黒田昌紀の総合知識論

黒田昌紀の総合知識論

下記作品群は現代文藝社発行の文芸誌「流星群」及び交流紙「流星群だより」に掲載されたものである。

アメリカ黒人より劣った日本人の選挙行動

 現在の日本人の選挙、例えば国会議員や市長、知事の選挙候補の選び方を見ていると、大変いただけない。日本人の有権者の選挙の際の、立候補者を選ぶ時の候補者に対する予備知識のなさはあきれるほどだ。選ぶ側、つまり投票者が、行政に対する知識もなければ、立候補の人物評価や、もしその立候補者が当選したならば、何を政治でやってもらえるかの可能性について、何の考慮もせず、ただ、思いつきで候補者に投票している。
 とりわけ問題なのが芸能人や有名人、スポーツ選手で名の知られている人が立候補したりすると、彼らが行政についての知識もなければ、議員になったら何をするのかという目的や政治に対する良識もないのに、顔を知っているというだけで、単に「この人を議員や市長、知事に当選させたら面白いわね」という安易な興味本位だけで投票して、当選させているのだ。
 そして、人気によって当選しても、選挙の運動中に公約したことを殆んど実行できてないことが多い。政治家として大した活躍をしていない。
 青島幸男は、テレビタレントとして当時の「いじ悪ばあさん」の主役の人気で、昭和四十三年に国会議員に当選し、その後、数回当選した後、大した活躍もせず、九〇年代終わりに都知事選に当選し、知事になったが、その実績はたいしたことはなかった。当選する前は、「都庁に風穴をあけてみせる」などと、豪語していたが、結局は役所の幹部にあやつられ、指導力を発揮できず、テーマ万博に失敗し、退任した。その時、「やるべき事はやれたと思う」などと強がりを言って、数年後、失意の中で他界した。
 たけし軍団のそのまんま東こと、東国原英夫は、たけし軍団のお笑いの人気にかこつけ、「故郷、宮崎をどげんかせんといかん」と県政を憂う、悲愴なキャッチ=フレーズで県民の人気者嗜好の心を得、当選したが、確固たる行政目標を持たず、役所の人間をしっかりとしたビジョンで指導しえず、たいした政策をしなかった。 やった事と言えば、自己の人気にかこつけ、観光客を知事室に招き入れた事と、宮崎産マンゴーや産物を自己のブランドで宣伝し、売り上げを延ばしただけであった。知事になっても相変わらず、タレント意識は抜けず、公務そっちのけでテレビに出演していた。「宮崎をどげんかせんといかん」と言っておきながら、「どげんもせず」、総理大臣をめざし国政に出ると言って任期半ばで知事職を投げ出した。
 この三人が、人気を武器に当選したが、当時、人気を武器に当選をねらったタレント候補の立候補に強い反対論があったことも事実である。たとえ、知名度は無くとも、立候補者の実力や見識を有権者は評価判断をし、選ぶべきだという強い声があった。それにも拘わらず世論は、テレビの画面を通して、人々に浸透している人を当選させた。
 これは人々の頭に、人気タレントのイメージが押しつけられ、タレントに投票すれば、何かをやってくれるのではないかという、(実際には、それはありえない架空のイメージなのだが)、マインド=コントロールになって投票させられているのだ。
 その良い例が、最近、俳優の森田健作を千葉県知事に選んだ選挙がある。千葉県民は、四十年も前の森田健作が出演した青春ドラマで、恋人役の早瀬久美とのシーンが心の奥底に焼きつき、潜在意識となり、マインド=コントロールされた。それが投票時に心の奥から湧き出し、現実は違うのに、青春ドラマと同じようなことを現実としてやってくれると思い投票しているのだ。本気でそう思っているのだ。
 このような思いで投票したタレント候補には、石原や青島以後、西川きよし、立川談志、扇千景、三原じゅん子など多くの有名人がいるが、人気のイメージとは掛け離れ、大した事をやっていない。人気倒れである。わずかに、野末陳平が庶民の税金問題に取り組んだだけである。
 筆者は、二十年以上前に、テキサス州ヒューストンにある黒人大学の大学院に留学していた時、大学の廻りの黒人社会や、他州の黒人社会を訪ね、四十代以上の黒人の人々、店のおばさんとか多くの年輩の人、労働者、サラリーマンなど庶民に会い、選挙時に各候補について話をし、候補者について質問するなどして政治論議をした。
