ひぐらしの記
前田静良 作
リニューアルしました。
2014.10.27カウンター設置
「御用納めの日」
十二月二十八日(月曜日)、ちっぽけな卓上カレンダーには、「官庁御用納め」と記されています。この表記を見ると、官尊民卑の世の中の名残を想起いたします。できれば官庁を省いて、「御用納めの日」くらいでいいと思います。それでも、いくらか不愉快のところがあります。なぜなら、年末年始を休めず、働き尽くめの人たちはたくさんいます。特に、新型コロナウイルス禍にあっては、たくさんの人たちが世のため、人のため身を粉にして働き続けてくれます。人の世は、今さらながらこういう人たちで成り立っていることを感じ取った一年でした。
さて、私は今年もたくさんの下手な文章を書き続けてきました。すると、ご常連の人たちが日々、義理チョコを超える真のご厚情で、「ひぐらしの記」へ訪れてくださいました。声なき声の励ましが無ければ、もちろん「ひぐらしの記」の継続はありません。心より御礼を申し上げます。そして、大沢さま、平洋子様、角田様、高橋弘樹様、古閑君、ふうちゃん、これらの人たちのご投稿文、さらにはブログ読者で名前を浮かべている山内様、名を列ねる友人たちすなわち渡部さん、大森さん、谷口さん、マーちゃん、これらの人たちには、日々励まし続けられてきました。同様に、心から御礼を申し上げます。
きょうは新型コロナの感染を防ぐために要請されている、「静かな年末年始」の始めの日です。みなそろって、つつがない越年と静かな正月を迎えたいものです。もちろん、辞世のメッセージではありません。寝坊助が祟り、慌てふためいて書き添えたものです。「ひぐらしの記」は継続します。できればこの先、なお人様との交流を望んでいます。身の程知らずの欲張りは、わが「身から出た錆」です。感謝と詫びが同居する、年の瀬になりました。
新型コロナウイルスがもたらす、わが世界観
テレビ映像でマスク姿を観るかぎり、確かに世界は一つである。必ずしも有意義な学びとは言えないけれど、新型コロナウイルスの蔓延状況から、学んでいるわが世界観のひとつである。これくらいは学ばなければ令和二年(二〇二〇年)は、まったく為すすべなく閉じることとなる。
「井の中の蛙(かわず)大海を知らず」。世の中に疎(うと)い私の場合、とんだことで学んだ世界観とはいえ、いくらかありがたく思えるところはある。だけど、世界中が悲惨な状況にあっては、あえてこんなことを吐露することは、やはり罰当たりであろう。それでも私は、わが身に染みてかつ臨場感をもって、さまざまな現場映像から「世界は一つ」という、思いをつのらせている。
世界の国々にあっても、だれひとりマスク無しに歩いている人はいない。はたまた、医療現場における医師、看護師、そして患者模様は、普段日本国内で垣間見る動きとまったく同様である。今さらながら私は、「百聞は一見に如かず」の意味を、テレビ映像を通して学んでいる。どれもこれもが海外、すなわち異国の光景とは思えないものばかりである。グローバル時代にあっても私は、まさしく「井の中の蛙」状態に甘んじている。それによるわが世界観の乏しさは、ほとほと恥じ入るばかりである。挙句私は、デジタル社会はもとより、グローバル社会にも住めない生きる屍(しかばね)状態にある。年の瀬にあってこんなことを吐露し、さらに書くようでは「身も蓋もない」。
新型コロナウイルスで明け暮れている日本社会にあって、多くの人はすでにきのう(十二月二十六日・土曜日)あたりから年末年始休暇に入っている。このことを私は、きのうの買い物のおりの人出の多さで実感したのである。つまりきのうの私は、正月用の買い物客の多さに出遭って、だれもが余儀なく「ホームステイ(在宅)」を決め込んでいることを実感したのである。そしてその光景は、おのずからソーシャルディスタンス(二メートルほどの距離)など、ままならない混雑ぶりだった。過ぎたイブやクリスマスの日に、テレビに映された世界中の光景もほぼ同様だった。
新型コロナウイルスはいやおうなく私に、新たな世界観の学びをもたらしている。だからと言って、「棚から牡丹餅」と嘯(うそぶ)くことはできず、オロオロとするばかりである。わが家の正月用の買い物は、密を避けてきのう一度きりで早じまいである。「ホームステイ」の要請は、神妙にうけたまわっている。
