ひぐらしの記

ひぐらしの記

前田静良 作

リニューアルしました。


2014.10.27カウンター設置

内田川(熊本県・筆者の故郷)富田文昭さん撮影

 

寒い朝の愚痴こぼし

 十二月七日(月曜日)、遅く起き出して来た(5:32)。そのため、あわてふためいて、走り書きを強いられている。きょうは、早出の歯医者の予約通院日である。こんな予定がある日の私は、平常心を失くしてオチオチとしておれない。明らかなとばっちりは、執筆時間に大慌てをこうむることである。
 文章は心象風景の紡(つむ)ぎである。このため、心象が時間に急かされ揺れていると、端(はな)から文章は書けない。もちろん、能タリンのわが固有の理由である。こんな弁解は飽きあきしているけれど、いつも逃げ口上の常套句(じょうとうく)に用いている。
 遅く起き出して来た理由は、寒さに負けて布団の中で起き出しを渋っていたからである。きのう書いたようにこの時季、ようやく本来の寒さが訪れている。すると、寒気に弱いわが心身は、たちまちカタツムリやミノムシのような状態になる。それでも、予約済みとなれば、身を動かざるを得ない。
 きょうの歯医者の処置には、出来立てほやほやの二つの金属の被せ作業が予定されている。早や、歯医者通いも六週目になる。先回のおりには、「次回には、二万円ほどご用意ください」と、言われている。年の瀬にあっては、身や財布に堪える痛い出費である。一方では、見栄えだけの「おせち料理」に比べれば、はるかに身のためになる出費かな! と、思うところはある。もちろん、これにて歯痛が収まれば万々歳である。
 ところが、二つの被せ金属の処置は、いまだ序の口にすぎないところがある。なぜなら、掛かりはじめにこうも言われている。「このところが済んだら、次にはここのところに入れ歯を作ります。それは、一か月半が過ぎた頃になります」。つまり、大きな処置と大きな出費は、いまだこの先にひかえているのである。余生をかんがみればなんだかやりすぎかな! そして銭失いかな! と、思えるところもある。いやいや、歯の痛みは堪えようもないから、こんなケチなことは言わないようにしようと、戒めてはいる。しかし、承知の助ではあっても言いたくなるのは、一度掛かれば果てしない、歯医者通いへの恨みつらみと言えそうである。
 落ち着かないことを理由に、きょうの文章は早や手じまいである。文章とは言えないから、慰めのつくところはある。寒さも身に堪えている。

不意打ちの「寒気団」

 十二月六日(日曜日)、悪夢にも魘(うな)されたけれど、それよりなにより寒さが身に堪えて、起き出してきた(3:54)。いよいよ冬将軍のお出ましかな! と、思える寒気著しい長い夜に身を置いている。だからと言って私は、自然界の仕打ちにたいし、手の平返しに恨みつらみは言えない。なぜならこれまでの暖かさには、私は望外の恵みをたまわり続けてきたからである。
 現在の寒気は、異常気象を正した季節相応にすぎない。わが身が震えているのは、期間限定の異常気象がもたらした暖かさを、のほほんと貪(むさぼ)っていたことにたいする、罰当たりなのであろう。言葉を重ねれば身に染みている寒気は、わが頓馬(とんま)のせいと言えそうである。
 いよいよ年の瀬は、本来の寒気団を引き連れて深まることとなる。すると私は、防寒にたいして緩んでいた意識を、あわてふためいて正さなければならない。現在の私は、飛んだ戒(いまし)めをこうむっているところである。今年は生まれて初めて、早々にインフルエンザの予防注射を打っている。効果のほどは知らないけれど、気休めにはなっている。インフルエンザ以外に風邪をひいたり、新型コロナウイルスへ罹患した場合は、明らかにわが落ち度である。だからこの際、気の緩みの隙(すき)を衝かれないよう、強く気を引きしめるところである。なお欲張って、つつがない年の瀬を希(こいねが)うところである。
 ネタのない書き殴りにあっては、この先が書けない。不意打ちの寒気に遭って、わが身はブルブル震えている。年の瀬にあって、実の無い『ひぐらしの記』は、十四年目をヨロヨロとめぐっている。

