ひぐらしの記

ひぐらしの記

前田静良 作

リニューアルしました。


2014.10.27カウンター設置

内田川(熊本県・筆者の故郷)富田文昭さん撮影

 

私は「生きる屍(しかばね)」

 世の中の人たちはみな、生き続けることに苦しんでいる。病魔が身体にとりついている人たちはたくさんいる。人災、すなわち突然の事故や事件に遭遇し、たちまち日常生活に難行苦行を強いられる人たちも数多である。これらに加えて、天災すなわち地震はもとより避けるすべない様々な災難が暇(いとま)なく襲ってくる。現下の日本社会、いや世界中の国々は、新型コロナウイルスのもたらす感染者数と、それによる死亡者数の数値に日々晒されている。まさしく人間は、みずからでは抗しきれないさまざまな禍(わざわい)の渦(うず)の中にある。
 こんな中にあって健康体の私が、わが日常を嘆いているのは、はなはだしい弱虫と自覚するところである。その証しのひとつをこうむり、このところの私は、幼稚な文章さえ書けない。どうにか書けば、マイナス思考と愚痴こぼしまみれになる。おのずから文章は、人様の気分壊しとなる。だから、書いてはいけない。いや、実際のところは、私自身「百八煩悩(ひゃくはちぼんのう)」にとりつかれて、まったく書けない。このところのわが精神状態と日常である。
 わが周辺の桜は、現在満開である。自力叶わず、桜頼りのわが気分癒しである。ほとほと、なさけない。やはり、文章と言えるものは、書けない。桜日和ののどかな朝ぼらけが訪れている。三月二十七日(土曜日)、文章とは言えない恥晒しの「綴り方(作文)」を書いてしまった。

「花より団子」

 頃はよし、桜の花の満開の時季にある。しかし、私に花見や宴(うたげ)の気分は出なく、恨めしく時が流れていく。人生の終盤において、文字どおり人生の悲哀が訪れている。それに打ち勝つ気力を失して、きのうの私は、またもやずる休みに甘んじた。昼間にあっては、腰を傷めている妻の髪カットの介添え役を務めた。背中を海老型に折り、わが身にもたれかかる妻の姿を見つめていると、まなうらに涙がいっぱい溜まりかけていた。
 さて、目覚めると、きょうもまた休みたい気分が充満した。その気分を阻むためには、バカなことでもいいから書かなければならない。私は薄弱な心を咎(とが)めて、ちょっぴり気分を揮わした。すると、時節柄なのであろうか、幼稚園児であっても一度教えれば誰にでも分かる、たやすい成句が浮かんだ。浮かんだ成句は、「花より団子」である。もとより凡愚の私とて、幼いときから知り過ぎている日常語である。しかしながら休み癖を恐れて、枕元の電子辞書を開いた。
 【花より団子】:花見に行っても、桜より茶店の団子を喜ぶことからいう。「酒なくて何が己(おのれ)の桜かな」、無粋(ぶすい)と罵(ののし)られようとも、花見の興(きょう)は桜の花を愛(め)でる風雅よりも花に下で開く宴にあるのであろう。使い方:風流より実利、外観より実質を重んじるたとえ。「講演を聞きに行くより、うまいものでも食べたほうがいい。花より団子だよ」。「表彰状より金一封のほうがありがたい。花より団子というじゃないか」。誤用;「花見より団子は誤り。出典:江戸版「いろはがるた」の一つ。類表現:「花の下より鼻の下(風流よりは口に糊(のり)する毎日の生活のほうが大切であること)。「一中節より鰹節」。「詩を作るより田を作れ」。
 見出し語を替えて、【口に糊す】のおさらいを試みた。「糊口(ここう)を凌(しの)ぐ」の使い方を参照。
 【糊口を凌ぐ】:糊口は口に糊す(粥をすする)の意で、どうにか暮らしを立てていくことをいう。誤用;飢えを凌ぐ意で使うのは誤り。
 飛んだ無粋なことを書いては、継続の足しにしてしまった。自虐と自責の念に駆られている。桜の季節にあって、花への感興はもとより、団子にさえ嗜好が遠のいている。

