ひぐらしの記
前田静良 作
リニューアルしました。
2014.10.27カウンター設置

内田川(熊本県・筆者の故郷)富田文昭さん撮影
再三再四の「嗚呼、無情」
5月2日(木曜日)。目覚めると両耳へ枕元に置く補聴器を嵌めて、パソコン部屋へ向かって行く。わが習わしの一日の始動である。ところが心境は前を向かず、後ろ向きでこんな状態にある。(もう、書けない。書きたくない)。小雨そぼ降る夜明けが訪れている。山の枝葉は濡れて、上下左右に揺れている。小嵐の夜明けと言っていいのかもしれない。
きのうは願っていた晴れには恵まれず、ほぼ一日じゅうしとしと雨が降り続いた。そしてこれには、わが身に堪える寒気が付き添っていた。私は着衣を重ねて、寒気を撥ね退けた。けれど、抗しきれずに人工の暖をとった。ここまで書くと、あれ! ウグイスが鳴いている。ウグイスもまた、このところ愚図つく天気に我慢ができないのであろうか。そうであれば私と同類項であり、しばし聞き耳を立てて、いつものお返しに、私からエールを送りたいところである。こんな文章しか書けないわが身は哀れである。
こんな心境にあって、一つだけネタらしいものが浮かんでいる。しかしながらそれは、変わりゆく世相を映す切ないものである。わが買い物の街「大船」(鎌倉市)には、直近まで二か所に本屋があった。いずれも、かつての小さい「町の本屋」を超えて、大型の「街の本屋」と言えるものだった。一つは、大船駅に隣接する「ルミネ」の中にあった。今回、それが消えたのである。残る本屋は、大船駅からかなり離れた所にある「西友ストア」の6階に位置している。利便性においては、もとより前者がはるかに勝っている。それなのに、先に消えたのである。普段、後者は前者よりもっと、人影はまばらである。このことからすれば後者もやがて、前者の憂き目を見そうである。そうなれば、大船の街には本屋が無くなることとなる。かつて、本屋は4軒ほどあったような記憶がある。
一つあった映画館はとうに消えて、跡地はドラッグストアが占めている。大船の街には「松竹大船撮影所」があった。ところが、これまたとうの昔になくなり、跡地には「鎌倉女子大学」と「イトーヨーカドー」が隣り合わせで建っている。挙句、現在の大船の街には、飲食店、コンビニ、ドラッグストア、カラオケ店など目立っている。パチンコ店は衰退し、残るは一軒になった。私がときおり出向いて、モーニングセットで時間潰しをしていた、喫茶店「ルノアール」は無くなった。
きょうの文章は、様変わる世相の一端を記して、継続文の足しにするものである。こんな碌な文章しか書けない、切ないわが身の現状でもある。遠望する大空には、我慢しきれず隠れている朝日が薄く光を擡げている。
5月初日
歳月はカレンダーにそって、4月から5月に入る(1日・水曜日)。季節は晩春を過ぎて、今週末には「初夏」(5月5日・日曜日)が訪れる。それに応じて、山は緑を深めてゆく。水は温みを強めてゆく。人間界における出会いの月4月は、様々な儀式を終えて、すでに本格稼働に入っている。ゆえに5月の初っ端は、病巣や病根のない俗に言う「五月病」に憑(と)りつかれて、気鬱症状はなはだしいところがある。
花粉症状は遠のくもののかわりに、それによる身体の怠(だる)さと精神の憂鬱がともなって、人一様に心身に堪えてくる。ところが、「捨てる神あれば拾う神あり」ある。いっとき(十日ほど)とはいえ、心身の疲れを休める、「ゴールデンウイーク」が訪れる。きょうは平日とはいえ、その最中にある。この間の目玉は、物見遊山すなわち国内外への行楽である。しかし、「好事魔多し」。心身の癒し行為は終われば余計、疲労と物憂さをいや増すところがある。ゴールデンウイークにありつけないわが僻みではなく、現役時代における確かな狂おしい実体験である。
先駆けのゴールデンウイークの前半は、天候に恵まれなかった。ところが、後半には晴れの予報が連なっている。その橋渡しとなるきょうの夜明けは、いまだどっちつかずの曇天である。雨の無い夜明けは、やがて晴れを誘い出すのかもしれない。行楽にありつけない僻み根性は捨て去り、素直に私は、行楽日和の訪れを願っている。人間界の幸運・幸福を妬むつもりはない。
4月末日
