ひぐらしの記

ひぐらしの記

前田静良 作

リニューアルしました。


2014.10.27カウンター設置

内田川(熊本県・筆者の故郷)富田文昭さん撮影

 

連載『少年』、十五日目

 GHQ占領下の日本の国の舵取りは、良いにつけ悪いにつけ個性派首相と言われた吉田茂が握ることとなった。吉田首相は、ときには傲慢とも思えるワンマンぶりみせて顰蹙を買った。一方では、育ちの良い憎めない愛敬を持ち合わせていた。吉田首相は、硬軟併せ持っていたと言っていいだろう。特に外交においては硬、すなわち豪胆ぶりを発揮した。その証しに吉田首相は、GHQの占領下にもかかわらず、GHQにおもねるだけの政治姿勢はとらなかった。吉田首相は、負けた国のリーダーにありがちな卑屈さなど微塵もみせずに、真っ向GHQと対峙した。内田小学校二年生になった少年は、父がラジオや新聞を通して政治や社会問題などに強く関心を持っていたことからその影響を受けて、少しずつ社会の動向に関心を寄せていた。吉田内閣は、七年間の長期政権をまっとうした。
 昭和二十三年一月、少年の家には一つの婚儀があった。母一女のセツコ姉は、当時はまだ近隣の村・六郷村の島田集落の義兄に嫁いだ。少年にははじめて体験したきょうだいの結婚式だった。戦地に赴いていた男性軍が復員、すなわちわが家へ帰り始めて、女性軍はそれを待って内田村には結婚式が増えていた。結婚適齢期だった姉もまた、この範疇の一人だったのであろう。戦地帰りの男性軍との出会いは、銃後の守りに明け暮れていた女性軍にとっては、まさしく「敗戦後のあけぼの」とも言える果報だったのである。なぜなら戦争は、適齢期の男女の交際や結婚にまで、奇妙な現象をもたらしていた。将来の約束をして、帰らぬ人それを待つ人。出征前にあわただしく形だけの結婚式を挙げて新妻となり、帰らぬ夫を耐えて待つだけの人もいた。戦争は人々の心と生活に重石を乗せていたのである。
 この文章はすでに世を去ったきょうだいへの少年の鎮魂の役割と、きょうだい愛を繋ぐ役割でもある。だから、少年の知らない異母きょうだい(兄と姉)の結婚模様を記すのは、あながち蛇足とは言えない。しかし、読む人はいないであろう。それでも一向にかまわない。なぜなら、多くのきょうだいの中で、一人残された少年の役割だからである。異母一男護兄はイツエ義姉と昭和七年十月、異母一女スイコ姉は栄次義兄と昭和八年六月、異母二女キヨコ姉は秀雄義兄と昭和十七年三月、そして異母二兄利行兄はチズエ義姉と昭和十八年三月。異母三男利清兄は結婚の夢叶わず、異国の島で名誉の死という飾りを付されて戦死した。異母の兄姉たちが青年淑女の頃の新郎新婦ぶりは、どういう情景をみせていたであろうか。ただ、時代は華やかには味方せず、日本の国は満州事変を発端にして、戦時下と戦時色を深めていた中だった。それでもやはり、新婚気分は「いいもの」であったはずだと、少年は思いたい。その点、母一女セツコ姉の結婚式は、少年が生まれている戦後のことでもあり、そのうえ少年に物心ついた小学校二年生のときでもある。だからわずかでも、少年の記憶の中にある。一つは祝儀を前にして、姉の様子
 は弾んでいた。一つは、義兄は中国大陸の戦地から帰り、姉を見初めたのである。異母一男護兄と義姉の出会いには、恥を晒しても書いておかねばならないことがある。それは珍妙と言うより、確かな実話だからである。まずは護兄に嫁いだイツエ義姉は、母の一男四女のきょうだいの中で、二女母の実の妹(四女)であった。すなわち父は、姉の母と、そして長男護は、母の妹と結婚している。二つ目の実話はまだ続く。姉(母)と妹(義姉イツエ)の子どもたちのうちの三人は、誕生年を同じくする同級生でもある。あえて書こう。母三男豊と義姉一女京子ちゃん、母四男良弘と義姉二女静代ちゃん、そして、母五男少年(静良)と義姉一男彰ちゃんである。少年と彰ちゃんは同級生でありながら、叔父と甥、なおいとこ同士の関係でもある。戦争資材さながらに、「産めや増やせの時代」とはいえやはり、少年の家の子どもたちは、異母から母に継いで、表彰状に値するほどに多すぎた。しかし少年は、恥で顔を赤らめることはない。なぜなら、むかえの田中さんには六人、隣の古家さんにも九人の子どもたちがいた。
 少年が臆面もなくこんな文章を書けるのは、父と異母そして母、その子どもたち(きょうだい)の繋がりに、一切の諍いもなく全天候型に仲がよかったおかげである。大勢の子どもたちは勝ち戦であれば日本の国を救う玉財になり得ても、負けてしまえば糊口を凌ぐにはやはり大家族でありすぎた。水車を回し農業を兼ねて、自給自足に頼る少年の家にも、生きるための厳しい生活が待ち受けていたのである。朝鮮半島からは異母一男護兄(長男)の家族が引き上げて来て、上海からは気象庁の職員(独身)として出向いていた母一男一良兄(長男)が帰って来た。一良兄とフクミ義姉の結婚式は昭和二十六年、少年が小学校五年生のときだった。だれにとっても華燭の典は、文字どおり人生の華である。きょうだいの中でそれを叶えられなかったのは、異母三男利清兄(戦死二十三歳)、母二女テルコ(病没十八歳)、母六男少年の唯一の弟敏弘(事故死生後十一か月)である。今、少年目からは涙がポタポタと落ちて、三人の面影が蘇っている。