表情と言葉
新型コロナウイルスの感染者数は、日々いっそう勢いを増している。危機に瀕してそれを止める訴えの表情と言葉は、もとより大きな力となる。テレビ画面を通して見聞きする医療関係者の表情と言葉には、だれしもにも切々たる必死さが表れている。その訴えに応じて私は、自分自身は感染をこうむるような迷惑行動や行為は避けようと決意する。言うなればこのところの医療関係者の国民にたいする感染防止の訴えは、身の縮む思いである。
昨夕(十二月二十五日)六時より、テレビ画面には菅総理の記者会見模様が放映された。分科会の尾身茂会長をともなっての記者会見であった。おのずから私は、感染防止を国民にたいして訴える、お二人の表情と言葉の勢いを比べる幸運に恵まれた。特に私は、菅総理の表情を凝視し、言葉に聞き耳を立てた。その理由は先日のテレビニュースにおいて、中川医師会会長をはじめとする医療関係者と菅総理の表情と言葉において、菅総理に憤懣やるかたない思いをいだいていたからである。
前者のそれには、猛犬に襲われる怖(こわ)さが漲(みなぎ)っていた。一方、菅総理の表情は普段と変わらず凪(なぎ)状態で淡々として、国民へ訴える言葉は犬の遠吠えを聞くほどに緊張感のないものだった。
ニュースの映像は年末年始を控えて、国民いたして感染防止にいっそうの協力を求めることと、当事者としての並々ならぬ決意表明であった。双方を比べれば表情にはもちろんのことと、言葉にも明らかな違いがあった。すぐさま私は、菅総理の言葉にがっかりし、たちまち腹が立った。それは「なんとか、感染を押さえていただきたい……」という、言葉だった。先ずは。「なんとか」という言葉の曖昧さであり、頼りなさである。私は「なんとか」など使わず、「なんとしても」あるいは「どうしても」という言葉を使ってほしかったのである。もちろん、強い決意を表す言葉はほかにもあまたある。このときに用いる言葉として「なんとか」は、最もまずい言葉である。なぜなら、当事者としての必死さはまったく伝わらない。輪をかけて「いただだきたい……」という言葉は人任せであり、菅総理自身の決意はまったく聞き取れない。
ところが、このときわが胸に生じたがっかり感は、きのうの会見においてはいくらか和らいだ。具体的には表情と声に緊張がいくらかあふれていたからである。そのうえ、「なんとか」は、わが意とする「なんとしても」に、置き換わっていたのである。しかし、尾身会長の必死さに比べれば菅総理のそれは、もちろん表情も言葉もまだまだである。極め付きは「雲泥の差」という言葉である。加えて、訴える表情、すなわち身体のパフォーマンスも足りない。
私は尾身会長の必死な訴えに呼応して、静かな年末年始を肝に銘じている。危機に瀕し訴える表情と言葉は、考え抜けば無償の武器となる。
予告、撤回
十二月二十五日(金曜日)、幸運にもギリギリのところで予告撤回にありついている。私はおととい(十二月二十三日・水曜日)の文章、すなわち『年の瀬にあって、とんだ災難』の文尾に、次の項を書き添えていた。「予告:あさっての二十五日から、このパソコンはメールとワードの機能を失くします。デジタルとかパソコン生活は、もうコリゴリです。年の瀬の憂鬱は、いや増しています」。諦めとはそれですっきりするものではなく、私はやるせなく悶々とする渦の中に放り込まれていた。
ところが、「捨てる神あれば拾う神あり」。私は実在する二人の神様に拾われたのである。まず拾って、紹介を得て助けてくださった女神は大沢さまである。次に、修復作業で助けてくださった男神は、それまでは存在さえ知らずにいた人である。すなわち、大沢さまはわが難儀をおもんぱかり、デジタル社会を難なく闊歩されている技能者をご紹介してくださったのである。
