ひぐらしの記

ひぐらしの記

前田静良 作

リニューアルしました。


2014.10.27カウンター設置

内田川(熊本県・筆者の故郷)富田文昭さん撮影

 

目覚めのいたずら

 十一月二十七日(金曜日)、二度寝叶わず仕方なく、起き出して来た。現在、パソコン上のデジタル時刻は1:55である。この頃は、こんなどうでもいいことを書いている。寝床に寝そべりながらしばし、心中にこんなことを浮かべていた。今さらながらに日本社会は、新型コロナウイルスのせいで、ごちゃごちゃめちゃくちゃである。どうせまともな大会など望めようがないなら、「東京オリンピックおよびパラリンピック」(来年・2021年)は、潔(いさぎよ)く返上したらいいと、思う。なぜなら、これが足枷(あしかせ)となって日本社会は、新型コロナウイルスの本格的な防御策が打てないのであろう。オリンピック開催願望は、もはや関係者のメンツと、本音隠しの独りよがりにさえ思うところがある。臆測をしたがえたこういうわが思いは、おそらくバッシングを受けるであろう。しかしながら一方、日本社会の非常事態であれば、バッシングを恐れず本音を吐露しなければならない。オリンピックを目指している「アスリート(競技者)の思いをおもんぱかれば……」という建前は、もはや必ずしも適当ではなさそうである。アスリートとて、個々の練習環境の違いに直面しているはずである。さらに言えばこんな状況下にあっては、オリンピックにおける日本選手の活躍(金メダル)が、日本社会の鬱憤晴らしになるとは思えない。憚(はばか)らず言えばオリンピック開催願望は、もはや関係者の幻想の隠れ蓑と言えそうである。
 私はこよなくスポーツ好きである。まして、このたびのオリンピックは、わが生存中における有終の美を飾る一大イベントである。それでもやはり、新型コロナウイルス禍にあっては、私はオリンピックの返上を願うところである。大会返上の理由は、素直に「新型コロナウイルスに負けた!」と、言えばいいはずである。案外、世界中の人々から、さらにはアスリートから、拍手喝采を浴びるかもしれない。とうに日本社会は、新型コロナウイルに負けているのである。この負けを長々と引きずるのは、日本社会の面汚しとも言えそうである。
 きょうもまた私は、悶々とする長い夜に身を置いている。時刻は、いまだ真夜中(2:52)である。

長い夜

 十一月二十六日(木曜日)、現在の時刻は3:02と表示されている。ほぼいつもの起き出しである。体感温度はそう低くはない。きのうはくだらないという理由で、久しく視聴を止めていた国会中継(参議院予算委員会)に、チャンネルを回した。ところが、やはりくだらなかった。国会審議は審議とは言えず、めちゃくちゃである。なぜなら、討論の体(てい)を成していないからである。わが一つだけ望むのは、質疑の内容はともかく、真摯な討論会である。これが見えないと、端(はな)からくだらないこととなる。
 これまでの私は、国会中継で胸の透く質疑応答に出合ったことは滅多にない。きのうの国会中継を見たかぎり、おのずからこの先、またまた視聴が遠のくであろう。憤懣やるかたない思いでいっぱいである。新型コロナウイルス禍にあって、現在の日本社会は混乱状態にある。それゆえに真摯な質疑応答は、待ったなしのはずである。しかし、まったくそれが見えなかった。日本の国の舵取りは為政者の善し悪し、すなわち一つ言葉で言えば為政者の「良心」にかかっている。つまり、良心の見えない舵取りや質疑応答は、私にはくだらないと思うところがある。万事、良心あってこそ、人の世である。至極、残念無念である。
 長い夜にあって、書くこともない。この先、夜明けまで悶々とするばかりである。

