ひぐらしの記

ひぐらしの記

前田静良 作

リニューアルしました。


2014.10.27カウンター設置

内田川(熊本県・筆者の故郷)富田文昭さん撮影

 

彼岸明け

 3月23日(土曜日)。季節はめぐり彼岸が明ける。こののちは、北上を続けている桜だよりが本格化する。学び舎にあっては卒業式、実業界や役所にあっては、人事異動が真っ盛りである。一年は元日を起点にして、大晦日までめぐる。ところが、社会の出来事は、4月を起点にして3月へめぐる。それゆえに3月は「年度末」となり、何かにつけて慌ただしさの最中(さなか)にある。そして毎年、年度末特有の悲喜交々の情景が繰り返される。
 様々な入試は、合否すなわち幸運と不運とに分けて、2月中にほぼ終了した。すると3月は、学び舎にあっては卒業(式)や、新たな入学(式)あるいは進級準備におおわらわとなる。一方、実社会にあっては、人事異動の辞令をもとに赴任先への移動に大忙しとなる。ゆえに人の営みは悲喜交々、すなわち幸運・不運が入りまじり、さらには様々な事象を加えて3月は、年度末特有の現象に明け暮れる。
 起きて私は、わが柄でもないことを浮かべていた。人の世にあって個人は家族を成し、家族の集合体は社会を成す。これに、人の手に負えない自然界現象が加わる。ゆえに人の世には日々、様々な出来事が起きる。もとより、個人では手に負えない出来事である。するとそれは、この世に人が生きにくい根源を成す。当てにならない神様やお釈迦様にすがることはない。けれど、季節のめぐりを表す「彼岸明け」にはなんだか、心の和むところがある。しかし、夜明けの寒空にあって寒の戻りは、わが身に堪えている。桜の花の蕾もまた、出端を挫かれていっとき萎んでいるであろう。自然界共に相なす人の世は、もとよりままならない茨道である。

パソコン復旧の悦びにことよせて、駄文厭わず

 3月22日(金曜日)。夜明け前にあって寒気が戻り、心が萎えている。きのうは突然、パソコン不調に見舞われた。パソコン不調は体調不良を超えて、わが心を悩ました。ところが、あれこれとやっているうちに復旧した。このときの悦びはこれまた、体調の持ち直しを超えて、うれしいひとときだった。なぜならこの間の私は、とてつもない心痛に陥っていた。
 さて、服用中だった三つの薬は、副作用の嫌疑にあって二つは現在、主治医先生の指示に従って服むのを止めている。今のところ、中止の効果はあるようでない。すなわち、まだわからない。しかしながら、一週間ほど服用を中止すれば、痛みが取れそうな予感はある。それゆえにやはり、身体の各部位の痛みは、服用中の薬のせいだと確信するところはある。ところが、これには失態を演じている。それは、二つの薬を同時に止めているため、ほんとうのところはどちらが副作用の主因とは決めかねているからである。このことで心中は、混乱に見舞われている。だから悔いは、一週間おきに中止を試すべきだった。そしてそのことでは先生の指示に逆らって、一週間ごとの中止を提案し、承諾を得ておくべきだった。もとより、後の祭りである。
 副作用の主因がどちらかの一つとわかれば、疑い晴れた薬は服み続けて構わないことになる。元々、三つの薬とも自覚する症状の改善薬のため、できれば中止せずに服み続けたいという思いがある。確かに、代替薬はある。だけど、悪玉コレステロール改善の薬は、データ値に著効を示していた。一方、先生に言いそびれていた市販の便秘の薬もまた、効果を実感していた。ゆえにこれらを共に中止することには、「泣き面に蜂」の思いがある。二つ共に副作用を成していたのか、それともどちらかの一つが主因だったのか、このことを確かめるべきだったのである。
 このところの私は、身体の部位の痛みにからんで、こんな私的すなわち身も蓋もないことを書いてきた。挙句、きのうはだらだらと長い文章を書いてしまった。恥じて、詫びるところである。その償いにきょうの文章は、尻切れトンボを厭わず、ここで書き止めである。身勝手に、継続文の足しになるだけが取り柄である。
 寒気が戻っているせいか、夜明けの大空は、真っ青の日本晴れである。あすは彼岸の明けなのに、寒気が身に堪えている。