マイクロソフト社にあって入れ代わり立ち代わり、男性一人と女性四人つごう五人との相談の明け暮れにも埒明かず、私は疲れ切っていた。なぜならマイクロソフト社との修復のやりとりは、朝っぱらから夕闇迫る頃まで続いていた。それでも修復ならず疲れ切り、私は修復を諦めていたのである。大沢さまのご紹介を得て、遠隔操作で修復作業にたずさわってくださった人は、懸命に作業をなされた。この間の私は、修復作業をパソコン画面で見入り続けて、同時にマウスさばきに見惚れていた。二日がかりの作業の末にパソコンは、元の機能を回復したのである。私は実在する女神様の優しさと、男神様の技量の為す幸運にさずかったのである。男神様には一万円弱の賽銭(奉仕料)が必要だったけれど、わが憂悶が解けたことではお安い料金であった。大沢さまには勝手に無料と決めこみ、この文章で心底より御礼を申し上げるところである。年の瀬の災難は、修復なってもいまだに腑に落ちないとんだ災難だった。
確かに、デジタル社会は、わが身には無慈悲と言えるほどに冷たいものがある。しかし、それを凌いで人様の情けには、とことん温かいものがある。もとより人の世は、文明の利器に救われるものではなく、人の優しさに救われる証しである。「災い転じて福となす」。現在のわが心境である。
デジタル教科書
かねてから私は、デジタル社会には住めない、いや生きていけない人間だ! と、思っている。この思いはきのう(十二月二十三日・水曜日)書いた、『年の瀬にあって、とんだ災難』の内容で、止めを刺されたところがある。そんなおり目にしたのは、この配信ニュースである。このことに関して私は、不断から記事内容とまったく同様の懸念をいだいていた。そのため、あえて引用するものである。
遠いかなたの学童時代を顧みれば、新しい教科書が配られる授業時間の私は、配られた真新しい教科書の紙の香りに酔いしれて、いっとき勉強のやる気をつのらせていた。今なお、懐かしい思い出である。このことだけでも私には、デジタル教科書は味気ないように思えるところがある。
【【独自】デジタル教科書に「不安」9割…「視力低下」「通信環境」など懸念】(12/23・水曜日、5:02配信 讀賣新聞オンライン)。公立小中学校を所管する46道府県庁所在市、政令市、東京23区の計74市区のうち、9割超の69市区がデジタル教科書の使用に不安や懸念を抱いていることが、読売新聞のアンケート調査で明らかになった。望ましい教科書の形は、62市区(83・8%)が「紙とデジタルの併用」と回答した。 デジタル教科書に不安や懸念が「ある」と答えたのは千葉、名古屋、堺、鹿児島市など24市区で、「少しある」は札幌、横浜、大阪、福岡市など45市区だった。合計すると69市区、93・2%に上る。不安な点を複数回答で尋ねたところ、〈1〉視力の低下など健康面の影響(55市区)〈2〉家庭の通信環境の確保(47市区)〈3〉校内外の安定的な通信環境の確保〈3〉教員のICT(情報通信技術)指導力(いずれも40市区)――の順に多かった。このほか秋田、津、京都、佐賀市など26市区は「『書く』時間の減少」を挙げた。盛岡市は「健康への不安はないと確信を持てず、検証が必要だ」としている。端末は家庭で使うことも想定される。大阪市は「紙ならどこでも学べるが、デジタルは通信環境が必要だ。家庭で通信費の負担が生じてしまう。通信障害が起きると、勉強できなくなる恐れがある」と指摘した。■使用時間制限 撤廃案を了承 文部科学省は22日、デジタル教科書の使用時間を「各教科の授業コマ数の2分の1未満」と定めた基準を撤廃する方針を有識者会議で示し、了承された。今年度中に省の告示を改正し、来年4月から適用する。文科省は方針に▽30分に1回、20秒程度、目を休ませる▽目と端末の距離を30センチ程度以上離す――など、子供の健康面に留意する必要性を明記した。有識者会議では「健康への影響や、学力面の効果を検証するべきだ」などの指摘が出た。
年の瀬にあって、とんだ災難
十二月二十三日(水曜日)、わが心境はきのうから変調をきたしています。実際のところ身体は健康ながら、精神は死に体です。すなわち、広くデジタルの世の中にあって、私はパソコン病に見舞われて精神の病に罹っています。腹立たしさこのうえない状態です。
