ひぐらしの記

ひぐらしの記

前田静良 作

リニューアルしました。


2014.10.27カウンター設置

内田川(熊本県・筆者の故郷)富田文昭さん撮影

 

疲れがもたらした「オマケ」

 十一月二十八日(月曜日)。夜明けまでは遠いもののぐっすり眠れて、起き出している。きのうは、まったく久しぶりに卓球クラブの練習へ出向いた。身体不自由の妻の世話係や、自分自身のままならない日常生活などのゆえに、気分の滅入りに遭って出向きは、長く沙汰止みになっていた。男女高齢の仲間たちは、みな元気よく集っていた。世の中のご多分に漏れず、男性陣の数や元気の良さを凌いで、女性陣の多さと元気溌剌ぶりが目立った。私は、男性陣の負け姿を真面(まとも)にさらけ出すかのように、疲れ果てた。ところが疲れは、ありがたい副次効果をもたらした。すなわち疲れは、これまた久しぶりに、ぐっすり眠れた心地良さを恵んだ。やはり適当な運動は、憂鬱気分の癒しには効果覿面のカンフル剤になる。
 私の場合、実際には後ろ髪を掴まれて引かれる残り毛はない。それでも、「後ろ髪を引かれる思い」に苛(さいな)まれた。それは、共に卓球好きの妻を茶の間に置いてきぼりにして、ひとり出向く切なさであった。私は疲れたとはいえ、久しぶりの卓球の快さに浸っていた。しかしながらこの言葉や表情は、茶の間の妻にたいしては、憚(はばか)れるところがある。もちろん、大袈裟なまがいものの「武士の情け」というより、配偶者としての僅かばかりの真摯な心くばりである。「偕老同穴(かいろうどうけつ)」を謳(うた)う労(いた)わりにあっては、案外、この程度でいいのかもしれない。いや、私には、この程度しかできない。ところが妻は、「パパ。少ないよ!」と言って、目を剝くであろう。だけどそれは、妻の欲張りでもある。
 夜明けはまだ遠く、夜の静寂(しじま)にある。しかし、寝床にとんぼ返りをするまでもなく、両目玉はぱっちりと開いて、脳髄は水晶玉のように透明に冴えている。永眠ではなく、生きる日常生活にあって、ぐっすり眠れることは、人生幸福の確かな一つである。

迷い文

 十一月二十七日(日曜日)、壁時計の針は五時半過ぎを回っている。しかし、夜明けの明かりはまだ先である。このところ、厭きることなく繰り返している書き出し文である。おのずから自分自身工夫なく、それゆえになさけなく思う書き出しである。
 日々、様々なメデイアから伝えられてくる社会問題はつまり、人間個々人の生存の苦しみの証しである。なぜなら、社会は人間の集合体である。苦しみの因(もと)を為すのは、個々人のそれぞれの生き様である。生存には個々人にたいして、様々な苦難に耐える強靭な精神力と、さらには周到な手当てが求められる。しかし、「言うは易し、行うは難し」。もとより、苦難に打ち勝つ精神力と、にあわせて用意周到(主に金銭・財貨)を叶えられる人はだれひとりいない。確かに人生は、艱難辛苦の茨道である。だから、当てにはならないとは知りながらも人は、ある意味真剣に神様や仏様の導き(説法)に縋りたくなる。人間だれしもが持つ、人間の心の弱さである。ところが、世の中には神仏を含めて、似非(えせ)の宗教、すなわち邪教が数多存在する。救いを求めたはずなのに邪教に靡けば逆に、心身(命)を滅ぶす元にもなる。ゆえに、わが人生行路において常に、自制を促してきた一つの教訓である。出まかせ特有に、わが柄でもないことを書いてしまった。言い訳としては、寝起きの朦朧頭のせいにするずるさである。
 きのうのテレビニュースの一つには、日本の国の出生率の低下が伝えていた。棒グラウで見るとまさしく、低下傾向に拍車がかかっていた。いつもの習わしにより、いくつかの街頭インタービューが画面に現れた。「こどもひとりはいるけれど、もうひとり生みたいと思っています。だけど、お金がかかりすぎて諦めかけています」。ある学者のコメントは、「人口の減少は、国力の低下につながります」。共に、あえて聞くまでもない個々人の生き様、それらをくるめた社会現象である。すなわち、社会問題は時(時代)に応じて、人間の生きることの困難さの写しである。
 こんな他人行儀(人様)のことは抜きにして、わが生存をかんがみれば、心身(命)は日々脅かされている。これまで書いてきた口内炎と胃部不快症状は、ようやく緩解へ漕ぎつけた。しかしこれで、命の永らえが叶うわけではなく、心身不良の懸念は常に付き纏っている。結局、人生行路は、心身(命)の安らぎのない茨道である。何のことを書いたのであろうか? 命、絶え時かもしれない。自然界の恵みは、満天日本晴れののどかな夜明けである。

