ひぐらしの記
前田静良 作
リニューアルしました。
2014.10.27カウンター設置
歌謡曲の題に模して、「嗚呼、能登半島」
1月17日(水曜日)、日を替えてきのうを凌ぐ寒さが訪れている。時刻は夜更けを過ぎ去り、夜明けへ向かっている。しかしながら物事は、夜明け前が最も暗いと言う。寒気に震えて、傍らの窓ガラスさえ開ける勇気がない。能登半島、金沢の街、広く石川県の寒さは、今時(4:52)、どれほどのものであろうか。もちろんその寒さは、わが想像の埒外にある。
スマホでは飽き足らず、パソコンで高音を響かせ覚えたてで歌った『金沢望郷歌』は、現在は悲しく、心中で声なく歌っている。日本全国に名勝を轟かせ、一方他郷では名を知らぬあちこちの名勝地を詩(うた)に織り込んだ曲は、聴くに耐え得る望郷の和みと切なさを奏でてくれる。それゆえにこの歌は、当該地の人たちならず他郷の人たちにさえ、望郷つのる愛唱歌となっているようである。
石川県のほぼ全域が酷い震災に見舞われて、日々死亡者数の増加が伝えられてくる。こんなおり、取ってつけた如くあわてふためいて、この歌をハミングする私は、とんでもないバカ者である。確かに、平時に聴き、そして歌えば、こよなく望郷つのる愛唱歌である。しかし今は、哀愁帯びたセレナーデ(悲歌)を響かせる。
きのう(1月16日・火曜日)の夕方、NHKテレビの普段の番組にあっては、突如けたたましくアラーム(警報)が鳴った。またもや、地震警報である。私はぞっとした。そして、私はすぐに安堵した。警報は石川県における発生(余震)を伝えていた。「私はすぐに安堵した」。この表現は私にかぎらず、人間の咄嗟の浅ましさであろう。恐怖感を緩めて私は、聞き耳を立てた。アナウンサーは職業柄特有に、いくらかわざとらしく恐怖感を煽り、早口大声で対応策を告げ出した。その多くはすばやく逃げるように繰り返した。またもや、わがへそ曲がりの心根が蠢いた。(被災地の人たち、とりわけ避難中の人たちは、逃げようないではないか)。すると、アナウンサーの声は恐怖のいや増しにすぎない。アナウンサーの声はまさしく、尋常が異常に変わるが地震の恐ろしさである。アナウンサーも伝えることに必死であり、もちろんありがたく思うこそすれ、煽りを責めることはできない。被災地や避難者は、恐怖に怯え、じっと成り行きを見守るしかできない。やがて、突如のアナウンサーの声は消えて、いつもの男女ひとりずつのアナウンサーの姿が現れて、番組は正規画面へ戻った。それでもわが心境は、かなり長い時間、平常心を失っていた。
「能登半島地震」は、はからずも「阪神淡路大震災」をよみがえらせている。阪神淡路大震災は、かつてのこの日、今ちょうどの時刻(5:45)に起きた。確かな日は、平成7年(1995年)1月17日である。そして、再び繰り返すと発生時刻は、午前5時45分である。震源地は兵庫県南部と刻まれている。このときの私は、被災地における被災者のひとりに数えられていた。当時の私は、勤務する会社(エーザイ)の大阪支店(中央区淀屋橋)において、社業に就いていた。妻と娘は共に、アトピー性皮膚炎の治療中にあり、「かかりつけの医院がいい」ということで、転院を拒んだ。仕方なく私は、会社に対して規則破りの特別のはからいを願い出た。会社は特段の配慮してくれた。すなわちそれは、単身赴任の許可であった。勤務地は大阪市のど真ん中であったけれど、私は兵庫県尼崎市東園田町に住んだ。実際には会社が単身赴任者用に借り上げた、未だ真新しい5階建てのマンションだった。ここで私は、阪神淡路大震災に遭遇し、被災者に数えられたのである。
会社にあっての私は、震災後の社員の安否確認や、当面の復旧作業に追われた。多くの社員は、兵庫県に住んでいた。私は被災地に住んではいたけれど、実際のところは被災者とは言えなかった。なぜなら、家財は散乱したけれど、身体は無傷だった。だから、震災体験者ではあるけれど、被災者の本当のつらさとは無縁である。それゆえにいっそう、能登半島地震の恐ろしさが身に沁みている。想像出来ない恐ろしさは、いまだ未体験のゆえであろう。
