掲示板

わが終の棲家は、せつない

1月18日(木曜日)。嗚呼、わが身体には焼きが回っている。目覚めて二度寝にありつけず、仕方なく起き出している。寒気は緩んでいる。太陽は隠れているけれど、それでも味方している。震災被災地もこのところより、寒気は緩んでいるはずだ。そうあってほしいと、私は願っている。せつないわが願いである。デジタル時刻はいまだ真夜中の一定時、すなわち2:50を刻んでいる。わがキー叩きは学童の頃の「綴り方教室」における、鉛筆の芯を舐め舐めしながら書いた速度よりなお遅い。司令塔を自認する脳髄の指令に、生来不器用の指先が応じず、駄々をこねているからだ。(指先が俺は、脳髄の家来ではない!)と、真似て蟷螂の斧を擡げているのかもしれない。それゆえにたぶん、この文章が結文にありつける頃には、白々と夜が明けるであろう。この間に仮に、地震に見舞われたらアタフタとふためきそうである。なお運が悪ければ尻切れトンボのままに、この文章はわが遺稿になるかもしれない。そんなことはもちろん、知ったこっちゃない。もとよりきょうの文章は首尾、雑文んの入り交じりである。それは、時間潰しのゆえの悲哀である。時間潰しにつき合ってもらうことでは、友情に背くことになる。けれど、竹馬の友のよしみで許しを請うものである。もちろんそれで、83年間の友情が壊れることはない。竹馬の友のふうちゃんは、わが窮地のおりには常に、すばやく助け船を漕いでくれる。この文章では、ふうちゃんの人となりを記そう。掲示板上のペンネーム「ふうたろう」の実名は富田文昭君であり、そしてわが呼ぶ愛称は「ふうちゃん」である。見返りに彼は、私を静良君と言ったり、ときには「しいちゃん」と呼んだりする。共に生きてきた83年間、愛称が蔑称に代わったことなど一度もない。このことは、共に「誉れ」である。友人や友情に優越はつけたくない。けれど私は、ふうちゃんに対する憧れがある。なぜなら、ふうちゃんは生まれながらに才能を持っていた。小・中学校時代の運動会における、徒競走の編成は6人組だった。このときのふうちゃんは常に先頭を走り、両手を広げてトップでゴールテープを切った。しいちゃんはいつも、ふうちゃんの背中を追っかけた。しかし、幸いにも対校の400メートルリレー競技において私は、4人走者のメンバーに選ばれた。だけど私は、追い抜くことは必要ない、追い抜かれるな! という繋ぎ区間の第二走者だった。一方のふうちゃんは、リードしていればそのまま走り切り、遅れていれば追い抜くことを使命とされる第四走者だった。中学時代の部活は共に、バレーボール部でこれまたまた対校試合に臨んだ。ところが高校時代のふうちゃんは、生来の頑丈な体躯をなお鍛えるために、柔道部へ鞍替えした。薄らバカのしいちゃんは、一緒に登下校するにもかかわらず気づいてなかった。ところがふうちゃんは、このころから将来を見据えていた。高校を卒業するとふうちゃんは、柔道で鍛えた体を遠方の未知の大都会、すなわち大阪府警に投じたのである。そして、辣腕刑事に変じたふうちゃんは、府民の人望と信望を得たのである。ふうちゃんの終の棲家は大阪府にあって、今でも枚方市に住んでいるはずである。ところが最近、住処を変えたと言うから、おそらくどこかに新築を建てか、あるいはどこかの億ション購入し、住み替えているのかもしれない。年賀状のやり取りはしていないので、住所の詳細は不明である。もちろん電話で聞けばわかることだけれど、羨ましさだけがつのって聞けない。ふうちゃんは、ふたり兄弟の長男である。ここまで、富田文昭君、愛称「ふうちゃん」の人となりを記した。きのう(1月17日・水曜日)の私は、風がやんでが日光が暖かくふりそそぐなか、卓球クラブの練習に向けて、長い下り坂を下った。道すがらの雑草や雑木は芽吹き始めていて、見渡す周囲の見渡す杉林には、出番を待つ杉花粉が茶色に色づき始めていた。それらを見遣りながらわが心中には、こんな切ない思いが膨らんでいた。(おれは、こんなところで死ぬのか。なさけないなあ…、つらいなあ…。おれはもうふるさとへは帰れない。老いの身が拒むのだ。帰っても、迎えて会話を愉しむ、長兄はもういない。甥や姪はいて、ふるさと便を絶え間なく届けてくれる。確かに、帰れば歓迎してくれて、楽しい。しかし、おのずから長兄とは別物である。帰ってもかしづくところは、風すさぶ野末の丘にある墓の前である。そうであればやはり、心中の思いだけで、出会いを愉しもう。なぜなら、心情の醸す出会いの楽しさは、褪せず尽きないからである)。このところの私は、郷愁、懐郷、思郷、とりわけ望郷まみれにある。能登半島の寒気が気に懸かる夜明け前である。いや、時間潰しを試みても、夜明けはまだ先にある(4:42)。

1月17日・・・!!