 多くの学歴のある日本人の有権者に比べ、彼らは貧しく、差別され、かつて教育チャンスに恵まれなかったが、多くのアメリカ黒人の選挙に対する政治家の評価、即ち、市長、州知事、市会、州議院、上下両院、そして、間接選挙に於ける大統領候補に対する力量分析は大変卓越していた。選挙時の各政治家を選ぶ時の各候補者の知識と力量、つまり、過去の職歴、実績、見識、そして、もし当選した時は何が実行出来るかについて、他の候補と比較して、正確な分析が出来ていた。
 例えば、教育についてはA候補の方が市長になったら良いが、労働問題、特に労使関係や環境問題はB候補の方が良い。そして、さらにC候補の学歴や職歴を強調し、経済政策についてはC候補の方が良く、またC候補の会社履歴から、市長として役人の指導力があるだろうなどなど、実に詳細に分析出来ていた。
 私が選挙について話した何人もの黒人は、その当時、少なくとも四十才以上の人は、南部で黒人差別にあった環境で、劣悪な教育環境で教育を受けた人であり、不十分な教育機会にしか恵まれなかった。それなのに、政治に関する知識や見識はあり、的確に選挙分析が出来ている。
 それに比べ、日本人の大半は、大卒者にも拘わらず、選挙時に各候補者を慎重に分析し、適切な人を投票せず、タレント候補の有名なタレントとしてのイメージでマインド=コントロールされ、「あのタレントを当選させたら面白いね」と、他の有能な候補者に投票する事も考慮せず、安易な気持で投票している。なぜ、アメリカ黒人と日本人には選挙行動に差があるのだろうか。
 その理由は貪欲な知識の吸収力の差にあると思われる。アメリカ黒人は確かに前述のように、過去に差別され、貧しく、教育も十分に受けていない人が多いのだが、教育、学歴の高い人、特に白人と積極的に議論をする機会を見つけ、議論することで、素直に知識が劣っているのを認め、高学歴の人から知識を学ぼうとすることだ。
 これに比し、日本人の場合は、たとえ大学を出ていても、大学在学中、学生同志で遊びやクラブ活動に明け暮れ、授業には殆ど出ず、学問、知識を身につけていない。試験の前に友人のノートを借りたりして、単位を取り、お茶を濁しているだけである。殆どが名前だけの大卒者なのだ。
 大卒後も、仕事に就いた後、日常に於いて、日本人の場合は人との触れ合いに於いて、見識や教養を身につけることはない。職場で仕事後も上下関係が続き、つきあいと称し、飲食店に於いて会食をさせられる。早く帰って自分で本を読み、教養を身につけることが出来にくい。上役のくだらない話、仕事の話、時にはワイセツな話を、いやでも聞いたりしなければならない。黙って聞き役にならなければならない。西洋のように、教養のある者が、上役や先輩に話せば、その者は、「アイツは堅っ苦しい話をする」だとか、「なまいきだ」などと言って嫌われたり、イジメを受ける。そんな理不尽さがある。
 また、中学卒や高卒などの人間は、飲みに行った時、博学の者が高度な話をすれば、それを熱心に聞き、自分の欠点である教養のなさを補うどころか、反発をする。彼らは学歴コンプレックス、大学を出た者に対抗意識があり、難しい話をすると反発し、忌み嫌う。「オレをバカにする」とか言って、大卒者に対して嫌がらせをする。
 このような学のない者が学のある者から真摯に知識を吸収しようとする素直な姿勢がないので、学歴が劣っていながら、高学歴の人から会話して知識を吸収するアメリカ黒人より見識が劣っているのである。その結果、日本人の見識のなさが、安易にタレント候補に投票し、無名だが有能な者に投票しない行動パターンになっている。
 日常茶飯事に他人と積極的に議論をして教養を高める姿勢は、ヨーロッパ人やアジア人にも見られる。テレビ朝日の定番、「車窓から」を見ると、列車の座席で、色々な国の人々が、友人、家族、他人と議論しているシーンが度々見られる。
 また、かつて近世のイギリスでオックス=フォード大学やケンブリッジ大学の回りには、大学街が出来、その中でコーヒーハウス(喫茶店)が出来たが、その喫茶店は教授や学生達と近所のお店をやる人々のたまり場だったのである。(注) 当時は、大学は家柄の良い、優秀な、ほんの一握りの人しか入れない場所だった。そこで、あまり学校に行っていない、お店の経営者達は、こぞって教授や大学生が集まるコーヒーハウスへ足を運び、彼らと会って、積極的に議論し、彼らから知識を得て自分達の教養を高めたのである。
(注)
 日本人には普段の生活で、このようなことをしないので、教養が高まらず、おろかな選挙投票をするのであろう。 (注)中央公論社「世界の歴史」8 絶対君主と人民 昭和五十四年 P494‐P496

