ひぐらしの記

ひぐらしの記

前田静良 作

リニューアルしました。


2014.10.27カウンター設置

内田川(熊本県・筆者の故郷)富田文昭さん撮影

 

「死期と死に方」、気になる死に方

 1月27日(土曜日)、現在の時は、日を替えたばかりの頃にある。このところの書き殴りの長文を真摯に詫びて、今の私は、心して短い文章を書く心づもりをたずさえている。
 きのうは月に一度の補聴器の定期調整のために、はるばる神奈川県横須賀市内の大津町まで出向いた。高価な買い物のため、まるで車検みたいなものだな! と思って、私は渋々出かけた。遠いところで買ったことでは、今なお私は、「牛にひかれて善光寺参り」の心境にはなれていない。いや、横須賀市内に住む娘に拿捕されて、無理矢理娘の行きつけの店(眼鏡市場)へ連れて行かれた思いに苛まれている。娘の勝手な言い分はこうである。
「こうでもしないかぎり、頑固な父親(肥後もっこす)は安価な集音器で我慢して、よく聞こえる補聴器に買い替えない。だからわたしには、父親思いの優しさがある」。
 だけど、わが思いは、娘の騙し討ちに遭ったようなものである。もちろん連れて行っただけで、娘が買ってくれたわけではない。高価の支払には、日々細り続けるわが身銭をはたいたのである。高価な補聴器は、わが残余の命にどれほど貢献できるだろうか。元が取れるだろうか。実際のところはこの先わが命短く、銭失いになりそうである。娘が読んだら目を剥きそうな、書くまでもないことを書いた。ここらあたりで止めないと、また長文になりそうである。くわばら、くわばら……。だからこの先は、きょうの主題に切り替えて書くけれど、愉快なネタではない。
 絶命は人間であるかぎりすべてに訪れ、かつ老少不定のさだめにある。絶命にはだれしも、抗うことはできない。そしてだれしも、「死期と死に方」を気に懸ける。とりわけ、小心者の私は心中、日々こんな思いを浮かべている。(死期の訪れは仕方がない。だけど、死に方が気になる)。もちろん、浮かべてどうなることでもない。だから、なさけない無駄な想念であることとは知りすぎている。そのうえこの思いはわが身だけではとどまらず、茶の間でひねもす相対する妻へもふりかかる。
 おととい(1月25日・木曜日)書いた文章、すなわち『消えゆく同期入社の仲間』にあっては、同期入社のひとりの訃報のことを書いた。前に届いていたふるさと情報では、生まれてこの方までの友人、渕上喜久雄君の訃報を知った。そして、日を替えたばかりの先ほどには、スマホメールでまた新たな訃報が届いた。それは大学時代において、7人の親友グループを成す中の、ひとりの訃報だった。枯葉が道路に落ちるのを掃くのはわが日課である。所を変えて時を変えて、仲間と親友の命がまるで、枯葉のごとくに落ちてくる。わが身には、残る者の寂しさと侘しさがつのるばかりである。
 死期はともかく、私はどんな死に方をするだろうか。私は浮かべても、どうなることでもないことを浮かべている。補聴器と入れ歯を外した。寝床に入っても、当分寝付けそうにない。もちろん、寒気のせいではない。

