ひぐらしの記

ひぐらしの記

前田静良 作

リニューアルしました。


2014.10.27カウンター設置

内田川(熊本県・筆者の故郷)富田文昭さん撮影

 

山は緑、ウグイス鳴く

 四月二十一日(水曜日)、起きて窓ガラスを覆うカーテンを開ければ、新緑まぶしい季節にある。これにわが起き待ちのウグイスが喜んで、澄明(ちょうめい)な鳴き声を高音(たかね)で奏でてくれる。小鳥の鳴き声の表現の定番には、囀(さえず)るという、ものがある。しかしながらウグイスにかぎれば、この表現は似つかわしくない。なぜならウグイスの鳴き声は、あたり一面、いや遠方まで高らかにひびきわたる堂々たる鳴き声である。さらにはウグイスの鳴き声は、主に「ホーホケキョ」と、伝えられてきた。確かに、「ホーホケキョ」のひびきがずば抜けている。しかし、ウグイスの鳴き声は、これ一音ではない。一日じゅう、鳴き声に晒されていると、さまざまな鳴き声に遭遇する。まさしくウグイスは、さまざまに鳴き声の技術を磨いて、人心に癒しをほどこしている。もちろん、ひそかに囀るときもある。またあるときは、人間いや私にたいするエール(応援歌)さながらに、まるで進軍ラッパとも聞こえるほどに、高らかにひびいてくる。山のウグイスの鳴き声は、まさに金管楽器を嘴(くちばし)に当てたかのような、私にたいする飛びっきりの援軍である。
 こんなウグイスにたいし、子どもの頃の私は、なぜか近所の遊び仲間たちと一斉に、「バカ」呼ばわりしていた。何たる、みずからの「馬鹿丸出し」であったであろうか。いまさら、悔いるところである。だから今では、忸怩(じくじ)たる思いと合わせて、その行為をつぐなう気持ちでいっぱいである。
 なぜ? 当時の私たちは、ウグイスを「バカ」呼ばわりしていたのであろうか。遅まきながら自問するところである。たぶん、ウグイスの谷渡りの速さに驚いて、なかなかその姿をしっかりと目に留めることができない、腹いせのせいだったのかもしれない。「メジロ落とし」(山中に囮のメジロを入れた籠)のときも、ウグイスが間抜けて、やんもち(鳥もち)に引っかかることはなかった。すると、このことにたいする腹いせもあったであろうか。
 しかしながら今では、ウグイスの知恵の強(したた)かさと、頭脳の聡明さに感謝しきりである。なぜなら現在の私は、日々ウグイスの鳴き声に憂鬱気分を癒されている。確かに、美的とは言えないけれど、あんなに細身、小ぶりのからだでウグイスは、人間界なかんずく私に、日々癒しの鳴き声をふるまっている。すなわち、山の緑は目に染みて、ウグイスの鳴き声は心に沁みて、私は寝起きに二重奏のエールを得ている。これらは、この季節にあって私がさずかる特等の心癒しの恩恵である。
 幸いなるかな! 山際に住む私は、ウグイスの塒(ねぐら)と、同居するほどに近くいる。加えて、山の緑のまぶしさは、かぎりなく映(は)えてあざやかである。今朝も寝坊助をこうむり余儀なく、約二十分間の書き殴りに甘んじたけれど、まったく悔いはない。このところの二番煎じ、いや三番煎じの表現だけれど、私は懲りずに気分よく表現を繰り返している。煌煌(こうこう)と朝日が降りそそいでいる、晩春の夜明けである。

