ひぐらしの記
前田静良 作
リニューアルしました。
2014.10.27カウンター設置

内田川(熊本県・筆者の故郷)富田文昭さん撮影
訃報メール
6月6日(木曜日)。梅雨の合間の晴れ、曇り、五分五分の夜明けが訪れています。朝寝坊をしたため、文章は書けません。ひとしきり、哀しい望郷に瞼を濡らしています。
きのうは甥っ子から、訃報メールが届きました。異母長姉の長男(福岡県大川市在住・享年89)の永別の知らせでした。故人は風貌がわが父親に似て、そして私は、家族に「もっとも、故人に似ている」と、言われ続けていました。うれしい言葉でした。ゆえに生前の故人には余計、親しみ感が増幅していました。とても、心根優しい人でした。私より年嵩(としかさ)の甥っ子はあと一人、姪っ子はあと二人います。いずれも、異母兄姉が恵んだ心根優しい人たちです。ただこちらには、私自身の訃報が先立ちそうです。訃報メールには、通夜は今晩、葬儀は明日の正午、とありました。生きている私はこの時間、年長甥っ子の生前の面影を浮かべて祈ります。こんなことを書いて、すみません。時が過ぎてもいまだ、どっちつかずの空模様です。
迸(ほとば)り出る「驚異」
6月5日(水曜日)。のどかに晴れた朝ぼらけの夜明けにある。わが寝起きの気分は、自然界の恵みにおんぶに抱っこされている。しかし、現実にはわが気分は、日々萎えてゆくばかりである。現象的には、こんなことで萎えている。すなわち、わが脳(精神力)は劣化し、妻の体(身体力)は衰退を極めてゆく。共に、抗(あらが)えない高齢の哀しい夫婦事情である。だからこのことに関しては、かぎりなく驚異をおぼえている。
きのう、現代文藝社(大沢さま単独主宰)から、直近発行の「流星群51号」が届いた。受け取るたびに、わが驚異はいや増すばかりである。実際には、大沢さまのあふれ出る才能、そして強靭な精神力、かてて加えて書き手(作者)にたいする優しさへの驚異である。これらのことを書かずにおれなくて、きょうの私はいつもとは違って、勢い込んでパソコンを起ち上げている。久しぶりにネタに恵まれている。
「ひぐらしの記」においてはこれまで、「流星群」およびその妹編「流星群だより」については、繰り返し発行の経緯(いきさつ)を記してきた。しかしながらまた、書かずにはおれない現在のわが心境である。本編・姉編の「流星群」は、半年ごとに発行されている。そして、「流星群だより」もまた、この間隙を突いて、二度発行されている。ところが、これまでの「流星群だより」に加えて、このところは「流星群」までもが掲載料無料という、ただ働き(大沢さまの無償の奉仕)にあずかっている。さらには出来立てほやほやの両誌の郵送料は、元から自己負担(大沢の自腹)にさずかっている。書き手にとってはまさしく、大沢さまは崇め尽きない女神である。これらに加えてなお、驚異いや増すところは、発行年月の長さである。すなわち、大沢さまのたゆまぬご奮闘の証しである。今回の51号は、如実にその歳月の長さと、その間の奮闘ぶりの証しを成している。すなわち、途中一度さえ切れることなく、長期すなわち25年半におよぶ発行である。
繰り返し記すと大沢さまは、何たる才能と精神力そして優しさの持ち主であろうか。私は大沢さまのご年齢を知ることはないけれど、ご高齢のほどは確かである。ゆえに、驚異いや増すばかりである。稀なる才色兼備の大沢さまに出会えて、幸運にもわがしがない人生は、潤沢にありついている。不断の私は、当てにならない神様頼りは無縁である。しかし私は、当てになる女神(大沢さま)だけは、常に当てにしてすがっている。気持ちの好い一文を書いて私は、いっそう心のどかに朝日輝く大空を眺めている。
「歯と口の健康週間」