連載『少年』、十四日目

 内田小学校一年生になった少年には、「夏休み」のある夏が四季のなかでは、一番好きな季節になった。少年は母に、「『夏休みの友』は、暑くならない午前中にやるからね」と、約束した。夏休みにはこのほかにも漢字の書き取りや、日記ないし自由課題の生活文などがあった。ほかにも、宿題があったと思うが思い出せない。
 母と約束した午前中の勉強が済めば、夏休みの午後のすべては、少年の遊び時間となった。少年は畳敷きの表座敷ではなく、冷やっこい板張りの座敷に足を投げ出して、背丈の低い横長の文机(置き机)に向かった。ページをめくる感触、鉛筆の音、ときおり柱時計が「ボーン、ボーン、ボーン……」とけだるく鳴って、まだ静かな夏の朝の雰囲気を醸した。夏休みにあっては、精米機械の音なども普段とは違って聞こえて、やかましいとは思わなかった。少年は母と、午前中に勉強を終えれば、午後は川遊びに行っていいという、約束もしていた。少年は家の裏を流れる川へ、または「田中井手橋」の堰の下へ、水浴びに出かけた。
 「内田川」は橋の下をくぐり、少年の家の裏へ流れて来る。夏の内田川に真っ黒い体の少年が飛び込むと、辺り一面に白い水しぶきが舞った。夏の内田川は、水の瀬清く緩やかに流れている。ウナギ、ナマズ、ドンカチ、シーツキ、ゴーリキ、カマヅカ、ハエ、なども泳いでいる。夏の内田川は、少年たちを夕陽が西の空へ落ちるまで、存分に遊ばせてくれた。少年に負けまいと競って水に飛び込むのは、声を掛け合って出かけた隣近所の子どもたちで、洋ちゃん、賢ちゃん、新ちゃん、だった。
 少年は内田川のほとりに生まれたことがうれしくて、内田川は少年の自慢の川となった。子どもたちは夏休みが終わるまで、内田川で無邪気・天真爛漫に遊びほうけた。少年にとって、戦時下、終戦(敗戦)、そして敗戦後の記憶は、ごちゃまぜである。だからこの文章は、ときにはちぐはぐというか、頼りない記憶のままに書いている。なかでも時のずれは、ご容赦願うところである。
 忌まわしい昭和二十年もラジオから『リンゴの歌』が流れて、日本国民は少しずつ敗戦の憂さを晴らし始めた。この歌は、戦争で憔悴しきっていた国民の心を捉えた。『リンゴの歌』は軽いリズムで、弾むようなメロデーだった。曲の明るさは、きょうやあしたをどう生きようかと、思い悩む国民への格好の応援歌となった。明るく流れる『リンゴの歌』を聞いて国民には生気が戻り始めて、敗戦国日本には復興の明かりがともろうとしていた。
 戦地で生き延びた人たちは祖国日本へ、疎開先からはわが家へ帰って来る人が増えた。敗戦後の混迷や混乱は収まりかけて、日本国民ははっきりと前を向いた。しかしそれはまた、新たな敗戦後処理の序奏と幕開けでもあった。占領下の日本の政治に、GHQ(連合国総司令部)の縛りが加わったのである。間接とはいえ有無を言わさず、GHQの意向が日本を支配した。占領軍はほとんどアメリカ軍で固められて、占領政策はアメリカ主導で行われた。GHQは占領国日本にたいし、数々の指令を発した。GHQは日本社会の改革に向けて、様々な処方箋を企図し要請した。それらの根幹は、日本の古い政治体制や社会慣習に「民主主義」を基に変化を求めるものだった。実際にもそれを基に、いろんな面に改革の賦活剤が処方された。ところがこれらの処方箋は、衰弱しきっていた日本の国にはきわめて苦い薬だった。しかしながらのちに顧みれば、「良薬は口に苦し」の成句があるように、日本の国にとっては必ずしもすべてが苦いものばかりではなかったであろう。
 民主主義の国アメリカの占領政策は、喧嘩に勝ったガキ大将のように、負けた者へのわがままのし放題とは、だいぶ違っていた。なぜなら、GHQの占領政策は、日本の国や国民にたいし、かなりの温情や配慮がされていたのである。もしかりに日本が戦争に勝って、占領政策を執る立場ともなれば、それこそ日本軍はただ威張り散らし、我がままのし放題ではないだろうかと、少年は思った。日本の国の政治は、敗戦後の初めての総選挙を通して社会党内閣が誕生し、片山哲が首相になり、片山内閣を組閣した。しかし片山内閣は、社会党、民主党、国民協同党の三党連立のせいで政治基盤が弱く、片山内閣は一年足らず終焉した。そして、昭和二十三年二月、こんどは民主党の芦田均が首相になり、片山内閣に代わり芦田内閣を組閣した。芦田内閣は中道政治を進めた。ところが、疑獄事件で足元を掬われて、芦田内閣もまた、片山内閣同様に短命に終わった。
 これより先、昭和二十一年に誕生した第一次吉田茂内閣は、途中を中道政治に譲ったものの昭和二十三年に第二次吉田内閣として復活した。少年は内田小学校の二年生に進級し、担任は持ち上がりでそのまま、渕上孝代先生が教壇に立ってくださった。そのため、少年の小学校二年次の学校生活は楽しく続いた。

