ひぐらしの記

ひぐらしの記

前田静良 作

リニューアルしました。


2014.10.27カウンター設置

内田川(熊本県・筆者の故郷)富田文昭さん撮影

 

気分直しは「望郷」

 3月15日(水曜日)。夜明けが近づいて、仕方なく起き出している。しかし、気力がともなわなくて、書く気分を殺がれている。きのうはずる休みというより、根っから生きることに疲れてしまい、文章が書けなかった。生きることも、死ぬことも、たやすいことではなく、もとより人生行路は茨道である。きのうのメディアは、喜ばしいことでは死刑囚・袴田巌さんの再審決定を伝えた。このまま控訴なく、再審において無罪になれば、喜びひとしおを超えて、惨たらしい仕打ちである。もちろん私は、ご当人の無罪を望んでいる。しかし、無罪を得られても、つらい人生である。それと同時に私は、弟の無罪勝ち取りに生涯を懸けられているお姉様の肉親愛と優しさに涙する。しかし、これまた勝利に酔えないつらい人生である。
 一つには、ノーベル文学賞作家・大江健三郎さんの永眠が伝えられた。大江さんは作家活動一筋ではなく、諸々の社会問題を提起し、みずからそれと闘う、作家であられたという。きのうの私は柄でもなく、人様の人生模様をかんがみて、「生と死」にしみじみ感をおぼえていた。
 夜が明けた。気分直しに、望郷に浸る。ふるさとに存在する「相良観音」は、きょう(15日)から18日まで、春季恒例祭が営まれる。子どもの頃の私は、片手に硬貨を握り締めて駆けて行った。賽銭箱は用無しに参道で、ニッキ水と綿菓子を買った。減るのを惜しむように、ちょびちょび啜り、ちょびちょび舐めた。望郷こそ、気分直しの本山である。しかしながら、一足飛びはあり得ず、少しずつにすぎない。
 きのうは、まったく書けなかった。きょうは、少し書けた。一歩、前進である。望郷のおかげかもしれない。

マスク着脱

 3月13日(月曜日)、待ち望んでいた日の夜明けが、曇り空で訪れている。きょうはマイナス思考をともなう、グダグダ文章は書かない。もしかすると死ぬまで、マスクの着用を強いられるのか? と、恐怖に怯えていた。ところが、きょうを境にしてマスクの着脱は、個人の判断に委ねられることとなる。日本政府のお達しだから、公(おおやけ)である。もちろん、一足飛びにマスクの着用が不要となることはないけれど、無言の同調圧力は免れそうである。
 私の場合、このことがことのほか、うれしいのだ!。近眼と両耳難聴ゆえに私は、耳穴は集音機で塞ぎ、耳たぶには眼鏡の柄とマスクの紐を掛けている。これらは、わが日常生活においてはきわめて煩わしい所作である。それゆえ、新型コロナウイルス発生以降私は、この三つ巴の所作からの解放を願い続けていたのである。一方でそれは、もう無理かな? と,諦めかけていたのである。ところがそれが、いまだに不完全ながらも叶ったのである。不完全というのは、場所や人の込み具合、さらには人様への迷惑、なお自分自身への感染の恐れを判断し、適応や対応を必要とするからである。そうであってもやはりきょうは、目の前に棚から牡丹餅がおちて来たごとくに、うれしい日である。
 これで、グタグタの書き止めである。飛んでもない、令和5年(2023年)3月、すなわち春日(しゅんじつ)の朗報である。私には桜便りを超えて、うれしい便りである。

