ひぐらしの記

ひぐらしの記

前田静良 作

リニューアルしました。


2014.10.27カウンター設置

内田川(熊本県・筆者の故郷)富田文昭さん撮影

 

日中のバスの車中の「一コマ」

 私には途轍もなく耳に痛いことばがある。そのことばが厭なため私は、(もう止めよう、もう書きたくない)と、心中で愚痴りながらもようよう、これまで「ひぐらしの記」の継続を叶えてきたのである。このことばに出合うのは、友人や知人のなかでも普段から、飛びっきりお顔見知りの人たちである。言うなればわが日常生活を知り尽くされて、ありがたいわが応援隊にも思える人たちである。
 確かに、これらの人たちのことばの投げかけにより私は、わが怠惰な心に発奮を促し、そのひとつにはこれまで、ひぐらしの記は途絶えずきた。だから、耳に痛いことばは嫌なことばの半面、ときにはおねだりしたくなるような、効果覿面のカンフル剤でもある。
 先日、バスの中で思いがけない出会いがあった。そしてそれは、買い物帰りのバスの中の思いがけない一コマでもあった。この日もまたいつもとたがわず、私は背中にはパンパンに膨れ上がった国防色の馬鹿でかいリュックを背負っていた。さらにはこれまた両手にはかつてのビニール袋ではなく、今では超薄手の買い物専用の布袋を提げていた。
 バスに乗ると、幸いにも長椅子が空いていた。普段であればここには座らない。なぜなら、青文字で「優先席」と大きく、表示されている。この席の一方の端には、エンジン隠しなのか? ひときわ高く狭苦しい台が設けられている。「荷物を置いてはいけない」と、書いてはない。だから、この近くに座る人たちは、おおむねこの台を目当てにして、われ先に座っている。もちろん、それを非難することはできない。なぜなら、今や日中のバスの乗客のほとんどいやすべては、優先席資格保持者である。
 このときの車中はガラガラであり、私は目ざとくこの席を見据えて腰を下ろした。ふうと吐息して、安堵した。すぐに三つの買い物袋を台の上にぎりぎりに重ねた。私には優先席に座った後ろめたさがいくらかあって、正面を見ることなく俯いていた。時節柄、白いマスクがほぼ顔いっぱいを覆っていた。それになお、眼鏡をかけている。さらに両耳にはすぐに目につく、集音機を嵌(は)めていた。醜(みにく)いこれらのいでたちにも、年寄りゆえに必要悪でもあるから、もはや恥ずかしさはおぼえない。ただ一つ私には、ちょっぴり優先席に座った気まずさがあった。そしてそれは、隣の席に座る人にたいし、怯(おび)へと委縮する気分につながっていた。
 俯いていたにもかかわらず、「よう、前田さん!」と、声を掛けられて、隣に人が座られた。からだを縮めいくらか席を広げて、顔を上げ視線を仕向けた。隣りに腰を下ろした人は、卓球クラブの先輩男子、石井さんだった。わが心中を騒がすいろんなことがあって、私は一年強も卓球クラブから遠のいている。
「ああ、石井さん。こんにちは、いま買い物帰りです。この台のものは全部、ぼくのものです」
「おれも、買い物帰りだよ」と言われた。けれど、買い物袋は見当たらない。突如、嫌なことばがわが耳に投げ込まれた。
「前田さんは、まだ文章を書いているの?」
 これはお顔見知りの人だけが問う、実際はどうか不明だけれど、自分としてはいつも好意のことばと受け止めている。
「はい、書いています」
「そう、続いているの? 前田さんは偉いなあー。おれにはなんもないよ」
「石井さんは、あんなに卓球が上手じゃないですか。みんなのコーチ役じゃないですか。羨ましいですよ」
 繰り返し「そう、まだ書いてるの? 前田さんは偉いなあー、まだ続けるんでしょ。続けたがいいよ!」
「ありがとうございます」
 私はズボンのポケットからスマホを手にして、「これを開ければ、きょう書いた文章があります」。私はひねた子どものように、いくらか見せびらかし、ひぐらしの記の画面を開いた。そこにはまだ見ていなかった、高橋弘樹様の新たなコメントがあった。
「書けば、ときにはこんなうれしいコメントも出合うんですよ」
「そう、それはうれしいね。前田さん、続けたがいいよ」
 石井さんは途中、ご自宅最寄りのバス停で降りられた。私はバスを降りるまで、なんだか押し売りで手に入れたような喜悦に酔っていた。
 私は三つの買い物袋を持ち上げて、ヨロヨロ足でバスを降りた。命を惜しむ、季節迷いのセミが鳴いていた。