連載『少年』、十三日目

 少年にとって運動会は、走ったり、遊戯をしたりすることより、昼の弁当の時間が楽しみだった。家族そろって弁当を開くところは、二か所が設けられた。一つは、広い運動場のセパレートコース周り(コース外)の適当なところだった。一つは、教室の使用が許された。多くの家族は煌めく青空の下、適当なところを探しては、剥き出しの土の上に持ち込みの茣蓙を広げた。木陰の下を選ぶ家族もいた。一方、陽射しを避けて、教室内で食べる家族もいた。もちろん、年によって選び方はまちまちであり、必ずしもどちらかに決めているわけではなかった。
 この日の少年の家族は教室を使用した。机や椅子は隅に高く積み上げられていて、教室の広い板張りが敷物要らずのテーブル代わりになった。家族はここでご馳走を囲んで車座になった。たちまち、家族団欒の悦びが湧いた。母は、背負ってきただだっぴろい風呂敷に包んだ大きな箱を床に置いた。箱の中は、薬篭みたいに何段かに仕切られている。そこには普段、母が「わりご」と呼んでいる木造りの正方形の小箱が入っていた。これこそ、母からひとりに一個手渡される「わりご弁当」である。「わりご」自体は、枠は黒塗りで中裏は黒ないし朱塗りである。少年は「わりご」が大好きで、これを見ているだけでもなんだか殿様気分になる。
 実際には「わりご」は、重箱仕様の小型の弁当箱である。なぜなら重箱もまた、枠は黒か朱で中裏は黒ないし朱塗りである。「わりご弁当」には行儀よく、銀シャリの塩むすびが三つ入り、脇には煮物のおかずが綺麗に詰められていた。わりごの中のおかずには、茹で卵の輪切りが仰向けに玉座を占めていた。少年は、塩むすびは手づかみで頬張り、おかずはまるで鶏が餌をつっつくごとくに、箸で矢継ぎ早に取り間断なく口に入れた。こうすることで少年の心身には、フワフワと幸福感が纏わりついた。
 母が手提げてきた重箱の食材には肉類はなく、母が作る野菜畑の野菜を多くにして、いくつかの出来合いの物(購入物)が用いられていた。あえて記すとそれらは、ゴボウ、コンニャク、干しシイタケ、茹でタケノコ、ニンジン、サトイモ、昆布、ちくわ、かまぼこなどだった。これらの食材を用いて母は、釜屋で夜遅くまで煮物の煮炊きに汗を流していた。
 母が手提げできたものではもう一つ、袋物ものがあった。袋の中には、茹で栗と栗団子、さらには皮を剥かないままの柿や梨が入っていた。飲み物はビールなどのアルコール類は一切なく、もっぱら内田川の生水を水筒に入れただけのものだった。家族そろってこんなご馳走三昧に出合えるのは、年に一度の運動会の日に限られていた。だから少年は、運動会が大好きだった。
 周囲に目を遣ると家族ごとに、思い思いの持ち込みの食べ物を愉しんでいた。教室の中は「平和のすし詰め」のような賑やかさになっていた。廊下を走り回る子どもがいれば、泣きべそをかいている子どももいた。運動会は小学校だけの恒例行事とは言えず、村あげてそして村人総出の内田村における最大の年中行事をなしていた。その証拠には内田小学校と内田中学校共用の校庭(運動場)には、村中の小学生、中学生、男女の青年団員、その家族、そしてこれらに関係のない人たちまでが運動場と観覧席に集まった。まさしく、内田村あげての大運動会だったのである。そのためか、運動会の開催は一定日になっていて、秋の十月十日(のちの体育の日)だった。敗戦後間もない運動会だったせいか、さらには村人の気分直しをも兼ねていたのか、運動会は一日じゅう大盛況を極めた。
 競技種目は三者合同の運動会にちなんで、それ相応に様々なものが組まれた。最後の小学生、中学生、青年団入り交じる「部落対抗リレー」には、どよめきの声が沸き立ち、観覧席は熱狂の坩堝と化した。入場門は、村人が花飾りの杉門を作った。ゴールラインを走り抜ければ旗を持った係が、三等までの順位の子を追っかけて、一等賞、二等賞、三等賞の旗の下に並べた。少年は六人横並びの徒競走では、足の速い文昭君がいたため、二等賞の旗の下に並んだ。ブルマを穿いていた宏子さんは、ニコニコしながら一等賞の旗のところに並んでいた。少年にはモンペかズボンかわからないものを穿いた渕上先生は、いつものニコニコ顔で子どもたちを見守りながら、いろんな世話係で一日じゅう運動場を駆けずり回られていた。子どもたちの一等賞、二等賞、三等賞の賞品には等級に応じて、帳面、鉛筆、消しゴムが渡された。少年には鉛筆だけが溜まったが、それでもうれしくて、解散になると急ぎ足で家路に就いた。