「無題」にしようかな

 十二月五日(土曜日)、いまだに真っ暗闇だけれど、長い夜の夜明け間近にある。悪夢に魘されず久しぶりによく眠れた。私にすれば願ってもない快眠! と言えるであろう。もちろん起き立ての気分は、さわやかである。人生にあって身近なことでは、快眠ほど素敵なものはない。起き立ての確かな実感である。しかしながら私の場合は、すべてがいいわけでもない。なぜなら、眠りすぎたせいで目覚めが遅くなり、執筆時間に焦りをおぼえている。その祟(たた)りには、指先まかせの走り書きと書き殴りの文章を書く羽目に陥っている。このことではやはり、現在のわが気分は、不愉快なところもある。しかし、快眠など滅多にないことだから、すこぶる付きの良い目覚めである。
 きょうもまた、飽き飽きしている新型コロナウイルスのことは、避けて通りたいという思いがある。ところが、そう粋(いき)がっているとやはり、書くネタはない。現在のわが日常生活は、確かに新型コロナウイルスの感染恐怖に翻弄(ほんろう)されている。おのずからテレビや新聞などでは、新型コロナウイルスにかかわるニュースを見聞するばかりである。
 これに加わるものでは、『鬼滅の刃』という、言葉と文字がある。私は、これにはまったく無縁、いやまったく無頓着(むとんちゃく)にうち過ぎている。このため、この物語の内容など、ちんぷんかんぷんである。それでも、新型コロナウイルス禍にあっては、ありがたくかつ微笑(ほほえ)ましいニュースであり、社会現象でもある。そして、まったく無縁の私でさえ、気分がほっこりと、和むところがある。それほどに現在の私は、明るいニュースに飢えていると言っていいのかもしれない。
 いつものことながら、脳髄にネタをめぐらすことなく、指先まかせに書いている。すると、これまたいつものことだけれど、たちまち立ち往生に見舞われて、この先が書けない。幸い身が冷える夜明け前ではない。このことでは泣きべそをかくことなく、夜明けを迎えそうである。確かに、このうえない自然界の恵みに身を置いている。そうだとすれば四の五を言わず、しばし快眠後の夜明けの気分を貪(むさぼ)り続けたい思いである。
 無理矢理この先を書けば、文章の不出来で快眠気分が殺がれそうで、書かない。いや、書けない。走り書きと書き殴りは、とんとなさけない。いやいや、かたじけなく、詫びるところである。まだまだ、とうぶんのあいだ、夜は明けそうにない(5:37)。焦る気分に急かされて、へんてこりんの文章を書いてしまい、ミスったかな……。気分は、ちょっぴり憂鬱である。実のない文章ゆえに題のつけようなく、「無題」にしようかな。

復習「身につまされる」

 意識して新型コロナウイルスにかかわる文章を避けようと思えばネタなく、無理やり書けばこんなことしか書けない。きのうは慣用句、「狐につままれたよう」の復習を試みた。するときょう(十二月四日・金曜日)は、目覚めて寝床の中で、このことばを浮かべていた。それは、「身につまされた」ということばである。わが生涯学習は、常に枕元に置いている電子辞書すがりである。
 なぜ? このことばを浮かべていたかと言えば、言葉の響きが似ていること、さらにはことばの意味も難しいところがあるからである。そのためのお復習(さら)いであった。このことばの意味を難しくしているのは、ずばり「つまされる」ということばである。このため先ずは、「つまされる」を見出し語に置いて、電子辞書を開いた。
 【つまされる】:①情愛にひかされる。恩愛にほだされる。②(「身にー・れる」の形で)ひとごとでなく感じられて、哀れに思われる。
 次には、ずばり「身につまされる」を見出し語に置いた。
 【身につまされる】:わが身にひき比べる。特に、他人の不幸などがひとごとでなく思われる。
 私は長年、多くの文章を書いてきた。かつてはあらかじめネタを浮かべて、四百字詰め原稿用紙五枚分、すなわち二〇〇〇字を基準にして書いていた。もちろん、いくらか筋書きを浮かべて書いていた。ところが現在は、こんなに長い文章を書くことは滅多にない。それと同時に現在は、起き立ての書き殴りや、走り書きに甘んじている。このことでは、端(はな)から文章を書く姿勢が大違いである。もとより、文章の出来自体、大違いである。唯一、似ているところは、過去、現在ともに、書いた量の多さである。それなのに私は、今なおありふれた慣用句、そしてフレーズ(成句)にさえ、電子辞書すがりである。わが掲げる生涯学習のせいとは言え、ほとほとなさけなく、また体(てい)たらくきわまりない。きのう同様にこんな面白味のない文章は早々に閉じて、同時に読者各位様にはかたじけなく思うところである。
 さて、文章を用いて、再び復習を試みる。新型コロナウイルスの感染に遭われた人の悔しさは、「身につまされる」思いである。きのうに続いて、新型コロナウイルスのことは書かずに済んだ。しかしながら私は、長い夜の過ごし方を案じている。

