ひぐらしの記

ひぐらしの記

前田静良 作

リニューアルしました。


2014.10.27カウンター設置

内田川(熊本県・筆者の故郷)富田文昭さん撮影

 

きょうも、休むべきだった

 八月十八日(木曜日)、夜明けが訪れている。朝日の見えないどんよりとした曇り空である。人間の営みにはお構いなしに、尽きることなく夜明けは訪れる。人間界とは異なり、泰然とした自然界の営みである。きのうの私は、書くこともなく、書きたい気分もなく、いや書けずに文章はずる休みした。きょうの夜明けにあってもその気分を引きずり、書きたい文章にはなり得ない。生活すなわち生きる活動とは、文字どおり生きる闘いである。私は闘いに負けそうである。いや、すでに負けている。
 ごみの分別置き場は、付近住民(10世帯)の人間模様の縮図である。とりわけ貧富の差が現れてわが家は、貧しさの最下位に位置している。まずは置き場の位置において、人間模様の浅ましさが現れる。本来、置き場所は持ち回りのはずだった。ところがみんな、汚さを毛嫌いしてわが家に頼み込んで、そののちは知らんぷりのままである。私は、隣近所との諍(いさか)いを好まない。そのことを見透かされたようである。それゆえにごみ置き場は、わが宅地の側壁に張り付いたままである。我慢は、仲良く生きるための小さな知恵ではある。しかしながら、人様の浅ましさを見ることには、呆れてつらいところがある。
 確かに、ごみは人間模様の縮図、すなわち個々の生活ぶりの写し絵である。貧富の差はごみ自体に、なかでも缶や瓶の分別箱に如実に現れる。わが家では望むべくもない高級なものが、ゴロゴロと入っている。確かに、分別ごみ置き場には、まずは人間の浅ましさが見て取れる。そして、良くも悪くも人様の生活ぶりが丸見えである。
 きょうもネタなく、休むつもりだった。やはり、休むべきだった。きょうは一週に二度訪れる、生ごみ出しの日である。わが家の分別ごみ出しは、わが日課である。人様の生活ぶりを垣間見て、わが家の生活ぶりを垣間見られる、切ない日である。

頓挫

 八月十七日(水曜日)。書けません。
暑中お見舞い申し上げます。

鳥とセミの鳴き声

 八月十六日(火曜日)、確かに夜明けの風は、夏風から初秋の風に変わりました。誰に教えを乞うまでもなく、わが肌身が確りと教えてくれています。「八月盆」の送り日にあって、世の中の人様の動きは、いやいやしながら帰り日になるでしょう。私の場合は、まるでカタツムリさながらに動きのない日常です。それでも生きているかぎりは、三度の御飯と三時のおやつ、さらには間髪を容れない駄菓子と水道水のがぶ飲みは、欠かせません。この祟りにあってわが身体は、こけしのようなスマートさは望むべくもなく、だるまのように上半身だけが丸膨れ状態に見舞われています。最近はこの上部体を両脚が支えきれずに、私はノロノロ、ヨロヨロと、歩いています。挙句、加齢のせいにしては両脚の衰えが早いなあーと、自覚せずにはおれません。「ダイエットをしなさい! わかっちゃいるけど、餓鬼食いをやめられないのです!」。わが生来の意志薄弱のせい、いや大きな祟りです。書くことも、書きたいこともなく、なさけない文章を書きました。
 落ち葉掃きに手古摺り、狭いい庭中なのに夏草取りに往生しています。外にいようと、茶の間のソファにもたれていようと、山の鳥の声が夜明けから夕暮れまで、難聴の両耳に聞こえてきます。これにこのところは、セミの鳴き声が加わっています。もちろん両耳に、集音機は嵌めています。妻は「パパ。鳥やセミの鳴き声、うるさいわね………」と、言っています。しかし、私は呼応せず、
「うるさくないよ。そう言うなよ。それらは、人間のために必死に鳴いてくれているのよ。いや、それら自身、鳴かずにはおれないのだ。切ないじゃないか!」
「夕方には、カナ、カナ、カナ………と、ヒグラシが鳴いているわよ」
「セミのいのちは短いのだ。鳴きたいだろう?……」
 玄関ドアーのところには、アブラゼミが転げていました。私は指先で拾い、しばし眺めて静かに植栽の陰に置きました。亡きがらは棺(ひつぎ)に入れられることもなく、真夏の日照りや、秋の台風にさらされて、いずれは庭土になるのでしょう。
 いよいよ季節は夏と別れて、心寂しいが近づいています。鳥やセミには、切なくとも思う存分鳴いてほしいと、願っています。人間は泣きたくとも、思いっきり泣けないだけ、大損です。案外、鳥やセミは、人間の代替役を務めているのかもしれません。切ないです。