連載『少年』、十二日目

 昭和二十二年の春先から初夏にかけては、少年の入学式、始業式、授業参観、家庭訪問などがあって、少年の家は学校とのかかわりが多くなっていた。家庭訪問の日がきた。少年の担任は、うら若く美しい渕上孝代先生である。母は顔見知りとはいえ、やはり緊張している。恥ずかしがり屋の少年の緊張は、言わずもがなである。
 渕上先生は下の方から、真新しい自転車に乗ってやって来る。やって来られる道で一番見易いところは「仏ン坂」である。少年は縁先に立って、(渕上先生、来ているかな?)と、何度か様子見を繰り返した。これは、釜屋(土間の台所)で支度をしている母の指図だった。様子見のたびに少年は、「渕上先生は、まだ来よんならんよ」と、釜屋の母に知らせた。渕上先生は自転車で、仏ン坂を下って来られるはずだったのである。
 母はおもてなしの支度に大わらわで、釜屋の中を往来していた。家庭訪問は、親と子の落ち着きのない一日だった。やがて先生は、どこからかひょっこり来られた。先生は用意していた表座敷に上がられて、母と向き合って少年の学校の様子を話されていた。ときおりは母、「そうでしょうか……」と言って、ぎこちないよそ行き言葉で相槌を打っていた。少年は先生に挨拶もせずに、近くの襖の陰に隠れて、聞き耳を立てていた。しかし、二人の話の内容は聞き取れなかった。
 突然、母が、「しずよし、隠れていないで出てきて、先生に挨拶すればええたいね」と、言った。母に不意におびき出されて決まりが悪かったけれど、少年はおずおずと出て行った。渕上先生は「しずよし君、いたばいね」と言って、笑われた。
 先生が母に、おいとまの言葉をかけて立ち上がられると、母は用意していたおもたせを先生に渡した。先生は自転車に乗って、次の友達のだれかの家へ行かれた。少年は母に、「渕上先生は、なんて言うてた」と、矢継ぎ早に聞いた。
「渕上先生は『しずよし君は、とてもいい子です。心配することは何もありません』と、言われたよ」
 と、母は言った。少年はうれしくなり、はにかんだ。母と少年が気懸りだった家庭訪問は、何事もなく済んだ。
 当時の内田村には保育園や幼稚園はなかった。だから少年は、小学校へ入学してはじめて、村中の同級生に出会い、学校という集団生活が始まった。それゆえ、少年にとっての学校生活は、毎日が新鮮で楽しいことばかりだった。学校へ行きたくないと思う日は、一度もなかった。
 少年は水道の蛇口のある水飲み場もおぼえたし、足の洗い場おぼえた。運動場や砂場にも慣れた。みんなでガヤガヤ言ってする、教室や廊下の掃除も苦にならず、楽しかった。学校にあるいろんな施設もだんだんとわかった。友達とは、みんな仲良しになった。少年は、渕上先生をますます好きになった。少年は日に日に学校に慣れて馴染んだ。小学校入学したての頃は、教科書を開くことも少なく、渕上先生を先導役に友達との輪を広げて、集団生活に慣れて行った。
 学校行事の一つには運動会があった。少年は運動会では天真爛漫に、とことん楽しんだ。もう一つには遠足があった。春と秋、二度の遠足の行き先はほぼ決まっていて、少年の家からははるかに遠い鷹取山だった。鷹取山は山というより小高い丘で、村中の桜の名所をなしていた。鷹取山の遠足には少年は、リュックに握り飯を三つ詰めて、ほかにはゆで卵や駄菓子、果物があればそれも持って行った。重たくても、水筒の持参は欠かせなかった。行きは弁当を食べる楽しみがあって気分が弾んだ。しかし、帰りはすっかり草臥れはてて、重い足を引きずった。そのうえ少年は、のんびりと道草を食べながら帰ったため、帰る時間が長く余計疲れが増幅した。
 原集落を過ぎて、近くの内野集落あたりになると、いっとき道端に座り込んで、元気の良い友達を見送った。途中の原集落には、クラス仲間で仲の良い富田文明君の家があり、内野集落にはこれまた仲の良い宏子さんの家があった。少年の家から鷹取山は遠く、このあたりから帰り道は、まだ半道強を残していた。鷹取山への遠足は、こんなことでつらい思い出である。これに比べて運動会は、楽しいだけの思い出である。

連載『少年』、十一日目

 昭和二十二年三月には、教育基本法が制定され同時に学校教育法によって、六、三、三、四の新学制が発足し、六、三制の義務教育が導入された。いよいよ日本の国は、戦勝国の占領体制の下、あらゆる面で敗戦後の復興政策がスタートした。おりしも少年はこの年の、桜の花がいまだいくらか残る四月初旬にあって、内田村立内田小学校に新一年生として入学した。
 少年は母の手に引かれて、運動会の入場門のように花で飾り立てたられた内田小学校の正門を嬉々としてくぐった。少年の家には久しぶりに明るい話題が訪れた。不幸続きで重苦しかった少年の家は、少年が小学校一年生になったことでいくらか華やいだ。少年は一年一組にクラス分けされた。気に懸けていた担任は、美しい渕上孝代先生だった。幼い心が高ぶった。少年は教室に入ると立ったままに、窓ガラスを通して運動場を兼ねる校庭を見た。校庭の広さに驚いた。少年は緊張をほぐすため深呼吸をした。おそるおそる座った椅子はひんやりとした。すぐに、木椅子の肌触りがズボンを通して尻に馴染んだ。しかし、体の大きい少年には二人掛けの机は窮屈で、身を縮めて両膝を直角より内側に曲げた。
 教壇にはニコニコしながら渕上先生が立たれている。名簿を広げて、名前を読むためである。渕上先生は、「名前はあいうえお順に読みます」と、言われた。少年は頭の中で、自分の順番をめぐらした。少年は生まれつきの小心で、恥ずかしがり屋である。精神状態はもう、オドオドドキドキしている。「ま行」はうしろのほうで、順番の早い友達は「はい」と言って、すでに返事を済ましていた。そのためか教室は、だんだん騒がしくなっている。しかし、順番の遅い少年の緊張は解けない。少年の名が読まれた。少年は「はい」と、言った。順番を長く気に揉んでいたせいか、「はい」の声のタイミングが少しずれた。少年に恥ずかしさが襲った。しかし渕上先生はニコニコ顔で、次の順番の松本宏子さんの名前を読まれた。宏子さんはハキハキと明るい声で、「はい」、と言った。先生のニコニコ顔はさらに微笑ましくなった。少年は宏子さんが羨ましくなった。同時に、恥ずかしさがいやまして、綿飴のように一気に膨らんだ。恥ずかしさは先生のニコニコ顔に救われて、しだいに萎んだ。
 少年は渕上先生が好きになった。学校が終わると少年は、渕上先生のことを母に話したくて、ときには走り出しながら家に帰った。学校で感じた恥ずかしさは消えて、普段の少年になっていた。少年は大きな声で、「ただいま」と言って戸口元を入り、土間の三和土(たたき)を急ぎ足で駆けて、釜屋(土間の台所)へ行った。母は、「もう帰ったつや、早かったばいね」と、言った。
「きょうは、教室で名前を読まれただけじゃもん。担任は、渕上先生になったよ」
「そうか。そりゃ、よかったね。渕上先生は、よか先生じゃもんね」
「うん。とても、よか先生じゃった」
「渕上先生の家は、矢谷の尾上にあるよ」
「うん、知っている」
「渕上先生のお母さんは、自分と同級生で仲良しじゃったけん。あそこの人はみんな頭が良くて、女の人たちはとても綺麗な人ばかりたいね」
「渕上先生も、美しかったよ」
 少年は上がり框(かまち)に片膝をついて、座敷の埃を片手で払い、ランドセルを置いた。座敷脇の板張りにも白く埃が見えた。家の中のどこかしこが埃まみれになるのは、母屋の中に機械類が据えられて、糠や粉が舞うせいだった。少年の家は、作業場付きの住まいだったのである。
 家事に一息ついたのであろうか。釜屋にいた母が、垂らした前掛けに残りの雛あられを包みながら、少年の所へやって来た。母もまた座敷の埃を手で払い、板作りの上がり框をそばにあった濡れ雑巾で拭いた。雛あられは新聞紙を広げて転がされた。少年と母は、雛あられを挟んで上がり框に座った。少年は腹が減っていた。雛あられを指先で一度にいっぱい抓まんで、矢継ぎ早に口に入れた。空腹はかなり満たされた。母はまた、「きょうは、どうだったや?」と、少年に聞いた。少年はさっきのこととは別に、渕上先生のことをたくさん話した。「はい」のタイミングがズレて、恥ずかしくなったことも話した。宏子さんのことも、ちょっとだけ話した。母は「そんなこつ、気にせんちゃ、ええたいね。宏子さんは、内野の松本先生の娘さんじゃろ? 松本先生も、よう知っとるたいね。よか人じゃもんね」と、言った。
 少年は、校庭の広さのことも話した。母はニコニコしながら、少年の話に聞き耳を立てて、うれしそうだった。また母は、「渕上先生は、よか先生じゃけん、よかったばいね!」と、言った。少年は母ちゃんが何度も、「渕上先生は、よか先生じゃけん」と、言ってくれたことがとてもうれしかった。