(流星群だより22号に掲載)

北朝鮮軍事問題に於るマスコミ報道や軍事専門家の盲点

 マスコミの報道は、客観的事実に、各マスコミが持つ主観的意見を混ぜながら政治、経済、外交、社会面など、日々起こる出来事を他のマスコミ各社と報道の早さを競いながら、詳細に報道し、市民に知らしめている。
 しかし、多くのマスコミが、ニュースになる出来事を忠実に報道していても、もう少し突っ込んだ、穿った見方をすると、なる程と思われる事が、その報道の中で論じられない事が多くある。また、その、なる程と思われる事が報道する者の曲解で見落される事が多い。それについて、北朝鮮の外交や軍事問題などを例に挙げ、指摘してみたい。
 まず、北朝鮮の政治首領金日成、金正日親子が外国へ訪問するのに列車でロシアや中国にしか行かず、それ以外の国へは飛行機で外交的訪問をしなかったために、日本の各新聞は「金親子は飛行機嫌いだ」というのを定説にしている。確かに、朝鮮の人民共和国建国の父金日成は、昭和三十年代からアメリカや欧州西側諸国と冷戦で対立していたソ連(現ロシア)と、当時中共と敵対的名称で呼ばれていた中国へ、時たま必要に応じ、自ら列車に乗り、これら二ヶ国の首脳と共産党の大会に出席したり、党の原則である共産主義思想の意見交換したり、外交交渉を自ら行っていた。長い列車に多くの党や政府首脳、そして信頼できる多くの側近や警護官を乗せ、厳重な警備の基にソ連と中国を訪問していた。決してそれら二国以外の遠い国々、アジア諸国やヨーロッパの諸国へは、たとえ外交的交渉の必要に迫られている時でも、自ら飛行機では行こうとしなかった。代わりの者を使者として航空機で派遣したり、相手国の首脳に北朝鮮に来てもらったりしていた。もっとも、北朝鮮の場合、共産主義と資本主義の対立で、中ソ以外のそれらの国々とは限られた外交しかしなかったが。このやり方は、金日成書記が没し、一九九四年に党務や政権を引き継いだ息子金正日にも受け継がれていた。
 この列車による中ソ二国外交の傾向を見て、日本の新聞等は金書記親子は飛行機を怖がって嫌いだから列車で中ソ二国しか訪問しないという、曲解した定説が生まれたのだ。
 しかし、この列車外交のマスコミによる定説はまったくのウソなのである。「飛行機が嫌だ」という説明は誤りである。そのウラには警備上深い意味がある。前述のように北朝鮮は小さな共産主義国で中ソ二国に経済的にも依存しているので限られた外交しか行わないが、たとえ、飛行機でアジア諸国へ外交的訪問をしたくても行けないのだ。もし、それを行なえば、すぐに軍部の戦闘機が飛んで来て、離陸した金書記の航空機を攻撃し、撃墜し、簡単にクーデターを起こすチャンスになるからだ。超独裁者である金書記親子は、軍部にも内心、強い反抗心を起こし、いつ反乱してもおかしくはない。そのチャンスをいつも狙っているのだ。飛行機で行くことは、その機会を与える、つまり、クーデターを起こすことのできる、アキレス腱なのだ。その事を金日成親子は、重々理解しているので、中ソのみを列車で訪問していたのだ。列車で行く時も、警護官を側近の信頼できる者にさせて、決して軍人にはさせなかった。
 日本のマスコミは、その事をしっかり分析できないばかりか、気づかずにいる。困ったものである。
 北朝鮮が出たことに関して、平成二十三年三月に起きた東日本大震災時に、アメリカ海軍が北朝鮮の日本への攻撃を想定し、早急に取った軍事配備について述べたいと思う。
 東日本大震災で、三陸沖を中心とする太平洋の海底の断層が数百キロにも渡ってズレ、地震後、断層線のところの岩盤が鋭く深く割れ、クレバスが出来る程すごいエネルギーが生じ、多くの人々が津波に飲まれ死亡し、家は流され、仕事を失い、避難生活を送っている。災害地は瓦礫の山となっている。
 この大震災が起った数日後に、アメリカ海軍は、すぐにグァムの基地から最大の空母に高速高性能の戦闘機を乗せ、房総半島の外房南部海岸沖に待機させていた。この行動は日本の防衛庁にも知らせずに行った。
 当時、マスコミはそのことを確かに報道をしたが、その軍事的な意味を深く洞察出来ていなかった。軍事評論家や防衛庁の職員でも理解していなかった疑いがある。
 アメリカ海軍が高性能戦闘機を最大数乗せて待機したのは、地震の動揺で人心が乱れ、防御が手薄になりがちな、日本海側の三県を万が一の北朝鮮の攻撃に備えるためである。北朝鮮は一九五〇年代の戦闘機ミグや中共時代の戦闘機、そして木製の羽根を機体に上と下二枚をはさみ、ワイヤー=ロープで固定した戦闘機や少しの爆撃機を保有している。大地震によって、人心は乱れ、多くの人々が災害に遭った東北三県に関心が向けられ、警察、自衛隊、そしてアメリカ軍も救助に向って集中し、注意が日本海岸に向けられない。その心理的なスキに乗じて、戦闘機と爆撃機を少い空母に乗せ、日本海か又は直接北朝鮮からスピードは今の戦闘機より遅いが飛んで来て、日本海側三県、即ち新潟、富山、石川に攻撃を加えられたら、簡単に占領されかねない。確率的には万が一だが、それに備えてアメリカ海軍は、太平洋側からでも日本海側へ高速な戦闘機で応戦し、防御出来るよう待機していたのだ。とりわけ木製の北朝鮮の戦闘機はレーダーに写らないので要注意だったのだ。それほどまでアメリカ軍は日本の防衛に力を入れているのだ。
 北朝鮮の軍事的脅威と言えば、平成二十三年九月と翌年の正月に二回、木製の小舟に数人が乗り、日本海側の能登半島と島根県隠岐島近くに漂流して来た事がそれにあたる。
 前者の方は、北朝鮮元山の軍に所属する木製の、あまり推進力を持たない小舟を夜間こっそり盗み、脱北をはかり、子供を含む家族数人で、食糧もつき、日本海の海岸にかなり近づいたところで発見され、海上保安庁に保護された。脱北目的であったので、調べの後韓国へ送られた。後者の方は、北朝鮮南部東岸の漁民が漁をしていた時、遭難し、海流に流され、島根の隠岐島沖に流れついた。結局、調べの結果、エンジンの欠陥により、遭難と見做され三国経由で北朝鮮へ帰国となった。
 脱北を志す市民や脱北を意としない漁民がこの二回の木の小舟に乗り遭難して日本近海にかなり近づいても、海の警備をする海上保安庁が気付かず、住民により発見され、通報でやっと対応したのである。
 このことは軍事上、北朝鮮の脅威を改めて思い知らされた事件で、軍事上のスキ、盲点を突かれたようなものだ。なぜならば、あまり出力のない木の小舟に、銃や爆弾を持って武装した北朝鮮の兵士が乗って来ても、日本海の沿岸近くに簡単に上陸され、攻撃を許すことになる。もし、新潟県あたりから島根県あたりまで、武装した兵士が乗った木の小舟が何艘も漂流して辿り着いたとしたら、日本の広い地域に軍事上陸され、大変な脅威であろう。日本の新聞等マスコミや軍事専門家でも、このような軍事的分析が出来ないでいる。そればかりか自衛隊や防衛庁の幹部でも考慮に入れていなかった可能性が高い。でなければ、小舟が目の前の沖に流れついても気付かないほど、防衛や海上警備が甘いはずがない。無防備な欠陥を突かれたと言ってよい。おそらく、未だそのことを認識されていないだろう。沿岸警備のより徹底が望まれる。
 木の小舟が辿り着いた二つの事例は逆に言えば、北朝鮮については軍事的には大変プラスとなる実験となった。小舟に兵士を乗せればレーダーには写らないので、漂流させても日本へ軍事進行を行なえる事が証明され、それを知ったからだ。北朝鮮の軍幹部が、この可能性について認識できたかどうかはわからない。これは筆者の超穿った軍事分析だからだ。もう一つ穿った見方をすれば、北朝鮮当局が、小舟を使って漂流させることを、脱北者や漁民を装ってウラでわざと、その軍事的目的を認識していて、偽装工作で行ったとすればもっと怖ろしいことだ。

