ひぐらしの記
前田静良 作
リニューアルしました。
2014.10.27カウンター設置

内田川(熊本県・筆者の故郷)富田文昭さん撮影
マイナス思考、かつマイナス文章
4月21日(日曜日)。朝日は雲隠れしているけれど、それでもすでに明るい夜明けが訪れている。地震に因る身体の揺れもなく、穏やかな夜明けである。それなのに私は、心中にこんなことを浮かべて起き出している。わがマイナス思考の文章は、確かに人様のやる気(士気)を殺いでいる。このことでは、謹んで詫びなければならない。いや、もう書いてはいけないのであろう。ところが、わがマイナス思考、そしてそれにつきまとうマイナス文章は、わが継続文の根幹を成している。このことを恥じれば、おのずから文章は沙汰止みとなる。終末人生を生きる私には、実際のところ明るいネタとそれをこしらえる能力(脳力)はない。日々、ようよう綴る文章は、生きている証しを担っているにすぎない。だから、マイナス思考の塊ではあっても、これにともなう文章が途絶えた時は、「わが絶命時」である。
生来、わが性癖にはいろんな悪癖がある。もとより、精神のマイナス思考、そして文章を書けば大袈裟な表現、この二つもそれらの範疇に入る。なぜ私は、わが能力の埒外にある文章を書き続けているのであろうか。能無しの私は、こんな苦衷、止めれば済むことである。なさけなくも、この自問を常に繰り返している。このことをほぼ十分間書いて、きょうは書き止めである。なぜなら、マイナス思考の文章が人様に迷惑かけていることを案じて、心身をひととき謹慎すべきと心得ているためである。
繰り返すけれどこのところ、ウグイスの鳴き声が途絶えている。マイナス思考かつそれによるマイナス文章は、ウグイスにまで迷惑をかけて、ソッポを向かれているのであろうか。終末人生はどう生きて、どんな文章を書けばいいのであろうか。雲が切れて、朝日が輝き始めている夜明けにあって、私は嘆いて、思案にくれている。
追い詰められて「とんずら」
4月20日(土曜日)、もちろん、いい加減な気持ちではなく、必死に書いている。しかし、このところは、文章とは言えないものばかりである。ゆえに気分は、袋小路に入っている状態にある。挙句、そこから逃げ出すことにもがいている。これにちなんで心中には、二つの成句が浮かんでいる。困ったときの助太刀すがりで、電子辞書を開いた。
【窮鼠猫を噛む】「絶体絶命の窮地に追い詰められれば、弱者といえども強者を打ち破ることがあるというたとえ」。
【袋の鼠、あるいは袋の中の鼠】「追い詰められて逃げ場のないことのたとえ」。
あえて、電子辞書にすがるまでもない簡易な成句である。ところがどちらも、わが現在の心象には当を得なくて、しかたなく「袋小路に入っている」という成句を用いた。ああああ……、きょうも書くまでもない文章を書いている。こんな状態のときには【三十六計逃げるに如かず】という成句(諺)がある。これまた簡易な日常語である。だけど、再び電子辞書を開いた。「形勢が不利になったときには、あれこれと策を用いるよりも、逃げてしまうのが最良の方法であるということ。また、厄介なことが起きたときには、逃げるのが得策であるということ」。
厄介ではないけれど、まともな文章が書けず、私は「とんずら」を決め込んだ。
【とんずら】「とん」は遁走(とんそう)、「ずら」は「ずらかる」の意。犯罪をおかして逃げることをいう俗語。
もちろん、碌な文章しか書けないことは犯罪ではない。しかしながらわが心象は、それに似た状態にある。のどかに、夜明けが訪れている。ところが今朝もまた、ウグイスは朝寝坊を決め込んでいる。声援(音)無しの電子辞書しかすがれるもののない、わが身は哀れである。ウグイスは、私に愛想尽かしをしているのであろうか。たぶん、そうかもしれない。朝日は輝きを増し始めている。
ウグイスは朝寝坊
4月19日(金曜日)、すっかり夜が明けている。風雨まったくないのどかな朝が訪れている。きのうの寝起きは地震情報に驚いて、心が揺れた。だから私は、いつもこんな夜明けを願っている。さて、寝起きのきょうは、このことに驚いている。ウグイスもときには、朝寝坊をしでかすのであろうか。気分でも悪いのであろうか。鳴きたくない朝もあるのであろうか。晴れの夜明けにあって、ウグイスの鳴き声が途絶えている。私が「早起き鳥」になり替わり、生前の母の真似をして、ウグイスにたいし「もう、起きらんかい。さぞかし、まだ眠かろうばってん、起きらんと遅れるぞ!」と、言ってもいい。ただ、ウグイスの場合、何に遅れるかはわからない。だからただ、私自身がウグイスの鳴き声(エール)を欲しがっているのである。これぞ、朝寝坊のウグイスには大迷惑であろう。確かに私とて、朝寝坊を無理矢理起こされたら気分が悪い。それでもいくらか、鳴き声の途絶えているウグイスの体調を気遣うところである。