春うらら

 3月12日(日曜日)、起きて、こんなことを浮かべている。天災は、人間の知恵の及ばないところに隠れている。だからこの瞬間とて、地震が起きるかもしれない。時刻はまさしく、「阪神淡路大震災」(平成7年・1995年1月17日)の発生時刻(午前5時46分)にある。この日時は、うろ覚えではなく正確な記憶である。なぜなら当時の私は、勤務時代における大阪支店に在籍しており、被災地・兵庫県尼崎市東園田町の単身赴任者用の会社・借り上げマンションの一室「401」で遭遇したからである。きのうのテレビニュースは、12年前に起きた「東日本大震災」(平成23年・2011年3月11日,午後2時28分)で、ほぼ埋め尽くされていた。今でもどちらも、地震の恐ろしさが消えない哀しい記憶である。地震の恐ろしさと痛々しい記憶は、決して忘れ、消えるとはない証しである。
 ところが、天は罪作りである。きのうの東京の空は、首都の隅々にまで陽光こぼれる「春うらら」だった。まるで、地震の恐ろしさと未だに生々しい記憶を消し去るでもするような、まさしく麗らかな春日和だった。私は行動予定にしたがい、東京都国分寺市内に在る次兄宅への朝駆けを敢行した。「ひぐらしの記」を書き殴りで終えると、朝飯抜きにわが家を飛たった。時刻は7時過ぎ、それでも、次兄と顔を合わせたのは、10時半頃だった。12時半近くまで在宅した。いつもより帰りを急いだ。こんな魂胆をたずさえていたせいである。いつもであれば私は、JR中央線・新宿駅で下車し、湘南新宿ラインに乗り換えて、わが下車駅・大船へ向かう電車に乗る。ところがきのうの私は、新宿駅には降りずに、その先四ツ谷駅を挟んで、「御茶ノ水駅」で下車した。まずは、かつて通った母校・中央大学の校地に建てられた新キャンパスを見るためであった。ここを終えると、東京メトロ「御茶ノ水駅」から乗車し、二駅そして後楽園駅を挟んで、「茗荷谷駅」で下車した。茗荷谷駅は、勤務時代の下車駅である。この近くにも、母校の新キャンパスが建てられていた。それを見物し終えると私は、途中勤務した社屋(本社)を眺めながら、後楽園駅までテクテク歩いた。WBCの行われている「東京ドーム」を目の前にして、「後楽園駅」から電車に乗り、帰りに方向を変えた。
 今、スマホを手にして、きのうの歩行数と距離を確認した。それは、11,635歩と、そして8・9キロメートルだった。歩きながらのわが心中には、会社同期入社仲間の渡部さん(埼玉県所沢市)の偉大さだけが浮かんでいた。渡部さんは「ひぐらしの記」では、お馴染みである。私が友情を超えて敬愛する人である。現在、渡部さんは首都圏(東京都、埼玉県、千葉県、神奈川県)にある郵便局の大小にかかわらず、文字どおりそれぞれに貯金をしながらしらみつぶしの敢行の途中にある。すでに、3500か所の郵便局回りを果たされて、現在は、千葉県周りのさ中だという。きょうの文章は、このことを書きたかったのである。この後のテレビ番組を観るため、尻切れトンボを恥じて、ここで書き止めである。
 東京メトロの一駅間を歩きながらわが足は、ヨタヨタに疲れ果てていた。渡部さんの偉大さが身沁みた、春うららの歩行だったのである。渡部さんは僻地に住む、わが住宅地内にある最小規模の郵便局周りは、すでに済まされている。世の中には、いやわが仲間にはこんなにも偉大な人が存在する。地震なく、きのうに続いて、春、麗らかな夜明けが訪れている。