わが財布の役割

 三月二十三日(火曜日)、寒気のぶり返しに遭って、身を窄(すぼ)めている。いや、実際には太身(ふとみ)は一ミリも窄んでなく、気分だけが萎(な)えている。
 体重コントロールは、わが長年の願望である。これまで、体重減らしのための努力は、何度も意を固めて繰り返してきた。生来、私には意志薄弱の性癖(悪癖)がある。そのせいで、そのたびに願望は果たせないままに、とうとう余生短いところまで来てしまっている。かえすがえす、悔い残るわが意志の弱さである。
 もちろん、寒気のせいではない。私は起き立てにあって、こんな馬鹿げた思いをめぐらしている。切ない、自問自答である。「日に日に中身が減り続けるものはなあーに? 逆に増え続けるものはなあーに?……」。わがことで言えば、それは財布である。わが財布の中には、札と診察券(カード)が鬩(せめ)ぎ合って同居している。これらに商魂の証しと、それに釣られた多くのポイントカードが折り重なっている。こちらは、意図した双方の根性の浅ましさの証しである。
 通院のたびに重なるカード類から、私は該当する診察券(カード)を選び出すことになる。ところが、このときは戸惑うことばかりである。あるとき、戸惑う証拠としてこんなこともあった。私は受付係りの女性にたいし、診察券(カード)のつもりで、ポイントカードを差し出したことがあった。にこやかな顔で間違いを指摘されて、慌てふためいた。ようやく選び出して、「すみません。これですね」と、言わずもがなのことを言って、当該医院のカードを手渡した。恥ずかしさで赤面の至りはつのる、わが失態の一コマである。
 いずれ、キャッシュレスの世の中になり、財布自体が用無しになるかもしれない。押印が不要となり、ハンコ屋が音を上げた。このことに照らすとそうなれば、こんどは財布づくりの生業(職人)が音を上げるであろう。そうなってわが古びた財布の中に、診察券(カード)とポイントカードだけが重なり合うようにでもなれば、私は寂しい心地になるだろう。現在のところわが財布は、わが生きる砦(とりで)である。実際にも私は、財布にわが命を託している。
 きょうは、半年ごとに予約を繰り返す「大船田園眼科医院」(鎌倉市)への通院日である。予約時間はなんと、午前八時である。通院目的は、緑内障治療における経過観察である。こののちには「大船中央病院」における、これまたほぼ半年ごとにめぐりくる通院(三月二十九日)が予約されている。こちらへの通院は、胃と腸における内視鏡観察の要否診断のためである。
 頃は、財布の役割がずっしりと重たい桜の季節である。いや、私の場合は、桜見物などにはまったく用無しの財布のお出ましである。ほとほと、切ない。通院準備のため、この先は書き止めである。