「東日本大震災」(平成23年・2011年、3月11日午後46分)は、ふるさとへ帰省中のため逃れた。わが故郷「熊本地震」(平成28年・2016年、4月14日21時26分)は、テレビニュースに右往左往するだけだった。これらの地震を鑑みてもなぜか、このたびの能登半島地震の恐ろしさと、悲しさ、つらさがわが身を覆っている。なぜだろうか? それはやはり、この時期の日本海から吹きつける寒さが想像できないせいであろう。きのうに続いて、能登半島、金沢の街、あまねく石川県の天気と、寒さが気に懸かる夜明け前である。つらいつらいは、わが身ではない。
この冬一番の寒い朝、思いは石川県、能登半島へ駆けめぐる
1月16日(火曜日)。現在のデジタル時刻は、未だ夜明け前の真っ暗闇にあって、5:01と刻まれている。起き立ての洗面にあって私は、いつものように水道の蛇口をひねり、身構えた。水に指先を当てると、冷たさで全身がブルった。水の冷たさから寒さは、この冬で一番だろうと実感した。周辺やパソコン部屋に、寒暖計はない。寒暖計で計らずも、体感により気温は、この冬で最も低いことが実感できる。それでも一桁の気温くらいで、もちろん氷点下ではないはずだ。文字どおり荒波荒ぶる日本海へ突き出す能登半島の冬の寒さは、私にはまったく想像さえできない。それゆえにいっそう、被災地と被災者へ思いが駆けめぐる。しかしながらそれは、なんら役立たずの空念仏である。嗚呼、すまない。テレビニュースの映像を観るかぎり、被災地と被災者の苦悩はいや増すばかりであり、いやいっそう深みに嵌って行くように見える。映像を眺めるだけのわが身は切ない。元日の発生からきのうで、早や半月が過ぎた。未だに、余震への怯えは絶えない。
能登半島はこれまで、幾多の歌謡の名曲を生んできた。能登半島の日本一美しい棚田風景は、他郷とはいえわが故郷のように常に心中に浮かんでいる。石川県と言えば、観光の名勝は兼六園をはじめどこかしこにある。きらびやかでかつ清楚な友禅流し。海産物旺盛に並ぶ市場もある。加賀百万石の殿様は、名にし負う「前田侯」である。縁もゆかりもないけれど、私の場合は、47都道府県の中にあっては群を抜いて親しみを覚えている。だから心中、石川県には様々な場面に関心を持って、遠吠えにすぎない声援を続けている。先日行われた都道府県対抗女子駅伝にあっては、石川県代表の五島梨乃さんが1区を快走し、栄えある区間賞を取った。テレビ桟敷に陣取ったわが声援は、終始尽きなかった。現在行われている大相撲初場所においては石川県出身の二人の力士、すなわち新入幕の大の里と、人気を誇る遠藤の活躍が目立っている。二人にもまた、わが声援は尽きない。
これら三人はインタビューでは異口同音に、「石川県と被災者の励ましのために……」と言って、涙声がとつとつと溢れ出た。今朝の能登半島の気温は氷点下を表し、日本海から吹きつける風の冷たさは、被災者の身に沁みているであろう。それなのにこのところ、「二次避難」という、聞き慣れない言葉がニュースに飛び交っている。つらいなあ……。いや、つらいのは、私ではない。
人の命、わが命
日々ふと、わが年齢(83歳)を思はない日はない。思えばそのたびにぞっとする。いつ何時、どうこうしてわが命は、果てるのだろうか。今さら、果てることに恐れはない。ひたすら恐れることは、命の果てかたである。もんどりうって果てることだけは、まったく御免蒙りたい思いである。このことは、このところの私によりついている願望と妄想である。