連載『少年』、十日目

 まだ分別が利かない少年は、昭和二十年にわが家を襲った数々の忌まわしいできごとが、時間の経過とともに早く薄らぎ、遠ざかることだけを願った。少年は、家族の哀しみが日々疎くなることを望んだ。少年は弟や姉のしめやかな葬儀にも、実際には肉親が亡くなったという意味や悲しみのすべてを、感得できる年齢ではなかった。ただ土葬のおり、棺に泥をコロコロと落とすときだけはひたすら悲しく、号々と泣いた。皮肉にも本当の悲しみは、少年の成長に合わせて増幅した。
 ところが、少年の家にはこの先も不幸が続いた。昭和二十一年十一月には内田村を遠く離れて、福岡県大川市(筑後)に住む、義兄・秀夫さんのもとに嫁いでいた異母二女のキヨコ姉が、突然の心臓麻痺で亡くなった(二十七歳)。キヨコ姉と義兄は、一粒種の赤ん坊新治君を遺した。不断のキヨコ姉は、頑丈この上ないほどの丈夫な体だったらしい。父は届いたキヨコ姉の訃報を手にして、「キヨコが死んだ? そんなばかな、人違いだ!」と、絶句した。父は異母一女のスイコ姉がすでに嫁いでいた筑後に、妹のキヨコ姉をも嫁がせて、安心しきっていた。異郷からの悲しい知らせだった。
 戦後という切ない名称を付されて日本の国には、復興の槌音が響き始めた。少年の家でも、敏弘を吞み込んだ水車は、日々荒々しく回った。生業とはつらいものである。少年の家は、忌まわしい内田川の水から離れることができず、いや日常の生活用水として、なお内田川に家族の命を託さなければならなかった。少年の家は、またもや不幸に見舞われた。昭和二十二年一月、日頃わが家で病気療養中だった異母二男の利行兄が、闘病に勝てず力尽きて亡くなった(三十三歳)。チズエ義姉との間には、これまた一粒種の晟暢君が生まれていた。利行兄は志願して海軍の軍務に就いていたが半ばで病になり、療養のためわが家へ帰っていた。療養中の兄の姿には、軍務を諦めざるを得ない悔しさと国にすまないという、思いが滲み出ていた。鄙びた内田村を出て世間を知る兄は、それゆえ世の中の動きを直視していた。父は子どもとはいえ兄には一目置いて、大きな信頼を寄せていた。それに応えて兄は、父の相談役をも務めた。戦時色を深めてゆく日本の国にたいし二人は、行く末を見据えていた。海軍勤務という職業柄の気概もあってか、兄の愛国心は常に高揚した。病身とはいえ背筋を伸ばし、凛々しく佇む兄の姿に少年は、近寄りがたい思いを抱いた。年の差も離れていた。しかし、兄の威厳には怖さばかりではなく、常に優しさが付き纏っていた。だから、少年にたいする兄の威厳は、少年の兄にたいするする敬慕にかわった。兄は職業軍人特有に、親に孝行する心構えと、きょうだい愛に格別腐心していた。なかでも、弟妹にたいする向学の勧めと、それを支える気持ちは殊更旺盛だった。わが母の一男一良兄は、「おれは利行兄のおかげで、旧制中学にも行けた」と、常々口癖のごとく言っては感謝頻りだった。利行兄の強い体と高い見識は蝕む病魔には勝てず、日本の国の敗戦を強く悔いたのち、短い人生が閉じた。利行兄は軍務半ばで、胸の病に罹っていた。少年の家はほぼ三年間に、五人の子どもたちを野辺に送ったのである。
 この悲しみは少年の小学校への入学程度で、忘れ去れるものではなかった。少年の家に不幸はいつまでとりつくのであろうか。父と母そして家族に、涙が乾ききる日はまだ遠く、悲しみを克服する日が続いた。しかし、戦時下および戦後にあっての哀しみは、国民だれでもが一様に見舞われ、耐えなければならなかったのである。少年の小学校への入学は、利行兄の他界の悲しみまだ消えないのちの、この年・昭和二十二年の四月初旬だった。内田村にあっては、桜の花の散り際だった。