予告の降雪予報の採点

 1月26日(金曜日)、起き立て(4:27)にあって私は、こんな想念を浮かべている。冒頭から記しているけれど、きょうの文章にあっては、付け足しの番外編にすぎない。寒気はすでに過ぎた「大寒」(1月20日)を底にして、春へ向かって擂り鉢の底を這い上がるどころか逆に、なお奥の大底を探るかのような無茶苦茶ぶりである。しかしながら私は、(バカにするな!)と声なき声で、寒気を懲らしめることはできない。いや私には、暴れん坊のなすがままに、じっと耐えるしか能がない。
 さて、掲示板上に書いているわが文章は、行替えのない書き殴りである。このため、ご好意で読んでくださる人たちには、きわめて読みづらいものである。これには、こんな理由がる。掲示板の文章は、大沢さまのご厚意に授かりのちには、まずは「ひぐらしの記」のブログに、こちらは行替えをされて移記される。そして次には、これまた大沢さまにはさらなるご面倒をおかけして、栄えある製本(単行本)へ編んでくださっている。この間には私は、大沢さまから「行替えなしがし易い」という、サゼスション(示唆)を賜っている。もとより私は、この示唆に逆らうことはできない。なぜなら、起き立てに書き殴るわが文章はいずれ、わが生来の夢のまた夢、すなわち壮丁奇麗な「単行本」へと、なり替わるのである。もちろん叶わなぬことだけれど、こんな僥倖にありついていることを草葉の陰の父と母が知れば、私をしっかり抱いて喜ぶこと請け合いである。
 しかしながら一方、ご好意で掲示板を覗いてくださるご常連の方々には、読みづらい書き殴りにすぎない。ところが、きのうの私は、読みづらさの典型とも言える、長文をだらだらと書いてしまった。400字詰めの原稿用紙にすれば5枚強(2000字を超える)の長さだったのである。きょうの私は、まずはこの無礼を詫びる心づもりをたずさえていた。ところがあにはからんや! きょうの文章もまた、きのうの二の舞になりかけている。
 きのうの私は、まったく久しぶりに掲示板上のカウント数をメモした。その理由には二か月余の空白のせいで、自業自得とはいえカウント数は激減をこうむっているはずだと、思っていたからである。ところが幸いなるかな! カウント数の激減はまのがれて、いやそれどころか思いがけない数を数えたのである。だからこのことにはひれ伏して、ご常連のかたがたにたいし、感謝と御礼を記すものである。またな長々と書いて、読みづらい文章になりかけている。ゆえに、ここらで結文にするのが本当の詫び心であろう。
 しかしながら、予告していたこのたびの降雪予報の結末を素通りしては、わが身は廃りさらには「噓つきカモメ」に成り下がる。それを避けるために私は、降雪予報の当たり外れ、すなわち採点を試みる。先回の降雪予報は、追試に耐えないほどの赤点丸出しだった。しかし、降雪予報は外れてこそ、歓迎すべきところがあるから厄介であり、別物の予報とも言えるところがある。外れてももちろん、気象庁や気象予報士への非難は埒外にある。
 さて、このたびの降雪予報にたいするわが評価は、気象庁や気象予報士にたいしてはかろうじて合格である。能登半島を中心とする震災被災地における降雪予報は、幸いなるかな! 赤点すれすれだった。ところが、赤点を補って合格点へ持ち上げたものには、これら二つの雪降り情景三つほどの雪降り情景がある。必ずしも降雪予報どおりの日本海添いの地方ではなかったけれど、一つには名神高速・関ケ原インターチエンジ道路(岐阜県関ケ原町)付近における5キロに及ぶ車の立ち往生情景があった。二つ目には滋賀県米原市における、多雪からもたらされた人々の難渋ぶりの情景があった。これら二つは、NHKテレビニュースの映像から観た雪降り情景である。三つめは、思いがけないふるさとの雪降り情景であった。こちらはテレビ映像には現れなかったけれど、ふるさとの生家を守る、亡き長兄の後継者(長男)の妻からのLINE送りによる三枚写真と、平洋子様からの掲示板上へのご投稿文によるものだった。能登半島を中心とする震災被災地の降雪予報が、いくらか外れたことで合格点とはいえ、赤点すれすれだったことでは、私には気象庁と気象予報士をなじるつもりはさらさらない。雪模様のない、あさぼらけが訪れている。しかし、寒気が身に沁みる。