人にはだれしも、平等に生きる権利がある。しかしながらその権利は、必ずしも平等には果たせない。震災をはじめとする天変地異がもたらす天災、そして事件・事故の絡む人災、ほかでもあまた日々、人の命は脅かされている。中でも、お釈迦様が諭す四苦、すなわち「生老病死」は、人ゆえの悲しい宿命である。そして、人の命にあってもっとも厄介に思えるものには、順番を問わない「老少不定」がある。人の命の儚さ、さらには果てかたの不平等さは、まるで雨後の筍のごとくきりなく、メデイア報道によって垂れ流されてくる。それは人の命の儚さの伝達であり、かつまた不平等な果てかたの確かな証しでもある。それゆえに人の世界には様々に古来、無病息災を願う催事や祭事が神仏頼りに行われてきた。もとよりおまじないとは承知の助で、現在もなお歳時(記)として営まれている。すべてこれらは手間暇かけて、あるいは多額の金銭を費消してまでも営む、遣る瀬無い習わしである。すると歳時(記)とは、人間に付き纏う「煩悩晴らし」の一覧表なのかもしれない。
きょうは1月15日(月曜日)、新年も早や中日にある。机上の小さな卓上カレンダーには、「小正月」と添え書きされている。小正月にちなんで、子どもの頃の小正月を顧みれば、こんなことが心中によみがえる。いずれも、新年にからむ楽しい思い出である。
元日の雑煮用の餅は暮に搗いてほぼ食べ尽くし、家人は小正月用の餅は新たに搗いた。保存剤はもちろんのこと、冷蔵庫などない当時は、餅に生える青カビには往生していた。青カビが目立ち始めた餅は、神棚に上げるには気が留めたのであろうか。家人は新たに、小正月用の餅を搗いた。そのときには再び、大きく平べったい鏡餅も搗いた。小正月には元日同様に、雑煮が食卓にのぼった。
このしきたりとは別に小正月には、「どんど焼き」が地区ごと行われた。わが家が存在する「山下地区は」は、わが家の裏を流れている「内田川」の河川敷の中に、どんど焼きが作られた。村人たち総出で里山から切り出して来た青竹や雑木を用いて、手っ取り早くどんど焼きは出来上がった。そして、離れて回りを取り囲んだ衆目の中にあって、待ちかねていた火がめぐらされた。けたたましい轟音を響かせて燃え盛り、白い炎はゆらゆらと大空へ昇った。火の気が燻り始めるとどんど焼きを囲む山下地区の老若男女は、われ先(わが家先)に長い青竹の先っぽに挟んだ餅を先出し炙り始めた。こののちはそれぞれが、青竹の先に挟んだほどよく焼き焦げた餅を肩に担いで家路に就いた。どんど焼きは、残っていた正月用品、門松、しめ縄、書初めの半紙などを焼き尽くした。火の始末は、村人たちが終えた。どんど焼きの謂れなど、当時の私は知る由ない、楽しい行事だった。
今にして思えば、楽しんでばかりはおれない、無病息災を願う切ない行事である。どんど焼きで焼いた餅を食えば、年中の病を除くという(電子辞書の記述)。昨年の暮れから私は、またまた歯医者通いを始めている。詰め歯が突如、欠け落ちたからである。だからこの間の私は、元日にあっても雑煮餅さえ遠のけている。いやそれ以来餅は一切、わが食品の埒外にある。
きょうは心躍る、新たな入れ歯が嵌めこまれる日である。僥倖すなわち思いがけなく、小正月に間に合ったようだ。歯医者から帰れば、おそるおそる1個だけでも、餅の試し食いができそうである。両耳にはこれまた昨年末から、それまでの安価な集音器に代えて、補聴器を嵌めている(購入価格40万円余)。
歳時(記)にまつわる数あるおまじない、さらには多額の金を費やしても、いずれわが命は断たれる。いずれとは、ほんのわずかな間である。ほのぼのと日本晴れの夜明けが訪れている。嘆くまい。
冬の雨
1月14日(日曜日)。雨戸を閉めず、カーテンも掛けない前面の窓ガラスには、起き立てに外気を窺う役割がある。夜明けにあっては太陽(朝日)の匙加減にともなう、天気模様を知ることができる。ところが、夜明けの頃(6:15)にあっても、いまだ真っ暗闇である。ゆえに、気に懸かる夜明け模様を知ることはできない。仕方なく私は、パソコンを起ち上げる前に、側近の窓ガラス開いて、直下の外灯の灯る路面を見遣った。おやおや、予期していた跳ね返る雨脚はない。雨の跡形の照り返る濡れもない。霙の後の恐れていた雪はもちろんのこと、小雨さえ降った様子はない。願ったり叶ったり。だけど、寝起きのわが心境は、なんだか狐につままれた面持ちである。