久しぶりにわが寝起きの気分は良い。それは、昨夜のジャイアンツ戦において、タイガースが「サヨナラ勝ち」をしたからである。昨季日本一になった今季のタイガースは、これまで出足に躓いている。このこともあってきのうの勝利は、わが留飲を下げたのである。このことでは、すこぶる気分の良い寝起きなのに、ところが文章はそれに付随せず、こんな体たらくである。ウグイスはこんな私に、業を煮やし不貞腐れて、エールを止めているのかもしれない。私はエールを欲しがり、両耳には補聴器を確り嵌めている。書き始めから時間が経っているのに、ウグイスはまだ鳴いてくれない。だからと言って子どもの頃のように、ウグイスを「バカ!」呼ばわりはしたくない。なぜなら、夜明けにあってウグイスの鳴き声は、わが一日の始動にさずかるこのうえない応援歌である。
こんな文章、やはり休めばよかった。わが身体には、とうに焼きが回っている。自然界は、地震情報のない、のどかな朝ぼらけを恵んでいる。
寝起きに見た「地震情報」
4月18日(木曜日)。起きてパソコンを起ち上げて、いつもの習いにしたがい、メデイアの報じるニュース一覧項目を見た。すると、日本列島に大きな地震が起きていた。「2024年4月17日23時24分ごろ。震源地は豊後水道で、最大震度は6度弱、被災地は高知県、愛媛県と伝えられている。この地震による津波の心配はありません」。これだけの情報で、テレビによる地震状況、そして被害状況はまだ見ていない。最大震度6弱となれば、被災地の被害状況が案じられるところである。
地震列島と異称される日本の国は、日々、いや時を空けず、どこかが揺れている。小さい揺れにはそんなに驚かないけれど、震度5弱以上であればやはり、日本列島に住むかぎり、他人事でなく驚かされる。それが、震度6弱あるいはそれを超えれば肝を潰される。確かに、震度6弱ともなれば、おのずから震源地近くの被災地は、何らかの被害は免れない状況にある。
「東日本大震災」(平成23年・2011年3月11日)以降、地震発生には必ず、津波発生の有無が地震情報に添えられるようになっている。今年(令和6年・2014年1月一日)に起きた「能登半島地震」においてもまた、東日本大震災における津波の恐ろしさを再び見せつけられたのである。それゆえに、「津波の心配はありません」という一報は、大きな安堵をもたらしてはいる。
出端を挫かれてきょうの文章はここで結文にして、階下の茶の間へ向かい、テレビによる地震状況と、被災地状況を見入ることにする。もちろん、野次馬根性ではなく、被災地の安寧を願って見入ることとなる。まさしく日本列島は、地震をはじめ台風その他の天災列島である。なかでも地震は、しょっちゅうどこかで起きていて、限られた「春の異変」と言えないことは、つらくそして悲しいわが心模様をなしている。
寝起きの心境
4月17日(水曜日)。自然界は晩春ののどかな夜明けを恵んでいる。命の鼓動は休んでは困るけれど、こんな文章は休んだほうがいいのかもしれない。わが文章は惰性に支えられて、ヨロヨロと継続が叶えられている。だから、惰性が途切ればたちまち、頓挫の憂き目を見ることとなる。この恐れは、常にわが身に付き纏っている。ゆえに、おとといときのうの二日にわたりそれを恐れて私は、まるで身体が心不全の病に見舞われたような文章を書いた。すなわち私は、恥を晒してまでも惰性が途切れるのを恐れて、正気で悪あがきの文章を書いたのである。まさしく、狂気の沙汰であった。
ところが、なお懲りずに三日目、きょうの文章もその延長線上にある。「ひぐらしの記」は、空虚になるはずのわが老後生活(日常)を支えている。そして、これにちなむ人様との出会いは、わが日常に限りない潤いをもたらしている。もとより、これらのことにおいては、いくら感謝してもしすぎることはない。わが身に余る僥倖、重ねて棚ぼたの宝物である。