4月末日(30日・火曜日)。(ああー、もう、4月が終わるのか!)。私は嘆息まじりに起き出している。小雨降る、夜明けにある。嘆息はこれだけではない。生来、わが脳髄は鈍重であり、加えて手先は不器用である。これらを含めて寝起きのわが嘆息は、極限状態にある。歳月の速めぐりに抗えないのは、しかたがない。ところが、わが能力の乏しさには私自身、腹が立つ。しかし、どんなに藻掻いても解決するものではなく、これまたしかたがない。そして後者の祟りは、文明の利器をたずさえる現下の情報化社会において、日々被っている。
いつもの大袈裟な表現を試みれば、私は現代社会にあっては生きてはいけない(生存権がない)のかもしれない。なぜなら、私は文明の利器のもたらす利便(性)に日々悩まされている。わが日常生活において用いる文明の利器は、ごく限られている。具体的にはパソコン、そしてスマホだけである。情報機器にはテレビや固定電話、ファックスなどがある。しかしながらこれらには、すでに要無しになったものもあり、しだいに不要になりつつあるものもある。ゆえに現下、私が情報ツールとして用い、そして操作等で悩まされているのは、ほぼパソコンとスマホに限られている。広くはこれらにカード類など、様々な電子機器(媒体)を加えていいのかもしれない。確かに私は、買い物現場でレジの支払機の操作に悩まされている。つまり私はこれらの操作に悩み、だからこれらを「ラクラク」操ることができれば、わが日常生活、いやこの世で生きることには、どんなにか「らくちん」だろうと、思うばかりである。わが身体に張り付く鈍重な脳髄、加えて不出来の指先は、不甲斐なくただただ恨めしいばかりである。
こんな身も蓋もないことを書いて4月は、一日だけの休みで過ぎてゆく。ウグイスは、こんな私に業を煮やしてか、このところエールを断っている。小雨のせいにできない、つらい夜明けである。
「武士の情け」の切ない草取り
「昭和の日」(4月29日・月曜日 祝祭日)。自然界は、今にも朝日が輝きそうなのどかな夜明けを恵んでいる。ウグイスはじめ山鳥は、喜び勇んで鳴いている。ところが現下の人間界は、ままならない世相にある。経済界は、いっそう円安傾向を強めて、物価上昇はこの先へ続きそうである。政界では、きのう投開票が行われた三つの衆議院補選、すなわち東京15区、島根1区、長崎3区においては、いずれも立憲民主党が制し、自民党への逆風が吹いている。なおままならないのは、わが家の暮らしぶりである。夫婦の年齢(83歳と80歳)相応に、あらゆることに「生きる苦難」が続いている。
きのうは予告の「鎌倉めぐり」は止めて、いっとき庭中に這いつくばった。実際には、百円ショップで買い求めたプラ製の椅子に腰を下ろした。わがいつもの草取り姿である。猫の額にも満たない人工のわが庭は、主(私)の甲斐性無しと怠慢にせいで、荒れた原っぱ(野原)同然にある。観るに見かねてしかたなく、私は「草花畑」と名付けて、恰好をつけている。あちこちに、名を知らない草花が美しく萌えている。きのうは珍しく、妻もまた草花畑へ出向いて協働した。
「草花、綺麗ね。せっかく萌えているのだから、取りたくないね」
「そうね。綺麗だわ。草花は取らずに、ほかを取ればいいのよ」
「そうだね。草花はしばらくそのままにしておこう。取るのは、忍びないね」
「咲き終われば、取ればいいのよ。わが家の花壇と思えばいいのよ」
「そうだ。そうしよう。すると、きょうは取るところがないね。もう、止めよう」
「武士の情けの草取り」と言おうか、いや遣る瀬無く頓挫し、後顧に憂いを残したのである。
なんだか切ない、わが家のゴールデンウイークの一日だった。朝日が輝いて、行楽日和を恵んでいる。だけど私には、ゴールデンウイークの行楽の予定はない。
「惰性」、呼び戻しの文章
4月28日(日曜日)。人様のゴールデンウイークを羨むような、妬むような、挙句、旅心を誘われそうな、晴れてのどかな夜明けが訪れている。しかしながら文章は、恥を晒して様にならない。もとより、恥晒しは厭わない。きのう途絶えた惰性を呼び戻すだけが目的の文章を書き始めている。なぜなら、こうしなければ頓挫は、もはや再起不能に陥るためである。ゆえにこれを免れるためには、どんな文章でも書けばそれなりの価値はある。だけどやはり、こんな文章はほとほと身に堪えている。
きのうのテレビニュースには、ゴールデンウイークの始まりを伝える映像が頻出した。一つは、「羽田国際空港」における混雑する出国情景である。一つは、渋滞きわまりない下りの「高速道路」の光景である。これらの映像を観た私は、この文章で言葉(語句)選びに悩まされている。すなわち、これまでもそのたびに呻吟してきた語句選びである。それらは漢字特有の語句選びの難解さである。文意にそって浮かんでいたものには、こんなものがあった。場面、情景、場景、状景、光景、風景などである。