 義姉の墓参りに行く前に掲示板を開くと・・・「阪神淡路大震災は、かつてのこの日、今ちょうどの時刻(5:45)に起きた。確かな日は、平成7年(1995年)1月17日である」・・・とある。29年前の1月17日、午前5時45分俺は小学校と中学校に挟まれた間道を散歩していた。街路塔の赤い灯が、左右に揺れながら、近づいてきた。そして、道端に弾き飛ばされる程の衝撃に、小学校の金網フェンスに、しがみ付き、揺れの過ぎ去るのを待った。
 幸い、我が家に被害はなく、自分本位に考えた俺は、大した事はないと思い、仕事に出かけた。そして、御堂筋沿いのビルの壁割れ、窓の落下を見て驚いた。被害は神戸に近づくほど大きくなり、阪急電車は動いていなかった。それから、3カ月間、俺は阪神大震災の後方治安のため派遣された。
 あれから29年、東日本大震災、熊本地震、能登地震が続き、我が身にも、昨年17日、義姉は亡くなり、当時住んでいた家も、解体された。時は移り行き、我も、83歳となり、阪神大震災を忘却する年齢となっている。

歌謡曲の題に模して、「嗚呼、能登半島」

1月17日(水曜日)、日を替えてきのうを凌ぐ寒さが訪れている。時刻は夜更けを過ぎ去り、夜明けへ向かっている。しかしながら物事は、夜明け前が最も暗いと言う。寒気に震えて、傍らの窓ガラスさえ開ける勇気がない。能登半島、金沢の街、広く石川県の寒さは、今時(4:52)、どれほどのものであろうか。もちろんその寒さは、わが想像の埒外にある。スマホでは飽き足らず、パソコンで高音を響かせ覚えたてで歌った『金沢望郷歌』は、現在は悲しく、心中で声なく歌っている。日本全国に名勝を轟かせ、一方他郷では名を知らぬあちこちの名勝地を詩(うた)に織り込んだ曲は、聴くに耐え得る望郷の和みと切なさを奏でてくれる。それゆえにこの歌は、当該地の人たちならず他郷の人たちにさえ、望郷つのる愛唱歌となっているようである。石川県のほぼ全域が酷い震災に見舞われて、日々死亡者数の増加が伝えられてくる。こんなおり、取ってつけた如くあわてふためいて、この歌をハミングする私は、とんでもないバカ者である。確かに、平時に聴き、そして歌えば、こよなく望郷つのる愛唱歌である。しかし今は、哀愁帯びたセレナーデ(悲歌)を響かせる。きのう(1月16日・火曜日)の夕方、NHKテレビの普段の番組にあっては、突如けたたましくアラーム(警報)が鳴った。またもや、地震警報である。私はぞっとした。そして、私はすぐに安堵した。警報は石川県における発生(余震)を伝えていた。「私はすぐに安堵した」。この表現は私にかぎらず、人間の咄嗟の浅ましさであろう。恐怖感を緩めて私は、聞き耳を立てた。アナウンサーは職業柄特有に、いくらかわざとらしく恐怖感を煽り、早口大声で対応策を告げ出した。その多くはすばやく逃げるように繰り返した。またもや、わがへそ曲がりの心根が蠢いた。(被災地の人たち、とりわけ避難中の人たちは、逃げようないではないか)。すると、アナウンサーの声は恐怖のいや増しにすぎない。アナウンサーの声はまさしく、尋常が異常に変わるが地震の恐ろしさである。アナウンサーも伝えることに必死であり、もちろんありがたく思うこそすれ、煽りを責めることはできない。被災地や避難者は、恐怖に怯え、じっと成り行きを見守るしかできない。やがて、突如のアナウンサーの声は消えて、いつもの男女ひとりずつのアナウンサーの姿が現れて、番組は正規画面へ戻った。それでもわが心境は、かなり長い時間、平常心を失っていた。「能登半島地震」は、はからずも「阪神淡路大震災」をよみがえらせている。阪神淡路大震災は、かつてのこの日、今ちょうどの時刻(5:45)に起きた。確かな日は、平成7年(1995年)1月17日である。そして、再び繰り返すと発生時刻は、午前5時45分である。震源地は兵庫県南部と刻まれている。このときの私は、被災地における被災者のひとりに数えられていた。当時の私は、勤務する会社(エーザイ)の大阪支店(中央区淀屋橋)において、社業に就いていた。妻と娘は共に、アトピー性皮膚炎の治療中にあり、「かかりつけの医院がいい」ということで、転院を拒んだ。仕方なく私は、会社に対して規則破りの特別のはからいを願い出た。会社は特段の配慮してくれた。すなわちそれは、単身赴任の許可であった。勤務地は大阪市のど真ん中であったけれど、私は兵庫県尼崎市東園田町に住んだ。実際には会社が単身赴任者用に借り上げた、未だ真新しい5階建てのマンションだった。ここで私は、阪神淡路大震災に遭遇し、被災者に数えられたのである。会社にあっての私は、震災後の社員の安否確認や、当面の復旧作業に追われた。多くの社員は、兵庫県に住んでいた。私は被災地に住んではいたけれど、実際のところは被災者とは言えなかった。なぜなら、家財は散乱したけれど、身体は無傷だった。だから、震災体験者ではあるけれど、被災者の本当のつらさとは無縁である。それゆえにいっそう、能登半島地震の恐ろしさが身に沁みている。想像出来ない恐ろしさは、いまだ未体験のゆえであろう。「東日本大震災」(平成23年・2011年、3月11日午後46分)は、ふるさとへ帰省中のため逃れた。わが故郷「熊本地震」(平成28年・2016年、4月14日21時26分)は、テレビニュースに右往左往するだけだった。これらの地震を鑑みてもなぜか、このたびの能登半島地震の恐ろしさと、悲しさ、つらさがわが身を覆っている。なぜだろうか? それはやはり、この時期の日本海から吹きつける寒さが想像できないせいであろう。きのうに続いて、能登半島、金沢の街、あまねく石川県の天気と、寒さが気に懸かる夜明け前である。つらいつらいは、わが身ではない。