晩春の目覚め

 四月二十日(火曜日)、今朝もまた寝坊助に陥り、慌てて起き出して来た。しかし、寝ぼけまなこではなく、瞼はすっきりと開いている。すでに覚悟を決めたせいなのか、文章執筆にたいする焦燥感は遠のいている。夜明けの陽射しは、昼日中とまがうほどに煌々と輝いている。山のウグイスは、朝っぱら高らかに美声を奏でている。自然界の恩恵にたっぷりと浴して、鎌倉地方はつつがなく一日の始動についている。いや、そう思うところである。
 今朝の陽射しを見遣ればおそらく、日本列島くまなく同様に自然賛歌の夜明けであろう。これまた、そう思いたいところである。しかしながら、そうは問屋が卸さない。なぜなら、日本列島には新型コロナウイルスという、文字どおり魔界の魔物が再び勢いを増して、隅々に蔓延(はびこ)るさ中にある。だから正直に言えば、いつまで続くこの鬱陶しさである。
 季節は晩春から初夏へとめぐっている。風薫るすなわち、薫風という季節用語が脳裏に浮かんでいる。季節に違(たが)わぬのどかな初夏の訪れを願っているけれど、実際のところ人間界は、季節の恩恵の後押しにすがり、まだまだ新型コロナウイルスとの闘いになりそうである。かえすがえす、残念無念である。
 早春、初春、そして仲春を経て晩春にいたるこの春は、例年になくのどかな春日和に恵まれた。ところが人間心理は、必ずしも穏やかになれなかった。いやいや、新型コロナウイルスのせいで、日々恐々とするばかりだった。そしてこの先、なおその恐れ甚大である。そうであれば人間社会は精神一到、なおいっそう新型コロナウイルス退治の決意を固めどきである。万物の霊長と崇(あが)められる賛辞を、魔物に負けて捨て去ることはもったいない。いよいよ、人間の知恵の絞りどころである。
 こんなケチな文章を走り書き、殴り書きしても、幸か不幸か気を揉むところはない。いや、間違いなく不幸である。

寝坊助は、わが宝物

 四月十九日(月曜日)、今朝もまた寝坊助。このところ常態化しいて、もはや焦燥感はない。いやむしろ、余裕の起き出しである。起き出しの心に変化をもたらしているのは、二度寝ができないことで、悶々としていた頃がよみがえるからである。そのときに比べれば、どんなに気分の良い目覚めであろうか。起き出しが遅れて、文章の執筆にしわ寄せがくれば、休めばいいことだと、開き直りの心の救いがある。確かに寝坊助は、平平凡凡こそ、至上の幸いの実践とも言えるところがある。
 先日の寝坊助にあたり私は、文章の執筆にたいする焦燥感を露わにして、嘆き文を書いて短く打ち止めにした。するとこれにたいしたちまち、大沢さまから「前田さん。寝坊助、また好し」という、激励文をを賜ったのである。これ以来私は、寝坊助を歓迎こそすれ、もう嘆くまいと心に決めた。「天佑神助」。捨てる神あれば拾う神あり。
 今朝の起き出しは、六時二十五分頃。現在のデジタル時刻は、6:38。晩春を超えて、早や初夏を思わすさわやかな朝日が煌々と地上にふりそそいでいる。尻切れトンボなどには委細構わず私は、これで文章を結んで、階下の台所へ急ぐこととする。確かに、こんな凡事が長く続けば、案外至上の幸せと言うべきであろう。なぜなら、きわめて気分良好の朝の訪れに、私は嵌(は)まっている。