通院、副作用疑いの結末

 3月21日(木曜日)。きのうの「春分の日」(春彼岸の中日)が過ぎて、いよいよ季節は春本番へ突入する。寝起きの気温はいくらか低く、そのぶん寒気がわが身に堪えている。しかしながら、春彼岸相当の気温なのであろう。望むところはこの先、寒の戻りはたまたぶり返しのない日が少ないことである。なぜならこの先、とりわけ桜の季節にあってもほぼ例年、真冬並みの寒気に見舞われる。だけど季節は嘘をつかず、きのうの春分の日にはこれまでの寒気を撥ね退けて、暖かい日光が降りそそいだ。
 私は朝の9時近くになると、「S院」へ電話をかけた。当院の診察券には、「休日そして祝日」は、休診日と記載されている。それなのに私は、祝日のこの日、通院を思い立っていた。この思いの発端は、先日の通院のおりの主治医先生のお言葉だった。「祝日でもわたしは居ますから、都合がよければ来てください。祝日は患者さんが少なくて、いいですよ」。おそおそる電話をかけた先方の受話器のお声は、思いがけなく先生だった。
「きょうは祝日で、休診日と思っていますが、お電話をしました」
「わたし、居ますから来てください」
「ありがとうございます。何時頃まで、いいでしょうか?」
「いつもの診察時間に居ます」
 私は受話器を置くと、出かける準備にとりかかり、まもなく門口を出た。案の定、休診日の待合室にはまったく患者の姿はなく、休診日の医院特有に当医院全体がひっそり閑としていた。遠くに眺める診察室のドアは開いていて、中に白衣姿の先生が見えた。先生もまた、私に気づかれた。私は死刑台へ向かう死刑囚の面持ちで、待合室の中央へ歩を進めた。普段、受付の窓口にはお顔馴染みの中年女性が二人そろって待機されている。すると、それらの人たちの姿はなく、私には戸惑いが走った。ところが、まもなく窓口に先生がお見えになった。私は半ば呆気にとられて、
「受付、先生がされるのでしょうか?」
「私がやりますよ」
 この後は、普段どおりに健康保険証と診察券を呈示して、先生の所作で受付が完了した。すぐに先生は診察室へ戻られて、遠くから「前田さん」と呼ばれた。いつもであれば補聴器を嵌めているとはいえ、聞き取りにくい遠くからの声である。ところが、人気のない待合室へはすんなりと届き、わが耳へ到達した。私は待合室に出向き、神妙にドアを開けて患者となり、再び先生と対面した。丁寧に挨拶言葉を告げると、早速、気に懸けていたことを言った。
「先生。きょうは謝りにまいりました。先日は体の部位の痛みは、服用中の薬の副作用でしょうか? と、言いましたけれど、それらのほかに私は、市販の便秘薬を服んでいます。そのことを言いそびれていたことを謝りにまいりました。痛みは、その薬の副作用かな? とも思ったのです」
 ところが先生は委細構わず、先日の採血結果を示す紙片を手にして、データの一つ一つの項目の説明を始められた。私は前かがみになりデータを覗いて、神妙に聞き耳を立てた。服用中の薬は二通り、一つは腎不全改善、一つは悪玉コレステロール退治薬である。すると、前者には微効を示し、後者には著効を示して双方共に、先生は「問題ありません」という、言葉を添えられた。それらのほか数ある項目には、基準値を超える(異状を示す)米印(※)はなく、私は満点の通知表を見る思いだった。
 いよいよ、副作用にかかわる最後通牒が下った。
「コレステロールと市販の薬は、当分、服むのを止めてください。腎不全の薬は服み続けてください」
「わかりました。休診日なのに、ありがとうございました」
 私は待合室に戻った。あれれ! 白衣でない私服姿のお顔馴染みのいつもの女性係員のひとりが窓口に現れた。私にのために、休みにもかかわらず応援の呼び出しを受けられたのであろう。私は「お休みなのに、すみませんね」と言って、診察後の所定の動作を済ました。女性は「前田さん。なんだか元気がないようですね」。副作用の主因にはそのときもまだ、腎不全の薬では? と疑い、私は怪訝(けげん)な面持ちだった。たぶんこのことが表情となり、元気がないように見えたのかもしれない。
 きのうから私は、先生の指示に従ってコレステロールと市販の薬の服用は止めている。それでも現在はまだ、体の痛みは続いている。服用中止後、何日目で痛みが止まるか? なお疑心暗鬼にさらされている。
 きょうもまた長々と、無用の書き殴りをしてしまい、詫びるところである。夜明けてみれば、満天のどかな朝ぼらけである。苦悩まじりに書いたけれど、価値ない私信、読んでくださる人はいないかもしれない。