老境の哀しみ

 十一月二十六日(土曜日)、目覚めて寝床の中で、しばし気分直しをして起き出して来た。壁時計の針は五時近くだけれど、前方の雨戸開けっ広げの窓ガラスを通して、未だ暗闇である。夜長は冬至(十二月二十二日)へ向かって、まだまだ長くなるばかりである。このところの私は、さしたるわけもなく、心寂しい状態にある。たぶん、人生の晩年における、どうもがいても避けられない、心模様なのであろう。ところがこれまたこの先、このような心模様は、いっそう増勢すること請け合いである。おのずから、文章を書く気は、さらに殺がれるばかりである。
 確かに、「もう、書き止めにしなさい!」という、早鐘がけたたましく打ち鳴らされている。「文は孤独」、いや私は、なんだか心寂しい心境にある。すなわち、老境の証し、極みにある。もちろん、こんなことを書くために起き出して来たわけではない。ところが、脳髄指令を素直に受けて、指先がキーを叩いている。挙句、私は、バカなことを書いている。こんなことでは確かに、心中の早鐘に応じて、文章は書き止めにすべきところにある。
 子どもの頃、近隣の火事を知らせる半鐘の早鐘は、今なお最も怖かった記憶の一つとなっている。幸いなるかな! 地震、雷、泥棒などの記憶はない。まして、父親の怖さの記憶など、微塵もない。やはり、恐ろしさの記憶は、火事を告げる早鐘の連打に尽きる。さて、五度目の新型コロナウイルス対応のワクチン接種後の現在、二夜を過ごして注射針が射された左上腕の痛みは緩んでいる。右の手の平で抑えて、痛みが分かる程度である。「良薬、口に苦し」と言うけれど、この程度の痛みで済むようでは、ワクチン効果が怪しまれるところである。これまた、わがバカな下種の勘繰りである。
 わけのわからぬ心寂しさがつのり、この先書いても、文章の体(てい)を為さない。それゆえに、これで書き止めである。壁時計に針は、いくらか進んでいる。しかし、夜明けの明かりは、未だ見えない。寂しさつのる老境とは、人間の哀しい宿命なのであろう。「そうそう」と、したり顔で納得はしたくない。