真夜中の夢遊病

 「文は孤独」ということばと並列して、「文は人なり」ということばがある。私は双方ともに体現している。目覚めて二度寝に就けず、仕方なく起き出して来た。時刻は日を替えて、まもない。壁時計の針は夜の静寂(しじま)にあっても、音無くめぐっている。これまでの私はもう長いあいだそして日々、継続の頓挫に怯(おび)えながら、たくさんの文章を書き続けてきた。大袈裟好きのわが表現を用いればその数と量は、すべてを四百字詰め原稿用紙で書き残していれば、地球の何回りとは言えないが、たぶん小型の軽トラックでは積みきれないほどであろう。もちろん、応募などの必要に応じては原稿用紙に書いた。
 顧みて原稿用紙で最も多い枚数を書いたものでは、埃まみれの額縁入りの「賞状」にその証しがある。わが六十(歳)の手習いの初期の成果だけに、ちょっとだけ自惚(うぬぼ)れて、死ぬ前にいま一度だけ、日の目を当ててやりたい。「賞状 奨励賞ノンフィクション部門『少年』前田静良様。あなたは本会主宰第72回コスモス文学新人賞全国公募文芸作品コンクールにおいて頭書の成績をおさめましたのでこれを賞します 平成12年2月1日 文藝同人誌 コスモス文学の会」。
 六十(歳)の手習いゆえに、確かにほんのりとする自慢がないわけではない。しかし、実際のところはそうではない。これがわが生涯における、手書き原稿の最大枚数(99枚)だったと、記したにすぎない。これ以外の多くの文章は、パソコン搭載のワード機能を用いて、かつてのフロッピーディスクに収めてきた。そしてその数は、これまた大袈裟に言えばわが胸にひとかかえもあるほどの枚数だった。ところが、これらのフロッピーディスクのすべては、もはや海の藻屑のごとくに消え去っている。ちょっとしたことばのはずみで、分別ごみ置き場に捨てられたのである。捨てた真犯人は、難産きわまりなく産み育てた、すなわち生みの親の私である。もちろん今となっては慙愧(ざんき)にたえず、かえすがえす残念無念である。
 現在使用中のパソコンの起ち上げには、私は安売り量販店の「ヤマダ電気」で購入後に、初期設定等を含むすべてを、JCOMの技術者へ出張依頼をしたのである。そのとき技術者は、「フロッピーディスクは使いますか。機能は残されますか、それともなくていいですか?」と、問われた。するとかたわらの私は、「そうですね。もう、要りません」と、言ってしまった。あとの祭りである。そののちは、わがことばの祟(たた)りに見舞われている。つくづく、「わが口は、禍の元」であった。そんなこんなあんなで、このころの私は、文章を書き続けることに疲れと限界をおぼえている。
 きょう(九月二十日・月曜日)は、秋彼岸の入り日である。同時に、三連休日を閉める「敬老の日」である。彼岸にあっては四十九日に満たない、亡き長兄をことさら偲び、敬老の日にあってはだれからも労(いた)われようなく、しかたなくわが身の老いをみずから労り敬(うやま)っている。六十(歳)の手習いにすぎないのに、たくさんの文章を書き続けてきたのは、わが無能をわきまえない過大の負荷だったようである。手書き原稿のコピー、あるいはフロッピーディスクを残していさえすればと、いまさらながら悔やまれるところである。なぜなら、それらを二番煎じすればこの先まで文章は、案外続くかもしれないのだ。まさしく、「後悔は先に立たず」である。
 確かに、このところ私は、夢遊病者になりはてたごとくに疲れている。それはたぶん、駄文の書き疲れから生じているようである。疲れ癒しの効果覿面(こうかてきめん)の処方箋は、ちょっぴりの成果に大きく自惚れてみることのようである。なかんずく、大きく自惚れていいのではないか? 自問するのは、「ひぐらしの記」の継続である。ところが、それももはや、風前の灯火(ともしび)状態にある。まだ、真夜中である。夢遊病は、危篤状態に陥っている。