77回目の「終戦記念日」

 令和4年(2022年)8月15日(月曜日)。77回目の太平洋戦争「終戦記念日」(昭和20年・1945年、8月15日。終戦・敗戦)。このときのわが年齢は、5歳と一か月(1940年7月15日誕生)。私は近くの小川で、サワガニ、メダカ、小魚、ドジョウ取りの水遊びをしていた。呼び戻されて、家族共々に縁先に立って並んだ。海軍の軍務半ばで病に罹り、自宅で養生していた異母次兄より、敗戦を告げられた。現在私は、八十二歳と一か月。生き延びてきた。日本の国は、「八月盆」のさ中にある。のどかな夏の夜明けにあって、しばし黙祷!

台風、大過なく過ぎて……

 八月十四日(日曜日)、山の木々の吹き付けを恐れて、全部閉め切っていた雨戸を次々に開けた。眼下の道路は濡れて、山から落ちた木の葉が汚らしくべたついている。しかしそれは、普段の夜来の雨上がりの様子とまったく変わらない。無色の朝日が家並の壁にあたり、白さをきわだたせている。懸念していた台風は、小嵐程度で過ぎ去っている。玄関口を出て見回りしても、家周りに被害はなさそうである。恐れていたぶん、私はのどかで平和な夜明けの境地にある。台風被害に遭っていれば、もちろん逆に、この境地はさんざんである。
 私の場合、台風には忌まわしい過去の出来事がある。それは屋根が損壊し、カラーベストが方々に落下して、業者に修復を依頼した悔恨である。それ以来私は、台風予報を極端に恐れるようになっている。すなわちそれは、貧相な納屋みたいな建屋に住まざるを得ない、甲斐性無しの祟りである。その証しにはそのときの台風で被害を受けた家は、1200戸くらいある住宅地の中でも、わが家一軒だけにすぎなかった。恥を晒したけれど、修復が叶うと安堵し、意識して恥は忘れた。しかし、台風被害はもうこりごりである。こう思う半面なお、わが家の貧相さをかんがみて、それ以来台風予報には大小にかかわらず恐れて、わが身を強く痛めている。
 かつての私は、台風一過の日本晴れに気分をよくしていた。ところが現在は、その気分にはまったくありつけない。いや、台風予報が出ると、発生のときから戦々恐々を強いられている。夕べの台風一過は、さわやかな秋風をもたらしている。しかしながら、かつてのように心地良いと言えないのは残念無念である。忌まわしい過去の出来事にはそののち、トラウマ(心的外傷)が憑き物である。台風被害の残滓(ざんし)と言って、もちろんのほほんとしてはおれない。