「東日本大震災・12年」

 令和5年(2023年)3月11日(土曜日)の夜明け前にある。「東日本大震災」は12年前のきょう、平成23年(2011年3月11日、午後2時28分)に起きた。きょうは、天災とりわけ地震の恐ろしさを忘れてはならない日である。このときの私は、ふるさとに帰っていた。そして、姪っ子(長兄夫婦の次女)の嫁ぎ先が催す「昼宴会」に参じていた。私を連れて行ったのは、長兄夫婦だった。宴会は馬刺しや鯛の刺身、寿司三昧など、てんてこもりの大盤振る舞いだった。宴会は和気藹藹と賑やかに続いて、お開きになったのは夜の七時頃だった。この間、テレビを観ることはなかった。客間から離れて姪っ子は、帰り際に居間のテレビを点けた。みんなが立ち竦んで見る画面には、大津波が家々を流していた。このときから、大騒動になった。すぐさま、兄夫婦と私は、車で自宅へ戻った。これ以降私は、固定電話と携帯電話を頼りにして、妻の安否確認に狂奔した。しかし、その日の夜そして明けて昼時になってもとうとう、妻との交信は叶わなかった。わが家の固定電話、妻の携帯電話以外には、卓球クラブの同僚・小林さんの携帯電話へかけ続けた。私は、ご近所で人の好い小林さんに頼ったのである。昼頃であろうか、小林さんと交信できたのである。まさしく、溺れる者が漂う一本の縄を掴む心境であり、現人神様(あらひとがみさま)への出会いだった。小林さんは狂奔する私の依頼に応えてわが家へ出向かれて、妻とわが家の安全を告げてくださったのである。 一難去れば、私は身勝手である。危難を免れると、こののちの私は、他人事みたいにテレビニュースを見聞きした。長兄とフクミ義姉さんは、もうこの世にいない。
 きのうは、生前のフクミ義姉さんの志を継いだ姪っ子から、「高菜漬けのふるさと便」が届いた。きょうの私は、朝駆けで東京へ向かう。東京都下国分寺市に住む次兄(92歳)宅への訪問である。もっと端的に言えば、老いを深める次兄の体調確認とご機嫌伺いである。しびれを切らしていた、久しぶりの訪問である。次兄は、姿を変えているであろうか。先回の訪問は第二のふるさとと任じて東京で、優しく母親代行役をされていたヨシノ義姉さんの一周忌(昨年12月)だった。歳月の流れには逆らえず、私も妻も老いて行く。来年は、どんな「東日本大震災・13年」になるであろうか。のどかに、夜が明けている。久しぶりの上り電車だけれど、心楽しい旅ではない。

実のない「作文」

 3月10日(金曜日)、パソコンを起ち上げるといつも考える。いや、何を書こうかと悩んでいる。文章にする得意分野(ジャンル)を持たないせいである。おのずから、得意分野を持って、スラスラと書ける人に憧れる。何年書こうと、死ぬまで書こうと、この悩みは消えない。言うなれば、わが生涯における尽きない悩みである。現在は、こんなつらい心理状態にある。
 文章なんて、容易(たやす)く書けるはずだ。なぜなら、心中に思っていること、あるいは浮かんでいることを、語彙(言葉と文字)に替えれば済むことだからである。人間だれしも、心中がまったくの空っぽになることはない。ガラクタであっても、何かしらを浮かべている。学童の頃の「綴り方教室」においては、浮かんだことを原稿用紙に埋めていた。ところが現在は、適当なネタを探し、ネタが浮かべば文脈を考える。次には、文脈にそう適語や飾り言葉(修飾語)を探す。すると私は、文章をものにするこの流れに行き詰まる。挙句、しばし机上に頬杖をついている。現在の私である。しかし、書けなく、頬杖をついていても、焦ることはない。いや、気分は和んでいる。それは、寒気をまったく感じない、気分の緩みのせいである。
 春夏秋冬、春の恵みはかぎりなく膨大である。気象予報士によればきのうの関東地方は、5月頃の暖かさだったと言う。そしてきょうは、雨の予報である。ところが、のどかな春雨でとどまらず、乱れて嵐になるところがあると言う。しかしながら、春には嵐がつきものと思えば、そう気にすることはない。寒気さえ遠のけば私は、荒れ模様の天気でも構わない。コロナは収束へ向かっている。桜だよりは日を追って、賑やかになりつつある。ただ、好日にあってきょうの私には、妻の通院における引率同行予定がある。もとより、引率されるよりはましだから、仕方がないとは言えない。妻の身を労わり、わが身を労わり、共に人生晩年の日々はめぐっている。命の終焉まで残り日少なく、万感きわまりない歳月のめぐりである。だから、どんな春でも粗末にするのはもったいない。
 ネタなく、こんな文章を書いてしまい気恥ずかしい思いである。いや、気恥しいと言って、怯(ひる)むことはもったいない。雨模様の夜明けが訪れている。山の枝木の揺れは、まったくない。