春分の日

 「春分の日」(彼岸の中日。3月20日・水曜日)の夜明け前にある(5:06)。「暑さ寒さも彼岸まで」。この日を境にして寒気は遠のいて、わが日常生活は気分的には楽になる。しかし現在の私は、身体の部位の痛みに悩まされている。それゆえに、精神状態は混乱を来している。「ひぐらしの記」は、主にわが日常生活を綴っている。このことでは、わが凡庸な脳髄と様々な恥をさらけ出している。挙句、わが日常は(書こうか書くまいか)の葛藤を強いられている。先日は薬剤の副作用の懸念を抱いて、朝駆けで最寄りの「S医院」へ通院した。このおりには念願かなって、採血があった。採血結果を知るには、再び通院しなければならない。きょうは祝日だけれど、先生はこう言われた。「祝日でもやっていますから、都合がよければ来てください。祝日のほうが患者さんは少なくて、いいですよ」。先生は途轍もなく優しく、私はかねてから十分に信頼しきっている。もちろん先生は、私だけに優しいのではなく、すべての患者さんに優しく、常に待合室は混んでいる。
 先生の助言に応えて、私はきょう通院しようかと思っている。ところが、主目的は採血結果を聞くためではなく、詫びを入れて謝るためである。私はドジを踏んだのである。すなわち、先生の二通りの処方箋のほかに私は、ことしの1月あたりから市販の便秘薬を服用している。しかし、このことは先生に告げることなく、先生の処方箋を痛みのやり玉、すなわち真犯人と疑っていたのである。これまた自己診断だけれど、にわかに市販の薬が真犯人では? という、嫌疑が擡げている。だからきょうは、言いそびれていた市販の薬のことを先生に明らかにして、丁寧に詫びを入れ、かつ謝るつもりである。なぜなら、便秘薬も先生の処方箋の一つとして、その前は服用していたからである。
 きょうで出かけるとしたら、そのためつらい通院となる。ゆえに現在の私は、なお継続している痛みに加えて、心中は混乱状態に陥っている。なさけないゆえにこの先は、書き止めである。雑多な「ひぐらしの記」の価値はなく、やはり私は、潮時を決意・決断すべきであろう。寒気を遠のけたのどかな夜明けが訪れている(6:06)。嗚呼、無情!