慣用句「狐につままれたよう」

 きのう(十二月二日・水曜日)の文章で私は、気温高く暖かい日をもたらしている、自然界の恵みのことを書いた。この時期にすれば思いがけない暖かい日の恵みを、私は素直に喜んでいたのである。ところがきのうは、急転直下気温低く、途轍もない寒い日に見舞われた。昼間には、そぼ降る冷たい雨がともなっていた。私は茶の間に居座りながら心中で、一つの慣用句を浮かべていた。言葉の理解にいくらかこころもとないところがあり、電子辞書を開いて復習を試みた。あまりの天気の変わりように私は、「狐(きつね)につままれたよう」な思いをたずさえていたのである。
 おのずから見出し語に置いたのは、「狐につままれたよう」である。電子辞書の説明書きはこうである。慣用句:狐につまされる。解釈:狐にばかされたときのように、わけが分からなくなり、ぼんやりすること。今やありふれた日常語にもかかわらず、あらためて電子辞書にすがった理由はこうである。子どもの頃から人をばかすのは狸(たぬき)と教えられてきたので、私は狐のことばに戸惑っていたのである。そのため、狐に変えて狸とすれば、いくらかすんなりとするところがある。
 もうひとつ、馴染みの薄いことばがわが理解(力)を妨(さまた)げていたのである。それは「つままれる」という、ことばである。このため、こちらも電子辞書にすがった。先ずは狐と狸について、わが無知にかかわる正解を書けば、こう書かれていた。それは狐と狸共に、人を化かしたり、騙したりするものの象徴として用いられてきたという。わが無知は、狸だけにかぎっていたのである。私はそのしっぺ返しをこうむり、短い慣用句の一方の理解(力)を薄められていたのである。さらに、理解(力)を妨げるもう一方のことばが、「つままれる」であった。このことば調べに私は、動詞「つまむ」を見出し語に置いた。
 【撮む・摘む・抓む】「①指先で挟みもつ。②転じて、指先や箸で取って食べる。③要点を取り出す。④人をあざける。ののしる。⑤(受け身の形で用いる)狐・狸などが人を化かす。」
 わが恥を晒して長々と書いたけれど、「つままれる」ということばは、「化かされる」の同義語として、厳然と存在していたのである。
 きょう(十二月三日・木曜日)はのっけから、書き飽きしている新型コロナウイルスのことを書くのは避けようと思っていた。ところが、その代替のこの文章は、書いても読んでも、ちっとも面白くない、わが無知の晒し文である。私自身にはさておいて、読者各位様にはかたじけない思い、つのるばかりである。もとより、「狸にばかされたよう」という、慣用句であれば、恥を晒すこともなかったのかもしれない。ちょっぴり、残念無念である。それでも、急転直下の寒気がもたらしたわが生涯学習、曖昧な慣用句の意味を深めたことには、いくらかのご褒美と受け止めている。「痩せ我慢」と、言えなくもない。「痩せ我慢」:無理に我慢して平気なように見せかけること。きょうは、新型コロナウイルスのことは書かない。