同じ思いを共有できる人

 金沢望郷歌に酔いしれた古閑さんのご様子、投稿してくださり、心温まり嬉しくなりました。それだけに今回の能登半島の地震は一層心が痛みます。

金沢望郷歌

 金沢望郷歌、良いですね。思い出しました。私も妻と平成28年に石川県能登半島や兼六園方面に行ってきました。輪島の朝市にも行きました。当時は、私もユーチューブで「金沢望郷歌」をヘッドホンで随分聞いたものです。ただ今回の大地震で想定外の被害を受けたようで心が痛みます。

能登半島の記憶

 ラジオから思いがけず曲が流れて私は息を呑んだ。「犀星の詩をうつす犀川……」と心が大きく揺れた。「ああ、あの犀川……そうだ、遠いあの日の犀川……」私の胸にもう二十年以上昔の記憶が熱く蘇る。五木寛之作詞、弦哲也作曲、前田俊明編曲「金沢望郷歌」を歌手の松原健之が歌っていた。私は歌手も歌もはじめて耳にしたのだけれど、何とも言えず懐かしく、耳を澄ませてその歌に聴き惚れていた。そして再び聞きたいとネットで調べ、ユーチュブで繰り返し聞いた。
 文学の師である田端信先生が亡くなって(一九九八年九月四日逝去)、大きな喪失感に打ちひしがれていた月日だった。そんなある日、文学仲間の三人とともに師の故郷である能登への供養の旅を思い立った。私は四人の追悼の言葉を書き記すため手作りの灯籠を作った。庭先にあった長四角の石に毎年師から頂いていた年賀状の中から最も印象深かった詩をペンキで記した。この二つを旅行鞄に入れて、師の故郷へ向かった。そして文学仲間三人と共に犀川のほとりで灯籠を流し、石を置いて亡き師を偲んだ。あれから二十数年の歳月が流れているのに、犀川のほとりで手を合わせた日のことがまるで昨日のことのように蘇ってくる。
 先週妹と二人古河の実家を訪ねた折に、宇都宮線の古河駅で買い物をするため下車して、駅の周辺を歩いていてレコード店が目に入り、私の脳裏に「金沢望郷歌」が蘇ってきた。題名も歌手の名前も曖昧なままに店内に入り、女店主をさんざん手こずらせてようやくCDにたどり着き、大笑いしながら購入した。
 そういえば、能登半島は夫の運転する車に乗って訪れたことがあった。遠い遠い昔の事であったが、棚田の広がる美しい景色が今も思い出されてくる。
 それにしても、今年の元旦に起こった能登半島地震は、私の脳裏に眠っていた遠い記憶を呼び覚まし、災害に遭われた人々の苦難と重なって、胸がかきむしられるような切ない思いに苛まれた。