6月4日(火曜日)。夜来の雨が空気を浄めて、満天青空の夜明けを恵んでいる。つれて、わが寝起きの気分は爽快である。これぞまさしく、自然界の無償の恵みである。いっとき指先を休めて、堪能しなければ大損々である。しばし、カレンダーを眺めている。すると、きょうの日には「歯と口の健康週間」と、添え書きがある。あまりにも皮肉めいていて、私は悔しさをつのらせては呆然としている。
先週、私は上の最前(真ん中)の前歯を損傷した。諦めきれずに鏡で、今なおそのところを何度も見ている。上下をそろえるとその部分だけが、まるでふるさと「阿蘇山」の噴火口みたいに、「ぽっかり穴」を成している。しかし、予約通院はほったらかしにしたままである。そのわけは、一つには痛さがないこと、そして一つは、もはや修復のしようはないだろうという、自己診断のせいである。
恥を晒して、損傷(崩れ欠け)状況を再現(現場検証)すればこうである。私は大好物の「井村屋のアズキキャンデー」を、普段の習わしにしたがって食べていた。アズキキャンデーはもとより氷菓子であり、石ころに匹敵するほどに固く凍結している。ゆえに食べ方の常道は、最初はゆっくりと舐めながら、しだいに溶けてゆくものを最後には噛んで、腹の中に納めるべきものである。ところがこのときの私は、逆行をしでかしたのである。たちまち、歯が数個に割れて、口の中と足下に崩れ落ちたのである。万事休す。悔しさつのる「後の祭り」である。
悔しさまぎれにまたまた私は、カレンダー上の添え書きを恨めしく眺めている。このところの私は、文章は休みがちになり、書けばなさけない文章ばかりを書いている。かつて私は、ある人とこんな会話を交わしたことがある。
「毎日、私は文章を書いています」
「前田さんには、毎日、書くことがあるんですね。よく書けますね。わたしは、はがき一枚も書けません」
いよいよ、私も書けない状態に陥っている。なさけない歯の損傷がネタになるようでは、確かにわが文章はどん詰まりである。気晴らしは、指を休めてまたまた青空眺めである。爽快な気分は、翳り始めている。
「嘆き文」、続編
6月3日(火曜日)。気象庁の梅雨入り宣言を誘うかのような、梅雨空模様の夜明けが訪れています。いやまもなく、入梅宣言がありそうな、確かなシグナルです。自然界はみずからのしでかしを、「鬱陶しい」などと泣き言など言わずに、季節に応じて穏やかにめぐっています。幸いなるかな! 私も、梅雨の季節を鬱陶しいと、思うことはありません。この思いは、農家というわが出自がもたらしています。生誕の地、今やふるさとは現下、田植え真っ盛りの季節です。雨(天水)の多い梅雨という季節がなければ、農家(農民)は、降るあてどのない神様すがりの「雨乞い」までしなければなりません。確かに今では、私はまぼろしの農家育ちになっています。それでもやはり私は、梅雨を毛嫌いすることはできません。序文にさえにもならないことを書きました。唯一の取り柄は、生きて目覚めている証しにすぎません。
このところの私は、高年齢と命の限界が邪魔をして、まったく士気が上がりません。その証しにきのうは、「嘆き文」を書きました。ところがきょうもまた、書くまでもない文章を書き始めています。明らかに、きのう続編に成り下がっています。おのずから気分が滅入り、この先は余儀なく書き止めです。「生きているだけでも幸せ」という思いをつのらせて、しばし士気の高揚に努めます。詫びて、あしからず。
世の中の人様の生き様模様を見聞すれば、確かに身体息災に生きていることは幸運です。やや、精神(力)がめげています。梅雨空模様は、夜明けが過ぎて明るみ始めています。
6月、初っ端の嘆き