腹立たしさの対象は、マイクロソフト社とわが無能力です。きのうはほぼ半日以上にわたり、マイクロソフト社のサービスセンターの女性担当者、すなわち入れ代わり立ち代わりの四名の人たちと対応に追われました。しかし対応は実らず、私は疲れ果てました。挙句、わがパソコンと私はoutlookの機能、具体的にはメールとワードの機能を失くしました。これらが使えないと私は、もはやお手上げ状態です。人様の交流はメールで、そして「ひぐらしの記」はワードで書いて、掲示板へ貼り付けているからです。
マイクロソフト社への憤りと、わが無能力をさらけ出して、突如現れた警告メッセージを書き添えます。一つは、「製品に関するお知らせ:outlookはライセンス認証されていません。outlookを継続して使えるように、2020年12月25日までにライセンス認証を行ってください」。一つは、「サインインしてofficeを設定する」。
わが無能力は、このメッセージに対応できません。マイクロソフト社のアドバイスも埒明かず、私は対応を諦めました。現在使用中のパソコンは、三年前に買い替えたばかりのものです。予告:あさっての二十五日から、このパソコンはメールとワードの機能を失くします。デジタルとかパソコン生活は、もうコリゴリです。年の瀬の憂鬱は、いや増しています。
ユズの実
きのう、「冬至」(十二月二十一日・月曜日)が過ぎた。きょう(十二月二十二日(火曜日)は、半年先すなわち令和三年(二〇二一年)の「夏至」(六月二十一日)へ向かってのスタートとなる。遠い先のことのようだけれど、半年など短い時のめぐりである。特この先、新型コロナウイルスの終息が見えないなかではなおさらである。確かに、そのことに気を取られていると、アッというほどもない短い時のめぐりを再び体験することとなる。なぜならこのことは、今年すなわち令和二年(二〇二〇年)で、身に染みて体験している。
日に日に伝えられてくる感染者数の数値に怯えているうちに、半年はおろか早や一年が過ぎようとしている。これに応じてわが余生は、速足で持ち時間を縮めるばかりである。きのうの私は、暮れ急ぐ昼間のうちに「ユズ風呂」に浸かった。浸かりながら、浅ましく無病息災を願った。もちろん、浮かぶユズに願掛けをする人間の強欲さも味わっていた。
浮かぶユズの実を揺らし近づけて、手に取り鼻先へ近づけた。たちまち、ユズの香りに心(気分)が和んだ。すると私は、古人(いにしえびと)の知恵に感嘆した。現在の世は、人工的に香りをつけて商品化されている。ところがそれらの香りは、さりげないユズの香りに比(くら)べ負けのところがある。ユズ風呂は願掛けなど欲張らずこの香りに、慌ただしい年の瀬の気分を和めることこそ、それで十分の価値があると言えそうである。そのうえ、暮れ急ぐ昼間のうちにユズ風呂に浸かれば余計、冬至にまつわる思いは切々たるものがある。
私はユズの木を仰いで、十個余りをとった。リスに残す実は一つもなく、全部とり終えた。傍らの妻は、隣と向かいの二軒に、二つずつ持って行った。生る年に比べれば、三分の一程度の配りにすぎない。それでもどうにかわが家の年中行事を済まして、わが夫婦の皺だらけの顔は、ちょっぴり笑顔になった。ユズの実の役割は、ユズ風呂だけではない。
「冬至」
「冬至」(十二月二十一日・月曜日)。私にはきわめて感慨のつのる日である。一つは、「夏至」と対比されて一年のなかで、半年ごとの折り返し点である。一つは最も夜間が長く、そのぶん最も昼間が短い日である。さらに加えれば冬至にまつわる古来の風習、すなわちユズ風呂がある。ユズ風呂に息災を願うのは、もちろん心もとないところがある。けれど、年の瀬にあって心の和むところはある。
わが家の庭中のユズの実は、冬至に合わせて黄色く熟れている。しかしながらユズの実の出来は不作で、両手の指の数ほどしか着けていない。これではきょうは、わが家だけのユズ風呂にしかならない。鈴なりのときのユズの実は、向こう三軒両隣へ持ち込んでいた。すると、義理立ての微笑み返しに出合って、寸時心が和んだ。
ところが、生りの不作をこうむりきょうは、ユズの実にすがるささやかな近所づきあいは諦めざるを得ない。ちょっぴり、寂しい冬至の夜明け前を迎えている。そのうえ現在は、わが身に堪える寒波の訪れに遭っている。冬至はこの先、本格的な寒波の訪れのシグナルでもある。