めぐりきた年の瀬

 きのう(十二月一日・火曜日)から、今年(令和二年・二〇二〇年)の最終月に入っている。残りひと月とはいえ世の中が新型コロナウイルス禍にあっては、オチオチしておれない年の瀬となりそうである。まさしく、恐々(きょうきょう)とする年の瀬である。
 降って湧いた新型コロナウイルスの恐怖なくとも人生は、だれしも艱難辛苦(かんなんしんく)の茨道である。そうであっても人は、みずから生存を放擲(ほうてき)することはできない。それゆえに人は、日々歯を食いしばり、茨道を踏んでいる。
 こんな日常にあって、ありがたいことの一つには自然界からたまわる恩恵がある。今年にかぎればずばり、この時期の昼夜の気温の高さである。すなわち、このところは寒気の遠のいた暖かい日に恵まれている。もちろん、いつなんどき天変地異の鳴動に見舞われるかもしれないと、このことでは気分の休まるところがない。しかしながらこのところの暖かさは、わが日常生活に確かな恵みをもたらしている。
 高い気温が続いているせいか木々の枝葉は、例年より早く枯れ落ちている。そのため、今では道路に散り敷く落ち葉の量を減らしている。さらに加えて、道路を掃除するにも、北風、木枯らしに身を縮める日は滅多にない。これらのことは、このところの自然界からわが身にさずかる恩恵である。いやこの恩恵は、私にかぎらず人様共通のようにも思えている。その証しは道路を掃きながら、散歩めぐりの人たちとの出会いの多さである。確かな実感をともなって出会いは、いつもより増えている。この現象には、是非それぞれに一つずつの誘因がありそうである。是は、高気温がもたらす恵みである。多くの人たちは、高気温にさずかり散歩めぐりを発意されているのであろう。一方で非は、新型コロナウイルスのせいで、やむにやまれず散歩めぐりをされているのであろう。すると私は、箒の手を休めてしばし道路にたたずみ、初対面の人たちと会釈を交わす場面が多くなっている。
 出会う人たちの多くは高齢者である。年齢を尋ねることは野暮だけれど、高齢者の筆頭は、たぶん私自身なのかもしれない。なぜなら、初対面でありながら私は、温かいまなざしを受けている。ときには立ち止まられて、私はひと声の激励を受けている。もちろん私は、不断のへそ曲がりを封じてひねくれることなく素直に、「ありがとうございます」のことばを返している。そして、束の間の生きる喜びに浸っている。
 人間が出会いを失くしたら、もはや生きる屍(しかばね)である。ところが、新型コロナウイルスは、出会いの機会を妨(さまた)げている。これだけでも、ほとほと恨めしいかぎりである。道路上の出会いの多さは、人様が街中への出向きを阻(はば)まれた証しと、言えそうである。同時に、人みな、生きることに必死の確かな証しとも、言えそうである。人様の年の瀬の無事安寧を祈るところである。いやいや、綺麗ごと、他人事(ひとごと)ではなく、わが身の安寧こそ、いっそう欲深く願うところである。

なさけなく、そして無念

 令和二年(2020年)十二月一日(火曜日)、悪夢に魘(うな)されて起き出してきて、文章が書けません。現在、2:10。新型コロナウイルスには罹病してなくても、意馬心猿(いばしんえん)、百八煩悩(ひゃくはちぼんのう)に脅(おびや)かされる年の瀬を迎えています。ひたすら、煩(わずら)わしい人間を演じています。長い夜はまだ先、「冬至」(十二月二十一日)まで続きます。休みます。

ああーあ、パソコン

 私にとってパソコンは、文明の利器と言えるのか? おそらく、最重要な利器と言えるであろう。一方でパソコンは、そうとも言えないところもある。私はパソコンがなければ、文章が書けない。一方、パソコンが無ければ、文章を書くことから免れる。私にとってパソコンは、確かな文明の利器である。一方、精神を虐め尽くす悪魔でもある。
 実際のところ私は、日々心中で「もう書けない、書きたくない」と、呟きながらパソコンを起ち上げている。登山家は「山があるから登るんだ!」と、言う。これに準(なぞら)えれば私は、パソコンがあるから起き立てに開いている。確かに私は、パソコンが無ければ文章が書けない。一方、パソコントラブルに見舞われたときの私は、たちまち精神破綻を招いて半狂人さながらになる。これらのことをかんがみればパソコンは、私にとってはどっちつかずの文明の利器と言えるかもしれない。
 パソコンにかぎらず世の中には、文明の利器ともてはやされるものにあっても、必ずしも便益ばかりをもたらすことはない。ふと浮べても、芋づる式に連なって浮かんでくる。自動車が無ければ、自動車事故は免れる。嗜好するアルコール類が無ければ、アルコール中毒は免れる。日常生活にあってこんな得失現象は数多あり、もちろん一々挙げれば切りがない。すなわち、文明の利器と思えるものであっても得ばかりとは言えず、多くは得失相まみれにある。その挙句、人は得失をコントロールしながら日常生活を営んでいる。その決め手は、コントロールの巧拙と言えそうである。上手くコントロールできる人にとっては文明の利器となり、一方コントロールできない人にとっては、人間喪失さえ免れない悪魔ともなる。
 パソコンの利便性に救われて私は、ブログ上に文章を書き続けている。そのことで私は、多くの人様との出会いにさずかっている。私にとってのパソコンは、やはり文明の利器と言えそうである。パソコンには、長い夜の時間潰しの恩恵にもさずかっている。文章を書く苦難を強いられているのは、パソコンのせいではなく、わが無能力すなわち「身から出た錆」のせいである。