夜長を脅かす悪魔、ままならない睡眠

 十一月二十五日(水曜日)、零時頃、二時頃、そして三時頃、とろとろと三度寝にありついて、起き出して来た現在は、4:13の時刻表示である。二度寝ならず三度寝にありついて、私は子どもみたいな心境で、うれしい気分である。普段は一度目覚めれば二度寝がままならず、布団の中で時を浮かべて悶々とすることが多いからである。
 かつての私はこの季節の夜長を、寝ても起きても心ゆくまで堪能できていた。ところがこのところの私は、日々夜長の時間を持て余し、恨めしくさえ思うところがある。寝ては熟睡できず悪夢に翻弄され、無理やり起きればおのずから文章を書く気分を殺がれている。
 身近なところで人間は、睡眠なかんずく熟睡ほど、幸福につながるものはない。正直者と言えばそうだけれど、せっかくの夜長にあってこんなことを書くようでは、私はほとほと愚か者である。ときには初恋物語などを浮かべて、スヤスヤと長く一度寝をまっとうしたいところである。いかんせん、私には初恋はない。結婚とて、友人すがりの出会いがしらにすぎない。この頃の私は、夜長を堪能することに全神経を遣っている。つくづく、バカな私である。
 きょうは決まって水曜日にめぐって来る、歯医者通いである。夜長にあって、「嗚呼、無情」の一文である。私には睡眠薬服用の体験はない。もとより、容易で愉しい睡眠に際し、薬剤にすがるバカではない。自然体の睡眠こそ、わが幸福である。

初冬の寒気

 きのうの「勤労感謝の日」(十一月二十三日・月曜日)を含む三連休が明けて、「コロナ、コロナ」と、騒々しい週が始まる。特に今週は、「GO TO トラベル」や「GO TO イート」キャンペーンなど、政府施策の見直しで喧(かまびす)しくなりそうである。言うなれば政府と、専門家や分科会との喧々諤々の鬩(せめ)ぎ合いとなりそうである。いずれも、日本の国を案じてのことであれば、無関心ではおれなく、帰趨(きすう)を心して見守るべきであろう。それにしてもこのところの新型コロナウイルスの増勢ぶりには、確かにこの先が思いやられるところである。
 こんな中にあって起き立てのわが身は、思いがけない寒波に見舞われて震えている。初冬の気温であれば、このくらいの冷えは当たり前ではある。ところが、このところの暖かさに感(かま)けて私は、冬防寒重装備の着衣を脱ぎ去り、寒気に気を許していた。そのため、現在こうむっている寒さは、虚を衝かれたしっぺ返しと言えるだろう。
 きょう(十一月二十四日・火曜日)の私は、「寒気、いよいよ来たか!」の思いつのるばかりである。なんら実のない、起き立ての約十分間の殴り書きに甘んじて、文章を結ぶものである。現在時刻は、夜長にあっては真っ暗闇の夜明け前である(5:34)。早々と文章を結ぶのは、脳髄が寒気に怯えて、指先に何も伝えないからである。現在のわが脳髄は、俗に言う「空っぽ」である。夜が明ければ厭々する心身に鞭打ち道路へ向かい、落ち葉模様の見回りに出向くつもりである。実際には見回るまでもなくこの時期は日々、道路の掃除は免れない。いくらかの余得は、初冬の自然界のおりなす夜明けの風景を眺めて、起き立ての気分直しにありつけることである。
 まだ夜が明けない(5:44)。初冬の夜は長い。わが身は寒気に震えている。