混雑する会場に、人間が紡ぎ出す「美的光景」

 十一月二十五日(金曜日)、夜明けまでは、未(いま)だのところで起き出している。この文章を閉じる頃には、天気模様の判定がつきそうである。今、気懸かりなのは、きのうできずじまいになっている道路の掃除である。おとといの雨は夜が明けると、山からの落ち葉を幾重にもして、道路の隅々にべたついていた。昼までには、掃除などできる状態ではなかった。私には、きのうの午後には予約済みの行動予定があった。それゆえに道路の掃除は、きょうへ持ち越しとなっている。
 さて、きのうの行動予定とは、新型コロナウイルスにたいする五度目のワクチン接種である。私は入念な準備をして、決められた時間に、決められていた接種会場の「武道館」へ出向いた。不断、馴染みのない武道館は、ワクチン接種会場となり、私には二度目の出向きである。コロナの接種会場になっていなければ、館内に入ることなど、まったくないところである。五度目にあって接種会場は、今回で三か所に及んでいる。行政・鎌倉市とて大掛かりの接種会場探しに、苦心惨憺している証しと言えそうである。同時に私には、市の財政の逼迫度を見て取れるところもあった。四度目までは、無料の往復タクシー券が接種案内状に同封されていた。ところが今回は、そんな小粋な配慮は無しであった。もちろん私は、ダボハゼのごとくに大口開けて、無料タクシー券を欲しがっていたわけではない。身銭を切ってでも、わが命は自分自身、守らなければならない。鎌倉市そしてわが身共に、無料タクシー券のほどこしにすがることは野暮である。なぜなら、市の財政の破綻は、どこかでわが身にふりかかる。だから、無料タクシー券の廃止は、この先なお止むことの見えない接種回数をかんがみれば、私とて十分理解するところである。
 接種会場にはいつもどおりに、多くの高齢者がワンさと詰めかけていた。それらの人込みをテキパキと整頓し、的確に導くのは若年および中年男女の入り交じりである。私は接種会場へ出向くたびに、これらの光景にさわやかと胸の透く思いをいだいている。ひとことで言えば、これらの人たちの直(ひた)向きな行動である。決して大袈裟ではない。それらの光景を見るたびに私は、「生きていて、よかった!」という、幸せな心地になる。同時に、日本人の良さを垣間見る、うれしさがつのってくる。確かに、コロナ騒動がなければ、こんな素敵な光景には出遭えなかったことになる。だからと言ってもちろん、「コロナ、様様」ではない。けれど、一服の清涼剤にありついたような愉快な光景である。
 私は左上腕に、優しくワクチン注射を打ってもらった。一夜寝て、現在の上腕の痛みは、蚊の鳴く程度である。係の人たちの優しさと連携プレイの素晴らしさにありつきたくて、六度目あるいはそれ以上を望むのは、わが生来のへそ曲がりの発露であろう。晩年の私は、人の優しさに飢えているのかもしれない。ワクチン接種会場は、人間が紡(つむ)ぎ出す「美的光景」である。
 壁時計の針は六時近くにあるのに外界は、薄闇模様のほのかな明かりである。ここで文章を閉じても、道路の掃除へ出向くことはできない。心焦って、出向けば気違い沙汰になる。

日常

 十一月二十四日(木曜日)。「トラキチ」(阪神タイガースにかかわる気違いじみたファン)ほどではないけれど、それでも祝福冷めやらぬ夜明け前にある。2022年サッカー・ワールドカップ(カタール)の初戦において、日本代表チームは対強豪ドイツチームに2-1で勝利した。スコアを見れば辛勝と言えるけれど、これまで四度にわたりワールドカップ杯を制しているドイツであれば圧勝の歴史的勝利という。私はテレビ観戦することなく床に就いていた。そのためこの朗報は、パソコンを起ち上げてすぐさま、ありついたものである。日本代表チームの歴史的勝利であれば、やはり記録に留めておかなければならない朗報である。
 さて、いつものように自分自身のことを記すと、このところの習いにしたがって、真っ先に口内炎と胃部不快のことにふれなければならない。口内炎がベロ(舌先)に蓋のないマンホールの如く空けた穴は、ようやく八分どおり埋まった。しかしながら、痛さと胃部不快の治りはなお進まず、憂鬱気分の緩解は、未だに半分ほどで止まりである。こんななかにあってきょうの私には、新型コロナウイルスにたいする五度目のワクチン接種が予定されている。言うなれば、体調不良のなかの接種行動である。そのため従前の接種より、かなり気に懸かるところはある。けれど、やめるわけにもいかず、敢行するつもりでいる。命あるものすべて、生きるために食べている。命あるものすべて、生きるために行動している。
 きょうの場合は、後者である。命とはそんなに大事なものか? と、思うところはある。こんなバカな思いをするのは、私が命に見合う生存を果たしていないせいであろうか。口内炎の患部には軟膏を塗ったくり、胃部不快には整胃薬を能書どおりにきっちり服んで、私は生きながらえている。いや、そんなたいそうなことではなく、早く痛みや不快感から逃れて、ご飯を美味く、楽しく食べたいためである。
 つらつらと、このたびの口内炎の発症と胃部不快の因(もと)をめぐらした。すると、浮かんだことには、「生柿」の食べ過ぎかな? と、思えている。好物・柿のしっぺ返しにあっていれば、つらいところである。だからと言って、買い置きして山積みの柿にたいし、「こん畜生!……」と言って、はねのける勇気は、私にはない。もちろん、柿、食べ過ぎの祟りとか、報(むく)とは言いたくない。なぜなら、わが生きるために食べ物のなかにあって柿は、美味しさと郷愁をそなえるものの筆頭に位置している。ふたり、上がり框(かまち)に座り、母が剝いた柿の美味しさは、柿を剥き齧るたびに甦る。柿を放擲(ほうてき)しなければ、口内炎と胃部不快は治らないのか。そうであれば、生きることをあきらめたくなる。自分のことでは、気の晴れないバカなことを書いてしまった。階段を下りて、茶の間のテレビを点ければ、気が晴れるかもしれない。夜明けてみればきのうの雨はやんで、大空はのどかに彩雲をいだいている。