愚痴こぼし、諦念

 「ひぐらしの記」において私は、常々愚痴こぼしが尽きない。わが生来の性癖につきまとう、確かな悪癖である。だから、防ぎようのない恥晒しと、自認するところである。恥晒し打ち止めの唯一の便法は、もとより文章書きの打ち止めである。ところが、これを実践すればそれはそれで、心中の空虚感にさいなまれる。結局、これまでの私は、文章書きを続けるか、それとも止めるか、この鬩(せめ)ぎ合いのなかに、薄弱な意志を置いてきた。さらには優柔不断の性癖が加わり、これまで決着をつけられずにきた。このことをかんがみればわが愚痴こぼしは、おのずから意志薄弱の祟(たた)りと、言えそうである。
 今さらながらだけれど顧みれば、「ひぐらしの記」はわが生涯学習の実践の場である。そしてこれは、大沢さまのご好意により誕生したものである。このことでは、私はなんという幸運児であろうかと、常に感謝の尽きるところはない。このご好意に報いるわが恩返しは、継続と同時にできるだけ明るい文章を書くべしと、わが肝に銘じてきた。しかしながらそれは叶わず、わが文章は愚痴こぼしまみれにある。言うなればわが愚痴こぼしは、もとより「身から出た錆」であり、わが身にべったりと貼り付いて、まったく剥がしようのない柵(しがらみ)である。
 わが掲げる生涯学習とは、「語彙(言葉と文字)の復習と、新たな学びである。そのため私は、初志の忘却を防ぐためにこれまで繰り返し、こんなことを書き連ねてきた。これまた愚痴こぼしと同様に、恥を晒し続けてきたことである。もちろん、自戒すべきことだとは知り過ぎている。それでもことあるたびに書かずにおれないのは、わが性癖の貧しさの証しである。
 確かに、六十(歳)の手習いの文章は、わが能力をはるかに超えてきわめて重荷である。いや、語彙の生涯学習自体、絵空事(えそらごと)のごとくにとうてい叶わない願望である。もとより、新たな学習などは一切望めず、もっぱら忘却防止の願いにすぎない。確かに現在の私は、語彙の忘却傾向に晒されている。この挙句に私は、忘却に立ち向かう防戦一方を強いられている。防戦の武器は唯一、枕元に置く電子辞書である。電子辞書の携行が叶わない場合は、脳髄に語彙を浮かべての復習の試みである。これなど、忘却に立ち向かうわがささやかな抵抗である。
 寝坊助を免れて早起き鳥になっても、こんな文章しか書けない。きょう(四月十八日・日曜日)もまた懲りずに、私は愚痴をこぼしている。愚痴こぼしは、今やわが確かな宿痾(しゅくあ)なのであろう。電子辞書を開いた。【宿痾】「長いあいだ治らない病気。宿病。宿疾。持病。痼疾」。
 「バカは死ななきゃ治らない」という。わが愚痴こぼしは、明らかにこの成句の範疇(はんちゅう)にある。「論より証拠」、なさけない。きょうもまた、嗚呼、ああ……。

嗚呼、ああ……

 書くこともない、書きたいこともない。年を取るということは、こうもつらいものかと感じている。すなわち、自分が年を取れば優しい、身内、友人、知人、すべてが年を取る。それが身に染みて、心に沁みてつらいのである。
 こんな下種(げす)な文章を書いたとて、自分自身は認知症状を感じていない。しかし、傍(はた)から見ればどうであろうか。四月十七日(土曜日)、けさもまた寝坊助をこうむり大慌てである。どんよりした曇り空の夜明け訪れている。嗚呼、ああ……。