切ない文章

 3月19日(火曜日)。頃は好し、おととい(3月17日)から、「春彼岸」に入っている。ところが、春特有に寒気がぶり返し、わが身に堪えている。このところの暖かさに気を許していたために余計、寒気はわが身に沁みている。
 さて、きのうはわが体調(身体)不良に対し、掲示板上やメール、あるいは電話などで、皆様からご心配とエールを賜った。ゆえにまずはこのことに対し、御礼を記すところである。きのうは、朝駆けで通院し診断を受けた。診断を受けたことで、気分はいくらか落ち着いている。しかしながら現在、痛みの症状は診断前と変わらず継続している。いくらかと表現したのはこのためである。毎日、服用中の薬剤には二つがある。一つは、悪玉コレステロール値、改善のためのものである。一つは、腎不全値、改善のためのものである。
 私は咄嗟のネット学習をたずさえて、後者の副作用と自己診断のうえに通院した。診察室に入ると、信頼する主治医先生と向き合った。先生の診断もまた、副作用には同意された。ところが、副作用をもたらす薬剤は、私とは異なった。先生の診立てには、前者が原因と言われた。私は腑に落ちない気分だったけれど、もちろん言い張りはせずに素直に同意した。私は、自己診断をもとに後者の薬は服まずに通院した。腎不全の薬は、一日にあって朝一度(食後)の薬である。先生は「こちらの薬のせいではない」と言われたけれど、私は今朝も服むつもりはない。先生の診立てでは、前者の副作用ときっぱりと言われた。そして、こうまで付言されたのである。
「わたしも服んだことがあるけれど、痛みをおぼえたことがあります」
 まさしく、専門家が確信犯と決め込まれた薬である。そのぶん、効き目は万全と思うところはある。そして先生は、「こちらは、服むのを止めてください」と、言われた。前者すなわち悪玉コレステロール退治のほうは、一日において夕一度(食後)の薬である。先生の指示に従い、きのうの服用は止めている。きょうも、止めることになるだろう。どちらの薬が副作用の真犯人なのか。あるいは、これらとは別に難物の真犯人(加害者)が存在するのであろうか。現在、わが心中は混沌としている。もとよりそれは、痛みの症状が緩和せずになお継続しているからである。一度ぐらいの服用の中止では、効果がないことを祈るだけである。
「採決をしましょう」
「お願いいたします。朝御飯は抜いて来ています」
「採血結果はあす以降に出ますから、都合のいい日に来てください」
「わかりました。ありがとうございました」
 気分晴れ晴れではなかったけれど、医院を出て最寄りのバス停に向かった。すぐに、「大船(鎌倉市)」行き、循環バスが来た。20分近く乗って、降りた。一度行ったことがある「ルミネ」一階の駐車場奥にある「拾得物センター」へ出向いて、来意を伝えた。所定の手続きののち係員は、なお奥の倉庫へ入られた。出てこられた手には、チラッと、わが失くしていた小銭入れが見えた。「それそれ!」と、言いたかったけれど、もらう手続きの済むまでは我慢した。これまた所定の手続きが済むと、わが小銭入れはわが手に渡された。私は、丁寧に何度もありがたい表情と言葉を繰り返した。実際のところは、拾って届けてくださっていた見知らぬ人にたいして、深々とこうべを垂れ御礼を伝えていた。
 気分晴れ晴れとなって、朝御飯抜いたための空腹感が擡げた。そのため、最寄りの「日高屋」に入り、わが好む「中華そば」(390)を食べた。行きの憂鬱気分は直り、こののちは所定の買い物を済ませた。帰りの足取りは軽くなっていたけれど、身体の痛みは続いていた。猛烈に吹く風の中にあって、私は憂鬱気分を強めていた。
 きょうの文章は恥を晒して、約一時間の書き殴りである。詫びて、謝るところである。採血結果を知る通院は、あすあたりになるであろう。寒気と憂鬱気分の抱き合わせで、身体、精神、共に震えている。

体調不良、気分憂鬱

 3月18日(月曜日)。きのうの体調不良とそれにともなう不安を持ち越して、起き出している(4:52)。古来、健康状態を言うとき、「年(年齢)相応」ということばがある。病医院へ行けば、すべてにわが年齢(83歳)は、このことばに当てはまる。「年(年齢)のせいですね」という医師の宣告は、「診断」と言えるのだろうか。へそ曲がりの私は、このことばを聞くたびに、そんな思いに駆られている。なぜなら、それぐらいは通院するまでもなく自己診断できる。自覚症状をたずさえて通院しているのだから、年(年齢)のせいだけでなく、何らかの病根があるはずである。確かに、年(年齢)のせいだけであれば、それに越したことはない。一方、年(年齢)のせいの病であれば、もはや治しようのない「不治の病」の宣告である。
 このたびのわが体調不良は、自己診断によれば現在服用中の薬剤の副作用のせいである。こんな自己診断をたずさえてきょうの私は、住宅地内にある掛かりつけの「S医院」の外来患者なるつもりである。ちょっぴり、新コロナへの罹患の前駆症状かな? と、思うところがあった。けれど、今やこの自己診断は打ち消されている。なぜならそのことには、体温を測るまでもなく平熱と思えているからである。それゆえにわが確かな自己診断は、服用中の薬の副作用一辺倒である。
 きょうの主治医の診断では、いつになく異状を自覚していることから、「年(年齢)のせいですね」とは言われそうにない。できれば、その言葉を願っている。「確かに、服用中の薬の副作用です。今、服んでいる薬は、服むのを止めてください。違う薬に替えましょう」。すると、私はこう問うて、お願いするであろう。
「先生。まだ違う薬を服んだほうがいいのでしょうか? 血液検査(採血)をお願いします。朝御飯は抜いて来ています」
 年(年齢)のせいでもなく、服用中の薬の副作用のせいでもなければ「さあ、たいへん!」。
 きょうもまた私は、休めばいいのに書くまでもないことを書いてしまった。胸(心臓あたり)の痛みは、全身をぐるぐる回っている。やはり主治医の診断は、「年(年齢)のせいですね」、これこそ最も望まれるものである。まかり間違って、「大きな病院へ、紹介状を書きましょう」と言われれば、この文章は余興では済まされない。挙句、帰り道には気分が沈んで、ヨロヨロヨタヨタとよろけ足になるであろう。
 気分の滅入る夜明けが訪れている。身体に、寒気はまったく感じない。だけど、心中はブルブル震えている。