『わが生涯学習』

 漢字検定一級に合格したのちには研究員扱いとなり、二級までの指導資格が付与される。私は、平成8年の第3回の検定試験において、漢検受験初体験にもかかわらず、幸いにも1級に合格した。受験は勤務する会社における大阪支店への単身赴任のおり、住まいを構えていた兵庫県尼崎市のどこかの試験会場であった。額入りの大きな合格証書には、平成9年2月24日と刻銘されている。合格したのちには、課題論文の提出を要請される。この文章はそのおりに書いて、提出したもののなかから、多くの部分を削除して繋げたものである。
 本旨はわが生涯教育において、漢字学習を選んだ経緯と、その決意を書いたものである。それゆえ本稿には与ええられたテーマにそって、『当用漢字について思うこと』と題して提出した。しかしやたらと長く、内容も掲示板にはふさわしくないため、『ひぐらしの記』にそう部分だけを連ねたものである。この点では、きわめてちぐはぐな文章となっている。あらかじめ、詫びるところである。このことでは当初の題目を変えて、『わが生涯学習』と、銘打つものである。
 私が島田外科を「しまだがいか」と言ったので、五歳違いで中学を終えて看護婦になり立ての「静姉ちゃん」から、苦笑いがこぼれた。静姉ちゃんは異母長兄の二女なので、私にとっては年上の姪っ子にあたる。このことは四十余年前へさかのぼり、私は中学一年生だったはずである。こんな日常語を中学生になっても間違えるなんて! 私が漢字で初めてあじわった苦々しい体験だった。このときの恥ずかしさは、おとなになってこんにちにいたるまで、いっときも離れていない。一方ではこのときの恥ずかしさが、のちの漢字学びのきっかけとなっている。
 勤務する会社には、五十五歳になると定年後を見すえて、宿泊をともなった集合研修が行われる習わしがある。それは、いまやどこかしこにはやりのライフプラン(生涯教育)研修の一環である。私は平成7年7月、この研修に参加した。確かに、人生晩年、とりわけサラリーマンであれば、定年後の生き方の善し悪しは幸不幸に直結する。研修最終日にあって研修者たちは、決意を固めて宣誓をすることが義務付けられていた。私はこう宣誓した。「漢字検定一級に合格し、さらには語彙力を高めて、定年後は文章を書いて、ふるさとの人たち、友達、見知らぬ人たちと文通をしたい」。
 私は今年(平成12年・2000年)の9月末日付けで、定年退職する(60歳)。わが家から最寄りのJR横須賀線北鎌倉駅までは、途中、小走りをしても歩いて、25五分ほどがかかる。勤務する会社は、営団地下鉄丸ノ内線茗荷谷駅前にある。この間にはJR東京駅で降りて、乗り換えなければならない。会社までの片道所要時間は、2時間近くである。定年後の私は、会社生活にまつわる時間から解き放される。そして、あり余る自由時間にありつける。それと同時に、生涯設計のやり直しが強いられる。
 具体的には、定年後の生き甲斐づくりである。それを支えるのは生涯学習である。私はあらためて、掲げる生涯学習の復習を試みた。一つめは、漢字検定一級に合格すること。幸いにして四年前に叶えている。二つめは、子どものころから持ち続けていた文章を書きたいという、夢を実現すること。これには、ほそぼそと自己流の手習いを始めている。そして三つめは、ふるさとの長兄(現在七十三歳)の生き方を真似ること。(長兄はいろんな人と文通したり、NHKラジオの番組に投稿したりして、しょっちゅう兄の名と文章が世の中に流れている)。これには、いまだに手つかずである。
 私は平成10年8月10日に、机上にパソコンを据えて、二つめの実践に向けて本格始動に就いた。具体的にはこの日を境にしてほぼ毎日、ワードで文章を書き始めたのである。目標を定めた。最初は1000字、次には1200字、その次には1400字を自らの日課にした。そののちには、約2000字(400字詰め原稿用紙5枚程度)が定常になった。この日課は、一年半強続いた。出勤前の五時近くに私は、書きたての文章をふるさとの長兄へファックスした。
 ふるさとの同級生が企画した還暦旅行へ参加するため、私はふるさと帰行に恵まれた。そのおり長兄は、「あのころは、ファックス用の感熱紙を何本も買ったたいね」と言って苦笑いした。いやそれは、わが頑張りにたいする、長兄の飛びっきりの褒め笑いだった。掲げた目標が礎(いしずえ)となって、定年後のある時期から、現在の「ひぐらしの記」へとつながったのである。そのため幸運にもわが生涯学習は、頓挫することなく継続にありついている。
 振り返れば、中学生になっても外科を「がいか」と読んだ赤っ恥が、漢字をわが生涯学習に仕向けたのである。だから、漢字仕立てのわが生涯学習に偽りはない。かたじけない。またしても長い文章を書いてしまった。きっかり、2000字である。

