ひぐらしの記

ひぐらしの記

前田静良 作

リニューアルしました。


2014.10.27カウンター設置

内田川(熊本県・筆者の故郷)富田文昭さん撮影

 

私は幸運児(爺)

 5月19日(日曜日)。梅雨の走りみたいなどんよりとした、夜明けが訪れている。つれて、わが気分もどんよりとしている。しかしこの時間、地震さえ起きなければ、わが気分は穏やかである。いつもの寝起きに違わず、ネタ無しでパソコンの起ち上げにある。だからと言って出まかせで書けるほどには、文章は容易くない。
 就寝中は悪夢に魘され、目覚めれば文章のネタ探しに苛まれる。挙句、心中ではしょっちゅう、(もう書けない、もう書かない)という、さ迷う決断を強いられている。これまでの私は何度、こんなフレーズを繰り返し記してきたことだろう。決断(力)の鈍さは、わが生来の優柔不断の証しとはいえ、つくづくなさけなく思うところである。ゆえに現在の私は、意識して自己慰安に努めている。
 六十(歳)の手習いにしてはこれまで、私はたくさんの文章を書いてきた。だからもう、書き足りないことなどまったくない。いや、反吐が出るほどに十分に書き尽くしている。半面、その確かな証しはネタ切れにともない、様にならないこんな文章である。道理、書かなければ、恥を晒すことはない。書くから、恥を晒すのである。間抜けにさずかり私は、恥を晒すことを厭わないのかもしれない。いや、恥晒しには慣れっこになり、今ではその利得にあずかっているのかもしれない。なぜなら恥晒しは、わが生きるエネルギーの一端を成し、そして恥と抱き合わせの愚痴こぼしは、文章の継続の支えを成している。
 わが文章書きは、常に呻吟・苦衷にまみれである。それでも、書き続けていることにより私は、数多の幸運にありついてきた。私は幸運児(爺)である。幸運のいくつを記すと、これらが浮かんで来る。定年後の生活がぐうたらにならずに済んでいること。加齢が進むにつれて遠のくはずの人様との交流は、途絶えず続いていること。絶えず心中に語彙を浮かべていることで、認知症の予防を成していること。書けば、大沢さまのご好意にさずかり、単行本に編まれて、わが宿願を叶えていただいていること。書き続けていることでふるさと慕情、さらにはまぼろしになりかけている肉親愛(親、きょうだい)は、眼前にいや増してよみがえる。
 この先を書けば、かぎりなくだらだら文となる。ゆえに、このくらいで書き止めである。ネタ無し文章は、ほとほと骨の折れる難行である。確かに、継続是非の決断を迫られている。しかし書けば、しがないわが身に余る果報、僥倖もある。朝日、先送りの曇り空である。

知友、あまた多し

 5月18日(土曜日)。のどかに朝ぼらけの夜明けが訪れている。緑を深める山の木々は揺れている。ウグイスの美声を妬むかのように、名を知らぬ山鳥がひと声、鳴いた。邪魔をしたのかもしれない。しかしながらこれとて、自然界および人間界こぞって、平和の証しと思えば、わが腹の立つこともない。
 主治医に訴えて、薬剤を変えてもらった。ところがいまだに、そのための確かな実感はない。けれど、肉体の筋肉痛はいくらか和らいでいる。だけど、気分を緩めて「ヨシヨシ……」と、安寧を貪るところはまだはるか遠しである。現在の私は、今にも途絶えそうな文章を掲示板上の高橋弘樹様に励まされて書いている。人様すがりは、わが根性無しの証しである。
 先日にはかつての随筆仲間(女性)から、冊子『随筆の友』が送られて来た。誌面には多くの人の名を替えて、読み応えのある文章が掲載されていた。この冊子は、年に二度送られてくる。早速、お礼の電話を入れた。老齢者同士の電話を通しての会話(通話)である。けれど共に、相手は異性である。恋ならぬ、ちょっぴり愛ある通話が弾んだ。
「いつも、良い文章ばかりで、楽しく読んでいます」
「前田さんは、まだ書いているんでしょ?……」
「はい、書いてはいるけれど、代り映えのしない日記風を書いています。だから、あなた様が羨ましいです」
「前田さんこそ凄いわ。書き続けることが大事なのよ!」
「そうですね。励まし、ありがとうございます。元気が出ました。共に、頑張りましょう」
 これまた、人様すがりの証しである。
 「ひぐらしの記」の恩恵は、声無し声の励ましを含めて、人情が通い合うことである。まさしく、年老いたわが身に余る箆棒なトクトク(得々)である。それなのにもはや、自力では継続が叶わず、ひたすら人様の励ましすがりである。いや、ウグイスのエールにさえすがっている。すなわち、年老いてまで私には、面識なくとも「知友、あまた多し」である。そしてこれこそ、人様すがりのわが生きている価値を成している。

