ひぐらしの記

ひぐらしの記

前田静良 作

リニューアルしました。


2014.10.27カウンター設置

内田川(熊本県・筆者の故郷)富田文昭さん撮影

 

「春眠暁を覚えず」

 四月九日(金曜日)、「春眠暁(あかつき)を覚えず」、寝坊してしまった。起き出して、焦燥感まみれになっている。こんな心理状態では、この先の文章は書けない。なんだかんだと理由をつけて、このところの私は、ズル休みに逃げ込んでいる。ウグイスの朝鳴き声は、すでに佳境を呈し、わが気分を癒している。ウグイスに「恩に着る」日が続いている。
 普段の買い物にあっては好物のノブキが加わり、私は次々に出番を迎える旬(しゅん)の山菜の美味しさに舌鼓を打っている。ところが、肝心かなめの桜の季節は、見物および団子の宴(うたげ)共に、自粛を強いられて遠のけられた。桜は余儀なく歓心を殺がれているうちに、花落ちて葉桜の季節へ向かいつつある。自然界の恵む春の彩りに癒しを求めるわが心情には、切々たるものがある。それでも私は、それらの恩恵にすがらなければならない。自力本願叶わず、自然界の恵みにすがるわが日暮らしである。
 焦る心に勝てずこの先は、常態化しつつあるズル休みの実践である。朝日はカンカン照りである。

無償のタクシー券につのる思い

 新型コロナウイルスの問題は、まさしく魔界のもたらす出来事であり、加害者無き被害者現象の様相を呈しています。それゆえに人々は感染恐怖に慄(おのの)き、防御対策に梃子摺(てこず)っています。もちろん、日本政府や各地方自治体および医療関係者の対策に対し、手ぬるいなどと非難を浴びせることはできません。新型コロナウイルスへの対応は、日本国民はもとより人民共通の難題です。これへの唯一の対策の光明は、確かに人間の知恵が生み出したワクチン接種に限られると、言えそうです。
 ところが現在、好事魔多し、新型コロナウイルスにおける変異株が日替わりめし屋のごとくに次々に現出しており、そしてこれらに対するワクチン効果に疑念が生じはじめています。それでも人民は、藁をも掴む気持ちに変わりありません。おのずから現在、日本政府と各自治体、加えて医療機関は、三位一体(さんみいったい)となって接種作業の段取りに大わらです。しかしながら接種の実態は、私には漠然としたままで、臨場感が薄れていました。
 こんなおり高橋弘樹様は、さいたま市にお住いのお母様の接種日程を明確に記して、実際の接種の様子を詳細にご投稿くださいました。まさしく、機を得たご投稿にさずかり、感謝の念を添えて御礼申し上げます。これにちなんで、わが現住する鎌倉市の施策の様子を書き添えます。
 それは、こういうことです。すなわち、鎌倉市は何か所かに予定している接種会場へのアクセス不便を考慮して、高齢者に限り往復のタクシー券を提供するというものです。先日、これに関する案内が届きました。もちろん私の場合は、もとより無償提供のタクシー券に甘えるつもりはありませんでした。一方、腰を傷めている妻の場合は、接種行動に躊躇(ためら)いをおぼえていました。ところが妻は、この案内により出かけざるを得ないと、躊躇う気持ちにふんぎりをつけたようです。もとより妻の場合も、私は自弁のタクシーでそろって、出かける心づもりをしていました。
 こんなおり届いたタクシー券提供の案内には、背に腹は代えられない鎌倉市のやる気を感じました。もちろん各自治体共に、できれば100%接種(完結)への工夫を編み出し、現在は接種の段取り作業の大わらわの真っただ中にある。どちらかと言えばどうでもいい選挙の投票箇所への行動とはまったく異なり、直接的にわが身体を助ける接種であり、現在の私は真摯(しんし)かつ厳(おごそ)かな気持ちで、具体的な接種日取りの案内を待っているところです。
 日本国民はもとより日本国籍なくも日本に住む人々、すなわちすべての人民こぞって、ワクチンの効果疑念などそっちのけで、接種にあずかりたいところです。なぜなら、ワクチンに頼るしか、魔界の悪魔退治は出来そうにないと、思うからです。確かに、高橋様のご指摘にように、(なんだかなあ……?)と思うところは多々あります。しかしながら、関係者の段取り作業の多忙をかんがみて、生来へそ曲がりの私も現在は、素直な気持ちをたずさえて接種日取りとタクシー券の到着を待っています。無償のタクシー券の到着を待つのは、素直と言えるかどうか、ちょっぴり疑わしいところです。