勤労感謝の日

 「勤労感謝の日」(11月23日・水曜日)。日本大百科全書(ニッポニカ)より引用。「勤労をたつとび、生産を祝い、国民がたがいに感謝しあう」国民の祝日。1948年(昭和23)制定された。その前は国の祭日で、天皇が新穀を天神地祇 (てんじんちぎ)に勧め、自らも食する新嘗祭 (にいなめさい)という祭事の日であった影響でこの日はいまも農業関係者の祭典の色彩が濃くみられる。さて、「すっきり」と「すっかり」という言葉の発音は極めて似ている。ところが、用い方は真逆(まぎゃく)である。「寝起きの私の気分は、すっきりしている」。「口内炎と胃部不快の抱き合わせ症状により私は、すっかり体調を崩してしまった。」現在の私は、後者である。
 勤労をたっとぶ「勤労感謝の日」にあって、私は「生きる屍(しかばね)」状態にある。体調が崩れて気分憂鬱のせいで、この先の文章は書けない。なさけない。昭和23年にあっての私は、熊本県鹿本郡内田村立内田小学校2年生であった。こんなロートルになろうとはつゆ知らず、明るく校門をくぐっていた。楽しかった思い出は、はるかに遠くなってしまった。人生行路においては、共に生きているのに、「幼年と晩年」もまた、真逆の生き方である。口内炎の痛さに耐えきれず、起き出して来た。現在の時刻は、4:44と刻まれている。

恩義忘れず「だらだら文」

 十一月二十二日(火曜日)。夜の静寂(しじま)の頭上の二輪の蛍光灯の明かりは、十五夜の月光に肖(あやか)るかのように、皓皓(こうこう)とふりそそいでいる。現在の時刻は、夜明け未だの四時前にある。夜明けの遅い仲冬ゆえに、こんな表現をしても、もちろん嘘っぱちでも、大袈裟でもない。
 夜の静けさは、人間界に授けられた天界の恩寵(おんちょう)である。実際のところは、太陽の恵みであろう。わが下種(げす)の勘繰りをすれば、夜なく昼ばかりでは寝ることなく労働を強いられて、人間は命を縮めるであろうという、太陽の粋なはからいに思えている。学業成績(テスト)において、化学および物理共に常に赤点だった私は、そのたびに科学のもたらすロマンより、わが心の描く空想にロマンを掛けてきた。かなりの負け惜しみだけれど、まんざら嘘っぱちでもない。いや人間は、心の描くロマンこそはてしなく、夢見る心地にありつけるところがある。
 さて、ロマンは止めて、現実に戻ろう。寝床から起き出して来た私は、すぐさまこんな行動をとった。階下に寝ている妻を気遣い、階段を下りて洗面所へ行った。そこに置いていた口内炎治療薬(軟膏)を指先に少し取り、鏡面に向かい患部を睨んで、ベロ(舌)の穴ぽこを中心にして、左右満遍なく塗り付けた。これが済むとパソコンを起ち上げている。そして現在の私は、口内炎の痛さを必死に堪えて、なおかつ、塗った軟膏が患部からずれないようにと、唇を固く結んでいる。何事においても敵を倒すには、先手必勝が戦闘の常道である。
 このことは愚か者の私とて、十分知りすぎている戦術・戦法である。ところが、このたびの口内炎との闘いにおいては、後手に回ってしまったのである。あからさまにいや文字どおり私は、「後悔は先に立たず」という、悔いある現象をさらけ出したのである。口内炎の発症には、胃部不快がつきものである。あるいは逆に、胃部の損傷が口内炎を招くのか? こんな訳の分からぬ道理はどうでもいい。ただただ私は、口内炎の痛みと、胃部不快から逃れたい一心である。そうしないと三度の御飯は、旨くも楽しくもなく、生き続けるための虚しい「餌(えさ)」にすぎない。
 早く、逃れたい! 何らあてにならない神頼みなどは捨ててきのう、後手になった闘いの一つを敢行したのである。私は、大船(鎌倉市)の街中にある行きつけのドラッグストア・「ダイコク」に赴いた。そして、口内炎用には「口内炎治療薬・ラウマー軟膏」(万協製薬)、胃部の不快鎮めには「整胃薬・セルベース錠剤」(エーザイ)を買った。ラウマー軟膏の効き目は未だしである。一方、セルベース錠剤は著効を示している。後者は義理でもこう言わなければ、恩義に背くとになる。なぜなら、セルベース錠剤は、わが現役勤務の会社が産み出した優れた薬剤であり、そのうえわが年金生活の大元を為しているからである。このことを書くために「だらだら文」を書いてしまった。
 夜明けはまだ遠く、私日記定番の天気模様は記せない。パソコンを閉じて寝床へ戻っても、二度寝にはありつけそうにない。だとしたら、再び階段を下りて、軟膏を患部に塗りたくってみようかな? と思う、虫けらの浅ましさである。