消えゆく同期入社の仲間

 1月25日(木曜日)。現在は、真夜中あたりにある。日常生活におけるごく身近なところで、食品には「賞味期限」と「消費期限」が表示されている。一方、これまた身近なところで、医薬品や医薬部外品には「使用期限」が表示されている。双方共に私は、スーパーなどでの買い物のおりや、はたまた調剤薬局でもらうときなど、あるいはドラッグストアで買うときには、これらの表示は気にしない。ところがまた双方共に私は、こんなときにはかなり、それぞれの期限表示を気に懸けている。すなわち食品の場合は、食べる前には賞味期限と消費期限を確かめている。薬品の場合は、これまた使用期限を確かめている。もちろん、「残り物には福がある」からではない。買い置きや、もらい置き、すなわち在庫があるからである。共に、「残り物には害がありそうで」、期限切れが気になるからである。だからと言ってケチな私は、とことんこれらの表示にこだわってはいない。もとより薬品ではしないけれど、食品の場合は期限切れであっても、ムシャムシャと食べている。それでもこれまでのところは、食中毒は免れている。
 閑話休題。きのう(1月24日・水曜日)には突然、同期入社のYさんから電話を戴いた。用件は、同期入社のひとりであるTさん(83歳)の訃報を知らせてくれるものだった。顧みれば同期入社の数は、大卒にかぎれば50数名だったように思う。電話のやり取りの中でYさんは、「みんな亡くなっていくよ。残っている人はもうあまりいないね。それらの中で元気な人は、渡部さんと前田さんのふたりくらいだね。前田さんは相変わらず元気でしょ?……」
「Yさんからは、早々に年賀状をもらってありがとう。ぼくは書かずじまいで、後出しになり、ごめんね。そう元気でもないけれど、今、卓球クラブの練習から帰ってきたばかりです。Yさんは、元気そうですね!」
「いやいや、前田さんも知ってのとおり、たくさんの病で苦しんでいますよ。前田さんは、まだ、卓球やっているの? 元気じゃないの……」
「ほんとに、渡部さんはとても元気です。渡部さんとはぼくの文章書きや、Yさんも知っていると思うけれど、渡部さんの郵便局回りなどをとおして、日々交流があります。いやぼくは、渡部さんにはすごく助けられています」
「前田さんはまだ文章を書いているの? 自分も教えてもらって以降、読んでいたけれど、途中からどこに書いているのかわからなくなり、もう書いてはいないんだなと思って、そのあとは読んでいないよ」
「そう、ありがとう。だけどもう、読まなくていいよ。とぎれとぎれになりかけているから……」
 渡部さん(埼玉県所沢市ご在住)は、「ひぐらしの記」や掲示板ではすでにお馴染みなので実名を用いた。いや、実名で書かずにはおれなかった。渡部さんはわが文章が途絶えるたびにパソコンメールで、こんな激励メッセージを送信してくださっている。「前田さん。このところ文章を見ないけど、どうかしているの? 毎朝、君の文章を読むは、自分の楽しみのひとつです」
 渡部さんは同期入社の誼(よしみ)をはるかに超えて、人間味いや人間の優しさがあふれて、わが崇敬するひとである。もちろんこのことは渡部さんの優しさの番外に位置しているけれど、渡部さんには「ひぐらしの記」にあっては、創刊号から発行されたばかりの直近の第89集にいたるまでのすべてを、有料購入にあずかっている。だからこれまた、渡部さんにかかわる、書かずにおれないことの一つである。
 現下の渡部さんは、首都圏(東京都、埼玉県、神奈川県、千葉県)にある、大小すべての郵便局をまるで、しらみつぶしのごとくに訪ね歩かれている。驚くことなかれ! 渡部さんは、わが住宅地にある個人商店みたいなちっぽけな郵便局にさえすでに訪れ済である。そして現在は、ひときわ広域自治体である千葉県を日々、はるばる所沢市から回られている。Yさんが言う「元気な人は渡部さんと前田さんのふたり」とは、実際のところ私の場合は、渡部さんの足下にも及ばないものである。
 賞味期限や消費期限、いや命だから使用期限が妥当と思えるけれど、わが命はとうに使用期限切れにある。Yさんの誉め言葉にはうれしいと言うより私は、同期入社の仲間が消えゆくことぞっとした。こののちの私は、Yさんからの電話のことを伝えたくて、渡部さん御宅の固定電話の呼び鈴を鳴らした。ところがあいにく、呼び鈴は鳴りっぱなしのままで、肝心の渡部さんを呼び出してはくれなかった。たぶん渡部さんは、千葉県の九十九里浜海岸沿いの小さな郵便局回りをされていたのかもしれない。
 きのうの関東地方は、雪こそ降らずじまいだったけれど、身に沁みる寒さだった。わがふるさとのきのうの雪景色風景は、亡き長兄の後継者(長男)の妻から、三枚の写真付きでLINEで送られてきた。そして、とどめのふるさとの雪降り情景は、平洋子様から賜ったのである。
 この文章はとっくに使用期限が過ぎたわが命を惜しんでだらだらと書いた、エンドレスになりかけの長文である。さむいなあ……。日本列島のあちこち、やたらと雪が降っている。あしたは降雪予報の結末を書くことになるかもしれない。

気に懸かる、再びの降雪予報(震災被災地)