就寝前に玄関ドアをちょっぴり開けて、外を覗いてみた。すると、霙が降っていた。霙は雪に変わるのかな? それとも雪にはなり切れず、あとずさって雨になるのかな? (いやだな。寒いなな……)。私はトントンと二階へ上がり、共に分厚い毛布と冬布団の二枚を身体に重ねて、急いで寝床を作り潜った。身体が温まるまでは一切動かず、隙間風を断った。ようやく身体が温まり冷えていた気分が落ち着くと、こんなことを心中に浮かべていた。(冬の雨は、春雨、夏の日照り雨(狐の嫁入り)や夕立、そして秋雨などとは違って、なんらの詩心やロマン心など生まず、ただ冷たく寒いだけだな!)。
ここまで書いているうちに前面の窓ガラスには、はっきりと空模様が分かる夜明けが訪れている。夜明けの空は、太陽の恵みは今一つだけれど、それでも霙、雪模様、そして雨を蹴散らしてのどかな曇り空である。しかしながらわが身体は、寒さでぶるぶる震えている。この時期、寒気や冷気は仕方がない。なぜなら、季節の足取りは週末へ向かい、土曜日(20日)には、寒気の大底と言える「大寒」が訪れる。
このところの私は、休み続けていた怠け心を恨むかの如く向きになって、だらだらと長い文章を書いた。ただ、わずかに一週間余にすぎない。だけど、向きになっていたせいか、いやに心身が疲れている。確かにこの無茶な行為は、老齢の私には身の程知らずの無駄な抵抗であり、半面「年寄りの冷や水」とも言えるものだった。そのため、きょうの文章は尻切れトンボをも構わず、恥をさらけ出しても、疲れ癒しにここで結ぶこととする。身勝手を恥じてこの先は、しばし机上に頬杖をついて、ぶるぶる震えることとなる。駄文ゆえに表題は雨には縁なくも、いっとき心中に浮かんだ「冬の雨」でいいだろう。あれれ! 太陽は満天に日本晴れを恵んで、大空はキラキラと眩しく光っている。だらだら文は、また長すぎた。ひどく、疲れるかな?。
人生行路は、岐路多い茨道
人生行路には、数々の大小の岐路が訪れる。大袈裟すぎて言い換えれば、日暮らしにあってもしょっちゅう、なんらかの岐路が訪れる。岐路とは文字どおり、本道から逸れる分かれ道である。実際には本道を歩いていて、岐路(分かれ道)に差しかかる場合が多い。分かれ道が何本もあれば立ち止まり、どちらの道を選ぶかという、咄嗟の決断(選択)が必要となる。選択を誤れば仕方なく岐路(分かれ道)へ戻り、新たな決断(選択)をしなければならない。繰り返すと岐路とは、進む道の分かれ道である。人生行路にとっては、極めて大きな分かれ道である。机上に置く電子辞書を開いて、語句の復習を試みた。
【篩(ふるい)】:「粉または粒状のものをその大きさによって選り分ける道具。普通、曲げ物の枠の底に、馬の尾・銅線・絹・竹などを細かく格子状に編んで作った網を張ったもの。とおし」。
私にはこんなたどたどしい説明文は必要ない。なぜなら、農家出身の私は、篩は日常茶飯事に目にし、実際にも家人や、家事手伝いのおりの私は、篩を用いていたからである。このときの私たちは、傷物と無傷のものとを選び分けをしていた。そのとき用いていた篩は、おおかた枠が円いものだった。もちろん、枠が正方形のものや、長方形のものもある。大きくて長方形の篩は、花壇づくりの土の選り分けなどで見かける場合がある。篩を含む成句としては、「篩に掛ける」、「篩い落とす」などが、日常語として用いられている。
篩に掛けて、篩い落とされるものが人であれば、泣くに泣けない哀れ者となる。しかし、人の場合は、捨てられることはない。篩い落とされないようにするには、ただしがみつくだけでは無駄な抵抗である。そうならないようにするには、不断からかなりの努力をしておかなければならない。雑穀の場合は、選り分けて傷物は、おおかたその場で捨てられる。しかし、人の場合は捨てられることない。しかしながらいっときは、捨てられた気分になる。それは、岐路や選択(試験・テスト)についてまわる宿命である。