高橋様へ、御礼

10日で息切れになるところ、励ましを得て、駄文を繋ぎました。感謝と御礼を申し上げます。寒さが際立っています。御身大事にして、ご活躍ください。

この冬一番の寒い朝、思いは石川県、能登半島へ駆けめぐる

1月16日(火曜日)。現在のデジタル時刻は、未だ夜明け前の真っ暗闇にあって、5:01と刻まれている。起き立ての洗面にあって私は、いつものように水道の蛇口をひねり、身構えた。水に指先を当てると、冷たさで全身がブルった。水の冷たさから寒さは、この冬で一番だろうと実感した。周辺やパソコン部屋に、寒暖計はない。寒暖計で計らずも、体感により気温は、この冬で最も低いことが実感できる。それでも一桁の気温くらいで、もちろん氷点下ではないはずだ。文字どおり荒波荒ぶる日本海へ突き出す能登半島の冬の寒さは、私にはまったく想像さえできない。それゆえにいっそう、被災地と被災者へ思いが駆けめぐる。しかしながらそれは、なんら役立たずの空念仏である。嗚呼、すまない。テレビニュースの映像を観るかぎり、被災地と被災者の苦悩はいや増すばかりであり、いやいっそう深みに嵌って行くように見える。映像を眺めるだけのわが身は切ない。元日の発生からきのうで、早や半月が過ぎた。未だに、余震への怯えは絶えない。能登半島はこれまで、幾多の歌謡の名曲を生んできた。能登半島の日本一美しい棚田風景は、他郷とはいえわが故郷のように常に心中に浮かんでいる。石川県と言えば、観光の名勝は兼六園をはじめどこかしこにある。きらびやかでかつ清楚な友禅流し。海産物旺盛に並ぶ市場もある。加賀百万石の殿様は、名にし負う「前田侯」である。縁もゆかりもないけれど、私の場合は、47都道府県の中にあっては群を抜いて親しみを覚えている。だから心中、石川県には様々な場面に関心を持って、遠吠えにすぎない声援を続けている。先日行われた都道府県対抗女子駅伝にあっては、石川県代表の五島梨乃さんが1区を快走し、栄えある区間賞を取った。テレビ桟敷に陣取ったわが声援は、終始尽きなかった。現在行われている大相撲初場所においては石川県出身の二人の力士、すなわち新入幕の大の里と、人気を誇る遠藤の活躍が目立っている。二人にもまた、わが声援は尽きない。これら三人はインタビューでは異口同音に、「石川県と被災者の励ましのために…」と言って、涙声がとつとつと溢れ出た。今朝の能登半島の気温は氷点下を表し、日本海から吹きつける風の冷たさは、被災者の身に沁みているであろう。それなのにこのところ、「二次避難」という、聞き慣れない言葉がニュースに飛び交っている。つらいなあ…。いや、つらいのは、私ではない。

♪前田さんへ『人の命、わが命』の感想です♪

もう、自分の家から卓上カレンダーを含めたカレンダー類は、皆無となってしまいました↓↓
ケータイ電話にカレンダーのアプリが入っていますので、それをいつも見ています。しかし、祝日名の記載があっても、歳時については記述がないので、前田さんの日々の『ひぐらしの記』から学んでいますo(^o^)o
それから、お菓子の「どんどん焼」は知っていますが(大笑)、『どんど焼き』の行事はまったく知らず、こちらも前田さんが具体的にお書きくださってので、たいへんよくわかりました。

きょうは、歯科医院から帰宅されて、お餅はお召し上がりになられたのでしょうか?

今回は、前田さんへ『不老不死』『長生不老』の大大大エネルギー&パワーを贈ります(^O^)/(^O^)/(^O^)/(^O^)/(^O^)/(^O^)/(^O^)/

♪大沢先生へ『味噌作り』の感想です♪

大沢先生、妹様との味噌作り、たいへんお疲れさまでございました。
先生の秘書のような妹様で、御存在がたいへん大きい方なのですね♪♪

圧力鍋が先生にとってとんでもない恐怖でしたら、時間がかかりますが、大鍋でもできます、というお話ですので、こちらを使用されてはいかがでしょうか? 精神衛生的にもよろしいかと思います。
それから、大豆をビニール袋に入れて、足で潰すと速くムラなくしっかり潰れるそうです。
まったく余計な事を申し上げてしまい、たいへん申し訳ございませんでしたm(_ _)mm(_ _)m
夏の熟成が楽しみですね♪♪