連載『少年』、九日目

 国敗れて山河あり。内田川の流れも周囲の山並みも変わることなく昭和二十年、内田村には煮えたぎるような太陽の陽ざしが照り煌めいていた。変わっていたのは人の命と、戦時下における人々の営みであった。八月十五日の昼下がり、少年は異母二男の利清兄から、怒号まじりの説教と詳しい説明を受けた。兄の言葉が終わると少年は、濡れた猿股パンツを脱いで、乾いたものに取り換えた。この日はそののち、神妙に家の中に閉じ籠った。少年は戦争の勝ち負けがどういうものかも知らずに、終戦(敗戦)の日を迎えていた。
 少年はあくる日からまた、小魚取りや水浴びに行った。夏の間、猿股パンツだけで裸丸出しの少年の肌は木炭のように黒びかり、少年は内田村の山河を遊びまわった。少年はひと月前の七月十五日に、五歳の誕生祝いを終えていた。少年にとって昭和二十年は戦争が終わった年というより、三人のきょうだいを亡くしたつらい年として心に刻まれた。少年はこの年の二月二十七日に、自分の子守どきのへまで、唯一の弟・敏弘の命を絶った(生後、十一か月)。結局、敏弘は一歳の誕生日を迎えることなく、家族の言う敏弘は誕生日前に歩くだろうという予想をも覆し、短い命を絶った。少年の生涯から、弟を持つ兄の気分は幕を下ろした。少年にとって、弟との生活は短い間だった。だけど、敏弘が味あわせてくれた、兄の気分は最高傑作だった。弟のからだを抱き上げることで、兄の肌身に、弟の感触が伝わった。
 戦地に赴いていた異母三男の利清兄は、戦地から帰らぬ人となった。帰らぬ日となったのは、七月十七日。父は利清兄がフィリピン・レイテ島・ビリベヤ方面で、名誉の死を遂げたという公報を受け取った(独身、二十三歳)。「名誉の死などあるものか!」。父は憤慨した。少年は後日談で母長男の一良兄から、切ない話を聞いている。「利清兄には、戦地に恋人がいたらしい……」。利清兄は、異国の地に若い命を埋めた。
 少年の家には時を置かずに、またもや不幸が訪れた。体つきも性格も少年に似ていたという、母二女のテルコ姉が病魔に攫われたのである(若い身空の十八歳)。病は単なる盲腸炎から腹膜炎を併発していた。テルコ姉は、二日後に終戦となる八月十三日、病床で見守る家族のそれぞれに、途切れかかる声を細く絞り出し別れの言葉を告げた。テルコ姉は少年の手を取って、息絶え絶えに掠れる声で、「しずよし、力強く生きて、わたしの代わりに親孝行をしてね……」と、言った。今、このフレーズを書いている少年の両眼には、こらえきれなく悲しい涙があふれている。父と母はこのとき以来、「テルコは、戦争さえなければ死なずに済んだ」と、言い続けていた。この言葉は、家族に臨終を告げた村中のかかり医院・内田清医師からの受け売りでもあった。内田医師はこの言葉に添えて、「薬さえあれば娘さんは、盲腸炎くらいで死ぬことはなかった!」とも、言われたという。戦争が招いた、哀しい言葉だった。
 敗戦後のことなどわかりようのない少年には、この先の生活など気に懸けることはなかった。しかし、弟、兄、姉と、三人のきょうだいを亡くした昭和二十年は、少年の心の襞につらく悲しい記憶として刻まれた。戦争が終わって国民は、一様に脱力感に見舞われ、さらには悲壮感、疲労感、虚無感などの三竦みの気分にも襲われた。一方で国民は、これまで体験したことのない敗戦国の戦後処理とは、どういうものになるのであろうかという、不安に苛まれた。少年の家にも他家にも悲しみが伝えられて、戦争の傷跡が痛んだ。
 昭和二十年八月三十日、日本国民は神奈川県厚木飛行場で、タラップを下りてくる連合国最高司令官マッカーサー元帥の一挙手一投足に怯えた。敵軍の将は太いパイプをくゆらして、戦いを終えたばかりの適地に悪びれる様子もなく、また凱旋将軍の傲慢ぶりも見せずに、淡々とタラップを下りた。日本国民が懸念していた戦後処理は、敗戦国日本からみれば国民生活に配慮された、望外の温情に満ちたものだった。日本国民はひとまず悲憤慷慨の胸をなでおろしたが、以後七年間にわたり、敗戦を被った占領国の呪縛に耐えなければならなかった。敗戦であっても、ようやく戦争は終わった。夜間、人々の家の電燈からは灯火管制でかぶせていた布切れが外され、裸電球が明るく灯ったのである。