きょう現在、生きてます

 二月十九日(金曜日)、遅く目覚めて、そのぶん遅れて起き出して来た。そのため気が焦り、文章を書く気分はまったく殺がれている。こんなときは、あえて恥を晒すより休むにかぎる。これまで知り過ぎている、わが確かな経験則である。それでも、焦燥感に慄きながらキーを叩き始めている。それは、現在生きている証しのためである。
 八十歳を過ぎれば、時々刻々とめぐる時に合わせて、生きている証しを披露しなければならない。これすなわち、老後を生きる者の務めである。きょうは、一つだけ書き記して置きたいものがある。いや、腑に落ちないものがある。
 東京五輪・パラリンピック大会の組織委員会の新たな委員長には、きのう(二月十八日・木曜日)、橋本聖子前五輪大臣が決定した。前任の森会長が辞任(二月十二日)されて以来、一週間近くに及ぶ迷走ののちの決定である。この間の決定過程には、まるで蛆(うじ)が湧いたかのように、にわかにさまざまな世論が湧き出していた。浮かんだ四字熟語を浮かべれば、良かれ悪かれ「議論百出」のさ迷いぶりであった。
 過去の決め方からすれば、私にはまさしく青天の霹靂とも思えるものがあった。結果、世論を恐れて、それに阿(おもね)る決め方で、繕(つくろ)ったにすぎないように思えるところがある。確かに、もとより国民に見えるかたちで、議論を尽くし決まることが望ましいのではあろう。だとしたら、このたびの決め方は、良き前例となるのか、いやいや悪しき前例となるのであろうか。はなはだ疑問を残す決め方である。
 もちろん私は、橋本新会長にたいして、寸分の異存はない。なぜなら私は、当初から五輪相すなわち橋本大臣にすんなりとすればいいと、思っていたからである。挙句、単なる体裁づくりのごちゃごちゃの決め方になった。一方、後任の五輪相には、見えるかたちの議論などまったくなく、あっさりと丸川議員は指名された。元よりこちらは、国民には一分間さえも見えるかたちの決め方ではなかった。だからと言って不満かと言えば、不満を挟む余地さえまったくない。結局、このたびの橋本新会長の決め方には、メディアに煽られ続けた世論への阿りだけが見え見えのものとなっただけである。
 なんだか、すっきりしないところはある。ただ、うんざり感をともなう気分が救われるのは、普段のテレビ映像や記者会見などで垣間見る、橋本新会長のお人柄の良さである。もとより私は、橋本新会長には重責を頑張ってほしいと、万雷のエールを送るところである。一方、棚ぼたの丸川五輪相のニコニコ顔には、エールを送るつもりはない
 。生きている証しは、常になんだか切ない。書き殴りだから、無駄に長い文章になってしまった。ほとほと、詫びたい気分である。

ワクチン様様、人間界賛歌

 二月十八日(木曜日)、パソコン上のデジタル時刻は現在、2:43と刻まれている。今のところは、窓の外に望まない雪景色を見ずに済んでいる。しかしながら部屋の中は冷え冷えとして、わが現在の体感温度は、とうに過ぎた「大寒」(一月二十日)の頃を凌ぐ低さである。そのためわが心情は、走り書きを加速させて、階下の暖房装置のある茶の間へ逃げ込みたい思い満杯である。熾烈な寒さの証しには、わが身体はブルブルと震えている。
 極度に寒気をおぼえていることには、わが失態も加わっている。すなわち、このところの私は、すでに冬防寒重装備を外していた。きょうの予報をかんがみれば、とんだしくじりである。予報によればきょうは、日本列島はあまねく降雪予報にある。日本列島の南の地方わがふるさと県・熊本県でさえ、予報によれば積雪の高さは半端ない。いまだに二月半ば過ぎの降雪予報だから、予報がピタリと当たったとしても、名残雪とは言えそうにない。強いて言えば、冬の出口から春へ向かう季節にあって、人々に春が持て囃されていることにたいする、冬のやっかみであろう。自然界の季節替わりにあって、人間界は飛んだとばっちりをこうむっている。このためきょうは、自然界賛歌はお蔵入りである。
 逆にきょうの私は、普段は滅多にお目にかかれない、人間界賛歌の一つを誇らしげに記して置きたい思いに駆られている。もちろん、他力本願すなわち人類のなかで、飛びっきりの知恵者のおかげでる。きのう(二月十七日・水曜日)から日本の国にあっては、先行接種という掛け声の下、新型コロナウイルスに抗するワクチン接種が開始された。接種の様子を見るかぎり、きわめて順調な船出である。それらの一つは、注射針の痛みもそうなく、さらにはおおむね懸念されていた副反応もないようである。まさしく、この先へ期待あふれる、「めでたし、めでたし」の船出である。これにちなむ人間界賛歌は、ずばり人間の知恵と知能の素晴らしさである。
 実際のところは一年にも満たないスピードで人類は、新型コロナウイルス向けのワクチンを研究開発し、大量の工場生産を叶えて、世界の国々および人々への接種へ漕ぎつけたのである。まさしく、「無から有」を成し遂げた人類の快挙である。これに応えて私は、接種の順番がくればさまざまな懸念を払拭(ふっしょく)し恐れず、右肩脱いで注射針を差し込んでもらうつもりでいる。自然界は間髪を容(い)れずに、恐ろしさ(脅威)を見舞ってくる。ところが、このたびの人間界の快挙は、同音異義の驚異である。
 三十分強の走り書きで茶の間へ逃げ込むのは、自然界の悪戯(いたずら)のせいである。私は茶の間でしばし、人間界のほどこしの温もりに浸りたい。嗚呼、心地良い人間界賛歌である。