晴れの夜明けの心象風景

5月17日(金曜日)。のどかに晴れた夜明けが訪れている。ウグイスが鳴いている。自然界の恵み横溢の朝である。歳月の速めぐりにあっても、こんな朝であれば毛嫌いすることなく、大歓迎である。やはりわが心身は、自然界の恵みにおんぶに抱っこされている。だったら、きょう現在にかぎれば、嘆くことなどなくていいはずである。ところがさにあらず、書けば嘆き文になる。だからこの先、嘆き文は止めて、夜明けの道路の掃除へ向かうことにする。零れる朝日を浴びて、心身を癒すためでもある。やがて、雨の多い梅雨が訪れる。ゆえに、切ない心の焦燥でもある。心中には、梅雨入り前のふるさとの田園風景がよみがえり、懐かしく偲ばれている。自然界の恵みにすがる、夜明けのわが心象風景である。駄文、かたじけなく思う。しかし、わが身のためである。

無題

 5月14日(火曜日)。きのうの土砂降りの雨は、どうやら止んでいる。しかし、未だに名残をとどめて、朝日はお出ましにならない。ただ、きょうの予報は晴れである。確かに、前面の窓ガラスを通して大空を眺めていると、いくらかその兆しはある。初夏の好季節にあっての雨は、真っ平御免である。なぜならやがて、雨の多い梅雨の季節になる。だから5月は、めいっぱい自然界の恵みを享けたい思いである。ままならないのは自然界もまた、人間界同然である。
 さて、究極のマイナス思考を記そう。人間は悩むために生まれてくる。私には、きょうとあさってに通院予定がある。きょうは当住宅地内の最寄りのS医院である。こちらは二つの薬剤切れにともなう、ひと月ごとの通院である。きょうは血液検査と、現在服用の薬剤にともなう筋肉痛を訴えるつもりである。あさっては「大船田園眼科医院」(鎌倉市)への通院である。こちらは半年ごとの予約通院である。診療は、緑内障の経過観察とそれにともなう点眼薬もらいである。
 もはや、こんなことしか書けない「ひぐらしの記」はなさけない。しかしながら私にかぎらず、人生の終末を生きる多くの人の生き様模様でもある。だからと言って、人様をだしにして、わが心が和むことはもちろんない。もちろん、どうあがいても避け得ない生き様模様である。だったら、ほどほどに悩むくらいがわが身のためであろう。
 きのうに続いてきょうもまた、休むべき文章を書いてしまった。それは、惰性が絶えることを恐れたからである。なぜなら「ひぐらしの記」は、惰性のもたらす継続にすぎない。こんな文章には、表題のつけようはない。大空は晴れてきた。だけど、心ウキウキにはならない。

休みます

 5月13日(月曜日)。夜明けは風雨荒れ模様、私は無念の継続です。きのうの小指のへまに懲りて、そして悔いて、きょうは謹慎に努めます。惰性の頓挫を免れるためにだけで、書いています。薬剤の副作用のためわが肉体は、あちこちが痛いです。能書に記された副作用項目によれば筋肉痛です。ただ現在、三通りの薬剤を服用中のため、ずばり犯人捜しは手に負えません。筋肉痛は、それぞれに記されています。気狂いの自覚はありません。憂鬱気分の自覚に苛まれています。

