」という言葉があるけれど、この真意を歪めて書けば、命にとって大事なことでは、医術(薬剤)より食料のほうがはるかに勝っている。こんな野暮なことを心中に浮かべて私は、ちょっと動けば汗あふれる炎天下、食料買い出しの買い物行を繰り返している。
わが買い物帰りの姿は、ほぼ決まってこうである。背中には大型の国防色のリュックを背負い、利き手の右手、そして左手、どちらにも市販の布既成の買い物袋の両提げである。それらにあふれるほどに嵩張るものを詰め、重たくてヨロヨロ足でわが家への帰途についている。かつては妻同行の買い物行もあったけれど、妻の身が壊れている現在は、専一わが単独行へ成り下がっている。もちろん、主要区間の往復には、「江ノ電バス」の乗車にありついている。しかしとうとう私は、茶の間の妻に対し、弱音を吐いた。
「買い物の帰りは、タクシーにするよ」
「パパ。いつもなの?」
「いつもではないけど、……、もうこりごりだよ」
嗚呼、恨めしや! 「買い物難民」という言葉がわが身に、現実味を帯び始めている。
汗だくだくで帰れば、茶の間の妻の早速の施しは、氷を山ほどに浮かべたコップいっぱいの水道水と、さらには買い置きの「井村屋のアズキバー(アイスキャンデー)」である。確かに、一杯の水道水も一本のアイスキャンデーも、食料の範疇なのであろう。それまでの不平不満は消えて、わが命は鼓動を打って、息づくのである。点滴では味わえない快感でもある。
「惜しむ夏」、大空いっぱいにピカピカと光る、清々しい日本晴れの夏の朝が訪れている。人間の日常生活は案外、だれしもこんなところであろう。生きる悦びは、欲張らずこれぐらいで、十分なのかもしれない。
世の中の出来事、二つ
8月24日(木曜日)。目覚めてみればすっかり夜が明けて、朝日がカンカン照りに輝いている。文章を書く時間はない。それゆえに朝日新聞の朝刊・きょう付け(24日)の記事にすがり、二つの出来事を転記し記録に留めるものである。一つ目は、こうである。第105回全国高校野球選手権記念大会は23日、兵庫県西宮市の阪神甲子園球場で決勝があり、慶応(神奈川)が8-2で仙台育英(宮城)を破り、1916(大正5)年の第2回大会以来107年ぶり2度目の優勝を果たした。昨夏、東北勢としては初優勝した仙台育英の史上7校目の連覇はならなかった。二つ目は、このことである。東京電力福島第一原発の処理水について、東電は早ければ24日午後1時から海への放出を始める。廃炉完了の目標の2051年までに終える計画だ。経済産業省は23日、放出を前に風評・流通対策の会議を開き、小売業界の団体トップに、「三陸常磐もの」の取り扱いや販売促進を求めた。
どちらも長い年月だ。残り短いわが命には、行き先知らぬ出来事である。もちろん、この記録を再び読み返すことは無さそうである。世の中の出来事は、悲喜交々に無限である。だとしたら、清々しい日本晴れの朝の、今を愉しむことが最良かつ最大の悦びであろう。ウグイスの声はすっかり途絶え、セミの声は鳴き焦っている。人間は、笑ったり、泣いたりである。
目覚めて、われ思う
8月23日(水曜日)。夜来の小ぶりの雨は降りやんで、かすかに朝日が射し始めている。目覚めて、われ思う。自然界の営みは、清々しく悠久である。朝が来て、昼が来て、夜が来て、また朝が来る。人類はこの繰り返しの中で、人(命)を替えて生活という生業を続けてゆく。継続することではこちらもまた悠久と言えるけれど、しかし個々の命は生涯という期限付きである。そして人類は、小は様々な諍いを、そして大は戦争を繰り返す。ロシアとウクライナの戦争は、いつまで続くのであろうか。命はいくつ、断たれ、消えるであろうか。人類は、個人も集団も悪徳まみれである。確かに、「仲良きことは美しいかな!」(武者小路実篤)である。きょうの文章は短く、これで留める。きのうのだらだら書きの長文の罪滅ぼし、併せて償いである。
苦労して書いて、謝るようでは、書かなければいい