苦痛と快楽

 3月9日(木曜日)。春は、半ばへ向かっている。摘み残っていた庭中のフキノトウは、文字どおりすでに臺(とう)が立っている。起きて、寒気は緩んでいる。心は、穏やかである。心身、縮むことなくのんびりとキーを叩いている。夜明け前に文章を書く私にとっては、寒さが遠のいたわが世の春の到来である。ところがこれは上部(うわべ)だけにすぎず、心中はそうではない。なぜなら文章のネタなく、しどろもどろの状態にある。
 文章の才無き私には、文章を書くことには絶えず「苦痛」がともなっている。苦痛の対義語は「快楽」である。文章を書く上で、快楽はあるであろうか。苦痛だけで快楽が無ければ、生来、三日坊主の私ゆえに、継続はあり得ない。ところが、曲がりなりにも継続が叶えられている。その理由には二つある。一つは、生涯学習に「語彙」のおさらいや新たな学びを掲げているからである。すると「ひぐらしの記」は、大沢さまのご好意にさずかり、生涯学習の実践の場(機会)にあずかっている。ところがなさけないことに心中は、(止めたい、書けない)という苦痛の状態にある。この苦痛にわずかでも快楽を求めればそれは、文脈に適(かな)った語彙が浮かんだときである。滅多にないことだけれど、浮かんだときには確かに快感を覚えている。しかし、苦痛と快楽を天秤にかければ、苦痛はなはだ重く天秤棒はピョンと一方へ傾き、測定不可能となる。「苦痛と快楽」、言葉の学びだけの文章である。継続の足しにはなっている。しかし、快楽(感)は、まったく無し。日の出の早い、夜が明けている。

桜だよりは、花粉症の季節

 3月8日(水曜日)、桜前線北上中にあって、寒気が緩んでいる。春が来て、自然界が恵む飛びっきりの日暮らしにある。しかしながら一方、ゆめゆめ気を許せない、名残雪、寒の戻り、憎たらしい春に嵐の季節でもある。それゆえに、のんびりと桜前線を待つ気にもなれないところはある。季節変わりは、おのずから体調変化にも見舞われる。春、油断大敵と心すべきある。幸いなるかな! 私自身は免れているけれど、目下、多くの人が花粉症に悩まされる季節である。
 確かに、わが家周りの山からも日中、目に見えてスギ花粉が飛びちらついている。それでも花粉症にならないのは、私自身、杉山育ちゆえのせいかもしれない。案外、仲間にたいする施しみたいに、杉にたいする耐性ができているのかもしれない。生誕地は、里山および遠峯にわたり杉(杉山)だらけであった。すでにこの世にいないふるさとの長兄は、村中で唯一の製材所の加勢仕事で、杉苗植え付けに精を出していた。なぜか? 当時は、花粉症という言葉さえなかった。これらのことを鑑みて私は、今なお花粉症の真犯人がスギ花粉を散らかす杉(杉山)とは到底思えない。いやむしろ杉(杉山)は、冤罪を被っているのではという、疑念に取りつかれている。
 子どもの頃の私は、家事手伝いの中心として、しょっちゅう杉山に入っていた。一つは、薪取りとして枯れ落ちた枝木を集めて縄で縛り、肩にしょって持ち帰っていた。一つは、枯れた杉の葉を拾い籠に入れて持ち帰り、日々の風呂沸かしや竈(かまど)の焚きつけ用にしていた。生活資材にかかわらず、見晴るかす杉(杉山)、日常生活における無償の絶景を恵んでいた。これらのほか杉(杉山)は、メジロ落としや山鳥の罠掛などでも、子どもの私を愉しませてくれていた。言うなれば当時の杉(杉山)は、わが家の生計を助け、わが子どもの頃の家事手伝いと遊楽の一角を成していたのである。
 これらの切ない思い出があってか私は、花粉症におけるスギ花粉真犯人説には、今なお異議を抱いている。いや異議は、恩恵を享けた杉(杉山)にたいする、憐憫の情沸くわがありったけのエール(応援歌)である。花粉症に悩まされる人からは、鼻持ちならぬこととして、大きな罰を受けそうである。しかしながら書かずにはおれなかった、杉(杉山)にかかわる切ない思い出である。桜便りは、花粉症の季節でもある。マスクの着用は、コロナ感染防止だけとはかぎらない。身勝手すぎる、かたじけない文章を書いてしまった。起きて、ネタ不足のせいである。