この先、書けない

 四月六日(火曜日)、寒のぶり返しに遭って気分が萎えている。人間は苦しむために生まれている。現在のわが心境である。
 このところの私は、ウグイスの鳴き声と、庭中に飛来するコジュケイへの米粒のばらまきに癒されている。人の出会いの季節は、桜散る季節である。この先、書けない。雨上がりの道路の掃除へ向かう。ささやかな気分直しの試みである。直るわけはない。

タケノコ、礼賛

 予期しない悪夢による不快感には、腹立たしさがつのるばかりである。一方、私自身がしでかす不快感には、腹立たしさはお蔵入りである。それでも、浮かぶ四字熟語を用いれば、わがしでかす不快感は、自業自得(じごうじとく)とは言えそうである。
 学童のだれもが知り過ぎている日常語だけれど、私は目覚まし代わりに電子辞書を開いた。【自業自得】「仏教で、自分が犯した悪事や失敗によって、自分の身にその報いを受けること。構成:自業は自分のなした悪事。自得は、自分自身に受けること」。
 このところの私は、タケノコの食べ過ぎによる胃部不快感に見舞われている。まさしく、みずからの行為で、その報いを受けるという、語彙・自業自得の現場主義の学習である。いまさら、こんな学習はするまでもない。なぜなら、この世でタケノコに出遭って以来、私はタケノコを食べ続ければ、胃部不快感を招くことなど、知りすぎてきた。ふと浮んだ成句を用いれば、「猫かわいがり」に陥り、案外タケノコからしっぺ返しをこうむっているのかもしれない。これは物事のすべてに当てはまる、好きなものからこうむるしっぺ返しの報いである。もし仮にそうだとしても私には、タケノコを恨む気持ちはさらさらない。それほどにタケノコは、子どもの頃からこんにちにいたるまで、わが好物いや愛玩食材の筆頭に位置してきた。
 食材だからレシピしだいで、さまざまな食べ物の具(ぐ)になりかわる。もちろんタケノコは、主役にはなれない。しかしタケノコは、このところのわが家の三度の御飯における名脇役(バイプレーヤー)である。単なる醤油味の煮つけ、味噌和え(よみがえる母のことばでは「味噌よごし」)、木の芽御飯の具など、まったく飾りけのない「素」の美味である。
 タケノコふるさと便の第一便を食べ終えるにあたって私は、追加で第二便を甥っ子に依頼した。すると第二便は、きょうあたりにふるさと離れると言う。だから、胃部不快感はいまだに折り返し点にすぎないけれど、半面うれしい悲鳴が重なることとなる。しかし、胃部不快感をかんがみて私は、食べ過ぎには自動制御装置、すなわち制動(ブレーキ)をかける意を固めている。なぜなら、「贔屓(ひいき)の引き倒し」にでもなれば、タケノコには罪作りとなり、もちろん甥っ子の優しさにも背くこととなる。
 好物を食べるには、舵取りすなわち塩梅(あんばい)や兼ね合いが難しいところである。結局、自動装置に頼ることなく、自己の制御装置を働かせる、心構えこそ必定(ひつじょう)である。現在の私は胃部不快感をおぼえて、確かにその決意を固めている。しかしながらこの決意には、第二便が宅配されれば雲散霧消、もとより元の木阿弥になりそうな懸念がある。
 学童の頃にあって、母がこしらえる弁当の御数にあってのわが好物は、タケノコの煮物、椎茸の煮物、こんにゃくの煮物などが甲乙つけがたく、三位一体(さんみいったい)をなしていた。いずれも、単なる醤油味の煮物にすぎない。それでも、これらの入る弁当持参のときには、食欲と同時に勉強への意欲がかきたてられていた。これらにノブキの煮物が加わると、まさに好物三昧、鬼に金棒の弁当の御数のお出ましだった。胃部不快感など承知の助でやけ食いに嵌まるのは、それだけタケノコが好きという証しであろう。幸か不幸か私は未体験だが、見境ない恋愛ごっこもまた、いずれは共に不快感を招く恐れがあるようである。
 タケノコの食べ過ぎによる胃部不快感は、腹八分どまりでは抑えきれない、わが意志薄弱の証しと言えそうである。悪夢による不快感には、文章を書く気にはなれなかった。ところが、タケノコの食べ過ぎによる不快感には、曲がりなりにも文章が書けた。共に見舞われる不快感ではあっても、大きく異なるところである。