シルバーウイーク

 突如として、耳慣れない「シルバーウイーク」ということばが現れた。ことばに、確たる意味は添えられていない。言うなれば曖昧模糊として、私には意味が不確かである。だから私は、自分勝手に二つの意味づけをしている。一つは、きょうとあすの普段の週末二日の休日に加えて、「敬老の日」(九月二十日・月曜日、休祭日)までの三連休、そしてその週の「秋分の日」(九月二十三日・木曜日、休祭日)、さらには一日の平常日を挟んで、またまた普段の週末二日(最終日は九月二十六日・日曜日)の休みまでかな? と、思う。
 一つは、五月のゴールデンウイークに準じる命名かな? と、思う。確かに、それとなくはわかり、あらためて辞書にすがることもない。いや辞書を開いても、「シルバーウイーク」の見出しはないはずだ。ことばは事象がなくなればおのずから死語となり、新たな事象があればそれに準じて、新たに生まれてくる。すでに終えた東京オリンピックやパラリンピックにおけるアスリートの究極の願望と競い合いは、メダル獲得である。メダルには金・銀・銅があり、アスリートは金メダル(ゴールド)に狙いをつけて、長いあいだ鍛錬を続けている。しかし、銀メダル(シルバー)、あるいは銅メダル(ブロンズ)さえにも、届くことは至難を極めることとなる。いや多くの人たちは、メダルは端(はな)から羨望や憧憬にとどまり、「選ばれて参加することにこそ意義あり」と言って、自己慰安をせざるを得ないところがある。このことをかんがみればメダルへありつけるアスリートは、誇れる勝者にはちがいない。しかしメダルの色は、明らかに順位差のある証しでもある。すなわちシルバーは、ゴールドにはなり得なかったけれど、それに準じる二番目の確かな証しである。
 このことではシルバーウイークには、ゴールデンウイークほどではないという、ことばのひびきがある。それでもやはり、シルバーウイークにもウキウキ気分は多分にある。ことばとは摩訶不思議な人類の創造物である。今回はウキウキ気分に水を差されて、物見遊山や外出行動に自粛を求められている。そのせいで、「どこまで続く、コロナ禍ぞ!」という、恨みつらみのことばが切なく世間にただよっている。
 さてさて、ここまで書いて私は、試しに辞書を開いてみた。たちまち、恥を晒した。わが不徳と浅薄な知識を詫びなければならない。私は見出し語に「シルバーウイーク」と置いて、辞書を開いた。説明書きなどないものと高をくくり、「試し」に開いただけである。ところが案に相違し、ずばりの説明書きがあった。「シルバーウイークとは、日本の秋の休日が多い期間をさす。ゴールデンウイークに対することば」そして、丁寧にも九月のカレンダーが添えられて、十八日から二十六日までに、期間指定の赤枠がはめられていたのである。
 私は『ひぐらしの記』には、大仰(おおぎょう)に「随筆」と銘打っている。今さらながらに随筆を見出し語にして、辞書を開いた。「随筆とは、心に浮かんだこと、見聞きしたことなどを筆にまかせて書いた文章」。確かに私は、筆や鉛筆に代えて、指先の動きにまかせて文章を書いている。今回は必ずしもすべてが嘘っぱちとは言いたくないけれど、長々とあてずっぽうのことを書いていたのである。
 きょう(九月十八日・土曜日)の私は、目覚めて布団のなかで、なぜかこんな突拍子もないこと浮かべていた。「山には、富士山にたいし、日本一の名峰」という称号がる。一方、川の日本一の名流」は、どこのなに川だろうか。こんなことがだしぬけに浮かぶようでは、安眠をむさぼることなど夢のまた夢である。私には「焼が回っている」のであろうか。もとより、わがシルバーウイークの目玉は、身につまされる「敬老の日」一辺倒である。シルバーウイークということばが、はかなくわが身に沁みている。

彼岸花と「ふるさと便」

 このところは私的なことを長い文章で綴り続けて、切なさに加えていたく、心身の疲労をおぼえています。そのためきょうは、意図して短い文章でお茶を濁すつもりです。だからと言って、素っ気なく書くものではありません。いや正直なところ、忍びない気持ちに耐えられず、長い文章は書けそうにありません。もとより、いたずらに長い文章を書くことは、みずからをいましめています。
 きょうは九月十七日(金曜日)、来週の二十日(月曜日)は入り日、半ばの二十三日(木曜日)は文字どおり中日・「秋分の日」、そして二十六日(月曜日)は明け日です。すなわち、秋たけなわにあって「秋彼岸」満載です。道筋の一隅の草むらには、今年もまた秋彼岸に応じて「彼岸花」が咲いています。群がるほどではなく数本と抱き合い、細身を真っすぐ伸ばしています。例年のことながらこの光景には、私はかなりの哀れさを感じます。それは、咲く時日が短く限られているせいでしょう。なおさら今年の彼岸花にかぎれば、しばし立ち止まり愛でるには忍びなく、私は意識して足早に通り過ぎています。
 おととい(十五日・水曜日)には、思いも寄らない「ふるさと便」が、大きな段ボール詰めで宅配されてきました。瞼に涙をためて開けてみると、庭柿、生栗、ほか手作りのもの、さらには追加で購入した物などが、ぎっしりと詰められていました。送ってくれたのは、今や亡き長兄の次女と主人でした。開け終えると、溜まっていた涙がドボドボと落ちました。このふるさと便には、いつものふるさと便をはるかに超えて、うれしさと愛着がつのりました。なぜならこのふるさと便には長兄亡きあと、ふるさとが遠くならないようにという心くばりと、放っておいたら途絶えそうなわがふるさと慕情の継続への愛情がいっぱい詰められていたからです。
 もとより私は、ふるさと便にわが味を占めることは望んでいません。私がふるさと便に望んでいるのは、ふるさとが縁遠くならないことだけを一心に望んでいます。このためには一方的にもらうだけではなく、心の籠ったお返しは肝に銘じています。今年の彼岸花には切なさだけが、そして、このたびの思いがけないふるさと便には、切なさに加えて、うれしさとありがたさの二重の思いが同居しています。
 今の私は、長兄を偲んで短く書きました。いや、涙が落ちて、短くしか書けません。ただ、短くても切なく、心身の疲労はとれるどころか、いっそういや増しています。しかし、長兄を偲ぶことで、心は満たされています。今のところ、表題は浮かんでいません。