凱旋将軍・大谷選手、ホームラン2本

 3月7日(火曜日)。寒気の緩んだ夜明け前にある。きのうの「啓蟄」(3月6日・月曜日)は、益虫および害虫共に先を争って、地中から地上へ這い出してきそうな、暖かい春の陽ざしに恵まれた。昼間、陽気に誘われて私は、虫けらのごとく慌てふためいて、わが買い物の街・大船(鎌倉市)へ向かって、買い物行動を急いだ。暖かい陽射しは、わが身体にもたっぷりと降りそそいだ。それゆえに私は、地中の虫けらにも負けず、小躍りしたのである。
 夜間、本格的な春の訪れは、球春をもたらした。私は、目を凝らしてテレビ観戦に興じた。以下の引用文は、試合にまつわるメディア記事である。自分なら、こんな見出しをつけよう。「侍凱旋、傑物・怪物は、壊物(壊れ者)ではなかった」。【大谷衝撃の2発 侍戦士もあんぐり】「(3/6、月曜日 23:50 スポニチアネックス)。大谷翔平の「片ひざ弾」「バット折れ弾」に侍戦士もあんぐり 「野球辞めたい」「フライかなと思った」。◇WBC強化試合 日本代表8-1阪神(2023年3月6日 京セラD)。3月9日開幕の第5回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)で世界一奪回を目指す野球日本代表「侍ジャパン」は6日、京セラDで行われた強化試合で阪神に快勝した。この日からメジャー組の実戦出場が可能となり、日本での試合が1974日ぶりとなった大谷翔平投手(28)は「3番・DH」で先発出場し、2打席連続3点本塁打を放つなど3打数2安打6打点だった。
 この記事に、わが追記は要らない。桜便りに先駆けて、錦を飾る「大谷桜」満開である。

啓蟄

 「啓蟄」(3月6日・月曜日)。きょうを境にして、地中で冬ごもりの虫たちは地上に這い出し始めるという。二十四節気の一つを為して、いよいよ本格的な春の到来である。虫けらも生き物であるかぎり、寒い冬を嫌って暖かい春を待ち望んでいたのであろう。このことでは人間と虫たち、分け隔てせずに共に、春の訪れを喜ぶべきである。
 ところが身勝手な私は、必ずしも啓蟄(けいちつ)をすんなりと喜んでいない。その理由は、わが「ぼろ家」に起因している。すなわちそれは、ゴキブリ、ムカデ、ヤモリ、アリ、そしてときには、ハチの舞い込みに脅かされるからである。庭中にはしょっちゅう、トカゲがうろついている。蛇のお出ましには、恐怖に怯えて目を凝らしている。
 春が来て恐れのない恵みは、山野の桜と野花、そして飛びっきりの春野菜の美味である。啓蟄にあってもしおらしいのは唯一、地中のミミズくらいである。一方、ちっともしおらしくないのは、草取りに手古摺る雑草の萌え出しである。しかしながらやはり、頃は良し「春はあけぼの」であり、文字どおり「春眠暁を覚えず」の季節の到来にある。
 ところが私の場合、この恩恵に見捨てられている。もとより、残念至極である。暁どころか真夜中に目覚めて、そののち二度寝にありつけず、悶々とするままに枕元の電子辞書を開いていた。そして、二度寝を拒んだのは、「鬼だ!」と決めつけて、腹立たしさ紛れに「鬼にかかわる」言葉を読み漁った。ますます、二度寝は遠のいた。
 【鬼】「穏(おに)で、姿が見えない意という」
 多くの説明書きのなかで、ここで記すのは、「想像上の怪物」だけでいいだろう。怪物は、化け物と同義語でいいのかもしれない。なぜなら、怪物にしろ化け物にしろ、人間の心に悪さをすることでは同一である。確かに、姿は見えないけれど人間の心中を脅かす想像上の「鬼」は、まさしく悪の権化(ごんげ)である。それゆえか「鬼」は、漢字の部首の一つ、「鬼、きにょう」を為している。部首の説明書きは、こうである。「鬼を意符として、霊魂や超自然的なもの、その働きなどに関する文字ができている」。いや、私にはずばり魔物、すなわち悪魔、悪鬼、魔力などが連綿と浮かんで来る。
 睡魔とは、眠気を催すのを魔物の力にたとえて言う語である。私の場合、眠気を催すことには、ありがたいところもある。しかし、すぐに悪夢に魘(うな)されて目覚め、こののちは二度寝にありつけない。魘されて二度寝を拒むのも、字の成り立ちのごとく鬼の仕業であれば、懲らしめる姿が見えないだけに、もはやお手上げである。
 ネタ不足は行き着くところまで行き着いて、こんな実のない文章で、お茶を濁している。心中常に、赤鬼、青鬼、いるかぎり春の訪れを愉しことはできない。地中の虫たちは喜んでいても、もどかしい啓蟄の朝である。