悪夢

 スヤスヤと眠れれば人間は、それだけでじゅうぶん幸福である。ところが私の場合、安眠に恵まれることなど滅多にない。それゆえに安眠にありついたときには、冒頭の感慨がメラメラと湧いてくる。
 このところの私は、就寝中にあって悪夢に魘されている。挙句、疲れ切って起き出している。そして、まったく労働の無い就寝中にあって、重労働後の疲れをはるかに超える疲労感に苛(さいな)まれている。まさしく、悪夢の祟(たた)りである。悪夢はまさしく空夢(からゆめ)、あらん限りの虚構を作り出し、就寝中のわが心身を虐(いじ)め尽くしてくる。
 誕生から八十歳を超えるこんにちまで、私には人様から虐められた記憶はまったくない。このことではみずから、稀に見る幸運児と自認するところである。もちろん、虐めた記憶もない。しかしながらこのことは、完全無欠とは言い切れない。なぜなら人様の記憶の中に、私に虐められたと思う人が存在するかもしれない。もとより人間は、人様の思いを知ることはできない。
 学童の頃の私は、友達のひとりからしょっちゅう、「ゴットン、ごいちの禿げ頭」と、呼びかけられていた。こう呼ばれていた理由は、こうである。わが家の生業(なりわい)は、水車を回して精米業を営んでいた。さらに、父の名前は吾市(ごいち)であり、五十六歳時に私をもうけた父の頭は、小学生時分にはすでにツンツルテンに禿げていた。わが家から近いところのひとりの友達は、水車の音と父の禿げ頭を知り過ぎていたのであろう。そのため、おとなの見よう見まねで子どもなりに、みずからを編み出したことばなのである。
 今様では揶揄(からか)いことば変じて、まさしく確かな虐めことばと言えそうである。しかしながら受けていた私は、まったく動じなかった。それゆえ私は、このことばを当時はもとより今なお、虐めとしてまったく勘定していない。動じなかった理由はただひとつ、私が父を好きでたまらなかったからである。
 こんな私が、人生終盤にあってなかんずく、就寝中の悪夢に魘され、心身が疲れ切るほどに脅かされるのは、何たるつらい業(ごう)であろうか。悪夢さえなければ、「ひぐらしの記」のズル休みや頓挫は、かなり少なくなること請け合いである。きのうのズル休みも悪夢のせいであり、きょう四月四日(日曜日)の実の無い文章もまた、悪夢のせいである。悪夢は、やっかみ半分にだれがこしらえるのであろうか。人間になりきれない、空想上の鬼の仕業なのか。「鬼に金棒」、いやいや、鬼に金棒を持たせるのは真っ平御免である。
 【魘される】「恐ろしい夢などを見て思わず苦しそうな声を立てる。悪夢に魘される」。
 【魘】「部首:鬼部、総画数24画。おそわれる。うなされる。おそろしい夢を見て、眠りながらおびえうめく。悪夢」。
 つらい、現場主義の生涯学習である。ただでは起きないというほどの、価値ある学習ではない。こんな学習は、もちろんただ(無料)でいい。

自己慰安

 太公望(釣師)は、水中や海中に釣り糸(多くは天蚕糸・テグス)を垂らして、水面や海面に浮く「浮き」を凝視し、引くあるいは当たりという、手ごたえを一心不乱に待っている。まさしく、青天白日の心境である。もちろん、文章を書くわが心境は、太公望とはまったく比べようがない。ちょっとだけ似ているかな? と、思うことで一つだけ浮ぶのは、文章を書くにあたって私は、心中に文意に適(かな)う語彙(ごい)をめぐらしている。ところが、実際のところはまったく異なる心境である。なぜなら、わが心境は一心不乱にはなりえず、常にアタフタ、ドタバタ、ジタバタまみれにある。
 文章を書くことで最も恐れて、それゆえ心すべきことの筆頭は、文意の乱れである。文意が乱れてはもはや、文章にはなり得ず、乱脈きわまりない単なる語彙並べにすぎない。その列なりは、もちろん将棋倒しのような見栄えなど、まったくない。
 次に心すべきことは、文中における誤字や脱字である。これらが文中に目立つようでは、これまた文章とは言えない。私はこれらのことに常に怯(おび)えて、文章を書いている。しかしながら、これらの恐怖から免れることは、毛頭(もうとう)できない。そのため私は、なさけなくも心中に逃げ口上を用意している。それは、「六十(歳)の手習いだからしかたがない」という、自己慰安である。
 電子辞書に「自己慰安」という見出しはなく、言うなればやむにやまれぬわが造語である。自己慰安とは、みずからにたいする甘えの表現である。すなわち、私は自己慰安をたずさえて、ようよう文章を書いているにすぎない。だから、青天白日とは程遠い心境である。
 【青天白日(せいてんはくじつ)】「①よく晴れた日和②心中包みかくすことのまったくないこと③無罪であることを明らかにすること。意味:真っ青な空に明るく輝く太陽。心が純潔で後ろ暗いところのないたとえ。構成:青天は青空。白日は、明るく輝く太陽。」
 きょう(四月二日・金曜日)の文章は、自己慰安と無い物ねだりの文章である。ほとほと、はしたなく、忸怩(じくじ)たる思いつのるところである。