情報化社会は「諸刃の剣」

 現代人は「否応(いやおう)無し」に、情報の渦の中に生きている。情報とは善かれ悪しかれ、それを受け取る人の心理を揺るがすものである。そのため、情報を受け取る人は常に、要(い)りようあるいは不要の取捨選択能力を磨いておかなければならない。なぜなら情報は、必ずしも自分自身にたいし、便益をもたらすとはかぎらないからである。いや無闇に情報にありつけば、多くの情報は無差別的に心中に流れ込み、心騒がす一因をなすところがある。
 確かに私は、アナグロとかデジタルの意味や区別もまったくわからないままに、それらを操る文明の利器(端末機器)に、日々右往左往させられている。このことをかんがみれば私もまた、逃れようなく端くれの現代人の範疇にいる。そして案外、私はパソコンを使って無用な情報流しの一端に加担しているのかもしれない。いやいや幸いなるかな! 「ひぐらしの記」という表題をいただいて書き連ねてきた文章は、まったく無用の長物にさえなりきれない代物(しろもの)である。この点では悪びれることはないと、私は自己慰安に癒されている。
 しかしながら「ひぐらしの記」を書くことにおいて私は、常に心中がびくびくしていると同時に、文章のネタ選びにあっては多くの自己制御を課している。それはもとより、不特定多数すなわち大衆に公開するブログに内在する、恐怖(バッシング)を防ぐための自主行為である。それらのなかで最もわが肝に銘じていることは、取るに足らない愚見であっても、みずからの意見らしいことは書いてはいけない、いや書かないという不文律の掟(おきて)である。すると、おのずから差しさわりが無いことをだらだらと、書き連ねる羽目となる。実際のところは日々、似たり寄ったりの文章で甘んじざるを得ない。このことでは私は、好意のご常連各位様にたいし常々、忝(かたじけな)い思いが満杯である。いや、わが能力の限界の確かな証しである。
 私は寝床のなかで、これらのことを心中にめぐらしていた。そして、起き出してくるや、こんな文章を書き始めている。もちろん、なんらの価値もないだらだら文にすぎない。それでも、一つだけ価値を与えれば、寝坊助の脳髄に目覚めの負荷を与えることぐらいである。幸いなるかな! こんな無用の文章では、バッシングを受ける要素や要因は一つもない。唯一あるのは、無能力を嘆くわが悔しさだけである。
 情報の少なかった子ども時代のわが心や行動は、文字どおり天真爛漫の振る舞いだった。ところが、さまざまな情報があふれる情報化社会にいる現在の私は、樽の中の里芋洗いのごとく、日々の情報に転がされている。つまるところ私にとって、垂れ流しの情報は「諸刃(もろは)の剣(つるぎ)」と、言えそうである。
 文章の末尾にあっては付け足しで、簡易な二つの言葉の復習のため、電子辞書を開いた。【否応無しに】「不承知と承知。相手の意向には関係なく。有無を言わせずに。」【諸刃の剣】「一方では大層役に立つが、他方では大害を与える危険をとなうもののたとえ。」確かに、バッシングを受けようのない、無価値の文章である。
 四月十六日(金曜日)、私は体冷え冷えの曇り空の夜明けにある。

暗雲

 もちろん、戦雲下とはまったく比べようはない。しかし、現下の日本社会に垂れ込む暗雲は、少しはそれに似ていて、日本国民の気分は晴れず塞ぐばかりである。いや、気分だけでなく命にかかわる災難をもたらしている元凶は、日本社会における新型コロナウイルスの蔓延である。対策分科会の尾身茂会長はきのう(四月十四日・水曜日)の衆議院厚生労働委員会で、「第四波に入っているのは間違いない」と、言われたという。専門家トップがひと言で伝えられた、新型コロナウイルスの現在の状況である。自粛疲れあるいは自粛慣れと言われるなかにあって、新型コロナウイルスの勢いのぶり返しは、専門家集団さえいくらか出し抜かれたことのようだった。
 ない物ねだりのごとくに、もう打ち止めになるだろうと、ひそかに願っていた国民の終息への期待は、四波と言われてまたもや粉々に打ち砕かれている。だからと言って、新型コロナウイルスへの対応にたいし、政府や自治体へ非難を浴びせることは慎まなければならない。なぜなら、日本社会は新型コロナウイルスのもたらす、加害者無き共通の被害者である。しかしながら大あわてぶりがメディアから、感染者数や死亡者数などの数値をともなって、今なお日々伝えられてくる。そのため国民は、いまだにまったく勢いが止まらない数値を、いやおうなく見ることとなる。おのずから他人事(ひとごと)には思えず、先ずは気分の憂鬱(感)を招き、具体的には政府や自治体の呼びかけに呼応し、自粛生活を余儀なくする。今のところは仕方なくそれに耐えているけれど、この先いつまで続くのかと、国民にはやるせない気分横溢(おういつ)である。
 確かに、他人事ではなく自分自身、憂鬱気分横溢と感染不安におののくところである。まさしく、日本列島くまなく垂れ込める、国民の気分を塞ぐ暗雲である。現下の日本列島にあっては、国民が生き続けることの困難さが日々、数値をともなって示されている。このことでは戦時下において、大本営から時々刻々に伝えられる戦況に恐々と怯(おび)える国民の心理状態に、ちょっぴり似ていると言えそうである。もちろん、銃後の守りなどと区別されるものではなく国民こぞって、行動や行為を制する文字どおり、自粛や自制するだけの武器無き戦いである。
 挙句、新型コロナウイルスの感染(力)を封じ込めるために国民が唯一すがるのは、それに抗するワクチン接種である。いよいよ日本列島にあって、優先順位をつけてワクチン(接種)のお出ましである。ワクチンと自粛行動との二人三脚で、悪の根源を叩きのめしたいところである。まさしく、日本国民・老若男女こぞっての暗雲一掃の戦いである。
 老身に鞭打って私自身、本土決戦の心意気や心構えを持たねばならないであろう。しかし、余生短いさ中にあっては、長期戦になることだけは真っ平御免である。いや、新型コロナウイルスの退治が叶って私は、おだやかですこやかな日暮らしを願っている。なぜなら、決して欲張りとは言えないほどに、私には「あと(残りの日数)」がない。