きょう(1月13日・土曜日)は、あすと二日間にわたる令和6年(2024年)の「大学入学共通テスト」の一日目(初日)である。日本列島の地域によっては、あいにく降雪予報が出ている。受験生が、受験へ向かう交通機関は大丈夫だろうか。「能登半島地震」における被災地区の受験生は、大きなハンデイキャップを負って、テストに臨むこととなる。試験・テストには必定、限られた合格枠に競争相手がいる。だれかかが篩い落とされることには忍びない。けれど、判官贔屓のごとく、出足をくじかれている受験生の奮闘を願うところである。人生行路は、岐路多い茨道である。
空威張りの神仏
1月12日(金曜日)、新年も早や、中旬へめぐっている。春待つ心も老齢の身には、翳りと澱みをおぼえている。わが2か月余の怠け心を、カレンダー上の新年の「仕事始め」にことよせて捨て去り、私は再始動を試みている。そして、ヨロヨロと1週間(7日)繋いでいる。しかし、「惰性にすがる継続」は心許なく、未だ闇の中である。
きのうの「鏡開き」にあっては案の定、餅入り雑煮にはありつけず、予想どおりに買い置きの「ナス入り味噌汁」が運ばれてきた。文句はご法度に、笑顔で「ヨシヨシ」と、ハミングしながら食べた。私は、野菜にあってはナスが一番の好物である。汁に浮かぶナスの姿とは生身には程遠く、小さくぐにゃぐにゃとしわがれた乾物だった。それでも、ちょっぴりナスの舌触りにありつけた。
さて私は、新年の上旬10日間にあって二度までもわが家から遠く、鎌倉市街にある「鶴岡八幡宮」(以下八幡宮)へ歩いて行った。このことはすでに文章のネタにしており、二番煎じとなる。記述の一部を繰り返すと一度目は、車と人の行き交う古来の「鎌倉街道」を歩いた。二度目は、わが家からすぐに上れて近道の、山中の「天園ハイキングコース」の一部を下った。着いたところはどちらも、初詣や参拝客がごった返す八幡宮である。
生前のわが父は、子どもの私に常々、判官贔屓で源義経のことを話した。現代風に言えば父は、わがトラキチ(気狂いのタイガースファン)さながらの「義経ファン」だった。判官贔屓は、よくもわるくも高じていた。なぜなら父はわが名には、白拍子(遊女・現代の芸妓か?)にもかかわらず、「静御前」(義経の愛妾)から一字の「静」を拝借し、その下にわが兄弟の符号とも言える「良」を加えたと、言っていた。このことでは鎌倉にわが終の棲家を構えて、かつ八幡宮との出合は、わが身に余るうれしい奇跡でもある。それゆえに八幡宮への親しみはいっそう増して、参道を踏むたびに父の面影が髣髴とする。うれしくて、わが心が和むひとときである。
だからと言って不断の私は、八幡宮にかぎらず、神様頼みのみならず、仏様すがりは一切無縁である。この理由は、神仏とは名ばかりで、小さい願いさえ叶えてもらえず、まったくあてにならないからである。ところが一方、参道や境内は老若男女相集う、娯楽場と思えば楽しめるところはる。奇麗に玉砂利が敷かれ、鳥居や神殿は朱で塗られ、周囲の木々は神々しい雰囲気を盛り立てている。あちこちに立ち並ぶ屋台もまた、祭り仕立てで人出の盛り上げ役をになっている。
私の場合、二度の八幡宮行きは初詣やお参りではなく、三が日に鈍った足慣らしが目的だった。ところが多くの参拝客は、近郊近在から押し寄せて、初詣と神様頼みのお参りのようだった。賽銭の投げ入れだけでは心細いのか多くの人たちは、おみくじを引いたり、絵馬を買ったりしていた。全景が見えないほど大きな賽銭箱は底深く、硬貨にかぎらずあまたの紙幣を呑み込んでいた。神心をもたない私は、賽銭箱の中のお金の胸算用を試みていた。お参りや賽銭投げ入れの光景は、八幡宮にかぎらず日本列島津々浦々の神社仏閣で行われていたはずである。