一方では寒波に耐えてそれを乗り越えれば、暖かい春の日が訪れる。そのため冬至にあっては、まさしく一陽来復の思いつのるところがある。これらのことは冬至にまつわるわが感慨であり、同時に時のめぐりの速さ(感)に慄(おのの)くばかりである。もちろん私は、迷信とも言えるユズ湯など当てにすることなく、不断から無病息災を願っている。しかしながらままならず、わが日常の営みは病に怯(おび)えるばかりである。
現在は、胃部不快感に怯えているところもある。そしてきょうは、妻と相成して患者に成り下がり、そろって歯医者の予約日である。人間にとりつく四苦、すなわち「生・老・病・死」を強く思わずにはおれない冬至の朝の訪れにある。うっすらと、長い夜が明けつつある。
年の瀬はカウントダウン
十二月二十日(日曜日)、現在、パソコン上のデジタル時刻は3:23と、刻まれている。年の瀬も大晦日に向かって、いよいよカウントダウンの始まりである。ところが、いっこうに年の瀬の感じがない。もちろん、来る日も来る日も新型コロナウイルスの終息に気を留めているからである。実際のところはいまだに収束の兆しさえ見えず、日々恐怖感がつのるばかりである。確かに、日本国内の感染者数はなお勢いを増しつつある。おのずから、収束や終息は新しい年すなわち来年(令和三年)へ持ち越しとなる。
こんななかにあって私は、新型コロナウイルスのせいであらためて人間の素晴らしさに気づき、感嘆しているところがある。具体的には、人間の知能や知恵への感嘆である。なお具体的には、新型コロナウイルス対応のワクチン開発の速さである。新型コロナウイルスは、突如として人間界に現れた異界の魔物である。それなのに人間の知恵は、それに抗(あらが)う薬剤を研究開発し、設備をととのえて製造して人体に接種できるまでになったのである。そして、そのスピードは一年足らずの速さである。すると、私にはこの速さが人間の驚異に思えている。新型コロナウイルスの脅威に明け暮れるなかにあって私は、このことを知り得たことは唯一の望外の幸運だった。このことを強く感じたため、きょうは記して置きたい思いに駆られていたのである。
私には、「人間、万歳!」と、言えるところがある。いや、「人間、賛歌!」と、言いたいところである。
人生の哀歓、いや哀感
十二月十九日(土曜日)、気分悪く起き出している。就寝中、胃部不快感をおぼえていたせいである。おのずから、起き出しても気分が滅入っている。就寝中の胃部不快感は、このところ常態化しつつある。こんなことで現在、文章を書く気分が殺がれている。こう書いてこの先書けず、休養を決め込む手はある。しかし、せっかくキーボードへ向かっていることでもあるから、ふと浮んでいる成句を書いて、夜明けまでの時間を埋めることとする。
電子辞書を開いて復習するまでもなく、だれもが日常的に用いる成句を三つほど書き添えることとする。こんな成句が浮かぶのは胃部不快感にともない、わが身に焼きが回っているのであろうか。そうであれば、「くわばら、くわばら……」である。
【禍福は糾(あざな)える縄の如し】:幸福と不幸はより合わせた縄のように表裏一体であるということ。
【塞翁が馬】:人生の幸不幸は予測しがたいことのたとえ。出典:淮南子・人間訓の故事に基づく句。昔、中国の北辺の塞(とりで)近くに住んでいた占いの巧みな老人(塞翁)の馬が胡の国に逃げた。気の毒がる隣人に老人は「これは幸福の基になるだろう」と言ったところ、やがてその馬が胡の駿馬(しゅんめ)を連れて戻ってきた。隣人がそれを祝うと、老人は「これは不幸の基になるはずだ」と言った。老人の家は良馬に恵まれたが、駿馬を好む老人の子が落馬して足の骨を折ってしまった。隣人がそれを見舞うと、老人は今度は「これが幸福の基になるだろう」と言った。一年後胡軍が大挙して侵入し、若者のほとんどが戦死した。しかし、足を折ったその子は戦わず済んだので、親子ともども無事であったという。
【沈む瀬あれば浮かぶ瀬あり】:人生のうちには悪いときもあればよいこともあるということ。悪いことばかりが続くものではないというたとえ。
……そうかなあー……。夜明けまではまだたっぷりと悶(もだ)えそうである。