晩節における楽しみ

 四月十二日(月曜日)。春なのに、一度目覚めると、悶々として、再び眠れない。私は、晩節のつらさ、むなしさに、身を置いている。寝床の中で私は、堂々めぐりのさ迷いに、とりつかれていた。とりとめなく浮かび、めぐる思いの多くは、箸にも棒にもかからない、雑念ばかりであった。それらのなかで一つだけ、ピカリと光るものがあった。それは、新型コロナウイルスに抗するワクチンの開発スピードの速さにおける称賛と驚異だった。実際のところは、人間の頭脳と技術への称賛と驚異だった。
 すでに書いたことの二番煎じとなるけれど、それはこのことである。すなわち、薬効を生み出し治験を繰り返し、容器をそろえて大量生産を成し遂げ、ワクチンという薬液を人体へ入れ込む速さに、私はあらためて人間の素晴らしさに驚嘆せざるにはおれないのである。このことだけでも人間が、万物の霊長と崇(あが)められる、実証と言えそうである。
 一方、浮かんだ雑多な思いは数々である。それらのなかから一つだけ記すと、まさしくわが下種の思いである。今さらながらに、人生の楽しみは何であろうか? と、自問を試みた。すると、真っ先に浮かんだのは、餓鬼の思いである。ずばりそれは、嗜好する好物の飲食にありつけることであろう。なかんずく、気の合う仲間たちとの会食ともなれば、それには飲食の楽しみに加えて、出会いの楽しみが重なっている。すなわち、人と出会い、そのうえ朗らかに語り合えば、これまた人間の大きな楽しみの一つである。新型コロナウイルス禍にあっても、会食がのさばり続けるのは案外、人間にまつわる楽しみを奪われることにたいする、素直な抵抗の証しなのかもしれない。
 私の場合はとうに会食の楽しみを失くし、今やもっぱら妻とふたりしての三度の食事だけが楽しみである。私との食事を妻が楽しんでいるかどうかは知るよしないけれど、いずれはどちらも個食(孤食)となる。このことをかんがみれば現在の三度の食事は、好物の大盤振る舞いでもいいはずである。ところが、実際のところはふたりして、春・山菜に舌鼓を打つだけである。いや、これで十分である。
 ネタなく、きょうは休むべきだった。このところは、のどかな朝ぼらけが続いている。これまた、わが生存を後押している。