無念

 せっかく書いたのに、小指のへまで、パッと消えました。逃げた魚の心境です。涙は乾きません。

「天佑神助」と「天祐自助」

 5月11日(土曜日)。きのうのわが願いが叶ったのかもしれない。二日続けて、朝日輝くのどかな夜明けが訪れている。ゆえに地上の人間界には、天界の恵みが溢れている。いや人間界のみならず、ウグイスは喜び勇んで鳴いている。地中の虫けらも、土の温もりを感じて蠢(うごめ)いているだろう。太陽の恵みは、森羅万象にあって偏(かたよ)りはない。おのずから私は、空中機上のパイロットの真似事をしたくなる。「視界良好。遮(さえぎ)るもの一切なし、出発進行!」。
 寝起きの私は、気分良好、愚痴るものはない。まさしく気分は、「天佑神助」さながらである。「天佑神助:天や神によって助けられること。天の神の助け」。普段、神様に助けられることはまったくない。けれど、「天の神の助け」であれば、電子辞書の説明文をちょっぴり信じよう。あれれ、こちらは電子辞書にはない。しかし、常にわが肝に銘じている四字熟語である。それは「天祐自助」。これは、勤務する会社の大講堂の前面上部の横断幕に、墨痕太く揮毫されていた言葉である。読み下し文にすれば、「天は自ら助くる者を助ける」でいいだろう。表現をかえれば、「天は、怠け者は助けない」。
 これまでの私は、確かに天の助けを授かったことは一度もない。私は、根っからの怠け者なのであろう。天界の恵みに遭って、きょうだけは愚痴るつもりはなかった。ところがやはり、愚痴ってしまった。結局、私の場合は、愚痴るネタがなければ、「ひぐらしの記」の継続はあり得ない証しである。愚痴るネタばかりでいいだろうか? と自問するけれど、是非の答えはない。私はさ迷っている。

気分の好い夜明けにあっても「愚痴こぼし」

 「目に青葉山ホトトギス初鰹」(山口素堂)。5月10日(金曜日)。頃は好し、風雨なくひっそりとのどかに晴れた夜明けが訪れている。自然界の恵みはくまなく万端である。日がめぐり、朝・昼・晩は時を変えて、必ずやって来る。そうであればいつも、こんな朝を迎えたいものである。なぜなら、自然界すがりとはいえ、おのずからわが気分は爽快である。寝起きにあって、こんな気分になるのはめったにない。まさしく、天界がくれた好気分である。
 このところのわが気分は、滅入っている。ゆえに、天界の粋なはからいである。気分が滅入る根源は、恥を晒して文章に記してきた。反面、晒し記すことで、気分の滅入りを和らげてきた。確かな、愚痴こぼしの恩恵である。生来の「身から出た錆」、すなわち私は、小器とマイナス思考の塊である。もとより、先天の悪性を後天で矯(た)め正すことはできない。だとしたら、なにかしらの対処法を探さなければならない。すると、探し当てたところは愚痴こぼし。案外、愚痴こぼしがその役割を担っているのかもしれない。
 こう気分を損なう、恥晒しの文章を書いてしまった。大沢さまからさずかった「何でも良いですから、書いてください」のお言葉に、悪乗りしてしまったのである。わがお里の知れる文章である。それでも、書かないより書いたほうがましである。愚痴こぼしは、確かにわが生きるエネルギーの一端を成している。しかし、人様には迷惑至極である。朝日は、初夏の大空を青く色成している。