どうでもいいこと、書いた

 わが購読紙・朝日新聞は、記事の誤りの訂正にあっては虫眼鏡を片手にして探しても、気づかないほどに紙面の片隅にごく小さく記している。普段の強い筆法からすれば、きわめてお座なりの訂正の仕方である。へそ曲りの私は、謝罪の意思を感ずることはできない。テレビニュースなどにおける誤りの場合は、アナウンサーやキャスターが番組に最後になって、瞬間的にちょこっと訂正して、すぐさま番組自体がほかに変わる。これまた、謝りの意思などまったく感じられない、身勝手きわまりない訂正の仕方である。総じてメディアは、自分には甘く他者に厳しい、悪代官の見本さながらである。その一方では企業などが不祥事を起こした場合、重役連が横並びになり、深々と頭を垂れる光景を長々と映し出す。こんな映像は、視聴者にとってはなんらの価値もない。
 さて、きのうの私はあとで気づいて、文章の中に誤りを書いていた。具体的には、新型コロナウイルのワクチン接種開始を週末あたりからと書いた。ところがこれはわが誤りであり、実際には週半ばのきょう(二月十七日・水曜日)からの開始という。もちろんわが文章自体は、あらためて謝るほどの影響はまったくない。しかし、誤りを頬かむりもできない。これまた、書き手としての身勝手な一行である。すなわち、恥じて、詫びるところである。
 ネタ不足のため、どうでもいいことを書いて、文章を閉じるものである。これではいくらかあっけない。そのため、以下は身勝手な付則である。すなわち、謝りの仕方によってはかえって不評を買うと思える、心すべき四字熟語を電子辞書にすがり復習を試みる。
 [慇懃無礼(いんぎんぶれい)]:言葉や態度が丁寧すぎて、かえって嫌味で不快感を与え、相手にたいして失礼なこと。また、表面上は礼儀正しく丁寧ではあるが、実は相手を見下していること。構成:「慇懃」は非常に丁寧なこと。「慇」「懃」ともに丁寧、ねんごろ。「無礼」は、礼儀知らず。失礼。
 誤りの仕方にあっては、わが不徳、心すべき「四字熟語」である。私は常々、この四字熟語を肝に銘じている。曜日)の夜明け前にある。もちろん、地震の恐怖も真っ平御免である。

二月半ばの、夜明け前

 世界中に恐怖にとどまらず夥(おびただ)しい数の感染者数と死者をもたらし続けてきた新型コロナウイルスは、このところようやく感染の勢いを緩めつつある。もちろん、この上ない朗報である。
 日本の国にあっては、さしものの新型コロナウイルスも難敵・ワクチンの接種に怯えてなのか? 接種開始を前にして急激に感染者数を減らし始めている。日本の国にあっては優先順位をつけて、今週末あたりから待ち焦がれていたワクチン接種が始まるという。感染者数の減少傾向に加えて、ワクチン接種が重なれば、一気呵成に新型コロナウイルスという、鬼退治が果たせるかもしれない。魔界の異物には、人類の知恵で対抗するにかぎる証しである。
 現在の私は、人類の知恵の効き目に胸ワクワク感をぬぐえない。もちろん、うれしい悲鳴であり、欲張って効果覿面を願うところである。一方で、ワクチン接種が国民に行き渡らない前に感染が終息に向かえば、おのずからワクチンの存在価値が色褪せる羽目ともなる。実際にもワクチン接種を拒む人たちが増えて、挙句、ワクチン自体が使用されずに無用の長物ともなりかねない。実際のところは、そうなれば万々歳のはずである。しかしながらそうなれば一方、日本政府は無駄な買い物をしたと、非難を浴びるかもしれない。もちろんワクチンは、買い置きの防災用具とは異なり、直接的に命の消滅を防ぐ、鬼に金棒である。
 日本国民いや人類は、どんなにかワクチン開発に希望を託してきたことだろう。それでも、ワクチンの余り現象が起きたら、「日本政府の無駄遣い」と、嘯(うそぶ)く人は必ずいる。新型コロナウイルスとの戦いにかぎれば、「うれしい誤算」、と寛容の精神が望まれるところである。「喉元過ぎれば熱さを忘れる」。人類の浅ましさは見たくない。いやいや、新型コロナウイルスとの戦いにあっては、真っ平御免こうむりたいものである。
 のどかな春の訪れを願う、二月半ば(十六日・火曜日)の夜明け前にある。もちろん、地震の恐怖も真っ平御免である。