現在、6月のカレンダーを眺めています。きのうの初日(6月1日・土曜日)は、月替わりにもかかわらず休みました。いつものずる休みではありません。いや、月替わり特有に、勢い込んで書こうと思っていました。ところが、気分が殺がれて書けなくて、休みました。きょう(6月2日・日曜日)もまた、きのうの延長線上にあって、気乗りがしないままにパソコンを起ち上げています。おのずから、文章が書けません。夜明けの空は、気象庁の梅雨入り宣言を速めるかのような、梅雨空模様です。だからと言って、鬱陶しさはありません。いやいや、この時季のふるさと情景が沸々とよみがえる、のどかな夜明けです。窓ガラスを通して眺めている山の法面のアジサイは、色彩を帯び始めています。私は自然界の恵みに浸っています。それでも、文章が書けません。たぶん、高齢という強者(つわもの)に襲われ、さらには夫婦共に高齢を生きる、わが家の身辺事情の難儀に脅かされているせいでしょう。だとしたら、きのうやきょうにかぎらずこの先、もう文章は書けません。かてて加えて私には、厄介な日常生活に立ち向かう気力がありません。「前田さん。何でもいいから書いてください」。大沢さまのご好意に背いて、こんなことまで書くようでは、もうお終いです。朝日は、気象庁の入梅宣言を先延ばしにするかのように明るさを増しています。自力叶わず、自然界の恵みに縋る私は弱虫です。季節は強虫(ムカデ)が寝床周りに這いずる頃になりました。私には、これまた厄介です。
賜った「美しい、水田風景写真」
5月最終日(31日・金曜日)。台風の接近にともなう大雨予報に背かず、夜明けは雨が降っている。この雨は、気象庁の梅雨入り宣言を誘い出しそうである。この時季の雨はどちらかと言えば歓迎し、もちろん恨みつらみはない。だから雨に遭遇し、気分が萎えることはない。なぜならこの時季、日本列島津々浦々にあっては、雨(天水)を頼りにする田植えが真っ盛りである。しかし、雨のせいではなく、寝起きのわが気分は萎えている。その原因は、きのう書き直しを含めて二度にわたり書いた文章は、わが指先の不始末で没し、挙句恥を晒したからである。そのこともあってきょうは、端から文章を書くつもりはなかった。確かに、書くつもりのない文章は書けない。ところが現在の私は、このことだけは書かずにおれない気持ちに苛まれている。それはすなわち、大沢さまのご配慮に背いては、お里が知れて罰が当たる思いだからである。結局、きのう書いた文章は日の目を見ず、掲示板上には現れなかった。ゆえに掲示板上に残っていたのは、おととい書いた表題『雨、水、天水』だった。
この文章は往時(学童の頃)に体験した田植え、そしていまやそれにまつわるふるさとの水田風景を懐かしく偲ぶものだった。すると、それに合わせて大沢さまは、水田風景の写真を掲示板上に載せてくださったのである。掲載の写真は田植えが済んだ後に広がる田園風景、まさしくわが心が晴れ晴れとする、美しい水田風景だったのである。私はまたとない、当を得たご配慮を賜ったのである。ゆえに、書かずにおれなくなったこの文章は、大沢さまのご配慮にたいする御礼文である。夜明けの大降りの雨には気分萎えずとも、わがミスで気分は萎えていた。それでも、このことだけは書かずにおれなかったのである。御礼文を書いて、萎えていた気分は和らいでいる。大雨は輪をかけて、気分の好い夜明けをもたらしている。
雨、水、天水
5月29日(水曜日)。きのうの大雨、大嵐は止んで、朝日が射し始めている。今、地震が起きなければ、万々歳の夜明けである。雨は、天水をもたらす。地上は、天水なくては困る田植えの季節である。水田(みずた)、水田(すいでん)、どう読んでもいい。土にたっぷりと水を含んで、稲を植えれば(稲作)、秋には米の収穫(収量)にありつける。古来、米は日本人の主食の食材をになっている。もとより私は、米作りを本源とする農家(農業)育ちである。それゆえに私は、田植えの季節にあっては今なお、大雨(天水)を嫌うことはない。水田は、常に心中に抱く美的風景である。この風景には家族それに親族、はたまた村人の田植え姿が付き纏っている。だから格別、懐かしくよみがえる絵になる心象風景である。現下、田植えの季節とあってこのところのテレビニュースには、それにちなむ映像が現れている。