(流星群だより21号に掲載)

東日本大震災の対処の仕方の反省と被災者に対する     確実な救済方法

 平成二十三年三月十一日の三陸沖海底の長いプレートのずれにより引き起こされた大地震は、震度七を記録し、その大津波は陸の奥深くまで浸水し、多くの人々の家と財産と仕事を奪い、被災者は地元や他県の避難所で不自由な生活をしている。未曾有の大災害である。
 その間に三ヶ月も過っても、阪神淡路大震災の時と比べ、政府の災害に対応すべき法案の成立が遅れたとか、多くの人々や有名芸能人などが災害のために寄付したり、義援金として送ったお金が被災者に早急に分配されないとか、多くの瓦礫が少しも撤去されないとか、国の政府に対する対応が悪いとか、様々な怒りが政府に向けられているが、これは、悲惨な被災者の不満と怒り、そして被災者以外の国民が怒りの感情を政府にぶつけているだけなのだ。
 さらに、今まで経験しなかった、想定していなかった、地震による原子力発電所の崩壊による、ウランの流出による住民に対する被害についても、政府や東京電力に対して、その対処に関して強い非難を浴びせている。
 しかし、この政府や原発の非難は、災害が起きて二、三ヶ月の間に鬱積した怒りの感情を爆発させたにすぎない。
 阪神大震災と今回の東日本大震災は災害の規模、性質、被害の発生の仕方が違うのだ。阪神大震災の時は、陸の地層がずれた地震であり、津波も発生せず、また、海からさほど内陸地に及ばない市街地のみの被災であった。それに比べ、東日本大震災は海底のプレートのずれによる地震であったため、大津波は内陸深く入り込み、瓦礫の量も数段に多い。阪神大震災の時は広く火災があり、廃材や瓦礫が焼けたので、それを撤去しやすかったが、今回の東日本大震災の主体は津波であったため、多くの家を飲み込み、瓦礫や廃材を広い地域に流し、消失することはなかった。
 そのため、それらをすべて取り除くのに十年以上も掛かるかもしれない。二、三ヶ月で簡単に取り除けるものではない。
 また、原発事故は、チェルノブイリの普通の事故と違い本来予想がつかなかった、地震による原発発電所の崩壊であったのだ。東京電力の幹部、経営者、研究者や学者、監督官庁も地震による発電所の破壊は予想していなかった。地震が起きても壊れないようにと建築されていたが、未曾有の震度7もの莫大なエネルギーによって脆くも壊れた。そのため、今まで経験しなかった予想外の原子核が漏れるという未曾有の事態に電力会社が、どのような核爆発やその他の核処理をしたらよいのか対応がわからず、適切な処理が出来ずにいた。そのため、核の汚染によって避難を余儀なくされた。つまり、津波による被害者とは別の人々や、野菜や食肉に被害を受けた農家の人々から、電力会社の核の処理の対応の遅れ、失敗による失敗の重なりに、不満が爆発し、怒りの矛先が電力会社や監督する国にぶつけられたのだった。しかし、電力会社の対処のまずさは、やむをえないことであった。それまで、原子力発電にあまり危機感を持たず、電力を使い放題していた住民が、被害に遭ったら一転し原発に憎しみを向けるのもいただけない。
 それ以上に、いただけないのは、大災害という非常時に、国全体がまとまって対処をしなければならない時に、野党自民党が菅内閣の災害の対処の遅れや、内閣の言葉のまずさを通し、被害者や不満、怒りに便乗し、退陣を求める不信任を出すなど政権を揺さぶりを掛け、政局混乱を招くなどやっていることがまったくいただけない。自民党のやっていることは、学校の授業で先生の話を聞かず、悪ふざけをしている悪ガキと同じである。不信任案に便乗した民主党の一部もしかりである。
 そもそも、阪神淡路大震災の経験が生かされなかったのは、そのデータを将来に備えなかった当時の政権にあった自民党の責任でもあるのだから。たとえ、他の人が首相に代ったとしても、災害対処が迅速に行なわれるとは思われないから。
 災害が起きてから何をしたかを見てみよう。
 まず、災害の当初、自衛隊、アメリカ軍、海外の救助隊、ボランティアがやったが、あまりにも瓦礫の量が多く、処理には今後十年以上もかかるであろう。仮設住宅の普及の遅れがあるというが、阪神淡路の大災害の時のように仮説住宅の建設出来る平野でなく、山岳地もあり、また瓦礫も残り、更地にしにくいことにもよる。
 その他に、被害者に何が出来たかというと、やはり以前と変らず物質的なものよりも精神的なものに重点が置かれているようだ。天皇、大臣、知事、横綱、有名アーチストなどによる被災者への訪問による慰労である。これは、菅首相が被災地を訪問した時に、被災者が避難生活に不満を怒りで示したような感情を鎮め、気晴しにはなるが、現実的には物質的な援助でなければ被災者は救えない。そのような物による援助はわずかに前記の訪問者やベトナム難民の人が仕出しをしただけである。
 現実的な被災者を救う方法として、災害に遭った当時は気持の動揺があって出来なかったが、数ヶ月も過ち気持が落ちついたら、被災者の人を労働力として、国や自治体が雇用し、莫大な量の災害による瓦礫や廃材の処理作業をしてもらい、日当を支払うことである。これで被災者の多少の収入にはなろう。また瓦礫の廃材の中から民芸品を作り被災者ブランドを作り、それらを避難所やドライブイン、道の駅、ネットなど訪れる人に買ってもらうのも良いだろう。