お盆に朝焼け

 八月十三日(土曜日)、目覚めたら部屋の中は色づいていた。びっくり仰天、跳ね起きた。家じゅうのすべてが、朱色に染まっていた。雨戸を開けっ放しの窓際にたたずんだ。大空いっぱい、視界いっぱい、見事な朝焼けが広がっていた。自然界の妙味というより驚異、いや脅威にさえ思えた。たった数分間の大パノラマだった。なぜ? こんなことが起きるのか?。今はすっかり消えて、朝日の見えない小雨模様にある。朝焼けは鬼のしわざか? それとも、霊界のしわざなのか。生きている者への、命を亡くした御霊の怨恨なのか?。
 きょうは八月盆の入り日(十三日・土曜日)である。御霊に、恨みつらみを買うとしたら、大いに腹が立つ。なぜならお盆は、生きている者が御霊にたいし最も心を尽くし、かつしめやかに営む年に一度の催事である。この証しにどこかしこの家族は、御霊を懇切丁寧にわが家(里)へ迎え入れている。そして、しめやかにも先祖代々の家族団欒に和んでいる。だとしたらお盆の朝焼けは、御霊のお礼返しと思いたいものである。鬼のしわざと言って息巻くより、もちろん心落ち着くところでもある。きょうは、文章は休むつもりで不貞寝していた。しかし、朝焼けに起こされた。飛んだとばっちりとは言いたくない。

立秋過ぎて……

 八月十二日(金曜日)、「立秋」(八月七日・日曜日)すでに過ぎて、夏の夜明けと朝は、秋色を帯びている。網戸から浮き抜けてくる風は、確かに熱をかなり冷やしている。明日は「八月盆」の入り日(十三日)である。送り日(十六日)が過ぎると、いまだに盛夏にもかかわらず、私は「ゆく夏を惜しむ」心境になる。人間心理は、常に綾なしている。よくもわるくも、人間の人間たるゆえんと、言えそうである。
 寝起きの私は、柄でもなく脳髄にこんなことを浮かべていた。すなわち、言行とは言葉と行動、そして心身とは精神(心)と身体(体)である。私いや人間がどちらにも望むのは、一致できれば完全一致である。なぜなら、現行の一致は人間性の根幹を成し、一方、心身の一致は人間の幸福の根源を成す、と言えそうだからである。しかしながら、どちらも叶えることは、雲を掴むほどに困難である。言行が乱れれば「嘘つきカモメ」となり、人間性はたちまち喪失する。心身の乱れはそれよりも質(たち)が悪く、健康を損(そこ)ねた挙句に、生存自体が危ぶまれることとなる。いや、生存はどうにか叶っても、日々それに怯える日常(日暮らし)に、苛(さいな)まれることとなる。もちろん私は、言行および心身共に、一致の欠片(かけら)にさえありつけていない。言行で言えば、すなわち「言うは易く行うは難し」である。心身で言えば、幸いにも健康体である。ところが精神は、不健全態である。すなわちわが心身一致は、夢まぼろしの如くに、実現にはありつけていないままである。もちろん私は、心身一致の実現を夢見て言葉にし、そのための行動をいくら心掛けている。しかし、努力は無駄骨の如くに、常に心身不一致の状態にある。それは精神状態が常ならぬためであり、結局、身体健康、精神不健全という、片肺飛行を余儀なくしている。案外、こんな文章を書かなくなったそのときこそ、精神健全と言えるかもしれない。しかし、そんなことはあり得ない。いや、身体をも損ねて、両肺倒れの飛行となりそうである。
 わが「夏痩せ」願望は、日々勢いを強めて、願わぬ「夏太り」の状態にある。自己診断でその誘因は、明けても暮れてもひねもす(終日)、駄菓子とアイスキャンデーの食べ過ぎゆえである。「食べすぎは、止そう!」。ところが、まもなく訪れる「天高く馬肥える秋」は、夏太りにいっそう輪を掛けそうである。身体が太ることは、必ずしも健康体の証しとはならず、わが精神状態の気鬱を加速させるだけである。言行および心身共に、一致に悩める現在のわが心境である。