するときのうは、飛びっきりの映像が現れた。私は、当時のわが姿を観る思いで目を凝らした。映像は、学童(小学生)の田植え体験学習だった。水田には子どもたちの群れが、苗をもって足を入れていた。その様子は、だれもがはしゃいでいた。ひとりの男の子がマイクの前に、ニコニコ顔で立った。「最初はジュクジュクして気持ちが悪かったけれど、だんだん慣れて気持ちが良かった」。私はうれしくなった。体験学習は功を奏したのである。なぜなら、男の子は農家(農業)の一端を感じて、同時に水(天水)の大切さを知り得たであろう。田植えの時期にあって農民は、どれほど水(雨)に気を揉むかを知ってくれれば、これまたなお万々歳である。この文章の付け足しに電子辞書を開いた。【「水稲(すいとう)」:水田で栽培する稲。「陸稲(おかぼ)」:畑地に栽培する稲。生育中、水稲ほど多量の水を要しないが、水稲より収量が少なく品質も劣る】。日本列島くまなくきのうの雨はまさしく天水、農家にとっては恵みの雨だったはずである。朝日は輝きを増している。田植えの季節到来である。
大相撲界は地殻変動、「驚天動地、大の里、優勝」
5月27日(月曜日)。梅雨入り近し。梅雨空模様の夜明けが訪れている。ずる休みではない。感動にまみれて、全文引用文にすがる。
【新小結・大の里が史上最速Vの快挙!幕下デビュー7場所目で涙の初賜杯、本割で阿炎を圧倒し12勝3敗【大相撲夏場所】5/26(日) 17:19配信TBS NEWS DIG Powered by JNN】単独トップの新小結・大の里(23・二所ノ関部屋、日体大出身)が関脇・阿炎(30・錣山部屋)を押し出しで下し、12勝3敗で悲願の初優勝を果たした。初土俵から7場所目の優勝は、幕下付け出しでは横綱・輪島の15場所を大きく塗り替える“史上最速V”の快挙となった。結び前の一番で大の里は立ち合い、阿炎の突き押しで一歩下がるも一気に前に出て土俵際に攻め込み、そのまま押し出しで圧倒した。大記録達成に国技館は大歓声に包まれ、土俵下では涙を拭うシーンも。14日目を終えて阿炎を含め、4敗で琴櫻、豊昇龍、大栄翔の4人が1差で逆転優勝を狙ったが、単独トップの大の里が千秋楽本割で勝利し終盤の大混戦を制した。先場所は尊富士(25・伊勢ケ浜部屋、日大出身)が初土俵から所要10場所目(幕下・三段目付出を除く)での“史上最速V”を達成したばかり。昨年5月場所に幕下付け出しで初土俵を踏んだ大の里は、7場所目で故郷石川県出身の大先輩でもある輪島の記録を超えた。石川県出身力士の優勝は横綱・輪島、元大関の出島に続く3人目。大の里は新入幕の初場所で11勝、3月の春場所でも11勝と入幕から3場所続けて優勝争いに絡む活躍。今場所は初めて単独トップで千秋楽に挑み、初賜杯を手にした。直近3場所で合計34勝に到達。新三役で迎えた今場所は初日に横綱・照ノ富士を破り好スタートを切ったが2日目で高安に敗れる。3日目から6連勝で大関・霧島、琴櫻も撃破。9日目に平幕・平戸海、11日目に大関・豊昇龍に敗れたが12日目から星を落とさず栄冠に。先場所までざんばら髪だったが、初めてまげを結って挑んだ場所で見事“ちょんまげV”を達成。三賞は2場所連続の技能賞、さらに優勝が条件となっていた殊勲賞を初受賞。新入幕から3場所続けての三賞獲得となった。
梅雨入り前の心象風景
5月26日(日曜日)。風雨なく晴れて、のどかな夜明けが訪れている。ところがわが心象は、どん詰まり状態にある。文章が書けない。ゆえに、書けない苦痛に苛まれている。わが文章は、職業や仕事ではない。だから、書けないときは休み、書けるときだけ書けばいい。おのずから、自分自身に課している鉄則である。しかし、この鉄則には常に危惧がともなっている。危惧とは文字どおり、休めば再びの始動のない惧れである。それを惧れて私は、いやいや気分でパソコンを起ち上げる。もとより、気乗りのしない文章では、気分が晴れることはない。だから心中には、(もう、潮時、潮時……)と、恨み節を唱えている。ここまで、ネタを誘い出す序文とは言えない、どん詰まりの嘆き文を書いた。