 1月24日(水曜日)。私はいつもの習わしにしたがってパソコンを起ち上げると、すばやくメデイアが伝えるニュース項目の一覧を瞥見した。ほかのニュースは、ニュース内容(本文)までを読むことはなかった。ところが、後段に記す一点のニュース(引用文)は本文を開いて、恐怖感をつのらせて目を凝らして読んだ。きょうはわが文章にあらずして、ニュース項目からの引用である。だからと言って、疲れ癒しにお茶を濁しているわけではない。いやいや、震災被災地にからむ降雪予報であれば他人事ではなく、私は気に留めずにはおれなかった。すなわち私は、北陸地方(石川県、富山県、福井県)、中でも石川県を中心とする震災被災地における降雪予報(降雪と積雪)を甚く慮ったのである。先回の降雪予報はおおかた外れて、大過なくすぎた。それゆえに天邪鬼の私は、外れたことがうれしくてそののち、いくらかからかいの文章を書いた。それは気象予報にかかわることや、もっとあからさまに気象予報士の職業にたいし、かなり皮肉めいた文章だった。できれば今回もまた、明後日(1月26日・金曜日)の文章では、降雪予報の外れを喜ぶ文章を書きたいものである。そして、幸いにも今回また外れれば、こんどは気象予報士に留まらず、いっそう皮肉まじりに気象庁を称えたり、詰ったりする文章を書きたいものである。なぜなら気象庁は、今回の降雪予報においては「災害級の警報」と言って打ち鳴らし、すでに国土庁と相並んで事前の記者会見を開いて、大いなる注意を呼び掛けている。日本地図をもとに東から北から、かつ西から南にかけて、帯び長く日本海側に存在する自治体に色塗られた降雪予報には、石川県あたりに飛びっきり濃い色が塗られていた。このことこそ、今回の降雪予報にたいし、私が震え怯えている「大本」である。
 さて、以下は「ウエザーマップ」が報じる引用文のあらましである。【日本海側中心に 25日(木)にかけて大雪・高波に警戒 太平洋側の平地でも積雪のおそれ】(1/23・火曜日、18:05配信)。「25日(木)にかけて、東日本から西日本の日本海側を中心に大雪となる所がある見込み。大雪や路面の凍結による交通障害に警戒が必要だ。北日本や北陸は、高波にも警戒が必要となる。また、北日本から西日本の日本海側は、落雷や竜巻などの激しい突風に注意が必要だ。日本付近には25日(木)にかけて、上空およそ5500メートルに-40℃以下のこの冬一番の強い寒気が流れ込み、冬型の気圧配置が強まる見込み」。
 「柳の下にいつもドジョウはいない」。私は、またいてほしいと願っている。

わが劣等の元凶は「脳髄」

 この世に呱呱の声を上げて以降こんにちにいたるまで(83歳)、私はあらゆる面において劣等感情ではなく、正真正銘の劣等につき纏われている。二字の熟語に置き換えればそれは「生来」と言える。再び置き換えれば、「生まれつき」である。確かに、生まれつきの劣等を悔いるようではバカ丸出しである。しかしながら私は、常々悔いている。だけど、どうにもならない。だから、劣等をカムフラージュして、できるだけ楽天家を装ってみる。しかしながらこれまた、生まれつきの精神惰弱のせいで、常に劣等に脅かされている。まさしく私は、どうにもならないことを悔い、嘆いている「大バカ者」である。
 確かに、生まれつきの劣等はどうにもならない。そして、それを悔いてもまた、どうにもならない。幸いにも身体には、劣等を自覚したり、自認するところは少ない。体躯は、人並みに生まれついている。それでも欲を言えば、10ないし15センチほど高い身長に恵まれたかった。わが生まれつきの身長は170センチほどである。だから、中・高校生時代の部活のバレーボール部にあっては、身長のことを思い続けていた。しかし、身長は伸びなかった。
 児童、生徒、そして学生時代にかけては、近眼が進むにつれて(死にたい!)と呟いては、絶望感にうちひしがれていた。人生の晩年にあっては、すでに白内障の手術を終えて、現在は緑内障の進行経過を見るために、半年ごとの通院を余儀なくしている。まさしくエンドレス、通院のデッドライン(死線、最終期限)は、文字どおりわが命の絶え時までである。
 わが両耳は、日々難聴に脅かされている。ところが幸か不幸か、こちらには(死にたい!)という、思いは免れている。いや、(できればもっと生きたい!)という、思いが渦巻いている。その表れには年末にあっての私は、それまでの安価な集音器に換えて、高額の補聴器を買った。この買い替えには、苦悩ばたつく思案をめぐらした。なぜならそれには、今はやりの「コストパフォーマンス」(元をとれるかどうか?)、すなわち、可否や是非の選択がつき纏っていた。実際のところ私は、まもなく命絶えるのに40万円強を掛ける必要があるやなしやという、切ない自問自答の呻吟に苛まれていた。生まれつきの醜面や醜男は、もちろん大損である。だけどこれこそ、悔いて嘆いてもどうなるものでもなく、ばかばかしさがつのるだけである。結局、わが身を苛む劣等のすべては、脳髄の貧弱さと乏しさに起因している。それゆえに私には手に負えない。いや、診療科あまたにわたる掛かりつけの医師であっても、まったく手に負えないものである。
 さて、人生の晩年にあって日々、私が悩まされているものでは、デジタル社会からこうむる様々な難儀がある。逆に言えばデジタル社会に精通や適合が叶えば、現下の私の悩みの多くは雲散霧消することとなる。しかしながらそれは叶わず、ゆえにわが日常生活は暗雲に覆われている。その元凶は、劣等な脳髄である。具体的には、パソコンおよびスマホ操作共に、いまだにひよっこのヨチヨチ歩きさながらである。それでも頼らざるを得ないデジタル社会は、わが精神を日々疲弊させている。脳髄劣等の「恨み骨髄に徹す」ばかりである。
 寒気が緩んでいる。そのせいか、バカなことを長々、だらだらと書いてしまった。脳髄および指先共に、劣等の証しでもある。