「いかが、お暮らしですか?」

 四月十一日(日曜日)、のどかな朝ぼらけが訪れている。ところがこの頃は、昼間はともかく、朝夕は遅れてきた花冷えに見舞われている。そのため、わが気分は委縮している。
 新型コロナウイルスは、四度目の勢いを増しつつある。収束の目途、いまだ立たずである。おのずからわが気分は、輪をかけて打ちのめされている。もちろん、世の中の空気、人様の暮らしぶりなど、おおむね翳(かげ)ったままである。すると、自分のことは棚に上げて柄に無く、人様の日常を気遣い、「いかが、お暮らしですか?」と、問いたい気分である。
 新型コロナウイルスに見舞われて以来、すっかり世の中の空気が変わり、人様の日常や暮らしぶり変わった。ひと言で表現すれば、日々恐々とするありさまである。新型コロナウイルスの抑え込みには、専門家集団の助言をよりどころにして、政府および自治体こぞっていろんな手を尽くしてきた。しかしながらいまだに、レスリングルールを借りればフォール勝ち(抑え込み)とはならず、贔屓目(ひいきめ)に見ても、反則勝ち程度にすぎない。この間の関係者の涙ぐましい努力をかんがみれば、もちろんこんな表現は慎むべきとは心している。それでも、あえて用いたくなる成句は、「イタチごっこ」である。
 このやりとりに止めを刺すのはやはり、人間の知恵が生んだワクチンと、その早期の接種であろう。メディアから伝えられるところによればワクチンの効果は、懸念されていた副作用は微々たるものにすぎず、その効果甚大という。人類の知恵にさずかり人民は、うれしい悲鳴にありついている。新型コロナウイルス禍にあって、人類共通の朗報である。半面、世界中の人々にワクチン接種が完結しなければ、人類は新型コロナウイルスとの闘いには勝てないという、確かな証しと言えるのかもしれない。気が抜けるほどに遠望する闘いだけれど、私は他力本願に、人類の勝利を信ずるところである。

野山賛歌

 四月十日(土曜日)、きのうに続いて寝坊助の起き出しをこうむり、心が焦っている。加えてきょうは、好物・春山菜の食べ過ぎによる、胃部不快感に見舞われている。好物を寵愛(ちょうあい)ならぬ溺愛(できあい)したための自業自得の春の祟(たた)りと言えそうである。いや、実際のところは幸運だから、春の祟りとか、しっぺ返しとか、言ってはいけない。なぜならそう言えば、好物たちから大目玉をこうむりそうである。
 焦燥感と憂鬱感を起き立てにあって、真っ先に癒し慰めてくれるのは、ウグイスの朝鳴き声である。加えて、窓ガラスを覆うカーテンを開けば、目に染みて心に沁みる山の緑である。野山の景色は、まさしく新緑真っ盛りである。芽吹きの頃の萌黄色から今や浅黄色になり、こののちは濃緑を帯びて、向かって深緑へと変ってゆく。これらの様子を手間暇やお金をかけずに眺めていると、日夜、山崩れや土砂崩れに慄いている私にとっては、山からさずかる望外の恩恵である。
 山の法面と一体をなす周回道路の側壁の上には、わが手植えの花大根(諸葛菜)が帯び長く、紫色の花を咲き誇っている。花の切れ目には野生のノブキがわが物顔に、押し合いへし合いしながら緑の葉を広げている。窓ガラスを通してこれらにかかわる人様の動きには、嬉しいことと悲しいことが入り混じる。嬉しいことは立ち止まり、カメラを向けてくださる人の姿である。一方、悲しいことは、根こそぎ捕って遠ざかる花泥棒の姿である。確かに、わが手植えの花大根は、今や路傍の花へと成り替わっている。それでも、この様子を眺めるわが夫婦は、腹立たしさと共に、虚しさに見舞われている。
 新型コロナウイルス禍の感染恐怖下にあってか、周回道路をめぐる見知らぬ人の数はやたら増えている。自然生えとも思える路傍の花大根が、気分直しや手慰みの一助となっているとなれば、知らんぷりをすべき行為なのかもしれない。ところが、わが夫婦はそんな悠長や寛容な気分になれない。不徳のわが夫婦である。
 今朝もまた心焦って、この先が書けなく、ズル休みの体(てい)である。夜明けの空はきのうの朝のカンカン照りとは異なり、どんよりとした花曇りである。周辺の桜の花は散り急ぎ、今や葉桜に変わり始めている。それでも、これまた好しで、この先わが気分を癒してくれであろう。惜しむらくは付近に川はなく、山河賛歌とは言えない。それでも、一方だけで十分の野山賛歌である。