 さらに、被災した東北地方三県を復興させる方法として一番速効性のあるのは観光政策である。最近の旅行業社の発表では、被災した東北地方へ応援する人々の気持があって、夏の東北地方へのツアーの申し込みが増えているそうである。被災民以外の人々の同情もあるが、良いことである。やはり、東北地方への復興のためには、旅行で消費したお金を同地方へ持ってきて、地域的に流通させ経済活性化することは良い。その意味では平泉が世界遺産に登録されたのは追い風になる。観光客を多く東北に呼べるからだ。そのことにより、仕事を失った被災者を雇用する可能性もあるからである。その意味では、菅首相が、中国、韓国の首相を招き会談した時、被災からの復興のため、両国の観光客を来日させることは得策であった。避難生活をしている被災者の人々については、不自由な生活に疲れ果て、訪問した菅首相に憤懣の怒声をぶつけるのではなく、避難所に於て自分達で国や自治体に何をして欲しいかを話し合い、要請することが望ましい。首相に対する怒声はいただけない。
 国は被災地の復興、被災者への救済資金を捻出するため、まず、救済体制を組織化するため災害救済法を通し、国に被災者救済、災害地復興するための莫大資金がないので、予算の第二次、三次補正案を通して、赤字国債を発行したり、行く行くは消費税を十パーセントにも引き上げ、災害復興資金を稼ごうとしている。しかし、これは被災者の救済資金が国にないため、被災していない国民に負担させることになり、経済低迷で収入が減っている国民全体に、さらに財政負担させ、生活をますます苦しくさせることになる。
 そこで、政府や役所が考えていない被災者を救う方法として、政府がアメリカの低所得者向けに食費を補助するために発行している現金と同じに使えるフード=クーポンを国が無償で発行する。これにより国は資金がなくても、また何らかの税や国債で国民に負担をかけずに被災者の家計の大きな割合を占める食費面から支援出来るのだ。国が新たなクーポン券を印刷して発行するのだから、国は財政を使わずに済む。
 そもそもアメリカのフード=クーポンとは何かを説明する。フード=クーポンとはアメリカの国の政府である連邦政府が、一定の所得以下の人に対して、低い所得だと食費が十分に家族に賄えないので、その不足した食費を国が補助し、平均的な収入のある人と同じだけの食費を払えるよう発行する、現金と同じように使える金券である。五ドル、十ドル、二十ドルとあり、フード=クーポンの受給者はスーパーや飲食店で使える。アメリカでは黒人やメキシコ系米人が低所得者に当たり、同クーポンを受給している。
 アメリカのフード=クーポン発給のねらいは、所得の低い人々はエンゲル係数で低所得の中で、食費の占める割合が高く、また低所得であるため、十分な額を食費に回せない。さらに、低所得者は、平均的な収入の人々よりも子だくさんで、家族の一人当りの占める割合はきわめて少ない。そこで、もし国が食費を低所得者に補助せずに放置したら、低所得者の家族は、平均的な所得階層の人に比べ、栄養面で劣り、体力もなくなる。また食費に十分に回せない結果、体格も裕福な家族の人に比べ劣り、健康状態も大きな差が出てしまう。
 そこで、アメリカの農務省は、低所得者にその所得別に応じ、フード=クーポンを与える額を決め、食費を補助している。これにより、極貧の家庭に生まれた黒人であっても、スポーツの能力のある者は、栄養面で劣ることなく、体力を生かし、野球やフット=ボール、バスケットの選手になれるのだ。
 このアメリカのフード=クーポンにまねた金券を国が新たに印刷して東日本大震災で被災した避難生活している人々に、もれなく食費面で補助すべきである。被災者はお金も家もその他の資産を失っているので、食料面で金券の補助は大変な助けとなる。そして、大地震が起きてから多くの有名人や一般の人々からの寄付金や義援金はまた法整備などで給付が遅れているが、それと合わせ、また予算の一次、二次、三次補正案による補助金とフード=クーポンと合わせれば、大変な被災者への補助となる。  政府は現金を支出せず、新たな印刷したクーポンを発行すればすみ、発行は金融機関を通じて、被災者全員に給付する。現金と同じに使えても、食費のみにしか使えないので、インフレにはならない。フード=クーポンの回収は普通銀行が保有しているクーポンを日本銀行が公開市場操作による買い上げで金融調整で行えばよい。
 もう一つ、有力な被災者への救済策で、国や自治体が行うべき策として、家を失った被災者に、アメリカで広く普及している移動式住宅、モービル=ホーム(MOBILE HOME)を与えることだ。現在、家を失った被災者に、遅れ気味だが仮設住宅を提供している。が、仮設住宅は永久的なものではなく、六年と年限を限って住まわせている設備にしかすぎない。ある一定期間は生活の場を提供しても、それ以後は仮設住宅より出なければならないし、建設する時も、解体する時も二重に財政資金が掛かる。無駄である。
 そこで、アメリカで普及している木造の家の土台の四隅に大きなタイヤがついていて移動式の住宅モービル=ホームを被災者に国が提供すれば、半永久的な住宅を持たせることが出来る。被災者の家のあった所の瓦礫を取り除いて更地にしたとしても、資力を失った被災者は自力で新たな住宅を建てることが出来ない。政府の財政資金や義援金を基に、安価なタイヤのついた移動式住宅、モービル=ホームを提供すればよいと思われる。三月に大地震が起きた時、すぐにアメリカ政府に中古のモービル=ホームの寄贈を求めることが出来たのだが、政府や官庁にその知識がなかったのでそれが出来なかった。在日アメリカ軍も中古のものを少し提供できるかもしれない。
 モービル=ホームは移動式なので、海岸のある所へ移動出来るので、ちょっとした行楽地にもなるし、また、ホームによって再建されれば、お店も作られる。さらに、自分の更地の余った敷地に、他の人のモービル=ホームを賃貸し、借地料を稼げるかもしれない。