明けて、日本列島の十日間は、あちこち震災、あまたの災難に遭っている。それでも神仏の施しはなく、かぎりなく無情である。神仏と崇められて、元手要らずにかき集めた賽銭だから、震災の被災地や被災者にたいして、先頭切って施していいはずである。ところが、それらのニュースは一切聞かずじまいである。神様、仏様へ、お願いします。「賽銭をむしり取るばかりではなく、お隠れにならないでください。堂々の施しの出番ですよ!」。
日本晴れの夜が明けている。神仏の無情とは違って、こちらは無言で無償の恵みである。
愛おしい、わが命
1月11日(木曜日)、夜明け間近にあって、私は生きている。眠気眼であっても、目覚めたことは善いことだ。私は、机上カレンダーをしばし眺めている。新年いや正月(1月)のカレンダーには、古来の催事や祭事、すなわち歳時(記)の添え書きが並んでいる。それゆえに、カレンダーを見るだけで心中は、にぎにぎしく和んでくる。正月にかぎり、おのずからカレンダーのもたらす和みである。実際のところきょうには、似たものの二つの歳時(記)が相並んで記されている。どちらも、新年の門出を祝う古来の習わしである。一つは「蔵開き」、そして一つは「鏡開き」である。長く生きているからどちらも、知りすぎている歳時(記)ではあるけれど、眠気覚ましに電子辞書を開いた。
【蔵開き】:「新年に吉日を選び、その年初めて蔵を開くこと。多くは1月11日とし、福神に供えた鏡餅で雑煮を作ったりする。倉は、ものをしまっておく建物の意で広く使い、蔵は大事なものを保管しておく建物で、日本式の土蔵に言うことが多い」。
【鏡開き】:「開きは割の忌み詞。①正月11日ごろ鏡餅を下げて、雑煮・汁粉にして食べる行事。近世武家では正月に、男は具足餅を、女は鏡台に供えた餅を、正月20日(のち11日)に割って食べたのに始まる。具足餅:戦国時代以後、正月に甲冑に供えた餅。②祝い事に酒樽の蓋を開くこと。鏡割り、鏡抜き」。
凡庸な頭脳の私は、知りすぎている事柄であっても、たえず生涯学習の範疇にある。この文章にあっては、これまでのことはどうでもいい付け足しにすぎない。なぜなら、正直なところ祝い事の気分にはまったくなれない。
現下、日本の国の世相は、年明け早々(元日)からただならぬ難事に見舞われて、けたたましい喧騒の渦の中にある。究極には人の命が絶たれたり、脅かされたりしている。実際、元日以来一旬(きのうの10日まで)、余震を含めて来る日も来る日も国民は、地震に怯える日が続いている。なかでも、「能登半島地震」がもたらしている災難現場の惨さは目に余る。行方不明者にともなう累増する死亡者数、ライフラインを断たれて、生き延びの恐怖におののく被災、避難の人たち、被災地はすべてが修羅場にある。新潟県ではかつての「新潟地震」の恐怖を髣髴する、震度5の地震が再び起きた。幸いにも被害状況はないけれど、かつての恐怖はぶり返している。
これらの天災に比べれば被災はかぎられるが、元田中角栄総理の旧宅は、火災で丸焼けになった。なんらかの(線香?)火の不始末と伝えられている。天災および人災ふりかかる中にあって、日航機と海自機にかかわる羽田空港の混乱(絶命と逃げ降り)もあった。有名人の病没(中村メイコ、八代亜紀ほかあまた)のニュースも絶えない。さらに、事故・事件などふりかかる災難は尽きることがない。
【命あっての物種】:「何事も命があって初めてできるものだ。死んでは何もできないから、命を大切にしなければいけないということ」。
不謹慎だけれど、やけにこんな成句がわが身に沁みる。それゆえ現在の私は、不断の「ピンピンコロリ」の願望は抑えている。なぜなら、生きているだけでも無限の僥倖であり、利得でもありはたまた美徳である。だから、わがケチなわが命でも、粗末にできない。