九州場所、大関貴景勝賜杯

 メディアの報じる配信ニュースから、意図的に新型コロナウイルスにかかわる記事を避けようと思えば、わが意に沿うものは指折るほどもない。きのう(十一月二十二日・日曜日)、大相撲九州場所は千秋楽を閉じた。異例まみれの九州場所だった。九州場所でありながら、例年の福岡開催ではなく、「両国国技館」(東京都墨田区)で行われた。観客は五〇〇〇人に制限された。これらは新型コロナウイルスがもたらした一つの異例である。言うなれば外部異例である。
 もう一つは、今場所限定の内部異例である。二人の横綱と一人の大関は初日から全休し、さらにもう一人の大関(新大関正代)は、早々に途中休場を余儀なくした。結局、五人の横綱と大関の中で、九州場所をまっとうしたのは、大関貴景勝だけにすぎなかった。ところが、幸いなるかな! 貴景勝は奮戦し、大関の面目を保って優勝した。
 前段を長々と書いたけれどわが魂胆は、貴景勝の優勝を伝える配信ニュースを引用するためのものだった。
 【貴景勝、来場所は綱取り「レベルの低い優勝も困る」】(2020年11月22日19時33分 日刊スポーツ)。「大関貴景勝(24=千賀ノ浦)が18年九州場所以来2年ぶり2度目、大関としては初めての優勝を果たした。本割一発で決めることはできなかったものの、最後は勝ち切った。伊勢ケ浜審判部長(元横綱旭富士)は来年初場所が貴景勝にとって綱とり場所になると明言した。横綱昇進には『2場所連続優勝もしくは、それに準ずる成績』という横綱審議委員会の内規がある。同審判部長は『当然、優勝となればそういう話になる』と説明。今場所は初日から白鵬、鶴竜の2横綱休場に加え、大関朝乃山、目玉だった新大関正代も途中休場した。この状況もあってか、来場所について『当然、優勝となればそういう話になる』と優勝を絶対条件にした。」
 長い夜にあっては真夜中同然(2:32)、私は夜明けまでのあり余る持ち時間を思案するところである。

強風が見舞った「落ち葉しぐれ」

 きょう(十一月二十二日・日曜日)は、明日の「勤労感謝の日」(十一月二十三日・月曜日、祝祭日)」を前にして、三連休の中日(なかび)にある。晩秋から初冬にかけての好季節にあって、行楽シーズンは大団円の賑わいを見せるはずだった。しかし、三連休前には新型コロナウイルスの感染を恐れて、「我慢の三連休」という、行楽を控える警告(警鐘)が飛び交った。
 ところが、きのうのメディアのテレビニュースには、我慢をしきれない行楽客の人出の様子が、あちこちの観光地から伝えられていた。それほどに人は、政府肝入りの施策である「GO TO トラベル(旅行)」や「GO TO イート(飲食)」キャンぺーンを当てにした、物見遊山を決め込んでいたのである。もちろん、新型コロナウイルス禍にあっても、それにありつく人たちを非難すべきことではない。おのずから、日本経済浮揚のためという、大義名分も成り立つところがある。
 しかし一方、施策を敢行した政府は、人出の多さに得たりやおうとほくそ笑むどころか、大慌ての状態を強いられている。専門家や分科会のメンバーからは、新型コロナウイルスの感染者数のぶり返しは、明らかにそれらのキャンペーンのせいだ! と、あからさまにお咎(とが)めをこうむるありさまである。
 そのため、政府はにわかにそれらのキャンぺーンの中止や、見直しをくわだてざるを得ない状態にある。肝いりのキャンペーンはにわかに袋小路入りに状態にある。もちろん、キャンペーンにありつけないわが面白(おもしろ)がりばかりではなく、ちょっぴり政府に同情するところはある。
 さて、きのうの鎌倉地方は、ほぼ一日じゅう強風に吹き晒された。私は朝の道路の掃除を昼間へ後回した。山の枯葉は、夜明けからやたらと道路に舞い落ちていた。私はこの光景に業(ごう)を煮やし、昼前への後回しを決め込んだのである。天高い日本晴れの下、落ち葉しぐれは胸の透く眺めでもあった。桜の頃の桜しぐれと異なるのは、壁に吹き寄せられた落ち葉の重なりだった。一方ではこれには、強風の吹き晒しの恩恵があった。おかげと言うにはいくらか語弊があるけれど、しかし確かな恩恵であった。自然界の自浄作業のごとくに道路の落ち葉は、わが箒を這わせることもなく、吹き清められたのである。私は内心で(よしよし、シメシメ)と呟いて、壁に吹き寄せられていた落ち葉を何度も、70ℓ入りの半透明袋に塵取りから詰め込んだ。何度かは両手で、白菜を大樽に漬け込むかのように、力いっぱい押さえ込んだ。それでも袋は、はち切れんばかりに膨らんだ。しかし、やはり強風のおかげで、あっけないほどの短い時間で、掃除は済んだ。
 私は頭上の山の木々の梢(こずえ)を見上げた。だいぶ空いていたけれど、強風に踏ん張りまだたくさんの枝葉が残っていた。私はこの先、なんどかの強風の吹き晒しを願っていた。もちろんそれは、寒風の吹き晒しではなく、暖かい陽射しをともなう強風の吹き晒しという、独りよがりの身勝手な願いである。このところは鎌倉地方のみならず日本列島全体に、季節狂いの暖かい日が続いている。そのため、寒気を極端に嫌う私は、うれしい悲鳴にありついている。
 夜明け前にあってきょうもまた、まったく寒さを感じない。天恵、素直にありがたいことであり、文字どおり感謝感激である。夜明けには風が止んでいる。私は文章を閉じて、生前の起き立ての父の水田の見回りを真似て、道路の汚れぐあいの見回りに急ぐこととなる。区画の壁際の落ち葉の袋入れで、済めば万々歳である。