(流星群だより20号より)

奇妙な川崎市内電話回線の配線とその歴史的背景

 人は普段、なにげなく電話を掛けている。しかし、意外に知られていないのが、川崎市の電話回線が特異な配線になっていることだ。例えば、東京に住む人が川崎市内に住む知り合いに電話を掛けたとする。すると、その人は先ず川崎市の市外番号、〇四四をダイヤルし、そして残りの三ケタと四ケタの市内番号を回す。相手が受話器を取って話せば、ごく普通の電話に見える。が、電話回線の配線から見ると、川崎市内への別の所に住む人からの通話は異常な回線を経由しているのだが、ほとんどの人がそれに気付いていない。
 東京に住む人が川崎市の人に電話すると、誰でもが、東京から直接、相手につながっていると思っている。それは、JRの東海道線が東京‐川崎‐横浜と走り、それと同様に電話回線も通じていると人は思うからである。しかし、実際には東京から一旦、横浜へ行って斜め北上して、川崎に戻るルートを取っているのだ。
 もっと詳しくは、東京の電話キーステーションから、一旦横浜へ行き、そこから斜め、川崎市中原区の中原電話局の近くにある子母口の中継所を経て、西へは高津区、宮前区、そして、小田急線沿線の登戸や百合ヶ丘のある麻生区へ、さらに、反対方向へは幸区や川崎駅、京急大師駅などのある、川崎区へと通話が分散される。いわば、川崎市内の電話回線は本線から内陸に入った、陸の孤島のようなものなのだ。
 なぜ、そうなったかは戦争を含んだ歴史的背景による。
 戦前は、明治時代に電話回線が敷かれていたのであるが、陸軍が軍事通信権を持っていたため、電信電話回線は陸軍の本部通信施設のあった、今の世田谷区三宿あたりから二子玉川を経て、川崎市の蟹ヶ谷に行き、横浜の瀬谷、そして海老名の通信中継地を経て、御殿場を通り関西方面へと行っていた。
 陸軍が通信回線の主導権を持っていたのは一つには、当時は、今と違って安価な契約料金で誰でもが電話を持てた時代ではなく、一般の人が家庭で電話を持つには、相当高額な電話債券を購入しなければならなかった。そのため、一握りのお金持ちでなければ電話機を使用できなかったのだ。
 それ故、一般の電話加入者が当時は相対的に少数であったため、電話通信の需要は組織的な軍事利用の方が圧倒的に多く、電話通信回線は陸軍が支配していたのだ。これは、丁度、戦前は、五万分の一の地図の測量と製作は地図の軍事利用優先のため、陸軍の測量部が作っていて、戦後、陸軍の解体と共に、地図作製権が国土地理院に移管されたのと事情が似ている。
 戦時中、この陸軍軍用管理の電話回線が破壊される事態が起きる。太平洋戦争末期に米軍が本土を攻撃し、空爆を行った時である。
 現在もイラク戦争やカダフィ大佐のリビアを空から攻撃した時に、橋や通信連絡網をピンポイント爆撃をしたように、陸軍の世田谷からの軍事電話通信回線を分断するため、川崎市の蟹ヶ谷の通信中継地を爆破したのだった。
 川崎市中原区の旧米軍施設である印刷工場が返還された跡地に作られた平和公園の一角にある、川崎市立平和館には戦争の悲惨さを伝えるため防空壕の実物大模型と共に、爆破される前の蟹ヶ谷の通信中継所と爆破された後の中継所の写真が明かりをつけたフィルム状のパネルで壁に展示されている。また、本など資料もある。
 戦後電話回線は日本電々公社によって復旧された。東京の千代田区あたりから、東海道線と同じように東京、横浜と新しい電話回線を敷設した。問題は川崎市内への中継をどうするかであった。
 破壊された蟹ヶ谷の少し距離のある隣町、子母口に新しい電話通信中継地を作り、前述のように横浜から斜め戻るように子母口まで回線を継ぎ、中原局をキーステーションにして川崎市の東方、西方へと配信する形を取ったのだった。
 他の土地から川崎へ電話をすると、相手の人が受話器を取ると、プツッというパルス音が二度鳴り、つながる音が聞えるようだ。横浜につながる音と川崎でつながる音のようだ。
 そして、旧陸軍の軍事電話通信回線の中継地であった瀬谷と海老名の通信中継地はアメリカ軍が占領、駐留した時、接収し、それぞれ座間と厚木基地の通信中継施設として使っている。
 戦後、新しい電話回線が作られたことで、横浜市港北区北部の一部の地域が、横浜市内であるのに川崎市の中原局の配線となっていたという奇妙な現象があった。港北区箕輪町、日吉本町、日吉、下田町などが、横浜市内であるのに、市外局番が横浜の〇四五ではなく、川崎市のそれ、〇四四であった。平成四年まで〇四四であり、その後、中原局から網島局に配線が変わり、〇四五が市外局番となった。
 川崎市の電話回線が横浜からの枝派で継がっているのを知ったのは偶然のことであった。二〇〇三年の二月、川崎中原区にある、旧中原職業訓練校で当時の川崎高等技術校で、一回だけの四日間のデジタル工事担当者の受験講座を受講した時だった。旧電々公社、NTTで電信電話回線の配線工事を長年やっていた講師から説明を受けた時だった。
 当時一九九四年頃から、理工系やイスラム史、心理学、病院管理など色々な講座や講習を受けていた。高等技術校は中原区の川崎、川崎区の京浜、鶴見、二侯川の技術短大へ行き、板金加工、デジタル回路、電気工事士用の電気回路、ガスとアーク溶接など種々の職業的技術を学んでいた。ガスとアーク溶接、研削機械の資格免許も貰えた。受講料はタダだった。
 そして平成十七年頃から、川崎市公害研究所の環境セミナーで毎年学んでいたが、平成二十一年夏、同セミナーで、旧電々公社とNTTで、大学の理工系を出た後、技術者をしていた大学教授と一緒になった。その時、その人に高等技術校で習った川崎市の電話回線の特異さを話してみた所、その人はその事を知らなかった。
 このことは同じ旧電々公社やその後のNTTでも、大学や大学院卒で本社などで研究開発する人と工業高校を出て現場で電話回線を主として配線工事する人では、一線が引かれ別世界で、交流があまりなく、互いの技術知識を知らないことがわかった。