書き殴りを「御免」と思う

 十一月二十一日(月曜日)、今なお治りきらない口内炎の痛さに遭って、七転八倒しているうちに時は流れ、挙句に寝坊して起き出してきた。夜明けの時刻はとうに過ぎている。けれど、雨戸開けっ放しの前面の窓ガラスの外は、いまだに夜中のたたずまいにある。太陽光線の恩恵は、はかり知れない。この世いや地球にあって、無償の恩恵に授かる筆頭は、太陽光線であることをあらためて知る。
 寝起きのわが脳髄は、空っぽである。こんなことではこの先を書くのは止めて、現在は「三十六計逃げるに如かず」の心境にある。しかしながら私は、口内炎の痛さを我慢して、パソコンを起ち上げてしまった。飛んだ、わがしくじりである。それゆえに脳髄の乏しさ、いわゆるバカ状態をさらけ出している。
 確かに、物事において「継続は力なり」である。ところが、こんな駄文で継続の力を求めるのは、本末転倒の誹(そし)りを免れない。それでも継続を求めるのは、わが浅ましさと貪欲さの証しであろう。私はいつも、こんな実のない、味気ないことを冒頭に綴っている。そうこうしているうちに、何か? 脳髄に浮かぶことを待っている。ところがきょうは、この先を続けても何も浮かびそうにない。
 「ああー、痛い!」。ベロ(舌)の突先マンホールみたいに、ぽっかりと穴を空けている。いや、一つの穴だけでなく、左右横広がりに爛(ただ)れている。ピロリ菌を退治して以来、幼年の頃から取りついていた口内炎は、バッタリと遠のいてくれていた。ピロリ菌退治は、鬼退治に勝る朗報だった。だから今回の口内炎の発症には余計、怖さを感じるものがある。すなわち、ピロリ菌退治の賞味期限はもとより消費期限切れにあっているのであろうか。次回の通院のおりには主治医にたいして、真っ先に「ピロリ菌は、生き返るのでしょうか?」と、尋ねるつもりでいる。
 たかが口内炎ではあるけれど、私の場合は確かな難病である。やはり、この先は書けずにパソコンを閉じる。はなはだ忝(かたじけな)く思う、二十分間程度の書き殴りである。継続文に値するかどうかは、わが知ったこっちゃない。寝坊助のせいで、焦って書いた。ところが、半面そのせいか、朝御飯の支度まではたっぷりと余裕時間を残している。薄闇の夜明けは雨降りである。

案外、私は「食通」なのか?