起き立ての下種の一念

 1月22日(月曜日)、夜明け間近に起き出している。起き立てにあって未だ暗い中、一基の外灯の光を頼りに私は、カーテンと窓ガラスを開いて外を見た。霙や霰、雪も雨もない。寝起きの気分が落ち着く、静かな夜の佇まいである。前週末の二日にかけての降雪予報は見事に外れて、老夫婦の日常は身構えていた雪の日の難渋な生活を免れた。あえて、「見事に」と記した。もちろん、予報を外した気象予報士を嘲ったわけでなく、いや逆にかぎりなく崇めたい心境(気分)の表れである。
 生誕地・熊本における子どもの頃とは違って老いの身の私は、チラチラとちらつくくらいの雪降りだって、まったく望んでいない。だから、雪模様を免れた前週末の二日間の私は、カタツムリのごとくに茶の間のソファに背もたれていても、内心には明朗快活気分が溢れていた。
 気象予報士という職業は、高給を得てなおかつ、予報が外れても文句を言われるどころか、私の場合はいっそう誉めそやしたい気分である。それゆえにわが感慨には、(いい職業だなあ……)と、羨むところがある。いやズバリ、憧れる職業(仕事)と言っていいのかもしれない。もちろん気象予報士になるには、超難関試験を突破しなければならない。それにもかかわらず就活にあって人は、意を決して憧れの気象予報士という、職業へ立ち向かうのであろう。もちろん空夢であり、正夢にはありつけないけれど、再び職業選択の機会があれば私とて、何度落ちても受験へ臨むであろう。へそ曲がりの私の悔いごと多い述懐である。それほどに気象予報士は、私には到底叶わぬ憧れの職業である。なぜなら、当たっても外れても損のない、そしてなおかつ高級を食み、専門家として特段に崇められる職業(仕事)である。降雪予報の外れくらいであっても、こんなに気分が弾んでいる。するともし仮に、地震予報の外れであった場合の私は、気象予報士を現人神のごとくに崇めて、額づいては合掌を繰り返すであろう。気象予報士という職業は、予報が外れても敵愾心を被ることは稀である。いや、万々歳である。
 夜明けて、満天にのどかなあさぼらけが訪れている。このところの私は、いたずらに長い文章を書き続けて疲労困憊にある。それゆえにきょうは、心身休めにこれで結文とする。表題のつけようはないけれど、何かを考えよう。

実のないごちゃまぜの文章

 1月21日(日曜日)。きのうの「大寒」を過ぎて気象は、この先の春へ向けて、いよいよ「擂り鉢の底」を這い上がる。だけど、その歩みはチンタラチンタラであり、たったの一日の経過くらいでは、寒気の緩みは感じられない。寒気は未だ、大寒の中にある。気象とて駆け上がる虫けらのごとくに、途中でずり落ちたり、転げ落ちたりする。春待つ人間にすればそれは、思いがけない寒気のぶり返しであったり、時ならぬ雪降りへの遭遇である。天界のことにしろ、人間界のことにしろ、物事は筋書きどおりに進むことはきわめてまれである。おとといの気象予報士は、きのうときょうにかけての降雪予報をしでかした。あえて、「しでかした」と書いたのは、わが咄嗟の悪知恵である。
 真夜中(2:12)にあって私は、掛かるカーテンを撥ね退けて、しばし窓ガラス際に佇み、目を凝らして外気を確かめた。すると小雨が降っていて、道路の濡れが一基の外灯の光で照り返された。この先、小雨が雪に変われば、気象予報士の予報はぴったしカンカンとなる。職業柄、心ある気象予報士は、気を揉んでいるかもしれない。いや、「気象のことなど、おれの知ったこっちゃない!」。気象予報士はこう嘯いて、轟々と寝息を立てているかもしれない。
 職業柄とは言っても、確かに気象のことに気を揉むことは馬鹿げている。なぜなら、気象予報は当たるも八卦、当たらぬも八卦。すなわち、もとより気象予報には確率という、逃げ道が用意されている。机上の卓上カレンダーにはきょうは、「初大師」という添え書きがある。私には何のことかわからず、電子辞書を開いた。「初大師:その年の初めての弘法大師の縁日」。すると、信心ある人はきょうには、新年になって初めての「お大師さん参り」をするのであろうか。私には要のない歳時(記)である。
 私の場合は、父、母、長兄、二兄、三兄、四兄、そして唯一の赤ん坊(生後11か月)の弟、はたまた、長姉、二姉の命日さえおぼろである。加えて異母と、それが産んだ6人の兄姉の命日ともなれば、残されている「命日一覧表」にすがるしかない。もちろん今や、これらにお墓参りは叶わず、翳る面影を浮かべるにすぎない。だから私には、他人の「お大師さん参り」など、まったく要無しである。
 文章書きにおけるわが60(歳)の手習いは、すでに70歳代を経て、80歳代へ進み現在は、83歳を数えている。こののち手習いは未完成のままに、まもなくわが身は棺の中に横たわる。「生涯は長い」と言う人がいる。けれど、私はそうは思わない。私の場合たぶんそれは、60の手習いさえ果たせず、命が尽きそうだからであろう。もっと具体的に言えばそれは、「ひぐらしの記、夢の100号の製本(単行本)」は、果たせずじまいになりそうだからである。
 きのうの掲示板上には「現代文藝社編集室だより」として、主宰者の大沢さまより、「ひぐらしの記89集」の発行案内が載った。もとより、わが書き殴りの文章を大沢さまのご厚意で、編まれ続けている製本(単行本)である。これにちなんで私は、類語を浮かべて電子辞書を開いた。それらの語句は、刊行、出版、上梓などの類である。なぜなら私は、これらの語句には違和感をおぼえていた。そして、当を得た「発行」に安堵した。発行であれば単に、製本(単行本)になっただけでのことであり、頷けるところがある。
 「夢の100号」、確かにそれを叶えるには、もはやわが命は足りそうにない。気力にはすでに翳りが見えている。生来の怠け心は安楽を貪り、2か月余の空白を招いた。そしてこののちの再始動は、2週間余で早や息切れ状態にある。だから、60の手習いの未完成と生来の怠惰心を重ねて鑑みれば、「夢の100号」までの残りの11集は、夢のまた夢、夢まぼろしである。
 立って再び、窓ガラスから外を覗いた。小雨のままである。ごちゃまぜの文章はここで閉じないと、身体ふるえるままにいたずらにエンドレスになりそうである。デジタル時刻は、3:32と刻んでいる。