(流星群だより第19号より)

防災及び災害対策の将来のありかたについて

 日常、我々は災害や防災について何を考えているだろうか。わずかに民間人が消防署の指導の基に消防団を組織して訓練をしたり、学校での教育方針に基づき、避難訓練をしていたり、町内会で多少防災訓練をしたり、指導員が、三角巾や包帯の巻き方を指導しているくらいである。そして、せいぜい非常食を各家庭に配っていたりである。さらに自治体としての官庁は、丘や学校の校庭等に避難所を定め、非常時に人々が避難する場所を確保し、総務部に、災害時に災害対策本部を上げて、臨機に対処しているだけである。それ以上は日頃、将来起こりうる災害や防災については何もやっていないのだ。そこで以下の文章に於て、我々民間人や官庁が災害について何が出来るかを列挙してみたい。
 先ず、災害時に官庁が何をすべきかを二、三提案してみたい。
 災害の事例で大きなものとして、阪神淡路大震災が挙げられるが、この時は政府の対応が遅れた事については、普段、その地域は小さい地震が頻繁に起こる土地ではなかったことや、岩盤のひずみが何百年も地震エネルギーとして蓄積し大地震が起こることは学問上の理論としてはわかっていたが、それまで実際の経験がなかったので、無理もなかった。しかし、あのような大災害を経験したにも拘わらず、政府や自治体は、民間人との協力のあり方も含めて、将来に備えて、大災害が起きた時に緊急対策プランについて、未だ何も組み立てていないのだ。そこで、国や自治体に何が出来るかを以下に於て考えてみる。
 大地震にしろ、火山爆発にしろ、災害が起きた時に迅速に人々が避難できる場所については、すでに、緊急避難所を確保してあったり、臨時には、災害のあった場所の瓦礫を取り除き、作ったりしているので問題はないが、改善すべきは、災害本部のある自治体官庁と被災者とのコミュニケーション、つまり官庁による被害者に対する緊急指令のあり方である。阪神淡路大震災の時は、それがうまくいっていなかったので、食料の緊急配給や、仮設住宅への入居順序の割り当てについての伝達がうまくいかなかった。
 そこで、大災害に於て、電線が切れて、電源が使えなくなった事を想定して、いかに官庁からの緊急指令を被災者やその他の民間人関係者に指令するか、災害救済に関する情報を伝える手段について提案したい。
 あらかじめ官庁が電波局に災害時緊急用のラジオ周波数を登録しておき、災害時に電線が切れて電気が使えなくなった時でも、自動車エンジンの発電による、自動車ラジオを適切な場所に置き、エンジンを吹かして、災害緊急指令を出したりする。また、官庁が災害時の備えとして、ソーラー発電機や、エンジン発電機を用意しておき、適所に配置して、ラジオを使えるようにする。あるいは、災害時の備えとして、電池式の小形の安価なラジオを用意して被害者に配る。または官庁が各住民に災害用に電池式の携帯ラジオを用意しておくことである。
 さらに、昭和二十年代から三十年代に、子供達に玩具として流行った鉱石ラジオも官庁が用意しておくのもよい。材料さえ揃えば、安価に組み立てられる。学校などであらかじめ災害に備えてその作り方を教えておくのもよい。他に、阪神淡路大震災や上越長野大地震の時に、見た限り、救助に当る官庁の者達、医師、看護師、カウンセラー、ケースワーカー、消防団、警察、そして瓦礫を取り除いたり、食料を配給する民間人ボランティアなどの人海戦術的人員体制がなっていなかった。バラバラにやっていたように見受けられる。
 そこで、あらかじめ官庁が、将来の災害に備え、これらの人々と協議をしておき、災害が起きた時には、これらの人々をどのように配置して災害者に対応し救助するかを決めておくことである。
 この方法は、災害時の緊急の福祉であり、平時の福祉をケースワーカーとソーシャル=ワークと言うが、災害時のはパブリック=ワークと、アメリカなどでは呼ばれている。なお、パブリック=ワークには、公共投資による土木建設を指す場合もある。
 そして、日本ではやられていないが、災害時に崩れかかった歴史的建造物などをいかに保存するかについては、鉄柱を四方に打ち込み、崩れかかった歴史的建物の廻りにワイヤーロープを巻き縛り、保存することである。これからの災害時には日本の官庁が取るべき災害対策法である。