償えない「四歳半のころのわがしくじり」

 来月の九月末日付けの「六十歳・定年退職」の決まりの前に、私は先月(七月十五日)その年齢に達した。平成十二年八月十五日の早暁(そうぎょう)、壁時計の針に目をやると、五時十五分をさしている。机上のパソコンを前にして、ぼんやりと椅子にもたれている。もう長い時間、きのう見た光景を心中に浮かべている。再び、はるかに遠いあの日のことが切なくよみがえる。
 夜明けの明かりはまだ見えず薄ら闇である。産毛や綿毛さえ揺らすことができないのでは? と、勘繰るほどに風は凪(な)いでいる。窓ガラスを通して眺める木立は、グリーンカバーをかけられたかのように静止している。バス通りから折れて、わが家周りをまわる道路に、中年とおぼしきジョギング姿の男性が走り込んで来た。いつもの朝と変わらず、穏やかに人の日常が始まりかけている。戦雲下であってもたぶん、人の営みは今朝のように穏やかであったはずだ。だから余計私は、わが身がしでかした罪と、それを償(つぐな)えない悔恨に苛(さいな)まれている。歳月の経過で、癒えることなど露もない。
 私は、わが家最寄りの「半増坊下バス停」に着いたばかりだった。時刻は午前十一時ころ、雲間には日光は見えず、そのぶん暑さは遠のいていた。あと一時間余りすれば、五十五回目の終戦記念日の式典が催されるが、黙祷は出来そうにない。バス停には先着の二人の女性が立ち並び、向き合って互いに会話が交わされていた。二人は、年の差のある顔見知りのようである。ひとりは、ヤングママと合点(がてん)した。絵柄のTシャツにグレーの半ズボンを穿(は)かれた姿には、若い母親らしい誇らしさがあふれていた。ヤングママは胸に抱いた幼子(おさなご)の背中に片手をまわし、一方の手は脇に立つ女の子の指先にからめていた。胸の幼子も女の子に見えた。二人の会話は弾んで一方の人から、脇に立つ女の子へことばが投げかけられた。女の子は元気よく、「五さあーい」と言って、ちっちゃな五本の指を広げて、手の平を押し出した。可愛らしい空色のスカートを穿いた女の子のしぐさはあどけない。目に留めた私にも、笑みがこぼれた。女の子の動作は、頼りなさを残していた。私は、「五さあーい」のことばに誘われた。怪しまれないように気をくばり、女の子の動作を見続けた。(細い足だなあー…。歩けば、いくらかふらつくだろうな…。あんなんじゃ、どうしようもなかったのか!)。心中には、四歳半のころに自分がしでかした罪がよみがえっていた。
 私は昭和二十年二月二十七日の日中に、飛んでもないヘマをしでかしていたのである。私は母屋の庭先の坪中で、ひとりで遊んでいた。そのとき、精米機械のある母屋から、母が脱兎のような勢いで、坪中へ走り込んで来た。母は、「しずよし、ちょっとだけ、敏弘を見てくれんや……」と言って、わがかたわらに背中の弟を下ろした。母は、とんぼ返りで母屋の中に入った。下ろされた生後十一か月の弟は、チエーンを外された小犬のように、すぐに坪中を這いずり始めた。これまた、脱兎のような速さである。私は這いずりまわる弟を引きずるようにして、何度かは坪の真ん中に戻した。しかし弟は、私を邪魔者扱いでもするかのように嬉々(きき)として、あっちこっちへとすばやく這い這いを続けた。そのたびに私は、弟を懸命に追い駆けた。万事休す。弟は水しぶきを上げて、その先に鋼鉄製の水車のまわる水路へ落ちた。わが目先で、弟の命が消えた。私にはわが生涯をかけてもとうてい償えない罪と、癒えない傷が残った。
 このときのわが足は、女の子の足にも敵(かな)わぬほどに、ふらついていたのだろうか。弟の敏捷(びんしょう)さは、神童(しんどう)の証しだったのかもしれない。「敏弘よ。すまないねー……」。
 きのう、令和三年九月十五日、私は数か月ぶりに卓球クラブのあるわが家近くの「今泉さわやかセンター」(鎌倉市)へ向けて、長い下り坂を歩いた。八十一歳のわが足取りは、ヨタヨタモタモタしていた。道筋には彼岸花が咲いていた。私は道すがらそれを眺めて、可愛かった敏弘の面影をありありと、浮かべていた。かなしかった。