一枚の静かな雪景色の写真

 1月20日(土曜日)。机上の卓上カレンダーには、「大寒」と添え書きがある。母が山芋を擂粉木で擂る擂り鉢の輪を私は、共に睨めっこしながら押さえていた。擂り鉢にたとえれば、大寒は文字どおり「寒気の底」である。おりしも、甲信越にとどまらず関東地方の南部にも、きょうあすにかけて降雪予報が出ている。気象予報士は、とりわけ山沿いの降雪確率の高さを付言した。予報が外れなければ鎌倉の尾根の一部を切削し、新たに開いた宅地に建つわが家は、先頭を切ってこの冬の初雪を被るかもしれない。平地では東京の街にも、2,3センチの降雪予報が出ている。しかしながら、能登半島、石川県のほぼ全域、さらには近接する富山県の一部の震災被災地の難渋を思えば、おのずから私は、わが家への降雪にたいする怯えを禁じている。不断は日本の国有数の観光地や雪景色を誇る被災地の現状を、テレビニュースの映像で観るだけでもわが心は、ひどく萎えてくる。だからと言って、目を逸らすことはできない悲しい情景である。
 こんなおり、一枚の雪景色の写真にわが心を和ませるのは、確かに大いなる不謹慎であろう。いやいや、情け知らずのバカ者であろう。それでも、写真を眺めていると、この文章に書かずにはおれないものがある。それは、掲示板上掲の一枚の写真を眺めることから溢れ出る思いである。もちろん、写真を眺めれば一目瞭然のことだけれど私は、拙い文章であっても臆せず、現在のわが心象(心境)を綴りたくなっている。
 上掲の一枚の写真は、山あいの鄙びた風景を醸す、静かな雪景色の特写である。撮影者には、大沢さまの唯一の弟様のお名前が銘記されている。以下はわが知るところを、お許しを得ずに弟様の人となりと、併せてご一家の様子を記すものである。間違いを記して大沢さまのご気分を挫き、さらには弟様の名誉を汚したとすれば、真摯に謝まることは覚悟の上である。弟様は人生の半ばほどしか生きられず、究める道の初途に逝かれたようである。大沢さまご一家は、ひとそれぞれにあらゆることに、才多いひとたちばかりである。亡きお父様は絵画の教育者である一方で、絵画と並んで陶器もまた、適地を選んで「望月窯」を構えられている。そして、どちらもプロフェッショナルの身に置かれていたのである。たぶん、写真技術にも造詣深いものがあったのであろう。すなわちこれは、並べて芸術家然である。亡きお母様は、ちょっとした手書きにさえ、文才が冴えわたっていた。大沢さまの多才ぶりは、絵画、陶器、写真はもとより、文才は群を抜いて「埼玉県文学賞」の受賞はじめとして、幾多の名著(単行本)を上梓されている。ところが、これらだけではなく現在は、単独に「現代文藝社」を主宰されて常々、まったく利益なのない同好の士の施しに懸命である。お二人の妹様のことはほとんど知る由ないけれど、伝えられる野菜作りや園芸の才能はずば抜けていてこれまた私は、才多いご一家の証しを見させてもらっている。
 さて、弟様は東京理科大で学び、そして将来の道と願望には、陶芸と写真家が相並び、さらには大沢さま同様に文筆を究められるはずだったのであろう。ところが弟様は、若くして逝かれて、ご一家は惜しまれる逸材を失くされたのである。つらいことだけれど四季折々に替わる、掲示板上掲の弟様遺作の写真は、そのたびにわが心を和ませてくれるのである。だからこの文章は拙くも、そのお礼にかえるものである。私は掲示板を開くたびに、「一枚の静かな雪景色の写真」をしばしじっと眺めては、気分を和めてキーを叩き始めるのである。
 NHKテレビニュースが映す、被災地の汚れた雪景色は、不謹慎ながら今は観たくない。夜明けの空は、どんよりとした雪模様である。鎌倉の雪降りなど、被災地を思えば恐れることを禁じている。

