ひぐらしの記

ひぐらしの記

前田静良 作

リニューアルしました。


2014.10.27カウンター設置

内田川(熊本県・筆者の故郷)富田文昭さん撮影

 

春先の気迷い文

 3月7日(木曜日)、カレンダー上には「消防記念日」という添え書きがある。起き出して来て窓ガラスを通し、私は真っ先に外の様子を見た。一基の外灯は、風雨なく乾いた道路を照らしていた。わが身体に寒気は遠のいて、私はのんびりとキーを叩き始めている。きのうの昼前あたりから、ようやく陽射しが見え始めた。すると私は、茶の間のソファから立ち上がり、勢い込んで買い物支度を始めた。わが突然の豹変を見て、相対していた妻は、呆気にとられていた。そして、その表情にひとこと加えた。
「パパ。買い物へ行くの? また、雨降るわよ!」
「行ってくるよ」
 私は普段の買い物のいで立ちで、大船(鎌倉市)の街へ出かけた。買い物を終えて、わが家に帰り着くまで、雨は降らなかった。その後も、風雨は去ったままだった。そして現在(4:20)、風雨および寒気共になく、ようやくこのところの気狂いの気象は落ち着き始めている。夜明けてその先、春の陽気になれば万々歳である。
 気分が緩んでいるせいか、私は心中にこんなことを浮かべている。現行のわが身体の補強行為は、ざっとこんなところである。すなわち、目には眼鏡、耳には補聴器、そして口内には差し歯と入れ歯がある。一方、命の延長策には有償の医療行為を行っている。それらは、こんなオンパレードである。緑内障の進行防止には一日に一度の点眼液。便通を促す薬剤は朝夕の服用。腎不全と悪玉コレステロールの改善薬剤は、前者は朝一度、後者は夕一度。これらに加えて、予約通院を繰り返しているのには、半年ごとに訪れる緑内障の経過観察がある。
 これらに無償の散歩、テレビ体操、欲張って軽い筋トレが加われば、命の延長策は「鬼に金棒」である。ところが、生来怠け者の私には、これらはまったくの縁無しである。無償で済むことゆえに、もったいないとは思うけれど、どれも果たせず残念無念である。挙句、身体の補強行為そして命の延長策共に、多額の医療費まみれを被っている。まったくなさけない。
 きょうはいくらか短く、こんな無粋なことを書いて、結文を決め込んでいる。半面、このところのだらだらの長い文章の償いと詫びとするものである。私は、きょうあたりから春本番の陽気の訪れを願っている。もちろん、地中の虫たちも、願っているはずである。ただ、「救急車」の走り回りだけは、真っ平御免蒙りたいものである。いまだ夜明け遠く、きょうの天気を知ることはできない。

春は悪魔

 3月6日(水曜日)、わが身体は寒さでブルブル震えている。いまだ夜明けまでは遠く、夜の佇まいにある(3:52)。部屋の中は夜の静寂(しじま)とは言えない。なぜなら、戸袋の雨戸は風の音で、頻りに打ち鳴らされている。雨戸を閉めていない前面の窓ガラスには雨垂れが、無数の筋を引いて滂沱のごとく流れ落ちている。窓ガラスを開いて、外の様子を確かめるまでもなく、風雨強い大嵐である。酷(ひど)い寒気に見舞われて、老いの身は甚(いた)く堪(こた)えている。身体を震わしてまで書く文章でもない。長居は無用である。だから、このことだけを書いて、早々に退散を決め込んでいる。
 きのうの文章は表題に『啓蟄』と記して、春本番の訪れを書いた。実際には啓蟄にともなってズバリ、地中の虫たちの蠢(うごめ)き出しのことを書いた。ところが、きのうは気象予報士の予報が当たり、日本全国津々浦々にあっては、雨、風、雪、加えて寒気がそろう悪天候に見舞われた。わが恐れていた寒の戻り、寒のぶり返しを用いて、挙句、真冬並みの寒さだった。啓蟄にあって春は、季節狂いを演じたのである。そして、季節狂いはきのうで打ち止めとはならず、きょうの現在まで持ち越している。季節は春、とりわけ啓蟄に背いて、とんでもない仕打ちを続行中である。それゆえに、きのう使ったフレーズをきょうも使って、この文章は書き止めである。
 「季節は嘘つき!」、重ねて「春はごまかし!」。地中の虫たちの地上への這い出しは、余儀なく日延べを食らっている。私もまた、もうしばらく「冬ごもり」を食らっている。春の悪戯(いたずら)とは言えない、「春は悪魔」である。