物事、人生の「二様」

 もし仮に寿命(命の期限)が無ければ、人はかぎりなく老醜(ろうしゅう)をさらけ出すであろう。このことでは、寿命や生涯(命の果て)を嘆くことはないのかもしれない。いや、惜しまれて尽きる命こそ、文字どおり寿(ことほ)ぐべき天寿であろう。私にはこんな哲学的なことを書く能力は、もとよりまったくない。ふと、心に浮かんだことを、出まかせに書いたにすぎない。
 文章は同じ内容や事柄であっても、書く時間帯によって、表現が異なるところがある。まさしく、時々刻々に揺れ動く、心象風景のせいであろう。現在、私はこの文章を夜間いや真夜中に書いている。だから、自分が不文律にしている投稿時間の締め切りまでには、まだあり余る時間を残している。おのずから、わが心には余裕が持てている。
 いつもの私は、夜間、未明、夜明けてまもないころ、あるいは夜明けのあとに書いている。それらの多くには必定(ひつじょう)、焦燥感がともない、実際には走り書きや殴り書きを余儀なくしている。さらには一度すらの推敲さえかなわず、投稿ボタンを押している。ところが、これで済むものではない。投稿ボタンを押したあとには、文意や文脈の乱れ、さらには誤字・脱字をしでかしたのではないか? と、後悔にさいなまれている。まさしく、「後悔は先に立たず」という、フレーズの実践さながらである。
 この点、昼間に書く文章には時間の余裕があり、ゆったりとした気分で書けるところがある。さらには推敲を重ねて、間違いに気づけば何度も直しが利く。このことは昼間書きの最大の利点である。反面、昼間書きの最大の難点は、ふってわいた家事に寸断されて、精神一到や沈思黙考に、ありつけにくいことである。未明、夜明け近く、夜明けて、焦燥感まみれで書く文章にもまた、おのずからこれらにはありつけない。その点、夜間、とりわけ夜の静寂(しじま)に書く文章には、これらにありつけるところがある。これすなわち、夜間書きの最大の利点である。
 物事にはおおむね、是非、善悪、好悪などと、相対する二様が存在する。確かに、私にかぎれば夜間に書く文章には利点とは裏腹に、脳髄が眠気などにとりつかれている。おのずから文章は、まるで夢遊病者のごとく、ウロウロとさ迷うこととなる。実際にも現在の私は、夢遊病に罹っている。このところ、いくつかの文章を昼間に書いてみた。もとより、難点はあるけれど、好都合と思えるところが多々あった。だからと言って、まだ決断や決定打にはなり得ず、現在の私は真夜中に書いている。実際のところは、トイレ起きのついでに書いている。
 壁時計の針は、二時近くを指している。会心の文章など、書けるはずはない。「生きてもいい、死んでもいい」。生きているかぎり、心の安らぐ人生はない。なら、もう死んで、いいのかもしれない。矛盾の解決には、天命の裁きに任せるよりしかたがない。「小人閑居して不善をなす」。私の場合は、「箸にも棒にも掛からぬ」ことを浮かべている。あり余る時間のせいかもしれない。