「灯台下暗し」

 だれが悪いわけでもない。だから、だれかを責めるわけにもいかない。新型コロナウイルスへの対応は、だれもがもっぱら防御に努めるしか便法はない。こんななかにあってだれもが共通に実感できることは、新型コロナウイルスのこのところの新たな増勢ぶりである。いよいよ専門家や分科会(メンバー)も浮足立って、さまざまに強い警告を発し始めている。素人の私にすれば、遅すぎた「さもありなん!」である。
 先日私は、一文においてこんな表題を付した。それは、『映像「玉虫色の会談」』である。メディアが伝えていた会談の当事者は、これらの人たちである。すなわち、国際オリンピック委員会(IOC)・バッハ会長、応じた日本社会の主なる関係者には、菅総理、小池東京都知事、森東京五輪・パラリンピック組織委員会会長、と記されていた。会談内容は新型コロナウイルスのせいで余儀なく、来年へ延期されている「東京オリンピックおよびパラリンピック」の実現に向けての強い決意である。ところがこれにたいし私は、かなりの皮肉を込めて、「玉虫色の会談」と名付けたのである。名付けの理由は、危機感のさっぱり見えない、はたまたまったく伝わらない、手褒めの会談に思えたからである。それからいくらか日が経ち、すでに過去の感慨にすぎないけれど、きょう(十一月二十一日・土曜日)の私は、再びこのときの感慨を蒸し返したくなっている。そのためあえて、二番煎じの文章を書いている。ほとほと、書くにはつらい文章である。(なんだかなあー……)、あの会談を境にして、感染者の激増に拍車がかかった感じである。もちろん、わが下種の勘繰りである。現在、政府や自治体は、気の緩みの引き締めに大わらわである。いやいや、気の緩みは、会談当事者の「灯台下暗し」である。