啓蟄

 季節のめぐりはカレンダーに記されている。きょう(3月5日・火曜日)には、二十四節気の一つ「啓蟄(けいちつ)」と、記されている。啓蟄は、机上の電子辞書にすがることもなく知りすぎている。蟄居(ちっきょ)とは、虫が地中に潜っていることを言う。そして、蟄居(ちっきょ)を啓(ひら)くこと、ゆえに啓蟄とは、地中で冬ごもりしていた虫が地上に這い出ることを言う。地上に春が訪れて、冷えきっていた地中は温もり、地中の虫はきょうあたりから蠢(うごめ)き出し、そしてより暖かさを求めて地上へ姿を現してくる。虫たちにとっては、ようやく耐え忍んでいたわが世の春の訪れである。本格的な春の訪れを告げる啓蟄は歓迎するものの一方、ムカデを筆頭に虫嫌いの私には、眉を顰める季節の到来でもある。
 地上では草木は新たに芽吹き始めて、木の葉や草の葉はすでに、艶々の萌黄色を成している。虫たちの這い出しとは違ってこちらには、何ら恨みつらみはなく、私は日々美的風景に酔いしれている。ちょっとばかり恨みがつのるのは、わが庭中に茂りを強めている雑草の萌え出しである。確かに季節は、啓蟄の訪れに背くことなく早々と、このところ春の証しが現れている。
 その一つ、「春眠暁を覚えず」の候にあってきょうのわが起き出しは、いつもより遅れをとっている。おのずから執筆時間の切迫(感)に襲われて私は、悪癖すなわち走り書きと殴り書きの抱き合わせを被っている。現在のデジタル時刻は4:49と刻まれている。ところが、春本番の訪れにあっても気象はまだに気まぐれであり、天候不順から脱し切れていない。なぜなら、きのうの気象予報士は、短いこの一週にあっても日本列島の地図(天気図)の上に、雨、風、雪、晴れ、曇りなどのマークを印して、なお、雪崩、真冬並みの寒さなどと、知るかぎりの気象用語を重ねていた。すると、わが心中には(春は嘘つき!)という、フレーズが浮かんでいた。
 きょうの文章は、書き殴りで「啓蟄」のおさらいである。

春到来

 春は「節分」(2月3日)、明けて「立春」(2月4日)からスタートする。そして、「ひな祭り」(3月3日)と「啓蟄」(3月5日)を越えれば、いよいよ「春到来」のゴングが鳴る。こののち、春本番すなわち春の真っ盛りは、「春分の日」(3月20日)辺りであろう。
 きょう(3月4日・月曜日)の私は、カレンダーが記すことをあえて、心中に浮かべて起き出している。書くまでもないことを書いたのは、これまであれほど虐められてきた寒気が緩んでいて、待ち望んでいた「春」を体感しているからである。現在のデジタル時刻は、4:59と刻まれている。きょうの文章は春到来を告げる、すなわちこのことだけで十分である。なぜなら、季節の恵みが深々とわが心身を潤している。
 一方では矛盾するようだけれど、わが気分が萎えている。それは、常にわが心身につきまとう六十(歳)の手習いの難儀ゆえである。難儀を類語に置き換えれば苦悶と苦衷になる。六十の手習いにあってわが文章は、何年書こうと育ちきれない雛(ひな)、すなわち「ひよっこ」のままである。だから、女児の「ひな祭り(雛祭り」になぞらえて、わが文章の「雛祭り」でもして、気分を癒したいところである。
 わが文章の不出来は、凡庸な脳髄と指先不器用の抱き合わせのせいである。それでも、これらにすがらなければ文章は書けない。「針供養」という歳時(記)がある。真似てきょうは、わが脳髄と指先の供養日として、この先は書き止めである。そしてしばし、春到来気分に耽り、これまでの寒気で疲弊している心身を癒すつもりである。
 この文章の恥晒しは厭(いと)わない。なぜなら、文章を書くたびに私は、恥を晒している。もとより、恥カキは「なれっこ」である。無償の春が来た。十分、満喫したいものだ。寒気は遠のいている。こののち寒気が訪れれば、私は「寒のぶり返し」あるいは「寒の戻り」と書く羽目になる。