二人の恩人は、神様

 JR東海道線大船駅・駅ビル「ルミネ」(神奈川県鎌倉市)の中には、六階に「Anii」という書店がある。この書店は大船駅周辺にある三軒の書店のなかでは、駅ビルの中という至便に恵まれて、集客力がずば抜けている。この書店には買うあてどなくとも、私は日常的に立ち寄っている。
 店に入ると、真っ先に雑誌棚へ急ぐ。そして、整然と並べられている雑誌棚に眼を凝らす。それは『月刊ずいひつ』の陳列の有る無しと、売れ行き状況を確かめるためである。このことについては昨年(平成十一年)の七月末日に、随筆スタイルで一文を書いた。題名には、『並んでいた「月刊ずいひつ」八月号』と、したためた。
 昨年の五月にこの書店で、私は『公募ガイド』を買った。あわてふためいてページをめくると、多くの公募案内があった。それらのなかから私は、「日本随筆家協会」(主宰神尾久義編集長)が募る「日本随筆家協会賞」への応募を試みた。そのころの私は、平成十二年(二〇〇〇年)九月末日に訪れる定年退職(六十歳)に向けて、定年後の生き甲斐づくりに腐心していた。応募をきっかけに私は、電話で神尾編集長とお話をする機会を得た。初めての電話にもかかわらず私は、揺れ動く気持ちを率直に吐露した。
「随筆や文章を書きたいのですが、初めてでまったく自信がありません。協会へ入って、やっていけるでしょうか」
 私のぶしつけの相談にたいして、神尾編集長はこんなことばを返された。
「随筆や文章は、ふだんの日本語で書くものですから、なにもむずかしくはないですよ」
 かなり、安堵感をおぼえたおことばだった。
 すぐに、入会を決意した。入会後は、二〇〇〇字(四百字詰め原稿用紙五枚程度)を目安にせっせと文章を書いては、日本随筆家協会へ送り続けた。日を置いて、神尾編集長が赤ペンで添削された原稿が送り返されてくる。こんなやりとりが、協会と協会員とのならわしだった。
 入会後まもなく、月刊ずいひつ五月号の贈呈を受けた。一月後には、六月号が届いた。双方共に、掲載作品のすべてをむさぼり読んだ。六月二十五日過ぎには、七月号が送られてきた。月刊ずいひつの発行日は、毎月二十五日を一定日にしていた。(みんな、上手いなあ……)と嘆息しながら、私は最初のページから読み進んだ。実際には暑さを避けて、居間の板張りに寝転んで読み耽った。
 「あれれ……? これはおれが書いたものだ!」。私が書いた『めでたい戯れ』が載っていた。月刊ずいひつにおける、栄えあるわが第一号作品の掲載がかなっていた。ところが、こともあろうに協会、いや神尾編集長は大きなミスをしでかされていたのである。なんたることか目次に、残念無念!「めでたい戯れ」とわが名が脱落していたのである。のちに私は、電話で掲載にたいするお礼のことばを先にして、恐るおそるこのことを告げた。神尾編集長は平謝りされた。
 私は豹のように敏捷に跳ね起きた。勢い込んで台所へ走った。
「文子。おれが書いた文章が載ってたよ!」
「パパ。ほんとう? よかったじゃないの。パパ、よかったね! おめでとう」
 二人は、その場でハグしながら飛び跳ねた。自分が書いた文章が初めて活字になったときの興奮! それは経験者なら多言を要すまい。興奮度は、デカデカの風船のようにまん丸と膨らんだ。その日、私はやもたっても折れない面持ちで、「Anii」へ出かけた。浮かぶ人たちへ送りつける、冊数のカウントをめぐらした。そして、レジ係りの女性にたいして、七月号五冊の予約注文をした。なお足りず再び、七月の中ごろに三冊の追加予約を入れた。
 私は七月二十五日過ぎに、二度目の予約のものを受け取りに行った。レジ係りから受け取ると、踵(きびす)を返して雑誌棚へまわった。雑誌棚には、月刊ずいひつ八月号が並んでいた。このとき以来月刊ずいひつは、雑誌棚に並ぶようになった。私の予約注文がきっかけとなって、並ぶようになったのだ、と確信した。
 そののち、発売日やすぐあとには、必ず書店へ出向いた。協会員には毎月号の一冊は、必ず送られてきた。それでも私は、雑誌棚から毎月買い続けた。馬鹿丁寧にも毎月、二度に分けて一冊ずつ、サクラ買いまがいの行為を続けた。一年間限定と決めて、進んで実行した。二度目は次号が並ぶ五日前を目安に買った。意識して、間隔を空けて買った。みずから考えた、陳列カット阻止のための行為であった。これが功を奏すれば、たぶん月刊ずいひつの陳列カットはないはずだ。
 さて、その後の状況。月刊ずいひつは発行元の日本随筆家協会の消滅により、廃刊の憂き目に遭った。ところがこののちの私は、「現代文藝社」(主宰大沢久美子編集長)に救われたのである。実際には、初志の生き甲斐づくりの満願にありついている。二人の恩人は、男神、女神、あいなす神様である。

愛唱歌(哀唱歌)