「生きとし生きるもの」の天敵

 人間はもとより、生きとし生けるものにとって、いのちを長らえることは、まさしく寸刻も気を緩められないサバイバル(生き残り)の闘いである。このたびは地震だけれどほかの天災や、さまざまな災害に見舞われるたびに私は、こんな思いにとりつかれている。たまたま今回は新型コロナウイルスだけれど人のいのちは、常にさまざまなウイルスに脅(おびや)かされて、挙句には突然の病、あるいは死をこうむっている。これらの災難にもとより身体を蝕(むしば)む病、さらには避けて通れない事故や事件などの人災を加えれば、人のいのちはこれらの間隙を縫って、どう生き続ければいいのか。ただただ唖然とするばかりである。
 翻(ひるがえ)って、人間以外の生きものの生き難(にく)さを慮(おもんぱ)れば、最大の難敵(外敵)に位置するのは、日夜捕獲の鍛錬を積んだ人間がいる。人間は農業、漁業、猟師、ほかにもさまざまに生き物を懲らしめる生業を立てて、みずからのいのちを生き長らえている。わが子どもの頃に農業を営んでいたわが家は、田んぼや畑に効きめの強い薬剤をまき散らす(散布)ことは、金のかかる大仕事だった。早苗の頃にあって私たち学童には、蛾虫を捕えて小瓶に入れて、登校時に「何匹」と、報告する宿題が課せられていた。私は登校前の朝まだき苗床に分け入り、数えて蛾虫を小瓶に入れていた。村人の納屋には、常に殺虫剤が買い置きされていた。もちろん、害虫退治のためである。
 現在、わが家の庭中の椿の木には花の蜜を吸いに、タイワンリスやヒヨドリ、はたまたシジュウガラとメジロそしてコジュケイがやってくる。後者は「おいでおいで」の歓迎気分だけれど、タイワンリスとヒヨドリには、生け捕りの罠(わな)をかけたいところである。
 子どもの頃、確かにヒヨドリにあっては、山中に手作りの罠をかけて生け捕り、揚揚(ようよう)気分で持ち帰り、羽を毟(むし)り焼いて食べていた。わが家近くには、おとなの「鉄砲撃ち」の名人がいた。村道でその人に出会うと怖くて、わが身は縮んだ。隣の小父さんは、内田川に広い網を投げ込む「網打ち」を日々の趣味にされていた。私を含む隣近所の子どもたちは、内田川の魚取が最大かつ最高の楽しみだった。
 魚、鳥、益虫および害虫、単なる虫けら、そして野生動物、すなわち挙(こぞ)って人間以外の生きものにとっては、人間ほど直接的にみずからいのちを死に至らしめる外敵はいないはずである。ところが、人間以外の動物にかぎらず植物もまた、日々人間に脅かされている。「生け花講習会」などでは、人間の手が持つハサミで、競い合ってニコニコ顔で仕上がり具合を愛(め)でながら、その過程にあってはだれもが思う存分ズタズタ切りの無慈悲さである。村中には育ち盛りの枝葉を、容赦なく切り落すことを業とされる、樵(木こり)の人もいた。みずからのいのちを生き長らえるためには、人間の浅ましさは底無しである。みずからが生き長らえるためだから、綺麗ごとは言いたくないけれど、たまには懺悔(ざんげ)をしてもいいと思えるほどの罪作りである。
 そうは言ってもやはり、私の枕元にはムカデ殺しの強力殺虫剤は欠かせない。結局、人間以外の生きとし生けるものにとっては、人間こそ天変地異の恐ろしさを凌ぐ、最大の外敵であろう。ちょっぴり、済まないと思うだけで、人のいのちは、ほかのいのちを蝕んで、生き長らえなければならない。人間は天敵に襲われ、みずからも天敵になる。いのちに共存はなく、殺し合いである。