ひな祭り

 「ひな祭り」(3月3日・日曜日)。起き出して来て、パソコンを起ち上げる前に電子辞書を開いて、ふと浮かんだ言葉のおさらいを試みた。【口幅ったい】「身のほども考えないで大きなことや生意気なことを言う態度である」。
 現在(4:51)、寒気が緩んでいる。やはり私は、春の訪れが好きだ。日々、悩まされる人たちには不謹慎だけれど、幸いにも私には花粉症はない。「不謹慎」より先には、「口幅ったい」という言葉が浮かんだ。しかし、違和感をおぼえた。ゆえに、電子辞書を開いた。案の定、適当な言葉ではなかった。だから使用をやめて、不謹慎を用いた。ところが、これとて適語なのか? と、危ぶむところがある。あっさりと、「悪いけれど」と書けば、すんなりとわが意が通じたのかもしれない。わが文章の発端は六十(歳)の手習いゆえに、常に試行錯誤に陥っている。だから、心中ではいつも声なき声で、読んでくださる人たちにたいし詫びている。
 さて、一日の中でわが思索時間と言えるものは、起き立ての数秒間にすぎない。何事にも大袈裟好きだから大袈裟に書いた。けれど、実際のところは起き立てにあって、心中に浮かんでいることだけである。それゆえにもとより、思索と言えるものではない。現在、私は長年続けてきた新聞の購読を止めている。これまでに雑誌は、たったの一度さえも定期購入したことはない。雑誌で言えばわが子どもの頃、いや小学校低学年の一時期へ遡る。母はなぜか、「少年倶楽部(クラブ)」を定期購入(月刊)してくれていた。貪り読んだところは、漫画『のらくろ』(作者田河水泡)だった。父は、西日本新聞を購読していた。こちらでは、スポーツ記事を貪り読んだ。顧みれば「少年倶楽部」と「西日本新聞」は共に、わが「文字学びの原点」であった。
 書いているうちにおのずから、母と父の面影と優しさが浮き彫りになる。戦後間もない頃の片田舎において、両親からさずかっていた宝物と言える思い出である。なぜなら、そのときからこんにちにいたるまで、それら以外には教科書だけが文字学びを助けたにすぎない。私には俗にいう、読書歴や読書習慣は皆無だった。このことでは常々、「後悔、先に立たず」という、残念無念きわまりないしっぺ返しを被っている。それを補ったのはやはり、「西日本新聞」「熊本日日新聞」そして「朝日新聞」へと続いてきた新聞遍歴である。それゆえに新聞購読は、わが最期の時まで続くと思っていた。ところが、わが意志でぷっつり止めたのである。
 確かに、新聞の有用さがパソコンとスマホに置き換わったせいもある。しかし、本当の理由はそれよりなにより、新聞勧誘人の執拗な契約どりと、併せて悪態ぶりに腹が立ち、私は購読停止に踏み切ったのである。新聞であればどんなにいい記事(役に立つもの)であろうと、新聞配達人や販売所(雇の勧誘人)が悪態をつけば新聞は台無しである。挙句、購読停止の憂き目を見ることとなる。翻って普段の買い物にあっても、どんなに買いたいと思う物(有用商品)でも、お客対応(店員)の悪い店には二度とは行かない。
 思索というにはわが脳髄のみすぼらしいことを書いたけれど、これで書き止めである。薄っすらと「ひな祭り」の夜明けが訪れている。雨、風のない、のどかな夜明け模様である。