私の「守り神」

 八月十一日(木曜日)、真っ青な空に朝日輝く夜明けが訪れている。心の透く、典型的な夏の朝の風景である。わが心中には、確かな自然界の恵みが充満している。だからと言ってわが心中に、まったく陰りはないとは言えない。いや、大ありである。もちろんそれは、新型コロナウイルスのせいで、私自身にだけでなく内外すなわち世の中全体に、閉塞感が漂っているせいである。
 さて、きのうはコロナに関して掲示板上に、高橋様ご自身の感染体験模様が綴られた投稿文を戴いた。高橋様は掲示板開設以来こんにちにいたるまで、掲示板のご常連のみならず、「私の守り神」にあずかっている大切な人である。驚くなかれ! 高橋様はコロナに感染されて、ずっと苦しまれていたのである。失礼きわまりないけれど私にすれば、はじめて知る生々しいコロナの恐ろしさの実態、かつとんでもない体験ご投稿文だったのである。それゆえに今朝の私は、ご投稿文を授けてくださった高橋様にたいして、あらためて御礼文を書かずにおれなくなっている。
 ご投稿文を読んでまず感じたことは、高橋様のコロナ感染体験がテレビなどに流れたら、だれしも怖がりおのずから自粛行動に走るだろう、という思いだった。すなわち、テレビをはじめとするメディア報道は核心、すなわちコロナの本当の恐ろしさを伝えきれていないという、思いだった。ところが高橋様のご投稿文は、コロナの恐ろしさをありありと伝えきっていた。その証しに読み終えた私は、「絶対にかかるまい!」と決意し、厳しくわが行動の点検を試みていた。
 再び書くけれど、高橋様には失礼きわまりないけれど、コロナに罹ってはいけないという教訓を、私は賜ったのである。これらに加えて高橋様は、わが生き様にたいしても、ありがたいサゼスション(示唆)を添えてくださった。つまるところ高橋様は、「私の守り神」のゆえんである。それゆえに私は、再び御礼文と言葉を重ねずにはおれない。果報者の現在の心境である。

迷妄

 八月十日(水曜日)。世の中にはコロナが蔓延し、私には自虐精神が蔓延し、共に勝てず、生活に疲れています。生活とは、文字どおり生きるための活動、すなわち日暮らしです。それゆえ、生活と日暮らしは同義語と言えます。生活ができなければ人間は、それっきりでおしまいです。私の場合、日暮らしの一端を成す文章書きは、たちまち頓挫の憂き目をみます。「ひぐらしの記」、すなわち、わが「生活日記」は、おのずから幕が下りそうです。

相身互い身、慰め合って連日の通院

 八月九日(火曜日)。きのうに続いて連日、妻を引率の通院が予定されている。きょうの通院は、半年前の予約表にしたがって、「大船中央病院」(鎌倉市)への早出となる。きのうの通院は、住宅地内の最寄りのS医院であり、気分的には落ち着いていた。ところがきょうは、気分落ち着かず、逸っている。もちろんそれは、きのうに比べて大ごとだからである。
 きょうの通院目的は、妻の骨折・救急車・手術・入院・そして退院後の経過観察日のためである。なお具体的には骨量検査と、それを基にして主治医による診察と診断が予定されている。経過良好の診立てにありつきたいものである。妻はもとより、引率者のたっての願いである。この日が済めば今月末には、私はすでに済んでいるけれど、妻の四度目のコロナワクチン接種への引率がある。わが身だけの生活では済まされない、妻共々の老夫婦の日常生活のありようである。
 夫婦生活とは、共に安寧でなければ成り立たない。これは「言うは易く行うは難し」であり、文字どおりきわめて難事である。学び舎の運動会の競技の一つには、「二人三脚」があった。この競技には、必ず転ぶ組がある。それゆえ二人三脚は、面白い競技として、どこかしこの運動会の定番競技として定着している。しかしながら、晩年の老夫婦の二人三脚は、絶えず転んでばかりで、ちっとも面白くない。こんな身も蓋もないことを書いて、尻切れトンボのまま間に結文とする。弁解の理由は、妻を手伝って通院準備に取り掛かる、時間の訪れにある。
 夜明けの空は夏空であり、おそらく時間を追って猛暑日(気温三十五度以上)へ向かうだろう。ところが、きょうにかぎれば暑さは、まったく気にならない。とことん気になるのは、妻の検査結果とそれによる主治医の診立てである。私がこけたら、妻の引率はあてにできない。今や老夫婦の日常生活は片肺飛行、すなわち相身互い身寄り添って、慰め合うしか生存の手立てはない。こんな文章では、表題のつけようはない。心、せかせかと逸っている。