数値で定められている熱帯夜とは、夜間の最低気温が摂氏25度より下がらないことです。しかしながら、この数値に囚われず体感的に熱帯夜と言うことは許されているようです。なぜなら、電子辞書にはこう記されています。
熱帯夜:暑くて寝苦しい夜。最低気温がセ氏25度より下がらない夜をいう。
きょう8月22日(火曜日)、寝起きの私は前者にかんがみて挙句、こんな文章を書きます。すなわち、暑くて寝苦しい夜ではなかったけれど、普段の二度寝にありつけない状態に陥り、早い時間に目覚めて、そのまま寝床に寝そべっていました。
日本列島のどこかしこには、身体が茹で上がるような暑い日が続いています。暑い日を表す気象用語は現在、二段階構えです。前段は、「真夏日」(一日の最高気温がセ氏30度以上の日)です。そして後段は、「猛暑日」(一日の最高気温がセ氏35度以上の日)です。これらを上回る気温の基準は、まだ気象庁から発表されていません。だから自分勝手に私は、三段階目の基準を設けています。それは、「酷暑日」です。すなわちそれは、(一日の最高気温がセ氏40度以上の日)です。気象庁にあってもいずれは、一日の最高気温がセ氏40度以上の日をいう、新たな気象用語が認知(必要になる)されるはずです。
こんなことはどうでもいいことだけれど、現下の日本列島は、暑熱著しい真夏に晒されています。だけど真夏ゆえに、暑さはみずから耐えるより仕方ありません。きのうの私は、できるだけ昼間の暑さを避けるため、朝のうちでもなお早出の行動をしました。住宅地内にある最寄りのS開業医院で、8時半頃には待合室のソファに座りました。先着患者には、高齢の男性一人を見受けました。この日のわが外来への赴きは、二つの薬剤を二週間服のみ始めたのちの、採血結果を知るためでした。早出の功が奏しすぐに私の番になり、診察室へ入りました。一つ目、クレアニチン(腎数値)は、Hつきの1・48(男性基準値0.61~1.04)で、それまでよりやや高めで、薬剤の効果は未だしでした。ところが二つ目、LDLコレステロール(悪玉コレステロール)の数値は92となり(基準値70~139)、これまでの169から大幅に改善していました。
気分を良くして院外に出ると、私は予定していた次の行動に移りました。私は近くの「北鎌倉台バス停」へ急ぎ、巡ってくるバスを待ちました。木の幹に張り付けられていた時刻表には、次に巡ってくる時間を9:02と、記されていました。4、5人の並びの中にあって、私の前には日傘を差して、首周りから電動の携帯用扇風機(高橋弘樹様の教えによれば、横文字のハンディファン、この場合はネックファンかな?)を吊るされていた未知の中年ご婦人がおられました。私は野暮な声を掛けました。
「毎日、暑いですね。手に持つ円い扇風機はよく見かけますが、首から吊るすスマホタイプのものもあるんですね。これなら、日傘は楽に持てますね」
するとご婦人は言葉をさし置いて、私の顔の前に吊るされていた電動扇風機を差し出されました。人工の涼しい風がいっとき、マスク越しに優しくわが顔を撫でました。私多用の会話がはじまりました。
「ありがとうございます。結構涼しいですね。一度、円いものを試して見たいと思っていました。手に持つ円いものだけでなく、首から吊るすのもあるのですね。電源は電池、充電どちらですか?」
「充電で済みます」
「そうですか。面倒くさくなくていいですね。ありがとうございました」
バスが巡ってきた。バスに乗って私は、いつもの大船(鎌倉市)の街へ、買い物に向かった。
バスの車窓から、紅いサルスベリ(百日紅)の花が見えた。サルスベリは、わが子どもの頃の切ない原風景である。わが家の墓地は、小高い野末の丘の上にあった。幼児(生後11か月)の弟・敏弘が事故で亡くなると、村人は墓穴を掘っていた。墓穴に棺が下ろされた。見守る家人、そして私は、みな泣きながら少しずつ手あたりしだいに泥を落とし、棺にかぶせた。近くには、まだ育ちきれない小木のサルスベリが立っていた。