春先の憂い

 3月2日(土曜日)。パソコンを起ち上げる前に私は、窓ガラスを開いて外の様子を見た。風はかなり強く吹いているものの雨は降っていない。気に懸けていたことが薄らいで私は、椅子に座り机上のノートパソコンを起ち上げた。現在のデジタル時刻は、4:41と刻まれている。心中に浮かんでいたのは、このところの千葉県東方沖(房総沖)を震源とする地震発生のニュースだった。
 記憶を戻すときのうのNHKテレビニュースは、2月26日からきのう(3月1日)までの間に、房総沖における震度1以上の地震の発生回数を17回と伝えた。加えて、震度5弱程度の地震の発生の恐れがあることを伝えていた。これにちなむ映像にはスーパーなどで、急いで防災用具を買い求める人たちへのインタービュー光景が頻発していた。
 房総半島(千葉県)は、浦賀水道を挟んで三浦半島(神奈川県)のごく近い対向にある。地域を限らない地震で言えば、房総半島と三浦半島はほぼ一帯を成している。いよいよわが住む神奈川県にも、地震の恐怖が近づいている。そうであれば「くわばら、くわばら」と、呪文を唱えたいところである。さらにはあてにはならないけれど、気休めでも神様にもすがりたいところはある。
 地震にあって、あてにならないことでは、人間の知恵が生み出す様々な防災用具もまた同じであると、私は常々嘯(うそぶ)いている。それゆえにわが家は、防災用具の買い置きは諦めて用無しである。さて、こちらはわが曖昧な記憶に頼らず、メデイアが伝える引用文にすがっている。
 【ロート製薬は1日、妊活に対する意識調査「妊活白書」2023年度版を公表した。18~29歳の未婚男女400人のうち「将来、子どもをほしくない」と回答した割合は55.2%に上った。この設問を開始して以来上昇が続き、4年目となる今回初めて半数を超えた。ただ、子どもを望まない人で「授かれる可能性を残しておきたい」とする回答も一定数あった。調査は23年12月に4日間、インターネット上で実施した。男女別では、男性が59.0%で6割に迫り、女性は51.1%だった。初回の20年度調査で子どもがほしくないと回答した男女の割合は44.0%だったが、ここ3年で11ポイント超上昇した。】(共同通信)。
 私見を記すと少子化傾向の根は、このことに起因していると思っているからである。翻って日本政府の様々な少子化対策は、私には腑に落ちないところだらけである。とりわけ、子どもの人数に応じてお金をばら撒く施策には、私は他人事とは思えない腹立ちをおぼえている。もとより裕福者は、お金に頓着することなく子どもは生む。根本治療と対処療法、すなわち引用文の実態こそ、少子化傾向の根源であり、急を要する根本治療であるはずである。
 わが気分を映して、夜明けの空はどんよりと曇っている。

春3月、初日

 きょうから3月(1日・金曜日)。「年老いて」、季節、歳月・日時の速めぐり(感)には、ただただ驚くばかりである。きょうはこのことだけを書いて、ここで閉じてもわが思いは十分に尽くされる。起き出してきてわが心中は、この思いでいっぱいである。あえて、「年老いて」と、書いたことにはこんな理由がある。単刀直入に言えば子どもの頃にあっては、それらのことなどまったく気にせず過ごしていた裏返しである。いや、ちょっぴり季節はともかく、歳月・日時のめぐりなど、まったく気に留めなかった。このことに関しては無関心、子どもゆえの同義語を用いれば、無邪気そして天真爛漫を添えてもいいくらいである。だからこそやはり、「年老いて」という現在のわが身が、惨めさをともなって浮き彫りになる。どうしゃちほこだってあらがっても止めようのない、季節、歳月・日時の速めぐり(感)である。
 過ぎた2月は節分・立春が過ぎて、春待つ心が沸き立っていた。ところが、カレンダーの日めくりが春へ向かうにつれて、季節狂いの天候不順、実際には雨・風それに付き添う寒気のいや増しに脅かされどうしだった。それゆえに3月への月替わりにあってのわが願いはただ一点、春に見合う正常な季節の訪れだった。
 ところが現在、この願いは虚しく断たれている。雨戸を閉めていない前面の窓ガラスには、雨だれが幾筋も零れ続けている。傍らの窓ガラスには、雨戸を覆っている。すると雨戸には、まるで間欠泉のごとく的確に、風の音が打ち鳴らされている。共に、雨・風まじりの大嵐の証しである。わが身体は冬の名残なのか、冷え冷えである。わが願い叶わず、季節気狂いのままに、春3月への月替わりである。だからこの先、どんな3月になるのか、わが心身は恐々・びくびくである。
 きのう、NHKテレビで「茶番、政倫審」を観ていると、二つのテロップが相次いだ。一つは千葉県を主にする地震の発生、一つはドジャース球団所属の大谷選手の結婚にまつわるものだった。なんだかなあーと思う、愛憎入り乱れる月替わりである。薄く、夜明けが訪れた。やはり、大嵐である。