再び「震度六強」の地震、宮城県、福島県

 春はあけぼの……。そしてきょうは、チョコレートに愛や恋心を託す「バレンタインデー」(二月十四日・日曜日)。多くは片思いや義理チョコの切ない告白である。
 こんな軽薄のことは書いておれない。なぜなら、わがお里の知れるところである。パソコンを起ち上げると、地震にまつわるメディアの配信ニュース項目が羅列していた。私はこんな大それたニュースを知らないままに、いつもになく春の眠りに落ちていたのである。
 地球に地震が起きなければ、人類はどんなに安寧できるであろうか。虚しく、残念無念である。
 『「ゴー」地鳴りのような音、柱がミシミシ……車で逃げた女性「10年前のように津波来るかも」(2/14・日曜日、2:47配信 讀賣新聞オンンライン)』。「東北を激しい揺れが襲った――。13日深夜、福島県沖を震源とする地震が発生し、宮城県と福島県で震度6強を観測。家々で悲鳴が上がり、棚などから物が落ちて散乱した。2011年3月の東日本大震災からまもなく10年となる街は、再び恐怖に包まれた。」
 あたふたと階下へおりて、テレビの前に陣取るため、この先は御免蒙ることとしたい。妻は寝ずにテレビの地震報道に怯えて、釘付けになっているであろう。そしてひと声、「パパ、知らなかったの? 馬鹿よ!」と、言うだろう。確かに、私は大馬鹿である。春先の眠りは深い。

人生行路、試練

 二月十三日(土曜日)、過ぎ行く二月のほぼ半ばにある。この二月は、大学をはじめとしてさまざまなレベルの入試と、それに関わる合否の知らせのシーズン真っただ中にある。まさしく、人生行路の始発や門出として、若人が体験する厳しい試練である。確かに、当時を顧みてもこの上ない、厳しい試練どきだった。もちろん、だれもが合格にありつけることはできない。しかし、だれしも悔いを残さない奮闘を望むところである。そうは言っても、必ず悔いが残ることは体験上知り過ぎている。
 翻って現在の私は、人生の終着へ向かって試練のときにある。これまた、私にかぎらずだれしもが、避け通れない人生行路の終盤における試練である。強いて言えば質はまったく異なるけれど、厳しいことでは共に大差ない。もちろん、人生終盤の試練にあっては吉報は望めず、おおむね訪れるのは厳しい凶報(訃報)になりがちである。
 冬から春への出口の胸弾むどきにあって、こんなことしか浮かばないのか! と、寝起きの私はみずからを責めている。確かに、冬は春への出口のさ中にある。昨夜の就寝時の私は、冬布団の内に重ねている毛布を跳ねのけた。毛布は、もはや用無しである。春はどこからくるのやら?……、わが身体が感じている、確かな春の訪れの証しである。欲張って、天変地異無き春の訪れを願うところである。自然界に比べて人間界は、常にバタバタしているけれど、天変地異の怖さに比べれば些細な変動である。
 世評に耐えきれず辞任を決められた森会長には、いくらか同情するところもある。結局、人生行路における試練は年齢や時を択(えら)ばず、いつなんどきだれしもにも訪れる哀歌である。すると、このつらさを慰め、和らげてくれるのは、自然界の恵みであろう。この季節その先駆けは、わが周りでは梅の花の綻びと、シジュウガラやメジロの巡回飛翔がある。さらには、これらに寒椿が大団円の彩りを添えている。若人の試練どきにあってはときあたかも、つらい人心を潤す、早春の自然界の恵み横溢する、ありがたいところにある。遠吠えの老婆心をたずさえて、健闘を望むところである。名残雪だけは、真っ平御免である。