連載『少年』、八日目

 「日本軍、敵機を撃墜せり」。勇ましく始まった太平洋戦争も、昭和十七年六月のミッドウェー海戦の大敗北により、戦局はしだいに日本の不利に転じた。戦場の不利は精神力と大和魂で覆すのだと煽られ、日本および国民は一層戦意を強めて、日本社会ますます戦時色を濃くしていった。マスメディアは戦地の苦戦を善戦という言葉に置き換えて、まるで勝利者のように進軍ラッパを吹き続けた。マスメディアは国民を有頂天にさせながら、限りない我慢と士気の高揚に努めた。子ども同士の喧嘩であっても、負けを覚悟すれば最後のあがきから、一瞬蛮勇が湧いてきて、自分の勇気と腕力を疑うほどの胆力が出るものだ。この頃の戦況はもはや、それに似ていたのではないだろうか。
 ラジオや新聞で、「勝っているぞ。勝っているぞ!」と、囃し立てれば勝利を願う国民は、たちまち勝利者気分に酔いしれる。社会の木鐸をになうはずの当時の報道には、「嘘を真に」丸めたものが多かった。ところが昭和二十年には、敗戦の色濃いはずのアメリア軍が、忽然と日本本土に爆撃を激化させた。艦載機やB29が飛来し、日本の空に爆音を轟かせた。
 内田村にも、編隊を組む機音が地響きを立てた。南の空、西の空から現れる機影の恐ろしさは、少年を怯えさせ心に焼きついた。少年は綿入りでできた布製の防空頭巾を頭に被り、紐を顎の下で固く結んだ。警戒警報と空襲警報を伝える半鐘の早鐘が打ち鳴らされると、少年は近くの防空壕へ一目散に駆けた。銃後の守りは、戦場における戦意の高揚に重きをなしていた。全国民は、要の兵士の戦意の高揚とエール(応援歌)伝えに躍起となった。女性や子どもたちは竹槍の訓練、そしてまた、千羽鶴、千人針、慰問袋作りに勤しんだ。回覧板は、戦時下にかかわる美談で埋め尽くされた。国民は戦争の実態など知らぬままに、みんなが銃後の守りに営為した。
 一方、空襲や爆撃の多い都会からは恐れて疎開が始まり、辺境の内田村にまで、身寄りを頼り疎開者が来た。少年の家の近くで記憶にある人では、森さんという人が来ていた。精米業を営む少年の家では、他人様の家族構成や家族の人数の増減が真っ先に見えた。ときには見知らぬ人が訪ねて来て、母に「米を分けてください」と、せがんだ。そんなおりの母の応対は、飛びっきり優しく丁寧だった。母はたぶん、わが身に他人様の事情を重ねていたのであろう。少年の家では、異母二男の利行兄が海軍の軍務に就き、三男の利清兄は戦地に赴いていた。だから母は、相身互い身の思いで応対した。
 昭和十九年から二十年にかけては、なお意気軒高な報道とは逆に、戦地はいよいよ敗け戦の状態に陥っていた。少年の父は戦争の結末を案じて、秘かに(もう、降参)の手を上げかかっていた。もとより、父にそれ以上の勇気を望むのは、酷というものであろう。しかし、父がそういう見識をいだいていたことには、少年は父にたいし、十分に敬愛をつのらせることができた。
 アメリカ軍は、一向に白旗を上げず、終戦(敗戦)のシグナルを見せない日本政府に苛立ち、とうとうとどめの原子爆弾を広島市(八月六日)と長崎市(八月九日)に相次いで落とした。そしてこの年、昭和二十年八月十五日、NHKラジオの昼のニュースの中に、昭和天皇陛下のみことのり(玉音放送)を挟んで、終戦(日本の敗戦)が告げられた。
 この日の少年の年齢は、五歳と一か月だった。少年は隣の遊び仲間の子どもたちと、田んぼ脇の小川に入り小魚取りに興じていた。上の兄たちは、近場の「蛇渕」(淵深く、近場にあった人気の水浴び場)で、水浴びをしていたと言う。ところが少年と兄たちは、海軍の軍務半ばで病気になり、自宅療養中の異母二男利行兄に呼び戻されて、縁先に並べられた。軍務という職業柄、無念の表情を露わにした利行兄は、普段の優しい表情を鬼面に変えていた。「おまえたちはこんな日に、遊んでばかりいるな!」と、厳しく叱った。この後では、敗戦の事実と玉音放送の内容を兄の言葉で伝えた。少年は敗戦の悔しさより、兄の厳しい言葉に震えあがった。少年は戦争のとばっちりを受けて、平和な日の訪れを願った。

連載『少年』、七日目

 桜だよりが内田村のあちらこちらから伝わり、村中は花見の宴が佳境になり、にわかに賑わっていた。少年の家の赤ちゃんの誕生は、村人の花見の酒肴には格好の話題となった。「田中井手(少年の家)では、また、子どもが生まれたげな(生まれたらしい)、何人目、じゃろかねえ……よう、もたすばいね」。酒の席で村雀たちは、面白おかしく大笑いしていたはずだ。酒飲みは花より団子で、酒を飲む機会があればバッタのごとく、どこへでも高跳びで飛んで行く。酒飲みには理屈は要らない。金の亡者が金に溺れるように、酒飲みは酒に溺れて、人徳を捨てて野次馬に豹変する。
 赤ちゃんは、敏弘と命名された。少年を仕舞いっ子と思い、兵児帯も使い納めかと思っていた母に、また「おぶ(背負う)紐」が復活した。母が歌う「ねんねんころり、ねんころり」の歌に釣られて、敏弘は母の背中でスヤスヤと眠った。少年ののろまな動作に、かなりの不安を持ちはじめていた頃でもあり、母の目に映る不断の敏弘の敏捷さは際立っていた。這い這いする敏弘を見て、母でさえ最後になってもしや、傑物が生まれたのではないかと、思うほどであった。確かに、庭中を這いずり回る敏弘のスピードには、目を見張るものがあった。敏弘は一歳の誕生日を迎える前に、歩き始めるだろうと、家人のだれもが思った。実際にも敏弘は、ときたま立って歩こうとした。不断の母は精米業の内仕事に追われながら、庭中で少年と敏弘が遊ぶ行動にも目を遣らねばならなかった。
 内仕事のときの母は、いつも背中に敏弘を負ぶっていた。生後十一か月近くの背中の敏弘は重たくて、いつも母の神経は尖って疲れていた。背中に敏弘を負ぶっていた母が、母屋から前掛けで汗を拭きふき、急ぎ足で庭中に独りで遊んでいる少年のところへやって来た。母は「ちょっとばかり、敏弘を見ておいてくれんや!」と言って、敏弘を少年に託し、背中から敏弘を下ろした。母は踵を返して、母屋の中へとんぼ返りした。昭和二十年二月二十七日の夕方の頃、庭中に「魔のできごと」が起きた。母のおぶ紐から解き放された敏弘は持ち前の敏捷さで、チエーンから外された小犬のように、這い這いに勢いをつけて這いずりはじめた。あちらこちらへと這いずり回る敏弘の動きを、少年は恐れた。母に任されて、兄として弟を守る決意に揺るぎはなかった。何度も追いかけては、そのたびに抱きかかえて、庭中の奥へ連れ戻した。しかし、五歳に満たない少年の足は、のろまのうえにまだ頼りなかった。夕陽がさすのどかな庭中は、修羅場に一変した。春とは言え取水溝(内田川の一部を堰き止めて、水車用に設けられた私有の水路)の水はまだ冷たい。流れの先には鉄製の水車が荒々しく回っている。庭中を這って、水車へ流れ込む水路へ向かう弟を兄が追う。兄は弟の後背から、「敏弘、敏弘」と、大声で叫び続ける。兄ののろ足は、限界までに速くなる。しかし、兄の足はとうとう弟のからだを捉えることができなかった。兄の眼前で、弟は水路に落ちた。ドボンと大きな音がして、水しぶきが高く飛び散った。万事休す。荒々しく回っていた水車は、「ゴゴン」と音を立てて、止まった。
 母屋の中から、母が血相を変えて飛んで来た。母は、敏弘を水車の輪っかから引き出し、抱いて母屋の中へ消えた。敏弘の僅かに十一か月の命が断たれた瞬間であった。少年にとって、敏弘との生活は短い期間だった。少年にはたくさんの兄と姉がいて、弟冥利のきょうだい愛に恵まれた。しかし、兄として声をかける唯一の弟・敏弘への愛情は、兄や姉から受けるものとはまったく異なり、格別の和みを少年に恵んだ。それが、断たれた。しかも、自分のへまで、断たれた。少年は、生涯にわたり消えることのない傷を負った。少年は、生誕地に流れる「内田川」をこよなく愛する。しかしながらこのへまがなければ、内田川への思いはもっとさわやかになる。敏弘への罪つぐないは、果たせない。短い間、弟がこの世にいたという事実だけが重たくのしかかり、たえず悲しさが付き纏う。