書き殴りのこの先は、字数がとめどもなく長くなりそうで、尻切れトンボをも構わず省略いたします。こんな書き殴りの中途半端な文章を書いてしまい、いたく恥じてお詫びいたします。茹だるような夏空は、まるで燃えるように照り輝いている。
うれしいこと、驚き、悲しいこと
8月21日(月曜日)。確かな足取りで、秋が忍び寄っています。そう感じるのは、網戸から忍び込む風の冷ややかさです。このことではありがたいことですが、半面、去りゆく夏の惜しさをおぼえています。
二度寝にありつけずに仕方なく、起き出してきました(4:01)。過ぎた17日にかいた「嘆息」ののちの三日間は、意識して文章を休みました。綺麗ごとに言えば暑い最中にあって、夏休みを取りました。いや実際には、これまで書き続けてきた「ひぐらしの記」の書き止めを、決め込んでいました。その理由は、書き続ける気力の喪失に見舞われて、みずから踏ん切りをつけていたのです。もちろん、この書き殴りの文章が、踏ん切りを蹴散らすとは思えません。二度寝にありつけない暇つぶしに、パソコンを起ち上げました。
休んでいた三日間には、うれしいこと、驚いたこと、悲しいことがありました。それぞれについて書けば、こんなことです。うれしいことではこの夏、諦めかけていた丸玉西瓜を買ったことです。実際のところは重たくて、自分自身の買い物では買えません。そのため、妻の里(逗子市内)の義姉夫婦の買い出しのおりに、丸玉西瓜の購入を依頼したのです(2000円)。丸玉西瓜に張り付いていたラベルには、北海道「ふらの(富良野)」JA、生産者前中様との表示がありました。ラベルは生産者前中様「自信の西瓜」の表れであり、さらには北海道の西瓜をわが家で食べるうれしさ恵まれて現在、小刻みに舌鼓を実行中です。
驚いたこととは、妻の里すなわち義姉夫婦の住む庭の中に、タヌキが現れたという受信メールに遭遇したことです。
最後に悲しいことでは、きのう(20日)のふるさとでは、亡き長兄の三回忌の法事が催行されました。もちろん私の場合は、仏壇に供物だけのお参りになりました。8月盆の入り日の前日(12日)には、次兄の初盆のお参りに、東京都国分寺市内の宅へ、出向きました。
きょうには、夏の高校野球の準決勝戦が予定されています。ウクライナとロシアの軍人は、合わせてすでに50万人にのぼる死者を数えているという報道がありました。
世の中の出来事は悲喜交々に現在を流れて、過去ページへ消えてゆくのですね。うれしさ、驚き、悲しさは、命ある者の宿命と思えば、私ひとりが嘆いても、どうなるわけでもありません。いや、嘆けばソンソン(損々)です。だからもう、「嘆息」は打ち止めにしたいものです。それゆえに三日間は、「楽しい夏休みだった」と、嘯(うそぶ)きたいところです。ところが実際にはそうではなく、もう文章は止めるつもりの三日間でした。
薄く夜明けが訪れています。すでにウグイスは、来春まで鳴き止めています。一方セミは、限られた命に急かされて、まもなく鳴き始めます。人間に生まれた私は、ウグイスやセミに比べれば私は、幸不幸、どちらでしょうか。自問の答えはどっちつかずに、いや分かりようなく先送りとなります。この先の私はしばし、青空に浮雲、彩雲いだく大空を眺めます。
嘆息
涼しい夏の朝に身を置いているけれど、文章が書けない。夏休みのせいではなく、気力喪失ゆえなのがつらい。恥を晒してこんなこと書かなければいいけれど、生きている証にはなる。生きていればまた、幸せが訪れる。生きることの短いセミは可哀想だ。きのう(8月16日、お盆)、道端でセミ捕り網と虫籠を持った親子に出会った。楽しいそうだった。子どもの頃の、わが姿がよぎった。切なかった。
夏休み&8月盆送り火(日)
共白髪、あすを生きる気力が萎えています。ウグイスはもう鳴いてません。セミは鳴く一方で、脱け殻が目立ちはじめています。生きとしいけるもの、命の切なさをしみじみ学んでいます。それらに同情する側にあって、人間いや私たちは、まだ幸せです。すっきり晴れた夏空の朝が来ました。