好都合の夜にあって、文章が書けない

 十一月二十日(金曜日)、長い夜。現在、パソコン上のデジタル時刻は、3:26と刻まれている。文章を書く気になれば時間は、まだたっぷりと残っている。ところが、書く気になれない。書けばおのずから、新型コロナウイルスの感染者数の数値になりそうである。いつまで続くかわからないことを日々書き続ければ、うんざり気分である。そのため現在の私は、意識してこのことを書くのは避けたいと思っている。すると一方で、そのとばっちりにあって書くネタがない。
 このところ私は、昼夜を通して冬防寒重装備の着衣を脱ぎ捨てている。なんで連日、春先や初夏みたいな暖かい日が続くだろう。気象庁は異常気象と言い、科学者は地球温暖化傾向と言うのであろうか。暖かい夜にあっては、おのずから文章を書くには好都合である。しかし、書けない。このところの私は、昼間にあっては茶の間の窓ガラスを通して、わが家周辺の秋模様を愉しんで眺めている。実際には野山の黄葉や紅葉と、さらには微風(そよかぜ)にさえ逆らえず、散り急ぐ落ち葉しぐれの光景である。半面、そのしっぺ返しをこうむっている。
 きのうの道路の掃除にあっては、45ℓ入りの半透明の袋が落ち葉を入れて、はち切れるほどに膨らんだ。もちろんこの時期にあっては、想定済みの落ち葉の量の多さである。わが物置には、100円ショップで買い求めた45ℓと70ℓ入りの半透明袋が積まれている。落ち葉の増え方を見越しての事前準備である。自然界の目の保養にすがり、一方では落ち葉の量におののく、この時期のわが日暮らしである。
 新型コロナウイルスへの感染者の苦難をおもんぱかれば、落ち葉の量を嘆くのは、罰当たりになりそうである。やはり、新型コロナウイルスのことをちょっぴり書く羽目になった。それを避ければ、この先、もう書けない。

新型コロナウイルス、感染者数二千人超

 十一月十九日(木曜日)、現在のデジタル時刻は4:37である。目覚めて起き出して来たのは、二時半近くである。この間、大沢さまから送られてきた原稿の校正作業を試みた。校正作業とは文字どおり、わがミスの訂正作業である。おのずから、気分の滅入る作業である。明らかに、現在のわが気分は沈んでいる。そのため、文章を書く気分が殺がれている。このため、日本社会を襲っているトピックス(この場合は悪夢)の記事の引用に留めるものである。感染者数の数値は、週の前半(水曜日まで)より、週の後半(土曜日まで)に、多く伝えられる傾向にある。すると、この数値は、きょうにも更新されそうである。鬱陶しい気分いや増し、つのるところである。
 【全国のコロナ新規感染、初の2千人超え 1都4県も最多】 (2020年11月19日、0時時06分 朝日新聞デジタル)。国内の新型コロナウイルスの感染者は、18日(水曜日)午後9時半時点で、過去最多となる2202人が新たに確認された。1日あたりの感染者数が2千人を超えるのは初めて。東京のほか、神奈川、埼玉、長野、静岡の計1都4県で最多を更新した。大阪や北海道でも、過去最多に迫る200人超の感染が明らかになり、感染の拡大が続いている。死者は北海道などで計14人確認された。これまでの国内の最多感染者数は今月14日の1735人(修正値)だった。東京都ではこの日、493人の感染が確認された。年代別にみると、65歳以上の高齢者は77人と5月1日の69人を上回り、過去最多だった。高齢者への感染拡大の背景には、家庭内感染の増加がある。18日までの1週間では感染経路別のうち、家庭内が最多の4割を占め、都の担当者は「子どもから感染する高齢者が多い」と指摘する。大阪府でも1日あたりの感染者数としては今月14日の285人に次いで、2番目に多い273人だった。札幌市で不要不急の外出自粛要請が出されている北海道では、233人の感染が確認された。このうち札幌市は136人だった。道内では20日連続でクラスター(感染者集団)が発生し、この日も札幌市内のグループホームなどで起きたという。神奈川県ではこれまで最多だった今月12、14日の147人を大きく上回る226人の感染が確認された。県内の入院患者は17日時点で410人で、県などは受け入れ可能な病床の確保を急いでいる。埼玉県も126人が確認され、最多を更新。県の担当者は「目立ったクラスターがない中で、感染者数が増えている」と話した。静岡県では今月14日の36人が最多だったが、18日は87人の感染が判明し、わずか4日で倍以上に増えた。長野県は30人だった。