無駄の効用

 春の季節は足早にめぐりながら、三月を過去ページへと移して、月を替えて四月一日(木曜日)の夜明けが訪れている。日本社会の習わしで表現すれば、春三月・別れの儀式多い月から、春四月・出会いの儀式の多い月へのバトンタッチとなる。並(な)べて三月と四月は、人それぞれの人生行路において悲喜交々に、巣立ちや門出の季節にある。閑話休題。現在の私は、何かを書かないと、もう書けなくなる気分に晒されている。偽らざる、現在のわが心境である。
 きのうは、ズル休みに甘んじた。わが薄弱な心は、ズル休みを決め込むと安きに陥り、そのままずるずるべったりとなり、再び抜け出せない。しがない、わが性癖(悪癖)である。それを恐れて私は、空っぽの脳髄に鞭打って、ささやかに指先を動かしている。本当のところはいたずら書きだが、実際にはいたずら書きとも言えない、単なる無駄書きである。それでも、ちょっぴり自己判定を下せば、自己評価は「無駄の効用」とぐらいには、言えそうである。なぜなら、こんな文章の不出来を恐れて、二日続けてのズル休みに逃げ込んでは、そのままキーを遠のけてしまいそうになる。
 もとより、わが生来の性癖は、意志薄弱と三日坊主の塊(かたまり)である。この性癖(悪癖)に耐えてこれまで、ヨロヨロと文章が続いてきたのは、怠け心に宿るすなわち惰性(だせい)の恩恵にすぎない。そのため、惰性の恩恵さえみずからの怠け心で止めたら、もはやわが文章はにっちもさっちもいかない。
 新型コロナウイルスは、第四波へ向かってぶり返している。人間界に悪さするウイルスに肖(あやか)っては、こっぴどく罰当たりをこうむるであろう。それでもわがひ弱な精神は、怠け心を克服しぶり返してほしいと、望むところ旺盛である。ところが実際には、日々安きところへ、深々と沈みがちになっている。どうにも様にならない、月替わりを迎えている。表題には、なさけなくも「無駄の効用」が浮かんでいる。

暇つぶしとも言えない「切ない懺悔(ざんげ)」

 定年退職後におけるあり余る自由時間の暇つぶしのための、余儀ない六十(歳)の手習いだったから、仕方ないところとは、常々承知していた。そのうえ、生来のわが凡愚が重なり、さまざまに難行苦行を強いられてきた。それでも私は、定年退職を間近にひかえて以来これまで、二十年余も文章を書き続けてきた。文章と書いたけれど、文章と言えるかどうかに自分自身、常に忸怩(じくじ)たる思いつのるものがある。だから、文章と言えるかどうかは、人様の評価に委(ゆだ)ねるところである。このところの文章は、文章とは言えそうにない。実際にも私は、私日記風に、短い文章を書いている。もちろん、語彙(言葉と文字)をだらだらと長く、かつ書き殴りで綴るだけでは文章に値しない。もとより、私日記、俳句、短歌、詩、などのすべては、文章に値するものである。
 「寸鉄人を刺す」、あるいは「寸鉄人を殺す」という、成句が存在する。あえて、電子辞書を開くこともない日常語だけれど、開けばこう説明されている。「ごく短い言葉で、人の急所を突くたとえ。寸鉄とは小さな刃物(身に寸鉄も帯びない)。ここでは鋭い警句」。
 わが文章にあってこの警句は、無い物ねだりの物欲しさの証しになりかわっている。こんなどうでもいいことを長々と書いたのは、ひとえにこのことが起因している。
 現在、日本国民の関心事のひとつには、新型コロナウイルスの第四波へのぶり返しがある。この場合は、はたして関心事という言葉は適当なのか? すなわちもっと直截的(ちょくせつてき)にふさわしい言葉に置き換えるべきではないかという、疑念である。そして、一つだけかえる言葉として浮かんだのは、それは「懸念(けねん)」である。
 桜の季節にあって、のどかな朝ぼらけが訪れている。惜しむらくはわが心中には、新型コロナウイルス第四波への懸念がある。関心事と言うには、やはりいくらかの語弊がある。文章における語彙の用い方は、難しいところだらけである。確かに、このところの文章は、定年退職を間近にひかえて、にわかに思い立った「ツケ払い」のまみれにある。
 三月三十日(火曜日)、わが能力の限界に嘆息しながら、人様にかたじけない思い、つくづくつのるところである。