連載『少年』、六日目

 のちに「少年」に育つ赤ちゃんの母親の名は、キラキラネームには程遠い、奇怪な「トマル」である。すなわち、前田吾一と前田トマルは、少年の父親と母親の名前である。産婆の児玉さんは、おおむね村中の赤ちゃんをひとり手にとりあげられている。児玉さんに産湯を浸かわされた赤ちゃんは、「オギャ」と、ひとこえ泣いた。赤ちゃんはおたまじゃくしのように丸まって、文字どおり赤いからだをこの世に現した。頭だけがバカでかく、二頭身にも満たない。頭部と腹部だけがヒョウタンのように膨らんでいる。
 昭和十五年の世界の空は、戦雲が垂れ込めていた。前年に太平洋戦争が勃発し、翌年には日本も参戦した。日本は昭和十六年十二月八日、アメリカ合衆国の一つ、ハワイ州のパールハーバー(真珠湾)に奇襲攻撃を仕掛けて、戦端を開き戦時体制に入った。ここを先途に日本社会は、戦線と戦場そして銃後の守りを固めて戦時色を深めてゆく。気休めにも、「赤ちゃんは、良い時代に生まれましたね!」などと言う、時代ではなかった。それでも児玉さんは、「五体満足の、とても元気な赤ちゃんですよ!」と、産褥の母に告げた。「そうでしょうか。それならばいいですけど、まあ、五体満足であれば、それが一番です」。母は張りつめていた気持ちを解すかのような表情で言って、からだを返して赤ちゃんを見遣った。赤ちゃんのからだは骨太で、生まれたての体重は、はるかに赤ちゃんの標準メモリを超えていた。
 父親は赤ちゃんに「静良」と名づけた。彼は父と母の慈愛のもとに、幼児から『少年』へとつつがなく育ってゆく。しかし母の目だけはのちに、少年の動作が尋常でないこと見抜いていた。母が(この子は普通ではないのかな………)と、訝る少年の動作の一つは、食事時に見られた。少年は、よく御飯をポロポロポタポタと零した。もう一つに少年は、床に置く鍋や物にしょっちゅう足を引っかけた。二つとも、少年の注意力が緩慢であったり、散漫であったりする確かな証しだった。(この子は、どこかの神経が切れているのだろうか)。(心身のバランスに破綻があるのであろうか)。母は少年にたいし、こんな疑念をもった。少年は、父の五十六歳、母の三十七歳、時の誕生である。父はすでに、祖父とも言われてもいいほどの年恰好であり、母とてヤングママの呼称など過去に忘却していた。しかし、母の背中におんぶされると少年には、母の背中は楽しい「ゆりかご」となった。
 母の背中はたくさんの子どもたちをおんぶして鍛えられていたけれど、大柄の少年には窮屈なベッドでもあった。少年はまだ固まらない首をもてあまし、背中をカブトムシのように丸めて、母の背中にしがみついた。母は背中の少年の両足をカエルのように曲げたまま、兵児帯で自分のからだに確りと結んだ。その恰好は柴刈りのおりに背負う笈籠のようでもあり、茶摘みに背負う茶摘み籠のようでもあった。確りと結ぶことで母と少年は、離れてはいけない運命共同体になった。
 少年は退屈すると、指をしゃぶった。母の髪を引っ張った。「じっと、しとらんかい! もうすぐ下ろしてやるけんね……」。少年はいろいろなしぐさで、母を困らせた。しかしそれは、あどけない少年が母へ送る、甘い親愛のシグナルだった。少年は洟を垂れては、母の背中に擦りつけた。少年の涎は、垂れるままに母のうなじに流れた。生暖かい涎も冷えると冷やっとして、母の首はブルった。母は父へ嫁いで、子どもたちを産むたびに、こんな情景を繰り返した。
 戦況は少年の成長に合わせるかのように日増しにいっそう激しくなり、日本社会は一足飛びに戦時下の営みと戦時色を強めていった。少年の誕生で母の子育て人生は、打ち止めになるはずだった。ところが、ならなかった。父は六十歳になり、母は四十一歳になろうとしていた。少年の誕生から三年三か月ほど遅れて、少年の唯一の弟が誕生した。名は敏弘である。桜の花が咲く頃の昭和十九年三月三十日のことである。