 音程を外しわが生涯において双璧を成し、歌い続けてきた愛唱歌を口ずさんでいる。『誰か故郷を想わざる』(歌:霧島昇 西條八十作詞・古賀政男作曲。わが生誕年・昭和十五年の発表曲)。花摘む野辺に 日は落ちて みんなで肩を 組みながら 唄をうたった 帰りみち 幼馴染のあの友この友 ああ誰か故郷を 想わざる ひとりの姉が 嫁ぐ夜に 小川の岸で さみしさに 泣いた涙の なつかしさ 幼馴染の あの山この川 ああ誰か故郷を 想わざる 都に雨の 降る夜は 涙に胸も しめりがち 遠く呼ぶのは 誰の声  幼馴染の あの夢この夢 ああ誰か故郷を 想わざる。
 『人生の並木路』(歌:ディック・ミネ 作詞:佐藤惣之助 作曲:古賀政男)。泣くな妹よ 妹よ泣くな 泣けば幼い 二人して 故郷を捨てた 甲斐がない 遠い淋しい 日暮れの道で 泣いて叱った 兄さんの 涙の声を 忘れたか 雪も降れ降れ 夜路の果ても やがて輝く あけぼのに 我が世の春は きっと来る 生きて行こうよ 希望に燃えて 愛の口笛 高らかに この人生の 並木路。
 二曲目は哀唱歌となり、しだいに涙があふれて、歌いきることはできなかった。

六十歳の朝

 ふるさとは七月盆である。平成十五年七月十五日の起床時刻は、枕時計の針が午前四時三十五分をさしていた。鼻炎症状にとりつかれて就寝時の私は、勤務する会社製品である『スカイナー鼻炎用カプセル』の一カプセルを服んだ。すぐに、風邪薬特有の誘眠作用が顕われて、深い眠りに陥った。そのぶん、目覚めると鼻汁と頭重症状はすっかり消えていた。
 布団の中で、(とうとう、六十歳になったのか…)と怯えて、いろんな雑念にとりつかれていた。私の意識のなかに長くとぐろをまいていた「六十歳」という年齢を現実にして、寝起きの気分は鬱になっていた。私は神妙に身を起こし、ゆったりと身なりをととのえた。二階のパソコン部屋へ上がった。文章を書くためである。
 隣の部屋から、娘の寝息が漏れていた。娘に気遣い、窓ガラスを覆う、レースのカーテンをこっそり開いた。明けはじめていた空は、なお夜を引きずり薄くシルバーグレイの色をなしていた。バイク音が近づき、いっとき音を落とした。再び音を上げ、視界にバイクが現れた。バイクは、すぐに左折した。バイク音は、遠ざかり消えた。なぜか、いつもより遅い、朝刊配りのバイクだった。
 外気の明暗に応じて点滅する仕掛けの一基の外灯は、いまだに明かりを灯していた。外灯は、周辺の剪定漏れのいくつかのしおれたアジサイを照らしていた。木立には、カラスが二羽いた。山に棲みつくタイワンリスの一匹が、電線を行きつ戻りつしている。山際に住んでいるせいで、いつも見慣れた光景である。
 妻は階下でとっくに起きている。ドッキリ! 固定電話のベルが鳴った。すばやく、足音を殺して娘が寝ている部屋へ忍び込み、静かに子機を手にした。パソコン部屋へは戻らず、隣の部屋に入った。娘の寝息を遠ざけるためである。声のトーンを落とした。
「六十歳、おめでとう。先ほど、そのことを書いて、ファックスを入れたのだがね。うまく送れなかったもんで、朝早やいばってん、電話したたいね。まだ、寝とったろね。すまんね。ファックス、どうかしているのか」
「そうだったの。うちのファックスは、うまくいかないもんで……」
「おまえも、きょうで六十歳になったね」
「とうとう、なってしまった。だから、いやな気持になっている。今、そのことを、文章に書かこうとしていたころだった」
「おまえの誕生日は忘れんたいね。お盆だし、おっかさんの祥月命日だしね」
「うん、そう。とても、かなしい……。そうだ。あした、墓へ送って行くの?……」「なんの。きょう送るよ。十三日に迎えに行って、十五日に送る、習わしじゃけんね」
「お盆んて、そうだったかな?……。おっかさんがいたときには、十六日に連れられて、送りの墓参りに行ってたような気がするけど……」
「そうかもしれん、たいね」
「『おっかさんに、しずよしも、とうとう六十になったばな。ばってん、とても元気じゃけん、心配せんちゃ、ええばな……』と、言っといて!」
 現在、私は八十一歳。ふるさとの長兄は、先月(八月二十二日)永眠した(享年九十四)。ふるさと電話(受話器)は、不通ではないけれど、すでにまったくの無用になっている。