夜長、つれづれの迷い文

 これまで、身近なところで眺めてきたものの一つには、道路工事は始まったらなかなか終わらない。ようやく終わったなと思えば、こんどはガス管工事が始まり、これもようやく終わったなと思えば、こんどは水道管工事が始まる。挙句、同じ個所が施工業者を替えて、なんども掘り返される。そのたびに私は、(なんだかなー……)と、唖然とするほかない。
 私は根っからのへそ曲がりである。歯医者の治療台に寝そべるたびに、もちろん声なき声で私は、歯医者通いを道路工事にたとえている。明確に違うところは、道路の掘削工事みたいに、施工業者が入れ替わらないところである。確かに、痛むところがモグラ叩きさながらに、次々に替わるのであろう。それでもへそ曲がりの私は、歯医者の治療を心中では、道路の掘削工事みたいなものだなと、思っている。こんな馬鹿げた思いで、治療台に寝そべっていては、いずれ大きな罰が当たりそうである。なぜなら先生は、わが歯の痛みを抑えることに、優しくかつ真剣必死である。
 きょう(十一月十八日・水曜日)は、週一にめぐってくる歯医者への通院日である。予約日はほぼ水曜日に固定さている。予約時間は、先週に続いて午前九時半である。予約とは確かな約束である。そのため、これに背いたら人間の屑の範疇になる。こんな思いをたずさえて私は、かなりの余裕時間をもって待合室に入る。もちろん歯医者にとどまらず、病医院通いにおけるわが不文律のみずからへの決めごとである。
 幸いなるかな! 現在は、歯の痛みは感じない。自覚するところは、胃腑の不快感である。しかし、きょうはこの手当の通院はしない。ちょっぴり、(なんだかなあー……)と、腑に落ちない思いがしないでもない。この場合、適当ではないけれど、ふと自家撞着(じかどうちゃく)という言葉が浮かんだ。語彙(言葉と文字)の復習のために私は、すぐさま電子辞書を開いた。〈自家撞着〉:同じ人の言行が前と後とくいちがって、つじつまの合わないこと。
 わが掲げる語彙の生涯学習は現場主義である。ところがその主を成すのは、新たな語彙の習得というより多くは、忘れかけている語彙の復習にすぎない。加齢とともにおのずから、電子辞書を開く頻度は増すばかりである。
 私の就寝時の枕元には、常にわが三種の神器と思えるものを置いている。それらは、懐中電灯、携帯電話(ガラケー)、そして電子辞書である。それぞれには私から、役割が課されている。懐中電灯の場合は、地震、停電、さらには身体に痛みを覚えたおりに、ムカデ探しに用いるためである。もちろん、頭上の蛍光灯から垂れる紐も引く。携帯電話は、わが最も恐れている凶器である。受信音が鳴らなければと、願うところである。なぜなら枕元の携帯電話は、今や訃報を伝える役割に成り下がっている。唯一の取り柄は、目覚めて(今、何時かなあー)と、手にするだけの時計代わりである。前向きに、いや多くは後ろ向きに手にするのは電子辞書である。きわめて容易な日常語であっても、忘れかけている語彙は復習を兼ねて、すぐに電子辞書を開いている。このことでは、就寝から目覚めて手にするものの筆頭は、電子辞書である。
 かつては買い物用のリュックの中に、電子辞書を忍ばせていた。それは、往復のバスの中で紐解くためだった。しかし現在は、涙をのんでこんな馬鹿げたことはやめて、あやふやに浮かんだ語彙を心中で、牛の二度噛みみたいに反芻(はんすう)しているにすぎない。ガラケーからスマホへ変えれば、重たい電子辞書の携帯は免れそうな、誘惑にかられるときもある。しかし、生来のわが優柔不断の性癖が、いまなおその決断を拒んでいる。
 長い夜にあってきょうもまた、ネタ無しの迷い文である。歯医者通いの準備をするにはまだ早すぎる、いまだ真夜中のたたずまいである(三時過ぎ)。