文章を書く妙味の一つは、文意に即した最もふさわしい言葉や語句(適語)が浮かんだときである。もちろん、そんな感興にはめったに出合えない。ゆえに文章を書くことには、常に苦痛、苦衷、呻吟がともなっている。挙句には(もう書きたくない、もう書けない)気分に苛まれることとなる。きのう私は、その証しを被ったのである。私は、掲示板に「書けません。休みます」と、印してずる休みをした。だからきょうの文章は、その怠惰な心を断つだけが目的化しているにすぎない。それゆに私自身は、文章の不出来は構わず、ここまで書いたことで十分である。そして、あすへ繋がれば万々歳である。身勝手をお許し願うところである。
朝日の輝きは増している。きょうの私には、「鎌倉めぐり」の一員に加わりたい思いがつのっている。
私のゴールデンウイーク
4月26日(金曜日)。また、朝が来ている。しかし、朝模様は必ずしも一様ではない。気象だけでも、晴れ、雨、曇り、強風、嵐を元に、様々な変化をともない、朝が訪れる。山ではコジュケイとウグイスが、高音で鳴き合いを演じている。ところが私は、日替わりにあっても、起きては日々同じような文章を書いている。このことでは私自身飽き足らず、おのずから自己嫌悪に陥っている。こんな気分を免れるには、確かに文章を書かなければ済むことではある。もちろんそれは承知で、常々(もう、書くまい!)と、決意寸前にある。しかし一方、これまた常々、こんな脅しに苛まれている。すなわちそれは、(書かなければ、おまえは生きる屍同然ではないか!)。これにもまた、十分承知するところがある。挙句、それを恐れて書いている。身も蓋もないことを書いてしまい、自分自身に詫びて、ご贔屓のご常連の人様へ詫びている。
山は緑を深めている。あすから、先駆けのゴールデンウイークに突入する。物見遊山、手近なところで「鎌倉めぐり」の人の往来が激しくなる。それに備えてきょうの昼間は、人気の「天園ハイキングコース」へ向かう、わが家周りの道路をしなければならない。ウグイスはすでに春先のトレーニングを終えて、行楽シーズンに備えて、日々、本鳴きを高めている。わが家では厄介きわまりない山に棲みつくリスは、近郊近在から出向くハイカーにとっては、旅気分の一興を成して存在価値を高める。これらに交じり私にも、鎌倉めぐりの人たちを歓迎する一員の自覚はある。ならば気分を高めて、道路で出会えば明るい挨拶を心掛けなければならない。それにはまずは、こんな気概のない文章を書く気分を一掃しなければならない。
人の世は、自然界の恵みを満喫する好季節の到来である。私も人の子、省(はぶ)かれず便乗した気分山々である。私のゴールデンウイークは、萎えている気分の立て直しが先決である。ゴールデンウイーク先駆けの朝は、のどかに晴れた旅日和である。
気分滅入る、夜明け
4月25日(木曜日)。きのう、一日中ふり降り続いていた雨は止んでいる。しかし、朝日の見えない曇り空の夜明けが訪れている。予報によれば時を追って、晴れになるだろう。きのうは、雨をともなった季節外れの寒さにとことん往生した。だから、きょうの晴れの予報には心待ちする思いがある。
昨夜の阪神タイガース対横浜ベイスターズ戦は、途中降雨による中断もあって、10時近くに終了した。試合開始は夕方の5時半だった。私は妻と共に延々、4時間半ほど見入った。試合結果は5対3で、タイガースが勝利した。しかし、ジャイアンツに勝ったときのような気分のいい勝利感は味わえなかった。なぜなら、ベイスターズはタイガースに次ぐ、贔屓する(ファン)チームである。
試合が終わると、慌てて就寝した。やはり、タイガースの勝利は安眠(熟睡)を恵んだ。パソコントラブルに見舞われて、この先を書く気分を殺がれている。ゆえに、ここで余儀なく結文を決意する。タイガースは雨の中で勝利した。けれど、それに酔えない気分の夜明けである。
春は過ぎる
4月24日(水曜日)。小雨そぼ降る晩春の夜明けが訪れている。このところ、朝日はかくれんぼしている。せっかくの好季節にあって、腑に落ちないところである。しかし、地震が起きなければ、泣き言はご法度である。なぜなら、自然界の恵みは、やはり箆棒である。桜は北上を続けて、北の地方では、今なお花見どきにある。当地(鎌倉)で葉桜を深める桜木とて、仰げば花見気分横溢の興趣にありつける。まさしく桜は、咲いて良し、散りて好し、葉桜もまた佳しの風景である。