 十一月二十日(日曜日)、夜明けまではまだ、行き着きないところにある。口内炎にともなう胃部不快、すなわち抱き合わせの不快感は、未だに極限状態にある。寝起きの私は、不意に美食家という、言葉を浮かべている。だから、これにともなって、三つの言葉を浮かべている。きわめて簡易な言葉だけれど、まずは電子辞書を開いた。
 美食:うまいものや贅沢なものを食べること。また、その食べ物。美食家。
 素食:①肉類を加えず野菜だけの料理②平生の食べ物。
 粗食:粗末な食事をすること。またその食べ物。
 美食にはいくらか揶揄的に、「家(か)」が添えられている。すなわち不断、最も有体(ありてい)に添えられるのは「美食家(びしょくか)」である。ところが、この言葉は電子辞書にはない。こんどは、スマホに搭載の「国語英語辞典」を開いた。これには明確に、美食家の説明文が記されていた。
 美食家:ぜいたくでうまいものばかりを好んで食べる人。グルメ。
 ところが、素食と粗食にあっては、それぞれに素食者そして粗食者の説明が付くくらいだった。もちろん私は、美食家ではない。また説明書きに従えば私は、必ずしもズバリ素食者や粗食者でもない。
 私の場合、三度の御飯(主食)は、ほぼ米飯(白米)一辺倒である。麺類やパン類は好まない。御数とて手の込んだ手料理などは好まない。言うなれば「レシピ」施しの、あれこれと煮たくったものは好まない。納豆一品の御数で十分である。だからと言って、粗末な御数とは言えない。
 付け出しだけれど、わが好む特等の食べ物は、「赤飯にごま塩」まぶしである。これには魚の刺身、タイの尾頭つき塩焼き、寿司さえお手上げである。確かに私の場合は、美食家ではないことはもちろんのこと、素食者および粗食者とも言えない、より下位に甘んじている。だけど、満足している。
 「食通」:「料理の味などに通じていること。また、その人」
 案外いや結構、私は食通なのかもしれない。口内炎と胃部不快のもたらす憂鬱気分消えず、この先は書かずおしまいである。夜明けの明かりは見えず、未だ薄暗い夜明け前にある。それゆえにきょうの天気模様は、書けずじまいである。きのう、きょうの天気予報は聞いていない。

人情、他人様から賜る情け

 十一月十八日(土曜日)。寝床から抜け出して来て、パソコンを前にして椅子に座り、壁時計を横目で見遣った。時計の針は、四時あたりをさしている。夜明けの遅い仲冬の夜明けまでは、未だ夜の静寂(しじま)にある。それでも、きのうの「丑三つ時」の寝起きに比べれば、二時間ほど長く眠れていたことになる。口内炎の痛さは峠を越して、下り坂に向かっているようである。そうであれば、ささやかとは言えない朗報である。つれて、憂鬱気分も緩和傾向にあり、どうにか「文章の体・態(てい)」を為している。
 きのうは口内炎のもたらす憂鬱気分に陥り、文章を書く気分になれずじまいだった。挙句、出まかせの石ころみたいな創作川柳でつないだ。人の世は、「捨てる神あれば拾う神あり」。この定則を露わにしたのは、文字どおり他人様(ひとさま)の情けと優しさであった。実際には掲示板上の高橋弘樹様のご投稿文から、こんなアドバイスを賜ったのである。「前田さん。口内炎には『KAGOME野菜生活100オリジナル』(200ml)が良いですよ」。「牛に引かれて善光寺参り」:他人に誘われて知らぬうちに善い方へ導かれることのたとえ。この成句にいくらか似ているけれど、実のところはまったくそうではない。なぜなら私は、常日頃にエールを賜る高橋様のアドバイスにすがり、定期路線バスに乗って大船(鎌倉市)の街へ出かけたのである。そして、セブンイレブンに立ち寄り、高橋様お勧めの目当て「野菜生活」を買い込んだ。きのうは、たちどころに二本飲んだ。効き目はわからない。しかし、買い込んだおりのわが心中には、咄嗟にこんな成句ができていた。「親の声、絶えて代わりの、他人(ひと)の声」。
 わが晩節の生存は、人様の声に「助けられ、支えられ」て、叶っている。「痛い、痛い、口内炎」は、他人様(ひとさま)の人情を篤くもたらしてくれたのである。だから痛くても、ありがたくて我慢のしどころである。まだ、夜明けの明かりは見えない。パソコンを畳んで、寝床にとんぼ返りをしたら、案外いや結構、二度寝にありつけそうである。