2月末日

 2月の最終日(29日・木曜日)。私は、様々なことを心中に浮かべて起き出している(3:37)。その一つ、自浄作用というのであろうか。自然界の風は、みずからしでかした罪作りを詫びて、みずから償ってくれていた。それはこのところ続いていた強風が、みずから道路上に汚く振り落とした木の葉や小枝を、わが手をかりずに綺麗に清めていたことである。このことでは、私が日課とする道路の掃除は出番を挫かれていた。いや、この表現は間違いであり、実際には出番を免れていたという表現が適当である。なぜなら、老いの身にあっては掃除をしないで済むことは、大好きな駄菓子を貪るより、ありがたく思うところさえある。
 風の掃除の仕方は、厭々しながら掃くわが手の出来栄えをはるかに超えて、道路の隅々にいたるまで完全無欠すなわち非の打ちどころはまったくなかった。そのたびに私は、風の冷たさに身震いしながらも道路に立ち、「強風様々の思い」をたずさえて、芥子粒ほどのゴミさえない道路を眺めていた。実際のところは、自然界の織り成す脅威に唖然として立ち竦んでいたのである。
 浮かんでいたもう一つをあえて書けば、私は文章を書くたびに苦悩に苛まれている。具体的にはネタなど、用意周到にかつ丁寧に浮かべず、常に書き殴っていることから生じている苦悩である。すなわちそれは、文章の出来不出来はともかく、文章を書くかぎりはネタを用意かつ丁寧に書きたい思いに背く苦悩である。そうであれば、苦悩を免れるためには、そうすればいいではないか。自己完結に対する自己矛盾、結局はわが凡庸な脳髄のせい(限界)である。
 このところ私は、引用文にすがり長い文章を書き続けてきた。そして、途中頓挫を恐れていた2月は、書き続けてきたことだけは果たして、完走の2月末日を迎えている。蟻の穴ほどの、わが小さな喜びである。あすから春3月、春本番にあって、2月の季節狂いは正されるであろうか。わが苦悩もまた、いくぶんでも正されるだろうか。しかしながら願っても、後者の望みは叶えられそうにない。いや、わが身にあって春の訪れは例年、断ちようないわが春愁の訪れでもある。とりあえず、閏月の2月末日にあって、完走をみずから寿(ことほ)いでいる。いつなんどきも書き殴りの文章は、わが身に堪えている。

窮まる「少子化傾向」

 2月28日(水曜日)、閏年にあって2月は、あす1日(29日)を残している。現在のデジタル時刻は4:39であり、夜明けは遠くいまだ夜中の佇まいである。きのう荒れ狂った大風(嵐)は止んでいるようで、内外(うちそと)音無しの静寂(しじま)状態にある。両耳に嵌めている補聴器は、寸分たりとも雨戸を鳴らす音は捉えていない。雨の音もしない。風雨共に、止んでいるのであろう。しかしながら、わが身は寒気に震えている。幸いにも風邪の症状は消えている。これなら、引用文に頼らずとも、わが文章が書けそうではある。ところが、この思いに反してきょうもまた、私はメデイアが報じる引用文にすがっている。このところ引用した卓球にまつわる感動編ごときであればわが気分は和むところがある。けれど、きょうの引用文はさにあらず、止むにやまれぬ気分の発露である。それでも、日本の国を取り巻く現下の世相であれば、「わが、知ったこっちゃない!」では、済まされないものがある。
 【想定より早く進む少子化、昨年の出生数は8年連続で過去最少…婚姻90年ぶりに50万組割れ】(2/27・火曜日、19:48配信 読売新聞オンライン)。「厚生労働省は27日、2023年の国内の出生数(速報値)が過去最少の75万8631人だったと発表した。前年比5・1%減で、過去最少の更新は8年連続となる。婚姻件数は同5・9%減の48万9281組で、90年ぶりに50万組を下回った。婚姻数の増減は数年遅れて出生数に反映されることが多く、少子化は今後も進行すると予想される。国立社会保障・人口問題研究所(社人研)による昨年4月の推計では、出生数が75万人となるのは35年頃と見込んでいた。少子化は想定を上回るスピードで進んでいる。今回の速報値には日本で生まれた外国人らも含んでおり、日本人のみが対象の確定値ではさらに減るとみられる。確定値は秋に公表される見通し。出生数は、16年に100万人を割り込んで以降、減少が加速している。10年以降では、10~16年の6年間で約8・8%減少したが、16~22年の6年間では約21・1%減った。婚外子の少ない日本では、婚姻数の減少が出生数の減少にほぼ直結する。婚姻数のピークは1972年の109万9984組で、約50年間で半分以下となった。過去に婚姻数が50万組未満だったのは、日本の総人口が6743万人だった1933年(48万6058組)までさかのぼるが、多子世帯が多かった当時の出生数は200万人を超えており、事情は大きく異なる。近年の婚姻数は、2019年(59万9007組)から20年(52万5507組)にかけて約7万組減っており、新型コロナウイルスの影響が指摘されてきた。ただ、22年に前年比で約3000組微増した後、再び減少に転じた。社人研は昨年4月、22年の婚姻数増を考慮し、24年に合計特殊出生率(1人の女性が生涯に産む子どもの推計人数)が上昇すると予測しているが、出生率が回復基調に乗る可能性は低いとみられる。人口減少も進んでいる。23年の死亡数は、前年比0・5%増の159万503人と3年連続で増加し、過去最多を更新した。死亡数から出生数を引いた自然減は83万1872人で、過去最大の減少幅だった。1947年から3年続いた第1次ベビーブームで生まれた団塊の世代が後期高齢者世代に入りつつあり、死亡数は今後も増え続ける見込みだ」。
 再び書こう、「わが、知ったこっちゃない!」。しかし、日本の国の少子化傾向が気になり、それを見届けるためになおこの先へ、生き延びたい気持ちはある。だけど、それは叶わず、現在は「知らぬが仏」の気楽な気分旺盛である。やはり、引用文は楽ちんである。30分ほどで済んで、夜明けまではまだ、たっぷりと「時」を残している。半面、気になる夜明け模様を記せないことは残念無念である。2月は1日増えても、大車輪で去って行く。人の世は、過去・現在そして未来も、おそらく無常である。