 災害により住宅を失った人々については、年月を限って仮設住宅に住めるが、期限を過ぎると出なければならない。その後は、土地は更地にされ、家を建て直す財力もないので、被害者は安アパートに住むことを余儀なくさせられる。そこで国がアメリカなどで普及されている移動式住宅、モービル・ホーム(MOBILE HOME)、トレーラーハウスを与える事である。トレーラーハウスは家の形をした土台の四つの角の所に大きなタイヤがついていて、牽引して家の瓦礫を取り除き、土地の上にトレーラーハウスを運ぶのである。仮設住宅は取りつけるのにも、取り壊すにも二重に税金出費があるが、トレーラーハウスなら安価である上、国が一度与えれば、被災者は年月が経てば修理代はかかるが、半永久的に住める。
 現在、国は、天皇陛下を被災地に訪問してもらい、滅多にお会い出来ない天皇陛下にお言葉を掛けて、被災者に慰安と感激させているだけで、あとは何も財政的援助を被災者にしていないのである。陛下の御訪問で、何もしない事に対する被災者や世論の批判をかわしているのだ。
 すでに述べた災害時の緊急ラジオ放送、パブリック=ワーク、そして災害時の文化財保全のやり方は、アメリカの危機管理庁(FEMA)がやっている通信教育講座で、学士や修士は出さないが、短大レベルから大学院レベル、あるコース(FEMA CORRESPONDECE CDURSEの一九九七年版)を参考にしたが、このコースを受講するのは無料で、アメリカ国内の災害担当の公務員だけでなく、外国の公務員もタダで受講できるので、日本の自治体の災害担当の人は受講し、新しい防災や災害対処の仕方を学ぶべきである。ただし、講座は英語である。
 最後に、災害時に於ける国内外の災害救助機関との連絡のまずさを指摘したい。阪神淡路大震災の時、三つの三級河川が地震の被災地を流れている。新聞に載った被災地図を分析した所、火の海になっている市街地に、自治体が所有している消防船が川から放水し、消防活動をしていなかった。もし、そうしていれば、川に面した市街地の一辺を消火出来たように思われる。
 海上保安庁が、各管区ごとに大形の消防船を持っている。海水を使った放水は、放物線で高さ二十八メートルも高く上がる。その他に各自治体、主として市が消防船を持っているが、主に船の火事を消すためである。しかし、現在では東京のお台場や横浜のみなとみらい地区など海や運河に面した臨海都市では、消防船による消火が今後望まれる。アメリカ海軍横須賀基地では、アメリカ軍の基地が火災にみまわれる怖れから、横須賀市消防局と協定を結び、消火に関する協助体制が出来ている。
 また阪神淡路大震災時に当時のクリントン大統領の指令によって、在日アメリカ陸軍による救助隊が待機していたし、またスイスやフランスの救助隊が来日していたのに、日本政府や自治体との連絡が十分でなく、ほとんど災害地の瓦礫撤去に活動出来なかった。
 特にアメリカ軍は輸送トラックで多くの兵士が救助に出動出来るよう待機していたのに、日本政府が援助要求をアメリカ軍にしなかったので、指令官の命令が下されず、兵士が救助活動に動けなかった。わずかにスイスの救助隊が、犬を使って匂いを嗅がせ、何人かを瓦礫から救ったのみであった。
 同じ時、地震の被災地に、アメリカの危機管理庁の長官や副長官が被害状況の視察を求めた時に、報道機関は援助しにきたとはやしたてていたが、実際はアメリカ当局が将来、自国に大災害が起きた時に備え、情報収集していたのだ。日本も、外国で大災害が起きた時、医療チームやボランティアだけでなく、しっかりとした被災情報を収集し、日本での大災害が起きた時の参考にすべきである。軍事情報などCIAが収集しているのと同じやり方で。
 対外的には多くの国が参加した国際防災及び災害協定を結び、各国が出来るだけの資金を出し合い、また、あらかじめ救助隊員の数と組織、援助物資の確保などを話し合い、決めておくことだ。
 一般的に貧しい国ほど、大災害に見まわれやすいので、そうすれば、大災害が起きた国に救助する人員と援助物資、復興資金を供給できるようになる。あの北朝鮮でさえ、阪神淡路大震災の時、四千万円という少額であるが見舞金を送って来たのだから。

(流星群だより18号より)