夜が白み始めている。まもなく、朝御飯にありつける。歳時(記)知らずの妻は、雑煮には縁なく、たぶん買い置きの「即席味噌汁」を添えるはずだ。それでも、生かされているから私は、妻にたいし「文句」は言わない。
中国、木村様からの航空便・年賀状
大陸と言おうか、異国と言おうか、ずばり中国からはるばる飛行機で、わが手に届いた葉書を眺めている。文面は何度も読み返している。葉書であるゆえに短い文章である。しかしながら、異国で書かれた文章はありがたく、かつ興味津々である。限られた狭いスペースには細字で、優しい人情が詰まり溢れ出ている。それは、中国で教師生活をされている木村様からいただいたお葉書である。本来、いただいたお葉書にははがきで、あるいは便箋に綴った封書や手紙などで返礼すべきこととは心得ている。それが可能なようにお葉書には、木村様の現住所が書かれている。それなのに私は、無礼にも今回もまた掲示板上に、短く葉書程度の返礼文を書いた。この無礼な行為に対して私は、心中にはかたじけない思いがいっぱいである。
掲示板上で書かざるを得なかったことには、こんな理由がある。わが人生83年間、私は航空便などまったく用無しに過ぎてきた。だから、生き恥晒しの上にさらに、私には無知ゆえの航空便に対する怖がりがある。端的に言えばそれは、書かれている住所あてに返礼文を書いても、届くかどうかの疑念だった。世の中では猫も杓子も、いや老若男女あげて、グローバル(地球規模)の往来が盛んである。それなのに私は、航空便にさえ恐れ慄いている。大きな恥晒しだけれど、確かなことだから隠すことなく晒している。一方では独り善がりに、掲示板上でも無礼でないかな? と、思うところがある。なぜなら木村様は、掲示板が恵んだ今や親しいご友人である。そのうえ友情は、一方的にいただくお便りで深まっている。これまでの私は、木村様との出会いはなく、掲示板を通して賜っているたなぼたのご友諠である。
私は物心つき始めのころの幼心さながらに、物珍しく中国からの航空便の外形を眺め尽くしている。はがき一枚とはいえ、未知の物を眺める好奇心が沸き立っている。心中では日本の官製はがきを浮かべている。ちなみに、手元にある日本の年賀はがきと重ねてみた。すると外形は、年賀はがきよりいくらか小形である。そして、紙質は硬めである。郵便マーク(〒)も郵便番号もある。書かれている数字は、〒330013の6桁である。鎌倉市の場合は〒247-0053の7桁で、日本とは桁数が異なっているにすぎない。5枚貼られている官製切手は、日本とまったく同形である。5枚の切手には、それぞれ1元と、印字されている。2023.12.23.15と、刻印されている数字の上には、丸印で黒く消印が押されている。切手は、中国郵政CHINA発行の中国の美景シリーズらしくて、「大陸」の風景が描かれている。最上部には赤インクで、航空信・日本・年賀と、記されている。木村様は、年賀状としてくださったのである。以下には木村様のお許しを得ることなく、文面の一部を原文のままにお借りいたします。「無事に前便が届いたことを嬉しく思います。きっとこのハガキが届く頃には、掲示板の記述も復活されていると、拝察している次第です。遠い異国の地で学生たちと学びながら、前田様の文章を拝見するのを楽しみにしておりますので。小生、こちらで年を越します。」
わが返礼のお便り:わが家に航空便が届いたのは、きのう(1月9日)です。木村様の励ましにあって、おりよく掲示板上には、長く途切れていた文章を再始動させています。異郷における疲れ癒しには程遠い雑文だけど、寸暇にお読みください。帰国を延ばされている日本は、元日から災難多く喧騒しています。元日には「能登半島地震」があり、きのうは新潟市で震度5の地震がありました。元田中角栄総理の旧邸が火災で、丸焼けになりました。わがふるさと県・熊本の華、歌手八代亜紀さんが急逝されました。異国・中国における木村様のご健勝を祈念いたします。敬具
ああ、人間!