春の一日

 三月二十九日(月曜日)、あえて書くまでもない、わがきょうの行動予定を記している。きょうは「大船中央病院」(鎌倉市)の消化器内科における通院日である。ほぼ半年前にされている予約時間は、午前九時である。ところが、主治医の診察前に採血など、データにかかわる検査は、この時間より先に済ましておくようにと、言われている。おそらく、検査データを診断のひとつにされるのであろう。こんなことで私は、やむなく朝駆けの通院を強いられている。もちろん、朝食抜きの通院となる。
 私は起き出すやいなや、通院への着衣をととのえた。そして現在、予期していなかったキーを叩き始めている。通院準備と出かける前の慌ただしさをかんがみて私は、早々と休筆を決め込んでいた。ところが、通院の準備を終えたことから、焦燥する心に余裕が生まれた。そのため、この文章を書き始めている。いや、文章とは言えず、出かけるまでの隙間の時間を埋めるだけの、時間つぶしにすぎない。パソコン上のデジタル時刻は、5:26と刻まれている。
 先ほど階段を下りて、郵便受けから取り出した朝刊は、雨除けのラップに包まれていた。ラップは濡れていた。あいにく、雨の通院となりそうである。雨をついての通院にあって、どんな診断が下されるであろうかと、恐々するところがある。きょうは、心もとない「春の一日」になりそうである。嗚呼、桜、哀しや! 私、悲しや! である。

「ふるさと便」バトンリレー

 三月二十八日(日曜日)、寂寥感つのる日々が、早回しで流れている。なんだかなあ……私には日数の短い二月より、三月のほうが早い日めくりに感じられている。ところがこの先は月・日を替えて、なおいっそうそう感じることとなろう。無事安寧の生存を強請(ねだ)って、バタバタする日に見舞われること請け合いである。
 緊急事態宣言の解除をあざ笑うかのように新型コロナウイルスは、日本列島くまなく勢いをぶり返している。桜の季節にあっても日本社会と国民は、憂鬱感まみれのさ中にある。輪をかけて、わが憂鬱感はいや増すばかりである。わが心境には、桜見物の感興など湧きようがない。「捨てる神あれば拾う神あり」。
 こんなおり遺志を継いで、二様の「ふるさと便」が届いた。どちらも、わが好物を知り過ぎてのバトンリレーの好意である。姪っ子(故フクミ義姉の次女)から送られてきた段ボール箱は、思わず「こんなに……」、と呟いたほどの大掛かりのものだった。箱の中には、濃緑みずみずしい高菜漬けがぎゅうぎゅう詰めにされていた。ところが、高菜漬けのほかにも自家製の味噌や、自作のサツマイモ、そして里芋が押し込められていた。確かに、これらを梱包するためには、大ぶりの段ボール箱が入り用になったのであろう。無重力といえ箱の中には、次女夫婦の善意が隙間なく詰め込まれていた。
 一方、甥っ子(故長姉の長男)から届いた段ボール箱には、自山(じやま)で掘り立てのタケノコがぎっしり詰まっていた。抱えた段ボール箱は、ヨロヨロするほどの重さだった。高菜漬けはすでに食卓に上り、そのたびに私は、フクミ姉さんの面影を偲んでいる。タケノコ便は、きのうの夜に届いたばかりである。このためきょうの私には、タケノコの皮むきが予定されている。子どもの頃から、勝手知っている皮むきである。ところが、妻が腰を傷めているため、茹でるのは初体験である。しかしながら、躊躇(ためら)うことはまったくない。生前のセツコ姉の姿が彷彿とよみがえり、わが心の和むひとときとなりそうである。
 わが憂鬱気分を晴らすもので、「ふるさと便」に及ぶものはない。実際のところは、遺志を継ぐ姪っ子や甥っ子たちの善意である。「ふるさと便」が届けば、私には桜見物などはまったくの用無しである。