他郷・能登半島に馳せる、わが思い

 1月19日(金曜日)。起き立ての現在(5:09)、鎌倉地方は寒気が緩んでいる。これだけでも、極端に寒がりやの私には、棚ぼたに思えている僥倖である。しかしながら現在の私は、わが身にかかわる寒気の緩みばかりを望んではいない。いや、わが身は寒気に震えても天の配剤により、能登半島を中心とする被災地の寒気が緩んでほしいと、願っている。もちろん、「鬼の目にも涙」、とは言いたくない。実在する、優しい人間の涙である。老い耄れのわが身にもまだ、人間らしい慈愛の心が残っている。おのずから、ほっとする。
 人間は、知らぬ者同士のもたれ合いで、生きている。なまじ、不断知り合っていると、要らぬ羨望や僻み総じて邪気が生じて、純粋のもたれ合いや互いの慈愛の心は翳りがちになる。ひるがえってこれすなわち、隣近所の助け合いより、ボランティア精神にこそ、人間の尊厳さと活動の有難味が存在する。いずれはわが身もまた、震災には遭わなくとも、どんなかたちでか? 他人様から思わぬ慈愛を賜ることとなろう。老いの身につきまとう悲しさである。
 現在、被災地の寒気は緩んでいるであろうか。私は、そうあってほしいと願っている。なぜなら、きのうのNHKテレビニュースの映像には、わが身に堪えるこんな映像が流れてきた。私は目頭に涙を溜めて、荒ぶる日本海に突き出ている能登半島の寒気を思いやった。もちろん、居もしない想像上の鬼の涙ではなく、老いの身のわが目頭に溢れる涙だった。「フローリングや板張りの床は、何枚も何枚も毛布や布団を重ねて身を覆っても、からだが冷えます」と、言われた避難者がおられた。一方では冷えを防ぐために、段ボールだけを用いて、大急ぎでベッドづくりに励まれる人の姿が現れた。こちらは「すべて、段ボールだけでの作りだけど、150キロの体重にも耐えられます。床に敷物を敷いて寝るより、暖かさは特段です」と、作業員のひとりが言われた。こののち、作り立ての「段ボールベッド」に寝転んでほほ笑む、若い女性の姿が映し出された。民放テレビの広告宣伝一辺倒の念入りにこしらえた画像ではなく、NHKテレビニュースが報じた、ありのままの被災地状況の一端である。どちらの映像もわが目がとらえて、私は被災地の寒気の緩みを願った。観終えると、溜まって溢れ出そうになっていた涙が、茶の間の畳の上にポロポロと落ちた。
 板張りに据え置くガスストーブは、熱すぎるほどにわが身と妻のからだを温めていた。能登半島は雨降りでもいい。いっときでもいい、寒気が緩んでほしと願う、夜明け前にある。ほとほと、切ない一文である。いや切ないのは、寒気に震える被災地、被災者、はたまたフローリングや板張りの床に寝泊まりする避難者たちである。
 きょうもまた、わがネタは能登半島である。ネタぎれでも、もう能登半島のネタは望んでいない。能登半島はわが心中の美景であってほしい。願うはただ一点、このことだけである。