やはり表題のつけようはなく、休みます

 3月17日(日曜日)。現在のデジタル時刻は、4:14と刻まれている。暑苦しくて、夜具の一つ厚手の毛布を撥ね退けて、一枚布団で寝ていた。起き出して、冬防寒重装備は要なしにした。いつもは、ネタ不足に見舞われて、休みたくなる。ところがきょうは、ネタはあるけれど、休みます。体調不調と体調不良。共に、四文字にあって、最後の一字が入れ替わるだけである。だけど、大きな違いがある。体調不良の場合は、生存が危ぶまれる。私は、体調不良に見舞われている。
 きのう突如、左胸(心臓辺り)にだけ痛みが走り、心筋梗塞かな? と、恐怖をおぼえた。挙句、スマホにすがり、狭心症と心筋梗塞を十分に学んだ。現在、痛みは胸の裏側の肩筋から脇腹へ移っている。これまた初体験である。このところ背中には、普段はない痒みが発症している。これらを鑑みて、腎不全に用いている薬剤の副作用かな? と、自己診断のさ中にある。
 きのう気づいたことだけれど、おととい小銭入れの財布を無くしていた。実害は1万円ないし2万円ほどだから、こちらは病に比べれば嘆きは軽くて済む。だけどやはり、気分は鬱になる。春が来たから、春ボケなのか。わが日暮らしは、気分の滅入りに見舞われている。ゆえに、心折れて休みます。
 身も蓋もないことだけど、せっかく書いたことだから、もったいないかな! と、表題をつけたくなっている。寝起きの、わが浅ましい根性である。

書くまでもなかった、悔いまみれの一文

 3月16日(土曜日)。確かな、春が来ている。起きて、寒気はまったく感じない。そのせいで再び、寝坊助を被っている。ゆえに心焦り、パソコンを起ち上げている。もちろん、脳髄は空っぽである。わが文章の執筆は、仕事ではない。だったら、休めばいい。確かにそうだ。だけど、束の間の休息は、この先の途絶えになりそうである。ずる休みにともなう、いつもの恐れである。ならば、何かを書かなければならない。浅ましい心模様である。
 ところが現在、なさけなくもネタ無し状態にある。ネタが浮かばないときに、決まって嘆くことはこのことである。すなわちそれは、私自身が文章をものにする得意とする分野(材料・ネタ)をまったく持たないせいである。加えて、ブログ特有に書いてはバッシングを被る様々な箍(たが)を嵌められている。挙句、無難なわが身辺のこと、子ども時代のこと、とりわけ郷愁まみれのことなどで、お茶を濁してきた。ところがこれらは、すでに書き尽くしている。私には、フィクション(虚構・創作文)を書く能力はない。言うなれば私は、常に袋小路に入った状態で文章を書いている。もちろん、弁明が許されないわが凡庸な脳髄のせいである。
 時間がない。禁を破ろう。すると真っ先には、現下の政治(国の舵取り)における脱力感である。大相撲春場所(大阪府立体育館)は、きょうは七日目である。春場所は荒れるという、ありがたくない定評(風評)がある。ところが、今場所の上位陣(横綱・大関)は、これまで連日コロコロ負けの状態にある。私は、番付通りの強い上位陣を望んでいる。しかし、この先も危ぶまれる。これまた、こんなことを書くことは自分自身を戒めてきた。だけどまた、ネタ無しの穴埋めのためにちょっぴり書こう。
 きのうは、メジャーリーグ・ドジャース球団の大谷選手の奥様ご様子(名前)を知ることができた。こちらは書いてもいいはずだけれど、やはり憚(はばか)れるところはある。確かな春の訪れは待ち望んでいた半面、寝坊助を被りこんな体たらくに陥っている。夜明けの空には、のどかに春の朝日が輝いている。寝起きの私は、焦っていた。