だったらこの先は書かずに、おしまいにしたほうが身のためである。ところが一方では、継続の途絶えに怯えている。なぜなら、わが文章の唯一の取り柄は継続だけである。もちろん継続には、常に駄文に付きまとう恥晒しがある。ところが幸いにも私は、恥晒しを厭(いと)わない。なぜなら、恥晒しを恥と思えば文章は書けない。
さて、関東地方の梅雨入り宣言はまもなくであろうか。梅雨の季節を謳歌するアジサイは、濃緑一色の大葉の中に、艶々の白い小玉が日々色づいて膨らんでいる。これは気象庁の梅雨入り宣言を待つまでもなく、確かな梅雨入り近しの証しである。梅雨は、人間にとっては鬱陶しい自然界現象である。反面、人間に恵む特等の自然界現象である。農家出身の私は、体験的にこの思いが一入(ひとしお)である。そしてこの点、梅雨を毛嫌いするばかりでないことは、勿怪(もっけ)の幸いである。心して私は、梅雨の鬱陶しさに耐える気構えは十分である。
父は蓑笠、私は雨合羽を着けて、共に田植えに向かった光景がなつかしく偲ばれる。ネタ探しにともなう、よみがえるふるさと情景である。そしてそれは、嘆きながらも書いた報酬、すなわち愉しみの一つをもたらしている。「ネタ探しは愉しみ探し」。こう嘯(うそぶ)ききれないのは、やはり潮時なのかもしれない。
梅雨入り前にはいろんな思いが駆けめぐる。夜明けの晴れ模様は、時が経ちどんよりとした梅雨空へ変わっている。
欲張りの「享楽探し」
5月25日(土曜日)。未だ薄暗い夜明けが訪れている。ただ雨はなく、明ければ晴れの夜明けになりそうである。早起き鳥(鶏)を真似て、ウグイスが鳴いている。ウグイスの就寝時間はどれぐらいであろうか。安眠や熟睡に恵まれているであろうか。それとも二度寝にありつけず、やむなく起き出しているのか。たまには、悪夢に魘(うな)されることもあろう。住み慣れた塒(ねぐら)があるとはいえ、雨・風・嵐など防げず、さらには蛇、カラス、モズあるいは大鳥、野獣など取り巻く野の生活は、さぞかし厳しいだろうゆえに同情心、沸き立つばかりである。ウグイスの鳴き声には、わが起き立ての心身を解(ほぐ)すさわやかさがある。だからウグイスは、わが一日の始動を共にする、運命共同体の位置にある。私は、ウグイスにはいくら感謝してもしきれない。
さて、昨夜のナイター・阪神タイガース対読売ジャイアンツ戦(阪神甲子園球場)において、わがファンとするタイガースは、戸郷投手に「ノーヒットノーラン(ヒット無し・無安打)」を食らって、0対1で負けた。しかし、戸郷投手を称えて、悔しさは微塵もない。現在、開催中の大相撲5月場所(東京都墨田区横網・国技館)においては、小結・大の里(二所ノ関部屋)の強さが際立っている。私は(すぐに横綱になるだろう)と思い、さわやかな気分でスピード出世を愉しんでいる。プロ野球と大相撲のテレビ観戦は、共にわが日常生活(茶の間)における享楽を恵んでいる。確かにこの享楽は、人生の晩年を生きる私への棚ぼたのほどこし(プレゼント)である。今や、自力本願では享楽にありつけず、人様(他力本願)すがりである。すると、最も手っ取り早いのは、様々なスポーツのテレビ観戦である。とりわけ私の場合は、野球のタイガース戦と、大相撲のテレビ観戦に張り付いている。かつては国会中継もよく観ていたけれど、今は呆れて観る気がしていない。朝のテレビ小説「虎に翼」と、大河「光る君へ」も視聴はするけれど、スポーツのテレビ観戦ほどには、ワクワク感にありつけない。自分自身が生み出す享楽はないものか。それは叶わず、終生、闇の中に蹲(うずくま)っている。
人生の晩年にあって、「享楽探し」は欲張りなのであろう。望んでいた朝日は現れず、雲行き怪しい夜明けである。