わが終の棲家は、せつない

 1月18日(木曜日)。嗚呼、わが身体には焼きが回っている。目覚めて二度寝にありつけず、仕方なく起き出している。寒気は緩んでいる。太陽は隠れているけれど、それでも味方している。震災被災地もこのところより、寒気は緩んでいるはずだ。そうあってほしいと、私は願っている。せつないわが願いである。
 デジタル時刻はいまだ真夜中の一定時、すなわち2:50を刻んでいる。わがキー叩きは学童の頃の「綴り方教室」における、鉛筆の芯を舐め舐めしながら書いた速度よりなお遅い。司令塔を自認する脳髄の指令に、生来不器用の指先が応じず、駄々をこねているからだ。(指先が俺は、脳髄の家来ではない!)と、真似て蟷螂の斧を擡げているのかもしれない。それゆえにたぶん、この文章が結文にありつける頃には、白々と夜が明けるであろう。この間に仮に、地震に見舞われたらアタフタとふためきそうである。なお運が悪ければ尻切れトンボのままに、この文章はわが遺稿になるかもしれない。そんなことはもちろん、知ったこっちゃない。もとよりきょうの文章は首尾、雑文んの入り交じりである。それは、時間潰しのゆえの悲哀である。時間潰しにつき合ってもらうことでは、友情に背くことになる。けれど、竹馬の友のよしみで許しを請うものである。もちろんそれで、83年間の友情が壊れることはない。
 竹馬の友のふうちゃんは、わが窮地のおりには常に、すばやく助け船を漕いでくれる。この文章では、ふうちゃんの人となりを記そう。掲示板上のペンネーム「ふうたろう」の実名は富田文昭君であり、そしてわが呼ぶ愛称は「ふうちゃん」である。見返りに彼は、私を静良君と言ったり、ときには「しいちゃん」と呼んだりする。共に生きてきた83年間、愛称が蔑称に代わったことなど一度もない。このことは、共に「誉れ」である。友人や友情に優越はつけたくない。けれど私は、ふうちゃんに対する憧れがある。なぜなら、ふうちゃんは生まれながらに才能を持っていた。小・中学校時代の運動会における、徒競走の編成は6人組だった。このときのふうちゃんは常に先頭を走り、両手を広げてトップでゴールテープを切った。しいちゃんはいつも、ふうちゃんの背中を追っかけた。しかし、幸いにも対校の400メートルリレー競技において私は、4人走者のメンバーに選ばれた。だけど私は、追い抜くことは必要ない、追い抜かれるな! という繋ぎ区間の第二走者だった。一方のふうちゃんは、リードしていればそのまま走り切り、遅れていれば追い抜くことを使命とされる第四走者だった。中学時代の部活は共に、バレーボール部でこれまたまた対校試合に臨んだ。ところが高校時代のふうちゃんは、生来の頑丈な体躯をなお鍛えるために、柔道部へ鞍替えした。薄らバカのしいちゃんは、一緒に登下校するにもかかわらず気づいてなかった。ところがふうちゃんは、このころから将来を見据えていた。高校を卒業するとふうちゃんは、柔道で鍛えた体を遠方の未知の大都会、すなわち大阪府警に投じたのである。そして、辣腕刑事に変じたふうちゃんは、府民の人望と信望を得たのである。ふうちゃんの終の棲家は大阪府にあって、今でも枚方市に住んでいるはずである。ところが最近、住処を変えたと言うから、おそらくどこかに新築を建てたか、あるいはどこかの億ションを購入し、住み替えているのかもしれない。年賀状のやり取りはしていないので、住所の詳細は不明である。もちろん電話で聞けばわかることだけれど、羨ましさだけがつのって聞けない。ふうちゃんは、ふたり兄弟の長男である。ここまで、富田文昭君、愛称「ふうちゃん」の人となりを記した。
 きのう(1月17日・水曜日)の私は、風がやんでが日光が暖かくふりそそぐなか、卓球クラブの練習に向けて、長い下り坂を下った。道すがらの雑草や雑木は芽吹き始めていて、見渡す周囲の見渡す杉林には、出番を待つ杉花粉が茶色に色づき始めていた。それらを見遣りながらわが心中には、こんな切ない思いが膨らんでいた。(おれは、こんなところで死ぬのか。なさけないなあ……、つらいなあ……。おれはもうふるさとへは帰れない。老いの身が拒むのだ。帰っても、迎えて会話を愉しむ、長兄はもういない。甥や姪はいて、ふるさと便を絶え間なく届けてくれる。確かに、帰れば歓迎してくれて、楽しい。しかし、おのずから長兄とは別物である。帰ってもかしづくところは、風すさぶ野末の丘にある墓の前である。そうであればやはり、心中の思いだけで、出会いを愉しもう。なぜなら、心情の醸す出会いの楽しさは、褪せず尽きないからである。
 このところの私は、郷愁、懐郷、思郷、とりわけ望郷まみれにある。能登半島の寒気が気に懸かる夜明け前である。いや、時間潰しを試みても、夜明けはまだ先にある(4:42)。