それなのにこのところの私は、書く気力の喪失に見舞われて、挙句に文章は、恐れている頓挫寸前にある。もちろん、わが独自事情であり、人様に助けをすがることはできず、みずからを鼓舞するより得手はない。きょうはこのことを書いて、惰性を繋げて、頓挫を免れる便法にするだけである。はなはだ、かたじけなく思う、寝起きのわが心境である。こんな私にウグイスは、軽やかな鳴き声で、エールを送っている。ぐうたらなわが心象が揺さぶられる、晩春の素敵な夜明けである。三日続けての無題は虚しいゆえに、打ち止めにしたいけれど、しかし決断は鈍っている。
無題
4月16日(火曜日)。頃は好し。のどかに、朝が来た。だけど、文章が書けない。いや、もう書けない。わが終末人生は、暗澹を極めている。「身から出た錆」、わが甲斐性無しのせいである。まさしく恥晒し、慙愧に堪えない。重ねて、忸怩たる思いがつのる。書かくまでもない文章を書いた。かりそめのマイナス思考のせいではない。悩める現実がもたらしている。
無題
4月15日(月曜日)。薄く晴れ模様の夜明けが訪れている。季節は晩春へ向かい、やがては風薫る初夏へ到達する。春の季節にあっては、寒の戻りや花に嵐を遠のけて、最も心地良い頃であろう。鶏に代わる早起き鳥のウグイスは、もう鳴いている。ウグイスは、人間界の煩わしい生き様や、わが煩悩など知らぬが仏で、限られたわが世の春の謳歌に必死なのであろう。そうであればいつもとは違って逆に、私からウグイスへ「鳴け、鳴け、大鳴け!」と、エール(応援歌)を送りたい心境にある。
ウグイスの必死の鳴き声に同調するのは、わが終末人生がウグイスに似ているせいでもあろう。なぜなら私も、今や短く限られた命の残存を必死に生きている。ウグイスよりわが命は、長そうには思えてはいる。しかしながら、いつ絶える(絶命)か、その恐怖(感)はほぼ同様である。わが終末人生の日常は、もっぱら生存だけが目的になり、半面、その瓦解が恐れをなしている。そして、これにちなむ心境は、時々刻々に様変わる。
起き立てにあってきょうもまた、書くまでもないことを書いた。書いて、恥を晒すことは厭わない。けれど、どんな出まかせの雑文であっても、書くことには常に苦痛がともなっている。苦し紛れの文章は、確かなわが能力(脳力)欠乏の証しである。もちろん、こんな文章では生涯学習の範疇には入らず、実のないいたずら書きの汚名を被るだけである。きのうの文章とは違って表題は、まさしく無題でいいだろう。ウグイスは心地良く鳴いている。私は気分沈んで嘆いている。
ただ書いただけの、無題
4月14日(土曜日)。ぐっすり眠れて、早く起き出している。だから、「早起き鳥」の真似をして、「コケコッコウ」と、鳴きたくなっている。しかし、早起き鳥にはなれない。ゆえに私は、早起き鳥のような社会貢献はできずじまいである。
ふるさと時代にあって早起き鳥は、朝の起き出し時刻を告げる大切な役割をしていた。わが家の早起き鳥は、縁の下に飼っていた数羽の鶏だった。鶏の天敵は、産みたての卵を呑む青大将だった。今なお絶えず、恐怖がよみがえる過去の忌まわしい光景である。私いや人間は、常に天変地異と人間以外の生き物の恐怖に晒されて生きている。恐怖の枠から人間を外すことは、人間の驕りなのかもしれない。確かに人間とて、日々伝えられてくる社会現象を鑑みれば、恐ろしい生き物の範疇に在る。
社会は、万物の霊長と崇められる人間の集団である。それなのに社会の実態は、必ずしもこの崇敬に見合っていない。なぜなら社会は、人間のしでかす大小の事件のオンパレードである。伝えられてくるもので、小とは言えず腹立たしいのには痴漢行為がある。メデイアは、痴漢防禦策をあれこれと囃し立ててくれている。もちろんそれは、出会いの月4月にからんで人の往来が激しくなるにつれて、痴漢被害が増えること案じるゆえであろう。
痴漢行為には、(痴漢ぐらいは……)という、男の驕りがある。この驕りを断つには、痴漢をしでかした者を晒しものにして、社会から抹殺するほどの厳罰主義にするほかはない。なぜか社会は、痴漢行為にきわめて甘いと、思うところがる。
手練手管の詐欺行為も、一向に減らない。新コロナ対策の補助金には、偽申告や応急の金を借りても、返済意志のない人が大勢という。すなわち、はじめから「横取り、もらい得」を決め込んでいる悪人多しである。
気分直しをしてくれるのは、いつも「ふるさと便」である。ふるさとの甥っ子、姪っ子から、相次いでふるさと便がとどいた。一つは「タケノコふるさと便」、そして一つは「ふるさと産米ふるさと便」である。早速、どちらにもお礼の電話をかけた。すると、二人ともこう言った。