嵐のように、揺れ動く心象

 5月9日(木曜日)。風の強い曇り空の夜明けが訪れている。パソコンを起ち上げて、心中にこんなことを浮かべている。(「ひぐらしの記」は、わが終末人生におけるわが家の破綻、加えてわが夫婦の命の絶え時に向かう文章へ成り下がっている。恥ずかしいとは思わないが、なさけない文章である)。
 世の中にあっては命果てるまで、日記を書き続ける人は数多いる。わがかぎりなく敬愛をおぼえる人たちである。ところが一方、年老いてまで、ブログに日常をさらけだす私日記を書く者は、ほぼ私だけであろう。このことでは、能天気な愚か者である。ゆえに私は、常に「ひぐらしの記」の潮時に苛まれている。
 きのうの文章『偕老同穴とも白髪』は、まさしくその証し最たるものだった。もちろん、文章を書き終えたわが気分は萎えていた。ところが早速、大沢さまは掲示板上に激励文を記してくださったのである。文中の一部を再記すればこうである。前田さんのひぐらしの記を読んで勇気づけられ励まされることもあると思います。それこそ「何でも良いですから、書いてください」。いや、この励まし文で、文字どおり励ましを得たのは私のほうである。その証しに私は、書くつもりのなかった文章を書いている。とりわけ、「何でも良いですから、書いてください」の励ましは、こんにちまでの「ひぐらしの記」継続の根幹を成してきたのである。しかしながら、何でもいい文章であってもこのところは、(もう、書いてはいけない)思いが横溢である。その理由はこれまた、きのう書いたわが文章を再記すれば、「人様の気分を阻喪している」と、思うゆえである。その確かな証しには、きのうはふうちゃん(ふうたろうさん)から、お見舞いのメールが送信されてきた。その前日にはマーちゃんから、心臓と脳の異変にまつわる励ましの電話が届いた。
 わがたそがれ人生は、とうに深い闇に中にある。それを綴るだけの「ひぐらしの記」は、やはり潮時なのであろう。しかし、再び大沢さまの激励文を再記すれば、「胸の内の悩みや苦しみは、遠慮せずに掲示板で吐き出してください」ともある。これまた、わが嘆き心を晴らす拠りどころである。曇り空は、風を強めて雨の夜明けになり変わっている。

偕老同穴とも白髪

 5月8日(水曜日)。ゴールデンウイークが過ぎて、人間界も自然界も正規軌道を回り始めている。この時季の自然界の正規軌道とは、人間の心の和む晴れの夜明けである。ところがわが家の場合は、反転回りである。きのうは妻の定期診断で、「大船中央病院」(鎌倉市)へ引率同行した。診療科は整形外科である。主治医の予約診断(10時30分)の前にあっては、地下で腰部や背部のX線と骨密度の検査撮影が行われた。これらの検査が済むと、2階の診療科の窓口へ出向いて手続きを終えた。横須賀市内に住む娘は、すでに駆けつけていて出会った。しばらくして妻の名が呼ばれ、三人して主治医が侍(はべ)る2号室に入った。三人そろって、丁寧に主治医に挨拶をした。すでにお顔馴染みの主治医は、しばしモニター画面を眺められていた。診断が下された。「骨密度が低下し、背骨のところが一部、折れていますね」。思いがけない診断結果だった。三人はそれぞれに、気分が沈んだ。次回の予約日は、8月6日と決められた。
 診療費を支払い、処方箋をもって戸外に隣接する調剤薬局へ出向いた。出かける前の雨は小降りだったけれど、大降りに変わっていた。私は零れそうな涙を抑えた。夫婦生活は、片方(私)だけが健康で成り立つものではない。妻が診断を受ける前にあっては、妻と娘は、わが先日の異変を危ぶみ診察を懇願した。わが家の生活は突然、いっそう暗雲が垂れ始めている。わが文章には自分自身、気分が萎えるばかりである。それよりなにより、書くまでもないことを書いて、人様の気分を阻喪している。平に謝り、お許しを請うものである。偕老同穴を叶えることはこの先、安らかな道のりではない。朝日が輝き、ウグイスは鳴いている。自然界の夜明けは「平和」である。わが家、わが身は、さにあらず……。