あれほど待ち望んでいた春3月と4月、季節を分ければ、初春、中春、そして晩春となり、総じて残りは一週になり、こののち季節を変える。季節のめぐりに応じて、人の世における別れの月、出会いの月も過ぎてゆく。人情のはぐくむ別れと出会いは、文字どおり悲喜交々である。ところが私の場合は、喜び少なく、悲しさ多く過ぎてゆく。気張って「哀歓」と書きたいけれど、それは書けず「哀感」一辺倒である。
起き立てにあって、こんな無駄文を書いてはお里が知れる。もちろん、恥晒しは厭わない。だけどネタなく、文章はここでおしまいである。気が触(ふ)れている自覚はない。
睡魔に恵まれず、悪魔に襲われている
4月23日(火曜日)。いまだ夜明け前にある。眠気はあるもののほぼ一晩中、悶々として寝つけず、しかたなく起き出している。朦朧頭であっても起きれば、パソコンを起ち上げるしかない。今や、かなしくつらい、わが性(さが)である。
悶える目覚めには、様々なことが心中に堂々巡りする。これがまた、寝入りを阻害する。こんなことを浮かべていた。文章を書くことには苦痛がともない、愉しみはない。半面、文章を書くことには、こんなご利益、利得、効果がある。一つは、心中に絶えず語句や言葉をめぐらしていることで、おのずから認知症の予防になる。一つは、文章を通して人様との出会いがある。一つは、薄らぐ記憶が確かな記録へ替わる。そして、このことは、大沢さまのご厚意にさずかるものだけれど、書けば製本(単行本)にありつける。双方を天秤にかければやはり、後者が重たいのであろう。
現在、目玉は冴えている。けれど、脳髄は鈍重である。それゆえに文章はここで打ち切り、試しに寝床へのとんぼ返りを試みる。幸いなるかな! こんなダメ文では、苦痛はともなわない。薄く明け行く夜明けの空は、雨模様である。ウグイスは私とは違がって、まだ塒(ねぐら)に鼾(いびき)も立てず、スヤスヤ眠っている。
「文明の利器」(情報媒体)
4月22日(月曜日)。小雨降る夜が明けている。起きてネタなく、何を書こうかと、呻吟している。挙句、焼けのやんぱち気分である。そのせいであろうか、心の片隅にこんなことが浮かんでいる。主にそれらは、映画、ラジオ、テレビ、電話(固定・携帯)、パソコン、スマホ、加えて新聞、書籍、写真などである。言うなればこれらは、わが生涯においてさずかっている「文明の利器」(情報媒体)である。これらは折節において、「口・耳・目などの学問」を恵んできた。そして、広く社会学、わが日常において、多大な潤いをもたらしてくれた。いや過去形ではなく、今なお現在形でさずかっている。
子どもの頃に限定すれば、新聞とラジオは日常生活の大きな愉しみだった。やがて、映画(写真)、電話(固定)、そしてテレビが追っかけた。この間、教科書をはじめ雑誌類(わが愛読書・少年クラブなど)では、いろんな情報をさずかった。そしてこれらは、これまでのわが生存期間(83年)において消滅することなく、いまだに社会貢献を果たしている。このことでは、悦ぶべきことであろう。
子どもの頃に三本立て映画を見に出かけたときの愉しみと、テレビを初めて観たときの興奮は、今なおありありとよみがえる。わが家に固定電話が引かれたときのうれしさもまた、強くよみがえる。総じて文明の利器(情報媒体)にさずかった初っ端の興奮度は、どれもこれもが忘れがたくよみがえる。
冒頭に並べた文明の利器(情報媒体)を眺めていると、まさしくそれらの進化とそれにともなう社会の変容が読み取れる。そして、これらの総括編を成す機能は、現下の「スマホ」に織り込まれている。文明の利器(情報媒体)は、この先もスマホを超えて進化を続けること請け合いである。しかしながらわが存命は短く、それにあずかることはできない。いや、もうそんな欲得はない。なぜなら、日々、スマホの扱いに翻弄されているからである。加えて、情報端末機(いろんなカード類を含めて)の進化は、日々わが足りない知能を脅かし続けている。文明の利器(情報媒体)に脅かされなければ案外、わが生涯は「楽ちん」だったのかもしれない。パソコントラブルには、寸時、怯えている。
雨が強まる夜明けとはいえ、自然界の恵みにはとことん心安らぐところがある。