「このところは、イノシシがやたらと増えています。被害も増えて、合うのが怖いです。退治する人はだれもいなくて、イノシシは増えるばかりです」
私は一日一日をひたすら生きている。高齢の身を生きるわが生活実感である。わが身にかぎらず総じて社会は、生きる苦しみにある。早起き鳴かずとも、朝がくれば起きなければならない。生きる者の宿命である。今朝は、麗らかな朝日がわが気分を解している。大地揺るがず、生き憎い人間社会のいっときのオアシスである。
朝書きの自戒
4月13日(土曜日)。目覚めると部屋の中は昼間のように明るい。陽射しこそそそいではいないものの、私は寝坊助を被っていた。慌てふためいて起き出すと、見渡す眺望には朝日がピカピカと輝いている。ウグイスは、朗らかに鳴いている。私は心が急いている。半面、待ち望んでいた自然界の恵み旺盛で、わが気分は晴れ晴れの夜明けである。心地良い気分は、春季節特有の恩恵、すなわち熟睡がもたらしている。まさしく、春の恵みである。
一方、私は寝坊助の祟りにあっている。いや、このことは、夜明け前に書くわが習性の祟りである。もちろんこの祟りは自認し、ゆえに常に自戒している。もとより、この習性を改めないかぎり、私自身が求める文章は書けない。挙句、継続を断たないだけ目的になり替わり、いたずらに殴り書きと走り書きの協奏に甘んじる。確かに、文章の不出来はこのせいではない。ところが、独り善がりに私は、そのせいと思い込んでいる。気分は煮え切らず、常に生煮えの状態にある。みずからのせいとはいえ、恨めしいかぎりである。好気分に遭遇し、こんな文章を書くようでは、もとよりわがお里の知れるところである。
実社会の年度替わり、そして出会いの月4月にあって、それぞれに人の営みは、本格稼働に入っている。季節は初春、桜の花の頃の中春を過ぎて、晩春へ差しかかる。日々、山は緑を成し、里は葉桜を深めてゆく。ここにきてようやく、春の夜明けは落ち着いて、この先は季節の恵みをふりまいてくれるのであろうか。
再び記すと、胸の透く心地良い夜明けである。これまた再び書くと、私は寝坊助を被り心が急いている。目覚めて寝起きの私は、きょうは時間なく書けない、いや書くまいと、決めかかっていた。登山家は「山があるから登るのだ!」と言う。これに倣えば私は、「パソコンがあるから、駄文を恥じず書くのだ!」。私は蚤の気概ほどの決意を固めて、パソコンに向かったにすぎない。登山家の壮大な意志と気運に比べて、なんとわが意志のみすぼらしさであろうか。とことん恥じてこの先は書けず、仕方なく指先を擱くこととする。そして、朝御飯の支度前の残された短い時間は、のどかに朝日輝く大空を両頬杖ついて眺めることとする。
文章とは言えないけれど、慌てふためいてせっかく書いた文章だから反故にはせず、名づけて残し置くものである。浮かんでいる表題は、「朝書きの自戒」である。熟睡の心地良さは、切なさに変わりそうである。
目覚めの、無情!
4月12日(金曜日)。晴れのない、雨の無い、曇り空の夜明けが訪れている。きょうの天気予報は聞きそびれている。そのため、この先の天気模様はわからずじまいである。「ひぐらしの記」は、すっかり「私日記」に成り下がっている。わが悔やむところである。目覚めるとしばし寝床に寝転んで、私はいつもこんな気持ちに苛まれている。一つは、「起きて、文章を書こうか、書くまいか」という思いである。一つは「この先、文章はもう止めようか、止めたいなあ……」という思いである。「ひぐらしの記」の存廃は、目覚め時の気分に起因する。直截的(ちょくせつてき)にはこのときの気分の良し悪しにある。より具体的には、モチベーション(意欲、気力)の高低にある。それが高ければ文章は書けて、なお存続志向へありつける。一方、それが低ければ文章は書けずじまいとなり、たちまち私は、潮時思考へ陥っている。目覚めると日々、こんな思いの繰り返しである。もちろんこの思いには、老いさらばえるわが身体と、それにつきまとう萎える精神(力)が加担している。さらには歳月の速めぐりにともなう、遣る瀬無さが付き纏っている。
きょうは楽屋話を書いて、継続文の足しにするものである。曇り空は切れて、朝日が射し始めている。ウグイスは鳴いている。しかし、桜の花は散り急いでいる。私はなさけない心境にある。