揺れる「日本列島」

 3月15日(金曜日、デジタル時刻3:38)。寝ていて気付かなかったけれど、地震があったという。「15日午前0時14分ごろ、福島県沖を震源とする地震があった。最大震度5弱、マグニチュード5・8と推定される」。このところ頻発を続けている震源地は千葉県東方沖である。それに隣接する茨城県沖、さらに続く福島県沖。海の広がりは境なく一帯である。ゆえに現在、この辺りが恐れる地震地域と言ってよさそうである。
 これらの中ではやはり、福島県沖に最大震度5弱の地震が発生したとあれば、恐怖心もまた最大である。もとより、13年前の「東日本大震災」(平成23年・2011年3月11日14時26分)の恐怖がよみがえるからである。地震は発生地域が限られるものではない。狭い日本列島であれば地域限定なく一緒くた、すなわち総なめに発生する。人間の感覚とは異なり地震にあっては、能登半島と房総半島の間さえ、遠く離れているという距離感などあるはずもない。日本列島一帯が、しょっちゅう揺れている。不謹慎だけれど地震の頻発は、まるで手に負えない「モグラたたき」さながらである。そうであればやはり、大地震にならないことを願うだけである。
 しかしながら、直近すなわち今年の「能登半島地震」(令和6年・2024年1月1日)を浮かべるまでもなく、それは叶わぬ願望にすぎない。過去へ遡ればなおさら日本列島は、「地震列島」という汚名を被り続けてきた。日本列島は島国、取り巻く海の中にある。ゆえに、地震をはじめ台風、さらには海底火山などの恐怖にさらされる逃れられない宿命なのであろう。そうであれば私は、大の字の付く、大事に至らないことを願うだけである。
 起き立てにあって私は、福島沖に地震発生のニュースを目にして、予期していない文章を書いてしまった。人生行路は常に茨道。転げながら辿り着くところは「あの世」である。今や遠く偲ぶふるさとは、きょうから18日まで4日間「相良観音春季恒例祭」である。参道で無邪気に赤い「ニッキ水」を飲み、白い「綿菓子(綿あめ)を舐めていた子どもの頃が懐かしくよみがえる。子どもの頃には小さい地震の体験さえなかった。このことを鑑みれば、このところの地震の頻発は、日本列島の異変の前触れであろうか。わが身は死ぬまで、地震の恐怖まみれである。だからと言って、あの世へ急ぎたくはない。
 この文章は、ネタ切れを免れた一文にすぎない。しかし、こんなネタにはありつきたくはない。「春眠暁を覚えず」、眠りこけていたほうがまだまし、すなわち身のためである。夜が明けて茶の間へ向かいリモコンでテレビを点ければ、おのずから福島沖地震状況を観る羽目になる。日本列島に住むかぎり、日々絶えない宿命である。だったら、震源地地域の無事を祈るのみである。震源地は地域をかぎらず、めぐりめぐっている。

番外編、村・町・街・大都会

 村で生まれ、高校は町へ通い、勤務時代は街の生活に明け暮れました。60歳定年後のこんにちまでは、村・町・街、らしい入り乱れる生活に身を置いています。
 きのう(3月13日・水曜日)の「バスツアー」の第一の目玉は、「成田山新勝寺」(千葉県成田市)でした。私には初見参でした。ここでは、境内の広さに驚くばかりでした。
 第二の目玉と言えるものは、昼食の「うな重」でした。ウナギは堪能するほどの厚みはなく、しかし9000円の参加費用を鑑みれば、それなりに舌鼓を打ちました。
 旅の後半、夕暮れ間近の頃にあってバスは、第三の目玉と言える「浅草寺」(東京都台東区)に立ち寄りました。ここには何度か訪れています。しかしながら境内は、様変わりになっていました。混雑する中にあって日本人は少なく、外国人の姿ばかりが目立ました。私は浦島太郎の気分に陥っていました。
 一方で、のどかな気分に酔いしれていました。なぜならそれは、外国人が日本の国の一端(観光地)を楽しんでくれていたからです。私もまた、久しぶりに大都会のいっときを愉しみました。
 「華の親子道中」はくたくたに疲れました。だけど、大沢さまの応援もあってかそれに背かず、老齢の身相応には愉しめました。人生の最後(最期)と思える旅は、無事に終わりました。最期迫るなかにあっては、再びバスツアーを愉しむことはないでしょう。そのせいかわが目は、暮れなずむ夕日、暮れゆく闇の中にあって、車窓から次々に現れる風景にこびりついていていました。
 この文章は、書くまでもないことを書いた番外編です。疲れは、とんでもない長時間の睡眠をもたらし、私は慌てふためいて20分ほど書きました。あしからず。