引用文を撥ね退けた「わが文章はせつない」

 2月27日(火曜日)、まもなく夜明けが訪れる。季節はどんな夜明けを恵んでくれるであろうか。できればこのところの天候不順を、正規軌道へ戻した夜明けであってほしいと、願っている。春近しにあっては、けして欲張りの願望ではないはずである。きのうはこのところの雨は止んだ。ところが、ゴミ置き場へ向かうと、猛烈な風が吹いていた。一瞬にしてわが体は、冷え冷えになった。これに懲りてこののちは、一日じゅう茶の間暮らしを決め込んだ。
 私は茶の間のソファに背もたれて、窓ガラスを通して外を眺め続けた。山の枝木、持ち主が去った後に取り残されている植栽に立つ白梅と紅梅、そしてわが家の庭中の椿の花々は、日暮れて雨戸を閉めるまで大揺れに揺れていた。日光が時々ふりそそいだ。据え置き型のガスストーブは、絶え間なく熱風を放し続けていた。それでも茶の間は、温まりきらなかった。熱源不足のわが甲斐性無しの証しだったのかもしれない。私は、季節に違わず「早く来い来い、春の暖かさ」を願った。
 わが風邪は治ってはいないけれど、酷くもなっていない。このことで、パソコンを起ち上げている。茶の間暮らしでいつも切ないことは、相対するソファに背もたれている、相身互い身ふたりの日々衰えてゆく姿である。私から見るのは妻の姿であり、妻が見るのはわが姿である。共にもはや、元へ戻ることはない。できればこれまた共に、老いの加速度を低速度に緩めてほしい心地だけである。もとより、叶わぬ願望である。
 生来、私はマイナス思考の塊である。しかしながらマイナス思考とて、思考は生きとし生けるもののなかにあって、人間のみに与えられている特権である。そうだとしたら、恥を晒しても臆することはない。こう自分自身を慰めながら私は、わが人生の晩年を生きている。おのずから、わが人生終末における日常観である。
 大沢さまは「お風邪のようですね。暖かくしてゆっくりお休みください」と、言ってくださった。こんな文章を書くより、お言葉に甘えて、休んだほうが身のためだったようである。ただ、大沢さまは、「体調不良にもかかわらず、ご投稿くださりありがとうございます」と、言ってくださったのである。このお言葉は、箆棒にうれしくて、きょうの励みになったのである。
 夜明けの空は、雨なく風なく晴れて、春の軌道へ戻っている。あと二日を残して、春3月が訪れる。