元日に起きた「能登半島地震」(石川県を中心に多大の被災)の惨状はあまりにも酷すぎて、日本国民の悲しみは極限状態にある。悲しみの癒えるめどは、未だにまったく無い。無情にも時は悲しみを置き去りにして、日々春へ向かって移りゆく。震災現場にはときには雪がちらつき、また、北陸特有の日本海のもたらす寒気が襲っている。テレビが映し出す惨状を観るだけでもこの光景には、万物の霊長と崇められるゆえの、人間の悲しさとつらさが付き纏う。それなのに、被災の人たちへの支援は、遅遅として進まない。これまた、人間ゆえの限界であろうか。特にわが身は、犬の遠吠えのごとくに何らの役立たずで、無事を祈るしか能はない。ただただ、悲しく、わが身が哀れである。
ところが私は、まるでこんな心境が嘘ごとのように、能天気に文章を書き始めている。きのうの「成人の日」を含む三連休が明けて、多くの人たちはきょう(1月9日・火曜日)あたりが、新年の仕事始めであろう。なぜなら私の場合も、実際のところはきょうを初日にして、新年の日常生活が動いて行くこととなる。現在の私は、職業はもとよりささやかな社会活動(ボランティア)さえ無縁にある。やることは唯一、この先を生きるための活動だけである。これに加えて望むことは、叶わぬことと知りながらも、無病息災の日暮らしである。
卓球クラブが存在する「今泉さわやかセンター(鎌倉市)」内には、新年にあって七夕飾りを真似て、短冊が下がっていた。その下には無地の短冊や小筆が置かれ、こう書かれていた。「新年にあって、あなたの望むことを自由に書いて、吊るしてください」。吊るされていた短冊の多くには、ずばり「この一年が、健康でありますように……」とか、あるいはこれに類する語句や言葉が書かれていた。私はもっとズバリに、「今年中には死なないように……」と、書いて吊るした。実際に浮かべていたのは、「ことしもタイガースが優勝してほしい……」というものだった。けれど、センター内にはジャイアンツファンが多いゆえに、これはわが心中だけに吊るし、あえて健康を望むみんなの仲間入りをした。
きのうの成人の日は、麗らかな春日和だった。思いだったが吉日、私は鶴岡八幡宮行き(6日)をこの日、再び敢行した。私はあてにならない神頼みに硬貨(10円)を投げ入れて、二度も願う馬鹿ではない。実際のところは正月三が日におけるカタツムリのように動きのない生活、さらには七草粥も無縁に過ぎたことによる、戒めの散歩代わりだった。
鶴岡八幡宮までたどったコースは変えた。6日の場合は、車および人の行き交う王道の鎌倉街道を歩いた。ところがきのうは、山中道の「天薗ハイキングコース」の一部を下った。久しぶりに踏んだ山中道は、想定外に荒れていてとことん難渋した。しかし、歩く老身に降りかかる暖かい木漏れ日は、こよなく老心を癒した。山中道は近道でもあり、鎌倉街道行に比べれば、歩数と距離を三分の一ほど縮めてくれる。安きに身を置いて、身体解しの目的からはかなり外れて、かなり損をした気分だった。
ところが、境内へたどり着くとたちまち、損な気分は十分取り返された。私は、「牛タン」の幟はためく屋台前に立ち並び、700円を前渡し、焼き立てほやほやの牛タン串(大玉の6連)をもらい、日陰を避け日向を選んで頬張った。突っ立て、食べながら参道を眺めていた。わが目は、綺麗な日本髪と和服姿の二様を捉えていた。一つは、お父さんとお母さんの手に繋いだ「七五三参り」の姿の七歳くらいの女の子だった。一つは、なり立ての新成人(20歳)の初々しい晴れ姿だった。
きょうの文章は、きわめて不謹慎だったのかもしれない。だから私は、「能登半島地震」の余震の鎮静と、被災地の早い復旧、さらには被災者の安寧を願っている。もちろん死者には、哀悼の黙祷を捧げている。始動はじめたわが日常生活にあってきょうあすは、病院通いの連チャンである。鎌倉地方の日本晴れが切ない。
成人の日
令和6年(2024年)の「成人の日」(1月8日・月曜日、祝祭日」が訪れている。成人の日を最終日とする三連休の終い日でもある。今さらではあるけれど、成人の日にちなんで、1年前の旧聞を紐解いている。令和5年(2023年)以降の成人式の開催について:令和4年(2022年)4月1日から、成年年齢を20歳から18歳に引き下げる民法の一部を改正する法律が施行されました。鎌倉市は、これまで毎年1月に成人を迎える方の門出を祝う「成人のつどい」を開催していましたが、成年年齢引き下げ後も、20歳を迎える方を対象にします。なお、式典の名称を「成人のつどい」から「二十歳のつどい」に変更します。都道府県の各自治体の施行もおおむね、似たり寄ったりであろう。
人生行路は命の誕生から最期まで、すなわち生涯の時の刻みである。実際には年齢を加え、数えながら歩みゆく。そのために、歩みの節々には簡単明瞭に何何歳代という「年代」が用いられている。18歳、20歳。確かに、自分にもあったけれど、今や遠い彼方の夢まぼろしである。
ゴボウは、末に向かってだんだん細くなる。玉ねぎは、皮を剥くたびに小さくなる。私は、図体は変わらずも、命は縮んでゆく。それでも私は、83歳まで生き長らえている。ああ、よかった。夜明けの空は、満天の日本晴れである。