春三月のわが誓い

 3月5日(日曜日)、ホームストレッチを走り、いっそう日長が加速する頃にあっても、未だ真っ暗闇の夜明け前にある。かつて文章を学んでいた「日本随筆家協会」の故神尾久義編集長は、春三月になれば決まって、こんな言葉でわが怠惰心を励まされた。「前田さん。文章が書き易い、春になりました。頑張ってください」。私はこの言葉に励まされて、冬の心、すなわち寒気で委縮していた怠け心を遠ざけた。なさけない過去物語、いや、つらい思い出である。
 確かに私は、人様の励ましにすがる生来の怠け者である。その証しに私は、ようやく寒気が離れる2月の末あたり(27日)から、正真正銘の暖かい春三月の訪れのきのう(3月4日)まで、文章を休んだ。言い訳を添えれば単なるずる休みではなく、体調不良に見舞われて書く気分を殺がれていたのである。それでも心強い人は、書き続けたはずである。ところが私は、負けた弱虫である。しかし、「捨てる神あれば拾う神あり」。すなわち私は、挫けたわが心を励ましてくださる、現人神(あらひとがみ)の恵みに救われたのである。
 私の場合、不断から神様への信仰心はまったくない。だから神様に替えて、信仰心にも似て尊愛するのは、人様から賜る温情と恩情である。ひとことで言えばそれは、人様から賜る「情け」である。きのうの夕方、わが家の固定電話のベルが鳴った。受話器を手にしたのは、リハビリ中の妻だった。私は、日長ゆえに暮れ泥(なず)窓から射し込む薄い日の光の下、湯船の中にいた。きのうの私は、久しぶりに卓球クラブへ出向いていたのである。集音機を外したわが耳にくっつくようにして、妻は数々の言葉を大声で告げた。とぎれとぎれに聞こえる言葉の中で、こう言葉を整理した。
「パパ。文章のことで、渡部さんから、電話があったよ。続いている文章がないからと言って、心配してくださってされていたのよ。とても、ありがいじゃないの、すぐに電話しなさいよ!」
「そうだろうなー。このところ、文章書いていないもんな。わっかったよ。ありがたい人だねー。風呂から出たら、すぐに電話するよ」
 私は湯船から出て、急いで着衣を済ますと、渡部さんへ折り返しの電話を掛けた。現在、私は82歳の幸運児である。わが生涯において幸運を齎(もたら)しているのは、親や兄姉の愛情である。ところがこれは、あたりまえの愛情であり、幸運の埒外にある。つまるところわが生涯における最良かつ最大の幸運は、友人・知人すなわち他人様との知己に恵まれたことである。
 「ひぐらしの記」にかかわることでは、大沢さまはじめ掲示板を通してさずかる声と、声なき恩愛である。わが生活を支えることでは、飛びっきりの優良会社に入社し、そのことで精神を支えてくれる飛びっきりの同期仲間に恵まれたことである。それらの中にあって渡部さん(埼玉県所沢市ご在住)は、飛びっきりの友人、いや恩人である。「ひぐらしの記」の単行本いたっては、創刊号以来直近の第85集まで、有償購入にあずかっている。それゆえこの文章は、渡部さんの激励に背いてはならないという、再始動文である。
「前田さんの文章を読むのは、ぼくの朝の楽しみです」
 神尾編集長は、金をはたいて一時期遭遇した恩人である。ところが渡部さんは、多額のお金を持ち出されて(自弁)までして、一週間とて間を置かず生涯にわたる恩人である。「渡部さん、がんばります」。春三月のわが誓いである。