蔓延(はびこ)る「新型コロナウイルス」

 感染症の恐ろしさを新型コロナウイルスのせいで、私は日々実感している。もとより、日本社会は為すすべなくお手上げ状態にある。このところ、新型コロナウイルスは蔓延状態になりつつある。
 『第3波「見えにくい」クラスター、感染拡大か』(産経新聞)。「新型コロナウイルスの『第3波』の感染拡大要因に、『見えにくい』クラスター(感染者集団)の存在が指摘されている。無症状や軽症の感染者が検査前に水面下で感染を広げ、職場や大学、外国人コミュニティーなどの多様なクラスターを生み出している可能性がある。専門家は市中感染の蔓延期に差し掛かっているとみており、接触機会の削減を求めている。」
 目に見えない水面下であれば、もはや防御のしようはない。唯一、カタツムリやミノムシのごとくに、身動きを止めて静止状態を貫くことこそ、最大かつ最良の防御策であろうか。しかしながら、動きを止めた人は、それこそ生きる屍(しかばね)であり、寸時さえそれはできない。だとしたらどうすればいいのか? その答えは、まるで幼(いと)けない子のままごと遊びさながらに、老若男女(ろうにゃくなんにょ)一様に、マスクを着けて行動するよりほかはない。
 確かに、思いついた浅知恵のごとくにだれもかれもが、マスクを着けて動いている。ところが、新型コロナウイルスはその行為をあざ笑うかのように、へこたれず感染力を強めている。だから、「打つ手なし」、と言って防御策を諦めてはおれない。おのずから現下の日本社会は、新型コロナウイルスの防御策に大わらわである。しかしながら、いまだ確たる効果の見える決め手はない。つまるところ、だれしもがみずからを守ることこそ、ひいては日本社会の蔓延を防ぐ、社会貢献と言えそうである。
 きょう(十一月二十九日・日曜日)、現在のわが身は新型コロナウイルスの感染恐怖に怯(おび)え、さらには突然の寒波に見舞われて、わが身はブルブル震えている。確かに、生きることは、日々苦難の闘いである。

来る日も来る日も、「コロナ、コロナ」

 わが下種の勘繰り、すなわち未熟な私見にすぎない。そして、きのう(十一月二十七日・金曜日)書いた文章の二番煎じを免れない。政府もっと具体的には関係者は、(来年・二〇二一年)の「東京オリンピックおよびパラリンピック」の開催にこだわり、新型コロナウイルス対策を意図的に小さく抑え込んでいたきらいがある。このことにからんで、再び記憶をそのときへ戻すと、IOC(国際オリンピック委員会)・バッハ会長の来日のおりの主たる関係者のはしゃぎようがよみがえる。ところが、皮肉にも新型コロナウイルスの感染力は、そのときから堰が切れたかのように勢いを増して、日本列島を蹂躙し始めたのである。そして、現在の日本社会(国民)は、感染の広がりに恐怖(感)をいだいて、日々あたふたとしているありさまである。ひと言で言えば新型コロナウイルスの感染の広がりにあって、今や政府は打つ手なしの状態にある。だからと言って、政府の対応を非難することはできない。なぜなら、まさしく魔界のウイルスがもたらしている、人類への脅威だからである。
 結局、新型コロナウイルスへの対応策は、人類こぞってのそれに打ち勝つ英知しかない。言わずもがなのことだけど、英知の確かな現われはワクチンである。アメリカを先駆けに、ワクチン投与が近づいているという。そうであれば人類共通の願いとして、開発されているワクチンの著効に期待するところである。さらには、「ワクチンに国境無し」を切に願うところである。
 さて、政府の分科会の尾身茂会長は、衆議院厚生労働委員会で、「多くの人に分科会のメッセージに対して協力してもらい、個人の努力を十分にやってもらったが、ここまで来ると、個人の努力だけで、今の感染が拡大している状況を沈静化することはなかなか難しい。問題の核心は一般の医療との両立が難しくなっている状況であり、個人の努力だけに頼るステージはもう過ぎたと認識している」と述べられた。関係者のメンツや保身にかかわる、オリンピック開催願望などかなぐり捨てて、新型コロナウイルスにたいし待ったなしの、いよいよ政府の本格出番を望むところである。
 オリンピック開催で日本の国の力を誇示しようとするのは、もはや関係者の傲(おご)りと言えそうである。もちろん、国民はそんなことは望んでなくて、目前の新型コロナウイルスのやっつけだけを望んでいる。そして、それが叶えば世界の人々は、おのずから日本の力を称賛するであろう。こうありたいものである。